戦国ちょっと悪い話47
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0001人間七七四年
2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn前スレ
戦国ちょっと悪い話46
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戦国ちょっといい話46
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0082人間七七四年
2019/05/30(木) 15:18:13.68ID:w6dJrsKv義冬(足利義維)の御台にした。義冬の行末のことを持隆は思って、このように調えたのだという。
一、細川讃岐守持隆がある時に家老と三好一族を呼び集めて申したことには、「義冬公を当国に長く置き
奉ることは、いたましく存ずるなり。各々の知略をもって義冬を一度天下に据え申したいと念願して
おるのだ。どのようにすれば良いか」と申せば、いずれの者も同心した。
そんなところで三好豊前守義賢(実休)1人がこの事に同心せず、あまつさえ顔色を変え持隆を散々
に罵った。持隆は言うに及ばず、座中の皆が案に相違すると思ったのである。
持隆はこの事を口惜しく思い、まず義賢を討ち果たして憤りを散じようとして近習の侍どもに密かに
内談し給うと、四宮与吉兵衛という者は義賢に返忠して、これを告げ知らせたのである。
これにより義賢は思案して近習の者をもって申したことには、「先に持隆が仰せになられたことをそ
の時に同心仕らず、私としてもその事で戸惑っています」との由を、持隆の機嫌の良きように申しな
した。さてその後に手勢、また近き所の一族を義賢は密かに呼び寄せ、勝瑞に近いあちこちの村里に
隠し置いた。
義賢はかの四宮をもって持隆へ申し、「北の河原で御逍遥(散歩)なされませ」と諸々謀り申した故、
持隆は逆心とは思いも寄らず、天文21年(1552)8月19日に見性寺の前へ出給う。義賢が隠
し置いた人数は一度に押し寄せ、持隆を取り囲んで鬨の声を揚げた。
持隆はかねて無勢の上、供の者どもは落ち散り防ぐ術もなく、どうしようもないところで星合弥三郎
と蓮池清助という者2人が踏み止まって持隆を見性寺へ退かせた。
義賢の弟・一存(十河一存)が込み入って持隆をただちに討ち取ろうとしたのを、清助が押し隔てて
防ぐ中、持隆は切腹して星合が介錯した。この2人の者は常々持隆の厚恩もない者どもであったが、
義を守り2人ともに立ったままで切腹した。
一、持隆の外戚腹に六郎という幼少の男子がいた。義賢が申すには「持隆を討ち奉ったのは身の災いを逃
れるためである。六郎殿に恨みはない。主君に崇めん」として、六郎を育て置いた。細川六郎掃部頭
真元(真之)これなり。この真元の母は阿波国西条村の岡本美濃守の息女である(小少将)。持隆の
死後に義賢は真元の母を妻とし男子2人をもうけた。一男は彦次郎長治、次男は孫六郎存保という。
一、返忠の四宮与吉兵衛は「無道の者なり」として、義賢は四宮を翌年の春に誅した。
――『阿州将裔記』
0083人間七七四年
2019/05/30(木) 17:56:57.91ID:yM5amPZr英文だからしかたないが誤字ありますね
薩摩の琉球侵攻の薩摩・琉球それぞれの一次史料とされるのが、市来孫兵衛『琉球渡海日々記』、喜安『喜安日記』
影佐『琉球軍記(琉球入ノ記)』はさほど年月が経たない時期に書かれたとされていますが、七島衆(吐?喇列島)の
船頭衆が功績を誇示するためにかなり膨らませて書いたと考察されてますんで、あんま参考にしない方がいいかと思います
一次史料を見る限りは沖縄本島での戦闘は、首里の手前で100余人の琉球軍が薩摩軍の鉄砲で散々に打ち破られたという程度
(ただし薩摩軍は行く先々で放火してますが)
以前NHKの琉球特番でもやった、那覇港要塞の火砲で島津船団を撃退したというのは琉球軍記の記述です
でもこれもどうやら・・
0084人間七七四年
2019/05/30(木) 18:01:59.35ID:Oa0G9WWv原文のローマ字表記をこんな漢字だろう、としてみたら随分違いました
ちゃんと原文通り書けばよかったですね、すいません
0085人間七七四年
2019/05/30(木) 18:13:15.89ID:yM5amPZrhttps://i.pinimg.com/236x/c2/51/2d/c2512d1808a489d1399889d3486f679d--samurai-wars-katana.jpg
資料の存在しない琉球軍の想像図が酷過ぎるが、まあ日本人も外国中世風ファンタジーではよくやってるからいいか(よくないけど)
0086人間七七四年
2019/05/30(木) 18:22:45.81ID:yM5amPZr月代を剃っていたのが確実視されているとか
0087人間七七四年
2019/05/30(木) 18:47:21.84ID:Oa0G9WWv琉球の防衛側の武装については島津に比べほとんど不明。
おそらくは原始的でないにしろ島津より劣っていただろう。
もともと日本や明から武器を輸入していたのだが、1450年代の倭寇のせいで明の福建の商人が琉球に武器を売らなくなってしまった。
また明同様、日本刀は珍重されていたが長いkatanaは実用的ではないため短いwakizashiを使っていたと思われる。
木製の盾も使っていた。
おそらく日中折衷の武装で弓、刀、槍、銃、ハルバード(中国式の広い刃か日本式のnaginata)も使っていた。
