戦国ちょっと悪い話34
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0001人間七七四年
2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話33
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戦国ちょっといい話35
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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0183人間七七四年
2012/11/04(日) 14:37:58.95ID:7S8hb/cQ堅物すぎたのが不運を招いたのか
0184人間七七四年
2012/11/04(日) 14:47:37.44ID:cgic6LnU0185人間七七四年
2012/11/04(日) 14:58:27.17ID:q+SR5cnt「かの人大いに気をつかふ」は元のTERUの書状読むと文脈的に
「大事な取引先の人間だから気を遣わなくてはいけない」って感じの意味だと思う。
0186人間七七四年
2012/11/04(日) 15:56:12.65ID:Tpt5+bpqで不和が生じるようなもんじゃね?実際三成は槍働きより兵站や検地の方
が優れてると思うし
0188人間七七四年
2012/11/04(日) 16:45:10.84ID:PIeEsjwDまあ本当にこんな佞臣じゃ誰も味方しないし関ヶ原の西軍実質総大将的な見方をされることすらないだろうしな
0190人間七七四年
2012/11/04(日) 16:49:36.93ID:icm06Elw逸話でどうこういうのも野暮だが、正しい意味で有能ならば、
担当奉行と軋轢を残すような処置はせんだろ。
ただの被害報告で緊急性はカケラも無いんだから。
0191人間七七四年
2012/11/04(日) 17:16:00.39ID:MHKIro6Fだから地方の不満は爆発寸前というか、そこここで爆発しちゃったし
0192人間七七四年
2012/11/04(日) 19:23:31.29ID:q+SR5cnt生じた軋轢みたいなもんで、三成のやり方云々は関係ないでしょ。
そもそも全ての国を三成が担当したわけでもないし。
>>189
賤ヶ岳以外何かあったっけ?>軍功
幸州山城攻めで負傷したりしてるし前線に立つことはあったんだろうけど。
0193人間七七四年
2012/11/04(日) 19:45:35.35ID:Fqbh/aF10194人間七七四年
2012/11/04(日) 19:58:03.69ID:H6dQnCFzとにかく完遂したのだから、物凄い実行力があったのは解る。
今で言えば一度始めたプロジェクトはどんな手を使ってもある程度の形にするような、
「仕事の出来る男」ってタイプだったのだろう。
0195人間七七四年
2012/11/04(日) 20:31:33.87ID:q608iAiU堺奉行として九州征伐での兵站を担当して成功、博多奉行で博多を復興、
小田原征伐で北部方面を担当、検地奉行として各地を検地
朝鮮での兵站や講和交渉など、佐竹島津などの取次、秀次事件の対処、
京都奉行、豊臣家蔵入地の管理
人間性は置いといて、この人の仕事面で優秀ではないと言い切るのは少し苦しいのでは
0196人間七七四年
2012/11/04(日) 22:11:19.25ID:T43Zh86V0197人間七七四年
2012/11/04(日) 22:29:04.20ID:vPe2MraC確実な成果が期待できる優秀な人間一人に依頼するだろな
その他大勢である百人からは憎悪されるかもしれんが
本来それは上司である秀吉がフォローアップすべきことだし
0198人間七七四年
2012/11/04(日) 23:30:14.57ID:C8Kf5hoS0199人間七七四年
2012/11/05(月) 00:36:11.48ID:8/D3M1Pg人が育たなくてそいつがいなくなるとその部署は荒地と化すそうだが、
三成もそんな成果主義の権化のような感じがする。
0200人間七七四年
2012/11/05(月) 07:18:15.86ID:dh2eVboB政権を取ったら土井利勝らの方が颯爽とした政務を執るという感じだな
0201人間七七四年
2012/11/05(月) 07:21:18.54ID:OUwdw2fR0202人間七七四年
