【武田】2万5千で上洛【信玄】その48
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0001人間七七四年
2007/03/11(日) 14:58:15ID:jBb7ct+L【武田】2万5千で上洛【信玄】その47
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1171873604/
ここでは「武田は上洛できたのか?」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。
テンプレ
>>2-30ぐらい?
0872人間七七四年
2007/03/26(月) 22:32:09ID:05CbiuV80873人間七七四年
2007/03/26(月) 22:44:08ID:R/W+2S0h0874人間七七四年
2007/03/26(月) 22:53:13ID:GHYRSw41はいはいwikiからのコピペwikiからのコピペ。
wikiのこの部分書いた人は一体何から引用してきたんでしょうね。
ソースは何ですか?出せないでしょ?
0875人間七七四年
2007/03/26(月) 22:59:16ID:7bfyMFtG論破できないってホント辛いねえwwww
0876人間七七四年
2007/03/26(月) 23:05:08ID:XZ00XLS0上野全域から兵をかき集めても無理な気がするが…
0877人間七七四年
2007/03/26(月) 23:09:48ID:GHYRSw41だからソースは?
wikiのこの記事書いた人も何かから引用してきたんでしょ?
そうでないなら全くの妄言と言うことになるが?
0878人間七七四年
2007/03/26(月) 23:22:20ID:GHYRSw41弘治三年四月(1557年)義信を大将とし、飯富虎昌、飯富昌景、内藤昌豊、馬場信房、諸角昌清ら一万三千を碓氷の瓶尻に
派兵峠を越え上州に攻め込む。これを迎え撃つ業正軍三千は先陣を叩き箕輪城に籠城。武田軍の猛攻を防ぐ。
別の資料では西毛軍二万を率いた長野業正は統制が利かず、敗北との記録もあるが、連合とは言え当時の勢力で二万もの大軍は
集まらない。江戸時代の創作と思われる。
その後、城攻めを行うも鉄砲による甚大な被害を出し撤退。
田畑から略奪を行った後、田畑を潰す。奴隷狩りを行い町を焼き払い、敵の地盤を着実に弱める。
【引き分け】
翌年永禄元年(1558年)信玄自ら武田軍二万を率い上州に侵攻。
業正が吾妻に出陣している留守を狙うも、業正は間道を使って直ちに帰還。その足で夜討ちを掛け散々に荒らし、
翌日には強風を利用して、武田勢の風上にまわると火を放ち武田軍の食糧を焼き、弾薬を爆発させ、補給を断つ。
武田は軍を維持できなくなり即座に撤退。
【敗北】
翌年永禄二年(1559年)飯富虎昌に安中城を攻撃させ、信玄は和田城の攻略に当たる。
業正は急遽援軍として駆けつけ、兵を山陰に入れ奇襲を行い、信玄の陣を混乱に陥れる。
信玄は反撃とばかりに雉郷城を取り囲むも空城。長野業正はその間に、鷹留城の部下に策を与えて箕輪城に帰還。
信玄は業正を追撃しようと鷹留城を攻めるも反撃を受け撤退。撤退中に伏兵を受け惨敗。
箕輪城に被害を与える事もできず、兵五百を失う甚大な被害を出し撤退
【敗退】
翌年永禄三年(1560年)再度箕輪城を取り囲んだが、飢えと寒さに苦しむ中、さらに安中忠政に糧道を断たれ、
長野業正の総攻撃を受け、たまらず撤退。
兵糧を奪われた、もしくは焼かれたとの説も有り。その後は撤退中に追撃を受け敗北。
【敗北】
翌年永禄四年(1561年)11月末、長野業正病没。
上杉憲政が長尾景虎を頼って越後に逃れていくのが1552年。
その後の上野は守護代の長尾がいたが弱体化していて上野をまとめられない。
業正は上野の最有力豪族になり、周辺の豪族と結束して武田と戦っていくが
周辺と言っても安中とか松井田とか限られた数だった。
とても上野全域に号令をかけられる立場じゃない。
↑の業正VS武田で業正が率いた数も妥当な数字。
どう考えても2万はないと思うが。
でもソース出せるんだよね?
