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戦国ちょっと悪い話34

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0001人間七七四年2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0653人間七七四年2012/12/05(水) 01:17:42.66ID:EIqB+a1o
政宗はやっぱり政宗だな
0654人間七七四年2012/12/05(水) 01:26:42.43ID:TTtEEGZr
>>653
いわゆる盛るってヤツだろ
0655人間七七四年2012/12/05(水) 01:28:34.56ID:TTtEEGZr
>>652だった('A`)
0656人間七七四年2012/12/05(水) 01:57:29.39ID:9mr03swj
>>642
他人に迷惑をかけるのが本当に大好きだなこいつはw
0657人間七七四年2012/12/05(水) 02:26:51.44ID:MnFKf6ZI
>>654
特盛りですな。盛ったのはやはりあの人か…。
0658人間七七四年2012/12/05(水) 03:31:59.13ID:7oZ/i2bJ
>この事態はこの紳士(政宗)を大喜びさせ、彼 は死ぬほど笑った。
俺らも笑ったwww
0659人間七七四年2012/12/05(水) 18:35:32.10ID:IGvxYZE0
相変わらず好奇心旺盛だな
0660人間七七四年2012/12/05(水) 19:51:46.31ID:m2gTiIkH
四百年後の人間さえも笑わすキャラはそうそう無いぞ
0661人間七七四年2012/12/05(水) 20:18:47.06ID:9P1FqeYG
どう見ても政宗のDQNエピソードに読めるんだが
「日本人の礼儀正しさパネェ」で締めくくる書き手の感性もスゴイな
0662人間七七四年2012/12/05(水) 21:18:38.00ID:Qr7e9wQ/
政宗がいつも通りで安心した
0663人間七七四年2012/12/05(水) 21:39:39.49ID:/0Npa9i8
紳士…か
0664人間七七四年2012/12/05(水) 23:45:34.05ID:+E8g/w+O
五月三日、五月雨が晴れ間もなく朝から暮れまで降り続け、加茂川・貴布禰川が
一つになって万里小路へ一文字に押しかけ洪水が入り込んだ。洛中はさながら
河原のようになり、訴えがあったので検断人・伊澤新右衛門の同心・岡部忠兵衛が
奉行として普請を務めた。

人々は土俵を築き立てて井関を組み、雲霞の如く南北に馳せ群がって働いていたところ、
ある四十歳ほどの男が精根尽きて、堤の下の柳の陰で東を見渡して伏していた。
これを見つけた岡部は杖で男の背中をひどく突いて「こんなにも皆が隙なく相働き、
休む間もない普請だというのに伏せておるとは物臭き曲者め。とっとと立ち上がれ!」
と、男を睨んだ。

すると男は「今朝より人一倍働きましたので精根尽きて休んでおります。
それを泥杖で突っかかる方こそ曲者じゃ」と言い返した。それを聞いて岡部が
「何という狼藉を言うのだ!」と重ねて杖で打ったが、二打目に男は
腰の一尺と五、六寸の打刀を引き抜き、弓手の脇腹を彼方へ通れと突き刺したので
岡部は二言と言わずに死んでしまった。そして男もまた大肌を脱いで土俵の上に腰掛け、
腹を十文字に切った。

この一件が松永の耳に入り、松永は「日本一の不覚者め。物頭だからと下を侮る者が
必ずこのような怪我をするのは度々の習いだ。同心は自身のせいで、使用人は運が
尽きたためにまったくの犬死をしてしまった」と散々に立腹して伊澤を呼び
「重ねて起こりうることなれば、同心たちによくよく言い付けよ。彼らの恥は松永の恥だ」
と、怒った。

――『室町殿物語』

松永は平蜘蛛の人かな?
0665人間七七四年2012/12/06(木) 01:05:39.07ID:RTH1T+TZ
>>663

ひょっとしたら本来の意味のジェントリー(郷紳)だったりして。 戦国日本だと国人相当かしら?
0666人間七七四年2012/12/06(木) 08:11:25.37ID:7NchS0F0
>>665
国人というより土豪なんじゃ?
0667人間七七四年2012/12/06(木) 10:02:17.05ID:tphg29US
>>664
ふんどし一丁かと思ったら服着て腰に刀挿してたのか
0668人間七七四年2012/12/06(木) 20:43:26.97ID:2PduHpom
木村常陸介は豊臣秀吉より関白秀次に附けられた。元来奸智の深い者
であったので秀次の気に応じ段々と大身になっていった。ところが後には
秀次謀叛の一味となって諸々の悪逆をなし、ついには秀吉を殺害しようと
伏見城へ潜入した。

