トップページsengoku
1001コメント410KB

戦国ちょっと悪い話34

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0753人間七七四年2012/12/13(木) 06:02:06.13ID:00k5tS9n
まだ戦国時代終わった直後の話だろ?
江戸中期辺りに武士を美化し始めた頃に作られた創作の気がしないでもない
0754人間七七四年2012/12/13(木) 18:55:31.44ID:STVFrRk4
ある時、鈴木正三が深川に宗文を訪ねて話していたところ、一人の侍がやって来た。
宗文が「こちらは鈴木正三老人なり」と紹介すると、侍は「おのれは薩摩の老職、
諏訪杢右衛門なり」と名乗った。

すると正三は一言も返さずに突然「伊勢神楽を舞って見せよう」と肌を脱ぎ、
「ひらりひらり」と謡いながら両手両足で踏みたたき、その様子はさながら物狂い
のようであった。すべては杢右衛門が自ら老職と名乗った驕傲をくだくためである。

杢右衛門は初めは茫然としていたが、やがてその心を悟って深く崇信の心を抱き、
これより正三の門人となって教えを受けたのだという。

――『近古禅林叢談』
0755人間七七四年2012/12/13(木) 19:16:50.67ID:8ZDiG6dc
摂津の勝久寺の住職頓恵(とんけい)は数千の門徒とともに本願寺に味方して織田信長と戦った。
1580年3月17日、長年あらそっていた本願寺と信長との間で和睦が成立すると、大勢の門徒たちは帰村した。

5月28日、その門徒たちが勝久寺に集まって法義談合を行っていると不意に信長軍が襲撃してきた。
信長軍は堂舎を焼き払い、多数の門徒たちを捕えて殺害した。そのため、辺り一面が血の海となり、
それ以後、寺の前のその場所を流れの馬場と呼ぶようになった。
0756人間七七四年2012/12/13(木) 21:49:13.74ID:dZV3MS5W
>>754
むつかしくて意味わからん
0757人間七七四年2012/12/14(金) 09:22:54.79ID:Kn39yz35
>>754
こんなので言いたい事が伝わるものなんだな
杢右衛門が凄いのか?
0758人間七七四年2012/12/14(金) 09:31:39.14ID:w+rX1iE9
伊勢神楽は市井で受け継がれてきた神楽ってのが関係するかの?
0759人間七七四年2012/12/14(金) 10:01:07.07ID:N5/vMG73
>>754
むかしの人間は時々コミュスキルが高すぎてわけがわからないよ
0760人間七七四年2012/12/14(金) 10:26:08.28ID:gIr+Q4Wo
>>755
場所的にこの「信長軍」ってやっぱり高山さんなのかしら…
0761人間七七四年2012/12/14(金) 13:23:36.26ID:Mld+2kR9
>>754
レベルが高すぎて、もはや何がなんだかわからん
0762人間七七四年2012/12/14(金) 18:52:12.07ID:exEa+8G4
>>760
高山さんなら躊躇しないね
07632012/12/14(金) 21:20:33.32ID:+r/iV0Ox
鍋島十太夫の家来、黒川小右衛門の妻は、
山城殿の家来、蒲原喜兵衛の娘であった。
小右衛門は三石という小身、芦原で細々と暮らしていた。
小右衛門の隣には、徳永三左衛門が住んでいた。
三左衛門も同じく十太夫の家来だったが家老をつとめ裕福であった。
八月十五日に小右衛門の妻の実家の町で祭りがあるので、
小右衛門夫婦はそろって実家の神社へと参拝に行こうと話しあった。
そういえば妻の実家から借りた蚊帳を三左衛門へ質として預けている。
祭りのお客が来ることもあるかと思い、
三左衛門のところへ行き、ニ、三日だけ蚊帳を借してほしいと頼んだが、
これを承知しない。それどころか悪口を言い、
「借金があるのに返済せずに、
質に預けた物を返せとは無理無体だ。
今後そたならは当家出入禁止とさせてもらう。
もし姿を見かけたら打ち捨てても構わぬと証文を書け」
と言った。
小右衛門は、ここまで言われてはもはや是非善悪もない。
討ち入って武士の面目を立てるまでだと覚悟を決め、
その場は三左衛門の言うとおりに証文を書いて帰った。
祭りの参拝も中止にして、八月ニ十七日までに身の回りを片付けた。
ニ十八日には新米で餅をついて、夜になると子供二人の枕へそれを並べておいた。
そして妻に知らせず、独り三左衛門の家へと向かった【続く】
07642012/12/14(金) 21:23:21.89ID:+r/iV0Ox
さて、窓から遺恨を述べて果たし合いを求めたが、
三左衛門は、内から戸締りして、なんの返答もしない。
このとき、三左衛門は弟の与左衛門のもとへ、娘のお七を走らせ急を知らせていた。
与左衛門は駆け付け、小右衛門の後ろから斬りかかり、
頭に傷を負わせたが、小右衛門はひるまず向き直り斬り合った。
与左衛門はしだいに小右衛門の気迫に追い詰められたが、
なんとか小右衛門を斬り殺し、近所の新助という者の肩をかり帰っていった。
小右衛門の妻は、夫が討ち入ったことを知ると、
鎌をつかんで三左衛門の家へと駆け向かったが、
途中で小右衛門の死骸を見付け、
「無念」
と歯噛みをした。
そして小右衛門の脇差を手に取り、三左衛門の家に声をかけたが、
三左衛門は出合おうとせず、家の中から長刀で斬り払ってきた。
小右衛門の妻はその長刀の柄にしがみつき引くと窓が崩れた。
そこから妻は内へと斬り込んで、三左衛門にかなりの手傷を負わせたが、
加勢してきた三左衛門の下男どもに斬り殺された。
与左衛門は九月一日に斬り合い傷がもとで死亡。
三左衛門は同四日切腹となった 【葉隠】
0765人間七七四年2012/12/15(土) 06:53:43.43ID:NaDdx/zv
やっぱよーわからんな
0766人間七七四年2012/12/15(土) 07:15:44.09ID:FQXJtEvs
梟雄の晩年

