戦国ちょっと悪い話34
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0001人間七七四年
2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0082人間七七四年
2012/10/29(月) 22:34:46.34ID:Zq4K3Vw0そりゃ信長は怒り心頭にもなるだろうなぁ。まともに調略された武田崩れの時の木曽よりもアレかも。
しかも、場合によったら織田が武田崩れのような連鎖的造反になっていたんだものなぁ。
0083人間七七四年
2012/10/29(月) 23:14:10.36ID:dokWj/k20084人間七七四年
2012/10/30(火) 00:28:44.16ID:xScnRV2g徳川家の家臣である小栗又一は己の武功を誇り甚だ人を軽蔑し、
多少の誉れのある者なら「米数米数」と言って嘲っていた。
ある時、又一は勝れた武功があってもそれほどの増地がないのに、
久世広宣と坂部広勝が知行を多く賜ったことに腹を立てていた。
そんな時に又一と広宣がばったり出くわした。又一は腹を立てた顔で、
「お前たちは何事をして、多分の御加増を取ったのだ」と言い咎めた。
これに広宣は「この耳たぶが厚いので御加増を取りました」と、自分の耳を
引っ張って見せた。これには流石の又一も白けて笑いながら通り過ぎた。
人々は「広宣の挨拶は奇妙だ」と感じあったという。
――『名将言行録』
0086人間七七四年
2012/10/30(火) 04:08:43.60ID:uQi0NCj2これのせいでなし崩し的に織田と敵対する羽目になり、後の滅亡に繋がるわけで。
もっともあちこちに「俺近いうちに上洛するから」って宣伝しまくってた信玄にも問題があるわけだけども。
0087人間七七四年
2012/10/30(火) 07:00:14.84ID:5zL6fSPaちりぢりになった天童家臣のうち、藤の山大膳ら十六人は、慈恩寺をめざし落ち延びていくこととなる。
一行は溝延の渡しまで来て、船頭に話しかけた。
「おーい、向こうへ渡してくれんかあ」
「山形から落人は渡すなと命令されていますが、見ればあまりにお気の毒なことで。
小さな舟ですが乗せましょう」
この言葉に安堵した一行は我先にと舟へ乗り込む。ほどなく岸につこうとしたところ…
事件は起こった。
なんとあの船頭が舟のふちにあがり揺さぶり、次から次へと落人たちを水へと落としたのである!
落ちたほうはたちまち溺死してしまった。
船頭が義光配下であったのか、ただ単に恩賞にでも目がくらんだのかはわからないが、
地味ではあるが後味の悪い話である。
(『天童落城並仏向寺縁起』)
00881/2
2012/10/30(火) 07:58:19.47ID:Rgn5Goix要害である九戸城に籠る政実に、浅野長政、蒲生氏郷などを中心とする6万の豊臣軍はこれを攻めあぐね、
戦線は膠着した。
そこで南部信直の献策により、浅野長政は九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者として
九戸城に送り、書状を以って九戸政実にこの様に申し入れた
『九戸がこのように籠城し、諸人をあい煩わせているのは意味のない行為です。何故なら、天下を敵に受けて
どれだけ防ぎ続けたとしても、どうして本望を達せられるでしょうか。終には城を攻め落とされて、皆々殺戮され、
一門郎党までも滅亡するでしょう。
ただし九戸は元来天下に対して逆意を持っているわけではありません。であれば速やかに降参し、前非を改め、
京に上がって右の趣を弁明すれば、秀吉公もきっとお赦しになるでしょう。その上私を始めとする諸大名があなたを
弁護するので、死罪、流刑ということには決してなりません。
よしなき謀反人となって一門が滅亡するよりも、戦をやめ降人となってどうか城より出てください。
しかし、もしこれに同心無いのであれば、致し方なく攻め果たすでしょう。』
これに九戸政実は動揺した
「その通り、私は元来天下に対して逆心があるわけではない。弾正殿(長政)さえ納得しているのなら、降伏したものを
死罪や流罪にまですることはないだろう。
それに、私自身の身の上はどうなっても構わない。だが心に懸かるのは11歳になるわが子亀千代のことである。
あの子が生き延び、どこの野の末、山の奥であっても健やかに生活していけるのなら、私はこの首を斬られても
少しも厭わない。」
これに対し政実の舎弟・彦九郎実親は
「殿の仰ることは尤もだと思います。ですが上方の習いとして、弓矢で以って敵を討つ事はせず、ただ謀略ばかりによって
骨折りすること無く人を倒すといいます。去年北条殿も、そのように謀られたために、小田原の城は落ちてしまったのです。
その上、仮に弾正殿が赦したとしても、私達が直接反旗を翻した南部信直が私達を許すでしょうか!?