しかし叶い難く空しく帰ろうという時に残念だからと、証拠に秀吉の
秘蔵していた水指の蓋を盗み取り持ち帰った。そのような人だったので、
毎夜秀次の寝所で密談しているのを人に怪しまれることを恐れ、女乗物で
城中に出入りした。

これらのことが露見したために秀次は生害、常陸介とその子志摩はともに
京都寺町正行寺で切腹した。

――『良将言行録』
0669人間七七四年2012/12/06(木) 21:35:51.97ID:zpDC8OmD
>>667
俺も思った。身なりの悪そうな奴をなめてかかったのかと思ったら
服着て帯刀してる人間を杖でぶん殴って罵倒したんだな
ブラック企業の上司みたいな奴だな
0670人間七七四年2012/12/06(木) 21:48:28.74ID:FWiPdoP8
当時は百姓町人でもみんな普通に帯刀してて外見の差異はあんまり無いんだよ。
時代劇では身分が分かりやすいように刀差してるのは武士だけになってるけど。
0671人間七七四年2012/12/06(木) 22:01:51.73ID:HkcDNvVH
俺もほぼ裸のような格好想像したよ
身分より梅雨時に土木作業で疲れてぶっ倒れてる状況から
0672人間七七四年2012/12/07(金) 15:22:15.25ID:QHW+2xZx
野村源左衛門は器量すぐれた者で、
芸事などなにをやってもうまかった。
なかでも博打にかけては西目第一と評判であった。
一度他国へ行き博打をやったので問題になったが、
その器量を惜しまれ側役として使われ続けていた。
しかしその後、往来札を手に入れ長崎へ行き、
博打で大量の金銀を手にし屋敷を買い、
しょっちゅう丸山の遊廓へ遊びに行くということをやった。
これが城中まで聞こえるようになったので、
城から捕手が派遣され源左衛門は裁きにかけられ切腹ときまった。
そして切腹当日、源左衛門は介錯人に向かい、
「この源左衛門自身で十分に腹を切るから、
私が、首を打ってくれと合図するまでなにもしなくてよい。
もし合図せぬうちから斬ったりしたら、
そなたの七代先までも呪い殺してくれようぞ」
と言って睨みつけた。介錯人は、
「安心してくれ。その方の満足行くまで待つ」
と答えた。
さて源左衛門は、腹を木綿でしっかりと巻きつけると、
そのまま腹を十文字にかいた。
腸が切り口から出てきたとき顔色が少し青ざめたが、
しばらく目を閉じ、手鏡を取出し自分の顔色をながめた後、
検使に、紙と硯を持ってきてくれと頼んだ。
このとき介錯人が、
「・・・もう、よかろう?」
と声をかけたが、源左衛門は目を見開き、
「いや、まだ終われぬ」
と言って、受けとった紙に、

腰抜けと 言うた伯父め くそくらへ
死んだる跡で 思ひしるべし

と書き付け、自分の家来に、
「辞世だ。これを伯父に見せてやれ」
と言い渡し、介錯人に合図し、首を打たせたとのことだ 【葉隠】
0673人間七七四年2012/12/07(金) 18:01:56.53ID:B/BGYKq5
キリングマシーン日根野並の豪胆ぶりを示したかったんだろうが
微妙な手際の悪さまで真似せず辞世は腹切るより先に書けw
0674人間七七四年2012/12/07(金) 18:09:19.89ID:yLM/ghgw
血で書いたんだろー
と思いつつ読み直したら硯も要求してた

しかしこれ外聞が悪いって理由で切腹なのかしら
0675人間七七四年2012/12/07(金) 18:42:46.56ID:NXtL8whk
>>673
手際の悪さ含めてのラスト・パフォーマンスなんだから、許してやれよw
0676人間七七四年2012/12/07(金) 20:27:35.74ID:eKuJ8wS2
多分気絶せずに辞世書き付けるか誰かと掛けてたんだろう
0677人間七七四年2012/12/07(金) 20:28:24.15ID:eKuJ8wS2
掛けじゃなく賭けだ…
0678人間七七四年2012/12/07(金) 20:38:12.26ID:JUiaU8f2
カングイカス(景勝)殿領地、ヨナンズア(米沢)到着

