信長より信玄の方が名将だったわけだが
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:26:43ID:fN9wlsWd上杉、北条、今川などの周辺の大大名とも対等に渡り合った。
後の天下人徳川家康相手に圧倒的勝利を収める。
信長は信玄を恐れ、貢物を送りまくって終始へこへこ。
最後は家臣に裏切られ、惨めな最期を遂げる。
どっちが上かは歴然だよね。
0353人間七七四年
2007/09/28(金) 23:32:45ID:6Re6b/wKある程度周囲の日和見勢力が動いて5千に達するほどの軍勢を構成したなら
まったく情報がないのはおかしいだろう。それだけの動きについての情報を
大田は何も持っていなかったのか?そっちのほうが不自然だ。
自然だ、というがそれならなんでその兵力が到着した事などについての記述が
一つもないんだ?それが不自然だとは思わないわけで?
つーか2700討ち取った、の後ですぐさま付け城10仰せ付けらる、
となってなかったか?
大体後軍が到着したにしては付け城にこめられた面子が
信長についてきた佐久間や松永だし。
後年まとめられたものでも現場で見て1万5千だったならわざわざ間違っていた情報を
書く必要はない。最初から1万5千で書けばいい。
武田の史料って甲陽軍鑑?この板でずたぼろな評価のそれを持ち出してくるとは意外。
三河物語の2万は多すぎだろう。もともと三河物語は癖が強い史料だし。
当代記の1万は長篠城に付いてた数を入れれば実数に近いか?まあ、一万には
達しなかったとは思うけど。どっちにしろその長篠城についてた連中は酒井の奇襲で
壊滅しちゃったけどな。
0354人間七七四年
2007/09/29(土) 06:35:24ID:H8w4qm1r信長軍が直卒の三千に砦の兵を加えてそれなりの兵力になったと主張するのならなおさら。
それから、天王寺合戦のあと本願寺戦線に投入されたのは佐久間。この時畿内の再編成が行われ
もと塙の南山城・大和や河内の三好笑岩などがつけられる。ちなみにこの大和や河内の兵は三津
寺で敗れたあと、天王寺合戦には参加していない。
普通に考えれば、信長が敵を本願寺まで押し込めたあと、大和や河内の不参加だった敗残兵を
新たに再編成して佐久間のしたにつけられて包囲砦の兵にあてたとみるのは自然だろう?
0355人間七七四年
2007/09/29(土) 11:40:52ID:s48uBVxD0356人間七七四年
2007/09/29(土) 11:41:57ID:xFu3nSBzあのさ…「それなりの兵力になったと主張するのならなおさら」も何も
信長公記にしっかり信長は砦軍と一つに合したと書いてあるんだけど。
「御一手になり候」って奴だ。そっちのは記述にない推測。
記述にある事と記述にない事を同列に言われても困る。
佐久間は信長につれられて来たよな。そして松永も。
そして新たな防衛線を担った連中で佐久間信盛、信栄、松永久秀、久通という
連中は天王寺参加組。全体として敗残兵が再編成されたのは事実だろうが
それは元々の拠点や領域維持の為にまず配置されねばならないだろう。
信長は新たに10の付け城を作っているんだぞ?戦い終わった後からすぐに。
それにこめる兵力はどうするんだ?ある程度砦+信長が連れてきた兵力で
それなりの数を確保してなきゃできない芸当だろう。
0357人間七七四年
2007/09/29(土) 12:53:16ID:H8w4qm1r本願寺の兵は大敗して大損害をだした直後であること
天王寺合戦には不参加だった攝津一職支配の荒木が参陣していること
包囲の構築に一ヶ月はかけていること
天王寺参加の兵だけで包囲を作ったのではないですよ。もともと急なこと
で動員が間に合わなかったので少数で出撃したのであって、合戦に間に
合わなかった兵力が後から合流したと考えるのも不自然ではないでしょう。
ところで、このままではお互い推測をぶつけ合うこのに終始しそうなんで
やめておきませんか?こちらも、天王寺の織田軍の兵力が、砦の兵と合流
