戦国ちょっと悪い話34
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0001人間七七四年
2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0653人間七七四年
2012/12/05(水) 01:17:42.66ID:EIqB+a1o0658人間七七四年
2012/12/05(水) 03:31:59.13ID:7oZ/i2bJ俺らも笑ったwww
0659人間七七四年
2012/12/05(水) 18:35:32.10ID:IGvxYZE00660人間七七四年
2012/12/05(水) 19:51:46.31ID:m2gTiIkH0661人間七七四年
2012/12/05(水) 20:18:47.06ID:9P1FqeYG「日本人の礼儀正しさパネェ」で締めくくる書き手の感性もスゴイな
0662人間七七四年
2012/12/05(水) 21:18:38.00ID:Qr7e9wQ/0663人間七七四年
2012/12/05(水) 21:39:39.49ID:/0Npa9i80664人間七七四年
2012/12/05(水) 23:45:34.05ID:+E8g/w+O一つになって万里小路へ一文字に押しかけ洪水が入り込んだ。洛中はさながら
河原のようになり、訴えがあったので検断人・伊澤新右衛門の同心・岡部忠兵衛が
奉行として普請を務めた。
人々は土俵を築き立てて井関を組み、雲霞の如く南北に馳せ群がって働いていたところ、
ある四十歳ほどの男が精根尽きて、堤の下の柳の陰で東を見渡して伏していた。
これを見つけた岡部は杖で男の背中をひどく突いて「こんなにも皆が隙なく相働き、
休む間もない普請だというのに伏せておるとは物臭き曲者め。とっとと立ち上がれ!」
と、男を睨んだ。
すると男は「今朝より人一倍働きましたので精根尽きて休んでおります。
それを泥杖で突っかかる方こそ曲者じゃ」と言い返した。それを聞いて岡部が
「何という狼藉を言うのだ!」と重ねて杖で打ったが、二打目に男は
腰の一尺と五、六寸の打刀を引き抜き、弓手の脇腹を彼方へ通れと突き刺したので
岡部は二言と言わずに死んでしまった。そして男もまた大肌を脱いで土俵の上に腰掛け、
腹を十文字に切った。
この一件が松永の耳に入り、松永は「日本一の不覚者め。物頭だからと下を侮る者が
必ずこのような怪我をするのは度々の習いだ。同心は自身のせいで、使用人は運が
尽きたためにまったくの犬死をしてしまった」と散々に立腹して伊澤を呼び
「重ねて起こりうることなれば、同心たちによくよく言い付けよ。彼らの恥は松永の恥だ」
と、怒った。
――『室町殿物語』
松永は平蜘蛛の人かな?
0668人間七七四年
2012/12/06(木) 20:43:26.97ID:2PduHpomであったので秀次の気に応じ段々と大身になっていった。ところが後には
秀次謀叛の一味となって諸々の悪逆をなし、ついには秀吉を殺害しようと
伏見城へ潜入した。
しかし叶い難く空しく帰ろうという時に残念だからと、証拠に秀吉の
秘蔵していた水指の蓋を盗み取り持ち帰った。そのような人だったので、
毎夜秀次の寝所で密談しているのを人に怪しまれることを恐れ、女乗物で
城中に出入りした。
これらのことが露見したために秀次は生害、常陸介とその子志摩はともに
京都寺町正行寺で切腹した。
――『良将言行録』
0669人間七七四年
2012/12/06(木) 21:35:51.97ID:zpDC8OmD俺も思った。身なりの悪そうな奴をなめてかかったのかと思ったら
服着て帯刀してる人間を杖でぶん殴って罵倒したんだな
ブラック企業の上司みたいな奴だな
0670人間七七四年
2012/12/06(木) 21:48:28.74ID:FWiPdoP8時代劇では身分が分かりやすいように刀差してるのは武士だけになってるけど。
