信長より信玄の方が名将だったわけだが
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:26:43ID:fN9wlsWd上杉、北条、今川などの周辺の大大名とも対等に渡り合った。
後の天下人徳川家康相手に圧倒的勝利を収める。
信長は信玄を恐れ、貢物を送りまくって終始へこへこ。
最後は家臣に裏切られ、惨めな最期を遂げる。
どっちが上かは歴然だよね。
0252名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 23:00:43ID:JQfqT7m/甲越和与は第一次駿河攻めから帰還してからの話だったと思う。
信玄は第一次駿河攻めから帰還した後に、甲越和与の他に越中一向一揆や芦名を
けしかけて謙信の動きを封じている。その後で北条攻めにとりかかっている。
越相同盟は発足こそしたものの、いざ北条が攻められて両者の全面的な協力が必要になると
お互いの利害の食い違いで話にならなかった。
(上杉は北条に上野・武蔵・下野の返還をもとめており、これは北条には受け入れられないもの。)
結果として信玄の侵攻にこの同盟は機能せず、越相同盟は破綻した。
0253名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 23:11:18ID:WBfOyyF5>甲越和与の他に越中一向一揆や芦名をけしかけて謙信の動きを封じている
かなり矛盾した内容だね。謙信と和を結びながら後背(越中・葦名)から謀略を仕掛けた(これは史実)と?
それ(和議と謀略)を本当にやったのなら、信玄は震源というか権謀術数の名将だが。
後段は通説どおり、史料的な裏づけもあるので同意。
0254名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 23:55:35ID:JQfqT7m/信玄が駿河を攻めたのは1568年の12月の事だったから第一次駿河攻めのあとと
いうのは早計だったか。ただ、それらの影響は帰還後の甲越和与の後も残り、
謙信の足を絡め取ったことと思う。特に越中一向一揆はその後何年も謙信を悩ませる。
0255名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/07(水) 00:13:29ID:wwKfPTeh越後に乱入するように越中一向一揆の勝興寺に仲介を依頼してたりする。
結局権謀術数の名将って言う感じだな。
0256名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/07(水) 00:50:02ID:TQp1XX+qこれは史実ではない。というか、もっと複雑なんだな。
椎名一族は為景いらいの越中郡守護職、椎名小四郎が長尾氏(藤景)の養子に。
よって、謙信(長尾景虎)が神保(武田方)と対立した椎名を支援(永禄二年)、
その後、信玄が椎名を篭絡して越中から越後を伺う。神保一族の反武田派が謙信を頼り、ふたたび越中の争乱。
最終的には小四郎を椎名の名代にした謙信が越中を平定。越中は複雑怪奇だな。
0257名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/07(水) 10:09:54ID:p4wBYUQ00258名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/07(水) 12:10:42ID:wwKfPTeh負けている。
0259名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/08(木) 22:47:39ID:46+KBBWyしかもこれは好意的な見方 そもそも無かったという説もあるし大した戦でもなかったという説が強いからな
0260名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/12(月) 00:39:11ID:kw6QxEM9天下平定を視野に入れた信長と比べるのは無理がある。
0261人間七七四年
2007/02/13(火) 07:41:30ID:VaFWLXYu天下統一を目指した武将が目指さなかった武将より優秀というのは無理がある。
0262人間七七四年
2007/02/20(火) 02:38:15ID:4i9KDpaL違うよ。天下統一を目指す以前のレベルの信玄は論外だということ。
略奪で生計を立てるやり方ではね。
0263人間七七四年
2007/02/20(火) 06:39:46ID:QV/ETtT1お前は いつの時代の人間だ?
弱肉強食の時代ではそれが優劣の分かれ目だが
0264人間七七四年
2007/02/20(火) 23:22:33ID:BRMBQxuw0265人間七七四年
2007/02/21(水) 03:08:13ID:U8QIianl信長はそれを超越してたってことだよ。
信玄はいつになっても略奪しか能がないから、あんだけ信長と差が開いたんだよ。
信玄の勝率97%なんて信長の前には何の意味もなさない。
0266人間七七四年
2007/02/21(水) 03:39:35ID:vtut36JR飢饉や水害にも悩まされ、整備も整ってない貧しい山国で
信玄がどれだけ内政に力を注いだのか少しでいいから考慮してくださいよ。
0267人間七七四年
2007/02/21(水) 03:55:08ID:SfhGYpIM0268人間七七四年
2007/02/21(水) 03:58:37ID:XXupo6NN逆を言えば、そこが信玄の最高の名将っぷりでもあるんでね?