してそれなりになったことは否定してませんから。ただその兵が、砦だけ
で七千となるとそりゃ多すぎだろうと思います。
(砦の兵は明智と佐久間信栄。明智の領土は当時近江と山城の一部で、しかも
一部兵力は丹波の押さえに残している。佐久間も当時はまだ近江と尾張の一部
で、信栄が全てを率いていたわけでもない。)
また話を戻せば、少数の信長軍が多数の鉄砲で武装された万の軍勢に突撃して
破ったことは事実で、本願寺軍を過少評価することも信長を過少評価する必要
もない。
少なくとも天王寺合戦をもって、スレタイのように「信長より信玄の方が名将」
とはまったく結論づけられませんから。
0358人間七七四年
2007/09/29(土) 13:13:10ID:xFu3nSBzまあ、確かにこれ以上やっても不毛かもしれんので中止しとくけど
こちらからも一言。
砦の兵は明智と佐久間だけじゃないよ。猪子と大津(こいつらは信長の命令を
伝えに来た検使だけど、その後も攻防戦に参加していることや他のケースも考えれば
自分の兵は率いてきていただろう。)さらに江川衆も入る。
もともと大身の二人に加え、これだけ加わるならそれなりの数だったはず。
別に信長が本願寺勢を破った事は認めてるけど、それがよくこの板で言われて
いるほどの圧倒的不利を覆したものでない以上
天王寺でもって信長の戦術能力を圧倒的なものとみなす事は出来ないだけだよ。
0359人間七七四年
2007/09/29(土) 13:32:03ID:jVyTpCAR天王寺戦の一月前、
葦原の戦いで明智荒木原田の三万の兵が大阪にいて惨敗
勢いづく本願寺に追われ
織田兵の何割かが天王寺砦に逃げ込み立て籠もる
光秀が信長に援軍を呼ぶ
推測すると3万のうち何割砦に逃げ込んだか
元々砦にどれだけ兵がいたか
まー砦は合わせて7千以上になったんじゃないの?
0360人間七七四年
2007/09/29(土) 14:14:48ID:H8w4qm1rやめようと自分からいいつつ、すいません。
猪子や大津がいたことはしってましたが、両者とも大身でもなくそちらが言う
とおり検吏として派遣された身。私はこの両者が戦闘に参加したのは、検吏を
参加させずにはおれないほど、砦の兵力が不足していたと解釈してました。
また戦術能力に関してはどうすれば圧倒的なのかはひとそれぞれなので。
自分としては、天王寺も含めて少数で多数を撃破したことが何度もある信長の
戦術能力は、十分圧倒的と表現してもいいものがあると思ってます。
以上です。自分はこれまで普通に三千で五倍の〜と考えていたので、そちらの
「天王寺砦の兵力を無視すんな」という指摘はとても勉強になりました。
>>359
天王寺の一月前の葦原の戦い?明智荒木原田(塙)で三万?すいません初耳です。
詳細をお願いします。
私が知っているのは歴史の流れでは
四月十四日 荒木細川塙明智に本願寺攻撃の命令。
四人は三手に分れて本願寺を攻囲。塙が天王寺を占拠。そのまま三津寺の攻撃を
計画。光秀と信栄が後詰として天王寺へ。
五月三日 塙、三津寺攻撃。反撃にあい戦死。塙・三好軍敗走。本願寺軍は天王寺
へ攻撃。(塙三好の軍勢がどうなったかは記録にない。しかし天王寺に逃げ込んで
合流して、篭城戦を戦ったのなら、その記録があってもいいのでは?)
五月五日 信長、京から出陣
七日 信長軍、天王寺へ突撃(天王寺合戦)
0361人間七七四年
2007/09/29(土) 14:35:52ID:u2J1gAEj>自然だ、というがそれならなんでその兵力が到着した事などについての記述が
>一つもないんだ?それが不自然だとは思わないわけで?
将の到着ならともかくイチイチ兵が到着したことを記すなんてそっちのほうが不自然じゃないか?
反論のための反論になってると思う。
他も結論ありきで、結論から理論を組み立ててないか?
0362人間七七四年
2007/09/29(土) 15:50:51ID:MFRL1s4Qでも信長の政治力には勝てなかったんでね?