0879人間七七四年
2007/03/26(月) 23:37:01ID:XZ00XLS0とお決まりのセリフがそろそろ投下されそうな予感なので、
先に書いときましたww
都合が悪くなった時の逃げ方がワンパターンすぎてつまらんな
0880人間七七四年
2007/03/27(火) 01:06:07ID:YR3ltnAi浅井の破滅が早かったのは武田軍撤退が現実となり、援軍が来ないことが確定してしまい
支持基盤に見放されたから。
武田軍が進軍中だったなら近江以西はそうやすやすと混乱の回復はできなかったわな。
また用兵の点でも信長よりも信玄の方が手堅い戦闘を行ない、若い時を除いて大きく崩れる失敗は起こしていないし、
家臣団も巧みな用兵にうまく連動できる錬度の高さがありそれはのちに旧武田家臣を吸収した徳川が野戦で高い評価を得ていることからもわかる。
織田軍の天下統一事業はただの力攻めと殺戮。戦略なき長期消耗戦の石山戦争などはもう拙過ぎるな。
0881人間七七四年
2007/03/27(火) 01:06:43ID:pXIbATA8足利義昭があんな感じだったのだろう。
人の話を聞かず周りも見ず御内書連発しているところとかw
0882人間七七四年
2007/03/27(火) 01:23:48ID:ljOogbbZもう相手するのめんどくさいから、こっから先は書かない。
また都合の良い勝利宣言を出すんだろうが、みんなもいい加減スルーしとけば?
こいつが出没するようになってから、明らかにスレの質が落ちた。
0883人間七七四年
2007/03/27(火) 01:32:20ID:xCoRmdbo0884人間七七四年
2007/03/27(火) 01:44:58ID:ENb1P0Ieまぁ大半は豚を煽って遊んでるだけだろう。
気に食わないなら透明あぼーんして以後見ずに済ませればいいと思う。
文章によく使われてる言葉あるし、透明あぼーんは楽だよ。
0885人間七七四年
2007/03/27(火) 01:46:14ID:idV5RNPNとはいってもホームが無傷だった朝倉とセットで
状況変化からわずか10日で滅亡だからなぁ・・・
ただの力攻めと評価するが他を圧倒する力を保有してる時点で
非凡な政治力と戦略能力を持っている証拠なんだが・・・
他の戦国武将はただ戦闘、戦術が優れているだけ
肝心の戦略能力が欠けているんだよな・・・
それじゃダメダメね
0887人間七七四年
2007/03/27(火) 05:01:19ID:ThjcUgi7終始信玄に都合の良い状況で動いてる時点で信玄に都合が良くなるのに
問題はねーんだバーーーーカww
0888人間七七四年
2007/03/27(火) 09:12:04ID:ijVBIT/Aなんでも信長の功績ですね。家康に恩をきせるくらいにしとけよwまぁ風雲に乗じて独立を果たした家康も迷惑だろうけどな。
義元が生きてて駿河に侵攻出来なきゃ、義元の上洛軍に呼応し援軍として美濃に進出してるだけですがw
なんせ東国は旧勢力がとっくに淘汰され強豪揃いなんでね(扇谷上杉の太田氏や山内上杉の長尾氏が活躍してたあたりまでは強豪だったが長尾景春の乱や足利成氏の知略などで衰退。)
信長が倒した畿内へっぽこ大名と違い、東国の乱世生き残り組みの鬼佐竹・宇都宮連合やら里見など大軍からくる戦力の差などなんとも思わない。
抵抗激しく北条もなかなか関東を制圧できないくらい。
謙信も遠路を補給線が伸びようが度々、関東へ遠征してるし。
織田厨は補給線とか動員兵力とか問題にするが戦国の世にそんな常識なんて敗北の元。
駿河奪取に失敗し家康と北条に挟撃されたのを信玄の失敗とか言うが、
それだけ東国は北条を始めとして権謀術数が渦巻き油断がならない場所なんだよ。
その後は小田原城包囲してのちの武田北条同盟成立への布石を打ち駿河も速やかに家康から奪い取りましたが。
信長が朝倉を討ちに行って浅井に退路絶たれて大敗北し、長々と近江で戦い続け決定力不足を見せつけオマケに本願寺までみすみす敵に回す大失態。
52才の信玄の寿命まで欠点にあげつらうが信長は49才で家臣の謀反で嫡子まで死亡したあげく自分が引き立てた農民に乗っ取られる始末。
0889人間七七四年
2007/03/27(火) 09:30:09ID:ijVBIT/A延々と美濃に攻め入りながら実力で美濃が取れそうになかったのは明白。しかも浅井も美濃を攻めたりしてるのに関わらず。
濃尾平野を手に入れたら大軍でへっぽこ大名を踏み潰し蹂躙するだけ。
こんなの戦略なく濃尾平野の国力を背景にしたら楽勝。にも関わらず石山合戦などただ浪費するだけの無意味かつ不毛な戦いを始め、戦略戦術外交に行き詰まり殺戮戦を開始。
信玄死後は上杉謙信が圧倒的国力となった織田大軍勢に恐怖をまったく感じないどころかやる気満々。
これが東国のレベルの高さですよ。いきなり信長みたいに主が殺されたりしないですよ。
今川なんて雪斎が生きてた時ならいざ知らず義元なんて所詮は関東のどっかで淘汰される運命だわな常識的に考えて。
信長は生まれた場所が良かっただけ。家康は武田家臣を吸収できたからさらに運がいいだけ。
東国の高レベル地域で信長生まれたら即死亡だよ。
0890人間七七四年
2007/03/27(火) 10:11:57ID:36jyavqJ畿内は圧倒的国力の信長が戦略なく暴れまわり一方的に苦戦してるだけで特筆すべき知略は見えないね。
僧侶が武装化してるからって…本願寺相手にしたってなんでそこまで信長が苦しい戦いをえんえんと続けてるのか理解に苦しむ。
本願寺がすごいんでなく織田軍が情けないんじゃないか?
