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戦国ちょっと悪い話34

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0001人間七七四年2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年2012/10/24(水) 14:04:14.43ID:5/lQHHOm
>>1
骨折り!
0003人間七七四年2012/10/24(水) 16:27:40.46ID:DqXG8z9C
人間無骨!
0004人間七七四年2012/10/24(水) 19:20:46.25ID:jXxGHb6v
石田三成が斬首される直前、茶関係の弟子に耳と鼻を削ぎ落とされた
というのは本当ですか?
0005人間七七四年2012/10/24(水) 19:30:13.93ID:SqIYoogS
三成斬首の時の状況を表した詳しい記録は一切残っていません。
というか三成の茶の弟子ってなんのことやら。
0006人間七七四年2012/10/24(水) 20:40:01.67ID:m0/Z18Yk
>>4
創作に決まってるだろうが
0007人間七七四年2012/10/24(水) 20:45:41.49ID:N595Hho+
>4
全裸で茶を被ったのも本当です。
0008人間七七四年2012/10/24(水) 21:48:15.57ID:NC9PyKAq
おそらくへうげものネタ
しかし、松永の遺児と利休の関係やら
荒木村重の遺児が高名な絵師になったやら
ググるまではフィクションだとおもってた
0009人間七七四年2012/10/24(水) 22:00:54.17ID:oltT++sD
鬼武蔵はじめDQNネタ、ラスボスネタが印象に残ってる割には悪いスレって
いいスレより一スレ分少ないんだな
0010人間七七四年2012/10/24(水) 22:07:53.70ID:SqIYoogS
そもそも悪い話スレが出来たのっていい話スレができて1年後くらいだったろ
0011人間七七四年2012/10/24(水) 22:09:36.83ID:oltT++sD
それは知らんかった
三歳様の奥方覗いてくる
0012人間七七四年2012/10/24(水) 23:25:36.19ID:DqXG8z9C
斬るのは三歳様だけじゃないぜ!!
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0013人間七七四年2012/10/25(木) 00:09:11.36ID:BUZQaKpv
>>4
そもそも利休を切腹に追い込んだのが三成って時点で間違ってるからあの漫画
0014人間七七四年2012/10/25(木) 00:35:40.41ID:98zLAwTl
秀吉が信長斬った時点で(ry
0015人間七七四年2012/10/25(木) 00:40:49.81ID:PQEWfqae
海老で鯛を釣った時点で…

まああの漫画は史実や講談をベースにそれをちょっと外して来るのが基本なので、
割りと突拍子のないことでも根拠がある場合が多い
0016人間七七四年2012/10/25(木) 01:51:28.01ID:jh1lM60o
ゆがみ要塞うぎゃぁとか
0017人間七七四年2012/10/25(木) 02:42:10.13ID:57zFIOAP
織部が松永弾正のところに使いに行った時点で・・・
0018人間七七四年2012/10/25(木) 07:12:56.00ID:NtEXG0w+
下次右衛門の降伏はなかなかの美談として伝わるが(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6050.html)、鮭延秀綱の記憶によればもっとごたごたしていた。
最上勢に攻められた下次右衛門が籠城したまでは同じだが、籠城したのは谷地である。
そして経過は…
守備側「安全を保証するなら降伏します」
攻撃側「わかった、出てきなさい」
守備側「すみません、戦わないであっさり降伏とかしたら流石に馬鹿にされますよね。
やっぱキャンセルするんで攻めてください」
攻撃側「ふざけんな!だましたのかよ!わかったよ、堀埋めるからな、覚悟しとけ」
守備側「あわわわ、やめてください! まった、待ってください!
安全を保証するなら庄内の松本を切腹させますんで。大山取って義光殿に味方しますんで!
起請文もありますよ、ほら」
攻撃側「また騙されるかばーか! …と思ったけどちょっと待ってな」

攻撃側の志村光安らは起請文を義光に持参し判断をあおいだ。義光は、
「降る降る詐欺とかナメてんの? でもいいや、城から出して。攻めると味方損害出るしな。
長谷堂で長いこと戦ったばかりだしみんなおつかれさんだもんね。
早く終わったほうがいいだろ。なんかもういいや」