自分より強い奴より、弱い奴と戦い続けるのが鉄則であり、最高のシナリオ。
それを一生続けられたっていうのは、ぶっちゃけ凄いと思われ。
0269人間七七四年
2007/02/21(水) 14:14:59ID:SfhGYpIM一生それで拡大しつづければ凄かっただろうが、結局は甲斐信濃+今川弱体後の駿河で手詰まりで、
周辺の有力勢力相手には全くと言っていい程拡大出来なかったところが、所詮は信玄の限界だったとも言えるんじゃない?
0270人間七七四年
2007/02/21(水) 14:48:10ID:vtut36JR駿河制圧後は徳川や織田の領土をわずかな期間の間に
結構とっているじゃないか。
全くといっていいほど、とかいうのは違うだろう。
0271人間七七四年
2007/02/21(水) 17:07:32ID:YQ8hA7x1上野にはかなり手を伸ばしてるんだが。
0272人間七七四年
2007/02/21(水) 18:00:17ID:vtut36JR0273人間七七四年
2007/02/21(水) 18:27:57ID:YQ8hA7x1特に三河はそれなりに取ってるし、上野は面積的に半分に迫るほどまで侵攻してる。
0274人間七七四年
2007/03/31(土) 12:28:27ID:a8SMGOUS0275人間七七四年
2007/05/06(日) 15:24:03ID:56TbfRlE0276人間七七四年
2007/05/11(金) 11:11:57ID:PpSlZjVCその優秀さを持っても、人生の中でそのハンデを覆しきれなかったわけだし
どこまで支配欲があったか自体は置いておいても、当時の地理的な問題は大きいというか、
ほぼ野心や動機のほとんどに直結してると思うが
もし○○じゃなく、○○に生まれていたら なんてのは、信玄だけじゃなくても
面白い人物は人それぞれで幾らでもでてくるだろうけど、こればっかりはしょうがないな
0277人間七七四年
2007/06/21(木) 23:44:17ID:/n2sq2yM0278人間七七四年
2007/06/22(金) 11:30:27ID:QyoKnMH6人格的には信長よりも優れていたんじゃない?
0279人間七七四年
2007/06/22(金) 12:48:44ID:mhWGAdSUそ れ は な い
0280ソユーズ
2007/06/22(金) 21:42:55ID:vu8aicm60281人間七七四年
2007/06/23(土) 00:40:48ID:ycT6zewR信玄と信長でわざわざ 人 格 で比較するってなんかの罰ゲームですかw
0282人間七七四年
2007/06/23(土) 03:58:25ID:OyxIyPH90283人間七七四年
2007/06/23(土) 05:12:56ID:prpW+pcyないよりはあった方がマシぐらいだろ
0284人間七七四年
2007/06/24(日) 00:59:12ID:NXt1RP3I0286Y ◆nzdGjBH722
2007/06/27(水) 00:22:05ID:ukntER8O実際はそこまでひどくなかったんじゃない?
0287人間七七四年
2007/06/27(水) 19:42:54ID:vRW1RgmAと民衆に嘆かれてるから、どっちもどっち。
ただ、信玄の方が年貢の率は弄らずに夥しい数の税を課すなど、更に巧妙に搾り取ってる。
0288人間七七四年
2007/06/27(水) 19:56:36ID:Q4Wz/XAXなっていくんだけどな。「これ以後にもないくらい分捕りができた」とか
喜ばれてもいるしな。
0289人間七七四年
2007/06/27(水) 22:11:58ID:UmGl0P0Z初期兵力二桁という状態で叔父などの競争相手討ち取る
『武田氏研究35号』だと信虎の成年が1498年となるから10歳ほどで恐ろしいほどの手腕
信虎が家督を継いだ段階では甲斐西部は諏訪の縁戚の今井氏とかが
甲斐西部南部は今川の影響下にあり、今井大井氏などを支援
小山田家も信虎には従わず
信虎が支配しているのは甲斐国中の極一部、
それを今川伊勢諏訪などの影響を排除しながら1532年に豪族の最後の反乱を鎮圧して統一
その後今川との同盟を実現し(反対した奉行衆の逃亡と前島一族の族滅なども招いたが)
その後佐久小県へ進出
内政面では各金山の接収開発、治水、甲斐一国にたいする棟別銭の賦課
躑躅ヶ先への移転、甲斐の国人から人質を集め城下に集住させる
職人を集め城下町の建設
伝馬制度を整え、印判の使用、奉行衆などの制度
不当な諸役賦課の禁止、武田家の印判のない命令書の無効
家臣登用も小幡多田原横田など甲斐に地縁が無くても優秀な人材は重用
また春日なども信虎が登用したとも
外交的には小山田穴山と姻戚となりとりこみ
奉行衆の反対などを押しきって今川との同盟を実現、信濃進出への道を開く
諏訪家に介入し金指氏を旧領に戻して諏訪家を弱体化
普通に優秀だと思う
通説で信玄の成果とされている甲斐の国内政策も信虎がその基礎を築いているし
>>288
そのような記述は信虎時代もあるし、1550年代後半になるとまた不満が増えているから
基本的には信虎時代と一緒で、
>信濃攻略がうまくいくようになると文句もなくなっていく
というのは間違いだと思う
0290人間七七四年
2007/06/27(水) 22:45:43ID:Q4Wz/XAX受けてさらに謙信との川中島も膠着してて分捕りで補う事もできない状態。
不満が出てきてしまうのは仕方が無い事では?