0891人間七七四年
2007/03/27(火) 10:17:34ID:ijVBIT/A信長がすごいとか言うなら足利義教はもう神レベルだわなプププ
0892人間七七四年
2007/03/27(火) 10:34:00ID:CquuyFXH東えびす(坂東武者)>>>>上方武者
は武家の常識だがな。つか、鎌倉→室町の全国の武士って大半が関東出身なんじゃね
0893人間七七四年
2007/03/27(火) 10:43:17ID:36jyavqJ織田家中での強敵信玄コワスな雰囲気がよく戦地で現れてる。
そんな弱軍隊ではとても武田本軍と戦えないだろ。
手取川で上杉相手に追撃に対する準備もせずに尻尾を巻いて敵前逃亡する織田軍だしな。
0894人間七七四年
2007/03/27(火) 11:44:31ID:jM3LTlbL0895人間七七四年
2007/03/27(火) 12:19:51ID:ijVBIT/A孫は高野山に追放されるも信長の高野山攻めのせいで…プププ
高遠城での仁科の美談や潔い自決と武門の道を全うした武田とは違い、無様だな織田家。
0896人間七七四年
2007/03/27(火) 12:40:29ID:1GfkhQc20898人間七七四年
2007/03/27(火) 13:08:39ID:TB+L4FPoじゃあなんで親父見捨てて逃げるのを潔しとせず二条御所で明智勢相手に奮戦して散った信忠のほうは武門の道をまっとうしたことにはならんの?w
信長だって「是非も無し」と闘って自害、敵に首すら渡さなかったのに
……って武田好きの武田知らずにまともな質問しても無駄でつか?w
0899人間七七四年
2007/03/27(火) 13:27:48ID:36jyavqJ事実、織田は恐れた武田領に侵攻しようとは思わなかった。
死後3年経った先は信玄の責任ではないからこのスレで語るのはスレ違いで勝頼の資質を問うスレでもたてろよ。
信長死後のあっというまに分裂した織田家中とは違い信玄は死後も考慮していたんだよ。
0900人間七七四年
2007/03/27(火) 13:33:12ID:6tAzEWtCそりゃ俗論もいいとこだろ。
フロイスですら「ノブナガ殿はのこのこ出て行ったところを足軽に
鉄砲で撃ち殺されてしまった」と書き残しているし、本能寺で
獅子奮迅なんて、勝頼が天目山で600人討ち取ったというのと
同じレベルの講談だったはずだろ。
ところで武田を皆殺し、とかいってるのはどういう意味だろう?
まあ上のような話を信じている人間の考えてる「武田滅亡」の
ストーリーというのも常軌を逸したものなのかもしれないが…
」
0901人間七七四年
2007/03/27(火) 13:36:36ID:ijVBIT/Aだいたい同時に当主と嫡子が殺されるような無計画な状況下にしたりしないし。
信忠の行為は猪武者に過ぎず部下がやるべき事で恥を忍んで本領に落ちて後日に期すべき。
0902人間七七四年
2007/03/27(火) 13:39:44ID:TB+L4FPoフロイスの日本史では「鎌のような武器を振るって戦っていたが銃撃をうけたので障子を閉じて自害した」とはっきり書いてあるぞ
武田厨ってなんで平気で嘘をつくの?
0903人間七七四年
2007/03/27(火) 13:40:09ID:Fk+IBVK00904人間七七四年
2007/03/27(火) 13:41:12ID:TB+L4FPoだからその論法なら最初から勝頼なんかは失格じゃん
武門の道はどこいった?
要するに脳内妄想の武田マンセーをぶちまけたいだけの塵?w
0905黒幕
2007/03/27(火) 13:48:10ID:k5ONAEZrこのスレを1から丹念に読み込んでみて欲しい。現代のネット世界の光と闇、新しい伝説がここにある。
http://same.u.la/test/r.so/pie.bbspink.com/feti/1162548223/l10
0906人間七七四年
2007/03/27(火) 13:51:23ID:fLp/gOF0信玄の遺言のソースは?
また脳内妄想?
ちがうよね、敬愛する信玄公のことだもんきちんと調べてるよね?
