信長より信玄の方が名将だったわけだが
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:26:43ID:fN9wlsWd上杉、北条、今川などの周辺の大大名とも対等に渡り合った。
後の天下人徳川家康相手に圧倒的勝利を収める。
信長は信玄を恐れ、貢物を送りまくって終始へこへこ。
最後は家臣に裏切られ、惨めな最期を遂げる。
どっちが上かは歴然だよね。
0151名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 07:55:58ID:KoOUTp7H江口合戦の兵力は六角や細川の軍を合わせれば2万近くあったはず。
その軍が戦場に到着する前に長慶が手を打ったから3000程の合戦で終わったわけで。
あと確かに長慶方は3000程度だったがまだこの時は丁度主家に謀反した時期なので仕方ないだろう。
0152名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 11:06:22ID:i07NiDFs経済観念が未熟と言うのは時代の話をしてるんであって、
長慶の能力の話をしてるんでは無いので勘違いをしないように。
いくら傭兵を雇うといっても、兵站の概念が弱いこの時期では、
単純に土地から出てきて戦う兵の動員力にはまだまだ敵わない、
それを越えられるほど世間の経済観念は育っていない。
難易度の話もした覚えは無い。ただいわゆる合戦の能力で言うならってだけの事。
全体的な優劣の話などしていないし、これだけでは比べようが無い。
それと細川晴元の配下だったんだから0から〜云々は無意味。
それなら元就や秀吉は信長よりも上に来るけど、それで良いのか?と言う話。
その辺の基準はわからんので比べようが無い。
>>151
仕方ないだろうとかそういう話をしてるんじゃなくて、
そういう合戦がメインだから大規模合戦をメインで行ってる氏康の方が
合戦だけなら上だろう?と言う話。ぶつかっていない細川や六角など敵を合わせても
2万に届くかと言う合戦をしていた長慶と、
国府台合戦だけでも2万以上同士の合戦、小田原篭城戦に至っては3万〜5万の兵力と
総力戦で死闘を演じてる氏康とは規模が違うと言うのはもうわかるはず。
だからタイプが違うといってるの。全体的な優劣の話などまだしていない。
0153名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 16:22:58ID:81eIqCK7江口合戦で六角とは対決してる。
江口三宅城に到着する前に先に六角の先鋒を足止めしているということ。
それで兵糧を断って士気の落ちた三宅城を総攻撃ってわけ。
ちなみに細川晴元も三宅城に篭城しており弟の一存が討ち取りを方策していたが、
長慶がそれを認めなかっただけで一戦交えず晴元は丹波に退却。
だから実際の江口合戦は3000同士ではなく、
三好長慶軍約3000対三好政長・細川晴元・六角義賢連合軍約20000
ほどの戦いってこと。
あと六角軍とは先鋒と戦っただけなので実際の軍勢はもっと多かった。
だから畿内の合戦が規模が千単位がメインというのはそちらの思い込み。
まあ関東よりは多少は劣るだろうがそちらが思うほどの差はないだろう。
0154名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 20:00:58ID:XxI8rwes0155名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 20:14:11ID:2XhysEdb結果って何だよ?
0156名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 22:23:14ID:XxI8rwes0157名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 23:29:45ID:eu0BhQAS160万石近くまでいった大大名
信玄よりも氏康こそ謙信がいなければと妄想したくなる。
長慶は0からスタートと言うべきか、それとも阿波の一部からか
最終的には山城大和摂津河内和泉阿波讃岐淡路丹波の205万石に加え
伊予の一部に東播磨も
正に大大名
最もその支配体制は微妙な上寺社領も多いし、国人は半独立状態だが。
0158名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 23:47:15ID:XRp6H/h5【プロレス】元格闘家・前田日明、所蔵の信長ゆかりの名刀三本、信長記念館(愛知)に寄付!(中日新聞)
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/river/1157730651/l50
0159名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 01:03:29ID:0C5ih7/F結果で言うなら、
親の残した敵を一掃し安定させた上で広大な領土を残し、
結束された一族を氏政に遺し、氏政が更に領土を拡げる事ができたのと、
部下が暗躍する中で自分も惑わされて弟までその手にかけてしまって、
気がつけば一族バラバラ、失意のままにこの世を去って、
結局そのまま三好家ごと急速に衰えてしまったのは
大きく結果に違いがあると思う。
0160名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 01:17:21ID:6++0XvU/0161名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 01:28:40ID:lf+sPCTg0162名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 02:17:58ID:0C5ih7/Fで終了。
0163名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 02:19:04ID:pWSSjaQh0164名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 11:59:16ID:6++0XvU/0165名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 12:24:28ID:ahhMGlG9むしろ逆な印象になった。
イメージでは石高で判断して三好が凄いと思ってたけど。
どんな支配体制を築いたかってのも大事だな。
0166名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 14:07:49ID:6++0XvU/特に上洛したあたりとか
0167名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 14:29:06ID:0C5ih7/F大規模合戦能力
氏康>長慶
領土拡張及び被官からの出世能力
氏康<長慶
支配体系
氏康>長慶
朝廷など中央への影響力
氏康<長慶
ただそもそも後北条家は初代早雲の時代から
朝廷やら上洛やらから決別した家なだけに、最後の部分は
氏康の評価をする意味があるのかどうか謎だけど。
0168名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 15:28:13ID:RwgXurZdこれは不公平だろ
中央への影響力は謙信のことを考えると氏康にもありそうだが
0169名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 15:55:32ID:6++0XvU/氏綱が朝廷に大量の献金してるしそんなに中央は軽視してないだろ
氏康とスレタイの信玄はどっちが凄いんだ?
0170名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 16:01:02ID:pmfEyQAiこれを比べるのはどうかと思うぞ。
氏康は誰かの家臣であったことはないんだから、そもそも比べようがない。
宇喜多直家や毛利元就などと比べるのならばともかく。
0171名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 16:35:31ID:ahhMGlG9あえて優劣つけるとどうだろう?
俺は能力とは別で氏康が上手な印象がある。
0172名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 18:06:19ID:0C5ih7/F実際、家康が最強でもそれは一つの答えでは?
んな事言ったら氏康も長慶も恵まれた部分はあるわけでキリが無い。
もっともそれでも秀吉の方が上だと思うけど。
0173名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 19:55:58ID:6vTe8v55合戦規模での優劣など無理やり長慶と差をつけたいだけにしか思えない
0174名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 20:52:14ID:jSm/vD+A>支配体系
これは親からの制度も多少絡んでくると思う
それでも氏康>長慶と思うが。
0175名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 22:01:58ID:PoCULh4l大和、丹波以外の所領は一族で固め、国人の制御は幕府と和睦し解決
結果論を重視しすぎでは?
0176名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 01:04:55ID:iK2IuXwe嫡男病死に弟病死戦死と気力も尽きるだろ。
0177名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 02:22:58ID:zoYhcXtiそれは都合がよすぎる。
信長のように万全の体制を強いていながら、予想外の人物の裏切りで命を落としたのならともかく、
結果と言っても死後だけじゃなくて、存命中に、じわじわと
ボロボロになっていった以上、単なる結果論とは言えない。
京付近に生まれる運も実力なら、一族が死んでいく運も実力。
結果にこだわるのは石高にこだわるのと意味として同じ。
>>176
運が悪いだけじゃなくて、松永久秀の影がちらついてるのも多くあるだろう。
そもそも精神を病んでしまった最大の原因は、安宅冬康を自分で殺してしまった事が原因。
騙されますた、じゃ済まされんよ。
0178名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 03:05:47ID:52pve3zc何か勘違いしてるようだが
確かに支配体制の下降は嫡子義興と義賢ら弟たちの死によるものだが
それだけではあれほど勢力は衰えていない
衰退の最大のポイントは将軍義輝を殺してしまい元より多い敵を更に増やしてしまったこと
これは幕府保守派である長慶の死が原因
一族の死が直接的な衰退要因ではない以上結果論とも言える
つまり便乗させすぎ
0179名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 05:20:53ID:edEOfQ3y冬康を殺した頃にはもうボロボロじゃなかった?
長慶が終わったのは嫡男の死以後だと思うよ
0180名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 07:02:00ID:zoYhcXti支配体制の下降は認めるというなら
それでいいよ、十分それでも氏康より下と言える。
しかし、それはそれとして
将軍殺さなければ三好家は生き残ったに違いないとでも言いたげだけど、本当にそうか?
>>衰退の最大のポイントは将軍義輝を殺してしまい元より多い敵を更に増やしてしまったこと
具体的に敵になったのはどこ?
>>179
一応精神を病んだとされるのは、冬康を殺した直後。
もっとも嫡男の死で参ったかもしれんけど、それだけで終わるような人物ならその程度とも言える。
長宗我部元親もそうだったが、四国の風土か?
0181名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 07:50:08ID:X1lKOFN7>支配体制の下降は認めるというなら
だからこれが結果論での出来事
結果論で認めたければどうぞ氏康のが上と胸張ってください
>具体的に敵になったのはどこ?
信長
義昭も暗殺に成功していればそれで済んだんだがね
0182名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 09:18:03ID:zoYhcXti>>確かに支配体制の下降は嫡子義興と義賢ら弟たちの死によるものだが
自分で言ってるじゃん、コレで十分よって事。
まぁそれはどうでもいいや、それよりも興味深いのは
つまり義輝を殺さなければ信長は攻めてこなかったと言う事?
この辺の細かい位置関係はあまり詳しくないので、もちっと細かく聴いて見たい。
0183名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 09:38:09ID:l8jVFAxxあとは分かるでしょう
0184名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 09:47:46ID:zoYhcXtiそもそも義輝が生きてれば信長が来なかったと言う事について聞いて見たい、
どっちみち信長は京を目指して来たと思うんだが、そうではないなんか理由があるのかな?と思って。
0185名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 10:38:37ID:Q+wlFlXI0186名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 11:03:28ID:l8jVFAxx信長は上洛を目指してただろうが
仮に三人衆と久秀が義輝を暗殺せずに恭順の意思を伝えておけば
信長の上洛は大義名分がないのでスムーズにはいかない
要するに時間稼ぎってこと
そろそろ終わりにしない?
0187名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 20:42:42ID:bdfkCMK1>衰退の最大のポイントは将軍義輝を殺してしまい元より多い敵を更に増やしてしまったこと
>これは幕府保守派である長慶の死が原因
増えたか?
暗殺後信長の上洛までやっていたのは内輪もめぐらいじゃ
>>186
精々数年なんじゃ
信長は先に北畠を攻めるかもしれないがその後は攻める所無いから六角攻めて上洛となるんじゃ
大して変わらないでしょ
信長の方が優勢と見れば将軍も朝廷もあっさり信長に乗りかえるんじゃ
0188名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 23:30:21ID:Or4e93Ql丹波は反三好勢力の多い地域だったので将軍暗殺により国人たちの反骨を余計に高め
久秀の弟である長頼は国人の襲撃により戦死
これにより丹波は完全に勢力から消えるということになる
三人衆は上之芝の合戦で久秀を破っており
信長の上洛が遅れれば久秀も三人衆に潰された可能性も考えられ
その数年で体制の立て直しは可能と思われる
もしこの仮定で信長に負けても石高はほぼ互角なので三人衆の器量の問題ということ
勘違いしてほしくないので言うけど
将軍を殺さなければあそこまで衰退しなかったとは言ったが
将軍を殺さなければ三好家は滅亡しないとは言ってないので
それを思考にいれていただきたい
0189名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 00:48:07ID:zZUc8KoI0190名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 00:53:31ID:dRp7qgRgつーかそれ以前に義輝存命の場合、信長の進軍は遅くなるか?
義輝はもともと三好家を苦々しく思ってたわけで、
いくら三人衆が恭順したって、より強大な信長が後ろ盾になってくれようと
進軍してるんなら喜んで迎えて、とりあえず恨み深い三好家を一掃しようと考えそうな気もするんだが。
実際、長慶が死んだら地方大名に積極的にそういう動きを見せたわけで。
0191名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:38:21ID:Xf2XtJsQだまれよ、相模人
0192名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:47:43ID:yBImgM95ただ、信玄の方が保守的だった。孫子の兵法を御旗に掲げ100戦不敗の原理
に殉じた時点で、スピードにおいて信長を凌駕できなかった。
孫子の大原則は、勝てない戦はやるなだからな。
でも、信長に出し抜かれロウガイを煩ってからは、なりふり構わぬ武将になった。
それ以降の信玄の怒涛の進軍は凄まじいの一言だと思う。
ある意味信長の存在のお陰で、今の評価もあるような気がする。
0193名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:52:28ID:dRp7qgRg0194名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:55:49ID:4g7Dz5tCしっかりパパさんな氏康とじゃ、ちょっとね〜
0195名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:10:58ID:Ji1x82hY0196名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:15:42ID:39xDiGgzいい加減スレ違いだから他でやってくれよ
0197名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:38:42ID:Xf2XtJsQ互角じゃねーよ
どう見たって長慶>氏康が大多数じゃねえか
0198名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:40:03ID:dRp7qgRgそれ、俺の個人的意見だからね、あしからず。
0199名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 03:59:14ID:4t7sgAs3謙信ばかりが注目されるけど、信長も以前に上洛して義輝に謁見してるのよね。
三好に対抗するために義輝が信長と結ぶというのはあり得ないIfではないな。
0200名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 04:13:43ID:N7QDQ6gT0201名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 04:44:26ID:Xf2XtJsQ( ´,_ゝ`)プッ
0202名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 06:16:32ID:fJieL8hf長年の念願を叶えられたファンからは大喝采を受け
足手纏いがいなくなったことでパフォーマンスのレベルは飛躍的に向上し
新メンバーオーディションに世間から大きな注目が集まり
世界バレーの仕事で露出が増えることで
新規ファンを大量に獲得することは確実と思われる
そしてこの特典
新曲が売れないわけがない
0203名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 07:46:00ID:3cX/TCyL信長と信玄は何処に行ったんだ?
0204名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 07:57:58ID:dRp7qgRg信長だけでなく親父の信秀の代から朝廷・公家・幕府に親交があったようだし、
敵対する三好家に関係する堺公方とつながりのあった主筋の方の織田家を
蹴散らしたのも信秀だし、義輝が助けを求める可能性は大いにあるかな・・と。
そういえば堺と言えば長慶って堺関連以外になんか政治面で有名なのあるのかな。
0205名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 08:06:25ID:39xDiGgzてか、これ以上やりたいなら新スレたてたら?
邪魔だよ
0206名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 08:15:34ID:dRp7qgRg0207名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 08:30:34ID:copyt2lTずっと粘着してる奴が消えないと話題変わらないな。
すぐ話がそれる。
0208名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 00:41:58ID:gIy0lFU9あと、本山氏との戦いが長かったのがいたい。
四国って中央より装備が遅れてたんだろ? それに、四国征伐のときは一度勝ってるはずですが・・
あと、元親についての本が少ないのも原因だろに・・
0209名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 13:48:37ID:LS3kAqxA>あと、本山氏との戦いが長かったのがいたい。
それは仕方が無いだろ、元は本山氏の方が国力は上だったのだから。
0210名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 16:04:08ID:mbIwaC6Dそれって引田の合戦でしょ?
四国征伐のときとは軍勢が違いすぎるし(確か長宗我部方のが多かった気がする)
総大将が長宗我部ファンが色々言ってる仙石秀久だしたいしてプラスにならない
やはり他の地方の覇者と比べると一段も二段も劣るのではないだろうか
0211名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 18:07:21ID:LS3kAqxAそれなりに評価できると思うが
どれも長宗我部氏と同程度の存在
これだけの相手を破っている大名なんてそうはいないと思う。
また秀吉に負けて領土削られたとはいえ
最終的な土佐一国も継いだ段階と比べれば3倍ぐらいにはなっている
0212名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 23:44:16ID:DFgBkcQg大将として大きくマイナスだと思う。
0213名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 11:16:54ID:jwYmO3vn何気に秀長はかなり戦上手だと思うよ。
但馬攻めも四国攻めも九州攻めも圧勝して完全に相手の戦意を挫いた。
九州では義弘の伏兵を見破って裏をかいたんだよな。
大軍が小兵や要害に手こずったり大敗するのはよくある話。
実際、九州攻めも秀吉側はけっこう苦戦してるし前年の義統は大敗。
大軍であっても無難に勝ちを重ねるのはとても難しいこと。
>>212
万が一にも勝てる可能性があれば戦うのが戦国大名。
弱小勢力はそうやって勢力を拡大していく。
島津も北条も勝ち目の薄い戦いで勝って大きくなった。最後に負けたがw
毛利のように折れる手もあるが、あそこで戦ったからといってマイナスにはならない。
ピンチはチャンスってよく言うでしょ。
0214名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 16:06:53ID:rNRgrYWaそして外交がヘタというのが、大名としてダメだといっているのでがって、軍事
がどうこうではない。
0215名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 22:09:20ID:m9YioEGFぐらいしとけば四国の半分は長宗我部領だったろうしねえ。
そうすれば九州攻めで先鋒に出されて嫡男討ち死にも多分なかっただろう
に(基本的に先鋒は譜代+新占領地軍)。
0216名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 22:58:47ID:YyZyHq8d老衰って病なわけ?
0217名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 01:03:35ID:prVrAEiRなんていうか自分を客観視することが下手な大名だと思うよ。
プライドをかけて戦うのはいいし、勝ち目の薄い戦いも良い、
それだけで外交力の無さとは言わない。
ただその戦いまでに行っておく外交と言うものが存在するわけで、
その点で北条家なんかは出来得る限りの対抗策は外交面でも行ってるわけで、
それでも勝てなかった時勢の流れはどうしようもないが、
それでもプライドにかけて戦うと言うのならわかる。
だが元親はその前に出来る事があったと思うんだよ、
信長の時点でもそうだし、明智、柴田、徳川と再三チャンスもあったし、
羽柴に対しても外交上の関係を作るチャンスはあった。
しかしどちらも中途半端、そうしてるうちに結局後ろ盾も無く真っ向勝負する羽目になった、
これが頂けない。
0218名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 16:24:00ID:1ROV4T/8信玄は確かに名将だ、お家第一の戦国大名としては。
ちっとも不敗じゃないけどな。あと、外交もいまいちだし、戦略もあれだし、小さな城も落とせないし、
織田と戦う大きすぎる決断をしときながら病に倒れるてるし。
いや、こう書くとひどい大名のようだが、まあそれでも名将ではあるよ、普通の戦国大名として。
で、信長は普通じゃない。
悪いけど、信長と信玄なんて比べるまでもなく信長のがすさまじいよ。
名将と英雄は違う。英雄、という言い方はすかないけど。
0219名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 19:00:56ID:Xehlu2xb0220名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 09:34:52ID:Mr6i6l3I彼には何か持って生まれたものが違うよ。
0221名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 10:41:24ID:QjEqpdZK俺も信玄は、名将の中の名将だとおもう。
名立たる甲斐の武将達から高い忠誠を集め、家臣団の結束も固い。
どんなに織田家の所領が大きくなっても、信玄だけは侮れる相手ではない。
実際に信長も信玄を終生侮ることはなかった、と言われているし。
史実的にも軽挙は一切していない。やはり信玄強き男よ。
でも、信長がすごすぎた。例えば浅井長政の謀叛で、九死に一生を得た金ケ崎の撤退戦で、
あろう事か京に逃げ帰って、本拠地に戻らず、そのまま態勢を立て直して、すぐさま取って返す男でっせ。
信玄は信長の話を聞くたび、内心に、焦りを感じていたのではないかなー。
無論、家臣が動揺するので、普段は平静を装っていたけど、心中穏やかだったとは
到底、思えないのである。
0222名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 11:07:23ID:SMU9MjK6ホントに名将なら武田滅亡の原因を全て作って死ぬことなんてありません
0223名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 11:25:32ID:+1ncjQ+7なにがどうあっても他人の下にはつけない名将ってのもアリだろ。
一大名、一武家としてはどうかと思うが。
0224名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 12:18:55ID:SMU9MjK6いや、そういうことじゃなくて 勿論信長を敵に回すというバカなことをしたのも滅亡の原因だが
武田義信殺したのに関しては一切擁護できないだろう あれはあまりにもバカすぎる
0225名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 17:31:31ID:RZnd+kNE当時の他大名の中にもそれなりに例はある(隣の徳川とか)。
対立して修復不可となったら、最終手段としてはアリと思う。
信玄には他にも息子もちゃんといたし。
その後の権限委譲がスムーズに言ってないのが問題。
あ、信玄の外交の評価は別問題ね。
0226名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 18:18:48ID:rgffYqiGそれに家康の息子の秀忠みたいな頭のいい優秀な子がいないわけだし信玄の息子には
まぁその可能性があった義信を殺して頭の悪い勝頼を溺愛してたんだよな
嫡男を溺愛しないでアンポンタンを溺愛したから不満を抱いて謀反したんじゃねーの?
やっぱ信玄は糞
0227名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 18:20:39ID:rgffYqiG何自分の都合よく同盟破棄しまくってんだよ
氏康にも見放された信玄糞
0228名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 19:07:58ID:zh9WPnYK0229名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 21:10:33ID:SCv3Hc3dそりゃ勝頼が有能であってもその才能もちょっくら程度じゃ無理なもんは無理
信玄は秦の始皇帝と同じ
実力と業績は天地程の差はあるが
0230名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 22:23:36ID:6WGQ2Bev信玄が優秀であることをアピールする際に、彼の死後武田が瓦解した理由付けとして
凡将であるというレッテル付けをさせられた。
もちろん信長クラスの名将であったとはお世辞にも言えないが
0231名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 22:30:23ID:4gzRLGjC次元が違う。
信長がいなかったら、日本も特定アジアのような国に成ってただろう… あぁ恐ろしや
0232名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/19(日) 00:20:53ID:NLgnI8M6勝頼は十分アフォだろ
0233名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/20(月) 18:43:09ID:pScNy4aP信玄よりかはマシ
0234名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/22(水) 23:06:23ID:tQ2bJ3i20235名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 01:52:28ID:Hp32BwVZ今川攻めだって、海と金山がほしかったわけで、仕方なしに、北条とのどうめいを切ったわけで。
あと、兵農分離ってのができてなかったのが痛いかと・・
跡継ぎに関しては正式には勝頼ではなく、勝頼の子供の信勝が世継ぎとして指名されてたような・・
0236名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 15:09:26ID:pL09aeqX兵農分離神話もいい加減にして欲しいものだ。
0237名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 17:48:55ID:tzyB7LGp長い間作られてこなかった。
0238名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/01(金) 02:26:27ID:jFcDSng3だが日本の歴史は天皇家や独立権を持った地方勢力の記録などがある分、
かなりしっかりしてる方ではある。
0239名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 18:11:06ID:6WPSxryU信長と比べる自体おごましい
0240名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 19:33:31ID:JQfqT7m/0241名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 20:42:50ID:l2/QFl8T才幹面では実際の所やはりイメージ先行
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2007/02/06(火) 21:10:33ID:JQfqT7m/今川氏からの積極的な動きの結果でもあるという説が有力だぞ。
他になんかある?
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2007/02/06(火) 21:46:13ID:9SB5+JbE兵農分離ができたかどうかって、大切な論点だと思いませんか?
一大傭兵部隊を組織したことによる、濃尾平定後の進軍スピードっていうのが
重要なテーマかなと。
最もあくまで傭兵は傭兵、半兵半農の軍に比べると部隊への帰属意識の弱さから
敵前逃亡もへっちゃらさとでも言うべき弱さを事あるごとに露呈しちゃってるんだけ
れども、(この辺はフリーターと正社員の愛社精神の違いに通じるかも)
そんなとこで兵農分離をあきらめない信長の優秀さが、大鉄砲部隊や鉄鋼船
等々技術革新に繋がり、(フリーター比率が高くてもでも店舗を拡大し続けれる
ファミレスみたいな)当時の日本では誰も成し得なかった一大革命が出来たのだと
考えられませんかね?
徹底した合理主義=信長
信長のシステムを最大限に使いこなした=秀吉
大量の甲州金によって反織田の守旧派による信長包囲網を築いた=信玄
という図式にしてしまうと、やっぱり革命児信長に軍配が上がるのかなと。
0244名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 21:48:41ID:8oUY350v徳川との約束破って目の敵にされるわ、
北条を軽く見て、一時駿河放棄+全面戦争はどう考えても自ら招いた失策じゃないか?
もし北条を味方に留めるつもりならば、その努力が全く見られないし、
敵に回す気ならばそれでいいが、北条の侵攻に当然備えていなければならないのにその様子も見られない。
ちょっとこれは甘いだろ。
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2007/02/06(火) 21:53:20ID:WBfOyyF5>一大傭兵部隊を組織したことによる、濃尾平定後の進軍スピードっていうのが
>重要なテーマかなと。>>243
「兵農分離」「傭兵部隊」とは、何を原資料にしてるのか、教えてくれ。
出典史料の段、条も教えてくれると嬉しい。
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2007/02/06(火) 21:58:45ID:MAEP1se22chの戦国時代板だと思う
0247名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:05:18ID:nSdxb7+x家臣は土地にへばりついて農業をするわけにはいかなくなった。
結果として兵農分離になったの。
信長が合理的に判断して兵農分離をしたわけじゃないのよ。
それは跡付けの理屈。
結果オーライで、信長を含め皆が兵農分離の重要性を後で知ったわけ。
0248名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:19:21ID:WBfOyyF5「信長公記」にある清洲弓衆の屋形焼き(安土強制移住)でおK?
信玄時代の甲斐における「恩給衆」(専業武士、ちなみに年貢免除の軍役衆が半農兵)と同意なのか?
「甲州史料」「妙法寺記」「甲陽軍鑑」ほか。
>結果として兵農分離になったの
そのとおりだと思うが。
いずれにしても、9SB5+JbE(>>243)は出典を答えられんのかな??
0249名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:24:36ID:JQfqT7m/信玄の駿河侵攻前から北条は今川とくんで塩止めをやっている。
これを味方につけようとすれば今川方に気取られて防衛体制を整えられて
駿河侵攻がうまくいかなくなる可能性もある。
駿河をとって北条を防ぐという方針ならそれほど途中までは悪くない。
薩垂峠でも両軍はいい戦いをしている。直接の撤退の契機は上杉氏の動きだからな。
まさかあれほど対立していた上杉と北条が同盟して自分に向かってくるとは予想外だったろう。
まあ、これは北条方の外交手腕を誉めるべきか。
家康に関しては、家康だって掛川城の開城条件に駿河から信玄を追い出して
氏真を復帰させることを挙げているから、向こうももともと一時的なものと
思ってたんじゃないか?結局徳川は武田包囲網のときには大した動きはできなかった
しな。それほどの失着じゃないだろう。
0250名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:25:23ID:G/iuLiTK誰が最初に言い出したんだか。
0251名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:36:39ID:WBfOyyF5>まあ、これは北条方の外交手腕を誉めるべきか。
だが、その上杉北条同盟がほとんど機能しなかった謎は、どうなんだろう?
上州上杉領の割譲とか、氏政を謙信の配下として同陣させる要求があったとか、諸説あるが。
平山優氏が『武田信玄』(吉川弘文館)の中で丸山和洋氏の論文を紹介して、
「越相一和」と前後して、謙信と信玄の間で「甲越和与」が結ばれていたと主張しているね。
信玄が信長(足利義昭)を通じて画策したという説だ。
この説が正しいとすれば、信玄のほうは準備万端だったということになるが。
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