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戦国ちょっと悪い話26

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0001人間七七四年2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/

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戦国ちょっといい話26
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0133人間七七四年2011/05/13(金) 08:19:43.08ID:WepPc5uT
>>71
この人は市松とも従兄弟かな?
いくら従兄弟にしても歳が離れてるね。
0134人間七七四年2011/05/13(金) 08:31:55.86ID:rLeQFmNb
>>132
オレは天才だ、案じるな
0135人間七七四年2011/05/13(金) 10:04:49.22ID:P1kJUoGw
周囲には、天災なんだろうけどな
0136人間七七四年2011/05/13(金) 10:52:59.77ID:zg7sWHRw
大内義隆と言えば男色女色区別なく、色事に実に名を馳せた人でもある。
そんな義隆があるとき、人もあろうに正妻・貞子(万里小路秀房(公家)娘)の侍女、おさいに
ラブレターを出した。

この亭主の浮気を知った貞子は、おさいにこのような和歌を送った

『頼むなよ 行く末かけてかはらじと われにもいひし言の葉の露』
(義隆様の言うことを信用してはいけませんよ?自分の愛は将来にわたってずっと変わらない、
なんて事をあの人は、私にも言ったのですもの)


大内義隆がどんなふうに女性を(もしかすると男性も)口説いていたか、みえてくるような
話であるw
0137人間七七四年2011/05/13(金) 11:34:27.35ID:W69l+B63
陶さんが八方美人ぷりに嫉妬するわけだ
0138人間七七四年2011/05/13(金) 11:59:23.99ID:sdfBJIpw
生まれる時代を間違えたな、義降さん
0139人間七七四年2011/05/13(金) 12:00:13.37ID:NipbUbJ/
既出だよ。確か2回くらい出てる。
0140人間七七四年2011/05/13(金) 12:07:25.13ID:P1kJUoGw
陶さんには、お手紙こなかったから…
0141人間七七四年2011/05/13(金) 12:21:32.24ID:kvBJkGGE
>>139
この和歌は初出だな
0142人間七七四年2011/05/13(金) 17:31:05.27ID:1EOL3Cdz
山口の王の色狂い、ザビエルもあきれた。
0143人間七七四年2011/05/13(金) 17:46:07.00ID:1EOL3Cdz
白井河原の合戦 和田惟正の最後(1)

フロイスの日本史において何度も触れられる和田惟正、
彼はキリスト教の布教に大いに協力した。
フロイスに信長との会談を何度も取り次ぎ、その教義にも耳を傾け続けた。
が、遂には授洗しないまま最期を迎えた。終焉の地は白井河原であった。
1571年、当時の摂津であるが、名目上諸侯、国人は信長に臣従しつつも、
互いに牽制、鎬を削る緊張状態であった。
特にこの地の旧家池田勝正を放逐した荒木村重、及びその茶仲間でもある中川清秀、
それに対する和田惟正と茨木茂朝とが敵対し、遂には信長の配下同士が勝手に合戦をする
というということになってしまった。
和田惟正が白井河原の戦場に到達したとき、彼の配下はわずかに馬回り200名に過ぎず、
500以上の主力は息子の惟長と共に到着が遅れたのであった。対する荒木村重勢は2500である。
0144人間七七四年2011/05/13(金) 17:48:45.41ID:1EOL3Cdz
困った和田惟正、河原の草むらに軍馬を隠し後続の到着を待つことにした。(2)
この時の和田惟正のいでたちは、南蛮風白銀造の鎧、胸に十字架、
兜の上にイエズス会、カブラルから贈呈された帽子をかぶっていた。
枢機卿の帽子の如く、高価な羅紗でできた真っ赤な幅広帽、ひどく目につくものであった。
目ざとくこれを見つけた荒木村重、大音声で遥か川向う、身を潜めたつもりの和田惟正に声をかけた。
「されもきらびやか、派手やかな和田殿の大将ぶり、見事なもの。さえど臆されたようでござるな、
尋常に勝負をいたそうではないか、なんなら大将同士でもよいぞ。なんだ、なんだ、隠れたつもりでござるか、
耳が遠くなるにはまだ早いのではござらぬか、聞こえているはずだが、
急に耳の具合が悪くなったのでござるか?南蛮の教えならよく聞こえるのでござろうがな。」

両陣の兵、荒木村重の軽妙な挑発に、どっと哄笑を上げた。
これにみるみる赤面し激した和田惟正、周囲の諫めに耳を貸さず、決戦に応じてしまったのである。

善戦するも、和田惟正、村重の鉄砲で深手を負い戦場からの離脱を図るが、これまた村重の目にとまる。
村重が、討ち取ったものには恩賞を約すると、中川清秀が馬を駆け、惟正の首を上げたのであった。

信長に西摂津守護を任じられた和田惟政のあっけない最後

0145人間七七四年2011/05/13(金) 17:52:12.78ID:1EOL3Cdz
すまん、和田惟政のまちがい。
0146人間七七四年2011/05/13(金) 18:00:34.65ID:LGVCBko7
両陣って味方にまで笑われたのか?
0147人間七七四年2011/05/13(金) 18:07:27.06ID:V6VEQzNH
元亀二年に南蛮鎧・・・
0148人間七七四年2011/05/13(金) 20:55:16.21ID:sIauZOqv
和田惟政討ち取ったり、本願寺に兵糧をこっそり売って
荒木村重謀反のきっかけをつくったり
妹がゲヒ殿の嫁だったりとなかなか面白い中川清秀
0149人間七七四年2011/05/13(金) 21:10:23.02ID:sFpiHO4U
>>147
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1163.html

