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戦国ちょっと悪い話26

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0001人間七七四年2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1302853897/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0032人間七七四年2011/05/05(木) 00:53:30.87ID:jJ2qLqoo
いい悪い話だなあ
0033人間七七四年2011/05/05(木) 05:48:18.36ID:cBVjHNir
上の九鬼さん所のほんとに悪い話とは違う、素直に楽しめる悪い話だな

理屈を付けると馬に乗ったり長時間歩けるほどではないけど、
杖なしでも短時間歩けるレベルではあったということかな
普段は念の為に杖持ってたけど
0034人間七七四年2011/05/05(木) 06:40:40.18ID:8agLdJAa
普段官兵衛って屋内でどうやって歩いてたの?
室内で杖突いてた?肩借りてた?
0035人間七七四年2011/05/05(木) 08:31:24.50ID:T31gvbY2
足が不自由ながら屋敷までの長距離を歩ききった官兵衛
このときの名物を取って屋敷(巣)へ帰った一連の動きを
後世「黒田の巣帰り 官兵衛は名物取ったり」を略して黒巣官取といい
欧州に伝わった際に当初は街中の中長距離移動を指したが
その後整地されていないコースでの中長距離走を
黒田官兵衛の苦難とゴールした際の栄誉にあやかってクロスカントリーと呼ばれるようになった

出典 民明書房 黒田官兵衛の世界への影響
0036人間七七四年2011/05/05(木) 08:57:53.54ID:LK8hDoZo
知っているのか雷電!?
0037人間七七四年2011/05/05(木) 09:05:44.67ID:aOI3GwQr
新しい逸話が来たのかと思って読んでみたガッカリ感が強くて全然面白く無い件
0038人間七七四年2011/05/05(木) 10:38:43.54ID:Vl4TEJIF
ふと思ったんだが、足がこんな状態で、中国大返しの時どうしたんだろ?
0039人間七七四年2011/05/05(木) 11:01:18.86ID:kDme/K4B
>>38
0040人間七七四年2011/05/05(木) 12:09:21.14ID:q0kHpOoB
御輿もあるよ
0041人間七七四年2011/05/05(木) 18:43:02.36ID:fNUyKjXU
御輿だと担ぎ手が馬で併走し、潰れた順にわざわざ馬から降りて御輿を担ぐことに

馬よりも格段に移動が遅くなるうえ、人馬の消耗も激しく何よりシュールな絵面だな
0042人間七七四年2011/05/05(木) 19:10:44.61ID:C0IDlwJ0
やっぱり足は不自由になってなかったん?
0043人間七七四年2011/05/05(木) 19:44:59.95ID:OLOJ3cL7
三十三間堂を1秒で走り抜けられぬ足など不自由というよりほかなし
0044人間七七四年2011/05/05(木) 19:48:27.41ID:EzAbw11j
どこの島村ジョーやねん
0045人間七七四年2011/05/05(木) 19:59:09.63ID:/F/FE9mi
パチパチパンチ?
0046人間七七四年2011/05/05(木) 21:11:55.99ID:q5ixQ0jA
途中船を使ったよ説もあった気がする。
0047人間七七四年2011/05/05(木) 21:22:44.63ID:+z6N9X2s
船か一番現実的なんじゃないか
0048人間七七四年2011/05/05(木) 22:51:36.78ID:J05Ms8sH
ドキッ!足萎えだらけの行軍大会! 〜ポロリもあるよ〜

うーん、我ながらアホな事を考えたな、明日や、明日が悪いんや…
0049人間七七四年2011/05/05(木) 23:19:44.64ID:LCLVbrNJ
くびがポロリするんですねわかります
0050人間七七四年2011/05/05(木) 23:28:23.41ID:foGrEwUy
蒲生さんとこの行軍大会がそんな感じだよな
0051人間七七四年2011/05/06(金) 00:04:07.10ID:PUegEPCq
天正5年(1577)12月、日向の伊東三位入道義祐は島津の猛攻に耐えかね、ついに日向から逃げ出し
豊後の大友宗麟を頼る。
伊東義祐は国東郡に屋敷を与えられ、丁重に扱われた。

が、翌天正6年の耳川の合戦で大友軍が島津に大敗するとその空気も変わる。
『大友家を島津との戦いに巻き込んだ元凶』と、伊東の存在をあからさまに厄介視するようになったのだ。