2012/11/05(月) 07:27:40.30ID:dh2eVboB豊臣政権での三成の政務と徳川政権での土井利勝とかの政務を比べているわけで
0203人間七七四年
2012/11/05(月) 07:58:12.00ID:mek9p20d考えてみれば可哀想な人だ
0204人間七七四年
2012/11/05(月) 08:08:39.91ID:cKtsR/+q0206人間七七四年
2012/11/05(月) 09:35:38.79ID:Vc8tZybRそういうのが信用されるくらいには、有能だったって証でもある。
まあそれと同じくらい、人格的には評価されてなかったって証でもあるか
0207人間七七四年
2012/11/05(月) 11:43:30.46ID:QSo1zp0c0208人間七七四年
2012/11/05(月) 13:17:10.14ID:IlbtytCF0209人間七七四年
2012/11/05(月) 13:21:56.92ID:nfNVaC1Qすっかり忘れてた
0210人間七七四年
2012/11/05(月) 13:28:40.82ID:iL59pcZo0211人間七七四年
2012/11/05(月) 13:32:25.75ID:TMLjoXGt0212人間七七四年
2012/11/05(月) 13:46:51.81ID:UyUMibJ40213人間七七四年
2012/11/05(月) 17:01:19.41ID:mek9p20d0214人間七七四年
2012/11/05(月) 17:27:50.07ID:QSo1zp0c説教臭いというかなんというか。
それに比べてアメリカ人の作ったラストサムライは楽しめたな
0216人間七七四年
2012/11/05(月) 17:46:35.60ID:nfNVaC1Q0217人間七七四年
2012/11/05(月) 17:51:37.09ID:aGZWU93Iまあ良くできたアメリカ映画だよね。
0218人間七七四年
2012/11/05(月) 18:07:19.19ID:Rr+3rV0e0219人間七七四年
2012/11/05(月) 18:16:39.03ID:QSo1zp0cすまん、クレしんの戦国もの観てない
こないだレンタルした四十七士の生き残りの映画は期待しただけにガッカリしてた
知らないだけで面白いのもあるんだろう
0220人間七七四年
2012/11/05(月) 19:33:52.32ID:gMarZj1vしかし負けてしまった。
この時の町奉行は、あの本多作左衛門重次であった。
百姓たちは敗訴に納得せず、勝訴した側への作左衛門の依怙贔屓であるとして方々で悪口を吐き、
あまつさえ落書までしてこの裁判を誹謗した。
本多作左衛門はこれを聞いて、再びその裁判における公事人(裁判関係者)を呼び出し、
再吟味を行ったが、やはり同じ判決となった。
そこで作左衛門、今度は非公事を言い立てた百姓たちを、全員斬って捨てた。
それから暫くして酒井河内守重忠が、これとほぼ同じような訴訟の奉行となった。
非公事を言い立て敗訴した百姓たちが散々悪口を言っている、とのことを重忠は聞いて、
再び裁判関係者を全員呼び出した。
そこで忠重は全員に対して、その判決に至った理由を順を追って説明し、非公事を言い立てた
者達にも、その理を言い聞かせ、得心するように理由を説明した上で、悪口をした百姓も
そのままにさし赦した。
この両裁判のことを聞いた徳川家康は、本多、酒井を呼び出し両人がどうしてそのような
処分をしたのか理由を聞いた。
本多作左衛門は
「上を犯すものをそのまま差し置いていては、秩序の締りが無くなり悪事が募るものです。
ですので毅然としてそう申し付けました。」
と答えた。
酒井河内守重忠は
「この様な裁判で人を殺してしまえば、以後奉行人は必ず事あるごとに威を振るい、
驕りが出てしまうものです。」
と答えた。
まさしく両人取り取りの政道である。
(武野燭談)
0221人間七七四年
2012/11/05(月) 20:07:50.02ID:4R9zL7AU本多作左と酒井重忠のどちらが正しということはないんだろうな。
それにしても百姓が好きな事を言って、一度はその言い分を聞いてもらえるって社会は、なかなか良い社会だな。
0222人間七七四年
2012/11/05(月) 20:29:46.18ID:PiXUy448そこのフォローは秀長がやってたんじゃないのかなー、と。豊臣政権空中分解したのは結局のところ秀長が死んだ影響大なんじゃないかな?