ヨナンズア(米沢)の町に到着するには、この日と金曜日の両日かかった。
カングイカス(景勝)殿が同地の領主である。しかし皇帝(徳川家康)が帝国の支配権を求めて戦争をしていた
その時に、その友好陣営にいなかったので、皇帝は彼を幽閉し、二百万石以上を取り上げ、子供らを江戸で人質に取った。

この町に到着する前に、領内入国の許可を求めて皇太子(秀忠)に書簡と到着の知らせを通訳とともに送った。
直ちに彼は必要な物と宿の用意を命じ、あたかも自分の家に入るように入国して良い、と言ってきた。

そして我々は、到着後の訪問とその御手への接吻を許されるよう求めた。
それに対し景勝殿の返答は

『都合の良い時にそうしよう。しかしし現在、少々不調である。もっと有り体に言えば
皇帝が自分から領地を取り上げたので気鬱の病にかかっている』

と言ってきた。これを知って司令官は彼に面会しないことにした。
何故なら先程も私が述べたように、諸侯への面会は物入りで、しかも何か贈り物をするからには
相当のものでなければならないのだ。

そういう訳で(景勝をスルーし)旅を続ける許可を求め、彼はそれを許可し、自分の領地内では何処にても
必要な物はなんなりと無償で用意せよ、と家来に命じた。

(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)

関ヶ原後、景勝が鬱だったらしい事と、それをこれ幸いと対面スルーに利用したスペイン使節の記録である。
0679人間七七四年2012/12/07(金) 21:43:50.14ID:kbzzmrWJ
景勝って幽閉なんかされたっけかw
0680人間七七四年2012/12/08(土) 01:35:54.53ID:qMHWH+Hs
ついにある午後、都の望める所に着いた。都に関しては際立つ素晴らしさが数え上げられているので、
世界にその名が知られるのは当然だ。

都は大変広々とした平野にあるが、この地に住む人間が大勢なのでその必要がある。80万を越すとの証言もある。
人口については様々な説を聞き、40万というものもあったが、少なくとも30万は居る。とにかく絶対確かなことは、
世界で知られている都市でこれより大きい所はないということだ。

端から端まで10レグアを城壁が取り囲んでおり、朝の7時から夕べの祈りの時間(午後6時)まで、正午に1時間
休憩しただけで歩き続けたが、それでも最初の家群の域から出られなかった。

この町には、日本の王である内裏(天皇)が住んでいる。彼は別名『ボイ』(不明)と呼ばれる。
この王は日本の初めの始まりから直径継承されてきた。日本では王や領主は人目に触れず、ひとと交わらないのが
威厳と考えられているので、常にここに閉じこもって来た。

法的には日本諸国の統治権は彼に帰すが、少し前、太閤様(秀吉)がこの王国に立ち、全ての殿と領主を
武力で彼に服従させたので、この生まれながらの王である内裏は名目のみ残している。

彼は皇帝(徳川家康)自身やこの国の大身の者に権威や官爵の授与を行う。その為の日(除目の日)が
決まっており、当日には全ての者が彼に目通りを求め、各自爵位を示す記章をつけて馳せ参じる。
また「ボンソ」(坊主)と呼ばれる偶像の司祭らにも位階や称号を授与する。ボンソにとって彼は教主であり
最高の司祭なのだ。

皇帝のみが最初の除目の時を除いてこの認証式に来るのを免れる。この(最初の除目の)時ばかりはやむを得ない。
外目に触れる行為や儀式では、皇帝は常にこの内裏に非常に敬意を表し、上席を与える。
この事は良いが、後は彼に許されるのはわずかでしか無い。ほとんど生計の術を持たないのだ。

都のこの町で、内裏が住む宮殿は贅を極め、皇太子(秀忠)や皇帝の城に比肩しうるという。
最も私はこれを見たことがない。というのは、今述べたその日でないと誰の目にも触れさせず、王宮からも出てこない。
この町の奉行所も、王宮の門より内側には統治の手段も権限も何もないからだ。
(1609年 ドン・ロドリゴ・デ・ビエロ旅行報告書)