そんなある日、国東の伊東の屋敷の前に、何者かがこのような落首の書かれた札を立てた。

『のみしらみ 鼠となりて三位殿 田原の下を這い回りけり』

これに激しくプライドを傷つけられた伊東義祐は、わずか20名ばかりの家臣と共に、密かに豊後を
落去、伊予へと渡る。そして各地を放浪して暮らし、天正13年(1585)、堺にて死去。
豊後からの退去後、彼が日向の地を踏むことはなかった。

伊東義祐の晩年を流浪のものとするきっかけとなったと言われる、落首についての話である。
0052人間七七四年2011/05/06(金) 07:44:36.52ID:U2rMuws3
旧領取り返すなら人に頼るなってことだな
それか逃げないで潔く討ち死にする
0053人間七七四年2011/05/06(金) 08:16:22.86ID:D7TOC9gV
>>52
斉藤龍興はその点、いさぎよい
0054人間七七四年2011/05/06(金) 08:57:19.00ID:XxBuZ4bn
>>52
でも、息子が秀吉の家臣になってね…
0055人間七七四年2011/05/06(金) 11:16:03.71ID:pKBBJOT7
落書きした奴は大友家中の誰かなんだろうけど、情けないな
負けたのは自分の責任だし、伊東をダシに領土を切り取る気マンマンだったくせに被害者気取りか
戦闘力は無理でもせめて軍神の潔さを見習えと・・・
0056人間七七四年2011/05/06(金) 13:10:33.32ID:0uqEM3ht
切り取った土地はキリスト教化されちゃうからキリシタン家臣でもない限り骨折り損になる可能性が。
0057人間七七四年2011/05/06(金) 18:35:06.06ID:pQxASYiO
>>56
一向宗じゃないんだから、年貢が入らなくなるわけでもないだろ。

というかこのころ日本全国に100万人のキリスト教徒がいたそうだが
全人口は1200万人程度だから単純に考えて12人に一人がキリスト教徒
さらに布教は西国が中心で、大友家当主の宗麟は熱心な信者だという事を考えれば
大友家中には結構な数のキリスト教徒がいたんじゃないかな。
0058人間七七四年2011/05/06(金) 20:06:06.66ID:EM30mxLS
猛烈な反キリシタンな人達もいたんだよ。
義統とその母親は旗頭だったはず。(母親は神社の娘)
宇佐やら臼杵、国東辺りは仏教が盛んだったので、その周辺はほとんど反キリシタン。
で、伊東の屋敷が国東で、反キリシタンの立場から見れば火種を持ち込んだと見られても仕方がない。
伊東さんにとっちゃ、濡れ衣だがw

義統がキリシタンになるのは母親が死んだあと、黒官の勧めで改宗した。
0059人間七七四年2011/05/06(金) 22:42:33.45ID:t8h+GftV
キリスト教怖いなぁ
幕末期の攘夷は外国の文化的侵略を恐れていた(日本人が日本人出なくなることを恐れてた)から起きたけど、
こんなに信者増やすなら過激な反発派が出ても当たり前だよなぁ
0060人間七七四年2011/05/06(金) 22:47:59.94ID:KVz1zW5u
>>57
戦国期も約百万人だけど、現代日本でも約百万人と言われている…。
増えないねw
やっぱ、基本的に合わないんじゃないかとも思うが。
0061人間七七四年2011/05/06(金) 23:25:52.86ID:gU8dAUgD
江戸期に排除されたせいで「おらが村の教会」が出来なかったからかなぁ

戦国時代の農村部は惣村単位で動くだろうから、
興味無いとかよく分かってない連中も大勢含まれた100万な気がw
0062人間七七四年2011/05/06(金) 23:45:49.99ID:PUegEPCq
と言うかキリシタン大名の多くは領民を強制改修させたからね。
そういう「嫌々入信させられたキリシタン」は相当多かったと思われる。

島原の乱の時はそういう記憶があった分、非キリシタンの村はキリシタンを
非常に警戒し、それもあって乱の拡大が妨げられた面がある。
0063人間七七四年2011/05/06(金) 23:52:38.51ID:WwlO0dG3
現在日本の宗教の信者数は神道仏教キリストその他を合計すると約二億一千万人だそうだ
昔も似たような計算だったのは火を見るより明らかw
0064人間七七四年2011/05/07(土) 00:14:10.47ID:XTGBTF8p
>>62
強制改宗って寺社勢力の力を弱めたいとかの思惑もあったのかな。
既存の宗教とは相容れなくて、しかも自分の保護を必要としている新勢力を伸ばして対抗させたいというか。
0065人間七七四年2011/05/07(土) 00:33:59.50ID:Hv78qrdd
>>64
室町時代ならともかく戦国末期の、しかも地方の寺社に「寺社勢力」と言えるほどの力なんて無いよ。
もうどうしたって武士に頼らないと存続し得ない存在になってる。