0291人間七七四年
2007/06/27(水) 23:02:23ID:UmGl0P0Zだから信虎時代に書かれた不満も
信玄治世初期の不満も57年からの不満も
基本的には自然災害とある程度重なるから
>信濃攻略がうまくいくようになると文句もなくなっていく
というのは間違いだって言っているのだが
0292人間七七四年
2007/06/27(水) 23:09:33ID:Q4Wz/XAX負担のみが増大していく→不満が出てくる→信濃攻略がうまくいく
→戦利品が手に入る→文句が少なくなる
なんか問題あるのかな。あおりではなく。
0293人間七七四年
2007/06/27(水) 23:15:59ID:UmGl0P0Z信玄時代だと1541年1548年1557年1567年前後は本当に大災害大飢饉だったのに対し
(若干年数はずれているかもしれないが)
それ以外の時期は普通に災害が書かれている程度で
1567年のは『妙法寺記』じゃないが
0294人間七七四年
2007/06/27(水) 23:31:50ID:Q4Wz/XAXそこまでして行っている戦争がうまくいかなくて戦利品もなければ
そりゃ不満がたまるだろ。
0295人間七七四年
2007/06/27(水) 23:38:49ID:UmGl0P0Z0296人間七七四年
2007/06/27(水) 23:46:21ID:Q4Wz/XAX不満にはなるんじゃないか。
0297人間七七四年
2007/06/27(水) 23:58:42ID:UmGl0P0Z信濃攻略が上手くいって不満が無くなったわけでもない
まあ信玄時代のほうが信虎時代より税は重かったようではあるが
0298人間七七四年
2007/06/28(木) 00:05:33ID:7FhnXFdF戦利品も手に入れば不満の声は少なくなるだろ。
災害が酷くて戦利品の実入りで補えなければ不満もでる。
信虎時代は最後に信濃の一部に領土を得たけど、その前は何回か
他国の勢力と戦ったり、他国に出兵した事もあったけど
基本的に領土はあんまり増えず参加してる甲斐の農民からすればあんまり
実入りがなかっただろうから、そこらへんも不満を持たれる理由だったんだろ。
0299人間七七四年
2007/06/28(木) 00:09:28ID:eX/rdGIk具体的に信虎時代の何年の記述?
信虎時代でも災害が酷かったり、今川北条に攻められたりしたときは別として
不満は無かったと思うが
0300人間七七四年
2007/06/28(木) 00:21:28ID:7FhnXFdF追放しました。民衆が皆満足した事限りありません。」っていうの。
信虎の悪行っていうのは後世脚色されたものではなくて、不満を蓄積させた
ことだろ。
さらに塩山向岳庵小年代記の「晴信様は万民の憂いを救おうとして信虎を追放し
これにより人民は快楽の笑いをふくんだ」
王代記の「晴信様が当主になった事で一国は安全になった。」
などの記述から相当不満が蓄積されていたことはうかがえると思うが。
0301人間七七四年
2007/06/28(木) 00:52:02ID:eX/rdGIkそれで相当不満が蓄積されていたことはうかがえると思うのであれば信玄も同様に
不満が蓄積されていたと言うことになる。
あなたが自分の主張を通したいのであれば災害と無関係な不満を挙げないとあまり意味が無い。
あと信虎初期の甲斐国内の内乱や今川伊勢氏などの軍による不満も信玄とは状況が
異なるのであまり意味が無い。
0302人間七七四年
2007/06/28(木) 03:58:36ID:7FhnXFdFにもいいことだった」という事。うまくいかなければ不満が現われるし
酷い災害とかあった時少々の戦利品では埋め合わせがつかない時は不満の声も
上がる。でも信玄はいろいろあったが信濃を着実に侵略し戦利品を獲得して
いた事は兵士達や庶民に支持されていた。信虎は諏訪やら北条やら今川やらと
争い何回か他国に出兵してもいるが領土が伸ばせたわけでもなく、戦利品も
信玄程に得られていたわけでもなく負担は蓄積した。信虎の追放が災害からの
影響という事もあるだろうが、それをいったら信玄にも弘治から永禄にかけての
大災害があった。でも信玄は追放されず権力を握り続けられたのは
その勝利による戦利品などの利益が民衆に支持されていたからで、
甲斐の民衆にとっては信玄のほうが信虎よりも良かったのだろう、という事。
0303人間七七四年
2007/06/28(木) 22:12:33ID:xGgRF5x1>でも信玄はいろいろあったが信濃を着実に侵略し戦利品を獲得して
>いた事は兵士達や庶民に支持されていた。
信虎時代も信玄時代も支持はあったり不満あったりしているし信虎も信濃に侵略している
両者の不満支持に何らかの決定的な違いがあるというのであれば是非提示して欲しい
>信虎は諏訪やら北条やら今川やらと
>争い何回か他国に出兵してもいるが領土が伸ばせたわけでもなく、戦利品も
>信玄程に得られていたわけでもなく負担は蓄積した。
そんな不満何処に書かれているの?今川北条らに攻められた時の不満や追いかえした時の支持
今川と同盟結んだ時の民衆の支持は書かれているけど
蓄積していた言うからには大災害のあった1541年以前から特別な不満があったということになるので
あと信虎はそもそも甲斐の極一部から始まったので、信玄以上に領土を伸ばしているし戦利品も得ているといえる
信虎と信玄で比較するのであれば本来は信虎の本領と信玄の本領、
若しくは信虎が征服した地域と信玄が征服した地域で行う方が正しいかもしれない
>それをいったら信玄にも弘治から永禄にかけての
>大災害があった。でも信玄は追放されず権力を握り続けられたのは
信玄が隙を見せなかったことに対し、信虎は少数の供で国を留守にするということをしている
仮に追放しようと思っても無理
>その勝利による戦利品などの利益が民衆に支持されていたからで、
だから最初から言っているようにそれは信虎の時も一緒
それにこの災害の時期は民衆には支持されていない
>甲斐の民衆にとっては信玄のほうが信虎よりも良かったのだろう、という事。
以上のことから実際はともかくあなたのそれは根拠の無い妄想にしかなっていない
信虎と信玄が違うということを証明したいのであれば
自然災害とは別に不満が溜まっていたという証拠を提示しなければ証明できない
まあ研究者にも証明出来ていないことだから(だからこそ未だに信虎追放の原因がはっきりしていない)
不可能だとは思うけど
0304人間七七四年
2007/06/30(土) 05:38:37ID:OZMtt+xp食うか食われるかの世界
完全な弱肉強食社会 うんざりする位遺恨だらけの権力闘争
もう日本人戦争しないほうがいいのでは
0305人間七七四年
2007/07/04(水) 15:00:16ID:rwCblCUx0306人間七七四年
2007/08/30(木) 23:06:49ID:WG0HlAqH0307人間七七四年
2007/09/05(水) 23:57:40ID:G7k3I2OJ運をものに出来るというのは、常人では無理どころか幸運が通り過ぎたことに気付かない事だって有るぜ。
それをきっちり物に出来るのならば、十分傑物。
0308人間七七四年
2007/09/10(月) 22:36:11ID:rzyZotOD逆に血縁者に殺されるアフォってパターンが過小評価されていると思うのだが
0309人間七七四年
2007/09/25(火) 06:06:35ID:7omKgHfU0310人間七七四年
2007/09/25(火) 11:01:50ID:/XRyvfZX殺された血縁者にしても、信長のように家臣に殺されるよりマシと思われ。
0311人間七七四年
2007/09/25(火) 12:09:35ID:pYipuKi3有利か不利か議論したら信玄がどんだけ不利な条件かわかるでしょ
信長厨はいつも
これについて避けるのよね
0312人間七七四年
2007/09/25(火) 13:42:32ID:oVx4GoVj0313人間七七四年
2007/09/25(火) 13:54:04ID:5xqhSjpsそら甲斐の方が有利じゃないの?
敵少ないし
そもそも信玄が尾張にいたら
普通に今川に踏みつぶされてるだろ。
0314人間七七四年
2007/09/25(火) 18:26:56ID:V/rCbWq5ないないw
0315人間七七四年
2007/09/25(火) 18:33:55ID:V/rCbWq5信長については、運が良かったからな。
後は、尾張は物資が豊富だし、甲斐よりか上洛しやすいし、今川を除く強敵もさほどいない。
ここまで環境の差があるのにこの二人を比べるのはおかしいと思うが。
0316人間七七四年
2007/09/25(火) 18:34:03ID:WcspncPF信玄は一生甲斐、信濃の山から下りてこられなかっただろが。
ひたすら謙信と不毛な戦いに終始。
0317人間七七四年
2007/09/25(火) 18:47:12ID:WcspncPF美濃の斉藤、越前の朝倉
六角、三好いずれも信玄が相手にしてた村上辺りとは
比較にもならない大勢力だぞ。
0318人間七七四年
2007/09/25(火) 19:42:53ID:hE8OPBmI実質強敵といえたのは三好ぐらいじゃね?しかも三好とぶつかるまでには軍を大きくすることは可能だったから、
この4大名は領土のわりに脅威となり得なかったのでは?
0319人間七七四年
2007/09/25(火) 19:47:54ID:TlevBQIRしかも今川と戦いながら
確かに環境の差はありすぎるが、それは信長の方が不利過ぎるということにしかならないと思う
0321人間七七四年
2007/09/25(火) 20:27:24ID:hE8OPBmIあの時の信玄のアテは本願寺。前回の包囲網で醜態をさらした朝倉を当てにするはずないだろ
0322人間七七四年
2007/09/25(火) 20:43:53ID:OXanhFW8本願寺は組織的な行動がとれるような体制ではない
一向宗を信じる地侍や百姓が一揆起こしたのは本願寺の体制とは関係無い
0323人間七七四年
2007/09/25(火) 21:02:50ID:DrZ9scRY0324人間七七四年
2007/09/25(火) 21:06:10ID:hE8OPBmI0325人間七七四年
2007/09/25(火) 23:13:50ID:Zhuv/x3w0326人間七七四年
2007/09/25(火) 23:56:38ID:FFINAEku信長の本隊と正面衝突して重臣を何人も討ち取った朝倉軍は
信玄から見りゃ神みたいなもんだろ
実際に「強い強い朝倉さんが信長の相手をしてくれなきゃ弱い僕ちゃんは困るんですぅ〜」って泣き言ぬかしとるがな
0327人間七七四年
2007/09/26(水) 00:16:03ID:1f9Q7y6V後はド田舎の豪族連中に大苦戦してただけ。
0328人間七七四年
2007/09/26(水) 00:29:07ID:95gZxuN/武田は名門だが国力は
そのド田舎の豪族連中と同レベルなんだよね
スタート時の甲斐は小山田と勢力2分してた
実質、板垣甘利が死んだ上田原の戦いまで
信玄は担がれ主君だったわなw
結論
信玄は不遇杉
0329人間七七四年
2007/09/26(水) 00:46:40ID:1f9Q7y6V十万石以上の村上や長野といった一定以上の勢力を持つ相手には負けまくる信玄。
信玄は甲斐一国の時点で二十万石相当+金山あるのに。
スタート時の不遇っぷりは
毛利元就≧北条早雲≧武田信虎≧尼子経久>(超えられない壁)>織田信長>上杉謙信≧今川義元>武田信玄
甲斐信濃のド田舎に、重臣に担がれて信虎を追い出した信玄以上の国力を持つ相手なんて存在しない。
あれだけ恵まれたスタートを切れたのは信虎のお陰。
0330人間七七四年
2007/09/26(水) 01:05:34ID:95gZxuN/毛利元就≧北条早雲≧武田信虎≧尼子経久
このあたりと信玄とかじゃ立場が違いすぎね
だったら秀吉が一番不遇になるw
大体、信虎おかげで信濃豪族すべてを敵にして
駆逐しなければならなかったわけだが
0332人間七七四年
2007/09/26(水) 03:34:51ID:EV+cU/HN>一向宗を信じる地侍や百姓が一揆起こしたのは本願寺の体制とは関係無い
本願寺から一揆蜂起の指令が出てたんだよ。
仏敵信長と戦わないと破門され地獄に堕ちると脅されてな
0333人間七七四年