0671人間七七四年
2012/12/06(木) 22:01:51.73ID:HkcDNvVH身分より梅雨時に土木作業で疲れてぶっ倒れてる状況から
0672人間七七四年
2012/12/07(金) 15:22:15.25ID:QHW+2xZx芸事などなにをやってもうまかった。
なかでも博打にかけては西目第一と評判であった。
一度他国へ行き博打をやったので問題になったが、
その器量を惜しまれ側役として使われ続けていた。
しかしその後、往来札を手に入れ長崎へ行き、
博打で大量の金銀を手にし屋敷を買い、
しょっちゅう丸山の遊廓へ遊びに行くということをやった。
これが城中まで聞こえるようになったので、
城から捕手が派遣され源左衛門は裁きにかけられ切腹ときまった。
そして切腹当日、源左衛門は介錯人に向かい、
「この源左衛門自身で十分に腹を切るから、
私が、首を打ってくれと合図するまでなにもしなくてよい。
もし合図せぬうちから斬ったりしたら、
そなたの七代先までも呪い殺してくれようぞ」
と言って睨みつけた。介錯人は、
「安心してくれ。その方の満足行くまで待つ」
と答えた。
さて源左衛門は、腹を木綿でしっかりと巻きつけると、
そのまま腹を十文字にかいた。
腸が切り口から出てきたとき顔色が少し青ざめたが、
しばらく目を閉じ、手鏡を取出し自分の顔色をながめた後、
検使に、紙と硯を持ってきてくれと頼んだ。
このとき介錯人が、
「・・・もう、よかろう?」
と声をかけたが、源左衛門は目を見開き、
「いや、まだ終われぬ」
と言って、受けとった紙に、
腰抜けと 言うた伯父め くそくらへ
死んだる跡で 思ひしるべし
と書き付け、自分の家来に、
「辞世だ。これを伯父に見せてやれ」
と言い渡し、介錯人に合図し、首を打たせたとのことだ 【葉隠】
0673人間七七四年
2012/12/07(金) 18:01:56.53ID:B/BGYKq5微妙な手際の悪さまで真似せず辞世は腹切るより先に書けw
0674人間七七四年
2012/12/07(金) 18:09:19.89ID:yLM/ghgwと思いつつ読み直したら硯も要求してた
しかしこれ外聞が悪いって理由で切腹なのかしら
0676人間七七四年
2012/12/07(金) 20:27:35.74ID:eKuJ8wS20677人間七七四年
2012/12/07(金) 20:28:24.15ID:eKuJ8wS20678人間七七四年
2012/12/07(金) 20:38:12.26ID:JUiaU8f2ヨナンズア(米沢)の町に到着するには、この日と金曜日の両日かかった。
カングイカス(景勝)殿が同地の領主である。しかし皇帝(徳川家康)が帝国の支配権を求めて戦争をしていた
その時に、その友好陣営にいなかったので、皇帝は彼を幽閉し、二百万石以上を取り上げ、子供らを江戸で人質に取った。
この町に到着する前に、領内入国の許可を求めて皇太子(秀忠)に書簡と到着の知らせを通訳とともに送った。
直ちに彼は必要な物と宿の用意を命じ、あたかも自分の家に入るように入国して良い、と言ってきた。
そして我々は、到着後の訪問とその御手への接吻を許されるよう求めた。
それに対し景勝殿の返答は
『都合の良い時にそうしよう。しかしし現在、少々不調である。もっと有り体に言えば
皇帝が自分から領地を取り上げたので気鬱の病にかかっている』
と言ってきた。これを知って司令官は彼に面会しないことにした。
何故なら先程も私が述べたように、諸侯への面会は物入りで、しかも何か贈り物をするからには
相当のものでなければならないのだ。
そういう訳で(景勝をスルーし)旅を続ける許可を求め、彼はそれを許可し、自分の領地内では何処にても
必要な物はなんなりと無償で用意せよ、と家来に命じた。
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)