あと信玄は運が悪いねえ・・・・実に運が悪い
能力値を比較すると、ほとんどすべての数値で信玄のが上なんだけど・・・
「政治力」と「幸運度」では信長のが圧倒的に上って感じかなw
0363人間七七四年
2007/09/29(土) 15:55:22ID:xFu3nSBzいきなり終わってる議論に口出して随分失礼なこというわけだな、あんた。
どう考えてもそれなりの大軍が到着したというならそれは記事にして当然だろう。
第一兵士たちは引率者もなしにばらばらに到着するのか?
主将は信長といってるとするなら副将とかが引率してつれてくるはずだろう。
それならそれは記事になるべきだよな?
なんでこの程度のこと考えないんだ?信長に都合の悪いこといわれれば
結論ありき認定か?反論のための反論か?
そっちのほうがよっぽどいちゃもんの為のいちゃもんになってるだろうが。
0365人間七七四年
2007/09/29(土) 21:10:28ID:16M5FImB0367人間七七四年
2007/09/29(土) 23:44:36ID:UP7aJK2h税制も整えられて、それを基にした軍隊もある
諏訪は諏訪を統一した頼満が死亡して孫が後継いで、更に信虎が金指送り込んで分裂させておいた、
小笠原は小笠原を統一した長棟が死んで、粗暴な長時が後を継ぐ。
佐久は山内上杉の影響下だったが、上杉が関東で大敗した直後に攻めることで楽に制圧、
村上は豪族の集合体だし、長尾も関東行ったり上洛したり、雪が降って信越国境が塞がれてる隙に
攻めれるなど、あったし
長野は死んでくれたし、今川は桶狭間で弱体したし、北条は氏康が死んで最同盟できたし、
他力本願で織田裏切って攻めこんで後、すぐに死んだため、責任回避できたし
って所かアンチに言わせると信玄の運はww
最も諏訪も小笠原長野氏康も十分高齢だったから運ってのはあれだと思うんだが
0368人間七七四年
2007/09/30(日) 02:05:16ID:FP2r4aL+まーこんだけ
都合よく解釈できるもんだなwwww
信長なんて斎藤義龍が死んでなかったら
一生、尾張で終了してたのにw
0370人間七七四年
2007/09/30(日) 03:45:33ID:Q8QTPm9D戦略とか戦術レベルは平凡と言っていいだろな。
0371人間七七四年
2007/09/30(日) 03:57:35ID:kmEDNxhU信安は信賢とお家騒動
桶狭間は信長の情報誤認の偶然の産物
斉藤は義龍が道三と争って混乱の上、義龍が早世
六角は観音寺騒動で弱体
三好は長慶以下多数が相次いで死亡して内輪もめ
本願寺は一揆と守りを固めるばかりだし
信玄謙信は肝心なところで死亡
とこんな所か?
0372島津ヲタ
2007/09/30(日) 08:17:08ID:/CSfbgG5信長→運も実力の内を盾に祭り上げられた劉禅並みの愚将
信玄→自身も有能、家臣も忠義心に厚く有能だったが自身の女好きによって滅びた一種の愚将
ほらこれで解決。
ここから先は内ヶ島氏理について語りましょう。
0373人間七七四年
2007/09/30(日) 11:15:45ID:vn+im7qF0374人間七七四年
2007/09/30(日) 19:50:28ID:gALBxbSq彼のことを思えば、多少の逆境はマシだと思えてくるから不思議。
0375人間七七四年
2007/10/20(土) 02:19:11ID:mznGRha0毛利とか伊達も考察しようよ
0376人間七七四年
2007/10/20(土) 02:39:20ID:1UNWkHkk0377各板より反対の矢を放て
2007/10/20(土) 02:47:09ID:A40u3gxX「10年以上日本に在住している外国人に、地方参政権を与える」
なんていう恐ろしい法案が!
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【メニュー】→【TV】→【日テレ】→【バラエティ】→【太田総理】
「マニフェストに投票!」
半島の工作員が賛成に投票しまくるものと思われます。
日本人ならどうするべきかな。
0378人間七七四年
2007/12/27(木) 05:01:07ID:iAfwd6Vj0379人間七七四年
2007/12/27(木) 22:54:05ID:DEUhEnVR当時の坊主が戦闘経験0なわけないだろ
僧兵として武装して税金取ってて学問を修めて諸国の情勢にも通じ、信者は
今で言うなら狂信的カルト集団だぞ?