江戸初期の、京都と天皇についてのスペイン人による記録である。
0681人間七七四年2012/12/08(土) 01:50:53.29ID:+Vk4vNwx
カングイカス、ヨナンズア
うん、ぱっと見どころかしげしげと見てもさっぱりだw
0682人間七七四年2012/12/08(土) 02:44:00.46ID:n1yEdEyf
そこだけならイーハトーブと同じにおいがする
0683人間七七四年2012/12/08(土) 03:42:25.47ID:uEUz6gsd
東北弁だとそんな感じに聞こえるかもね >カングイカス、ヨナンズア
0684人間七七四年2012/12/08(土) 06:37:16.58ID:2xUxGqyy
カングイカス
後のググレカスである
0685人間七七四年2012/12/08(土) 07:33:02.32ID:5OyvkLr+
>>680
>彼は別名『ボイ』(不明)と呼ばれる。
これが気になる
0686人間七七四年2012/12/08(土) 09:19:15.71ID:gj2beKTx
スペイン人が日本の統治制度について結構理解してるのがすごいな。
0687人間七七四年2012/12/08(土) 10:01:36.24ID:ExodO2E6
スペイン人をなんだと思ってるんだw
0688人間七七四年2012/12/08(土) 11:26:00.38ID:tZoqLLYX
寧ろ皇帝・諸侯・教皇の闘争とかアナーニ事件とかみてるヨーロッパ人は
こういった権力の二重構造に関しては元々造詣深いんじゃなかろうか
0689人間七七四年2012/12/08(土) 22:27:53.77ID:OLCesmLg
>>687
サッカーとSE○にしか興味のないイタリア人みたいな連中だろw
0690人間七七四年2012/12/09(日) 01:29:53.67ID:AVZPFXC+
サッカーとS○Xと脱税と料理に関心と寄せるのがイタリア人
サッカーとS○Xと闘牛に宗教に関心を寄せるのがスペイン人

似てるようでちと違う
0691人間七七四年2012/12/09(日) 02:33:17.66ID:b4U4/JMy
    ∧ ∧  _丿⌒|_   o=oヽ
    (゚ー゚*)   (゚∀゚*)   (゚ー゚∪
    ノヽ~ノヽ  ノヽ~ノヽ   ノヽ~ノ゛ヽ,
   ん †  ) ん †  ) ん †  )  
    丿 八 ゝ 丿 八 ゝ  丿 八 ゝ  
    U〜U    U〜U    U〜U 
0692人間七七四年2012/12/09(日) 10:51:41.07ID:FULY31Rh
三河武士は何に心を寄せるんだろう?
0693人間七七四年2012/12/09(日) 20:52:47.03ID:lonx9/Um
殿と三河の二つじゃね?
0694人間七七四年2012/12/09(日) 23:27:30.44ID:++36dTkK
あとは海老すくいだな
0695人間七七四年2012/12/09(日) 23:29:24.96ID:JNn1KvZV
西軍の武将 小西行長が関ヶ原で敗れた時、彼の息子は毛利輝元の手によりかくまわれていた
身の安全は保障すると約束して行長の息子を預かった輝元であったが、もっと安全な所へ移す、
と嘘を言って小西行長の息子を連れ出して処刑し、その首を家康の元へ送ってしまった。
 差し出された首を見た家康は「行長の息子には何の罪もないから命まで奪うつもりはなかったのに
なぜ勝手に処刑したのか」と激怒した
 輝元の使者は「これは処刑したのではなく、観念した行長の息子が勝手に切腹したのです」と
言い訳してようやく家康に納得してもらったが、後になって嘘がばれたので批判の的となった
(イエズス会年報集)
0696人間七七四年2012/12/09(日) 23:42:25.03ID:j+MiCoAF
毛利も勝ち組なら匿えただろうけど、
負け組のしかも首魁で匿えってのは無理があるし、
かといって差し出したら卑怯な振る舞いと言われるだろうし…。
自業自得だが詰んでるな。
結果的には、輝元の能力的にも悪くない対応のように思う。
0697人間七七四年2012/12/09(日) 23:43:39.50ID:Sjj0jjjW
宇喜多秀家「薩摩に逃げてよかった」
0698人間七七四年2012/12/10(月) 00:31:34.84ID:jMQkfFyF
家康が行長を処刑したからからTERUが変に空気読んじゃったんだな
0699人間七七四年2012/12/10(月) 01:24:29.74ID:BZUKfJ7Z
西軍の末路はやりきれないわ
0700人間七七四年2012/12/10(月) 07:56:42.94ID:OII7mYAN
TERUは全くあてにならん男だなぁ
0701人間七七四年2012/12/10(月) 11:22:10.71ID:oFcJsWTt
小西行長の息子は関ヶ原当時まだ12歳の少年だったようだ
名前が伝わっていないのは元服前だったからだろうか
0702人間七七四年2012/12/10(月) 11:52:15.79ID:TctNXsqN
多分行長の息子生きたまま家康に差し出しても首はねてたと思うよ
秀頼の息子の国松も8歳で処刑されてるし
0703人間七七四年2012/12/10(月) 12:52:07.85ID:oFcJsWTt
石田三成の14歳になる息子の石田重家は関ヶ原の敗戦後に出家し、
京都所司代を通じて助命嘆願した結果、許されたそうだ
そうなると、小西行長の息子も生きたまま差し出されていれば助命された可能性はあった
0704人間七七四年2012/12/10(月) 12:59:38.64ID:x6hnXt3j
そもそも小西行長って主犯格だっけ?
主犯は5大老と5奉行だった毛利、宇喜多、石田ぐらいで
小西は石田と親しくて関ヶ原で主力のひとつだったから罪を問われた感じだが、
でも斬首はちと重すぎるような。
0705人間七七四年2012/12/10(月) 13:05:21.54ID:RVidLukH
国松と小西行長の子供じゃ全然違うだろう。
小西行長の子供なんてわざわざ殺す程の存在じゃない。
0706人間七七四年2012/12/10(月) 13:28:25.74ID:zzZWxi3A
関が原と大阪では戦後処理が全然違うし
小西行長と豊臣秀頼の格は言うまでも無い
0707人間七七四年2012/12/10(月) 13:55:56.57ID:WR8vgCU3
一方石田三成の子孫は津軽藩の厚遇を受けて、重臣として存続した