関ヶ原後、景勝が鬱だったらしい事と、それをこれ幸いと対面スルーに利用したスペイン使節の記録である。
0679人間七七四年
2012/12/07(金) 21:43:50.14ID:kbzzmrWJ0680人間七七四年
2012/12/08(土) 01:35:54.53ID:qMHWH+Hs世界にその名が知られるのは当然だ。
都は大変広々とした平野にあるが、この地に住む人間が大勢なのでその必要がある。80万を越すとの証言もある。
人口については様々な説を聞き、40万というものもあったが、少なくとも30万は居る。とにかく絶対確かなことは、
世界で知られている都市でこれより大きい所はないということだ。
端から端まで10レグアを城壁が取り囲んでおり、朝の7時から夕べの祈りの時間(午後6時)まで、正午に1時間
休憩しただけで歩き続けたが、それでも最初の家群の域から出られなかった。
この町には、日本の王である内裏(天皇)が住んでいる。彼は別名『ボイ』(不明)と呼ばれる。
この王は日本の初めの始まりから直径継承されてきた。日本では王や領主は人目に触れず、ひとと交わらないのが
威厳と考えられているので、常にここに閉じこもって来た。
法的には日本諸国の統治権は彼に帰すが、少し前、太閤様(秀吉)がこの王国に立ち、全ての殿と領主を
武力で彼に服従させたので、この生まれながらの王である内裏は名目のみ残している。
彼は皇帝(徳川家康)自身やこの国の大身の者に権威や官爵の授与を行う。その為の日(除目の日)が
決まっており、当日には全ての者が彼に目通りを求め、各自爵位を示す記章をつけて馳せ参じる。
また「ボンソ」(坊主)と呼ばれる偶像の司祭らにも位階や称号を授与する。ボンソにとって彼は教主であり
最高の司祭なのだ。
皇帝のみが最初の除目の時を除いてこの認証式に来るのを免れる。この(最初の除目の)時ばかりはやむを得ない。
外目に触れる行為や儀式では、皇帝は常にこの内裏に非常に敬意を表し、上席を与える。
この事は良いが、後は彼に許されるのはわずかでしか無い。ほとんど生計の術を持たないのだ。
都のこの町で、内裏が住む宮殿は贅を極め、皇太子(秀忠)や皇帝の城に比肩しうるという。
最も私はこれを見たことがない。というのは、今述べたその日でないと誰の目にも触れさせず、王宮からも出てこない。
この町の奉行所も、王宮の門より内側には統治の手段も権限も何もないからだ。
(1609年 ドン・ロドリゴ・デ・ビエロ旅行報告書)
江戸初期の、京都と天皇についてのスペイン人による記録である。
0681人間七七四年
2012/12/08(土) 01:50:53.29ID:+Vk4vNwxうん、ぱっと見どころかしげしげと見てもさっぱりだw
0682人間七七四年
2012/12/08(土) 02:44:00.46ID:n1yEdEyf0683人間七七四年
2012/12/08(土) 03:42:25.47ID:uEUz6gsd0684人間七七四年
2012/12/08(土) 06:37:16.58ID:2xUxGqyy後のググレカスである
0686人間七七四年
2012/12/08(土) 09:19:15.71ID:gj2beKTx0687人間七七四年
2012/12/08(土) 10:01:36.24ID:ExodO2E60688人間七七四年
2012/12/08(土) 11:26:00.38ID:tZoqLLYXこういった権力の二重構造に関しては元々造詣深いんじゃなかろうか
0690人間七七四年
2012/12/09(日) 01:29:53.67ID:AVZPFXC+サッカーとS○Xと闘牛に宗教に関心を寄せるのがスペイン人
似てるようでちと違う
0691人間七七四年
2012/12/09(日) 02:33:17.66ID:b4U4/JMy(゚ー゚*) (゚∀゚*) (゚ー゚∪
ノヽ~ノヽ ノヽ~ノヽ ノヽ~ノ゛ヽ,
ん † ) ん † ) ん † )
丿 八 ゝ 丿 八 ゝ 丿 八 ゝ