侍というものは、死すべき場所で死なねば必ず後悔するものです。
今、この城を枕に潔く討ち死にすれば、名は後代に残り滅亡したあとも人々はその薫香を感じてくれるでしょう。
殿はこれをどうお考えか!?」
そう、はばからず発言し、これに九戸家中は、さもありなんと押し黙った。
しかし使者の薩天和尚はこれに
「彦九郎様の仰ることも一理あります。しかし弾正殿ほどの侍が、出家であるこの私に対し偽るとは思えません。
それに降参すれば命を助けると仰った以上、南部信直も自我を押し通して殺害するようなことはしないでしょう。
とにかく天下を敵に請けて、万が一にも遁れられません。一人の覚悟のためだけに万人を殺すというのは、仏神の
咎も深いものです。一旦敵に下り、身命を全うし子孫の後の繁栄を図るのは、これもまた孝行の道ではないでしょうか。
どうか恨みの心を止めて、これをお請けなさるべきです。」
この言葉に九戸政実の遂に、降伏を決めた。
当然、長政の嘘である
九戸城の本丸は蒲生氏郷が接収し、籠城衆はみな二の丸、三の丸に移された。九戸政実は重臣たちとともに
九戸城を出て浅野長政の陣に出頭した。
ところがここで彼らは「降人の作法である」と武器を剥ぎ取られ、囚人のように一ヶ所に監禁された。
「騙された!」
もう遅かった。
00892/2
2012/10/30(火) 08:00:23.27ID:Rgn5Goix政実の舎弟・彦九郎実親は降人に出ず、一人であってもこの城を守って自害しようと思い定めていたが、
浅野長政から様々に『命においては問題ありません。どうか下城してください』としきりに勧められたため、
疑いつつも本丸を降りて二の丸に至ったところで、蒲生氏郷の軍勢が本丸より銃撃し、撃ち殺された。
そして殺戮が始まる。
哀れを極めたのは九戸政実の北の方と子息・亀千代である。
城内に敵が乱入したため途方に暮れ、北の方は亀千代の手を取り落人に紛れ城の外に出た所を、蒲生軍に捕らえられた。
そして氏郷の陣に引き連れられると、氏郷は外池甚五左衛門に命じた。
「首を刎ねよ」
母子を後方の森に引き出し、甚五左衛門が太刀を取り後に回ると、北の方は
「少し待ってください。心静かに最期の十念をしてそれから討たれたいのです。」
そう言うと泣きながら亀千代の側まで近づき
「どうか、未練に見えないようにしなさい。西に向かって手を合わせ、南無阿弥陀仏と唱えていれば、必ず浄土に
迎え取られますよ。」と教えすと、亀千代はおとなしく合掌し、念仏を唱えながら言った。
「早く討たれよ」
そう言われて外池甚五左衛門は彼の後ろに回ったが、誠に容顔美麗な子供が、細い手をあわせて畏まって居るのを見ると
さすがに哀れだと感じ、暫く討つことが出来なかった。
この姿を見た者達、涙を流さぬものはいなかったという。
北の方は言った
「私から斬られるのが順というものでしょう。ですが、幼い者が母を討たれるのを見れば、きっと驚いてしまうでしょう。
先ず、その子を早く斬ってください。」
この言葉に外池は太刀を振るうと、亀千代の頸は前に落ちた。それを見た北の方は守り刀を取り出し自害した。
外池は母子2つの首を取って氏郷のお目に懸け、氏郷から弔うようにと、菩提寺である長光寺に送られた。
九戸城の二の丸に押し込められた九戸一族郎党は、四方より火をかけられ、猛火の中逃げでてくる者達は
弓・鉄砲・槍・長刀にて討ち取られ、刃を恐れ逃げる者達は、焔に巻かれ焼け死んだ。
老若男女の泣き叫ぶ声は天に響き、目も当てられぬ有様であった。
数代にわたって繁栄した九戸も、忽ちに一時の灰塵となって失せたのである。
(天正南部軍記)
九戸政実の乱、処分の?末である。
0090人間七七四年
2012/10/30(火) 10:09:18.07ID:11RoK+SS0091人間七七四年
2012/10/30(火) 10:31:23.51ID:WmDBGrPA0092人間七七四年
2012/10/30(火) 10:42:16.15ID:UPwYGmX+秋月が赦されたのが例外中の例外
楢柴パワーのおかげ
0093人間七七四年
2012/10/30(火) 11:22:11.60ID:kiwqNgSz0094人間七七四年
2012/10/30(火) 13:54:35.38ID:1CCIsB620095人間七七四年
2012/10/30(火) 13:58:45.76ID:rA8w7bE10096人間七七四年
2012/10/30(火) 21:10:12.13ID:1Mij6FVA歳の差婚なら
家康(1543年生)の最後の子を産んだ英勝院(1578年生)は35歳差。