本州の端っこ同士なのにこの差はなんなのだろうか
0708人間七七四年2012/12/10(月) 14:57:27.39ID:/JzyJ5vk
為信や信枚がヤリ手だったのが大きいと思うがw
TERUだし
0709人間七七四年2012/12/10(月) 16:07:56.04ID:FrV9HigX
義理人情に厚い為信さんならではだな
0710人間七七四年2012/12/10(月) 17:13:24.85ID:DH1GjqF/
お隣さんとも仲良くの
0711人間七七四年2012/12/10(月) 17:52:18.61ID:VNKcRzxX
義理を果たすでもなく、実利を追及するわけでもない輝元の中途半端な判断…身につまされる話ですな
0712人間七七四年2012/12/10(月) 19:15:24.22ID:thJISNUt
義理人情言っても、
西軍の首魁で一番幕府から睨まれてる立場で匿うのは難しいからな。
それでなくても家の取り潰しが見えてる状況で津軽などとは違うし。
差し出した小西息子がテルの更なる策謀を証言しました、
とか徳川側に主張される可能性もある訳だし、
死人に口無しは口実与えない観点からは考えられない訳じゃない。

…まぁ単純に先走っただけだと思うけど、テルだし。
0713人間七七四年2012/12/10(月) 20:20:54.21ID:VNKcRzxX
その首尾一貫しない感じが警戒された原因だと思うよ。
筋目を通して匿うってんならそれはそれで良かった。
「ああ、アイツはそういう思考なんだ」ってことでコントロールする方法が分かる。
逆に行動原理の読めない対応は外交において最悪。何しでかすか分からん以上は厳しく押さえつけるしかない。
関ヶ原以前からそうだったから今更どうなるもんでもないけど、大減封を食らった原因はそこなんだろう。
0714人間七七四年2012/12/10(月) 20:30:38.25ID:GYalCcg6
先ず最初に身体の欠損が悪い話ではありません

近衛信尹の日記には修正部分が多いが、その中の透けて解読できる部分、天正19年3月の部分に
「毛利輝元は片目である、伊達政宗も片目である、殿下は(以前)小者だか今は殿上人で彼も小者である」
と記されている
この殿下は秀吉に相違なく、ここでは輝元と秀吉が片目だったとしている

信尹の日記は他にも欠損部分が多く、例えば関ヶ原合戦前後は丸々無くなっている
日記も正直に書きすぎると抹消されてしまうのである
0715人間七七四年2012/12/10(月) 20:31:27.78ID:GYalCcg6
>>714
訂正
「毛利輝元は片目である、伊達政宗も片目である、殿下は(以前)小者だか今は勿論殿上人で彼も片目である」
0716人間七七四年2012/12/10(月) 20:39:17.71ID:cHrP/gax
永禄12年(1569)、武田信玄による小田原攻めの時のことである