坊主が丸腰になっておおっぴらに政治に関与しなくなったのは、本願寺が
信長に降伏して以降だ
無知おつ
0380人間七七四年
2008/01/04(金) 21:51:29ID:4A9ry8PG信長vs武田 信 玄 って?平気でこんなのテレビでやるなよな。
0381人間七七四年
2008/01/04(金) 21:54:22ID:sAblEYg9道灌
0382人間七七四年
2008/01/04(金) 21:57:40ID:sAblEYg90383人間七七四年
2008/01/04(金) 22:07:06ID:4A9ry8PGだろ。
0384人間七七四年
2008/01/04(金) 22:08:43ID:sAblEYg90386人間七七四年
2008/01/10(木) 13:52:48ID:2KA9POAG信長を警戒しており、朝倉義景の撤退でその進行を止めたことは、他の勢力と自分のみで
争うのは不安であった証左ともいえる。と、言うより信玄が破った事があるのは自分より
兵数が少ない格下の豪族が主であり、滅ぼした大名は衰退した今川家のみである。
生涯において一度も自分より多くの兵力を持った相手と戦った事がないために、
信長との決戦を行う気があったのかは不明である。更に華々しい勝利がほとんどなく、
格下の村上や長野などに敗北する事もあり、勢力の拡大に多大な時間を掛けていた事から
軍事的才能を疑問視する声もある。
0387人間七七四年
2008/01/10(木) 14:54:57ID:yHg5lj57同格に近い上杉や同格以上の北条とも戦いながら勢力拡大してるんだから
時間がかかるのは当たり前。それでも北信濃や駿河をちゃんと確保してる。
百万石以上に広げた戦国大名なんて戦国時代に何人いるか。
あれで軍事的才能無いとかいったら他の連中なんかどうなることか。
朝倉や伊勢長島と連携すれば信長を戦略的には兵力で上回れる。
さらには信長と決戦しなくてもただ対峙して注意をひきつけておくだけでも
信長包囲網の体制立て直しにつなげられる。
それから長野に負けたなんていうのは同時代資料では確認されてない。
0388人間七七四年
2008/01/10(木) 16:31:20ID:e0CVPiQS信長がいない木下隊のみの留守部隊に攻撃もしかけずだまってみているだけの朝倉に
何を求めているんだ?
0389人間七七四年
2008/01/10(木) 18:53:36ID:pPQPpHEC数…だろ?
0390人間七七四年
2008/01/10(木) 20:36:15ID:DabkZGjoしてたわけだから。 信玄がいつも優勢みたいに言うのは正しくない。
むしろ信長のほうがよほど怪しい。何時も数を頼りに攻めてるようにしか見えんけど。
桶狭間が華々しいから隠蔽されてる。だいたい奇襲受けて死ぬなんてのは指揮官として
無能もええとこ。 軍事学じゃ奇襲受ける指揮官はいかなる理由があっても首だけどな。
それこそ奇襲受けないのなんて基礎中の基礎だから。
こうしてみると、信長の相手は雑魚ばっかりじゃないか? 今川が強大化したのも
雪斎によるとこが大きいしな。武田と違って自力で拡大してる家と戦ったこと皆無だな。
斎藤タツオキ・浅井・朝倉・六角、雑魚ばっかりw
0391人間七七四年
2008/01/11(金) 01:55:25ID:mdWyLqLn信長こそ濃尾平野の富を背景に弱小勢力相手に手当たり次第に敵を作り戦ってるだけで、部隊を無計画に抽出転用しまくりで戦力集中できてない。
斉藤も朝倉も六角も三好そうだが将軍を保護擁立したりと幕府に度々積極的介入してた英主強国時代がとっくに過ぎ去り斜陽疲弊してた時期に信長の活躍がある。
0392人間七七四年
2008/01/12(土) 02:33:48ID:548ox+5V奇襲受けないのが当たり前w
信玄にいってやれw
0393人間七七四年