0907人間七七四年
2007/03/27(火) 13:51:37ID:ENb1P0Ie織田は3年間ビビッて何もできなかったんじゃなくて、武田には調略、他方面じわじわと侵攻してただけなんだがな。
豚の脳内フィルタワロスwwww
0908人間七七四年
2007/03/27(火) 13:57:33ID:Fk+IBVK00909人間七七四年
2007/03/27(火) 15:38:41ID:jM3LTlbL武田なんて織田、徳川、北条に大敗しまくって皆殺しにされて滅亡。
仇敵の上杉の足軽として細々と生きて恥ずかしい家だよね。
織田家は大名として残りましたが武田は?100万石を誇った武田家は????ねえねえ????
高遠城での仁科盛信の美談?ああ、名城を1日で落とされて女子供まで自害させた集団自殺か。
うんうん、今まで虐殺に略奪ばかりしていた罪を償った美談だよね。
流石1月で信濃を落とされるだけある
0910人間七七四年
2007/03/27(火) 21:54:00ID:DZzq8Vdqとりあえず上杉に仕えた武田家は足軽じゃなかったと思うぞ。3300石だったような。
織田家は正統なのは絶えちゃってるな。長益や信雄の子孫1、2万石で残っているけど
後の一族は微禄で大抵没落したり改易されてる。
武田も盛信の子孫2家が旗本として残り、一つは武田の名字に戻している。
海野信親の子孫は徳川家に高家として処遇された。
川窪信実の子供も家康に旗本として仕え、後に武田の名字に戻っている。
江戸時代における武田と織田をトータルで見てみると武田もそんなに悪くないと思う。
旗本や高家だし。
0911人間七七四年
2007/03/27(火) 22:03:20ID:3Pms2qMO>1-11 テンプレ
>12-19兵農分離
>21-106上洛できるか包囲網の実情武田の採るべき行動
>110-151信玄の戦歴信長の戦術能力
>152-214上洛できるか
>215-216善光寺の利権
>248-252織田武田毛利各包囲網
>251-266義信事件
>267-426上洛できるか宗教勢力
>282-286甲越和与
>307>314古今消息集市川十郎右衛門宛書状
>427-457松姫遠山領
>449寛政重修諸家譜
>458-500上洛できるか・煽り
>488-498上洛作戦時の駿河の兵力
>501-598 72年の武田織田の状況、両者の戦力質の差・両者の戦歴の差・上洛できるか
>539(永禄十二年信玄信長宛書状
>599-650 1570年に織田と開戦したらIF 川中島の戦い
>605-682美濃を制するものは天下を制するか
>651-666中仙道と美濃攻め
>659-684塩止め
>668葛山氏元の命令書
>672-685越後攻めと越後の状況
>693-712港金山など石高以外の収入
>713-729信虎と大名権限・義信問題
>730-798上洛できるか
>799-863桶狭間の今川家への影響 山地の産業
>864-908上洛できるか 信玄の死の影響
>909-910江戸時代の武田織田家
0912中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/03/27(火) 22:35:37ID:721ZDaxy0913中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/03/27(火) 22:48:05ID:721ZDaxy1575年11月27日、細川藤孝が語る秋山信友処刑の場面
信友は信忠によって岐阜城下で殺される
廿七日、壬戌、入夜長岡兵部大輔自岐阜上洛、直来、長兵語云々、東美濃之遠山、
自去夏之頃勘九郎殿有御出勢、而取巻後城、今度落城成、籠城之者悉被討捕也、
自甲州為大将、令在城秋山、落城之石切被生取、而岐阜之近所八ツケ懸云々、
「兼見卿記」より
0914九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU
2007/03/27(火) 23:14:26ID:721ZDaxy信忠は岩村城の開城勧告の使者に塚本某を立て「開城すれば命助ける」と伝令させる
で、礼を言いにのこのこ出てきた秋山・大島・座光寺らを捕まえて磔にする
奇妙ひでえやつだwwwww
十一月二十一日、秋山・大島・座光寺、御赦免の御礼申上候を召取、濃州岐阜へ被召寄、
右三人、長良河原に張付に被懸置、其外、諸卒、遠山市丞丸へ被追攻候。
0915人間七七四年
2007/03/27(火) 23:16:29ID:lWYbYAFI秋山に対して相当怒りがあったんだろ
0916九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU
2007/03/27(火) 23:38:59ID:721ZDaxy喜びと安堵で気が緩み恐らく晴れやかな表情をしていたに違いない
一方の信忠側は釈然としない気持ち
何の武勲も上げられず数か月攻囲し続けるも堅として落ちなかった岩村城。
無血開城させてしまい、勝ったにも関わらず振り上げた拳の落としどころなくただ
やり場のない殺気だけが場の空気を包む。信忠自身もはらわた煮え繰り返っていたことだろう
見れば武田側の兵たち・・・“や、やつら笑っていやがる!!!?”