さすが良く御存じ、この時代には南蛮鎧ありませんでした。

黒木了「荒木村重、惜命記」に載っていたのを鵜呑みにした間違いです。
0150人間七七四年2011/05/14(土) 00:09:25.49ID:mBAtBIRG
関ヶ原の時のこと。

石田三成の挙兵後、毛利輝元を大阪城西の丸に入れるなど、西軍は一応の体制を整え方針も決まり、
三成は一旦、その領地である佐和山へと帰った。

と、その途中三成は京極高次に対面したいと、使いをその居城、大津に送った。
京極高次はかねてより徳川家康と親しい人であったが、三成の要請を受け入れると、本丸から三の丸へと移動した。

三成は大津城大手門の外で、乗り物より降りた。その日は小雨が降っており、三成は羅紗の合羽に塗笠をかぶり、
手回りだけの少人数で城内へと入った。
高次と対面すると、三成は手を付き頭を下げ「天下泰平の時が参りました」そう挨拶した。
高次はこれに

「治部殿に取って元より余儀なき企てであれば、必ず本意を遂げられることでしょう。
このような時期、一刻も早く帰城して様々な評定を成したい所でしょうから、わざと本丸よりも
出口に近いこの三の丸まで出向いて、お目にかかりました。」と返す。

さてその頃、京極高次の重臣、安養寺門斎は同僚の黒田伴與に向かってこう主張していた

「この一乱の張本人である三成がこの城に来たというのは、正に天の与えた好機である!
いざ三成を召し捕り、大手の門前にいる三成の勢を討ち取ろう!」

しかし黒田はこれに同心しようとしない。そこで同じく重臣である山田三左衛門、赤尾伊豆も呼び
再びこの事を語ったが、3人共に同意せずこう反論した

「今三成を手篭めにすれば、敵の大軍が寄せきたりてこの城は攻め滅ぼされてしまうだろう。とにかく落ち着け!」

しかし安養寺は負けずになおも語る
「先日、殿(高次)は我らを召しだして何とおっしゃったか!?『三成常に奢りを極め、今また無益の乱を起こした。
であれば私は、天下の御為に神明を捨てて内府(家康)に属し、かの三成一党を誅殺する。お前たちも
忠義を成すべし!』そう、仰せられたではないか!

その上は今更滅亡など恐れるべきではない!それに、三成を召し捕えれば敵の大軍が囲むから
籠城しても危うい、というのは心得難い。殿が三成一派との対決を決意している以上必ず戦端は開かれるが、
仮に三成を何事も無く佐和山に帰したとしても、その時寄せての人数が少なくなるとでも言うのか!?

もし、そなた達の言うように敵の大軍に攻め囲まれ籠城が終に成し難くなれば、その時は三成を刺殺し、
宰相殿(高次)へ御自害を勧め、我らは一箇所に並んで腹を斬れば良いのだ!」

「お主の言うことは確かに理がある。が、内府のために京極の御家が断絶するのでは納得できようはずもない。
その上現在の状況は、三成一人を殺したからと言って世の中が治まるというものではない。
とにかくそういう考えはやめるべきだ。」

これに安養寺怒り
「そなた達の言うところは、宰相殿の一筋なるご心中と相違しているではないか!
先日私が少しばかり申し上げることがあって殿の御前に参った折、殿はこのように言われた

『去去年より伏見・大阪にあって内府に心を寄せたこと、これは私の粗忽の上ではない。
また、太閤の恩を忘れて、私的な好を求めたのでもない。心に一片の後ろめたさはない!』

このようにはっきりとした表明を承っているというのに、我々は別の思案を成そうとしている。
もし、敵味方の筋目について各々が未だに疑念を持っているのであれば、これからその事を議論しよう。
ただし!当家の存亡を重視するあまり、東西の勝負が決着するまでに議論が終わらない、などと言う事態になれば
必ず後悔しますぞ!」

しかしこのような議論をしている間に、三成は高次の前を退去し城を出てしまい、安養寺の企ては終に虚しくなった。
石田三成の大津城訪問に関する逸話である。(関原軍記大成)
0151人間七七四年2011/05/14(土) 01:54:32.89ID:bnQ6beE0
日本製の南蛮甲冑は後の時代だろうが
向こうで使われてた鎧なら鉄砲とかキリスト教が伝来
した前後には日本に輸入されてるだろ
まあ資料には残ってないだろうが
0152人間七七四年2011/05/14(土) 10:14:34.24ID:UeH06OST
記録に無いものをあったと言い張るのはちょっと・・・^^;
0153人間七七四年2011/05/14(土) 11:15:31.99ID:rQ9RKmzh
そう言えば創作物で南蛮具足を着させられがちな信長だが、今は研究者でも南蛮具足どころか
当世具足以前の「むしろ伝統的な甲冑の方を好んだだろう」みたいな意見のほうが多いな。
0154人間七七四年2011/05/14(土) 11:24:36.42ID:7FmX8eo6
「だろう」でいいなら、なんとでも言えるw
0155人間七七四年2011/05/14(土) 11:25:59.31ID:rQ9RKmzh
>>154
そもそも信長の南蛮具足には何の史料的根拠もないところから話が始まっているからな。
0156人間七七四年2011/05/14(土) 12:28:33.44ID:4mFd0yhj
直江兼続「愛の兜」といえば、諸説あるわけですが
1.愛宕権現
2.愛染明王
3.愛民(司馬遼太郎提唱)
が定番ですね(大河「天地人」は3番目を採用)。

ここで日本では知られていない新説を一つ


直江兼続の兜の「Ai」は、彼の領地の「Aizu」からとったものなんだよ!!