U〜U U〜U U〜U
0692人間七七四年
2012/12/09(日) 10:51:41.07ID:FULY31Rh0693人間七七四年
2012/12/09(日) 20:52:47.03ID:lonx9/Um0694人間七七四年
2012/12/09(日) 23:27:30.44ID:++36dTkK0695人間七七四年
2012/12/09(日) 23:29:24.96ID:JNn1KvZV身の安全は保障すると約束して行長の息子を預かった輝元であったが、もっと安全な所へ移す、
と嘘を言って小西行長の息子を連れ出して処刑し、その首を家康の元へ送ってしまった。
差し出された首を見た家康は「行長の息子には何の罪もないから命まで奪うつもりはなかったのに
なぜ勝手に処刑したのか」と激怒した
輝元の使者は「これは処刑したのではなく、観念した行長の息子が勝手に切腹したのです」と
言い訳してようやく家康に納得してもらったが、後になって嘘がばれたので批判の的となった
(イエズス会年報集)
0696人間七七四年
2012/12/09(日) 23:42:25.03ID:j+MiCoAF負け組のしかも首魁で匿えってのは無理があるし、
かといって差し出したら卑怯な振る舞いと言われるだろうし…。
自業自得だが詰んでるな。
結果的には、輝元の能力的にも悪くない対応のように思う。
0697人間七七四年
2012/12/09(日) 23:43:39.50ID:Sjj0jjjW0698人間七七四年
2012/12/10(月) 00:31:34.84ID:jMQkfFyF0699人間七七四年
2012/12/10(月) 01:24:29.74ID:BZUKfJ7Z0700人間七七四年
2012/12/10(月) 07:56:42.94ID:OII7mYAN0701人間七七四年
2012/12/10(月) 11:22:10.71ID:oFcJsWTt名前が伝わっていないのは元服前だったからだろうか
0702人間七七四年
2012/12/10(月) 11:52:15.79ID:TctNXsqN秀頼の息子の国松も8歳で処刑されてるし
0703人間七七四年
2012/12/10(月) 12:52:07.85ID:oFcJsWTt京都所司代を通じて助命嘆願した結果、許されたそうだ
そうなると、小西行長の息子も生きたまま差し出されていれば助命された可能性はあった
0704人間七七四年
2012/12/10(月) 12:59:38.64ID:x6hnXt3j主犯は5大老と5奉行だった毛利、宇喜多、石田ぐらいで
小西は石田と親しくて関ヶ原で主力のひとつだったから罪を問われた感じだが、
でも斬首はちと重すぎるような。
0705人間七七四年
2012/12/10(月) 13:05:21.54ID:RVidLukH小西行長の子供なんてわざわざ殺す程の存在じゃない。
0706人間七七四年
2012/12/10(月) 13:28:25.74ID:zzZWxi3A小西行長と豊臣秀頼の格は言うまでも無い
0707人間七七四年
2012/12/10(月) 13:55:56.57ID:WR8vgCU3本州の端っこ同士なのにこの差はなんなのだろうか
0708人間七七四年
2012/12/10(月) 14:57:27.39ID:/JzyJ5vkTERUだし
0709人間七七四年
2012/12/10(月) 16:07:56.04ID:FrV9HigX0710人間七七四年
2012/12/10(月) 17:13:24.85ID:DH1GjqF/0711人間七七四年
2012/12/10(月) 17:52:18.61ID:VNKcRzxX0712人間七七四年
2012/12/10(月) 19:15:24.22ID:thJISNUt西軍の首魁で一番幕府から睨まれてる立場で匿うのは難しいからな。
それでなくても家の取り潰しが見えてる状況で津軽などとは違うし。