慶長五年(1600)十二月、関ヶ原合戦ののち次子・信繁と共に九度山に移った真田昌幸は同十六年(1611)に六十五歳で病死するまで、同地で悶々とした日々を送ることとなる。


配流から三年後、慶長八年(1603)に比定される昌幸の書状がある。


…なおなお銀子二匁目を送りいただき、忝なく思います。
度々お手紙を頂き、恐悦の至りであります。
おっしゃるように、それ以来は便りもありません。
こちらは別段変わった事もございませんのでご安心下さい。
内府様(家康)が当夏中に関東へ下向なされる、との噂を聞き及んでおりますから、拙者の事を本佐州(本多正信)がおそらくご披露に及ばれるでしょう。
もし下山できる事があれば、久々にお目にかかってお話したく存じます。恐惶謹言。

卯之三月十五日 安房
信綱寺座下 昌幸(花押)

(『先公実録』)

これは、昌幸が長篠合戦で討死を遂げた兄・真田信綱の菩提を弔う為に建立した信綱寺の住職に宛てた手紙であり、現在も同寺に伝わっている。

さて、配流後昌幸は長男・信之や家康と親しかった浅野長政らに働きかけて、家康に赦免してくれるようにと嘆願を繰り返していたらしい。
事実、この書状には自身の赦免が家康のブレーンである本多正信から家康に披露されるであろう、との旨が記されており、また昌幸もかなり楽観的な意見を述べているから、一定以上の成果をあげたようだが、結果は周知の通りであった。

更にこの書状の八年後、慶長十六年(1611)、昌幸の最晩年に比定され、家臣小山田氏の娘、小宰相に宛てた書状には
「われら、しよくぢのあじも、しかじかおほえ候わず」などと記しており、食欲も衰えてきたのであろう。
その後、「心地はよく候あひだ、御心やすく候へく候」と続き、安心するように述べている。
しかし小康状態も長くは続かず、同年六月四日、かつて信玄に「我が両目の如し」、秀吉に「表裏比興の者」と評された男の眼光は既に無く、遠く故郷に戻る事を夢見ながら没した。
0767人間七七四年2012/12/15(土) 16:14:39.84ID:O0pXVcS+
関ヶ原で西軍なんかについたばかりに・・・。
でも真田親子の蟄居がなければ真田幸村の活躍も無かったんだよなあ。
0768人間七七四年2012/12/15(土) 17:25:09.03ID:6eAZaUB+
真田人気もなかったかもしれないからね