側近「殿、秋山殿が参りました・・・」
信忠「・・・」
秋山「(へらへらしながら)城介様、このたびはどうも・・・えへへ、
命を助けてもらってありがとうございました」
信忠「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
殺 せ え え え ーーーーーーー!!!!!!!!!!!!
0917人間七七四年
2007/03/27(火) 23:43:09ID:xZDI8xFw>事実、織田は恐れた武田領に侵攻しようとは思わなかった。
お前見てきたのか?武田領より畿内を重要視してたと思うぞ。
>死後3年経った先は信玄の責任ではないからこのスレで語るのはスレ違いで勝頼の資質を問うスレでもたてろよ。
勝頼に責任を押し付ける気か?もし、子に問題がある場合は親にも原因が
あると思うぞ!親の顔が見たいと言うだろう。
お前のような救いようの無い奴は、武田神社でセンズリでもしてろ
0918人間七七四年
2007/03/27(火) 23:51:55ID:lWYbYAFI3年間喪に服してたら織田の勢力拡大にさらに追いつけなくなると、
考えもしなかったのだろうか?
それとも織田包囲網が死後も機能して、3年後には状況が武田有利となっている
とでも見通してたのかな?
0920人間七七四年
2007/03/28(水) 01:02:45ID:EMPQT0Zzいや、それしか方法がないようなもの。
どの大名家でも、当主が死んだとなれば大激震が待ち受けている。
上杉家も例外でなかったし、織田家豊臣家はもっとひどかった。
北条家なんて、敵でもあった信玄を頼ったくらいだし。
ただ、間抜け云々だけを言うなら、すぐバレしてまっていたことかな。
信長の場合、権力基盤がまだまだ軟弱だったから、3年間だけでも転ぶ可能性は十分にあったし、
信長包囲網にしたって、担い手は実質武田から上杉に移ったような感じだったし。
0921人間七七四年
2007/03/28(水) 01:06:56ID:9KjD8PYU武田厨が言っても説得ないな。志賀城でぐぐれ
0923人間七七四年
2007/03/28(水) 01:17:59ID:2jnwrTLE関所撤廃して国内の情報筒抜けにさせてるって事は、
裏を返すと自分の国力と情報収集能力に相当自信があったように思えるんだが、どうなんだろうな。
0925人間七七四年
2007/03/28(水) 01:48:37ID:Sq6K3azU助かるとは普通思わんだろ
信長「叔父さん、叔母さん篭城おつでした。ゆっくり休んでね」
なんてこと期待してたら笑えるww
0926人間七七四年
2007/03/28(水) 01:48:54ID:01ygsYUwん?信長が本能寺で死んだ翌月の清洲会議では早くも部下達が自立心ムキだしで
好き勝手に領土分配を始め、死後1年足らずで信孝が自害に追い込まれてるが・・・
しかも信長死後1年半もすると信雄が秀吉から年賀の挨拶に来いよと要求される始末。
織田厨の痛いところは枝葉末節のくだらない点ばかりをあげつらい、揚げ足取り・屁理屈を繰り返し
それでも論破できないと悟るとすぐ、国力からくる動員兵力差と信玄死後10年も経っている勝頼指導のもとに滅亡した話を持ち出すが
信長死後の織田家の方がより悲惨。兵力の差よりも将帥の器量や陣立て、部下の手足のごとき離合集散能力が重要なのにwww
大局的な視点では織田厨は論破されてるのでいつも、くだらない点で言い掛かりとケチをつけまくり、最後は切羽詰って必ず国力・信玄死後を持ち出す池沼。
0927人間七七四年
2007/03/28(水) 01:53:50ID:m50GV0MC>くだらない点で言い掛かりとケチをつけまくり、最後は切羽詰って必ず国力・信玄死後を持ち出す池沼。
いやいやww
>信玄死後を持ち出す池沼。
お前らだろ?ww信長死後をもちだしてああだこうだじゃねーのかww
0928人間七七四年
2007/03/28(水) 01:55:30ID:Sq6K3azU当主と跡継ぎ(家督は継いでる)が揃って死んだんだから
どうしようもなかった事だろ
0929人間七七四年