琉球の王は早くから火器を取り入れており、1450年代の朝鮮の漂流民は琉球での火器仕様について触れている。
喜安日記には「敵軍(島津)は弾を浴びせながら橋を攻略してきた。我々はそのような銃は知らなかった」と書いてあるが
それは一斉射撃を知らなかっただけで火縄銃自体はあったと思われる。
また石火矢という琉球製の大砲もあり、1貫(3.75kg)の弾を発射したとされるが、
これは首里城から発掘された直径7-9cmの弾と合致する。
また石火矢は那覇港にも設置された。
0088人間七七四年
2019/05/31(金) 13:29:29.80ID:FGlWUgeb大坂御陣の時、冬陣に城中の気を見ると、晴天でも薄暗く、ものの見分けが出来ないほどであった。
しかし夏陣では曇った日であっても、これを見るに城中白けて良く見え渡ったと云う。
これは生死の気と云う。
(甲子夜話)
0089人間七七四年
2019/05/31(金) 18:36:38.03ID:lX7j0Ovy人の言の葉うれしからまし』の派生)』という歌を人に習って、高坂弾正がここに記し申すのは、
この書き置きがもし落ちて人々が見給うとしても、盛んな家において奉公衆の大小上下ともに心入った
武士が御覧になれば大いに笑いなさるであろう。しかし、これはまたそのような良き人へは深く、この
ようにして衰える家の無穿鑿な奉公衆へは心付け参らせるためで、いかにも愚痴な書物である。以上。
高坂弾正が申す。まことに私めは文盲第一でまったく一文字を引くこともできないが、傍輩の中で深く
分別に達した大剛の名人に親しく雑談を常に聞き、百に一ばかりは覚えていて少しは心付いてもいる故
か、また余の傍輩衆で良き程の人々が申されたことまで聞き書き仕り、只今紙面に表したのは、
今年長篠で勝頼公が後れを取りなされた故に、良き武士百人は98人が討死した。その人々は皆生まれ
変わるので、そのために書き置き参らせる(よき武士百人は九十八人うち死して、みな生れかはりにて
候間、其為にかき置まいらする)。
長坂長閑・跡部大炊助殿は必ず人に見せなさるな。もしまたは見せなさるとも、当御家に二代も奉公致
す子供数多の人には見せなさるとしても、牢人衆に見せなさっては中々高坂にとって現世来世までもの
恥であり、かつまた御家の傷になる。深く慎め慎め。件の如し。
――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』
0090人間七七四年
2019/05/31(金) 19:05:13.61ID:TpoYaScUhttps://thetv.jp/i/nw/103166/570881.jpg
沖縄の琉球放送で製作した特別ドラマ「尚巴志」の画像だけど、まあ実際の15世紀初めもこんなもんだったんじゃないかってことだそうですよ。
頭だったものは日本式の武装で、あとは手に入るめぼしい武器、雑兵は平服に棍棒だとか。
中国や東南アジアの武器が出土しているにしろ、必ずしも異国風が主流ではなく、やっぱり本土日本風らしく、例えば博多や堺で
中国南蛮の出土品が見つかったからといって、当時の風俗が中国南蛮風だったかというとそうじゃないようなもので。
でもこういう厨二風の独自のやつもあるので、なんかわくわくしますね琉球時代の沖縄。
https://vps8-d.kuku.lu/files/20190531-1848_ac8b40959509e14bf60d30ebc0413f15.jpg
https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/21/21195/15959_1_首里城京の内跡出土品展.pdf
0091人間七七四年
2019/06/01(土) 08:34:42.68ID:tqmeloYcさすがは元百姓、譜代の重鎮に向かって何たる言い草
まさに分別違い、その上老害ときたか
0092人間七七四年
2019/06/01(土) 16:30:35.40ID:tPHC7BVm意識高い系の黒人さん達が弥助をモデルに映画化するんだけどちょっと美化が過ぎる。
奴隷じゃなかったとか、日本では仏像が黒いから尊敬の対象として見られてたとか
現代の価値観でブラッシュアップしすぎ。
0093人間七七四年
2019/06/01(土) 21:43:40.45ID:wUAqMo660094人間七七四年
2019/06/01(土) 23:26:18.37ID:lKcUPN5J0096人間七七四年
2019/06/02(日) 17:26:04.25ID:hP+zLXOQうちは浄土系だから金ピカ
0097人間七七四年
2019/06/02(日) 18:31:31.03ID:INaZgM35大きくて黒い男が神様仏様扱いされても問題ない気が
0100人間七七四年
2019/06/02(日) 20:23:22.59ID:BkTlaOA40101人間七七四年
2019/06/02(日) 21:22:08.93ID:4fi9sHcb制作者は弥助を洗った話などの宣教師の記録は黒人を貶めるための嘘と言ってるが
同じ宣教師の記録でも信長が城持ちにさせてやると言った件は映画に組み込むらしいよ
花の慶次並みのでっち上げヒーローを作る気でいるみたい
黒人の地位向上の為のなんちゃって日本の歴史が世界にばらまかれる
0102人間七七四年
2019/06/03(月) 00:19:00.80ID:jqkjDxBD今の感覚で考えないでくれ
0103人間七七四年
2019/06/03(月) 07:42:24.93ID:oDTu8Lzk0104人間七七四年
2019/06/03(月) 11:10:13.32ID:k7P3FsGFと言い出したりして