2008/01/12(土) 08:27:14ID:IuZWsMrx今川・斎藤・北畠・武田と周囲は一大地方政権に囲まれる中で調略や外交を駆使して絶対有利な状況を作りこむ手腕は信長の真骨頂ですが。
武田こそ甲斐一国の富を背景に弱小勢力相手に手当たり次第に敵を作り戦ってるだけで、部隊を無計画に抽出転用しまくりで戦力集中できてない。
今川も長野も北条もそうだが名のある強い武将が死んで度々積極的介入してた英主強国時代がとっくに過ぎ去り斜陽疲弊してた時期に武田の活躍がある。
↑固有名詞変えただけでほとんど当てはまった。
0394人間七七四年
2008/01/12(土) 09:18:28ID:Jz3dM5ZFまあ、周辺状況のキツさは単純比較は出来ないけどな。
強いていえば上杉北条織田に囲まれ勢力拡大が不可能な武田は
西に切り開ける織田に比べて先が見えてたってくらいか。
でも織田も朝倉本願寺武田と強力な相手が周囲にいたわけだし。
0395人間七七四年
2008/01/12(土) 10:40:37ID:G3WmPTbGそれまでは障害以外の何者でもないし、まして下手すれば統一後も障害になりかねん
0396人間七七四年
2008/01/12(土) 10:58:40ID:548ox+5V答えはNOだ。親が基本的な体勢をつくっているし今川と友好な体勢があるだけでも
信虎が甲斐を継いだ体勢に比べれば全然楽。おまけに金山まである。
侵攻先の信濃は豪族割拠の分裂状態でまとまりに欠け侵攻は容易い。
其が延々と信濃攻略に手間取り先に待っていたのは謙信との泥沼の戦いである。
この謙信との戦いで戦費国力年月を無駄に消耗し、信玄も死の間際「謙信と闘うのに意固地になりすぎた」と反省したが後の祭り時間切れ。
もちろん三国同盟がある以上駿河に出ることは出来ないから謙信の勢力範囲か斎藤の範囲に向かうしかない
北条を考えれば上杉を相手にしなければならない。ある意味三国同盟は自分の首を締めた。
駿河甲斐の二国間同盟で十分だった。北条が居なければ上杉と和議する事も容易い。
信玄はプライドが高すぎたのが1つの問題点だ。信長のように柔軟にペコペコする一面があれば月日を無駄にする事もなかったはず。
0397人間七七四年
2008/01/12(土) 13:53:40ID:4n5cNqiLなのにあの苦戦ぶり。
明らかに行き当たりばったり政策。
国力を背景にしてただけ。
信長がすごいとは思えない運がいいだけ。
0398人間七七四年
2008/01/12(土) 14:14:03ID:DyS+EP7hのですが、本城落とせば国内完全心服のノブヤボ理論ですか?
0399人間七七四年
2008/01/12(土) 14:54:00ID:f5nrCPQTそれでも信濃豪族連中は結構連合して武田に向かってきたんだけどなー。
当時の武田だって甲斐は飢饉だの水害だの起きてたし国力的に信濃連合を
圧倒してはいなかったから何気に大変なんだけど。
元々上杉は信玄に追われた信濃豪族連中を戻すことを名分にして向かってきたので
妥協できるのかと言う問題が。もともと上野の上杉氏は信濃のほうにも影響力を
持っていたし、武田も信濃侵攻初期に謙信が継ぐ前の上杉氏と小田井原で戦って追い出してる。
このように謙信が上杉氏の再興を狙うなら信濃も実はターゲットになってしまうので
だからどうせ戦うなら北条と連携して戦うのは悪くない戦略だったんだよ。
実際その結果強敵上杉の侵略を封じ込め信濃も西上野も手に入った。
プライド云々に関してはよくわからん。そこまで気位高い外交してるとも思えないが。
0400人間七七四年
2008/01/12(土) 15:47:50ID:G3WmPTbG信濃が山内上杉の管轄化というのはなんで?
相伝の地は上野に伊豆だけじゃ?
そもそも関東府の影響範囲が上野・甲斐・相模・伊豆・武蔵のそれぞれ西端までが管轄だったんじゃないのか?