Samurai Commanders (2)1577?1638
http://www.ospreypublishing.com/store/Samurai-Commanders-(2)_9781841767444

著者のステファン・タンブル(Stephen Turnbull)は東アジア専門家で、BBCの
日本歴史モノなんかでもよく監修やってんだけど、その他の記述からしてどうも
漢字読めないみたい・・・でもこの人が広く欧米で知られる専門家なんだよねえw

このオスプレイ社の絵入り歴史本は日本にもファンが多いけど、特に東アジアモノは
故アンガス・マクブライド(Angus McBride)以外の絵師は細部が適当になり勝ち 。
困ったもんです。
0157人間七七四年2011/05/14(土) 12:35:37.29ID:XiKtDkIp
まさしくな、なんだってー!?だなあww
0158人間七七四年2011/05/14(土) 12:39:07.31ID:wlrmg0NX
こんな時、どういう顔をすればいいかわからないの
0159人間七七四年2011/05/14(土) 13:05:33.21ID:Oxlngexe
日本にも、ジェロニモ=地浪人者と言い張った人が居たけど・・・外国のウィキペディアなんかで、大友氏と大伴氏が同じ家系だと思われてたりするのは、この人のせい?
0160人間七七四年2011/05/14(土) 13:13:21.97ID:i5LzNsHw
>>158
笑えばいいと思うよwww
0161人間七七四年2011/05/14(土) 14:23:58.55ID:BqaWiTx3
そういやCSI科学捜査班の某エピソードで、
日本の古美術を扱った骨董品屋が殺人現場だったんだが
そこで「17世紀の鎧兜」という展示品を観た主人公達
「日本の軍隊ができたのはいつだっけ?」
資料を調べて「19世紀に明治天皇が作ったとあるわ」
「なんで19世紀のはずの鎧が17世紀のものとして展示されてる?この甲冑はニセモノだ」

おい
0162人間七七四年2011/05/14(土) 15:13:16.27ID:uK4nXgwp
>>161
侍の存在を知らなかったのか、その脚本家は。
0163人間七七四年2011/05/14(土) 15:19:43.87ID:/UXP2Lgy
「17世紀の日本は争いのない平和な国」とでも聞かされて育ったんじゃないかな
19世紀になって幕末維新のときに日本初の洋式軍隊が出来たから、それと誤解しているっぽいね
0164人間七七四年2011/05/14(土) 15:37:31.80ID:oN0VpKTu
第三次川中島の戦いで上杉謙信は勝敗がつかないので
武田信玄に和解を申し出た。
両将は千曲川の両岸に腰掛けて対面する手はずだった。

馬に乗って岸までやってきた謙信は「のろまと思われたくない」
と思い、さっと馬から降りて床几に腰掛けた。
ところが信玄はというと鞍を直すような仕草をして馬から降りない。
「苦しからず。景虎殿、馬に乗られよ」
信玄の言葉に怒った謙信は馬に乗って帰ってしまった。

謙信の使者がやって来て言うには
「わが家は鎌倉権五郎景政から梶原景時まで五代、それから代々
続いて為景、景虎となる。頼朝公の富士の巻狩りのときは頼朝公の
次に梶原、武田はその次だった。それに今は上杉で、関東管領だ。
そちらの態度は無礼ではないか」とのことだった。

それに対して信玄は
「梶原は頼朝公とりたての家来、武田は将軍家のお相伴役だ。
機会があればどんな身分でも君主の側に近づけるのは今も昔も
変わらないことで、それが家の系譜にはならん。

上杉憲政は悪政が原因で天に見放され、北条氏康に敗れて
嫡子を捨てて越後に逃げた。そんな憲政から管領職を譲られたのが
景虎であろう。わしに無視されたなどといって腹を立てるのは無分別
である。堪忍の二字を分別することだ」と言い返した。
いよいよ謙信は怒り、また合戦とあいなった。
0165人間七七四年2011/05/14(土) 15:38:07.00ID:HraE8ODr
離れている他国の歴史に興味持つ人間なんてまずいないもんだ。
0166人間七七四年2011/05/14(土) 16:01:13.80ID:29EnhITp
大和朝廷の時代から九州に君臨していた?tomo氏といい
どうもあちらで知られている日本の文献は相当いい加減なんじゃないかと思わざる負えない
0167人間七七四年2011/05/14(土) 16:08:21.05ID:35RSkqk+
>>164
このエピソードだけだと謙信のほうが小物っぽいけど
信玄のほうが礼は逸してるのかな

>>165
普通ならそれでいいんだけど、
仮にも脚本家なら自分の書く部分について少しは勉強しろと言いたい。

0168人間七七四年2011/05/14(土) 16:34:25.52ID:tXOkPD2H
>>167
いや、そのドラマ見た事ないけど
>>162みたいなのは脚本家はわかった上での小ネタじゃないの
もちろん視聴者にもわかることが前提の
「日本にはニンジャがいるんだろ?」「今度の旅行で会うのが楽しみね!」みたいなあれ
もし>>162のエピソードで鎧が17世紀のものだから偽物であることをキーにして話が進むなら
脚本家の無知なんだろうからすまんが
0169人間七七四年2011/05/14(土) 17:16:49.94ID:LJ4sQyC0
>>100