2007/09/26(水) 22:20:43ID:qLCrXxLB信長は君主の器だし信玄は将と論じられるべき器
0334人間七七四年
2007/09/26(水) 22:37:20ID:1f9Q7y6V戦術に天と地ほどの差がある
0335人間七七四年
2007/09/26(水) 23:26:10ID:ujjaV7AE0336人間七七四年
2007/09/27(木) 13:39:13ID:SFg6xi8c前線指揮官としての器の差は埋めがたいものがある。
0337人間七七四年
2007/09/27(木) 19:24:09ID:aqRLyBU4そんなものは部下に任せればいい。
0338人間七七四年
2007/09/27(木) 21:37:38ID:XhJCbZhoそこらへんが戦国最大のカリスマと呼ばれる所以だけど
0339人間七七四年
2007/09/27(木) 22:38:18ID:aqRLyBU4信長が連れて来たのは3千でも砦の兵力を無視している。
最初信長は包囲していた1万5千の一角を3千の兵力で突破して
砦の兵力と合流し、その後で兵力を2段に分けて出撃している。
佐久間・明智という大身の武将に加え猪子・大津・江川衆も加えた砦守備軍が
少ないとは思えん。信長+砦守備軍でも本願寺勢のほうが多かったのは事実だろうが
5倍であるはずがない。信長公記自体には大幅な兵力間違いもあるしな。
一万五千もどこまで信用できたものだか。
0340人間七七四年
2007/09/28(金) 02:42:23ID:l+YXaO8l五倍は誇張にしても、劣勢を覆す戦をしているのも事実。
兵力差1/2以下の相手に苦戦したり、負けたりしている奴に比べれば明らかにマシだろ。
まあ、あくまで戦術レベルの話な。
0341人間七七四年
2007/09/28(金) 11:17:37ID:G1eVIeJd0342人間七七四年
2007/09/28(金) 12:15:45ID:VeDc15hb常に配下の顔色を伺いながら家中統制していた信玄など、信長の足元にも及ばない。
0343人間七七四年
2007/09/28(金) 13:43:29ID:MnkQDlKB織田は後詰3000と砦7000だわな
しかも、本願寺の1万五千を砦軍7000で挟みうちにした
で本願寺軍本体は意味不明の撤退で
残された主力の百姓をボコったってのが真相でしょ
本願寺軍の足軽農民はガチの百姓で武器はカマか竹やりで指揮したのが
戦闘経験0の坊主
ってか坊主の戦闘経験なんて織田が初めてでしょw
その素人坊主相手に10年も戦って引き分けってーのが
信長がヘボなのをしめしてるw
0344人間七七四年
2007/09/28(金) 13:45:50ID:fOdsFoyOすごい
ただ、信長の方が志高く、当時の創造力は圧倒的だったかな
0345人間七七四年
2007/09/28(金) 14:05:20ID:X9TfNpeAそれだったら包囲も難しい、織田の後詰が来た時点で兵を引かせるだろ
砦に佐久間明智がいるといっても佐久間は信栄で信盛は外だし
明智は丹波の抑えもあるだろうし。
あと本願寺は大量の鉄砲を備えた武装集団、
ってか江戸時代と違ってこの時代に鎌か竹やりなんかで武装する一揆なんて存在したのだろうか?
0346人間七七四年
2007/09/28(金) 15:21:01ID:5Hs9BT2T村落ですら自衛が基本、いわんや大宗教勢力をや。
まあ武器の数が足りなくて竹槍や鎌を使うことはあるだろうけど、あくまでそれは補助だろう。
0347人間七七四年
2007/09/28(金) 19:12:19ID:MnkQDlKBこの時点だと本願寺は兵は百姓中心でまともな司令官はいなかった
鉄砲を備えた武装集団は雑賀党で本願寺の兵とはまた別物ね
始め、明智は破れて天王寺の砦に逃れたから
合わせて7000近くの兵はいたはず
0348人間七七四年
2007/09/28(金) 21:26:54ID:gJ5Isvgsなにをいっているんだ?天王寺を包囲した本願寺軍は、その前に三津寺で塙・三好軍を
破った、本願寺から直接派遣された「数千丁の鉄砲をもった一万の大軍」。
その後勝ちに乗じて追撃して天王寺を包囲した。
信長は三千の兵を率いて包囲を破って砦軍と合流すると、そのまま打って出てまず包囲
の軍を撃破。そのまま追撃して本願寺城下まで。
そもそも砦の兵が七千ってどこからの数字だ?