差し出した小西息子がテルの更なる策謀を証言しました、
とか徳川側に主張される可能性もある訳だし、
死人に口無しは口実与えない観点からは考えられない訳じゃない。
…まぁ単純に先走っただけだと思うけど、テルだし。
0713人間七七四年
2012/12/10(月) 20:20:54.21ID:VNKcRzxX筋目を通して匿うってんならそれはそれで良かった。
「ああ、アイツはそういう思考なんだ」ってことでコントロールする方法が分かる。
逆に行動原理の読めない対応は外交において最悪。何しでかすか分からん以上は厳しく押さえつけるしかない。
関ヶ原以前からそうだったから今更どうなるもんでもないけど、大減封を食らった原因はそこなんだろう。
0714人間七七四年
2012/12/10(月) 20:30:38.25ID:GYalCcg6近衛信尹の日記には修正部分が多いが、その中の透けて解読できる部分、天正19年3月の部分に
「毛利輝元は片目である、伊達政宗も片目である、殿下は(以前)小者だか今は殿上人で彼も小者である」
と記されている
この殿下は秀吉に相違なく、ここでは輝元と秀吉が片目だったとしている
信尹の日記は他にも欠損部分が多く、例えば関ヶ原合戦前後は丸々無くなっている
日記も正直に書きすぎると抹消されてしまうのである
0715人間七七四年
2012/12/10(月) 20:31:27.78ID:GYalCcg6訂正
「毛利輝元は片目である、伊達政宗も片目である、殿下は(以前)小者だか今は勿論殿上人で彼も片目である」
0716人間七七四年
2012/12/10(月) 20:39:17.71ID:cHrP/gax武田信玄は駿河方面を警戒していた北條の隙をつき、小田原衆の思いもよらない方角から笛吹峠を超えて、
武蔵国江戸の葛西に懸り、人数を二手に分けて小田原へと寄せた。
一手は八王子口より町田に懸り、つく井・滝山を攻める体にて道筋で略奪をした。
一手は江戸城を攻める体にて、江戸・品川・縄島あたりを焼いて民家を略奪した。
ここに奇妙なことがあった。
信玄の侍に竹森、花村という者があったが、この二人は品川の観音堂を焼き、本尊を取り財貨を略奪した。
ところが甲州に帰った後、かの観音の仏罰が当たり、彼らは突然錯乱した。
このため彼らは観音を他所に移したが、それでもまた錯乱を起こした。
これを持て余した彼らは、往来の乞食聖に、観音を品川に返してくれるよう頼み込んだ。
この観音はこのご3年いろいろな不思議を現し、品川に自ら帰るという宣託を下され、実際に品川に帰られた。
誠に末世の不思議である。
しかし品川に帰られたものの、御堂も焼けどこにも据える場所がなく、乱世の事でもあったので、
新たに建立する者もなく、路の傍らに乞食法師らが仮の草堂を作ってそこに安置した。
今も品川の森の側に辻堂が見えるが、それこそこの観音である。
(關侍傳記)
0717人間七七四年
2012/12/10(月) 20:49:09.14ID:thJISNUtその仮説は結果を知って言える事であって、
当時の情報に制限がある中で、
筋目を通せば大丈夫、と判断しろってのは厳しすぎるだろw
所詮仮説に過ぎず、実際大丈夫でなかった可能性も否定できないとなればなおさらやね。
0718人間七七四年
2012/12/10(月) 21:12:23.26ID:HOQQS3kyhttp://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1355133116/
0720人間七七四年
2012/12/10(月) 22:12:43.72ID:lNZYo2C4「権左衛門よくまいった。まだ組討ち始めをしておらぬ。
その方、ワシの打たれ方をつとめてくれ。」
と山城守殿が申されると、権左衛門は、
「打たれ方のみならばお断りします。
私にも打ち方をやらせてくださるならお相手いたしましょう」
と言った。
「それでよい」