子を産んでない側室で一番年が離れてるのは、英勝院の侍女上がりの養儼院(1597年生)で54歳差。
親子の差どころか孫と同年代の側室www
年齢的に側室になったのは、早くても数え歳13(1609年)としても家康が満66歳の時。
大坂冬の陣(家康、満71歳)に養儼院を連れてきてるwwから、家康はほぼ生涯現役だったんだろうな
0097人間七七四年
2012/10/31(水) 06:45:21.74ID:PdAsCncF道南十二館のうち大館の主で松前守護でもあった安東恒季は行状が悪く、訴えられて宗家檜山安東忠季の命による蠣崎光広の攻撃によって滅ぼされた。
その後は小館領主の相原季胤が松前守護の代理を務めることになった。
その頃海難事故が多発し、季胤は頭を悩ませていた。
ある時老占い師に「これは矢越岬の海神の怒りである、人身御供を捧げて怒りを鎮めるべし。」と言われた。
そんな怪しい神信じられぬと季胤は思ったが、恒季時代からの家臣である村上政儀に押し切られて実行することにしてしまう。
しかしそうは言っても誰を生贄にするか迷った。
領民から選ぶのも家臣の一族から選ぶのも気が引ける…。
しかし、そこで政儀は進言する。
「アイヌ人を人身御供にしちゃえばいいじゃん。」
こうしてアイヌ人の娘を20人ばかりさらってきて海に沈めてしまった。
これにアイヌ達は激怒。
大軍を率いて大館小館を囲んだ。
村上政儀は討死し、ついに落城。
季胤は二人の娘を連れて大沼へ逃れるが、逃げ切ること能わずと悟り、娘とともに入水して果てる。
この時乗っていた愛馬の鞍をとき、山へ逃れるよう言い聞かせた。
その馬は狂ったように啼き叫んだかと思うと、瞬く間に山へ駆け登った。
以来その山を駒ヶ岳と呼ぶようになった。また季胤が外した鞍を掛けた岩を鞍掛岩と呼ぶようになった。
その後も季胤の馬は生きていて、入水した7月3日になると馬の嘶きが聞こえるという。
0098人間七七四年
2012/10/31(水) 07:18:04.40ID:89foey0g0099人間七七四年
2012/10/31(水) 09:02:24.10ID:Hy/vmaIWそして十月、かつての天童家臣である延沢勢はじめ敵が押し寄せる中、いよいよ天童城もこれまでかと思われた。
そのとき家老の成生伯耆守の家臣たちが城に火を掛けた。
伯耆守は急ぎ城に入ると、出羽奥州探題の系図を持ち出したのであった。
天童城下は炎に包まれ、怒り狂った天童勢は義光本陣松木清水へ攻め込む。
義光はすぐに畳石まで陣を退いたため、深入りした天童勢は次々と志村光安らに討ち果たされた。
失意の天童城主頼久はわずかな供とともに奥州へ落ち延び、天童衆たちもまたあるいは討たれ、
またほうぼうの寺に逃げ込み、そこで僧たちに落城の経緯を語り書き記すよう頼んだという。
のちに頼久擁立と天童家復活の試みもあったが、最上の残党征伐によってこの望みも潰えることとなる。
さて燃えさかる城から系図を持ち出した家老の成生伯耆守は、そのまま義光のもとへとはせ参じた。
義光は系図を手に入れ大層喜んだ。伯耆はこの功に応じて天童城を得られると思っていたが…
「他の者ならいざしらず、おまえは天童代々の家老であるにも関わらず心変わりした。いかがなものか。
城はやると約束はしたが、焼け跡は愛宕堂にしようと思う。おまえは命は助けてやるからどこへなりとでもゆけ」
と、足軽を護衛につけて放逐してしまった。
同じく寝返った蔵増安房守も、天童と縁が深いため義光は軟禁しようと考えたが、
約束した小国城をその子に与え、身柄を子に管理させることとした。
(のだが、のちに許されたのか安房守は最上家臣になっている)
これは寝返った家老でも切腹させないいい話ととるべきか、はたまた約束を裏切った悪い話とみるか…。
(『天童落城並仏向寺縁起』)
0100人間七七四年
2012/10/31(水) 09:34:28.47ID:sn72QCxX0101人間七七四年
2012/10/31(水) 09:51:49.35ID:+TErNPel0102人間七七四年
2012/10/31(水) 09:59:23.90ID:wEJk1wDV0103人間七七四年
2012/10/31(水) 11:31:09.25ID:ejv01xH/偽者であっても「落城間近の城より家老によって持ち出された品」という
由来があるから問題ないんだろう
0104人間七七四年
2012/10/31(水) 17:26:27.20ID:xZ03Tsiv江戸の米蔵に納められる米の量があまりに多いので欠米が出来るようになった。
また諸国からの運搬も費用が莫大なので、勘定頭は徳川家康に「米蔵の数を減らせば
有益になることでしょう」と申し出た。