0223人間七七四年
2012/11/05(月) 20:44:54.30ID:dh2eVboB0224人間七七四年
2012/11/05(月) 21:51:56.71ID:mek9p20d0225人間七七四年
2012/11/05(月) 22:03:40.58ID:sIbB3lqJイメージとしては武田信繁なんかもそんな感じ
ただ、秀長と信繁に関しては早めに?死んだからこそ余計に評価されてる気がする
両方共一人の人格者がいたらどうのこうのっていうような甘い状況じゃない気がするし
>>220
ものすごくざっくり見れば作左と兼続やってること一緒なんだな
やっぱそっちのタイプの人間だな
0226人間七七四年
2012/11/06(火) 02:54:25.87ID:PM8FwmD6老年期は大陸の独裁皇帝並みの自己肥大になったとしたら
同じ母集団から出て同じように階層が上昇したにもかかわらず
人格破綻を起こさなかった秀長や寧々って凄くね?
0227人間七七四年
2012/11/06(火) 04:40:04.06ID:TerQt6Ow0228人間七七四年
2012/11/06(火) 05:43:02.82ID:VmFqHNiw0229人間七七四年
2012/11/06(火) 05:46:33.77ID:OxuERoyM0230人間七七四年
2012/11/06(火) 09:21:30.98ID:ZT4NF8NB優秀な調停役だったと勝手にキャラ付けされてる様に見える
0231人間七七四年
2012/11/06(火) 12:31:05.30ID:Yi4Igwypそうか?俺はむしろ過小評価されてると感じているが。
実際秀長が生きてる時は秀吉もラスボス化しなかったわけだし、三成ら近江閥と浅野長政ら尾張閥との対立も表面化しなかったでしょう?
0233人間七七四年
2012/11/06(火) 15:10:14.44ID:NbK2TydX歴史に興味無い人には過小評価され
歴史好きの中には過大評価する奴もいるってだけ
俺は秀吉の偉業は秀長、クロカン、秀吉で3等分できると思うけど
0234人間七七四年
2012/11/06(火) 15:50:03.96ID:ZT4NF8NB秀吉どころか秀長とも比べられない格下だろ
0235人間七七四年
2012/11/06(火) 15:58:08.52ID:I+BY/ICP戦国の英雄や朝廷も一目置くキーマンに化けるのだ。
ついでに奥さんも超重要人物化して
一武家の夫婦愛や家族愛が全国の行く末を左右する物語のいっちょ上がり。
0236人間七七四年
2012/11/06(火) 15:59:07.53ID:3lzC74sQこの者たちが浅草へ連れ立って遊びに出かけた。
そこで小森栄順と大坪甚右衛門の二人が浅草観音ちかくの遊山茶屋で、
茶屋の男たちとまず口論になり、最後はさんざんに打ちのめされた。
このことがすぐに浅草界隈で噂となったので六右衛門は、
「仕返しをしよう」
と言い、与一右衛門と甚兵衛もそれに同調した。
しかし他の者たちが、
「主家にまで迷惑が及ぶだろう」
となだめ、なんとか屋敷へと引き帰った。
帰ってからも六右衛門は、
「いや、これは仕返しをせねばならぬ」
と主張を続けたのだが、皆になだめとめられた。
喧嘩の話は主家まで達し、栄順と甚右衛門は切腹を認められず、そのまま斬り捨てられた。
他の者たちはお叱りを受けた。
詳細は、追って聞くことにしたい。
この喧嘩について考えさせられるところがあったので、
ある老武者に聞いてみた。
老武者
「仕返しなんてものは、皆と相談して上手くいくものじゃない。
ひとりで出かけていき、自分ひとりが斬り殺されるまでだと覚悟を決めねばならぬ。
口先で仕返し仕返しと言う者の中には、覚悟なく発言する者もいるのだ。
つまり、口先で武士としての外聞を飾っているわけだ。
誠の剛の者は、なにも言わずにそっと抜け出し死に向かっていく者だ。
勘違いしている者が多いが、そもそも仕返しを成功させる必要などないのだ。
仕返しの場で斬り殺されるのが剛の者なのだ。