2007/03/28(水) 01:57:44ID:jKhTCHgZ実際信長は絶体絶命だったらしいな
どう頑張っても信玄には勝てない
でも運良く信玄は死んでくれた
0931人間七七四年
2007/03/28(水) 02:01:22ID:jKhTCHgZそれは無いだろうなw
0932人間七七四年
2007/03/28(水) 02:03:59ID:2jnwrTLEばかたれとかいう言葉はやめようや。
あぼーん食らうぜ。
それよりもテレビ番組ってなんか当てにならんのだよな。
ホントにしっかり調べてるのかと疑問に思えること多いし。
0933人間七七四年
2007/03/28(水) 02:05:17ID:jKhTCHgZどう頑張っても信長は謙信には勝てない
で、謙信も信長に毒殺されたとw
面白い番組ではあった
0934人間七七四年
2007/03/28(水) 02:08:24ID:m50GV0MC0935人間七七四年
2007/03/28(水) 02:18:52ID:2jnwrTLE以前より一層テレビ番組って信用できんくなったわ。
0936人間七七四年
2007/03/28(水) 02:27:18ID:Sq6K3azUだとしたら、ライバルの謙信マンセーも必要だな…」
こんな感じなんだろうな
0937人間七七四年
2007/03/28(水) 02:38:57ID:jKhTCHgZ勝率は大した事ないという事
そういう紹介だった
0938人間七七四年
2007/03/28(水) 03:02:46ID:m50GV0MC0939人間七七四年
2007/03/28(水) 03:16:44ID:iYySdkbx実態をしるたび悲しい気分になっていく子供が増えるんだな。
0940人間七七四年
2007/03/28(水) 03:21:32ID:Sq6K3azU信長の野望では武田家でプレイして信玄&家臣団最強wwなんて喜んでたな…
封印したい俺の人生の黒歴史だ…
0941人間七七四年
2007/03/28(水) 03:30:06ID:jKhTCHgZ戦国最強武田軍団
いいじゃんそれで
0942人間七七四年
2007/03/28(水) 05:05:36ID:S5RIlaGo戦上手だったってのが大きいな。(というか家康が天下とったこと)
家康がとっとと死んでれば別に武田の評価がそんなに高くなることも
なかったように思う。
0943人間七七四年
2007/03/28(水) 07:08:38ID:h2IMYdbp0944人間七七四年
2007/03/28(水) 09:16:16ID:gNJp4+Egゲームじゃあるまいし→ゲームこそ信長天才・改革者とコーエーなどがマンセーしまくって実像からかけ離れてる。
よく考えろ。信長に戦略はない。濃尾の国力を背景に、無駄に家臣に任せきりで大軍を与えてへっぽこ畿内大名を討ってまわるだけで多方面に敵を作り最後は家臣に謀反され死亡。
有力家臣は信長死後に軍閥化し自立し織田主家を悪用しまくり切り捨てる。
これは信長が織田一族を軽視した結果、親族による織田政権を守護する藩の設立思想がなかったから。
武田軍は信玄自身がカリスマ性を持ち家臣との信を勝ち取り巧みに大軍を指揮する運動性を持ってたから
大戦略がない、大軍を自由自在に統率する能力がない信長みたいに家臣に大軍をつけて派遣して各地で軍団のように自立化させなくても良かった。
結果織田政権は信長死後に瞬殺され見事に瓦解。
謙信死後は養子同士の内紛。
いかに信玄の死後が安定化してたかわかるだろう。
10年後の勝頼の話まで持ち出すなんて織田厨は負けを認めてるようなもん。
戦国期は当主の死を好機として侵攻するのが常だが信玄死後も、その遺威から織田軍は攻める事すら躊躇われたしね。
0945人間七七四年
2007/03/28(水) 09:41:53ID:cZiQ1zlJその脳内妄想には本当に感嘆すら覚える。
信玄死後に織田が武田領に侵攻しなかったのは、畿内方面を重視していたからだろう。事実、信玄死後に畿内方面はどんどん織田によって平定されていっている。
自分でも信長は豊かな尾張に生まれて運が良かっただけ、信玄は豊かとは言えない山国で領土を拡大して凄いとか言っていただろう?