しかし家康は甚だ怒って「蔵の数が多ければ、欠米が多くて益にならないことくらい
存じておる。だがよく考えろ。もし事変があった時、国々の米は当地へ運搬できるのか。
もしくは洪水や旱魃の時ならば、米価は高騰して当地に寄り集まっている人民は
皆飢えに苦しむことになるぞ。
そのような時の為を思えばこそ、無用と知りながらも常々多く貯蔵しているのだ。
並々の勘定役ならばともかく、頭ともなって天下の会計をも掌る者が、そのように
浅はかな心得では務まらぬぞ!」といたく戒めたという。
――『徳川実紀(駿河土産)』
0107人間七七四年
2012/10/31(水) 20:27:32.70ID:s/DXDplQこの日、大雨洪水となり船は海上三里まで漕ぎ戻され、さらに頼宣の乗る船に雷が落ちた!
と、頼宣の御座の近くに火の玉が転がってきた。コレを見た頼宣はすぐさま毛氈を取ってこれに打ちかけ
「それ!手取りにせよ!」
と下知する。近習の者たちも常の男ではない者ばかりであったので「心得た!」と、この火の玉を抱え取ろうとするが、
しかし火の玉はここかしこと動きまわり、ついに取り逃がした。
ちなみに、船の下の間に詰め居た水夫たち5,6人はその時、雷の直撃により全員炭となり、骨も砕けて死んでいたそうである。
(武野燭談)
徳川頼宣の、豪胆なんだか呑気なんだかよくわからないお話。
0108人間七七四年
2012/10/31(水) 20:50:58.34ID:qvsXqcah船もただじゃ済まないだろ
0109人間七七四年
2012/10/31(水) 22:01:07.59ID:XPWxlZzvひこにゃんよりも具体的だ
0110人間七七四年
2012/10/31(水) 22:58:07.71ID:nnQL2ncF実際は嵐の中で立ってるのも難しい状態だったんだろうなー
0111人間七七四年
2012/11/01(木) 00:23:15.30ID:7nBBXTNU0112人間七七四年
2012/11/01(木) 10:27:19.84ID:Ayjtu7cO0113人間七七四年
2012/11/01(木) 13:49:40.28ID:ie5XhP570114人間七七四年
2012/11/01(木) 15:07:29.79ID:G6GR3wVv0115人間七七四年
2012/11/01(木) 15:25:15.31ID:V46KQ4t90116人間七七四年
2012/11/01(木) 16:41:33.45ID:97C/7Ksl0117人間七七四年
2012/11/01(木) 18:48:41.51ID:tLEBvDln各方面から招かれれば気安く受けて出向いては、
なんやかんやと熱心に話をしているそうだ。
ここ数年のあの方を見ていても、
世のため人のためになることを考えて暮らしているのがよくわかる。
このうえもない奉公好きとしか言い様がない。
だから、ひときわ目立っていたしお役にも立っていた。
しかし人間というものは耄碌するときには、
自分の得意であったことが剥き出しに出てくるもの。
これは奉公耄碌だろう。
たとえ人のためだとしてもこの耄碌は危険である。
老人はあまり世間に出歩かない方が重みもあり、
そのほうが言行も整っているように見えると思う 【葉隠】
0118人間七七四年
2012/11/01(木) 19:44:59.17ID:pFOZ5H7e0119人間七七四年
2012/11/01(木) 21:36:48.36ID:rtf0HjmB0120人間七七四年
2012/11/01(木) 23:38:03.08ID:x6KukIvM0121人間七七四年
2012/11/02(金) 01:06:41.38ID:gqjC5NTI本当にサヨ野郎は最低の差別ファシストばかりだな。
0122人間七七四年
2012/11/02(金) 03:32:33.10ID:94eY9sen利休のそうした頑なな性癖が秀吉との衝突を招き、切腹の一因になったともいわれている。
その利休の弟子にも又頑固で強情な人が居た。
彼の父は優れた武人であると同時に、優れた教養人でもあった。
その薫陶を受けた彼は、武の道だけではない、歌、画、舞、そして茶、
全てをこなす父にも負けない人物に成長したのだが、
「武士たるもの、常に出陣の覚悟をしてしかるべきである。
茶の湯はその余暇に楽しむ物だ。」と、あくまで武を第一と考えていた様である。
利休は茶の湯においては、身分を差を越えた交わりを求め、
刀掛を創り、武士には茶室での武装を固く禁じた。
しかし彼はこれを決して受け入れず、常に脇差を差したまま出入りした。