だが、相手をしとめることが出来るのはこういう者である」【葉隠】
0237人間七七四年
2012/11/06(火) 17:35:00.71ID:T54cWOMY北条征伐あたりでそろそろ周りに危険な勢力がなくなり
信長のかわりとして地位が確立されたことが原因だろ
秀長は優秀であっても過大評価されているように感じるわ
0238人間七七四年
2012/11/06(火) 17:38:50.82ID:m61e9G7E山本常朝の美学は好きだな。
ただ、戦国時代の武士ならもっと打算的な行動をする気もするな。
0239人間七七四年
2012/11/06(火) 19:32:06.47ID:29mKxpyf自らが実践で証明したなら別だが
0240人間七七四年
2012/11/06(火) 20:25:46.49ID:Fby3rjvQ02411/2
2012/11/06(火) 21:08:24.01ID:y9u1DvmKこの時徳川家康は酒井左衛門尉忠次、植村右衛門佐ばかりがお伴して、堺を見物し、
これを茶屋四郎次郎が案内として付いていた。
そんな堺の家康のもとに、本多平八郎忠勝は本能寺の変を聞きつけるや否や直ぐ様
駆けつけた。
そこでは家康は「この少人数で三河まで引き上げるのは不可能だ。ここで切腹する!」
と決意していた。
ここに忠勝進み出て
「仰るように、どの道も本道は皆、敵中であると考えるべきでしょうしかしながら
ここで殿が御自害なさる事ではござらぬ。間道を抜けてそこから山越しに伊賀路へと出れば、
別議なく帰国できます!」
しかし家康
「そうは言うが、我らは上方に不慣れな者ばかりである、どうやって敵の知らぬ間道を
通るというのか?」
「その段はそれがしにおまかせあれ!!!」
忠勝、朗らかにそう言うとどこかに走っていった。少しして帰ってきた。誰かを引きずって
「この辺りの村の庄官を捕らえてきました!!!」
突然の拉致にガタガタ震えている庄官に
「おい貴様!ここにおられる殿のご案内をいたせ!しかしもし騙すようなら…お前を即座にぶっ殺す!」
(悪しく導き奉らば、忽に打殺す)
信長や秀吉からも最高の武士として讃えられた男からのこの脅しである。庄官は半ば魂が抜けつつ清瀧まで
案内し、「子、この先は解りません〜」と泣きながら訴えた。
02422/2
2012/11/06(火) 21:09:17.49ID:y9u1DvmK「どこに?」と思ったらまた直ぐ戻ってきた。また誰かを引きずって
「この辺りの村の長を捕らえてきました!!!」
また誘拐である
「さあ我々を案内せよ!、もし(ry」
遂に木津川まで至った。と、川を渡る薪船を二艘発見!忠勝叫ぶ「おいそこの船!こっちに来い!!」
天下無双の勇士の呼びかけにこの二艘の船、当然ながら逃げ出した。
「ほほう、こちらに船を寄せない気か。そういう事なら考えがある。鉄砲ー!!!」
船に向かって射撃開始!「船を寄せねば鉄砲で撃ち沈める!」
船の者達当然ながら驚愕し、家康一行の前に船をつけると、家康は金銀を払い積荷の薪をすべて捨てさせ、
これに家康及び共の者達全員を乗せ対岸まで渡った。この時本多忠勝一人残り、対岸まで行った船が
帰ってくるのを待ってこれに乗り、向こう岸につくと同時に、かの名槍蜻蛉切の石突で、二艘の船艇を
突き破り、「これでよし!」と先に進んだ。
こうして井出の里にまで行き玉水において
「この辺りを案内できるものを捕らえてきました!!!」
何人目かの不幸な犠牲者のおかげで宇治田原まで着く。その先を尋ねると「み、水口越は難所であり、
敵がもし人数を置けばどうにも出来ません」と言うので、多羅尾谷まで進んだ。
ここで多羅尾の何某と言う者が家康の到来を大いに喜び、我が館に是非入ってくださいと言ってきた。
しかるに酒井ら、当然ながらこれを疑い、「我々は今敵中にいるのだ。人の心も計りがたい。
いかにするべきか…」と悩んでいた所、忠勝は
「堺を出てから今日までの間に、我らはもはや、腰兵糧の他何もありません。至極難儀の時であります。