0105人間七七四年
2019/06/03(月) 14:33:42.04ID:Zjew9uM60106人間七七四年
2019/06/03(月) 18:06:07.99ID:LHCbPT9u(槇島城の戦い)。義昭公はたちまち敗軍して河内若江庄へ落ち行き、左京太夫義誥(三好義継)
を頼みなさったけれども、どのように思ったのか城中へも入らなかった。
そのようなところで同じ若江の住人・乾太郎右衛門定直という者は、先年に義冬(足利義維)が都
から阿波へ下向した時に下った者であるが、義冬が周防へ下向した時に子細あって暇を乞い、故郷
若江に帰り義誥の旗下になっていた。定直は義昭公の有様をいたましく思い、自分の館へ招待した。
義昭公は定直の先祖を尋ねなさって、定直を“乾内蔵允義直”となされ給う。義昭公は乾の館で数日
過ごされなさったが、取り立てる人もいなかった。
――『阿州将裔記』
0107人間七七四年
2019/06/03(月) 18:08:57.17ID:20dOUEtw0108人間七七四年
2019/06/03(月) 20:57:17.74ID:52elCf5X0109人間七七四年
2019/06/04(火) 08:55:14.01ID:yjPfJm9C0110人間七七四年
2019/06/04(火) 14:03:19.65ID:19lOBpdD0111人間七七四年
2019/06/04(火) 14:53:53.73ID:cSFIfsi/状を差し遣わし、「実休(三好実休)を討ち取るべし」との由を仰せ付けられた。高政と細川・三好家
は年来の仇敵である故なり。
高政は畏まって紀州の諸侍や熊野根来まで借り催し、その勢1万5千余騎。永禄3年(1560)2月
下旬に紀州を出立し、まず和泉岸和田城を攻めた。これは阿波から実休を誘き出そうとの謀なり。
岸和田城は実休上洛中の宿りの城で、舎弟の安宅摂津守(冬康)を籠め置いていた。案の定、この由を
聞き付けて阿波から実休が人数を引き連れ、後巻を仕る。さて久米田という所で一戦に打ち負け、同年
3月5日に実休自害す。これにより高政はたちまちに運を開いた。
一、その後、和泉の筒井喜三という者は人数2万ばかりで阿波木本という所に打って出て、三好家と度々戦
うが、ついに三好宗三(政長)に討たれた。これも義輝から喜三方への内意と聞く。その子細はこれほ
どの大乱で三好左京太夫義誥(義継)は、両度の合戦に虚病を構えて出合わなかった。
義誥は義輝公の従弟婿であることにより、両陣ともに出立しないようにとの由で、義輝公からの内書が
あった故である。さて喜三討死の後は、義誥の他の三好家は義輝と不和になったという。
――『阿州将裔記』
史実と合いませんが義輝の策謀を伝えるものでしょうか
0112人間七七四年
2019/06/04(火) 18:41:52.30ID:yjPfJm9C将軍家ってやっぱり少なからず陰謀しないと生きてけないんだろな
0113人間七七四年
2019/06/04(火) 18:57:10.59ID:cSFIfsi/された。武田の家老各々は謀をもって江雪をしばらく留め申す様を仕り、その後の夜に入り逍遙軒(武
田信廉)を信玄公と申して御対面なされ、八百枚に据え置き給う。
御判の中でいかにも御判の不出来なものを選び、御返事を書いて江雪に渡すと、流石に賢き江雪も真と
仕って小田原へ帰り「信玄公は御在世なり」と氏政へ申し上げた故、御他界の取り沙汰しは無かったの
である。以上。
――『甲陽軍鑑』
信玄ついに逝去の時、遺言あってかの死去を隠し、ただ御病気とばかりの風説であった。これは四方皆
が敵であり、御逝去と聞けば小田原との御無事も破れることを迷惑して、このように計らったのである。
されども、その事は大方風聞したので、その実否を知るために小田原から板部岡江雪が御使者に参った。
これは信玄の病気について御心許なしとのことである。
甲州侍は殊の外迷惑し、色々の計りをなす。信玄の舎弟・逍遙軒はよく兄に似ておられたので、夜に入
ると逍遙軒を屏風の中に寝かせた。さて江雪を近い所に召し寄せ、逍遙軒は寝ながら返事をなされた。
流石の江雪も夜のことではあり、そのうえ逍遙軒はほうほうとしておられたので見違え、信玄と思って
帰り、「正しく信玄は御存生にて候。ただ御病気でいらっしゃいます。私は対面仕りました」とのこと
であった。
これにより小田原では「信玄が死に給うというのは誤りなり。存生である」とばかり存じたのである。
――『北条記』
0115人間七七四年
2019/06/05(水) 21:36:25.57ID:q6z+kKQZ三好の元祖は信濃国の小笠原成由(原注:ある説は長房)の後胤である。阿波国三好郡に居住する故、
三好という。
之長
初めは三好主膳正と号し、細川氏に仕えて後に筑前守と号す。三好に在城す。
三好が天下に名を顕したのは文明の頃。北国勢が2万余騎で都へ攻め上ったのを、細川が対陣の時に
三好は3千騎で先駆けして洛外で合戦した。
北国勢の謀には車菱という物を先手の者に1つずつ持たせ、逃げる真似をして道にまき、その菱を敵
に踏ませて、たじろぐところを討ち取ろうとの企みであった。
ところが三好勢が少ないのを見て、「味方の同勢は待てない。先手の勢だけで三好を討ち取れ!」と、
かの車菱を投げ捨てて掛かって来た。
三好は小勢であるといえども、各々が心を一つにして槍の柄を四方竹に拵え、之長の下知に任せ一同
に掛かったため北国勢は敗北したのだが、捨て置いた車菱を踏み立てて慌てふためいた。北国の後陣
も道を塞がれ、助けに来る者が叶わずに見えるところを追い詰めて1万ばかりを討ち取った。
その後また京都の合戦(等持院の戦い)に打ち負けて之長は切腹した。法名・喜雲。
――『阿州将裔記』
0116人間七七四年
2019/06/06(木) 10:59:20.07ID:d8YutnuM義輝殺しって本当は義輝を操ってた側近を誅殺しようと引き渡しを要求したのに義輝が庇って要求を突っぱねたので攻め落とされたものらしいな
0117人間七七四年
2019/06/06(木) 13:38:29.79ID:ARU3QTOf0118人間七七四年
2019/06/06(木) 14:27:08.64ID:ktSs7bxg建文帝が自殺されてしまうとは、なんということだ」
0120人間七七四年
2019/06/06(木) 14:43:41.92ID:ktSs7bxg安禄山という「心賢く、思慮深い」大臣が
玄宗皇帝が楊貴妃に溺れ、その兄の楊国忠に政治を任せてるのに愁えて
世を正すために宮殿に兵を率いて押し行ったら、玄宗皇帝が勘違いして逃げちゃった
ってことになってるからセーフ
0121人間七七四年
2019/06/06(木) 20:49:45.58ID:ePlAaJVMここは(大阪夏の陣による)5月落城と時から閉じたままにて、今まで一度も開いたことがないといい、
代々のことであるので、もし戸に損じた所があれば板でこれを補い、開かぬようにと成し置いていた。
ここは落城の時、宮中婦女の生害した場所と云われ、そういった由来の故か、今なおその幽魂が残って、
ここに入る者があれば必ず変異災いを成すという。また、その部屋の前の廊下で寝る者があっても、また変異の
事に逢うという。
観世新九郎の弟宗三郎、その家技の事によって、稲葉丹州が御城代の時これに従って大阪城に入った。
ある日、丹州の宴席侍って飲酒し、覚えずかの廊下で酔臥した。
翌日、丹州が彼に問うた「昨夜怪しいことはなかったか?」宗三郎が、そういう覚えはない事を答えると、
丹州曰く「ならば良し、ここはもし臥す者があると、かくかくの変がある。汝は元来この事を知らず、
よって冥霊も免す所あったのだろう。」
これを聞いて宗三郎は初めて怖れ、戦慄居るところを知らずという。
またこの宗三郎が語る所によれば、天気快晴の時、かの部屋の戸の隙間から覗い見ると、その奥に
蚊帳と思しきものが、半ば外れ、なかば鈎にかかっているのがほのかに見えた。また半挿(湯水を注ぐための器)
のようなもの、その他の器物などが取り散らしている体に見えた。であるが数年久しく陰閉の場所故、
ただその状況を察するのみであると、いかにも身の毛もよだつ様子で話した。
また聞いた話では、とある御城代某候がここをその威権を以て開いたことが有ったが、忽ち狂を発せられ
それを止めたという。誰のことであろうか。
この事を林氏(林述斎か)に話した所、彼は大笑いして
「今の大阪城は豊臣氏の時代のものではなく、元和偃武のあとに築き改められたもので、まして家屋のたぐいは
勿論みな後世のものです。総じて世の中には、そういった実説らしい作り話が多いものです。その御城代という
人も、旧事の詮索がないばかりに、斉東野人(物を知らない田舎者)の語を信じたというのは、まったく
気の毒千万です。」と言っていた。
林氏の説はまた勿論なのだが、世の中には意外の実跡というものもあり、また暗記の言は的證とも成し難い
もので、故にここに両端を叩いて後の確定を待つ。
(甲子夜話)
0123人間七七四年
2019/06/06(木) 22:49:04.93ID:5yCAa8rV松浦静山「いや、でもこれ本当の話かもしれんよ?」
戦国ちょっといい悪い話スレ・まとめブログみたいなw
0124人間七七四年
2019/06/06(木) 23:33:00.37ID:hBrP2F1J0125人間七七四年
2019/06/07(金) 07:45:07.39ID:fzkd+7XFそういうやり取りがこうして>>121残ってるのもまた良いなぁ
>>124
電灯もない時代は今よりずっと夜が怖くて不気味だったろうし、いろいろ違うんだろうね
0126人間七七四年
2019/06/07(金) 08:12:05.47ID:AktD/lec肝試しに行って背後の気配に振り返り打ちかかって逃げる
翌朝になって確かめると地蔵だったなんて定番だし
今日の明け方、パンパンパンと濡れタオルを広げるような音をさせながら何かが近づいてきて俺の布団に潜り込んだところで目が覚めた
金縛りにもならんかったし普通の夢なんだろうけど、近づかれているときはちょっと怖かったなあ
0127人間七七四年
2019/06/07(金) 12:45:53.27ID:6P9hJ6Th0128人間七七四年
2019/06/07(金) 14:29:58.48ID:8rE4HOLf0129人間七七四年
2019/06/07(金) 15:24:46.72ID:RXHWoMb5『上杉年譜』
掟
(上略)
一、煙草を吸うことは病人と老人は構わない。下々の寄り集まる所でみだりに吸うことは無用
とせよ。たとえ老人や病人であっても、海道、あるいは主人の供を仕っての門庭において
吸うことは一切止めること。
(タバコ、病者老人ハ不苦、下々寄合猥呑候儀、用捨アルベシ、縦老人病者タリトモ、海道、
或主人ノ供仕、門庭ニ於テ呑事、一切停止之事)
(中略)
慶長17年(1612)8月13日
(原注:全文は8月13日に景勝が法令を家臣に分配した条に収められている)
『直江重光(兼続)書翰留』
このところ乏しい時分に一段の煙草90枚を御意に懸けられましたことで、とりわけての
祝着をされました。この類は気にかかることなので、もしもその辺り重ねての到来もあれ
ば御意に懸けられますように。それではまたの機会に。恐々謹言。
(爰元払底之時分、一段之たはこ九十枚、被懸御意、別而令祝著候、此類気合ニ相当候条、
自然其辺重而も到来候者、可被懸御意候、猶期後音候、恐々謹言)
7月26日
須右様 まいる
(原注:本文は略す)
追って煙草その他御法度の様子を、懇ろに尋ねて申し付けるように。
(追而、たはこ其外御法度之様子、懇ニ相尋可申付事)
9月14日
千坂伊豆守殿
――『大日本史料』
0130人間七七四年
2019/06/08(土) 17:02:18.56ID:1WjVqsNFhttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190605-00010003-sakuranbo-l06
山形城主・最上義光の研究を進める上で、貴重な直筆の手紙が、7月初めて、一般公開されることになった。
今年3月まで、山形大学で日本史学の教授を務め、現在は名誉教授の松尾剛次さん。松尾さんは38年間、山形大学で研究し、
最上義光に関する史料の発見と見直しを進めている。今回、松尾さんは以前から研究対象で私的に所蔵されていた史料を
自ら買い取り、初めて一般公開することを決めた。
(松尾剛次さん)
「天正14年の正月7日付、最上義光書状で、東禅寺氏永に宛てたもの」
松尾さんが買い取った義光直筆の手紙は1586年、援軍を求めた酒田城主・東禅寺氏永に宛てたもので、わずかながら軍を
派遣すると応えている。松尾さんによると、至るところに義光の字のくせや力強さがあり、義光の刻印も押されている。
(松尾剛次さん)
「字も力強く書かれているが、論理的な組み立て、非常に義光は頭のいい人。天正14年における最上義光の判断・情勢がわかって非常に興味深い」
義光の人物像を克明に浮かび上がらせる上で、こういった古文書の1つ1つが貴重になってくる。
(松尾剛次さん)
「(義光は)ずるくて残忍なイメージがあるが、多くの史料に最上義光は名君だったとある。優秀かつ素晴らしい人物だったとの史料がたくさんある」
古文書の多くは、私的に所蔵されていることが多く、一般に公開されることはほとんどない。今回松尾さんが見せてくれたのには、
公開することで貴重な史料を後世に残すという狙いがある。
0131人間七七四年
2019/06/08(土) 17:06:45.03ID:1WjVqsNF正直うざいです
特に片桐のじいさんは実際会ってみても基地外レベル
0132人間七七四年
2019/06/08(土) 18:09:05.80ID:8w9ktd2hhttps://video.twimg.com/ext_tw_video/1069569929462996992/pu/vid/848x480/7gb9FGWREfGkcqGw.mp4
0134人間七七四年
2019/06/09(日) 03:07:24.08ID:cxXeu6pY『令條』
条々
一、一季居(一季で雇われた者)の事。堅く停止された以上は、侍はもちろんのこと中間・小
者に至るまで抱え置く輩は速やかに罪科に処される事。
一、伴天連門徒は御制禁なり。もし違背のある族はたちまちにその科を逃れられない事。
一、手負いの事。上下に関わらず傷付いた者がいれば、その場所の給人・代官に詳細を申し届
けなければならない。ならびに他の場所から手負いの者が来たならば、すなわちその手負
いを留め置き、交名を註して必ず言上すること。万一隠し置けば、重科に処される事。
一、煙草を吸う事。制止とされるに至り、その上で売買する者までも見付けた輩がいたならば、
双方(売る者と買う者)の家財を、見付けた輩に下されるものである。もしまた、路次に
おいて見付けた場合は、煙草ならびに売主をその在所に押し置いて言上せよ。付いて来た
馬・荷物以下は改め出した者に下される事。
付いてはどこの地においても煙草を作ってはならない事。
一、牛を殺す事。御制禁なり。万一殺した輩には一切を売ってはならない事。
この趣を領内に必ず触れさせるように。この旨を堅く仰せ出されたものである。よって
件の如し。
慶長17年(1612)8月6日 青山図書助(成重)
安藤対馬守(重信)
土井大炊助(利勝)
藤田能登守殿(信吉)
(原注:幕府が一季居を停止したことは慶長14年正月2日に。煙草を禁止したことは、同年
7月是月に。また耶蘇教を禁じ、京畿の耶蘇寺院を破壊せしめたことは、本年3月21日に。
また一季居などに関する法令を頒布したことは18年3月是月に各々その条あり。参照すべし)
――『大日本史料』
その7日後>>129
0135人間七七四年
2019/06/09(日) 21:52:07.77ID:mD08Q13s煙草もなんとなく分かる
その他はどういう理由なんだろうね
0136人間七七四年
2019/06/09(日) 22:00:08.11ID:hwQ6Bi9Rドン・ベルチラメウ(大村純忠)に、その嗣子と共に佐賀(Sanga)城に来るよう頻りに求めたことである。
ドン・ベルトラメウおよびその一族は非常に困惑し、一方には、龍造寺の意図は、平和を口実として
ドン・ベルトラメウとその子、並びに領内の主要な人物を悉く集めて、日本の他の領主が成すように、
これを殺すことにあると言う者があり、また一方には、もし招かれても行かず、彼を信用しないということを
明らかにすれば、龍造寺は大いに怒って敵意を明示するであろうと言う者があった。
龍造寺が非常に有力であるのに対し、大村の武力はこれに対抗するのに充分ではない。
このため、二つの手段のどちらを取るかは容易に決定しなかった。
パードレ達はドン・ベルトラメウとその一族が自ら敵の手に投降するのは不可であると考えた。
この下の地方(九州)の長老であったパードレ・ガスパル・クエリヨは危険に陥ることを慮って龍造寺の元に
行くことを喜ばず、龍造寺を満足させる手段を講じてこれを断るべきであると主張した。しかし龍造寺は、
ドン・ベルトラメウとその一族が彼の招きに応じなければ満足する様子がなく、ドン・ベルトラメウは敵の
勢力と悪意に大いなる恐怖を抱き、一族とよく協議した上で、己を彼の手に委ね、それによって彼の意を
和らげることに一縷の望みをかけて、その嗣子および領内の主だった大身達と共に、五百人の武士を従えて
龍造寺の居城、佐賀に向った。
事の成功を予知することも、またこれを避けることも叶わず、もしドン・ベルトラメウとそれに同行した
武士たちが悉く殺されれば、全領土は敵の所有に帰し、ドン・ベルトラメウも一族も帰って来る望みは
無いのでなないかと、我等(宣教師)の恐怖が非常であったことは、尊師も諒解されるであろう。
さらに有馬の領地も同一の危険に瀕し。当地方のキリシタン協教会は全滅に至る懸念が有って、この心配と
恐怖の間に二十日間を過ごした。
しかしながら主はこの苦痛より我々を救出し給い、ドン・ベルトラメウは龍造寺より歓待され、様々に
名誉を与えられ、相互の間に平和協定を成し、これを確保するため、龍造寺は一女をドン・ベルトラメウの
嗣子に嫁がせる約束をした。少しも期待されず、事後ですら信じられぬ程であったこの好結果は、諸人に
大いなる喜びを与えた。
これがデウスの特別なる御恵であった事を示すのは、間もなく起こったカマチドノ(Camachidono:柳川城主・
蒲池鎮漣)と称する、ドン・ベルチラメウに劣らぬ勢力を有する筑後国の異教の領主が、ドン・ベルチラメウと
同時に龍造寺に招かれた事であった。或いは両人とも殺すつもりだったのかも知れない。
蒲池殿は起こるべきことを懸念し、ドン・ベルチラメウの様子を見ることにして待っていたが、龍造寺は
ドン・ベルチラメウに好意を示し、蒲池殿はこれに安心してその招きに応ずることとし、一族及び武士たちと
共に佐賀に到着し、龍造寺からドン・ベルチラメウと同様の歓待を受けた。このため彼らが注意を怠り、
思いもよらなかった時、龍造寺は4,5千人を以て蒲池殿の居場所を囲み、彼とその一族を悉く殺した。
蒲池殿たちは勇敢に戦ったが、多勢に抗することは出来なかった。
その後龍造寺は兵を出して彼の領地を攻めたが、住民たちは何の用意もなかったため少しも抵抗出来ず、
彼は容易にその地を占領して非常な残虐を行った。貴婦人たちは夫が既に殺されていたので、龍造寺に
捕らえられて、最も恐れた侮辱を受けるよりも寧ろ死を選ぶとして自殺した。
蒲池殿がかくの如き不幸に遭遇したので、我等はデウスが特別の御恵を以て、同様なる運命から
ドン・ベルチラメウを救出し給った事を感謝した。
しかしこの敵(龍造寺)は生命有る限り、有馬及び大村の領主並びにキリシタン教会に対し害を加える
懸念があり、我等は常に恐怖を抱いているのである。
(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)
龍造寺隆信が「佐賀に来い」と要求したことへの波紋
0137人間七七四年
2019/06/09(日) 23:29:16.21ID:ZfkTXeho0138人間七七四年
2019/06/10(月) 02:49:05.49ID:2hX+mQxB>一、牛を殺す事は御制禁なり。おのずと殺すような輩には一切(牛を)売ってはならない事。
> (牛を殺事御制禁也、自然殺へき輩には、一切売へからさる事)
0139人間七七四年
2019/06/10(月) 11:40:11.60ID:QN0NvVBLほらよ
http://i.imgur.com/GFhTg.jpg
0141人間七七四年
2019/06/10(月) 13:30:40.56ID:E0Guiztx秀吉のキリシタン追放令の理由の中にも「牛を食うこと」が入ってる。
0142人間七七四年
2019/06/10(月) 13:44:22.19ID:ZI8DPZsm0143人間七七四年
2019/06/10(月) 14:56:31.46ID:YuoSwCCz0144人間七七四年
2019/06/10(月) 16:54:35.54ID:/xDs3wXj彦根藩から届く肉を楽しみにしていた大名は多く徳川斉昭もその一人だったが
井伊直弼が藩主になると肉食を禁じてしまう。
しつこく肉をねだる斉昭と頑なに断わる直弼の仲は険悪になり
安政の大獄や桜田門外の変の遠因になったとかならなかったとか…
0145人間七七四年
2019/06/10(月) 17:30:23.91ID:n8keEJU70146人間七七四年
2019/06/10(月) 17:42:52.27ID:eZpNrclMhttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190610-00000032-cnippou-kr
1592年4月13日。加藤清正の先鋒部将の沙也加は3000人の兵を率いて釜山(プサン)に上陸した。
日本全国を統一した豊臣秀吉は朝鮮侵略を命じた。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の序盤、倭軍は連戦連勝していた。
ところが3日が過ぎても沙也可の兵士に動きがなかった。1週間が経過した日、慶尚道兵使の朴晋(パク・ジン)に
沙也可の手紙が届いた。
「この戦争は大義名分がない。朝鮮に投降する」。沙也可は敵陣の朝鮮側に立った。普段から「礼儀の国」の
朝鮮に好感を抱いていたという。沙也可は火縄銃と火薬を作り方を朝鮮軍に伝授した。その後、功績が
認められて金忠善(キム・チュンソン)という名前を受けた。沙也可は丁卯胡乱、丙子胡乱にも参戦し、
72歳で死去するまで朝鮮人として生きた。
壬辰倭乱当時、祖国を背を向けて朝鮮側に立った倭軍の武将、沙也可。沙也可顕彰碑が日本にあるという話を
聞いて5日、和歌山県に向かった。大阪から列車に乗って南に約90キロ。沙也可の碑は和歌山市の
紀州東照宮にあった。東照宮は徳川家康を祀る神社で、紀州は和歌山地域をいう。豊臣氏を滅ぼした家康の
神社の前に沙也可の碑を建てたのは絶妙な選択だ。
紀州東照宮の管理者、西川秀大氏は「紀州地域は古くから朝鮮半島の影響を多く受け、朝鮮半島のものと
同じ遺物も出土する」とし「日光にある東照宮が金色で華麗に飾られているのとは違い、紀州東照宮は
緑と赤を主に使った朝鮮の丹青とよく似ている」と説明した。沙也可の碑が韓半島(朝鮮半島)と
関連が深い紀州東照宮の前に建てられたのは必然だという話のように聞こえた。
沙也可の碑が建てられたのは2010年。当時、「沙也可日韓国際シンポジウム」が日本で開催されるのを
記念して両国の関係者が集まった。沙也可を素材にした小説『海の伽耶琴』の作家・神坂次郎氏や
金忠善(沙也可)の子孫が集まった。
ここには自民党の有力政治家、二階俊博幹事長(当時は総務会長)もいた。碑石はアシアナ航空の
朴三求(パク・サムグ)会長に要請して韓国から運んだ。和歌山県を政治の基盤とする二階氏は沙也可が
和歌山出身という点を率先して知らせた。2月には親しい朴智元(パク・ジウォン)民主平和党議員が
和歌山を訪問した際、沙也可の碑に足を運んだ。
碑石の前には2本の木が寄り掛かるように絡んでいる。碑の建立当時をよく知る人は「意図して
この場所に決めたわけではないが、お互い寄り掛かるように絡んでいる木の姿が日韓関係を
表しているようだ」と語った。
0147人間七七四年
2019/06/10(月) 17:44:37.40ID:eZpNrclMまあ日本側の検証はほぼwikipediaの記述の通りですが。
wikipedia沙也可
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E4%B9%9F%E5%8F%AF
参考文献にあげられてる、宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究 十五〜十七世紀における兵器の受容と伝播』が
最近の研究の元ネタ。
宇田川氏は秀吉の朝鮮侵略は悪!と書いてしまうスタンスの人ですが、自分の専門分野で手を抜くようには見えない。
0149人間七七四年
2019/06/10(月) 21:40:54.03ID:7oRtE5B8日本では当初、沙也可を実存した人物として受け入れず、受け入れても否定的な認識を抱いてきた。
沙也可に対する大衆的な関心を高めたのは1971年に司馬遼太郎が紀行文で沙也可を扱ってからだ。
「背信者」のフレームから「大義のない戦争に抵抗した平和主義者」として沙也可を再解釈し始めたのもその後からだ。
和歌山県庁国際課の山下善夫国際企画班長は「沙也可のストーリーは映画化の話も出たほど多くの日本人が
勇気ある人物と評価している」と述べた。
沙也可に関する記録は日本には残っていない。祖国を裏切った事実が明らかになる場合、残された家族が苦境に
立たされることを憂慮して自らの身分を明らかにしなかったと考えられる。
ただ、沙也可が火縄銃と大砲をうまく扱ったため、当時和歌山地域の鉄砲部隊として名が知られた雑賀部隊を
率いた鈴木孫市の子孫が沙也可という説が最も有力だ。
「雑賀衆・沙也可で街おこしの会」の辻健会長は「特に罪のない民衆を残酷に殺すことで豊臣は有名だった」と
し「沙也可は豊臣が戦争をすることに我慢できなかったようだ」と話した。
また「当時、リスクを負って裏切りと変わらない帰化をしたのは強い信念と決意があったからだと考える」と
語った。
当時、朝鮮としても沙也可を受け入れるのは容易な選択ではなかった。いつまた裏切るか分からない敵軍の
武将に名前を与えて正二位まで昇進させたのは大きな決断だった。
辻会長は「李舜臣(イ・スンシン)の艦隊に倭軍は全滅した。沙也可でなくとも壬辰倭乱の結果は
変わっていなかっただろうが、火縄銃と大砲のおかげで朝鮮人の犠牲を減らしたとは思う」と述べた。
2000年代に韓日関係が急激に改善し、沙也可はいわゆる「韓日友好協力のアイコン」として扱われた。
関連研究も活発になった。2012年には沙也可が建てた鹿洞書院がある大邱市(テグシ)達城郡(タルソングン)に韓日友好館もオープンした。
日本では今でも辻会長を中心に毎年、沙也可をテーマにした朗読劇の会を開き、小学・中学生を対象に沙也可の
平和思想などに関する授業をしている。
辻会長は「日韓関係にはいつも悪いことばかりあったわけではない」とし
「今は徴用工問題などいくつか難しいことが絡んでいるが、文在寅(ムン・ジェイン)大統領に一度、
沙也可の碑を訪れてほしい」と語った。
0150人間七七四年
2019/06/10(月) 21:43:16.36ID:7oRtE5B80151人間七七四年
2019/06/10(月) 23:10:25.14ID:aEXzpoP0町おこしのためなら何でもありってことなのかな
0152人間七七四年
2019/06/11(火) 07:40:18.96ID:YeS6rj2+0153人間七七四年
2019/06/11(火) 07:42:30.70ID:DbFOGen+0154人間七七四年
2019/06/11(火) 13:25:46.77ID:5PkrBIp7「武田信玄が鮑の煮貝を戦陣食として始めた」
という説があるから大河に出そう!