0401人間七七四年
2008/01/12(土) 15:57:32ID:4n5cNqiL屁理屈はいらない。
信濃佐久地方が関東管領上杉傘下にいた。
また越後上杉も北信濃に影響力があり信濃半国守護のように見られていた時期もあるし一時期信濃に逃れて反攻しようとしたりしてた。
鎌倉公方はたしかに信濃は管轄外だが影響を及ぼそうとしていた。
0402人間七七四年
2008/01/12(土) 16:03:03ID:G3WmPTbG信濃半国守護なんて職が幕府にあったのか?
越後守護を打倒したのが長尾さんじゃないか?
鎌倉公方が管轄外に影響を及ぼそうとする、というのと、影響力を保持しているってのは同等じゃない
仮にそれで影響力を獲得していたとしよう、上野伊豆を手放したことをすら後悔していた関東公方が、さらに信濃の管轄権まで与えるというのか?
0403人間七七四年
2008/01/12(土) 16:03:34ID:4n5cNqiL一時期は千葉方面も守護に任じられた事もある。
伊豆は堀越公方に譲渡した。越後上杉は相模守護職をもらって扇谷上杉に対抗したりした。
0404人間七七四年
2008/01/12(土) 16:03:59ID:f5nrCPQT信濃全部というわけじゃないよ。
信濃の豪族には上杉氏と縁の深い連中が居るという事。
若き日の真田も武田信虎に放逐された後でこのつながりで上杉を頼った。
武田に敵対した信濃の笠原氏は上杉氏と深いつながりをもっており上杉憲政の家臣
高田憲頼を派遣されている。笠原氏の下に参じた平原氏も上野に血縁を持つ。
そして笠原氏が志賀城においていよいよ追い詰められた時、山内上杉憲政は
大軍を援軍として差し向ける。北条との川越戦の後でつらかったのに無理をして。
これを武田が迎撃して打ち破ったのが小田井原の戦い。
0405人間七七四年
2008/01/12(土) 16:08:46ID:4n5cNqiL信濃が守護小笠原氏の元で統一をみなかった理由のひとつ。
信濃半国守護という職はなかったがそう見なされ一目おかれていた。
0406人間七七四年
2008/01/12(土) 16:12:22ID:f5nrCPQT戦国において管轄権なんかあってなきが如しな気が。
上杉に好意的な信濃豪族を復帰させようとするならそれは武田の領域を侵すことで
あり上杉の信濃における影響力の拡大でもある。
謙信が余裕があるならやらない理由はないし信玄が譲歩する理由もない事柄。
0407人間七七四年
2008/01/12(土) 16:15:11ID:G3WmPTbG具体的に深いつながりというのは?
それに、山内上杉の思惑と、長尾上杉(ヘンだが理解してくれ)の思惑が合致していたというのはまた別の話じゃないか?
長尾上杉は越中に攻めたりしてるが、それも山内上杉の意思だったというのは強引じゃないか
そもそもそんなボランティアで大名が行動起こすわけ無いだろう
武田が拡大して、脅威になりそうだから、北信の連中を使ってけん制したという解釈のほうが現実的だと思うんだが
0409人間七七四年
2008/01/12(土) 16:18:36ID:4n5cNqiL0410人間七七四年
2008/01/12(土) 16:22:02ID:G3WmPTbGなら信濃半国守護は実際に用いられ、またしっかりと定義もなされた言葉だと?