これには利休もほとほと閉口し、遂には特例として黙認したという。
利休門三人衆や利休七哲に数えられる細川三斎の逸話である。
0123人間七七四年
2012/11/02(金) 03:35:55.24ID:94eY9sen事実なのか、特例をいつまで続けていたか、等気になる話です。
0124人間七七四年
2012/11/02(金) 04:35:16.52ID:pwxqD/m1有名すぎるせいか知らないけどまとめになかったので。
ある時曾呂利新左衛門は秀吉から褒美をもらうことになった。
何が良いかと問われると「米を1粒欲しい。」と言う。
秀吉は「たったそれだけ?」と思ったが、「ただし」と続ける。
「1日目は1粒、2日目は2粒、3日目は4粒、4日目は8粒…と倍々にしていってください。」と言う。
「それでいつまで続ければいいんだ?」と聞くと「1か月で結構です。」と答える。
これに秀吉は「なんだ大したことないな。構わん、くれてやろう。」と認めた。
しかし実際に褒美をあげてみると、20日目くらいで秀吉は音を上げた。
これは数学で等比数列の和のことで、
新左衛門に与えられる米の数は2^x - 1 (xは日数)の計算式で表される。
20日目は2^20 - 1 = 1,048,575と100万粒を超える。
1俵が250万粒ほどなので、あとは米俵を倍々で与えることになり、こりゃたまらんということになったという。
昔数学の先生から聞いた話。
他に81日とか100畳に順番に置いていくパターンとかあり、そっちはもっととんでもない数になる。計算してみれ。
0125人間七七四年
2012/11/02(金) 05:32:15.23ID:vuuYzn3g0126人間七七四年
2012/11/02(金) 05:43:24.79ID:nXPt3N/K宇喜多直家「茶の席ってリラックスするためのものだろ」
0127人間七七四年
2012/11/02(金) 07:14:59.45ID:5+mcFQY30128人間七七四年
2012/11/02(金) 08:32:19.26ID:2zpl/52J0129人間七七四年
2012/11/02(金) 12:30:24.12ID:sIApixx3わかってたとしたら、嫌がらせとしか思えない
>>122
なんだかんだ言って許されていたんだろうな
0130人間七七四年
2012/11/02(金) 12:34:12.72ID:sIApixx3元都知事のことを言ってるんだとしたら、かわいそう
>>107
こんなことありえるのか
>>104
災害に備えることは政治家として必要な資質ですね
0132人間七七四年
2012/11/02(金) 21:28:40.68ID:CR3T1SYv最初は一粒、次はその倍っていうのは、インドの説話で将棋を王に教えた人が
その御礼に将棋のマスに麦を…っていうのがあるぐらいに昔からある話。
なので、わかっていたらもなにも…
0133人間七七四年
2012/11/02(金) 22:05:28.74ID:pwxqD/m1数字苦手な奴多すぎの悪い話だ。
0134人間七七四年
2012/11/02(金) 22:16:11.32ID:Ez04kKUklog(2^81)=81log2≒24
log(2500000)=7-0.6=6.4
よって10^(24-6.4)=17log4で4×10^17俵
100だったら
log(2^100)=30
10^(30-6.4)=4×10^23俵
すぐに出るしいちいち書くのも馬鹿らしい
0135人間七七四年
2012/11/02(金) 22:17:48.89ID:Ez04kKUk上の方は81だから(80で計算してしまった)
8×10^17俵
一応正確な計算では9.67×10^17俵と
5.07×10^23俵だからlog2=0.3で充分だな
0136人間七七四年
2012/11/02(金) 22:49:47.64ID:f/GrUYnw0138人間七七四年
2012/11/03(土) 00:20:38.37ID:+m4pujE20139人間七七四年
2012/11/03(土) 00:25:12.98ID:Xy+T4uLQ計算してもここにわざわざ書き込むとは限らんだろ
0140人間七七四年
2012/11/03(土) 00:44:04.95ID:0bGScpr4石田三成の勤勉・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-419.html
コレについて評論してたので投稿してみる
本多正信がある時、家司の忠義ということについて、息子正純にこんな事を言った
「忠に似た不忠、というものがある。