こんなぐだぐだだったらしい。
現実ってわりとかっこわるいんだなあ。
(『鮭延越前守聞書』)
0019人間七七四年2012/10/25(木) 07:18:51.20ID:/0z1ycQM
昨日のヒストリアで放送した細川忠利の熊本城本丸御殿の逸話は、
ちょっと悪い話だな。
0020人間七七四年2012/10/25(木) 16:09:40.12ID:klvTHidc
>>19
結果、無駄金使っただけでしたと。
民主みたいだ
0021人間七七四年2012/10/25(木) 17:37:35.94ID:lWLwL3kQ
細川護煕は最終的に民主党だし
0022人間七七四年2012/10/25(木) 17:46:06.49ID:lfQyMjrI
無駄金に関しちゃ民主どころか自民以前から続く官僚のお家芸だから…。
0023人間七七四年2012/10/25(木) 18:33:49.74ID:o5qn/mo5
いるのかいらないのか、やっぱりいらない公共事業なんて全部無駄金。
0024人間七七四年2012/10/25(木) 18:43:17.83ID:o5qn/mo5
地元のDQNがストリートダンスやスケボーの練習場にしてるようなところは大体失敗した跡地。
0025人間七七四年2012/10/25(木) 19:19:06.60ID:v8fctGZt
>23、公共事業は金を使うのが目的だけどなw・・・まあ尾張さまなら兎も角利家とかおにいちゃんだと必要なところにしか使いそうもないが
0026人間七七四年2012/10/25(木) 22:14:12.55ID:LHMizG6b
ずばり聞きます

1.織田信長を本当に討ったのは明智光秀本人の意思ですか?

2.天海は明智光秀と思われますか?
0027人間七七四年2012/10/25(木) 22:19:40.91ID:zFNn+Zn8
>>26
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1342945821/
0028人間七七四年2012/10/25(木) 22:54:00.08ID:NtEXG0w+
慶長六年、東軍の勝利に乗じた鮭延秀綱は四月一日、夜のうちに酒田攻めに出立することとなった。
ところが具足箱にしまっておいた采配がなくなっている!
「なんか嫌な予感…あああ、ちゃんと勝てますように」
秀綱はそう思いつつ、そのへんにあった竹を切って代用した。
気を取り直して進む秀綱だが、四・五百人ほどの敵勢に待ち伏せをされてしまった。
しかもこのとき! なんと兜の緒が切れたではないか。
「今朝は采配なくすし、今度は兜かよ! 今日はもう討ち死にだろコレ」
すっかりヤケになった秀綱は兜を投げ捨てて進もうとした。
すると板垣牛之助という者が「おいおい、この大軍に兜なしで挑むとかありえないだろ」と止めに入る。
「ちょっと待って、今直するから」と牛之助はたくさんのこよりをより合わせ、即席の緒を作り、兜をかぶせてくれた。
秀綱は気を取り直し出陣、見事に活躍したのであった。

鮭延秀綱、ちょっと縁起の悪い話。
(『鮭延越前守聞書』)
0029人間七七四年2012/10/26(金) 01:00:13.74ID:Xc640gXl
待ち伏せされたにしてはずいぶん余裕あるような
0030人間七七四年2012/10/26(金) 03:54:37.96ID:8dhAPQZi
後ろで采配してたんだろうな
いい話だ
0031人間七七四年2012/10/26(金) 05:10:22.88ID:z3mDjgZL
雑魚武将の話を発掘してみる。

蝦夷に下国師季という武将がいた。
下国氏は安東氏の一族で茂別館に拠り下国守護を任じられていた。蠣崎氏と同格以上の家柄である。
また1551年にはアイヌと和人の講和が結ばれ平和な時代が訪れていた。

…にも関わらず、1562年なぜか師季はアイヌの攻撃を受け茂別館を落とされてしまった。
そうして松前に逃れて蠣崎氏を頼り、その臣下に甘んじることになる。
しかしそれだけでは終わらず、息子重季と不和になり、
挙句に頼っていた蠣崎氏から追放されてしまう。
そしてセタナイで1563年死亡した。