武田信玄は駿河方面を警戒していた北條の隙をつき、小田原衆の思いもよらない方角から笛吹峠を超えて、
武蔵国江戸の葛西に懸り、人数を二手に分けて小田原へと寄せた。

一手は八王子口より町田に懸り、つく井・滝山を攻める体にて道筋で略奪をした。
一手は江戸城を攻める体にて、江戸・品川・縄島あたりを焼いて民家を略奪した。

ここに奇妙なことがあった。
信玄の侍に竹森、花村という者があったが、この二人は品川の観音堂を焼き、本尊を取り財貨を略奪した。
ところが甲州に帰った後、かの観音の仏罰が当たり、彼らは突然錯乱した。

このため彼らは観音を他所に移したが、それでもまた錯乱を起こした。
これを持て余した彼らは、往来の乞食聖に、観音を品川に返してくれるよう頼み込んだ。

この観音はこのご3年いろいろな不思議を現し、品川に自ら帰るという宣託を下され、実際に品川に帰られた。
誠に末世の不思議である。

しかし品川に帰られたものの、御堂も焼けどこにも据える場所がなく、乱世の事でもあったので、
新たに建立する者もなく、路の傍らに乞食法師らが仮の草堂を作ってそこに安置した。

今も品川の森の側に辻堂が見えるが、それこそこの観音である。

(關侍傳記)
0717人間七七四年2012/12/10(月) 20:49:09.14ID:thJISNUt
>>713
その仮説は結果を知って言える事であって、
当時の情報に制限がある中で、
筋目を通せば大丈夫、と判断しろってのは厳しすぎるだろw
所詮仮説に過ぎず、実際大丈夫でなかった可能性も否定できないとなればなおさらやね。
0718人間七七四年2012/12/10(月) 21:12:23.26ID:HOQQS3ky
真田幸村と伊達政宗が直接対決したことあるの知ってた?
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1355133116/
0719人間七七四年2012/12/10(月) 21:26:29.85ID:O/P+/iCl
>>716
現在の品川寺か。
0720人間七七四年2012/12/10(月) 22:12:43.72ID:lNZYo2C4
大木権左衛門が鍋島山城守殿のところへ年始の挨拶に訪れた。
「権左衛門よくまいった。まだ組討ち始めをしておらぬ。
その方、ワシの打たれ方をつとめてくれ。」
と山城守殿が申されると、権左衛門は、
「打たれ方のみならばお断りします。
私にも打ち方をやらせてくださるならお相手いたしましょう」
と言った。
「それでよい」
と山城守殿も約束を交わして組討ちを始めた。
さて、大剛で有名な山城守殿は権左衛門を力いっぱい組み伏せ、
それを終えるとさっさと席に戻ろうとされた。
権左衛門が、
「侍同士の約束をお破りになられますか」
と言ってひきとめると、山城守殿は仕方なく、
「立場というものがある。簡単にすませてくれ」
と言って受け方となられたところを、
権左衛門は力まかせに組み伏せて痛めつけた。
力で勝る山城守殿は、それを跳ね返そうとなさったが、
権左衛門は脇差を引き抜いてそれを首筋に当て、
「戦場で鎧武者を相手にする時はこのようにいたします」
と言って、びくとも動かせなかったとのことだ 【葉隠】
0721人間七七四年2012/12/10(月) 23:32:19.25ID:g2Ubxt+2
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6101.html
この主従は年始のたびに何をしとるんじゃ
0722人間七七四年2012/12/11(火) 01:35:00.24ID:PpWtN/9B
>>714
独眼竜TERU
やだカッコイイ
0723人間七七四年2012/12/11(火) 01:45:30.97ID:GjqladoG
独眼竜の父親もTERUなわけで
将軍からの偏諱だからかぶるのは当たり前だが
0724人間七七四年2012/12/11(火) 10:27:40.03ID:MDsAJeiJ
>>703
ググったら享年100歳越えてて吹いたw
小西の息子とはえらい違いだなw
0725人間七七四年2012/12/11(火) 11:22:26.03ID:AvncbbWD
>>724
最後は岸和田で、三成の曾孫だか玄孫の弘前藩士に看取られたそうな
0726人間七七四年2012/12/11(火) 12:46:03.42ID:fJz8buMZ
>>721
この話の人が山城守か。仲良かったのかな?w
0727人間七七四年2012/12/11(火) 12:49:38.82ID:hyrqZ8PA
>>714
TERUが隻眼なんて初めて知ったわ
0728人間七七四年2012/12/11(火) 14:54:48.42ID:Lmq2x0dX
>>720-721
筋肉で語り合うって素敵やん?
0729人間七七四年2012/12/11(火) 16:14:10.35ID:QmhEt8hH
>>725
いい話だな
0730人間七七四年2012/12/11(火) 17:27:36.29ID:r5+UWTJF
輝元は主義主張も無く、間に居たから大将にされて
それを解ってたハズなのに途中から誰も期待してない頑固さを貫くあたり
野田首相に似ている。
0731人間七七四年2012/12/11(火) 18:03:57.46ID:hyrqZ8PA
TERUは東西の争いに合わせて本国の勢力拡大を狙ってたけど
西軍があまりに弱すぎて計算が狂っちゃったってだけでしょ。
0732人間七七四年2012/12/11(火) 18:20:19.99ID:MDsAJeiJ
西軍というか、殆どTERUの身内が原因w
0733人間七七四年2012/12/11(火) 19:11:02.06ID:wxaMRhDt
神輿は軽くて云々…
0734人間七七四年2012/12/11(火) 19:33:57.74ID:gVkTCXmJ
>>731
西軍の弱さの7割は毛利一門の吉川と小早川のせいだけどな
0735人間七七四年2012/12/11(火) 19:38:48.99ID:GvO91ry1
>>729
感動的だな
0736人間七七四年2012/12/11(火) 19:39:16.54ID:PpQD1IgI
つうか、西軍がまともにぶつかっていたら毛利は潰されているんじゃない?
そういう状況だったら家康も秀忠と合流するだろうし
0737人間七七四年2012/12/11(火) 21:06:57.64ID:OI4os2Ea
>>730
誰も期待してない頑固さを貫ているのは
石田の方じゃね
家康討伐なんて誰も望んでなかったわけだし