>出典は小丸俊雄『小田氏十五代―豪族四百年の興亡―(上)(下)』(1979,ふるさと文庫)ですが、
今回の逸話について本の中でも一次資料が記されていない上に、逸話の内容が内容なので恐らく
信憑性は薄いと思われます。


出典は『東国戦記実録』とか『小田天庵記』あたりだね。これらの軍記だと小田氏治は
腹を十文字にかっさばいて潔く自害するし、『東国戦記実録』では片野三楽・梶原美濃守親子が


「太田重郎弓押取、暫ク覗ヒテ兵ト射ル。其矢誤タス梶原美濃守ガ首筋ヲ射切タリ。
三楽ハ古沢弾正ニ討レケレバ、残ル者ドモ地ニ臥テ降参セリ」


って感じで佐竹や多賀谷に攻められて殺されたりするから史実の勉強に最適だと思うよ。
0170人間七七四年2011/05/14(土) 17:27:58.95ID:uK4nXgwp
>>164
第三次の段階じゃまだ上杉になっとらんやん…
0171人間七七四年2011/05/14(土) 18:03:44.26ID:ncSSilCw
洞が峠の順慶

本能寺の変より数日経てのことである。
池田常興からの三人の使者が大和郡山の筒井順慶のもとを訪れた。
何れも思いつめた表情である。
主人池田紀伊守からは、光秀と姻戚関係であり、日頃親しい筒井順慶。
彼の意中を探るように命じられていた。
三人は、筒井順慶と刺し違える所存であったが、
主人は「お前たちを死なせれば、私はわが腕を失うようなものである。」と三人を諌めた。
が、彼らは「自分たちが死すとも、味方が助かればそれでよい。」と捨て身の構えであった。

が、思いのほか、筒井順慶は信長公を弔う気持ちはあれども、光秀への加担する気持ちは
露ほども伺われず、まことに神妙な面持ちでもあった。
三人は安堵と共に気勢をそがれ帰途に就いた。

が、帰途の途中、順慶の傍らに静かに侍していた牧野兵太という若侍、
その姿が三人の使者の脳中にありありと蘇ってきた。
そのただならぬ眼光は殺気を放っていた。

筒井順慶ならではの用心深さであった。

常山奇談より
0172人間七七四年2011/05/14(土) 18:06:16.40ID:wlrmg0NX
若い頃から苦労してるもんなー、この人
0173人間七七四年2011/05/14(土) 21:36:34.99ID:iuXQRL32
三人の使者も相当な殺気を放っていたと思われるがw
0174人間七七四年2011/05/14(土) 22:12:35.38ID:oN0VpKTu
>>170
その辺はあの軍鑑なので…
0175人間七七四年2011/05/14(土) 23:06:42.48ID:gPGCNB1c
既出だが三歳公バージョンで

三斎公の述懐

昔々のことじゃが、伏見城内で豪胆なワシも冷や汗をかくが如きことを見聞したのじゃ。
秀吉のやつが、家康公を始め諸侯の居並ぶ前で、自分は弓矢の道で
未だかって不覚をとったことはない、と自画自賛し始めた。
みな、また始まったかと聞いておったが、権力者の前だからひれ伏しておった。
ところが家康公、いきなり「それは殿下の前とはいえまことに異なり、小牧長久手のことを忘れましたか?」
と立ち上がって言い始めるではないか。
やっちまったか、と皆手に汗を握ってしまった。

秀吉のやつ、プイと中に引っ込んでしまったから、皆心配して、
「殿下の戯言でござるから、相手になされるな。」皆、家康公を宥めたのであった。
しかし、家康公も「武道のことは絶対に譲れない、殿下から勘気を被ってもかまいはしない。」
とこちらもむきになっての有様。

秀吉が気を取り直して又出てきて、何食わぬ顔で雑談を再開したので、ほっとしたのであった。
わしもその頃は若かったから、田舎くさい大人げない連中だな、と思ったもんだったが
これは秀吉が家康公を試したんだな、きっと。

機嫌を取り結ぶために武の道まで譲る輩なら、信用できんとな。
中国にもよく似た話、曹操劉備の似た話があるだろう。
ったく、世渡り、人付き合いは気を使うもんだよ。

東照宮御実紀付録より
0176人間七七四年2011/05/14(土) 23:23:39.20ID:gsmF1pzl
三斎って豊臣家滅亡後は旧主秀吉のことを「秀吉のやつ」呼ばわりしたの?
そしてそれを「みな、また始まったかと」呆れて聞いてたの?
随分口が悪い話だね
0177人間七七四年2011/05/14(土) 23:27:52.02ID:YVCOhpfp
旧主って言っても三斎さんは豊臣政権では結構冷遇されてるからねえ
0178人間七七四年2011/05/14(土) 23:28:53.82ID:7tH3s6aC
三斎さんが秀吉に対していい感情を持てるわけないだろうと…
0179人間七七四年2011/05/14(土) 23:31:01.89ID:gsmF1pzl
まあ『東照宮御実紀付録』ではちゃんと「豊臣殿下」、そして秀吉の自慢話をみな
「仰せのとおりであると大いに感じ入った」と書いてるんだけどね
意味分からんところで勝手に改変すんなよ
0180人間七七四年2011/05/14(土) 23:31:13.55ID:GPodgK7E
なら山崎の合戦で嫁の親父の味方してやれよw
0181人間七七四年2011/05/14(土) 23:34:28.37ID:TE93+LG6
嫁のことは抜きにしても、秀次派だったんだよね。
お金のことでお世話になっていたから。