ただただ没落しまくったことしか記録がない地方の武将の話。
0032人間七七四年2012/10/26(金) 05:42:18.69ID:MtAUdzdA
天庵様が興味を示されたようです
0033人間七七四年2012/10/26(金) 08:13:51.18ID:wJxlblL8
こよりって戦場に持ち込むもんなんだろうか
0034人間七七四年2012/10/26(金) 18:22:44.89ID:5bAlAIIx
>32、天庵さまはちゃんと俸禄貰ってる身分で終わってるだろ
0035人間七七四年2012/10/26(金) 18:27:21.87ID:Mf2CTX0f
伊達政宗、フィ−バー・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1353.html

↑にある寛永十二年正月二十八日の政宗亭への将軍家光の御成。
政宗渾身の接待に家光も喜んだことこの上なく、後日同朋衆の佐野福阿弥を通して、
なんと直筆のこれを感謝する書状を送ったほどであった。

さて、この書状が届いた日は取り分けて天気快晴であった。
ところがどうしたことであろうか、政宗の座敷の前の庭に、一尺(約30センチ)あまりの鯉が空から降ってきた。
しかも空から落ちてきたくせに極めて生きが良く、庭でピチピチ跳ね踊っていた。

政宗の周りに居た侍たち、「こんな目出度い日に鯉とは!なんと折の良いことだ!」
とこれを捕まえ喜んでいると、政宗はすぐさま包丁を申し付け、これを料理し祝いの酒とともに列座の諸侍に
振舞ったそうである。
…空から降ってきたことは、特に疑問に考えていなかったようである。

が、その後政宗が仙台に帰国していた7月の初め、島津家の上屋敷より出荷があり、伊達屋敷も尽く消失してしまった。
人々は

「伊達屋敷が燃えたのは鯉が空から降ってきて、あまつさえ食べたせいだよ。」

と囁いたのだという。
(玉露叢)
0036人間七七四年2012/10/26(金) 18:34:01.97ID:N6X1y0F7
竜巻にでも巻き上げられたのかねー
0037人間七七四年2012/10/26(金) 18:36:54.30ID:o7hxpn4H
出荷じゃなくて出火だよね
一瞬島津さんとこが鯉を出荷したのかと

しかしどう対応したら正解だったんだ
0038人間七七四年2012/10/26(金) 19:43:41.42ID:28nmfMky
ファフロツキーズ(空から落ちてくるもの)の事例がまだあったとは、
FORTIANに連絡しなければ
0039人間七七四年2012/10/26(金) 19:53:22.52ID:8d5Ap/Yi
こちらが時空警察の捜査員が捉えた事件の真相である
ttp://fsm.vip2ch.com/-/hirame/hira123732.jpg
0040人間七七四年2012/10/26(金) 20:46:22.43ID:hPEqwThh
古代中国の怪異書 『捜神記』にも、 宮殿に魚が降った記録がある。その解釈は、

「魚には鱗があり、鱗は甲冑に、甲冑は戦に通ずる。それが宮殿に降ったということは、
即ち天下に戦乱が起きるということだったんだよ!!( AA 省略」

ナ、ナンダッテー


事実そうなった


どっとはらい
0041人間七七四年2012/10/26(金) 21:38:15.19ID:NaMLM/Cn
釣り人が釣り上げた拍子にバラしてしまったとか?
しかし魚が空から降ってきても不思議がりもせずヒャッホーしてるあたり政宗というかなんというか

案外、誰かが迷信の事を言い出す前に
とっさに縁起の良さに結び付けて場の空気が悪くなるのを防いだのかも
0042人間七七四年2012/10/26(金) 22:33:33.81ID:+oB3hxg8
徳川家康がある時、この様なことを仰った。

「主君に対して、その政道の正しさをことさら取り上げ、人々は善政に潤っています、などと言ってくる者が居る。
そんな者の言うことなど、全く聞くに及ばぬ!

少しであっても、その政道に対して異論が存在していれば、主君は早々にそれを聞き出さねばならない。
『自分には誤りなど無い』などといって聞き捨てにしてはならないのだ!