キリシタン大名の強制改宗は、結局信仰心(ある種の狂信性)の影響が大きいと思うよ。
宣教師からして他宗教との併存なんてはなから認めず、信者に

「寺社を見つけたら燃やそう。異教徒を見つけたら殺そう。」

なんて事説教してるくらいでw
0066人間七七四年2011/05/07(土) 00:41:21.30ID:MvNXsYxd
日本人に一神教は合わん気がする
0067人間七七四年2011/05/07(土) 01:37:41.27ID:umUs+Mal
国家神道には一神教のエッセンスがあったような気がする。
破綻したけど。
0068人間七七四年2011/05/07(土) 02:00:02.98ID:kaBnos84
>>63
実態はともかく神道と仏教は重複がありうるから
0069人間七七四年2011/05/07(土) 02:04:23.66ID:Tlugt7kr
といっても、教義的に破綻したのでなく単に背景となる国家が壊れたから、だしね
0070人間七七四年2011/05/07(土) 12:25:43.06ID:Hr9AKjtY
だが、神様仏様の上に「天」があるという思想もあるのだなこれが
0071人間七七四年2011/05/07(土) 20:04:39.47ID:Hv78qrdd
見る角度でいい話にも見え悪い話にも見えるようなお話。

小出三尹(みつまさ、もしくは、みつただ)と言えば和泉陶器1万石の小さな大名だが、その母は秀吉の母、
大政所の妹であり、豊臣秀吉の従兄弟であって豊臣家に最も近しい血縁の者であった。

そんな小出三尹も大阪の陣では徳川方として働き、慶長20年(1615)5月7日、ついに大阪落城の日を迎えた。
大阪城は炎上し、諸大名は続々と家康の陣を訪ね、祝いの言葉を述べた。


さて、そんな賞賛攻めの中、家康は諸侯の中に小出三尹の姿を見つけた。そしてこの小大名に、
家康の方から声をかけた

「あれをどう思うか?」

今なお炎上している大阪城の方を指して言う。
小出三尹はその方を一瞥しただけで、こう答えた

「こんな情けない事はありません。」
(かかるうたてき御事こそ候はね)

この言葉にその場は凍りついた。諸大名は「なんと不可解なことを言い出すのか!?」
「どのような疑いを持たれても仕方のない言葉ではないか!」と驚き思った。

が、家康はこれを聞くと

「…汝は故太閤の所縁であったな。
豊臣家とは非常に近しい者だ。そんな汝がそのように思うのは、道理というものだ。」

と、感動した面持ちで言った。

当然のことながら、その場にはたくさんの、豊臣恩顧の大名たちが居た。
彼らも我先にと、豊臣家が滅びたことへの祝いを述べていたのだ。
そんな中の小出の発言に、彼らは非常に恥ずかしい思いをしたのだという。

そして家康は、そんな旧主家の滅亡を祝う人々に囲まれている中、小出の言葉に救われた思いだったようだ。
彼は後にも重臣たちに

「大隅守(小出三尹)が言ったことは、神妙の至というものだ。」

そう、あの時のことを思い出して語ったと言う
(藩翰譜)
0072人間七七四年2011/05/07(土) 20:32:11.19ID:1DZnSr9I
でも加増はしない安心の家康クオリティ
0073人間七七四年2011/05/07(土) 21:19:40.48ID:pydC9nfn
そして翌日からは執拗な豊臣家の残党狩り、豊臣家の痕跡を地上から徹底的に消す作業を始めるのが家康クオリティ
0074人間七七四年2011/05/07(土) 21:26:22.98ID:KqRTV0VH
それもまた仕方ないね千姫との間に嫡男がいれば家名は残ったかもしれないが
0075人間七七四年2011/05/07(土) 23:27:40.31ID:HMCI4E2m
政治は政治として人情の自然な発露は大切にする家康 あああやっぱりめんどくせぇ
0076人間七七四年2011/05/07(土) 23:50:38.52ID:uynqD8mu
それめんどくさいか?
0077人間七七四年2011/05/07(土) 23:56:08.28ID:4w+ddfVk
全然たぬき親爺してないねw
0078人間七七四年2011/05/08(日) 00:16:35.81ID:mZNtN90s
「豊臣家滅亡の日と信孝の命日が同じなのは、秀吉が旧主である織田家をないがしろにしたせい」
と旧主である豊臣家を滅ぼした直後に近習に語っちゃうお茶目な家康(『坂役叢話』より)
言ってることとやってることが違いすぎるんだよね
0079人間七七四年2011/05/08(日) 00:26:21.74ID:sCJYkWtV
>>22
茶壷とか一番でかいだろ、その割には価値あまりないし・・・・
俺なら茶碗とか茶入をあるだけ持っていく