ところで秀吉の資金源ってなに?
直轄地は300万石に満たないくらいだったんでしょ
使い方の派手さに釣りあわない。

落城させた北条資金がたんまりあったとも思えない
0182人間七七四年2011/05/14(土) 23:36:07.66ID:GPodgK7E
全国の金山、銀山の直轄
0183人間七七四年2011/05/14(土) 23:45:42.03ID:gsmF1pzl
200万石の蔵入地から直接挙がる租税だけでなく、
日本各地で米の独占販売を行い、そこから巨利を得ていたらしい
その他には金山銀山の収入、金融業・物流業・製造業からの運上金、
堺のような都市からの献上金などなど
千利休や本阿弥光悦のような怪しい文化人とつるんで
タダ同然の値段で取引されていた茶道具や刀剣、古筆を高く売ったりもしてた
余りに金儲けが上手すぎたので、伝記作家である小瀬甫庵からも苦言を呈されていた
0184人間七七四年2011/05/15(日) 00:00:22.94ID:yD3wszSU
>>182>>183
d 石見銀山の上がりを毛利を折半した話を聞いたことはあったけど
>>183で納得
0185人間七七四年2011/05/15(日) 00:21:47.69ID:O5CBFxMR
江戸幕府みたいに支配が強固で、しかも諸大名の封土がモザイク化している状態なら
天領が全国各所にあっても無問題だけど、太閤蔵入地の多くは諸大名の所領のうち
「ここは太閤様の蔵入地に指定したから、あんたはここからの年貢は太閤様に代わって
取り立て、その年貢を太閤様に収めてね」って感じで、諸大名にとってはピンはね
されていくようなものだったから、問題ありすぎた。

結局、豊臣政権の求心力低下と、関ヶ原後に家康が蔵入地は諸大名に
戻しますよ〜ってしたことによる支持の上昇の道具にしかならなかった。
0186人間七七四年2011/05/15(日) 00:34:24.00ID:7+Ntti+A
>>179
出典明記しても改変してちゃ何にもならんな。
何でこういうことするヤツがいるんだろうね。
0187人間七七四年2011/05/15(日) 00:44:00.94ID:PyWULXvg
医師の施薬院全宗は羽柴秀吉に従い、中国戦線の陣にあった。

さて天正10年(1582)6月、秀吉も本能寺の変を知る。
この時秀吉は施薬院に、急ぎ上京するよう命じた。しかし施薬院はこれを拒んだ

「私はここまで来た以上、京にも筑前様(秀吉)のお供をして上りたいのです」

秀吉はこれに
「いやいや、我が家のためでもあるのだ。必ず上京してほしい。道中の用心のため
これを与えよう」

と、槍一本を下され

「お手前は運のいい人である。今後天下を取るのは、わしか明智のどちらかとなるだろう。
丁度お主は我らとも明智とも関係が良い。これは家のためには好都合である。

さて、上京した上で明智に対面し、このように伝言してほしい。

私は長年合戦をしてきたが、大将と直の太刀打ちという物はしたことがない。
この度は三日の内にも畿内に上るつもりである。あなたは主人の敵であるから直の太刀打ちにて
勝負を決しよう。」

そのころ光秀は下鳥羽に陣していた。
施薬院はそこまで行き、光秀と対面して秀吉の伝言を伝えた。
光秀はこれを聞くと施薬院にこう、声をかけた

「そなたは運のいい人である。天下は秀吉かそれがしか、このどちらかが取るであろう。
お手前はその両人と関係が良いな」

と、先に秀吉が施薬院に言ったことと、全く同じことを光秀も言った。
そして施薬院が御前を下がろうとすると

「いや待たれよ、盃をさそう」

と盃を取り交わした上で

「洛中は未だ騒がしい。用心のためにこれを持たれよ。」

と、槍一本を贈った。これも秀吉のしたことと全く一緒であった。
ただ光秀の方は、施薬院と話をしている間に『もはや御出あれ!』と3度まで使いが来たそうである。


施薬院全宗が見た、山崎の合戦前の秀吉と光秀についての話である
(武功雑記)
0188人間七七四年2011/05/15(日) 02:38:33.82ID:Po1MddV9
>>175
秀吉の自慢話って嘘くさいのが多いからなぁ
っていうか、要は上司の長々とした自慢話に周りがうんざりしてるってことは間違いないなw
0189人間七七四年2011/05/15(日) 07:13:46.33ID:g4xGwSxN
>>188
長かったの?
0190人間七七四年2011/05/15(日) 09:03:21.65ID:I04aZ2GM
天下の名医は優遇されるなw
0191人間七七四年2011/05/15(日) 10:25:10.87ID:HAnVW8dL
>>190
ああ、鬼武蔵が「結婚するなら医者にしろ」って言ったのってそういう…
0192人間七七四年2011/05/15(日) 11:04:26.43ID:6YxTR5M/
伝言は?
0193人間七七四年2011/05/15(日) 19:28:55.02ID:JYNbANp0
>>188
何が間違いないの?
0194人間七七四年2011/05/15(日) 20:40:44.14ID:n+Oei1q7
使徒が15年ぶりに来たこと
0195人間七七四年2011/05/15(日) 23:02:19.67ID:B9BSK99t
江戸に大火があったとき(おそらはく明暦3年の明暦の大火)、大災害の時にありがちだが
色々と怪異な事の噂が流れ、人々はこれを大変怪しんだという。