しかし、それを何者がそう言ったかなど、糾明するような事もしてはならない。
主君の心ひとつに収めて、その異論をよく吟味し、改めるべきところを改めるのだ。

物には思いもよらない事というものがある。あの織田信長が、明智などにああも安々と討たれるなど、一体誰が
予想したであろうか?
また信長の織田一門は歴々たるものがあったというのに、秀吉に主親の敵を討たせて、彼の風上に立ってしまった事など、
全く時の至というものであり、天が秀吉に与えた福というべきだろうか。

こういったことから解るのは、例え天をも計り地をも察することができても、計り難きは人の心なのだ。
だからこそ、仮初のことであっても、主君たる者は心をかけて見聞きしなければならない。

主君や傍輩にも真実をつつみ隠すような佞奸の者は、世の人々の見解を鏡として、早く退けるべきである。
どんな佞奸の者でも、天下の見解まで包み隠すことは出来ないものだ。
また、主君に対しその様な異見が世間に存在することは、決して恥ずかしいことではないぞ。」
(武野燭談)

徳川家康の、主君は異論こそ聞け、世の中の言葉を聞け、というお話
0043人間七七四年2012/10/26(金) 22:33:36.71ID:k4qeeCS7
うちから火がでちゃったのはアイツのせいなんだよー!っていう責任転換の企み…じゃないよね。
0044人間七七四年2012/10/26(金) 22:38:25.75ID:gS9QP7Ba
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6455.html
使えなくても一応きちんと異論を聞く家康はえらいな
0045人間七七四年2012/10/26(金) 23:06:27.36ID:ulPhwur8
慶長五年、ご存じ長谷堂合戦の折。軍記ものでは颯爽と活躍している鮭延父子であるが、
その実態が当事者によって語られていた。
当時父の秀綱は38歳、子の左右衛門は15歳である。

子「父上、私も参戦したいです!」
父「ただでさえ味方が少なくて大変なのに、おまえごときに割けん。あきらめなさい」
子「ならば私ひとりで出るまでです」
父「あー、わかった。仕方ない、50人くらいつけてやる、がんばるんだぞ」
子「はい、父上!」

こうして出陣した左右衛門だが敵に深入りしてしまい、供回りの過半数が討たれ、
指物までとられそうになる始末であった。
父は子の窮地に気付き、半町ほど敵陣に入りこみ子を探すが見つからない。

父「むう、遅かったか。あとに残っているのかもしれんが…」
子「あっ、父上!」
父「これはいかん! 左右衛門、ついて来なさい」

父が探し回り子をやっとみつけ合流したが、父もまた大苦戦してしまう始末。
ついに父は子の目の前でありながら、余裕が全くなく半町あまりも先に退いてしまった。
「俺、息子の前なのに先に逃げちゃってかっこわるかったよね…」
と当時を振り返る秀綱であった。

それにしても正直に語り残さねば、颯爽とした活躍だけが記録に残っただろうに。
(『鮭延越前守聞書』)
0046人間七七四年2012/10/26(金) 23:20:06.92ID:wJxlblL8
>>42
>しかし、それを何者がそう言ったかなど、糾明するような事もしてはならない。
・・・正純さん
0047人間七七四年2012/10/27(土) 00:20:22.17ID:aEIVsLLX
>>42
200年以上安定をもたらした初代はさすがだな。

>>45
余裕が無い状況って分かってるのに参戦したがる15歳って凄いな。さすが武家の子
0048人間七七四年2012/10/27(土) 00:55:29.38ID:rESl656N
悪い話を一丁。まとめにもないと思う。


関ヶ原の島津の退き口のとき、島津豊久は殿軍となって島津義弘を逃がし、
烏頭坂(岐阜県大垣市上石津町)で討ち死にしたというのが定説である。

だが異説によると、このとき豊久は生きていたという。
重傷を負った豊久は、生き残りの薩摩兵の手で近くの集落まで運ばれた。
この集落には七軒の家があり、薩摩兵は豊久の治療のため一軒一軒訪ね歩いたが、
関わりあいを恐れた村人は中に入れようとしなかった。
豊久は間もなく息を引き取り、亡骸は荼毘に伏され集落の近くに埋葬された。