ここで多羅尾にもし殿に対する逆心があるのなら、彼の家に入らなくても我々を逃すことはありません。
何故ならこの様に疲れきった我々では、思うように働くことが難しいからです。
ならば多羅尾の折角の馳走を受けて、かの家で腰を懸けて、人馬の息を休めるべきでしょう。
なあに、万一多羅尾の態度が思わしくないものであれば、私が奴を捕らえてどうとでもしてやりますよ!」
これに一同「尤もだ」と、特に最期の一節に納得しこの家に入ると、彼は無二の持て成しをし、
これにより家康一行、疲れから回復することが出来た。家康は多羅尾に礼として自らの刀を与えた。
ここより伊賀越をし、ここで服部半蔵支配の甲賀者たちが家康のもとに参上し身辺を守り、そのため
難なく伊勢浦に到着し、ここより船に乗って三河へと御帰陣された。
(武野燭談)
神君伊賀越え、本多忠勝大暴れの一席である
0243人間七七四年
2012/11/06(火) 22:20:24.39ID:bajq3D940244人間七七四年
2012/11/06(火) 22:45:49.82ID:lHGmkg1G色々と何かがアレだが一応誰も切ってないあたりが別件の四天王とは違う・・・よね?
0245人間七七四年
2012/11/06(火) 23:07:20.97ID:R1nwenVcあれ実話なんじゃないかな
0246人間七七四年
2012/11/06(火) 23:29:11.51ID:dAtxtflh0247人間七七四年
2012/11/07(水) 00:55:34.50ID:2cin/Vnm0249人間七七四年
2012/11/07(水) 03:05:36.69ID:qZT1KT+Fこれ、浅草の遊山茶屋って要は遊廓遊びに行ったんだよな
>>240
宗茂さんは遊廓遊びしにいかないだろうな
遊廓がこの世にあることも知らなそう
あくまでイメージだが
0250人間七七四年
2012/11/07(水) 06:53:22.06ID:XDwDyiyJ0251人間七七四年
2012/11/07(水) 10:41:01.27ID:UEmzXKb/どうしてこうなるんだろ
0252人間七七四年
2012/11/07(水) 12:15:07.80ID:DW3pQ4EZ0253人間七七四年
2012/11/07(水) 13:18:03.94ID:CVlBjGwt0254人間七七四年
2012/11/07(水) 13:19:49.46ID:2NZgsIy/0255人間七七四年
2012/11/07(水) 13:30:07.82ID:DW3pQ4EZ0256人間七七四年
2012/11/07(水) 13:41:49.35ID:/cqAsKIk0257人間七七四年
2012/11/07(水) 18:21:14.07ID:MXd1EikK0258人間七七四年
2012/11/07(水) 18:39:11.03ID:1MKNYYaI烏丸光広が江戸より帰るという時に留守の雑掌某は衆と謀って急に庭中の倉庫を
壊して光広が長年貯えてきた物を悉く家臣に分け与え、自分は一品も取らなかった。
ところが光広は帰ってきてもそのことを問わなかった。ある日、某は光広に
「公は長く江戸におられましたので突然狭い邸宅に帰られると憂鬱になられるのでは
と思いまして、倉を取り払って広くしておきました」と告げた。
光広はこれに「善し。中の物はどうした」と尋ね某は「悉く諸臣に分け与えました」
と言った。光広が続けて「もっとも善し。で、お前は何物を得たのか」と問うと、
某は「臣は一物をも受けませんでした」と言うので、光広はからからと笑って
「お前もまた迂な奴だな」と言った。
――『近古禅林叢談』
0259人間七七四年
2012/11/07(水) 18:44:16.53ID:Bu2CFIdU0260人間七七四年
2012/11/07(水) 19:49:51.43ID:O3O4Z4Xm他の逸話も含めて、なかなか興味深い人だな。
0261人間七七四年
2012/11/07(水) 20:03:14.61ID:n2lApPRX0262人間七七四年