そんな時、知恵伊豆こと松平信綱はこんな事を語った

「世の中にはそんな怪異よりもっと不思議なことがいくらでもあるのに、
人々はそれを怪しもうとはしないものだ。
例えば故太閤が草刈りの身分から21年で天下をお取りになったことなど、
これより不思議なことがあるだろうか?」
(武功雑記)
0196人間七七四年2011/05/16(月) 00:20:58.52ID:OM5dLkfG
平清盛の出世には天皇落胤説で説明するむきもあるが
秀吉落胤説は鼻で笑われただけであった。
0197人間七七四年2011/05/16(月) 01:08:41.17ID:fDAvZDkj
そもそも関白に任官されるための方便で考え出したものだし>秀吉落胤説
鼻で笑われるどころか目論見通り関白に就任し、
豊臣氏まで賜わってるんだから大成功と言って良い
天下人になった後は更にスケールがでかくなって日輪の子を自称してる
0198人間七七四年2011/05/16(月) 01:28:43.87ID:Q+sQ76WD
「知恵伊豆が家光の死に殉死しなかったことを江戸市民は非難した」
とWikipediaにあるが、初期江戸民は三河のめんどくささにすっかり毒されていたのだなぁ
0199人間七七四年2011/05/16(月) 01:36:31.02ID:iOijdq8N
殉死って当時どういう風に思われてたんだ?
するべきものだったのか、でも禁止してた人もいるよな
0200人間七七四年2011/05/16(月) 04:58:36.01ID:3DTVaTzo
戦がなくなって討ち死にする事もなくなり
その代償行為みたいなものだからな
0201人間七七四年2011/05/16(月) 06:10:53.49ID:gP9bdqDA
スケール(笑)
土人じゃあるまいし、大名がそんなもの真剣に拝んじゃいないだろw

まあそれはそうと、>>175で細川忠興がなぜこういう秀吉の『失態』について語ったかのほうが興味あるね
諸侯の秀吉の死後の行動を見てもそうだが、もともと面従腹背の集まりだったということか
0202人間七七四年2011/05/16(月) 06:33:03.62ID:NVyjWxx+
細川さんは秀吉によらずdisりまくりが基本だしなあ。
0203人間七七四年2011/05/16(月) 07:04:08.49ID:bXJ2L/pv
>>201
別に失態じゃ無くて三歳は秀吉が家康を試した話と結論づけてるようだが・・・?
前半部がけなしてるようになってるのは>>179により>>175の意図的改変なのが分かってるし。
0204人間七七四年2011/05/16(月) 07:14:26.97ID:OM5dLkfG
伊達殿について

「稲荷殿の知音かと申す事に候」(意訳:頭どーかしてんじゃね)

と残したのはgb
0205人間七七四年2011/05/16(月) 07:42:30.72ID:3DTVaTzo
>>204
当時狐憑きは無罪
 
0206人間七七四年2011/05/16(月) 07:42:33.48ID:0RmVhPhF
>>201
毛利元就が毎朝日の出を拝んで、念仏唱えてたのは有名。
神道なのか仏教なのかはっきりしろと言いたい。
0207人間七七四年2011/05/16(月) 08:10:28.64ID:3DTVaTzo
>>206
神仏分離令より前の時代だぜ
0208人間七七四年2011/05/16(月) 08:17:45.21ID:wE047Atd
月を拝んで「我に七難八苦を与えたまえ」と言った武将もいたな、なんで月なんだろ
0209人間七七四年2011/05/16(月) 08:20:13.42ID:CES5O28m
武士ってロマンチックな奴多いよな。生き方そのものが詩的というか
0210人間七七四年2011/05/16(月) 11:10:31.06ID:OM5dLkfG
>>208
出雲は月信仰が盛んだったらしい。都久豆美命(つくづみのみこと→月読命と同じか?)というらしい。

昔の山陰は海上交易で盛えてた。夜の星は方位を知るのに重宝。星々の代表として月なんじゃないかな
0211人間七七四年2011/05/16(月) 17:54:50.21ID:tK+5Qme5
上月城で敗れて、その後殺されたから
後から話が作られた、ってわけではないのか
0212人間七七四年2011/05/16(月) 18:26:22.83ID:DWOx75mk
尼子の本城のある山が月山つーくらいだし
0213人間七七四年2011/05/16(月) 18:51:37.71ID:bzKIgrCF
つ…つきやまとみたじょう?
0214人間七七四年2011/05/16(月) 19:14:58.21ID:XO/iSYnJ
月山の麓には最後の富田城主だった堀尾さんの墓があるんだよな。
心血注いで完成も間近の松江じゃなくそっちに葬るようわざわざ遺言してまで。
0215人間七七四年2011/05/16(月) 21:53:11.79ID:57I/M++b
>>208
やっぱ昼やるとはずかしいじゃん
0216人間七七四年2011/05/17(火) 00:01:30.81ID:VuWajU97
では堀尾さんところの、いい話なんだろうけど、なんというかw