豊かじゃない山国よりも畿内平定の方が戦略上は重要だと考えただけだろう。
信玄死後に後継争いが起きなかったのは、そもそも勝頼以外に後継に推せる人物がいなかったから。
織田の場合は息子が何人もいた上に、本来後継者であった信忠が明智軍に討たれた為に後継争いが起きた。
上杉のお館の乱も、謙信が後継を決めていなかったから起きた。武田の場合とは事情が全く異なる。
また信長が重臣をそれぞれ軍団化していたのは、そうするだけの国力があったからだろう。織田の領土が拡大する以前・拡大中では信長自ら軍を率いている事が多いが、
畿内を手中に収めた頃から、次第に各地で重臣に軍団を預けるようになっている。
国力を背景とする大軍で攻めていただけというが、そもそも貴方が持ち出す戦略の大前提は相手よりも有利な状況を作る事。
相手よりも多くの兵力を揃える事こそが、戦略の王道なのだから。
貴方がいう「国力を背景に大軍で攻める」という事が、戦略というものだよ。
一方武田は複数の軍団を成立させる国力が無かった事もあるが、最も大きい要因は国人連合という武田の実情から当主自らが指揮せざるを得なかったのだろう。
そしてゲームでマンセーされてるのは織田も武田も一緒。
0946人間七七四年
2007/03/28(水) 09:44:32ID:kVfPWoO10947人間七七四年
2007/03/28(水) 09:51:36ID:wxr0/GVEテレビの話を見て「おれの方が詳しい」
とか言って知識をひけらかす低脳。
だがね、本当の知識人は知識の他に教養があってバランスを取るんだよ。
当時の人たちは書籍で知ることができないんだよ。武田軍が西上中の報は京洛に噂し残虐な信長より武田に期待してたし、見た事ない武田軍の噂は拡大し織田軍はその武田を恐れてたから三方が原での敗軍となったんだよ。
信玄の凄さを知ってる氏康は直接戦闘を回避。謙信も睨みあいで相手の出方をうかがい下手に手を出さずに撤退。
自分を理解できない家康は直接戦闘をかけ大敗。
外交にかけても里見や佐竹にまで手を伸ばす名手ぶり。
東国で信玄の武略を知らない者はいないから、いくら信玄が敵地で挑発行為をして野戦に持ち込もうとしてもみんな直接戦闘を回避してるくらい。
強豪の東国の指導者なら武田軍とは直接戦闘したくないが織田軍相手なら歓迎だろう。
0948人間七七四年
2007/03/28(水) 09:57:34ID:z+OdUOqw川中島では勝利したけど、弟を討たれるなど大損害。これ以後、謙信との決戦を避けて謀略や和睦破りなどの手を使うようになる
しかし芦名氏に誘いをかけるなどしていざ謙信と主力不在の越後を攻めようとしたときには、留守番部隊程度に信玄の主力が撃退されるというていたらく
信玄贔屓の軍鑑すら「越後人を多数奴隷にできた、信玄公の武威のお陰」と山賊働きを自慢するのが精一杯という……
上杉家が本当に戦国最強だったかどうかはともかく、信玄にとって鬼門だったのは確か
0949人間七七四年
2007/03/28(水) 10:00:07ID:wxr0/GVEそれなら当主死亡で乗じる最大のチャンスを利用できず畿内で戦う信長はやっぱり織田包囲網の危機下にいたんじゃないかよ。
信長は危機じゃなかったとかいう論点がおかしくなるじゃないか。
それなら信玄存命なら織田包囲網によりやっぱり三河は陥落し信長は全軍を武田に振り向けられず、浅井・朝倉は息を吹き返し、国人が信玄支持して織田軍壊滅だろ。
0950人間七七四年
2007/03/28(水) 10:02:44ID:gNJp4+Eg0951人間七七四年
2007/03/28(水) 10:08:22ID:wxr0/GVE謙信とは互角だから本格的に侵略戦争を起こすと例え勝っても双方の被害がとんでもない事になるので、外交調略を駆使したり、国境で陽動や牽制程度の戦闘行為はするが全面戦争はやらない。
それより織田・徳川連合軍を撃破する方が簡単なので西上したんだよ。
謙信だって信玄に比べりゃ織田軍なんて怖くねーよと思っての能登侵攻だしな。
0953人間七七四年
2007/03/28(水) 10:14:10ID:gNJp4+Egだから信長は生まれた地がよかっただけで運がよかっただけだから。
高遠で奮然した仁科殿も充分に後継者になれる資質がありましたが?
0954人間七七四年
2007/03/28(水) 10:18:32ID:aKdsD+AC48って異常だろ。結論出てないの?
0955人間七七四年
2007/03/28(水) 10:22:16ID:cZiQ1zlJ自分は「信長は包囲網で危機的状況にはなかった」なんて書いていないのだが・・・
織田包囲網にとって最も武田の侵攻が必要であった時機は過ぎてしまっていたと思うが、包囲網と武田侵攻が信長にとって厄介極まりないものであった事は事実だろう。
ただ、武田軍が三河を平定し尾張に侵攻する頃には、浅井朝倉は既にかなり追い詰められ、息を吹き返す事は出来なかったのではないかと思う。
三河を平定するにはやはりそれなりの時間が必要だし、いよいよ織田領に侵攻するとなれば消耗した物資の補給もしなければならない。
武田軍があのまま侵攻し続ける道を選択した場合には、その時間的余裕の間に態勢を整えて、岐阜(美濃)あたりで文字通り決戦が行われたのではないかと思う。
しかし徳川領を平定したとしてもすぐさまそれを武田の国力に反映させる事が出来るはずもなく、決戦をするにしてもまだ織田の国力の方が有利な事に変わりはない。
だから、徳川領を平定する事が出来たなら、無理に決戦を挑まずに平定した領土を武田の国力に反映させる方を優先するのではないかと思う。
0956人間七七四年
2007/03/28(水) 10:27:10ID:Sq6K3azU軽視してたか?家督を争った信勝の息子でさえも才覚を認めて遇してたんだが
>>親族による織田政権を守護する藩の設立思想がなかったから
なんだそりゃww当時藩なんてもん自体なかったろww
信玄は親藩なんて発想してたんですかね?