2012/11/07(水) 20:38:26.56ID:ZKNX5nP70263人間七七四年
2012/11/07(水) 22:49:46.15ID:9b2203oE0267人間七七四年
2012/11/08(木) 20:07:02.36ID:j+XcMJcK忠勝:娘が美人と伝わる
おそらく、父親には似なかったんだろう
0268人間七七四年
2012/11/08(木) 20:15:09.33ID:yqc5oyur忠勝もそれなりにイケてたんだと思う
0269人間七七四年
2012/11/08(木) 20:41:15.51ID:6IH+EQ0J0270人間七七四年
2012/11/08(木) 21:41:51.76ID:++hr5nXk0271人間七七四年
2012/11/08(木) 22:09:28.05ID:yqc5oyur0272人間七七四年
2012/11/08(木) 22:22:32.73ID:Saa11suA北条方の土気城主酒井胤治は合戦の準備に手間取っていた。
というのも年の初めに急に合戦が始まったため、年始の行事と重なって大わらわになっていたのだ。
これに北条氏康は疑いを持ち始める。
「やる気がないのか?ひょっとして裏切る気なんじゃ…?」
この噂を耳にした胤治は頭にきた。
「今まで北条家に尽くしてきたのに疑われるとは!もういい、だったら里見につく!」
こうして胤治は里見方になってしまった。
一方上総にはもう一つ酒井家があった。
東金城主酒井敏房である。
彼は里見方として活動していたが、第二次国府台の合戦では北条有利とみて北条方に寝返っていた。
両酒井氏の交換トレード?な話
0273人間七七四年
2012/11/08(木) 23:31:56.09ID:nmbePeny0274人間七七四年
2012/11/08(木) 23:39:08.55ID:vjEutOzM敏房と胤治ははとこ同士なんだよね
0276人間七七四年
2012/11/08(木) 23:47:11.88ID:BIRB/1cl>本多忠勝。Honda Tadakatu. 「紙本著色本多忠勝像」関が原合戦後、描かせた肖像画。
>関が原合戦後、忠勝は争いの無い時代になり自分の活躍の場が無くなったことを嘆き、
>絵師にこの甲冑姿の自分の肖像を描く事を命じた、なお忠勝はこの肖像画を完成させるまでに
>7回〜8回やり直しさせたとも言われている。
>また、この肖像画を描くときに着用していた甲冑は現在も残っている。
0278人間七七四年
2012/11/08(木) 23:57:20.66ID:BIRB/1clhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6137.html
>正月も何も関係ありません!かつて大内家が崩壊するとき、日頼様(元就)は正月の儀式をとりやめられ
>弓矢を取ってご出陣成されました。
>逆に尼子経久は毛利に攻めいった時も正月の儀式をし、恐れながらこれにより我々は神風を得ました。
>こう見れば正月の儀式など、目出度いことではありません。
0279人間七七四年
2012/11/09(金) 00:00:47.22ID:Mh5PjjTAwikiに書いてなかったような…と思ったらば画像の解説のところね。気付かなかった。
書き直しさせたのか、てっきりまた伊勢越えみたいな「え?鬼武蔵?」的なエピでもあるのかとー
あー驚いた。
0281人間七七四年
2012/11/09(金) 00:14:18.67ID:NrUrR7Hv0282人間七七四年
2012/11/09(金) 00:24:34.61ID:qdavcUGo「総力特集 真田信之と幸村」
お兄ちゃんが先に来るのは珍しいから買ってしまった
ところで、それに載っていたんだが「加沢記」の
武田滅亡時、信幸が新府城から上州に家臣団と家族ひきつれて逃げた話って既出だっけ
(近代デジタルライブラリーの「加沢記」で確認済みだから雑誌の創作ではない)
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