>>734
吉川と小早川のせいで負けた戦なんて関ヶ原以外であったか?
普通に敵勢力を攻めて勝利しているし
むしろ石田たち首脳陣のちんたらした対応の方が弱さの原因じゃね
0738人間七七四年2012/12/11(火) 21:42:28.69ID:wMrRmq/a
両川と言ったって、隆景もおらず、昔の家臣は毛利家に引き取られて織豊系の家老が主導権を握ってて、
もはや毛利一門というより豊臣一門なのが関が原当時の小早川だしなあ

毛利・吉川・安国寺と別に考えるべきだと思うぞ
0739人間七七四年2012/12/12(水) 01:07:04.16ID:hWZbYsjO
>>737
伏見城攻めをはじめ諸将の動きが鈍重極まってたのにその言い種はないわ
0740人間七七四年2012/12/12(水) 05:29:13.12ID:/eJrE2dz
永禄12年(1569)、武田信玄の駿河侵攻。

信玄は大宮通に討って出てあつばらを過ぎて加島へ進出し、悉く放火して富士川を渡り、岩淵の宿を焼いて
蒲原へ押し寄せた。

蒲原には北條新三郎が籠っていたが、当時駿河方面の北條方は、信玄の小田原侵入の煽りを受けて
小田原に集まっており、蒲原に残るものは少数であった。
このため甲州勢は、『きっと聞落(軍勢が迫るのを聞いただけで自落する)』と侮っていた。

しかし北條新三郎は少しも怯まず、信玄が城を取り巻き、徐々に攻め寄せると、新三郎は弟の少将をここに留め、
自身は狩野新八郎と共に出撃し、甲州勢を悉く追い立て、信玄の近臣・小幡弾正を初めとして悉く討ち取った。

ところが、である。蒲原城内に武田に内通したものがあり、これが甲州勢を城内に引き入れてしまった。
出撃していた北條新三郎・狩野新八郎・新三郎弟少将・渡邊以下三百余人、城に引き返し一人も残らず斬死した。

この新三郎という人は、北條一門でも優れた勇者であり、氏康に特に評価され、人も多い中に、この地域の拠点である
蒲原城を任されたほどの人であった。

ところがこの不慮の討ち死にに、最期に大きな怨念を持ち、霊鬼となってこの蒲原の山に留まった。
樵夫・刈草の童は、これを見て恐れること限りないほどであった。

天正の頃、この山に居住する僧があったが、新三郎の霊はこの僧の元に訪れ物語などをしていた。
ある時僧が、「あなたは何者ですか?」と問えば、「私は北條新三郎の亡魂である」と言って、たちまち煙のように
消えてしまった。