例えば石田三成という人について、彼は大風雨のあった夜に、御城廻りの破損のことを一々見て、
明けた卯の刻(午前5時頃)には秀吉公に報告を提出した。
普請奉行から正規の被災報告が上がってきたのは、大きく遅れて巳の刻(午前9時頃)であった。
これは普請奉行の面目を完全に潰し、また反発を生む。
三成のやったことは一見良いことに見える、しかしこういった類の行為は、実際にはその家のため、また
家中の組織のためにも決して良い行いではないのだ。」
(武野燭談)
家司として忠義を成そうと思えば、家全体に与える影響を考えろ、という本多正信のお話
0141人間七七四年
2012/11/03(土) 01:00:42.89ID:UuVLxj1n0142人間七七四年
2012/11/03(土) 01:08:01.63ID:Xy+T4uLQhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3139.html
それはそうと、>>141の元ネタのこの話だが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4162.html
ちょっと前に出てきた話でも権現様は同じ事を言ってるな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6944.html
0143人間七七四年
2012/11/03(土) 08:05:44.19ID:UzjnuD4y「あいつが馬鹿みたいに働くから、まるで俺たちが働いてないように見えるじゃないか!」
と不良社員が糞真面目社員をイジメだすのがよくあるし、今も昔も変わらんなぁ
0145人間七七四年
2012/11/03(土) 08:49:11.24ID:l6rLnvt2奉行の報告も遅すぎるわけでもないし、
調査内容に手落ちがあった場合、そこだけを報告すればよかった
0146人間七七四年
2012/11/03(土) 09:05:55.53ID:XarWoEfn気をつけねばならん
0147人間七七四年
2012/11/03(土) 11:02:06.15ID:nrl01yBv下の名前だけだとなんだかややこしい
0149人間七七四年
2012/11/03(土) 13:40:18.44ID:rNEhluPKなりたく無い、ということ。
逸話を読んでいるだけなら面白いで済むが、近くに居たらブン殴っているレベル
0150人間七七四年
2012/11/03(土) 13:50:16.30ID:NFcVNCETそんなあなたに人国記
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg511.html
0151人間七七四年
2012/11/03(土) 14:28:45.11ID:wOSt/pQ5武野燭談で佐渡殿が悪い例として引き合いに出したのが元ネタだったのか。勉強になったわ。
0152人間七七四年
2012/11/03(土) 16:26:01.96ID:XzFbIiT5140で出て来る普請奉行は別に不良社員じゃないだろ。
役に対して過不足ない働きというか。
逆にお前は無能なくせに、やたら自己評価だけは高そうだなw
「俺の働きがなぜ評価されないんだ!不当評価だ!!」とか騒ぎそう
0153人間七七四年
2012/11/03(土) 16:46:35.98ID:bWgQyRhL0154人間七七四年
2012/11/03(土) 17:09:20.00ID:y5lH+/EDという言葉がぴったり当てはまる。
そういう意味では辻正信や牟田口に近いという評価もあながち間違いではない。
組織においてこういう者は廃棄すべきなんだが
専横を許したことが秀吉の限界であり、豊臣政権の崩壊は運命づけられていたのだ。
0155人間七七四年
2012/11/03(土) 17:57:03.29ID:l9wklTSQ助右衛門の娘はそれを聴きに出掛け、
そこから若党と駆け落ちした。
いくら探しても、行方がまるでわからなかった。
しばらくしてから肥後藩の家老に妾奉公してるらしいとわかり、
当家より何度か交渉に行ったがなかなか引き渡さない。
そこで、成富兵庫茂安を交渉人として、
加藤清正殿にお目にかかり、
兵庫「助右衛門の娘を渡してください」
清正「鍋島でその娘がなにをしたのか知らぬが、
当家を頼って逃げ込んで来た者だ。
武士として渡すわけにゆかぬ」
といっこうに承知なさらなかった。
兵庫はそこでかたちを改め、
兵庫「朝鮮では当家から御助勢をいたしたことがありました。
そのとき主計頭殿は、礼としてなにかあるときはなんでも協力しようと仰せになられました。