だが晩年の昌幸の事を考えれば赦免してやっても良かったと思うがな
0769人間七七四年2012/12/15(土) 17:29:10.38ID:PTjSIrKc
信之は東軍についたんだし、家の生き残りを図るんなら東西両軍について保険をかけておくのが普通だろ
東軍が100%勝つなんてわかるのは後世の人間だけ
0770人間七七四年2012/12/15(土) 19:08:31.26ID:mRNRElBD
真田紐ビジネスで一山当てるつもりだったんだよ!
0771人間七七四年2012/12/15(土) 19:25:13.57ID:JdZhUVQv
本当に応仁の乱のように長引くと思ってたのかね?
0772人間七七四年2012/12/15(土) 19:30:01.28ID:tCJu2Vox
長引くと思って当てが外れた武将も多いんだろうな
0773人間七七四年2012/12/15(土) 19:55:50.73ID:MLXmjZsX
当てが外れた場合、やはり死を選んだ(ことになった)幸村さんが英雄になるんだよな
葉隠理論は正しい
0774人間七七四年2012/12/15(土) 23:02:28.16ID:Rqf1vsgO
大阪夏の陣で大阪方について、戦後命乞いしてなんとか助命された俺の先祖は負け組かよ…
0775人間七七四年2012/12/15(土) 23:13:33.51ID:KMS9TfBI
助命されてなかったら今の自分がいないと思いねぇ・・・

うちの祖先は正純さんが飛ばされた後の宇都宮に赴任する途中、
見沼用水の辺りで農民になったらしい

でもなんか眉唾っぽいわなwww
0776人間七七四年2012/12/15(土) 23:46:43.55ID:w3hZYWjJ
法事の時にお坊さんが教えてくれた我が家の先祖の話です。
我が家の先祖がお寺に家系図とその由来を納めていたようで・・

『領地も名前も失った武士』

池田九右衛門は摂津池田氏の一族であった。
しかし知っての通り摂津池田氏は戦国の荒波に飲まれ没落してしまう。
一族であった九右衛門も先祖代々の土地を失い、流浪の日々を送ることになる。

流れに流れ九右衛門がたどり着いたのは備前岡山の地。
ここで九右衛門は帰農することを選び平穏な日々を送ることとなるのだが、
何年か経ったのちに重大な案件が起こる。
それは新たに岡山の地を領すことになった大名家が原因であった。

やって来たのは九右衛門と同じ苗字をもつ池田氏だったからである。

さすがに殿様と同じ名は恐れ多いと思ったのか、
それとも池田氏サイドから命令が出たのかは定かではないが
九右衛門は改姓を余儀なくされる。
先祖代々守り抜いた土地に加え名前まで失ってしまったのだ。

しかし九右衛門の精一杯の意地か新たな領主に対するささやかな抵抗か、
久右衛門は新たに「池本」と名乗ったのである。
まるで池田の本流は我らであるとでも言わんばかりに。
0777人間七七四年2012/12/15(土) 23:53:12.10ID:Z7yXSjk/
>>776
摂津池田氏!凄いな。なんか感動するわ。
一時期は三好長慶の一門扱いで、畿内で相当の威勢を張っていたんだよなあ。
信長の例の金ヶ崎の退き口も、殿軍を主導したのは秀吉ではなく池田勝正だったらしいのに。
0778人間七七四年2012/12/16(日) 00:31:11.40ID:l5GMZZkq
元池田って感じではまずかっただろうか。
0779人間七七四年2012/12/16(日) 01:05:37.85ID:EQyYH/KO
北条「これからお前は喜多条な」
0780人間七七四年2012/12/16(日) 09:58:48.94ID:oARWiNWo
『(1612年5月)伏見を通って16日に大阪の町についた。伏見は都とほぼ同じくらいの大きな町である。
都には王や領主が皆屋敷を構えており、多数の兵で守り固める大変大きな城がある。
皇帝(徳川家康)の娘婿(松平貞勝)がその城の総督である。

大阪には太閤様の息子(豊臣秀頼)がいるが、こちらは皇太子(徳川秀忠)の女婿である。
彼は日本中で最良の城の一つに閉じ込められ、誰も彼との会話を許されない。
彼が何を簒奪されても誰も話せないよう、皇帝に戦を挑む気にならないようにである。
それで婦人たちが彼に仕え、夜会や劇を催し続けている。

あんなに武勇優れたものの子息が軟弱にしているのを見るのは残念なことである。
彼はたいそう肥満しており、30歳にもなっていないのに、もう身体が自由にならない。

(中略)

この国では皇帝や領主まで、何ら確実なこと、あるいは確定したことはない。
なぜなら他の者が各々の名目を手に入れるのは暴力により、力を他より持つものが多くを手に入れるのだ。