でなければ、独自定義の造語といわれても仕方ない
0411人間七七四年
2008/01/12(土) 16:27:23ID:f5nrCPQTつながりというのは笠原氏は上野後閑氏と、大戸氏は笠原氏の参加の浦野氏とのつながりがある。
上野から援軍として派遣された高田も笠原氏と縁戚にある事が妙法寺記にある。
だから、山之内上杉の意思だの名目だのは侵攻の名目にはなるんだよ。
ボランティアじゃないって。自分に好意的な連中を信濃に送り込めるなら
それは自分の勢力圏の拡大でもある。
この話のもともとの始まりは「北条と連合しなければ武田は争わんでいいじゃん」
という事に答えたもの。謙信は一時期上野一国に武蔵北部までの領域を支配し
諸勢力と結び11万もの兵を動員し関東に大きな勢力をつくった。
これに対して武田が北条と連携しないなら北条が苦しくなり上杉が関東に大きな力をもつ
可能性は高い。そして関東に大きな力を持った謙信が信濃にまで手を伸ばさないかと言うと
かなり危うい気が。力があるなら領土拡大に努めるのは戦国大名の常。
都合のいいことに名分はあるのだから。上杉に好意的な豪族を助けるという。
0412人間七七四年
2008/01/12(土) 16:30:27ID:4n5cNqiLまた長尾為景は越中半国守護として越中東部へ出兵する大義名分がある。
0413人間七七四年
2008/01/12(土) 16:33:46ID:hNv8a5Ouが何も知らないアホだということはわかったw
0414人間七七四年
2008/01/12(土) 16:34:00ID:JZoRkZF4上杉憲政は滋野方として援軍を出している。結局間に合わずに敗北した海野棟綱、真田幸隆が上野に亡命することになった。
また、上田原の戦いでも上野の小林氏が参加して信濃に所領を与えられた書状が残っており、
他にも関東管領の勢力が参加していても不思議ではない。
とはいえ、長尾上杉と武田の戦いにこれが絡んでくるとは思わないけど。
結局真田幸隆は信玄に組して旧領を回復し、滋野一族の信濃の浦野氏も武田についている。
長野業正の死後に信玄が西上野に出陣すると笠原氏と縁戚だった高田氏、小林氏や
滋野一族の上野大戸浦野氏は真っ先に信玄方についてしまった。
結局西上野の旗頭は信濃不介入方針の長野氏になる。
第五回川中島は実はその長野氏業の進言があったことが書状より明らかだが、
これは北信濃と西上野から武田を挟撃し、あわよくば佐久まで打通して越後、西上野へのルートを作るのが目的で、
従来の関東管領の方針とは別に違うし、そもそも武田の上野侵攻への対応策だからね。
0415人間七七四年
2008/01/12(土) 16:37:15ID:hNv8a5Ou0416人間七七四年
2008/01/12(土) 16:45:47ID:hNv8a5Ou画策してたって言ってもID:G3WmPTbGには何の事か理解できんだろw
0417人間七七四年
2008/01/12(土) 16:45:53ID:f5nrCPQTいやいや、要するに長尾上杉は武田と北条が連携してこそ切り崩せたくらいの
力を一時期は持った。武田が北条と連携せずにその長尾上杉の力が確立されてしまえば
長尾上杉が好意的な信濃豪族を助けるという名目で信濃介入してきた事は十分ありえたのでは?
という事。
0418人間七七四年
2008/01/12(土) 16:49:46ID:4n5cNqiL0419人間七七四年
2008/01/12(土) 17:01:55ID:JZoRkZF4うん。だから信玄の西上野介入は長尾上杉vs武田関係によるもので
関東管領vs武田関係はもうたいした意味を持ってはいなかったんじゃないかな。
浦野氏は進んで信玄についており、大戸浦野氏も謙信侵攻以前は
北条と親交があって人質を出すよう言われている。おそらく武田、北条の両属か。
海野棟綱も死んでしまった以上、関東管領が信濃に対して切れるカードはほぼなかっただろう。
0420人間七七四年
2008/01/12(土) 17:23:18ID:G3WmPTbGなるほど、攻める名目ね
関東といっても広いぞ
一体謙信が関東を纏め上げるのがいつになるのやら
仮に北条を謙信が打倒したとしよう、その後反北条という旗印が無くなった関東勢力の動向はかなり不安定だぞ
越相同盟で簡単に盟主を切り替えたように、今度は謙信対関東勢という図式になるとおもうが
そうなれば信濃にかかわってる暇ないし、黙認という形で西方の安全を図るのが上策だろう
0422人間七七四年
2008/01/12(土) 18:01:09ID:4n5cNqiL元々は幕府役職に信濃半国守護という役職はなかったから。
0423人間七七四年
2008/01/12(土) 19:26:00ID:G3WmPTbG>信濃半国守護という職はなかったがそう見なされ
ハッキリとないといっておいてころころ変わる人だな
その補任状は何で確認できるんだろうか?