今でも蒲原の住人は、この新三郎の霊に遭う事があるのだという。
(關侍傳記)
0741人間七七四年2012/12/12(水) 08:52:21.29ID:gQv2B+4w
>>737
関ヶ原の西軍自体が一日持たずに蹂躙されてるから
広家のせいにしてよいのかさえ疑問。

軍記物と違って兵数に大差があったんじゃなかろうか。
0742人間七七四年2012/12/12(水) 09:19:47.57ID:T6krAu3h
>>740
僧が何とかしてくれるのかと思ったがそんなことは無かった
0743人間七七四年2012/12/12(水) 09:28:04.31ID:DJa15wa9
>>730
秀吉が死んで戦国の世に逆戻りするところをうまく回避できたのはぶっちゃけ輝元のおかげだったりする。
0744人間七七四年2012/12/12(水) 11:56:16.27ID:cpj77mD9
>>740
幻庵さんの息子さんだっけ
0745人間七七四年2012/12/12(水) 15:21:51.00ID:j+rWurv3
そうだよ
長男は夭折して、残った次男三男はここで討死に
幻庵じいさまの息子はこれで全員死んじゃった事になる

せめて兄と弟は別の城に置いてやれよ、って気がする
0746人間七七四年2012/12/12(水) 18:18:09.79ID:qa/7RCob
>>745
同じ死ぬなら兄弟共に一箇所で斬死にを、て考えなのかな。
兄弟がそう願ったのか上の配置なのかは分からんが。
0747人間七七四年2012/12/12(水) 18:22:55.85ID:zdNSsK1S
弟が指揮官である兄の副官を務めるのは普通の配置
0748人間七七四年2012/12/12(水) 18:26:29.60ID:p8wEpweF
だよね
0749人間七七四年2012/12/12(水) 20:14:11.62ID:R9HsZojG
弟が若年だと女装して兄の篭る城に単騎駆けするんだろ
0750人間七七四年2012/12/12(水) 22:13:28.08ID:3HxTAQSD
石井甚左衛門が江戸で留守詰めを務めたときのこと。
鍋島屋敷内で石井杢之助と大小の刀を賭けて博打をした。
このことが上役まで知れて、両者は切腹、
居間番だった松野喜兵衛は死罪と決まった。
甚左衛門は国に召し返された後、牢屋へと入れられた。
甚左衛門は御家老たちによるお調べに、
「私は自分の行った悪事で牢屋に入り、
やがて処罰が決定されるのを待つだけです。
思い残すことはなにもありません。
しかし一つだけ無念なことがあり昼夜口惜しい思いをしています。
それは何かというと、牢屋の樋の下を鎖で縛ってあることです。
武士でもこのような身におちると、
樋の下をもぐって逃げ出すかもしれないと思われたこと、
これだけが残念で仕方ありません。」
と申し上げた。
しばらくして甚左衛門の処罰も近くなり身柄が寺へ移された。
そこへ藤井嘉平次が酒と小芋を持って見舞いに訪れ、
甚左衛門と酒を酌み交わし、小芋を二人で食べた。
小芋を食べながら甚左衛門が呟く。
「これは喉から出るかな(介錯されると)」
嘉平次が、
「出るわけがない」
と言うと、甚左衛門は、
「いや、胸が詰まって喉を通らぬのだ。
斬られたとき芋が見えたら見苦しいだろう」
と言い、食べるのを止めた。
そして嘉平次に向かい、
「オレはひとかどの口を利いた武士だが、
いま思い返してみると、やはり腰抜けだ。
死場で死にきれず這い回る姿を見せてしまえば、
普段の振る舞いに対して恥ずかしいから、
正直なところ、早く処刑してほしい。
剛の者は死場でも普段と変わらないと言うが、
オレは昨日まで死ぬことなどなんとも思わなかったが、
寺に移されてからなんとなく変わるものがあり、・・・無念である」
と言った。介錯は大塚貞助。
死にぎわは極めて見事だった、と嘉平次の話だ 【葉隠】
0751人間七七四年2012/12/13(木) 05:16:00.91ID:SpqHlJrP
自分がしたことでなくても管理不行届きで死罪か
まあ、出世競争の面があるのかもしれない
失点したやつは確実に潰しておくと
0752人間七七四年2012/12/13(木) 05:37:36.86ID:N0woZZw4
博打した二人は切腹なのに、
居間番には切腹を認めないのが武家の倫理感だな
やらかした者より、見てみぬふりした者のほうが罪が重いという。。。
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