そしてのち、この集落は明治まで続いたが、決して栄えることなく七軒のままで
あった。さらに豊久の墓のまわりには草木も生えなくなった。
これは豊久や薩摩兵の祟りだという。

この異説にはさらに別の説がある。村人は豊久を家に入れて必死で手当てをしたが、
村人に後難が降りかかるのを忍びなく思った豊久が自刃したという話である。


あなたならどの説を採る?
0049人間七七四年2012/10/27(土) 01:05:20.00ID:rlRYPEzW
あれ、異世界に漂流したんじゃなかったか

てのは冗談として、槍玉に挙げられたってのが本当なら普通そこで死んでそうだが
0050人間七七四年2012/10/27(土) 06:33:28.50ID:MTzhoiLC
下国師季は謎が多い。

彼は安東家政の孫であるという。家政は1457年のコシャマインの乱の鎮圧にも参加した人物で、
1501年に没した。
またその子で師季の父に当たる家季は父家政より早く1492年に没したらしい。
よって師季は1490年前後の生まれのようだ。それから1563年に没しているので70歳以上は生きているなかなかの長寿。

問題は師季の妻だ。

師季は蠣崎季広の二女を妻にしているのだ。蠣崎季広は1507年生まれである。
長男の舜広は1539年生まれで、長女の嫁いだ南条広継は1529年生まれだから、
概ね二女の生まれはこの間の1530年代半ばくらいだろう。
となると、二人の年齢差は40歳以上…?
しかも二人の間には重季という子供もしっかり生まれている。

戦国時代の加藤茶とでもいうべきだろうか。
0051人間七七四年2012/10/27(土) 12:25:15.37ID:OEYb97HQ
>>50
山口直友パート2くらい言ってあげなよ。w
0052人間七七四年2012/10/27(土) 12:34:48.76ID:sWrG/cwG
小少将と長宗我部元親は小少将がうんと年上だそうだが、これはどう呼ぶんだ
もっとも産んだ異父兄弟の年の差が40以上という無理ある話だが
0053人間七七四年2012/10/27(土) 12:38:17.36ID:mTSUofq/
>48,>50
ドリフターズだな
0054人間七七四年2012/10/27(土) 12:41:57.97ID:qWN6W0Zi
加藤茶は現代だから注目されるけど
昔は年齢差が大きい結婚が多そうだよね
0055人間七七四年2012/10/27(土) 13:17:11.00ID:aEIVsLLX
13歳くらいで嫁いだものの、高齢の夫に興味持たれないまま先立たれて、手付かずのまま生涯を終える姫とかいそうだよな
0056人間七七四年2012/10/27(土) 14:01:43.46ID:bDmnSvcG
>>54
そこそこ身分の有る人間が年寄りになると、
「あの方も寂しかろう」つうて勝手に周りが十代の下女兼愛人を世話してくれる時代なんだよなあ
0057人間七七四年2012/10/27(土) 15:18:04.49ID:XLJRcSZd

松平信綱は大下戸であった。対して土井利勝は大上戸であった。
信綱は「天下の老中でありながら酒を飲むなど…」と心の中で誹った。

ある日、老中たちが神田橋を通った時、一人の酔っ払いが
ヨロヨロとみっともなく歩いていた。

これを見て「良い機会だ。利勝を困らせよう」と思った信綱は
「大炊殿大炊殿、向こうを御覧なされませい、見事な伊達歩みですぞ」
と言った。

すると利勝は「伊豆殿、御嗜みなさい。下戸が酒に酔うことほど
見苦しいことはありません」と返したので流石の信綱も返答できずに
困ってしまった。

――『名将言行録』
0058人間七七四年2012/10/27(土) 15:37:17.57ID:aIJKGdv5
土井さんは大上戸だったのか
めんどくさい人たちが揉め事起こしたら
ベロンベロンに酔わせて権現様と錯覚させて解決させてたかも
0059人間七七四年2012/10/27(土) 16:00:05.01ID:t2TVrZnV
飲まなきゃやってられないんだろう。
0060人間七七四年2012/10/27(土) 16:24:55.93ID:oclVz5Rv