慶長19年(1614)、大阪冬の陣。
11月29日、大阪の水口方面にて佐竹義宣の軍は後藤又兵衛・木村重成率いる大阪勢と激戦となる。
両軍に多くの死傷者を出し、大阪方は「後藤・木村を討たせてはならない!」とさらに千四・五百の
軍勢を繰り出す。
これを察した義宣は待ち受け向かい討たんと自ら長刀を手にし堤の影に軍勢を隠し敵の到来を待つ。
その時の佐竹義宣の姿は虎が風に毛を振るい、獅子が獲物を喰らわんと歯噛みするようであった、と伝えられる。
敵が、来た。今や掛からん!と、その時である

並びの陣に控えていた、当時若干15歳の堀尾山城守(忠晴)勢が突然、横から大阪勢に斬り込んできたのだ!
堀尾勢は大阪の新勢を散々に切り乱す。
さらに上杉景勝勢が堀越に押し寄せ鉄砲を激しく打ちかけたため大阪勢はたまらず、城内へと引き返した。
この時大阪勢は、三千人余りが討ち死にしたという。

さて、この結果に佐竹義宣は激怒した。
自分が待ち構えていた敵を横から奪われたのだ、それも当然であろう。義宣は堀尾忠晴に使者を立て抗議した

『城の内から敵をあぶり出し討とうという作戦であったのに、あなたが横合いから勝手に槍を入れられたため
敵を再び城内に追い込んでしまった!あなたは軍法に背くおつもりか!?
あなたは未だ15歳であり、若気の至りということもあるでしょう。であれば1度だけは許してあげましょう。
が、重ねて此の様な振る舞いは、一切御無用でござる!』

堀尾忠晴はこれを聞くと直ぐに、その使者に佐竹義宣への返事を託した。それに曰く

『あなたの仰せは尤もです。ご存知のように私は此の様な若輩であり、軍法のことも詳しくは存じておりません。
ただし目の前に敵を見れば、いつ何時であってもそれへの攻撃を我慢するということが出来ません。
なので今後も私は、粗忽なことをしてしまうでしょう。どうかその度に、お許しいただけるようお頼みします。』

この言葉に義宣は絶句し
「頼みきっていた家の子郎党たちを数多く敵に討たせながら、その敵を人の手柄にさせてしまい、
損の上に損をしてしまった!」
と嘆いたという。

さて翌日。堀尾忠晴は将軍秀忠の御前へと伺候し、前日の手柄を賞された。
と、この時軍奉行である安藤次右衛門(正次)が進みでて、荒々しく言い放った

「山城守殿(忠晴)の昨日の働きですが、手柄はたしかにその通りですが、佐竹軍がわざと誘いだした敵を
横から入り討ったのは軍法を破っており、狼藉であると考えます。佐竹殿も大変不本意に思っておられることでしょう。

山城守殿、あなたは未だ御若年なので今回は見逃しましょう。
ですが、重ねて此の様な粗忽なことをされれば過失として軍法に照らし罰を与えねばなりませんぞ!」

この安藤の強い言葉に、忠晴はニッコリと笑って

「仰せのように私は若輩ですから、軍法も詳しく理解しておりません。…ですが昔から、源平の合戦や
元弘建武の乱に置いても、目の前に進む敵を『これは誰々の受け持ちだから』などと言って
討たないで見過ごすという法があったでしょうか?珍しいことを承るものです。

私は手近に敵が居れば、いつでも粗忽な合戦をするでしょう。そしてその度に、その事についてのご容赦を求めるでしょう。」

と、爽やかに言い放った。これにその場に居た人々

「天晴、山城守はなんと器量骨柄が優れているのだろう。若年の今ですらこうなのだから、
将来は一体どのような人物に育つのか」
と、感嘆したという。

若輩の堀尾忠晴、大阪冬の陣で多くの諸先輩を唸らせる、と言うお話(大阪物語)
0217人間七七四年2011/05/17(火) 00:09:35.43ID:DfQ0Ba89
息子があれだった中村さんや生駒騒動の生駒さんのところと違って
堀尾忠晴は不肖の子孫じゃなくて有能だったのに、家が絶えたのは残念
0218人間七七四年2011/05/17(火) 00:44:21.70ID:cXlo0ZrX
これだけ大勢の大名が参加した戦だったから、
先陣だとか、後だとか、むきになるだろうなあ・・
0219人間七七四年2011/05/17(火) 01:05:58.20ID:VuWajU97
もう一つ。大阪冬の陣の折のことである。

その頃、古田織部といえば天下の数奇者の宗匠と呼ばれていた。
大阪城攻めの合戦騒ぎの中でも、織部は「数寄の友だから」とわざわざ佐竹義宣の陣に
訪ねて行った。

が、その時佐竹義宣はちょうど城攻めのための仕寄に付いていたが、しばらくして矢弾避けの
竹束の内に入り、そこで織部と対面、義宣は兜を脱いで織部とつもる話をし、またそこで風呂を炊かせ
もてなし、その後茶を飲むなどしていたところ、織部は突然、竹束の方をキッと見て

「この竹束の中に、茶杓になるべき竹がある!!」

と、竹束の側まで寄って顔を打ち傾けながら熱心に見始めた

時にこの頃古田織部は僧形であり、頭は当然だが、見事にそり上げていた。
あまりに熱心に竹を見ていたため、ついうっかり頭を竹束の影から出してしまった。
その頭に日光が当たる。ピカーッ!彼の禿頭は日光を反射しキラキラと輝いた!