皇帝が死ねば、太閤の子息、あるいは他の権力を羨望する者が大変大きな戦争を起こすだろう。
武士は平和が来れば餓死するから、戦争しか望まない。
人々は武器を愛好する人間で、男の子は乳離れする前から帯刀させる程だ。
利害が絡むことでは、親であろうと子供にすら信義を守らない。』

(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)

スペイン人による秀頼についての記録、及び日本人に関する考察である。
0781人間七七四年2012/12/16(日) 10:50:56.75ID:f7zTcakh
>>780
伏見城代は松平定勝なんじゃ?
0782人間七七四年2012/12/16(日) 10:57:19.28ID:oARWiNWo
>>781
変換ミスです。すいませんw;
0783人間七七四年2012/12/16(日) 12:05:57.93ID:WnokO+Fz
へー歴史小説なんかだと二条城で対面したころはまだ肥満してないことになってるけどほんとうはもうそのときからぶくぶくだったんだろうな
0784人間七七四年2012/12/16(日) 13:12:32.22ID:dEcJ7a5n
そういえばそうだな
大抵の小説そのシーンは、すらっとしたイケメンだしなw
0785人間七七四年2012/12/16(日) 13:16:22.53ID:aco87qBs
>>783
豪奢なのもあるだろうけど侍の飯は軍人の食生活だからカロリー高目を心がけるだろうし、
その上で他の武士が日常こなしてる運動を制限されてたら太るだろうなぁ。
鷹狩りとか家康が絶対許さなそうだし
0786人間七七四年2012/12/16(日) 15:19:52.64ID:MWWL6TV5
>>784
実像はそれと正反対といってもいいのでは…
秀頼が秀吉と違い背が高くて肥満体だった事については、実は結構多くの出典があるんだよな

「世に無き御太り」『長沢聞書』

「秀頼公勢(背)高ク顔ニクニクシク荒テ。力は不(普)通之人ノ拾人許有ケルガ。太ク逞シキ御馬ニ召レシカバ。」『豊内記』
0787人間七七四年2012/12/16(日) 15:22:06.39ID:JWRqHtvi
花のようなる秀頼様…
0788人間七七四年2012/12/16(日) 15:28:02.21ID:MWWL6TV5
>>787
それは、大切に奥に隠して育てられた秀頼を見た事無い上方の町人が
淀の方が生んだ「関白様の御曹司」ということで勝手に想像して作った歌らしい
0789人間七七四年2012/12/16(日) 15:35:28.66ID:f7zTcakh
>>787
ラフレシアだったとか
0790人間七七四年2012/12/16(日) 15:48:38.78ID:MWWL6TV5
ちなみに秀頼について「世に無き御太り」と書いた『長沢聞書』の作者・長沢九郎兵衛は
大坂の陣で大坂方である後藤又兵衛の近習として参戦している
0791人間七七四年2012/12/16(日) 15:53:08.63ID:qUwy2ZqE
薩摩に逃げ延びた秀頼が呑んだくれて乱暴な振る舞いをしていた、
て伝説があるが、案外本当だったのかもしれん
どうせ落人伝説つくるなら、もっと貴公子っぽくするだろうし
0792人間七七四年2012/12/16(日) 15:57:43.66ID:rysdjfOs
たしかに美化されたものより、
生々しい話のほうが真実味があるかもね
0793人間七七四年2012/12/16(日) 16:05:51.31ID:9/T3kXL7
秀頼を騙った落人が無銭飲食ツアーしてたんじゃねw
0794人間七七四年2012/12/16(日) 18:46:29.47ID:xZJpsoOW
そんなでかい図体の人がどうやって大坂城の包囲を抜け出したのか
0795人間七七四年2012/12/16(日) 19:44:34.29ID:/EVut8fi
1591年に起きた九戸政実の乱は九戸側の敗北に終わった。
蒲生氏郷の軍によって九戸城が包囲され、いよいよ落城となると、城内は逃げまどう人々で
大混乱におちいった。
城主九戸の奥方も急いで逃げ出そうとしたが、履物が見当たらない。とにかく城主の妻であるから
裸足で歩くことには慣れていなかった。そこで、そばをうろついている者を捕えて履物を奪った。
0796人間七七四年2012/12/16(日) 20:46:33.26ID:1lv3g2gu
>奪った。

え?
0797人間七七四年2012/12/17(月) 00:14:37.93ID:mTxjSZHZ
>>795  男物だったりしてw
0798人間七七四年2012/12/17(月) 00:15:38.50ID:nlXYvHQN
続くのかと思ったらこれでおしまい?
0799人間七七四年2012/12/17(月) 00:20:00.55ID:FKRQZc1P
光明勝栗由来