0424人間七七四年
2008/01/12(土) 22:39:25ID:RNLMHgXj誰もやってない事をやった。野茂も一緒。今は誰でもメジャーいけるけど、野茂の、おかげ。
秀吉も家康も、真似たり、悪いとこ直したりして、政治を行った。
そういう意味じゃ、信長の方が上いってるよね。
0425人間七七四年
2008/01/12(土) 22:44:47ID:27rvGvZk0426人間七七四年
2008/01/12(土) 23:15:40ID:RNLMHgXj楽市楽座は六角か?でも大規模にやったのは、みんな信長。
0427人間七七四年
2008/01/12(土) 23:17:55ID:B04wyyiGというか真逆の事ばかりやった
だから250年の太平を築けた
0428人間七七四年
2008/01/12(土) 23:20:51ID:27rvGvZk0429人間七七四年
2008/01/12(土) 23:29:07ID:4n5cNqiL0430人間七七四年
2008/01/12(土) 23:33:15ID:G3WmPTbG海外での評価はしらないが、マルクスな人からは人気が無いみたいだ
制度派?な人からは高く評価されてるとか
講義で聞いたような覚えがある
0431人間七七四年
2008/01/12(土) 23:47:16ID:B04wyyiG信長と共通してるところはあるだろうな
0432人間七七四年
2008/01/13(日) 00:10:34ID:DnE0OxON0433人間七七四年
2008/01/13(日) 05:11:02ID:oiuu1zMO戦国時代における結果(最良の結果)って天下統一または領土安泰なんじゃないのかな?
一時的に領土を拡大させても最終的に家が滅びてしまえば何の意味もない
お互い優秀な武将である三好長慶と北条氏康を比較して優劣を決するのは無理があると思う
0434人間七七四年
2008/01/13(日) 08:41:16ID:sKqycMxtさんざん反感買いながらもそういうのを無視して、自分のやりかたで強引に拡張
最後はそのツケがまわってきて自滅
0435人間七七四年
2008/01/13(日) 12:58:16ID:RKUfi/ZB信玄も大差ないだろw
0436人間七七四年
2008/01/13(日) 13:27:26ID:Sfz5mOx30437人間七七四年
2008/01/13(日) 13:34:20ID:5rVo/wc0ホリエモンが断トツ一位だったような気が
0438人間七七四年
2008/01/13(日) 14:00:44ID:vmU92Efu0439人間七七四年
2008/01/13(日) 22:59:36ID:RKUfi/ZBさんざん反感買いながらもそういうのを無視して、自分のやりかたで強引に拡張
最後はそのツケがまわってきて自滅
なっ?全然違和感がないだろ?
まぁ謙信入れても違和感皆無だけど
0440人間七七四年
2008/01/13(日) 23:09:43ID:84NghOWU信玄も謙信も自滅してないじゃんw
最盛期の時に病没している
0441人間七七四年
2008/01/14(月) 01:54:54ID:LV0Ewr8s0442人間七七四年
2008/01/14(月) 02:32:11ID:mOGCTfEI企業に成長すれば信長っぽいな
このままライブドアが衰退して、新経営陣の必死の努力にも関わらず倒産したら信玄に近いな
0443人間七七四年
2008/01/14(月) 04:00:58ID:2Kn0bMcP0444人間七七四年
2008/01/14(月) 07:32:20ID:hvHGPknqマンセーしてられるなんて幸せな方ですね。
0445人間七七四年
2008/01/14(月) 10:28:00ID:RFENOKR8信玄なんて自分がばら蒔いた不和の種が勝頼を苦しめたんだがw
0446人間七七四年
2008/01/14(月) 22:05:25ID:2Kn0bMcP織田家臣団みんな揃って裏切ったようなもんだ。
0447人間七七四年
2008/01/14(月) 22:40:17ID:xHrrOSPh0448人間七七四年
2008/01/15(火) 18:47:13ID:23pLvLhX信玄の永遠のライバルは村上義清だろ。
信長に対して引き合いに出すほどの最強大名ってーと強いて言うと元就辺りだろ
0449人間七七四年
2008/01/15(火) 18:56:05ID:iz8PQxIG人は城、人は石垣・・ などの格言は人生の指針にとさえ思っていた。
でも、ここを見ていると、??と思ってしまってね・・
0450人間七七四年
2008/01/15(火) 18:58:33ID:oWUDPaHR0451人間七七四年
2008/01/15(火) 20:50:59ID:efj0U1V+カワイソス(´・ω・`)
なんせその発言自体全く信玄が守ってないもんな…
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