九十九茄子、曜変天目、初花肩衝、楢柴肩衝・・・
0080人間七七四年2011/05/08(日) 00:33:17.25ID:63gkkJk4
どうせ後世の創作だろ
残党狩りくらい戦国武将なら誰でもやってる
0081人間七七四年2011/05/08(日) 01:21:52.11ID:Qp/mPuqf
>>78
豊臣家が徳川家の主家って訳じゃないのに
0082人間七七四年2011/05/08(日) 01:23:33.45ID:pzgbJH76
後藤又兵衛の息子や家臣を細川家が
匿っていたのを知っていて、知らぬふりとかも。
0083人間七七四年2011/05/08(日) 01:27:08.57ID:mZNtN90s
>>81
えっ?
0084人間七七四年2011/05/08(日) 01:27:51.92ID:iz42pG+B
>>81
家康が折れて上洛した時点で主かにするのを認めたんでねーの
0085人間七七四年2011/05/08(日) 01:30:00.26ID:CWGiIk4L
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変、起こる。

この報は6月9日、上野国厩橋城の滝川一益にも届いた。
俗に滝川一益はこの報を関東諸侯にありのままに伝えた、などと言われるが、
実際にはひた隠しに隠し、本能寺の風聞を聞き信長の安否を尋ねた上野の国人に
『京都の情勢に別状はない』との書状まで出している。

が、このように関東にも風聞としては既に広まり、6月11日には一益がこの事を
最も知られたくない人間、北条氏政も知るところとなった。
ちなみに氏政、翌12日には大喜びで国内に動員をかけているw

が、信長の死によって関東情勢も流動化する中、最初に一益への反乱を起こしたのは、
北条ではなくかつて北条も裏切った男、藤田信吉であった。

彼は沼田城に押しかけ、そこの城代をしている滝川一益の甥、滝川義太夫に対して迫った

「俺の城を返せ!」

義太夫「(;゚Д゚)ハァ?」

これには滝川義太夫もさすがにあきれ果てた。何故なら、沼田城が藤田のものだった時期など
一瞬とてなかったのだ。

確かに藤田は北条時代から武田時代まで、この沼田城に詰めていた。
だが北条時代は北条氏邦配下としてであり、武田時代は真田昌幸の配下として、沼田城代
矢沢綱頼の与力として、それぞれ守将の一人として勤務していたに過ぎないからである。

滝川義太夫はこう返答した

「そもそもこの城は、真田昌幸殿が我らに明け渡したのであるから、返せというなら
真田殿に返すのが筋である。少なくとも貴殿に返せと言われる筋合いはない!」

全くもって正論である。が、藤田はそんな正論に聞く耳を持つような、可愛げのある人間ではない。
彼は密かに越後の上杉景勝と連絡を取り、その支援を得て軍勢を集結、沼田城に攻め寄せ
たちまちのうちに水曲輪まで乗っ取った。

が、この時は未だ関東の滝川勢力は健在であった。義太夫からの報告でこれを知った一益は
6月13日、早速軍勢を率いて押し寄せる。藤田は滝川の大軍に沼田城攻めを諦め、越後の
景勝の元まで逃げた。

情勢の変化をいち早く見抜きいち早く行動しいち早く失敗した、ミスター上野国人、
藤田信吉と本能寺の話である。
0086人間七七四年2011/05/08(日) 02:11:29.19ID:e6DfUqIT
>>79
国語の成積悪いだろ?
0087人間七七四年2011/05/08(日) 02:20:25.32ID:63gkkJk4
まあ信長-秀吉みたいに一から引き立ててもらった立場と
秀吉-家康みたいに巨大勢力が臣従してきた関係では
そりゃ自然と期待される行動は違うわな
0088人間七七四年2011/05/08(日) 02:37:11.47ID:tBaDcalj
関ヶ原の時といい急時になると元気な奴だな
0089人間七七四年2011/05/08(日) 08:43:51.60ID:4jEqj5/V
そして、素早いだけで行動自体は空回りのあたりがなんとも
0090人間七七四年2011/05/08(日) 08:58:54.30ID:iz42pG+B
藤田さん、いち早く勝ち組についたのに何故か改易されてる。よくわからんな
目端は利くけど保身がヘタクソなというか
0091人間七七四年2011/05/08(日) 11:29:19.17ID:oUUM7OrL
明確に部下じゃなくなったのって将軍職に就いたあたりでいいのかな?
それとも大阪の陣?
0092人間七七四年2011/05/08(日) 11:31:36.44ID:CWGiIk4L
>>91
慶長十六年(1611)3月28日の二条城会見。あれははっきりした秀頼による
家康への臣従儀式。
0093人間七七四年2011/05/08(日) 13:47:30.50ID:Yxzp1z0j
>>90
大阪の陣の時に軍監権限でかってに軍を止めて藤堂井伊隊を見殺しにしかけて改易。
逸話見るに有能だがかなり身勝手な人物だったのかね
0094人間七七四年2011/05/08(日) 20:05:58.27ID:eAI+U6WX
育ちが複雑だからなんとか一旗上げたくて空回りしてたのかなあ