大久保忠世が杉浦久勝とコントをしていた時のこと。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3049.html

この時、光明山の住僧高継の案内で徳川家康が寺中に立ち寄ったところ、
高継は家康に勝栗を献じた。

家康は勝栗をひとつ食して機嫌良く「光明山で勝栗を食ったぞ!
これぞ、まさにこうみょう勝栗なり! 行末目出度き吉兆だ!」と言った。

これより後々までこうみょう勝栗といって、かの寺より奉る御佳例になったという。

――『徳川実紀(光明山書上など)』

光明だけに功名ってか。
0800人間七七四年2012/12/17(月) 00:35:37.28ID:mTxjSZHZ
なにが悪い話なのかわかりにくいが
シャレが寒すぎるくらい寒いから、なのか?
0801人間七七四年2012/12/17(月) 00:37:19.47ID:mTxjSZHZ
毎度お馴染みネーミングセンスの悪い話
0802人間七七四年2012/12/17(月) 00:38:07.39ID:mTxjSZHZ
あ、ID被った
0803人間七七四年2012/12/17(月) 01:38:16.58ID:WviuVYra
>>798

>>795の九戸城の話は戦国の合戦事典の本で紹介されていたものだが、その続きは
書かれていなかった。他の史料の天正南部軍記によれば九戸政実の妻は息子の亀千代とともに
城の外へ出たが、蒲生勢に捕えられて母子ともども斬首されてしまったらしい。
0804人間七七四年2012/12/17(月) 10:05:37.76ID:bP7jvpZP
大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖より代々御当家に仕え、大功ある人々の子である。
然れどもその一身修まらざるにより、名を恥ずかしめ、それに縁座する大名もまた、名家数代の武臣であったが、
多くがこれに連座し改易された。

この事について、『荒き御政務である』との批判があった。
土井大炊頭利勝はこれを聞くと

「なんと愚かなことを申すのだろう。
私のような者でも今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めているが、もし子孫に君命に背くものが出れば、
他のものよりもきつく罪に問われる事を望む。

それに時期が来れば大久保・本多らも、存命の子孫があればそれが、宜しく召し使われるだろう。
それこそ仁政というものである。

今は、天下創業の御政務の時期である。まず譜代こそ厳しく戒め置かれなければならない。
にもかかわらず天下を動揺させるような行為をすれば、しかも譜代のものであれば別してその罪は深い。
これはお上の御威光を傷つけるものであるからである。

そんな事は、泉下の大久保七郎右衛門忠世、本多佐渡守正信も強く憎んだと想像できる。
仮に彼らが存命なら、子を勘当していただろう。」

その様に申されたという。
(武野燭談)

大久保忠隣・本多正純改易への批判に対する、土井利勝の意見である
0805人間七七四年2012/12/18(火) 01:04:07.34ID:HmoTXQtY
福島家が改易となった時、吉村宣充は家人下僕に至るまで金銀家財を与えて
暇を遣わし、自身は伊勢で暮らして吉村又右衛門と大筆に宿札を掛け置いた。
生活の中で夫婦や娘は段々と困窮して食事もままならず、妻は衣服に困り、
娘は泣き伏して飢えに及んだ。

ある時、古い朋輩の大崎長行が訪ねて来て、紀州家に召しだされたので
又右衛門の添え状が欲しいという。宣充は添え状を用意すると、
「路銀はあるのか」と尋ね、長行は無いと答えた。

すると宣充は具足櫃から金三百両を出して五十両を分け与え、さらに
沓籠から銭を出して一貫文を渡した。長行は大いに喜んで武具等を
調えて奉公に出て行った。

その後、宣充の女房は怒って「あんなに金銭があったというのに妻子の飢えを
見て見ぬふりをしたのですか」と暇を乞うた。

これに宣充は「武士は売買の道を知らない。この金が尽きた時は今のような
生活になるだけだ。つまりは少し遅いか早いかでしかない。それならば我が
武勇の名を落とすまいと万が一の用を心掛けているのだ。それがお前には
わからぬか」と、言って妻と離別したという。