      _,,..,,,,_ ,,_ ,,_ ,,_ ,,_      _∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧_
     / ●ω・ ヽ ヽ.ヽ ヽ.ヽ    > そ、その動きは伊達歩み!<
     l       l .l l .l l        ̄∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨ ̄
     `'ー---‐´‐´‐´‐´‐´
0061人間七七四年2012/10/27(土) 16:32:57.31ID:i/mGEpuT
いもむし!?
0062人間七七四年2012/10/27(土) 17:18:18.46ID:9ySdeeFX
伊達巻かと
0063人間七七四年2012/10/27(土) 17:24:50.36ID:i/mGEpuT
ナルホド。がってん合点
0064人間七七四年2012/10/27(土) 17:27:20.02ID:sWrG/cwG
色的にずんだ餅の材料かとおもった>イモムシ
0065人間七七四年2012/10/27(土) 18:10:48.82ID:ZXiMqwVP
後ろはまーくん色に染まった家臣団です
0066人間七七四年2012/10/27(土) 18:27:25.72ID:MTzhoiLC
発掘研究などから下国師季が茂別館を追われたのは永禄5年(1562)は誤りで、
永正5年(1508)が正しいらしい。
18歳くらいで城を奪われて蠣崎の庇護に入った己を恥じて長く妻は娶らなかったのかな?
0067人間七七四年2012/10/28(日) 01:05:14.60ID:enuPRoD0
ところで蠣崎氏といえば、二代当主の蠣崎信広って
若狭武田家という名門の子息として生まれる→出奔→南部家ののち蠣崎家へ
→コシャマインの戦いでアイヌの反乱を鎮圧→蠣崎家の婿養子として後を継ぎ、蝦夷地と樺太をおさめる

なんか御曹司島渡の貴種流離譚そのまんまのような
0068人間七七四年2012/10/28(日) 01:46:20.58ID:GbnvUDqp
>>64
原材料イモムシってそれ何処のゲテモノすぃ〜つ…。

>>60
見ようによっちゃずんだ豆?眼帯した豆キャラクターにしたら売れるかなw
0069人間七七四年2012/10/28(日) 07:21:13.20ID:lRKgg1Vm
>>67
全般的にテンプレみたいな話ばっかだよね、蠣崎の歴史。
松前守護の安東恒季は粗暴で無実の民を殺すこともあったという典型的な暴君。
で、訴えられて安東宗家に滅ぼされる。
跡を継いだ相原季胤もアイヌ人を人身御供にしたとかでアイヌに滅ぼされる。
最終的に蠣崎氏が全部接収してるから、実は全部蠣崎が仕組んだことじゃね?とも言われてる。
0070人間七七四年2012/10/28(日) 14:27:16.24ID:MFodyCec
全部は秀吉あたりに出仕する時にでもでっちあっぷした後付だなきっと
0071人間七七四年2012/10/28(日) 17:21:36.54ID:41hI+zuF
何となく意味は分かるが日本語になってねぇ
0072人間七七四年2012/10/28(日) 17:42:57.59ID:r0VZYzL9
【テレビ】NHK「14年大河」ホントは「島津義弘」だった
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1351326083/

ソース:Infoseek ニュース/ゲンダイネット
http://news.infoseek.co.jp/article/27gendainet000177457
0073人間七七四年2012/10/28(日) 17:44:13.64ID:r0VZYzL9
<朝鮮出兵がネック>
3週連続で1ケタ台の視聴率にあえいでいるNHK大河「平清盛」。
21日の放送は関西地区で7.5%(ビデオリサーチ調べ)を記録し、
またまた過去最低を更新。最終回(12月23日)まできっちり放送するというが、
クライマックスの源平合戦を待たずして“討ち死に”状態である。

早くも話題の中心は次の大河に移っていて、13年は綾瀬はるか(27)主演の「八重の桜」、
14年は岡田准一(31)主演の「軍師官兵衛」と先日発表になったが「本当は『島津義弘』が当確だったが、
二転三転し、黒田官兵衛になった」というのはNHK関係者だ。