余談だが藤田信吉のwiki、「歴史小説「戦国大乱」などでも奸物として描かれており〜」と書かれててワロタ
それ歴史小説じゃなくてシミュレーション戦記(しかもスットコ超大作)…
0095人間七七四年2011/05/08(日) 20:14:24.62ID:oUUM7OrL
>>92サンクス
だから福島達があんなに警戒したのか
0096人間七七四年2011/05/08(日) 21:22:24.10ID:sSdH1ro8
多聞院日記と顕如上人貝塚御座所日記の記載より
天正14年3月3日
是より先、宇喜多次郎九郎等、千人切と称し、大坂に於て、人を要殺す、是日、秀吉、之を捕へ自殺せしむ

どうも大名衆の息子4,5人が千人斬り目指して、大阪で人を殺しまわっていて、すでに5,60人も死者が出てから捕まったみたい。
多聞院日記の同年2月21日に大谷紀之介が、悪瘡を治すために千人斬りをして、殺した人の血を啜っているらしい、と書いてあるけど、この記述のあとに大谷紀之介のことはただの噂だったね、とあるんで疑いは晴れたようです。
宇喜多次郎九郎がどういう人物なのか不明だけど、そうある姓じゃないんで秀家の親戚だろうね。

0097人間七七四年2011/05/08(日) 21:27:22.89ID:iz42pG+B
尋常じゃないな、この話。宇喜田の血族にはなんか呪いでもかかってるのかね
0098人間七七四年2011/05/08(日) 21:36:01.84ID:h0W2Azpy
娘たちの恨み
0099人間七七四年2011/05/08(日) 21:37:08.96ID:VboUssdr
前後三代分の良心が忠家と秀家に集中配分されたんじゃね?
0100人間七七四年2011/05/08(日) 21:55:07.07ID:FR4+IJt/
はじめまして。ここのスレのアイドル小田さんの本をみつけたので、その中からまだ未出であろう逸話を紹介させていただきます。
出典は小丸俊雄『小田氏十五代―豪族四百年の興亡―(上)(下)』(1979,ふるさと文庫)ですが、今回の逸話について本の中でも一次資料が記されていない上に、逸話の内容が内容なので恐らく信憑性は薄いと思われます。
まあ、民間の伝説の一つだと思って、かるーい気持ちで読んで下さい。
それでは本編をどうぞ。タイトルは『田土部合戦〜小田さんの勝ち戦〜』。

天正元年四月十一日。手這坂でボコボコにされ、砦台でもボコボコにされ、藤沢の城に落ちのびていた小田氏治。
それを今度こそ攻め滅ぼさんと、梶原美濃守景国、北条出雲守治高、真壁入道道夢といったいつもの対小田メンバーがおよそ一千騎を従え藤沢へと出発しました。
これに対し小田勢は菅谷、由良、行方刑部少輔などが一千騎を率いて迎え撃つ構えを見せました。もちろん、この存亡を賭けた戦に、当主の小田氏治さんも自ら兵を率いて出陣します。

梶原勢と小田勢は田土部川で遭遇。川を挟んで対峙することになりました。しかし、総大将は我らが小田さんです。
「対峙などしていられない、すぐに出撃だ!」
敵の目の前で渡河を始めました。現在の茨城県に田土部川という川は無いので、後世に残らないぐらい小さな川だったのかもしれませんが、それでも渡河は渡河です。梶原勢もチャンスとばかりに矢を射かけます。
しかし、あろうことか小田勢は対岸へ辿り着き梶原勢へ突入。鬼神の如き強さで敵を押しまくり、北条出雲守治高の息子、犬五郎を討ち取り梶原勢を小田城まで押し返すという大勝利を収めました。
(続く)
0101人間七七四年2011/05/08(日) 21:59:01.27ID:eAI+U6WX
宇喜多って血族少ないイメージあるけどそんな親戚いたんだろうか
そうとう前の分家かなあ
0102人間七七四年2011/05/08(日) 21:59:39.63ID:FR4+IJt/
これでめでたしめでたし、と終わらないのが小田氏クオリティ。
この敗戦において、梶原勢の石島駿河という人がただ一騎になって撤退していました。それを小田勢の伊渡賀正兵衛の子、伊渡賀甚助と、大塚道雲の子、大塚虎之助の二人が見つけます。
「いくぞ、虎之助! マグネットパワー・プラス!」
「任せろ甚助! マグネットパワー・マイナス!」
「「クロスボンバー!」」
甚助と虎之助は石島駿河を挟み撃ちにして槍で突きました。ところが運が良かったのか、穂先は草摺の合わせ目に当たり、石島駿河はほとんど無傷でそのまま逃げていきました。

さてその後、手柄を逃した甚助と虎之助は呑気なもので、自陣でこのことを色んな人に話していました。
「いやぁ、鍋の中の鳥を打ちもらしちゃったよ」
「ほんとほんと。運が悪かったぜ」
これを聞いたのが彼らの親です。自分の子供が手柄を立てられず、中途半端に傷を負わせて敵を逃がしたのが恥ずかしかったのでしょうか。すぐに手紙を書くと使いを出して石島駿河に送りました。
届いた手紙には次のようなことが書かれていたといいます。
「今回はウチのバカ息子たちの若気の至りであなたを討ちもらしてしまいました。お怪我は大丈夫ですか?」
(原文:こなたの倅共、若気故に貴殿を討ちもらし候。手疵は如何に候や)

これを読んだ石島駿河も、律義に手紙を返しました。
「わざわざお手紙ありがとうございます。お宅の息子さんたちがへっぴり腰だったおかげで助かりました。まあ、大した怪我ではありません。次の戦場で機会があったら、また槍を合わせましょう」
(原文:御使かたじけなし。御子息たち腰がぬけ、この石島駿河助かり候。手疵なるほど軽く候。お気遣いあるまじく候。重ねて一戦の節、返礼申さん)

息子の尻拭いを親がするのと、勝ち戦でもどこか抜けてる小田勢のしまりの悪い話。
0103人間七七四年2011/05/08(日) 22:10:07.83ID:5GjxMXKN
長文だけど、まあまあ面白かった
0104人間七七四年2011/05/08(日) 22:53:19.40ID:JUCNKalk
987 名前:通行人さん@無名タレント[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 22:27:57.59 ID:FWiLxJmu0
楽しんごが大切にコレクションしていた、大量のホモDVDを売却し、
その金を義援金として日赤に送っていたそうです。
本人は「僕お金無いのでこの程度のことしか・・・」とコメント。
芸人仲間の間では話題になってます。 
0105人間七七四年2011/05/08(日) 23:06:31.09ID:EU92LFgI
信吉は何の後ろ盾もない状況から、よく頑張ったと思うけどなあ

あと信吉に限ったことじゃないけど、wikiの作品の項目にゲームや漫画を載せるのも自重してほしい…
0106人間七七四年2011/05/09(月) 01:06:05.01ID:KESICShn
小田勢て、ガチ殴りあいになると強いよね。
大将の戦略戦術があれだから局地戦で挽回するしかなかったのか。
0107人間七七四年2011/05/09(月) 01:16:38.63ID:4DirppR1
関東の中小の領主さまのところは、なんだかんだいっても
小競り合いには強いと思う。那須さんのところとか
0108人間七七四年2011/05/09(月) 01:40:03.60ID:USX/iMwo
確かに那須は追い込まれてからが強いよねw
0109人間七七四年2011/05/09(月) 01:55:26.78ID:1m0vamNm
那須が意味不明なのは家中不一致の極みなのに合戦になると団結するとこ
義重からしたらなんで調略できないのかわからんかったろうな
0110人間七七四年2011/05/09(月) 12:26:57.00ID:nINtvDaI
家中の連中も嫌いだけど
他家の連中はもっと嫌いとかなのかね
0111人間七七四年2011/05/09(月) 13:53:29.77ID:veRne1dA
>家中不一致なのに合戦になると団結するとこ

初期の徳川(松平)でも同じことやってるので、
1国以下の大名系は大体そう。
0112人間七七四年2011/05/09(月) 19:00:46.64ID:XB4kshqF
那須は守ると強いが頭数が慢性的に不足してるので城攻めは割と失敗する
0113人間七七四年2011/05/09(月) 21:35:29.50ID:QF8TEyaG
内輪で仲良く(?)ケンカしてるのに邪魔すんなって感じなのかなw
0114人間七七四年2011/05/10(火) 09:48:25.57ID:h7GnXY96
大阪冬の陣で和議の機運が起こると、徳川方に対し先ず最初に人質を出したのは、
事もあろうに大阪方総大将たる織田有楽斎であった。

大阪城の人々はこの有楽の行動に大いに疑念を持った。が、ともかくも和議は成り
戦争は終わった。
すると有楽は駿府の本多正純に使者を出し

『今回、入道(有楽)は思いもかけず大阪の城に籠ることになりました。
そこで私は大阪を脱出してそちらの御陣に馳せ参じようとしたところで、東西御和睦の事が
成りました。
この上はどうか(家康の)お許しをいただいて、京堺の間で隠居をし、余命を送りたいと思います。』

と言う表明をした。

さて、和睦は続かず大阪方は再び挙兵。夏の陣、起こる。
ところがこの時、未だ大阪城内にあった有楽の4男、織田長政が、「今度は自分が総大将になる!」
と言い出した。

大阪城内の人々は父の有楽の行動、特に和睦前後のことに強い不信感をもっており、長政の言葉を
誰も認めようとしなかった。
これに長政は激怒し

「私は織田信長の甥であり、淀殿の従兄弟である!大将を承れない理由がどこにあるのか!?
この上はこの城に籠っても意味が無い!!」
(我れ信長の甥にして淀殿の従弟なり、大将軍を承らんに何條かあるべき、この上は城に籠って栓なし)

と言い捨て大阪城を退去、京に向かった。

大坂の陣における織田有楽・長政親子についての逸話である。
(藩翰譜)
0115人間七七四年2011/05/10(火) 09:54:25.26ID:je+WCWhH
大阪はすでに淀に乗っ取られ織田の城になっていたということか
徳川も織田へのリベンジに燃えていたんだろうね 織田を滅ぼし戦国が終わった
0116人間七七四年2011/05/10(火) 10:25:44.94ID:AFo/KJlI
アカデミー賞モノ…なんじゃないのかな?
0117人間七七四年2011/05/10(火) 10:55:40.55ID:1iSoXTnu
大名の妻が当主代行を務めてその一族が後押しするのは、戦国時代じゃよくある事

ただ本来は正室の役目なんだが高台院様も木下一族も…な
すごい勢いで身を引いていってるから、結果淀殿に乗っ取られたというか押し付けたというか
0118人間七七四年2011/05/10(火) 11:30:20.88ID:P/dCe96P
木下一族からしたら秀吉の無茶な立身は逆に迷惑だったぽいからな
大政所や朝日姫なんか悲劇もいいとこだぜ
0119人間七七四年2011/05/10(火) 12:22:35.08ID:PL68Hs9m
関ヶ原のときといい、なんでこんなに統率がとれないかね
こういうエピソードが多いから秀頼名君説ってのがウソくさいんだよな
0120人間七七四年2011/05/10(火) 14:32:13.49ID:yPFubTf1
>>114
織田頼長 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%A0%BC%E9%95%B7
のエピソードのような気が。
0121人間七七四年2011/05/10(火) 19:51:35.28ID:sN7ju7Ad
>>117
上州だか信州で大名の妻が当主代行を務めて
その一族を押し出しかました事もあったな
0122人間七七四年2011/05/10(火) 20:13:17.47ID:jYNI/f62
>>121
この人かな?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-531.html
0123人間七七四年2011/05/10(火) 20:16:01.20ID:h7GnXY96
>>120
藩翰譜では織田長政の話だったので出典の通りにしました。
0124人間七七四年2011/05/11(水) 06:09:07.35ID:1QWZDUmh
もう”長政”多すぎ
0125人間七七四年2011/05/12(木) 01:10:17.42ID:po1iGnjT
信長の諞諱は>>114と浅野だっけ?
0126人間七七四年2011/05/12(木) 07:40:08.30ID:DdGZk4hB
佐久間信信殿が…
0127人間七七四年2011/05/12(木) 10:05:58.85ID:7UYrz5qL
慶長5年(1600)7月28日の事、上杉景勝の白石城を攻略し、さらに梁川城を攻める準備を
活発化させていた伊達政宗のもとに、下野国小山より、徳川家康よりの使者、中澤主税が
訪れた。

中澤は白石に陣していた政宗に対面、家康よりの口状を申し上げる

『石田治部が佐和山を出て大阪へ上り、諸大名を相語らい、謀反を企てたとの情報が入った。
貴殿(政宗)は人質を大阪に置いている。我々に味方する方針はどうされるか?
仮に我らから離れ石田以下の者たちに同心しても、それを怨みには思わない。
これを貴殿に伝えておきたいため、この使者を差し下す。』

政宗これを聞くと

「さても内府の仰せとは思えぬことだ!人質があっても、私が石田・増田の謀反の味方をして
内府の敵になる謂れは無い!
出羽・奥州の連中が皆二の足を踏んだとしても、この政宗一人は内府のお味方である!
この旨を良くお伝えあるように!」

と、中澤に言う。すると中澤、不思議なことを言い出した

「私が小山を出る時、内府公はわたくしを側に近づけ、『伊達殿が我らに一筋に心を寄せると
言ったなら、お前は3日間逗留してそれでも意見が変わらなければ、伊達家の家老、その他諸士の
考えも聞き定めた上で、もう一つ、隠密の口状を伝えるように。』と、密かに申し聞かせられました。」

これを聞いたとたん政宗は

「今このクソ忙しい時期に、お主が3日も逗留する必要など無い!
私が既に覚悟を決めている以上、家中の者たちに二心などありえない。
さっさとその、隠密の仰せとやらを伝えるがいい!」

すると中澤、政宗の耳の側まで行き

「…内府公は状況次第で、上杉景勝を捨ておいて上方を退治しようとする内存を持っておられます。
そうなった時、仮に景勝が内府公の跡を追撃しようとするならもちろん別ですが、そうでなければ
伊達殿はお働きを止められ、ご領地を固められる事こそ肝要となります。
景勝と決戦をして、もし何らかの失態があれば上方の戦の妨げとなるからです。

この旨ご承知あれば、後日に景勝の領地を伊達殿に参らせるつもりだが、現時点でこの事を公言
するのは世の評判もいかがかと思われるので、家臣にも伝えず伊達殿に直に、密かに伝えよ。と、
内府公は私に申し聞かせました。
もしご加増の御朱印をお望みなら御使者をお出しください。私が宜しく取り計らいましょう。」

これを聞くと政宗、大きなため息をついて

「白石の城を攻め落とし、これから梁川の城を攻め取ろうとしている時に、すごすごと領地に
引き帰るというのは返す返すも口惜しい!しかし内府の仰せであれば背き難し…!
仕方がない。残念であり不本意でもあるが苦渋の決断で仰せを受け入れよう。

ま、それはともかく御朱印の件は御辺の取持を頼み入る。」

と、テキパキと家臣の山岡志摩に今井宗薫を添えて小山の家康の陣所へと送った。
これを家康は大いに喜び、早速御加恩の御朱印を与えたという。
後世に言う百万石のお墨付き、である。

まあご存知の通り、政宗も家康の自重命令を守らなかったし家康もこの御朱印を反故に
するんですけどねw

それにしても最初から腹の探り合い感がありありと見える、百万石のお墨付きが出るまでのお話。
(関原軍記大成)
0128人間七七四年2011/05/12(木) 13:45:49.47ID:86wSa66r
>>127
そして、上杉は西進する家康軍を放置して最上領に侵攻…
東軍・西軍の両陣営がてんでバラバラな動きだものなぁ
0129人間七七四年2011/05/12(木) 14:08:48.37ID:WjtmXJbM
人物叢書の立花宗茂を読んでいたら
立花宗茂の隠居した後の号が立斎(りっさい)なのは
立花左近将監、略して立左(りっさ)からそのまま取ったものだと書いてあった
呼ばれる時響きが同じ方が便利だからとかなんとか

それを見た時はえーw不精しすぎwwwこれは悪い話じゃねwと思ったんだけど
考えてみたらおらが国の殿さまである蜂須賀家政も
蜂須賀阿波守→蜂阿(ほうあ)→蓬庵(ほうあん)
かもしれない
蜂庵って署名してる制札見た事あるし

もしかして、案外あること?
0130人間七七四年2011/05/13(金) 00:54:33.26ID:d9zbWVzo
号の付け方に関しては「凝らない方がむしろ粋」つうような価値観は確かにあると思う
伊藤博文の号である春畝だって通称である俊輔の音読みだし
0131人間七七四年2011/05/13(金) 02:17:33.51ID:T3B8ingD
号なら有名どころだけど「幽斎玄旨」が好きだなあ
自分が当代一の歌人だっていう自負が垣間見える気がする
0132人間七七四年2011/05/13(金) 03:45:05.44ID:V6VEQzNH
天庵の元ネタは何ぞ?
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