今がそのとき、助右衛門の娘をお渡しください。
それとも朝鮮での一言は無になさいますか」
と詰めよった。
清正「そこまで言われてはやむをえぬ。
身柄は渡すが、命だけは助けてやってくれ」
と折れられたので、仰せを伝えることを約束し、娘を受け取り帰った。
娘は帰国のあと自殺を命じられ、
助右衛門とその子息織部殿は家内不行き届きとして切腹ときまった。(1/2)
0156人間七七四年
2012/11/03(土) 18:22:51.89ID:l9wklTSQ助右衛門と織部は碁を打ちながら、
助右衛門「ごもっともな処断。承知いたします。
とりあえず碁の勝負がつくまで、
しばらくご観戦していてください」
と言って顔色ひとつ変えず碁を楽しみ打ち終わった。
そこへ騒ぎを聞きつけた助右衛門の家来十八人が、
「われらも死出の旅へお供いたします」
と駆けつけた。
使者は、その申し出を、
「それはいかがなものか」
とためらったが、助右衛門殿の子息織部殿は、
使者にかまわずさっと庭におり立ち、
織部「覚悟を決めた者どもでございます。
わたしが介錯いたします。」
と言うや、たちまち十八人の首を斬り落とし(超スゴ腕!)、
最後は父子ともども見事な切腹をとげてみせた。
邸内を流れていた川は20人の血で紅に染まったので、
それ以降、人々は血川と呼んだとのことだ。
助右衛門殿の末子二人は乳母たちが抱いて逃げた。
蒲原善右衛門と、蓮池の鍋島又兵衛がそのときの二人である。
織部殿の息子は後に鍋島源右衛門と名乗った。
この事件について直茂公は、
「気のきいた者が一人もいないから惨劇となる」
と、悲しまれたとのことだ。
それは、助右衛門の家をいったん預かりたいと申し出る者がなかったからだという【葉隠】
0157人間七七四年
2012/11/03(土) 19:20:57.81ID:bFvUsayrんーどこかで見た気がすると思ったら既出だね
鍋島助右衛門の娘の駆け落ち
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3175.html
0158人間七七四年
2012/11/03(土) 19:39:12.16ID:l9wklTSQあらら、やってしまいましたね、すみません
お詫びとなるかわかりませんが少し付け足すと、
この茂治助右衛門という人は、
逸話中に出てくる朝鮮での加藤清正隊への助太刀の際に、
兄茂正と獅子奮迅の活躍をして、
清正公に大変感謝された武士。
で、この話には異説もあって、
駆け落ちではなく、助太刀に感謝した清正公が、
茂治の娘を肥後藩の家老の嫁として迎える約束を朝鮮の地で茂治と交わし、
そして帰国後、鍋島が代替りして勝茂公が他国との縁組をご法度としたから大変。
清正公と茂治は武士の約束として婚姻を進めて、
そのイザコザからあとは同じような展開に・・・
まあどちらにせよ、いい話ではないけど
0159人間七七四年
2012/11/03(土) 19:47:16.66ID:drdtR/QP0160人間七七四年
2012/11/03(土) 19:57:06.70ID:6utdV7RL直接秀吉に報告するんじゃなくて
普請奉行に報告してあげれば丸く収まるのにね
能力があっても気遣いとか人間力が足りないとイカンよってことなんだろうね
0161人間七七四年
2012/11/03(土) 20:06:58.23ID:l9wklTSQ登場人物全員、国の法も武士の掟も大事にする好人物ばかりなのに、
結果は散々な本当に悪い話だな・・・・
直茂公の言うとおり「気がきかないから」につきるかも
ルールと人情が対立したときの問題はいつも難しい
0162人間七七四年
2012/11/03(土) 20:21:39.94ID:0bGScpr4幕府重臣である酒井忠世と土井利勝が江戸城より退出するときに、御台所の入り口で、
そこで働く下男たちが、料理で切り残した魚鳥の肉を紙に包み、蔦で結ってこれを手に
出てくる所と出くわした。
切れ端とはいえ、幕府の予算で購入した食材の一部を自分たちのために盗んでいるのである。
下男たちは老中たちの姿に驚き慌て、包を袖や懐に隠しながら逃げ惑った。
これに、酒井忠世と土井利勝の後に居た老臣が見咎めて言った
「公の私(公務の中に多少の私情の入ること)とは言いながら、憎き奴原の仕業かな!」
ところが忠世と利勝はこれを聞くと、口をそろえて
「そうではありません。江戸が未だ経済的には豊かではなく、それ故に彼らも少ない扶持で
召し使われています。そんな彼らに、ああいった恩恵でも無ければ、どうして妻子を養えるでしょうか?
それに、彼らがあれを自分達の当然の得分だと思っていたら、あんなふうに隠しませんよ。
これはね、今は未だ私たちの目指す仁政が行き届いていないという事なのです。
だからそんなに咎めちゃいけません。」
そう言った。
そして忠世と利勝は
「本当なら、魚鳥の切れ端くらい、隠さずに持たせてやりたいものです。」
とも言った。
その程度の事は問題にならないような豊かな世にしたい、ということであろう
(武野燭談)
酒井忠世と土井利勝、切れ端の包に政治の至らなさを知る。というお話
0163人間七七四年
2012/11/03(土) 21:09:56.53ID:sA2vHhfG佐渡守「それはめでたいことです。殿が天下一の大名となり、方々から貢物が届くようになったので、それを
盗む者も出たのです。」
いい方にも悪い方にも解釈できるんだな
0164人間七七四年
2012/11/03(土) 22:09:01.01ID:+0d2IRI4別にそういうわけでもないんだな
0165人間七七四年
2012/11/03(土) 22:09:22.86ID:/Xo4EPr50166人間七七四年
2012/11/03(土) 22:13:55.07ID:9vM6Q9bY0167人間七七四年
2012/11/03(土) 22:17:16.31ID:+0d2IRI4ここ悪い話スレだったw
0168人間七七四年
2012/11/04(日) 02:25:07.95ID:fYEdNMoY実際あったことだけど、無能な馬鹿社長に対しタダ働きする馬鹿がいた。
馬鹿社長はタダ働きしてくれるのが当然と思って他の社員にも平然と給与不払いをするようになった。
結局裁判起こして未払い分払わせてやったけどね。
タダ働きが美徳だとか思ってるんならとんでもない迷惑だよ。
0169人間七七四年
2012/11/04(日) 04:43:48.58ID:q608iAiU別にアンタの身の上話なんか誰も求めてないよ
0170人間七七四年
2012/11/04(日) 05:30:09.71ID:Fqbh/aF1なんつーかなんでこんな奴が英傑達に絡んでるの?的な。
なんか三成の話は感心させられる事も無ければ、破天荒ぶりでネタに出来るわけでもない。
ただただ、職場によくいるダメなタイプ思い出していらつかされるだけだ。
0171人間七七四年
2012/11/04(日) 08:19:03.23ID:T43Zh86V0172人間七七四年
2012/11/04(日) 08:24:01.45ID:Hv3r7jEj0173人間七七四年
2012/11/04(日) 08:35:43.51ID:HTOordGe0174人間七七四年
2012/11/04(日) 09:11:11.98ID:jovbKjM/0175人間七七四年
2012/11/04(日) 10:25:26.10ID:icRhLJ2S0177人間七七四年
2012/11/04(日) 10:38:48.38ID:F2Lf4tL/成立が18世紀はじめなら、それまでに創作された話である可能性も否定できないし
0178人間七七四年
2012/11/04(日) 11:58:38.82ID:T43Zh86V小説や大河に「史実と違うじゃん、作者は嘘が上手いなw」と突っ込む幼稚と一緒
0179人間七七四年
2012/11/04(日) 13:59:39.15ID:/Y7BiMA7無能な働き者じゃなくて有能な働き者の例だからな。
つか、無能が三成位の出自であれだけの状況を作れる訳無いだろw
0180人間七七四年
2012/11/04(日) 14:00:29.84ID:q+SR5cntその話も常山記談が出典元(そもそも二人は親友ってほどでも無かったし)だからねえ。
つーかそこまで人格がアレな人に大名との取次役任せるとか秀吉何考えてんねんって話だしなあ。
0181人間七七四年
2012/11/04(日) 14:21:27.98ID:YQilf/0r0182人間七七四年
2012/11/04(日) 14:29:23.71ID:H6dQnCFz確か書状で書いていたな。
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