――『名将言行録』
0806人間七七四年2012/12/18(火) 06:45:34.06ID:7grfk2Zi
徳川家康がある時語ったことである

「今川義元は、臨済寺の雪斎和尚(太原雪斎)と相談して領内の統治などを行なっていた。
この頃は本当に国もよく治まっていた。

しかし雪斎は累代の家老というわけではなかったので、彼が遷化されたあとは、その政治を受け継ぐものが無く、
それ以前の状況に戻ってしまった。

それでも義元が生きているうちは、今川家の武備が衰えることはなかったが、義元が討死にした後は
諸人に今川家に対する疑念が起こり、また氏真の代になってからは風流婆娑羅のみにて日を送り、
終に家国を失ってしまった。

諸人に疑念を持たせた、というのは、主将の依怙から起こったものだった。」

(武野燭談)

家康の語る、今川家のこと、である
0807人間七七四年2012/12/18(火) 08:15:20.17ID:YZoRbVHX
>>806
攻め込んだ当人が語ってるから悪い話なのかな?
0808人間七七四年2012/12/18(火) 20:39:50.61ID:NRw1bfoA
三好長慶の息子の三好義興は智勇に優れた男で三好家の跡継ぎとして将来を期待されていた。
ところが、重臣の松永久秀の陰謀により、22歳の若さで毒殺されてしまった。
息子を失った三好長慶は悲しみで嘆くあまり、背中が丸くなってしまうほどであった。

亡くなった三好義興は芥川の霊松寺に葬られた。
長慶は瀬戸内海の屋島から鉄のように硬い石を取り寄せて義興の墓にした。その墓は
叩くとカンカンという金属音が鳴り響くので、人々はその墓石をカンカン石と呼び、
今でも三好長慶がカンカンに怒っているのだと噂しあった。
0809人間七七四年2012/12/18(火) 20:45:32.00ID:lyCvzWs3
叩くなよ・・・w
0810人間七七四年2012/12/18(火) 20:50:13.30ID:EMnqOhHK
墓石を叩けばそりゃカンカンに怒るわなw
0811人間七七四年2012/12/18(火) 22:13:41.89ID:MFrnsNcW
庵治石かなぁ、写真見ただけではよくわからなかったけど
固いし鉄分多いから確かに、金属的な音はする
0812人間七七四年2012/12/18(火) 22:19:40.29ID:RpdeJRVA
ちょっと横になるわ
0813人間七七四年2012/12/19(水) 00:13:31.71ID:x7B2mBNB
サヌカイトだろ
実際楽器にしたりするし
0814人間七七四年2012/12/19(水) 02:21:18.55ID:HIPuai2Z
墓石叩くなんて思いついたこともないわw
0815人間七七四年2012/12/19(水) 03:01:48.67ID:4DTDAUTF
811だけど、元墓石屋なのでね、
石見本同士を叩き合って石の良し悪しを客に教えてたりはしてた

>>814
ちょっと趣旨がずれるけど、鼠小僧でぐぐって墓石にまつわるエピソードを読んでみると良いかも
昔からの墓地の、古い墓の蓮華が欠けているのも博打好きの仕業であることが多い
0816人間七七四年2012/12/19(水) 04:39:07.07ID:F6PdzPoT
ムカつくやつの墓石だったら叩いたり蹴ったりしたい
これ長慶さんが息子の墓を叩いたわけじゃないでしょ?
0817人間七七四年2012/12/19(水) 11:35:48.04ID:HErw0SDC
>>815
アカギの墓が削られてるって話に元ネタあったのか!
0818人間七七四年2012/12/19(水) 14:45:06.68ID:0YsdnxQ6
この武将に参拝すると、この病気が治る、の延長で
墓石を削れば薬になる、て信じられてたのでは
0819人間七七四年2012/12/19(水) 14:57:01.73ID:Ane5dlL0
「今でも長慶さんが怒ってはるせいで、叩くとカンカンって音がするんやで」ていう浪花ギャグでしょ。
実際に皆が叩いてたわけじゃないと思うよ。
0820人間七七四年2012/12/19(水) 16:01:13.71ID:52/mes1M
杉原常陸の墓は「おこり」に効く、ってアレか
0821人間七七四年2012/12/19(水) 16:10:35.02ID:iU+P6x/1
削れば手癖の悪さが治るお墓はないのかね?
0822人間七七四年2012/12/19(水) 17:23:32.62ID:2NOO+mdG
森の石松の墓なんかも酷かったらしいな

>>821
なんでも阿弥陀ヶ峰の天辺にある墓がそうだとか…
0823人間七七四年2012/12/20(木) 21:49:24.44ID:t10VLyXq
『…その土地はイスパニアより、それ自体ではずっと大きく、極めて活動的で、北緯34度に位置する。
夏冬の区別があり、多くの、そして良質の銀や他の金属も産する。
15の王国にわかれ、うち一人を他の王が認めれば皇帝なのだが、現在彼らを統率する者が居ないので、
誰も皇帝ではない。また4人の王が既にキリスト教徒になった。