>>いかに信玄の死後が安定化してたかわかるだろう
勝頼に中途半端な家督相続しかさせずに安定してたのですかww
0957人間七七四年
2007/03/28(水) 10:30:00ID:z+OdUOqw朝倉の退陣は信玄だけでなく本願寺も強い調子で批判している文書が残ってるが、当時疲弊しきった畿内の反織田勢力で機動的に織田軍と対峙できそうなのは朝倉のみ
しかし実態は裏切りや軍役拒否が続出、信長の留守を狙って朝倉浅井の当主直率の本軍(合計兵数は信玄の西進軍より多い!)が江北で攻撃をかけながら秀吉の一軍に撃破されるという弱体化ぶり
この頃になると、織田軍は野戦土木を確立して各方面の警戒兵力を大幅に削減できるようになった
信長公記によると、虎御前山には防壁付軍用道路すら整備されていた。この能力は長篠で武田を粉砕する一因となる
0958人間七七四年
2007/03/28(水) 10:36:17ID:gNJp4+Eg自身は岡崎に駆けつけ城の修理を開始。
野田城落城。この時点で信玄が浜松城・吉田城・岡崎城のどれに侵攻するかわからず、徳川兵力を分散させる事に成功。
西上して浅井朝倉の危機を回避する事が史上命題なんで、岡崎城を全軍で攻撃。
三河武士の人質から本領まで奪える岡崎さえ落とせば吉田や浜松の軍は調略し放題で瓦解。
信長が南下してきたら挑発しまくり野戦に持ち込む。
南下後に小牧山あたりで籠城したとしても、信長の軍勢を引きつけておく戦略目標は達成でき浅井朝倉の延命が成功するので近江以西はさらに混乱するので三河で調略しながら地盤を固める。
野戦するならともかく籠城するなら清洲城は選ばないだろう。
0960人間七七四年
2007/03/28(水) 10:41:07ID:z+OdUOqw駿河攻めでの二重の裏切りに端を発する徳川・上杉・北条による包囲網は信長の志賀の陣に匹敵する危機
もっとも弱体だった徳川家ですら一ヶ国程度は保有していた
このピンチを信長に泣きついて切り抜け、対北条で手打ちを成立させて駿河を取るまでは上洛どころか西進すら夢の又夢だった
こうしてみると、同盟破りの実績が再三ある信玄からの和睦を素直に斡旋した信長やそれを律儀に守った(ために越相同盟が破綻してしまった)謙信はちょっと人が良すぎる
0961人間七七四年
2007/03/28(水) 10:41:22ID:Sq6K3azU信玄死亡時に15歳のしかも他家に養子に出した庶子じゃ勝頼以上に
家臣団が受け入れないんじゃないか?
0962中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/03/28(水) 10:43:28ID:gsRZt/3/本願寺が朝倉を激しく非難した手紙なんてあるの?
顕如が朝倉家臣に対して直接直筆の書状を送って、対織田の働きを
慰労する手紙なら元亀2〜3年にかけて「上人文案」の中に多数確認できるが
0963人間七七四年
2007/03/28(水) 10:43:54ID:Sq6K3azU信長はなんで和睦を斡旋したんだろうな
知ってたら教えてほしい
0965964
2007/03/28(水) 10:47:24ID:z+OdUOqw0966人間七七四年
2007/03/28(水) 10:52:34ID:wxr0/GVE0967人間七七四年
2007/03/28(水) 10:56:04ID:z+OdUOqwちょっと待て。義昭と天皇の勅命を受けて和睦したのは義昭が撃破された後だ
時系列を勘違いしているのか、また捏造かどっちだ?
違うのならソースヨロ
0968人間七七四年
2007/03/28(水) 10:57:50ID:z+OdUOqw信長からすれば、当時は武田とは別に敵対関係はなく、むしろ東美濃の遠山氏らを挟んで背後を守りあう関係だったからじゃないの?
まさか数年後にあっさり裏切ってくるとは予想しづらかったんじゃ?
……よく考えたら当時の情勢では信長の斡旋は当然か。じゃあ謙信だけが極度のお人好しか
0969人間七七四年
2007/03/28(水) 11:09:28ID:Sq6K3azU東とあんまり関わりたくないから、ひとまず恩を売っといたわけね
でも徳川から抗議されなかったのかな?
0971人間七七四年
2007/03/28(水) 11:18:19ID:Sq6K3azUなるほど、勉強になりました。
ありがとね
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。