と山城守殿も約束を交わして組討ちを始めた。
さて、大剛で有名な山城守殿は権左衛門を力いっぱい組み伏せ、
それを終えるとさっさと席に戻ろうとされた。
権左衛門が、
「侍同士の約束をお破りになられますか」
と言ってひきとめると、山城守殿は仕方なく、
「立場というものがある。簡単にすませてくれ」
と言って受け方となられたところを、
権左衛門は力まかせに組み伏せて痛めつけた。
力で勝る山城守殿は、それを跳ね返そうとなさったが、
権左衛門は脇差を引き抜いてそれを首筋に当て、
「戦場で鎧武者を相手にする時はこのようにいたします」
と言って、びくとも動かせなかったとのことだ 【葉隠】
0721人間七七四年
2012/12/10(月) 23:32:19.25ID:g2Ubxt+2この主従は年始のたびに何をしとるんじゃ
0723人間七七四年
2012/12/11(火) 01:45:30.97ID:GjqladoG将軍からの偏諱だからかぶるのは当たり前だが
0730人間七七四年
2012/12/11(火) 17:27:36.29ID:r5+UWTJFそれを解ってたハズなのに途中から誰も期待してない頑固さを貫くあたり
野田首相に似ている。
0731人間七七四年
2012/12/11(火) 18:03:57.46ID:hyrqZ8PA西軍があまりに弱すぎて計算が狂っちゃったってだけでしょ。
0732人間七七四年
2012/12/11(火) 18:20:19.99ID:MDsAJeiJ0733人間七七四年
2012/12/11(火) 19:11:02.06ID:wxaMRhDt0736人間七七四年
2012/12/11(火) 19:39:16.54ID:PpQD1IgIそういう状況だったら家康も秀忠と合流するだろうし
0737人間七七四年
2012/12/11(火) 21:06:57.64ID:OI4os2Ea誰も期待してない頑固さを貫ているのは
石田の方じゃね
家康討伐なんて誰も望んでなかったわけだし
>>734
吉川と小早川のせいで負けた戦なんて関ヶ原以外であったか?
普通に敵勢力を攻めて勝利しているし
むしろ石田たち首脳陣のちんたらした対応の方が弱さの原因じゃね
0738人間七七四年
2012/12/11(火) 21:42:28.69ID:wMrRmq/aもはや毛利一門というより豊臣一門なのが関が原当時の小早川だしなあ
毛利・吉川・安国寺と別に考えるべきだと思うぞ
0740人間七七四年
2012/12/12(水) 05:29:13.12ID:/eJrE2dz信玄は大宮通に討って出てあつばらを過ぎて加島へ進出し、悉く放火して富士川を渡り、岩淵の宿を焼いて
蒲原へ押し寄せた。
蒲原には北條新三郎が籠っていたが、当時駿河方面の北條方は、信玄の小田原侵入の煽りを受けて
小田原に集まっており、蒲原に残るものは少数であった。
このため甲州勢は、『きっと聞落(軍勢が迫るのを聞いただけで自落する)』と侮っていた。
しかし北條新三郎は少しも怯まず、信玄が城を取り巻き、徐々に攻め寄せると、新三郎は弟の少将をここに留め、
自身は狩野新八郎と共に出撃し、甲州勢を悉く追い立て、信玄の近臣・小幡弾正を初めとして悉く討ち取った。
ところが、である。蒲原城内に武田に内通したものがあり、これが甲州勢を城内に引き入れてしまった。
出撃していた北條新三郎・狩野新八郎・新三郎弟少将・渡邊以下三百余人、城に引き返し一人も残らず斬死した。
この新三郎という人は、北條一門でも優れた勇者であり、氏康に特に評価され、人も多い中に、この地域の拠点である
蒲原城を任されたほどの人であった。
ところがこの不慮の討ち死にに、最期に大きな怨念を持ち、霊鬼となってこの蒲原の山に留まった。
樵夫・刈草の童は、これを見て恐れること限りないほどであった。
天正の頃、この山に居住する僧があったが、新三郎の霊はこの僧の元に訪れ物語などをしていた。
ある時僧が、「あなたは何者ですか?」と問えば、「私は北條新三郎の亡魂である」と言って、たちまち煙のように
消えてしまった。
今でも蒲原の住人は、この新三郎の霊に遭う事があるのだという。
(關侍傳記)
0741人間七七四年
2012/12/12(水) 08:52:21.29ID:gQv2B+4w関ヶ原の西軍自体が一日持たずに蹂躙されてるから
広家のせいにしてよいのかさえ疑問。
軍記物と違って兵数に大差があったんじゃなかろうか。
0743人間七七四年
2012/12/12(水) 09:28:04.31ID:DJa15wa9秀吉が死んで戦国の世に逆戻りするところをうまく回避できたのはぶっちゃけ輝元のおかげだったりする。
0745人間七七四年
2012/12/12(水) 15:21:51.00ID:j+rWurv3長男は夭折して、残った次男三男はここで討死に
幻庵じいさまの息子はこれで全員死んじゃった事になる
せめて兄と弟は別の城に置いてやれよ、って気がする
0746人間七七四年
2012/12/12(水) 18:18:09.79ID:qa/7RCob同じ死ぬなら兄弟共に一箇所で斬死にを、て考えなのかな。
兄弟がそう願ったのか上の配置なのかは分からんが。
0747人間七七四年
2012/12/12(水) 18:22:55.85ID:zdNSsK1S0748人間七七四年
2012/12/12(水) 18:26:29.60ID:p8wEpweF0749人間七七四年
2012/12/12(水) 20:14:11.62ID:R9HsZojG0750人間七七四年
2012/12/12(水) 22:13:28.08ID:3HxTAQSD鍋島屋敷内で石井杢之助と大小の刀を賭けて博打をした。
このことが上役まで知れて、両者は切腹、
居間番だった松野喜兵衛は死罪と決まった。
甚左衛門は国に召し返された後、牢屋へと入れられた。
甚左衛門は御家老たちによるお調べに、
「私は自分の行った悪事で牢屋に入り、
やがて処罰が決定されるのを待つだけです。
思い残すことはなにもありません。
しかし一つだけ無念なことがあり昼夜口惜しい思いをしています。
それは何かというと、牢屋の樋の下を鎖で縛ってあることです。
武士でもこのような身におちると、
樋の下をもぐって逃げ出すかもしれないと思われたこと、
これだけが残念で仕方ありません。」
と申し上げた。
しばらくして甚左衛門の処罰も近くなり身柄が寺へ移された。
そこへ藤井嘉平次が酒と小芋を持って見舞いに訪れ、
甚左衛門と酒を酌み交わし、小芋を二人で食べた。
小芋を食べながら甚左衛門が呟く。
「これは喉から出るかな(介錯されると)」
嘉平次が、
「出るわけがない」
と言うと、甚左衛門は、
「いや、胸が詰まって喉を通らぬのだ。
斬られたとき芋が見えたら見苦しいだろう」
と言い、食べるのを止めた。
そして嘉平次に向かい、
「オレはひとかどの口を利いた武士だが、
いま思い返してみると、やはり腰抜けだ。
死場で死にきれず這い回る姿を見せてしまえば、
普段の振る舞いに対して恥ずかしいから、
正直なところ、早く処刑してほしい。
剛の者は死場でも普段と変わらないと言うが、
オレは昨日まで死ぬことなどなんとも思わなかったが、
寺に移されてからなんとなく変わるものがあり、・・・無念である」
と言った。介錯は大塚貞助。
死にぎわは極めて見事だった、と嘉平次の話だ 【葉隠】
0751人間七七四年
2012/12/13(木) 05:16:00.91ID:SpqHlJrPまあ、出世競争の面があるのかもしれない
失点したやつは確実に潰しておくと
0752人間七七四年
2012/12/13(木) 05:37:36.86ID:N0woZZw4居間番には切腹を認めないのが武家の倫理感だな
やらかした者より、見てみぬふりした者のほうが罪が重いという。。。
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