全てに豊かであり、雌牛、鹿、家畜化した、あるいは野生の豚、野兎、雉が、野や山を埋め尽くしている。
畑は一枚6マラベディーの値である。他の家畜の雌鶏がたくさんいるし、小麦、大麦、米、他にも種子類がふんだんに採れる。
また果物類、多様で良質な梨類、桃、すもも、栗、胡桃、どんぐり、瓜、それに黒い小粒のブドウも山野に満ちている。
だから必要とあればこのブドウからミサ用のワインが出来、それを以ってミサを捧げられるだろう。

このワインはよく飲まれている。当地原産の良質なワインもたくさんあって、いずれも安い。
半リブラ(1リブラは約460グラム〉くらいの大きさのパン15個で1レアル、しかも白くて良質である。
骨なしの雌牛の牛肉2.7リブラが1レアルで買えるし、雌牛1頭では5から6レアル、それでも高いくらいだ。
魚も豊富でとても安い。

土地の人々とは極めて友好的な関係にあり、特に王とその父親とはうまくいっている。
住民は非常に清潔で衣服もこざっぱりしている。それに大変好戦的かつ勇敢で、あらゆる武器で武装し、
良い鉄砲、槍、刀(一撃で人を切り倒せる武器である)、弓、矢、胸当て、背当てを持っている。

キリスト教徒の武士は大変清潔で美しい家を持ち、イスパニア人のように武器を携行する。
馬も小さいながら、何頭も所有している。
宣教できる人間さえおれば、瞬く間に全員がキリスト教徒になるであろう。
既に洗礼を受けたものは、典礼もないのに、見たところ立派なキリスト教徒である。』

以上、平戸に上陸したアウグスチノ会員フランシスコ・マンリケが現した『日本』の姿である。
ちなみに友好的な関係にある王とは、平戸の松浦隆信のことらしい。
(フランシスコ・マンリケ1588年3月1日付書簡)

だいぶ「どこの国の話?」と言いたくなる、日本についての報告であるw
0824人間七七四年2012/12/21(金) 01:01:27.50ID:pXRohuVd
キリストに関する記述がだいぶ盛られてる気が
0825人間七七四年2012/12/21(金) 01:07:21.99ID:zkMr7BhP
>>823
このころはまだ、欧州より東アジアの方が富んでいたということだね

このあと、植民地からの収奪で飛躍した欧州と差がついてしまうが。
0826人間七七四年2012/12/21(金) 01:24:22.05ID:VWOvGnvE
食文化が…
0827人間七七四年2012/12/21(金) 10:49:39.15ID:Q8qrY0HH
まぁ現地で活動する宣教師としては、本国のやる気をくすぐって、できるだけ支援
を引き出したいわけで
だから「ここは有望ですよ!」ってことをMAXアピール。人についても土地につい
ても、報告書では盛りまくったんじゃないかと

どうせ本国で報告書読む人には現地の実情なんて見えないわけだしw
0828人間七七四年2012/12/21(金) 13:30:38.60ID:OlFrgKA/
なんか九州とか、ともすれば肥前の中だけの話のような気もするぞこれ
0829人間七七四年2012/12/21(金) 13:39:23.52ID:llrH0Ssp
ヨーロッパに比べれば高温多湿なので物がよく取れるのは確かだが
明らかに盛ってるわなw
0830人間七七四年2012/12/21(金) 16:21:46.61ID:EscrAhuT
盛ってるのもあるだろうけど、ただ、当時のヨーロッパも相当にヒドイのも事実なのよね
いわゆる小氷期まっただなかだし
0831人間七七四年2012/12/21(金) 16:32:46.87ID:pWcyw876
小麦なんかも蒔いた量の10倍にもならないんだっけ、確か
0832人間七七四年2012/12/21(金) 17:02:32.28ID:9CyN3gnX
中世欧州だと、地域にもよるけれど、小麦の収穫量が1haあたり300〜700kgらしいね
ちなみに一反=一石を適用するならば、日本の場合は1ha(10反)だと1.5tの米が収穫できる
重さだけで考えると二倍以上〜五倍は違うからな・・・
0833人間七七四年2012/12/21(金) 17:11:43.58ID:71al5+CE
そんだけ作れても、収穫の8割がたを王家と領主と教会に持っていかれるんじゃ日本より悲惨だなあ
0834人間七七四年2012/12/21(金) 19:48:59.19ID:ITDBxvqF
だからパンは主食になれなかった
0835人間七七四年2012/12/21(金) 20:00:19.71ID:XjnCzKtJ
パンがないならケーキを食べればいいじゃない
0836人間七七四年2012/12/21(金) 20:03:35.67ID:RGQDRi8U
そこで讃岐が誇るうどんですよ!
0837人間七七四年2012/12/21(金) 20:26:01.53ID:9CyN3gnX
ジャガイモ様がアップを始めてます
貧者のパンは伊達じゃない!
0838人間七七四年2012/12/21(金) 20:51:44.99ID:rc3mURLw
おジャガ様は歴史が証明してるんだっけか・・・
まぁ、同時に梅毒まで撒き散らしちゃったのはご愛嬌ってかwww
0839人間七七四年2012/12/21(金) 21:40:59.84ID:cVnLvN3Q
天文3年、宍戸元源と和睦を果たした毛利元就は、当時服属していた尼子より離脱し、以前のごとく
大内に付くことを決心。大内義隆のもとに嫡男隆元を人質として送り、甘ことの手切れの準備は整った。