これを見た大阪方
「佐竹陣の竹束のところから、なにやら光り輝くものが現れました!」
「何だと怪しい、怪しすぎる!撃て、撃てー!!!」

大阪方の放った銃弾は、あやまたず織部のハゲ頭に命中した!
…が、運が良かったのか、頭から血は流れていたもののかすった程度で済んだらしい。
しかし織部はすっかり肝を潰し頭を抱え

「我、手負いたり!」

と叫び、その場に居た茶坊主が茶巾袱紗などでその血をぬぐった。
これをその場に居た人々「数奇者に似合いのぬぐい物である」と囁いたとか。

そして織部は
「ああ、この初めての手傷を自分の担当する仕寄で負ったなら、少しは御感に入ることも出来ただろうに、
よりにもよって他所の仕寄で負うとは、これでは丸損ではないか。」
と嘆いたという。

この後、自分の陣屋に帰ると家臣たちに
「武士が付けておくべきは兜である!今後わしは数寄屋においても兜をつけるぞ!」
と宣言したそうだ。

以上、古田織部が微妙に間違った教訓を得た話である(大阪物語)
0220人間七七四年2011/05/17(火) 04:49:03.56ID:sYhf+P8e
・・・いやいやいや
微妙にってか、豪快に間違ってないかな、その教訓・・・
0221人間七七四年2011/05/17(火) 06:19:54.52ID:0QcYz3Ew
手遅れにならんように鎧も着けとけ
結局切腹するわけで兜は役に立たないわけだが
0222人間七七四年2011/05/17(火) 09:04:41.44ID:/P7+tcMI
光った頭を見て発砲

なんだこのコント
0223人間七七四年2011/05/17(火) 14:49:25.68ID:ZBHgIIeB
茶杓→竹→光ると読み上げて、光る竹が出てきて竹取物語かよ、と思ったら、
禿げ頭が光ってうおまぶしっ!ってなんてコントだよ。
最初の茶杓がどうとかもう放り投げっぱなしだよ。

所でそのあと、ゲヒさんはお目当ての竹を見つけ出せたの?
それとも見つけられないままハラキリ直行?
0224人間七七四年2011/05/17(火) 19:34:14.02ID:pUod8rVZ
全部、漫画の絵で想像できる。リアルが漫画と変わらねえよ、古田織部
0225人間七七四年2011/05/17(火) 21:09:44.12ID:iHKEneIC
つくづくへうげものって凄い漫画だな。
0226人間七七四年2011/05/17(火) 21:22:45.37ID:rZMLgl78
完全にフィクションだけどな
0227人間七七四年2011/05/17(火) 21:39:53.37ID:SjxQU2JR
フィクションを楽しむのは全然アリだけどごっちゃにするのはダメ、絶対
と、バサラ見てるとつくづく思う
0228人間七七四年2011/05/17(火) 23:50:59.28ID:qrzLDt3P
>>210
風土記に都久豆美命の名が出てくることだけが月信仰の根拠?
0229人間七七四年2011/05/18(水) 00:07:21.83ID:frFeDv+Y
「大阪物語」シリーズ

さてさて大阪冬の陣。伊達政宗は大阪城の外格を打ち破ろうと思い、物に慣れた侍六・七騎を率いて
攻め口を探しているうち、城の直ぐ近くにまで出てしまった。

しかしその付近の大阪方は、どうも政宗なんかに関わりたくないと思っていたのか、伊達一行を見ても
見て見ぬふりをしていた。

と、ここで政宗、(よせばいいのに)馬の鞍の上に立ち上がって大声で城方に叫んだことには

「どうして城内の奴らは鉄砲を撃ってこないんだ!?玉薬が尽きたのか?それならわしが
(そこに弾丸を打ち込むという意味で)取らしてやろうぞ!」

この露骨極まる挑発に、城内から鉄砲が二発撃たれた。
が、その弾は政宗の頭上遥かを飛んでいく。これに政宗カラカラと笑い

「飛んでいる鳥などには、ああやって空に向かって討つものだ!
よいか?目の下にいる敵には手股を上げ、筒先を下げて撃つのだ…」

この言葉が終わる前に、今度は城方より鉄砲十挺程がつるべ撃ちをした!
しかしこれも政宗には当たらない。だが、後陣に控えていた伊達家の老武者の、右頬から左の耳の付け根に
弾丸が貫いた!彼は馬からどうと倒れ落ちる。
これに政宗

「…!
はっはっは、お前たちは器用だな。今教えたら直ぐに腕が上達しおった!稽古に神変あり(稽古によって
腕が格段に上達する)とはこの事だな!」

と威勢のいいことを言い、その場に留まるようなふりをしながら(たぶん馬の鞍に立ったまま)ズリズリと下がり、
ついにそこから退いたと言う。

これを見た人々

「あら不思議の政宗や、只今の鉄砲が一つだけの目に当たったならば、この重要な戦の前に
もうお目にかかることはなくなったのに」

と、笑ったそうである。

大阪冬の陣の始め、カッコつけようとした政宗のカッコ悪い逸話である。
0230人間七七四年2011/05/18(水) 00:22:47.48ID:UMPYXRvJ
老武者憐れwww
0231人間七七四年2011/05/18(水) 04:58:58.30ID:jPeIdf/4
死にたがりでもあるまいに
挑発したあとむしろその場に残ってるほうが馬鹿で
引き際としてはいいタイミングだったんじゃねえかと。
0232人間七七四年2011/05/18(水) 06:59:41.41ID:AXPMCx5L
謙信、秀吉、家康とそのバカをやって伝説になってるからなー。
引き際の演出がまずいと思う。
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