14年大河を巡っては、発表の1カ月前にも一部スポーツ紙が「明智光秀が有力」と報じている。
しかし、フタを開けたら「官兵衛」になっていた。舞台裏で何があったのか――。

島津義弘は、織田信長や豊臣秀吉と同世代に活躍した薩摩の戦国大名。
島津家中興の祖といわれた第15代当主・貴久の次男で、兄の義久を助けた島津家最強部隊の将だ。

関ケ原の合戦では300足らずの兵で敵中突破したことで有名。
他にも、文禄の役と慶長の役で朝鮮へ出兵し、明の大軍相手に
勇敢な戦闘力を発揮したことで知られる。
0074人間七七四年2012/10/28(日) 17:45:07.66ID:r0VZYzL9
「その豪快なエピソードがネックになった。朝鮮出兵は義弘公の見せ場のひとつ。
“鬼島津”と恐れられたという資料も残っている。絶対に外せないシーンだし、
申し分ない“山場”です。が、8月に勃発した竹島の領土問題で日韓が揉めている中で、
局内から難色を示す声が出た。物議を醸すような事態を避けたわけです」(NHK関係者=前出)

義弘公の地元・鹿児島は県を挙げて大河の誘致活動に積極的だった。
数年前には鹿児島にゆかりのある人物でプッシュしようと署名活動までし、
09年には「観光かごしま大キャンペーン推進協議会」を発足させ、
昨年10月にNHKへ要望書を提出していた。

大河の舞台となった地元への経済効果は絶大で、
08年の「篤姫」は鹿児島県内に262億円をもたらした。
コトなかれ主義で弱腰なNHKと野田外交に振り回されては、
義弘公もいい迷惑である。(了)
0075人間七七四年2012/10/28(日) 17:56:51.64ID:KLaFifEY
ソースはゲンダイネット、はい解散。
0076人間七七四年2012/10/28(日) 18:00:54.00ID:KxF19LFE
NG余裕でした
0077人間七七四年2012/10/28(日) 18:47:15.13ID:5Qsk18pC
ゲンダイはおいておくとして朝鮮征伐はタブー化されてるよね漫画でもドラマでも。
0078人間七七四年2012/10/28(日) 20:33:43.69ID:n6iugp6u
どうせ嫌々出兵してあっちの義兵とやらにコテンバンにやられたけどなんとか撤退できたみたいな流れにされるんだろうな

大河にするなら義久の方がいいと思う
自分は目立たなくても弟たちを上手く指揮した名将ってことでどっかの総理たちに見習ってほしい
0079人間七七四年2012/10/28(日) 20:40:27.13ID:k+NV0yan
清盛で儲けられなかった兵庫へのお詫びだと思ってた
0080人間七七四年2012/10/28(日) 21:21:46.85ID:hbstFqpK
鮭延秀綱の回想は誇張がなく、戦国武士の実際がわかるようでなかなか興味深い。
軍記しか材料がなく、わかりにくかった最上家の状況も、彼の証言によってあきらかになる部分もありそうだ。

22の歳に主君大宝寺義氏を失った鮭延秀綱だが、その後最上義光配下に入るのはご存じの方も多いであろう。
しかし、その課程には軍記と実際でかなり差があることがわかる。

「最上の鮭延攻めおよび秀綱拒否の動機」
軍記:
義光の優れた武勇と威光によって出羽はほぼ最上家支配下に入ったが、
気位の高い若武者・鮭延秀綱(16)は抵抗した。出羽統一のため、義光は鮭延へ出兵することとした。

秀綱の回想:
大宝寺家に仕えていた鮭延城主秀綱(24)は、二年前主家の滅亡にあうも、大宝寺にかわって
庄内を支配するようになった東禅寺筑前のはからいにより、城を確保できていた。
東禅寺は最上義光に接近し、義光もこれに応じて庄内攻めをしたいと考えた。
しかし最上と庄内のあいだには鮭延がある。
(庄内の)鮭を獲るためには鮭延をまず攻めよということで、義光は庄内攻めの先頭に立つよう依頼。
しかし秀綱は、「庄内あっての鮭延、なのに味方できるか」と拒否。
これを受け、延沢満延によって鮭延攻めが開始されるのであった。

「秀綱の夜襲」
軍記:
鮭延城を包囲した最上勢は、夜間水くみに出る鮭延勢を待ち伏せて攻撃していた。
そこで秀綱は一計を案じ、取水部隊に中に強者をひそませ逆襲、最上の武田兵庫を討ち取ったのである。
義光は秀綱の知勇に感じ入り、これに懲りて持久戦に切り替えた。

秀綱の回想:
秀綱はわずか三百で粘るが、最上側は氏家守棟も投入。
事態の打開のため、守備側は夜襲を思いついた。
秀綱は「よし、俺が偵察してくる」と自らこのとき城外に行くが、帰り道に敵だと勘違いした味方に襲われ、
あやうく同士討ちするところであった。
こんなに苦労したのに、戻ってみると「夜襲はやめましょう」とあっさり却下されてしまうのであった。
(つまり、実際は夜襲そのものがなかったと思われる)

「決着」
軍記:
いよいよ落城間近となったとき、秀綱たち一行は夜陰に乗じて城外に脱出した。
城を落としたあと、物資の尽きた様子を見た最上勢は「これなら力攻めしたら楽勝だったな」と感想をもらす。
しかし義光は「秀綱は見所があるから、敢えて見逃した。いずれ私のもとに来よう…」と言うので周囲はその度量と先見の明に感心した。
この言葉通り、秀綱は落城間際に庄内の大宝寺をたよって落ち延びたが、大宝寺滅亡後最上家に仕えるようになった。

秀綱の回想:
降着した事態は義光の根回しによって新たな局面を迎える。
秀綱が庄内の援軍を頼りに粘っていると考えた義光は、庄内の小野寺家から説得してもらうことにした。
秀綱本人は頑なであったが、小野寺家の説得を受けた家老が秀綱に意見し、ついに降伏して最上家に仕えることとなった。

こうして比較すると時系列が逆転していたり、夜襲をかっこよく描いていたり、義光の度量を強調している。
また、秀綱は武将の意地よりも庄内からの援軍を頼りに抵抗しているとわかり、
理想論だけではない戦国武士の現実的思考がわかるといえよう。
(『鮭延越前守聞書』)
0081人間七七四年2012/10/29(月) 22:19:31.79ID:N9b6t+TY
秋山虎繁の矛盾

伊那郡代の武田家臣、秋山虎繁。
彼は信玄の西上作戦の折、別働隊を率いて東美濃に侵攻、遠山夫人おつやの方を誑し込んで岩村城を落とす活躍をしたと言われる。
しかしその一方で、信玄とともに三方原の戦いに参加したという記録もある。

あるぇー、どっちだあ??

しかも前者の場合、当初から同盟者信長に対して断交を宣言するものであり、上洛して天下を取ることを視野に入れた行動であったことを示すが、
後者の場合、あくまで狙いは徳川領の奪取だったということになり、その違いは大きい。


…どうやら答えはどうも後者のようだ。
秋山はずっと山県昌景と行動をともにしており、一緒に信玄と合流したという。
では岩村城はどうなったのだろうか?
実は信玄動くの報を聞き、自ら武田側に寝返ってしまったのが真相のようである。
また城主遠山景任は信玄が動くより以前に病没していたという。
そして岩村城に武田方から援兵として送られたのが秋山…ではなく、下条伊豆守という武将であった。
この後行われた上村合戦というのも裏切った遠山夫人に対する他の遠山一族との戦いだったようだ。
秋山虎繁が美濃に向かい岩村城に入るのは三方原の合戦も終わり、信玄が死ぬ直前になってからのようである。

各書物もこれを裏付けるような記述が見られる。
『甲陽軍鑑』においては「馬場信春が岩村城を落とした」など間違いはあるものの、
三方原の合戦の後「徳川の陣に織田家の平手らがいたのはうちへの敵意の表明だよな?」と言ってここで断交を宣言。
その後馬場が岩村城を落とした後、秋山が入城したとしており、流れ自体は概ね合っている。
『三河物語』にも武田軍は手引きをする者がいたので東美濃へ向かうことにしたとあり、
遠山夫人の裏切りを示唆している。
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