そこで元就は、出雲の月山富田城に人質として毛利家より出していた、光永中務少、赤川十郎左衛門と
密かに連絡を取り、尼子と手切れになること、よって隠密に尼子領より脱出するようにと伝えた。

これによって両人は相談し、夜中に忍んで脱出をはかったが、どこからか情報が漏れたのであろうか、
富田城の者たちが聞きつけ、脱出する両名を大勢で追いかけ、大楽というばしょにおいて、光永中務少は
共の者たち15人と、一所にて討ち死にしてしまった。

しかしその間に赤川十郎左衛門は切り抜け、無事吉田に帰還した。
(吉田物語)

この時代の、人質というものの過酷さが現れた逸話であろう。
0840人間七七四年2012/12/21(金) 21:43:45.61ID:eWbjDVbY
>>838
挙句の果てがジャガイモ飢饉だよ
0841人間七七四年2012/12/21(金) 21:46:18.17ID:KhGRsx69
蕎麦最強伝説
0842人間七七四年2012/12/21(金) 22:18:08.99ID:rc3mURLw
ジャガイモ飢饉、知らなんだわwww
一極集中はいかんってことよね〜
0843人間七七四年2012/12/21(金) 23:49:44.62ID:M2rs5iG5
>>839
脱出を指示してくれる点は優しいね
無茶ぶりだけど
0844人間七七四年2012/12/21(金) 23:58:13.30ID:GMWQ4/Fj
>>840
そうなったら赤ん坊を食べればよい
0845人間七七四年2012/12/22(土) 00:47:24.68ID:Mv/KCpki
ジャガイモ飢饉はモノカルチャーの弱点がモロに出た形だからなぁ
でもこれが無かったらJFKが大統領になる事もなかったか
0846人間七七四年2012/12/22(土) 01:08:16.55ID:nLql3VZC
>>839
尼子なのに甘くなかったでござる
0847人間七七四年2012/12/22(土) 03:18:53.73ID:20g7S1XL
>>839
赤川って聞き覚えあると思ったら、
隆元暗殺(疑惑)の赤川元保の兄か。
ここで生き残った事で、息子が赤川元保の家を継ぐのか。
なんというか浮き沈みの激しい人生やな。
0848人間七七四年2012/12/22(土) 09:00:15.03ID:xpq9YhU6
>>847のような繋がりを見つけたりするのがこのスレってか、歴史の楽しさだと思うの・・・

まぁ、言い過ぎだけどさwww
0849人間七七四年2012/12/22(土) 10:03:15.12ID:lVRS0UXW
>>841
蕎麦は収穫量が少なくて…
実がなりにくいんだよねー自家受粉しない上に受粉しにくい変な植物で
0850人間七七四年2012/12/22(土) 10:11:20.32ID:0+mhat6C
さらに、小麦以上に食べるまで手間が掛かるし
0851人間七七四年2012/12/22(土) 10:17:30.42ID:yLbUWFHf
練って雑炊にぶっこむだけだから大差ない
0852人間七七四年2012/12/22(土) 12:29:47.57ID:8PLO+WhI
日本ならさつまいもの功績を忘れちゃいかん。
老人の中には戦時中これしか食べてなくて大嫌いになった人も多いな。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています