豊臣政権崩壊の要因となった事柄、事件等を考える2
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0201人間七七四年
2021/08/22(日) 12:59:30.75ID:EoK20DaXこの書状(46号書状か)を慶長五年とするのは白峰氏なんだろうが、無理がある。
一つ目は、この書状が西軍蹶起の挙兵だとすると毛利が主導者だった証になる。そんな危険な書状を毛利が残すだろうか。
二つ目に、当該書状では三成が小西と寺澤を輝元に送っている。佐和山で謹慎していた三成がどうしてこの二人を送れたのか。
仮に友情が三成を助けたとしても、問題がある。
ここにある寺澤は寺沢正成の事だろうが、彼は確かに小西の友人ではあるが慶長四年四月から徳川派に転向してる(関ヶ原では東軍に与する)
そんな男を急使に立てるだろうか。三成らが見抜けてなかったとすると要は西軍の挙兵は徳川の周知だった事の証拠にはなるので確かに小説の題材にはなるが…
三つ目は、この書状では「増田長盛が昨日、徳川と上杉の縁辺が整ったと言ってきた」とある。
慶長五年六月だとすると上杉討伐が決定されていた筈でこんな話がくる筈が無い。長盛が嘘を言ったとしてもそんな嘘を言う理由は相当難しい(敢えて考えると、西軍蹶起を止めようとしたのだろうか)
この様な点から、慶長五年ではなく慶長四年に書かれたものであろう。
伏見に逃げた三成からの挙兵要請を受諾していてもそこまで問題は無いからである。何しろ敵の七将は武力行使をしてるんだからね。
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