0349人間七七四年
2007/09/28(金) 21:46:53ID:6Re6b/wK確かに本願寺の兵は塙・三好を破ったときは一万だったんだけど、
信長が来たときにはなぜか1万5千になってるんだよなあ。
特に増派された様子もないのに。牛一の水増しかな?
そして戦いが終わった後、これまた特に増援が来た様子もないのに
(というか信長と一緒に来た佐久間信盛と松永が付け城の防衛ラインの一角に入ってる)
新たに付け城を築きなおして公記によればいまだ一万以上いるはずの本願寺の封鎖を
しなおして帰っている。
つまり信長の連れてきた3千の一部を加えるだけで封鎖線を再構築できるくらいの兵力は
いたことになる。7千かはわからんがそれなりの兵力はいただろうよ。
0350人間七七四年
2007/09/28(金) 22:21:09ID:TvMVmszQ1万5千になってるんは
単純に本願寺の優勢を見て、中立というか日和見勢力がわらわらと集まってきたってとこか?
あとありえそうなのは太田が5月3日に京都で聞いた話しだと1万余りだったが
7日現地行ったら1万5千ほどだったとか
>つまり信長の連れてきた3千の一部を加えるだけで封鎖線を再構築できるくらいの兵力は
>いたことになる。7千かはわからんがそれなりの兵力はいただろうよ。
包囲に必要な兵力を減らすための付け城だからあまり兵力はいらないんじゃ、
2700も討ち取られて、一部は篭城せずに敗走投降した可能性もあるから
本願寺には1万もいなかったんじゃ?
長篠でも敗戦後勝頼はわずか6騎で、甲斐に辿りつけたのは3000に満たなかったとも言うし
それに兵は後から遅れて集まってきているんだから、
包囲網を再構成した時には十分兵が集まっていただけかも、
包囲が完成して信長が京都に戻るのは、上の戦いから約1ヶ月経った後なんだし。
0351人間七七四年
2007/09/28(金) 22:36:21ID:6Re6b/wK日和見勢が集まったというならそこらへんの描写があるはずだし
それがない以上推測の域を出ない。
信長公記自体がもともと後年に書かれたものである以上
京都で聞いたときは一万だったけど〜、というのは成り立ちにくい。
牛一が誇張したと考えたほうがまだしっくりくる。
新たに作られた付け城は10。こめるにはそれなりの兵数が必要だろう。
長篠では武田の兵力は地形から実際は1万5千どころか7千ほどだったと言われている。
あれだけの大敗で甲斐まで3千戻ってこれたなら十分だろう。
遅れた兵の動きについても記述は無い。戦いが終わってからすぐに付け城の着手に取り掛かってる
所から見て来るまでにある程度の兵力は握っていたと見るのが妥当だろう。
0352人間七七四年
2007/09/28(金) 23:04:07ID:TvMVmszQ現場にいない太田には分からないことだから描写があるはずってのもおかしいと思うけど。
>戦いが終わってからすぐに付け城の着手に取り掛かってる
>所から見て来るまでにある程度の兵力は握っていたと見るのが妥当だろう。
だったら『信長公記』で、わざわざ段落作らず、繋げて書くんじゃないか?
この辺は古文書の書き方に詳しい人間のほうが妥当な判断できると思うけど。
また記述が無いといっても前段で動員している描写があるんだから徐々に集まってきていると
考えるのは自然だと思うが。
>信長公記自体がもともと後年に書かれたものである以上
正確には首巻が後年に書かれたで、それ以外は後年纏められただったと思うが。
>長篠では武田の兵力は地形から実際は1万5千どころか7千ほどだったと言われている。
それは設楽原に展開できる兵力であって、後陣の兵はそれには入らないんじゃ。
史料的には武田の史料でも1万5千となってはいるけど。
細かく書くと武田の兵は三河物語で2万、当代記で1万だが。
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