となりそうだったのを
山梨日日新聞「山梨百科事典」に
「江戸時代末期に駿河の魚問屋が伊豆で取れた鮑を加工して
甲斐に送り込んだのが最初で、甲州勤番の武士や文客が江戸にもたらしたのが評判となり甲州名物として定着した」
と書いてある以上、信玄時代に出すのは不適切、
と阻止した話があった。
土産物店のサイトだと武田信玄うんぬん書いてるところが多いようだけど
0155人間七七四年
2019/06/11(火) 14:08:49.60ID:tf9swAlS城の瓦と同じ瓦でガザの屋根を葺く事を許したが、城の瓦のように金は用いなかった。
ガザは三階建てで均衡のよく取れた、甚だ立派な爽快なる建物であり、毎日多数の大身達がこれを見るために
来たり、我等はこの機会に彼らに説教しデウスのことについて語った。そしてガザにおいては毎日説教があり、
大身達が各地方から集まったために、この年ににコンパニヤ(イエズス会)が都、その他諸国に知られ、
デウスの教の広まりは、それまでの多年の間の成果と同じくらいであった。そのため、このガザが多数の人に
キリスト教の教えを知るに至る方便と成ることを期待している。もし敵が、例のように妨害を加えることが
無ければ、本年の収穫は少なからざるものと成っていただろう。
説教を聴いた者の中に、元近江国の王であり、今は国を失っているが、信長の庇護を受けている大いなる殿で、
(安土)城内にある最も立派な邸宅の一つを所有している人があった。この人はキヨクドノ(Chiocundobo
京極殿:京極高吉)と称し、夫人とともに説教を聴かんと決心し、デウスの教えを喜ぶあまり、四十日間
引き続いて説教を聴いてよくこれを悟り、四十日の末に夫人とともに洗礼を受けた。
この人に11,2歳の一子(京極高次)が有り、その頃他の町において信長に仕えていたが、父はこの子が
帰るのを待って全家族と共に洗礼を受けさせようと考えた。しかしながら、その後数日を経て我等の主が
彼(高吉)を御許に召し給うたため、その希望を達すること出来ず、又その子並びに家族はみな異教徒のままで
あったのみならず、子たちは父の死が神仏の罰によるものと考え非常に恐れたが、母はこれにかかわらず
信仰堅く、唯一その邸宅に住んでいる。我等の主が彼女によっていつかその子達を導き給わんことを期待する。
(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)
京極高吉の突然の死は、実際に仏罰だと噂されたらしいですね。
0158人間七七四年
2019/06/11(火) 17:18:48.15ID:3yhMAURCこちらは実在人物どころか小説の登場人物なのでw
オヤケアカハチ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A4%E3%82%B1%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%8F%E3%83%81
0159人間七七四年
2019/06/11(火) 17:38:31.74ID:3yhMAURC地元一部で喧伝されてたりもしますが、そもそもポルトガル人の東南アジアのマラッカ到達が
1509年、オランダ人に至っては1600年のアダムズ・ヨーステン一行のリーフデ号到着が初ですよね。
でもアカハチ死亡年は1500年・・・
後世、勝手に膨らまされたイメージって全国どこも一緒だなあw
0160人間七七四年
2019/06/12(水) 10:21:46.54ID:JWWpnTmp韓国アレルギーなのかな?
友でいるのが苦痛というのがネトウヨの総意だろうけど
交わることで分かることもあると思うぜ
0161人間七七四年
2019/06/12(水) 10:27:47.34ID:/BP8IaVo0162人間七七四年
2019/06/12(水) 11:21:54.40ID:VNQ8hdgF0163人間七七四年
2019/06/12(水) 13:23:43.53ID:ZTSqhw300164人間七七四年
2019/06/12(水) 20:16:00.45ID:h/jQFdtC乙卯の歳と承り及んでいる。前代の事であり、しかも他国の事を人の雑談で書き記しているので、
きっと相違な事ばかり多いのは必定ではあるが、ただこの理究(原注:リクツ)を取って今勝頼公
御代の比較になさるべし。(中略)
まことに北条家は弓矢巳の時(盛りの時)と輝き、万事政事よろしいので上杉家の功者どもは「さ
て危なし」と呟く。しかしながら管領則政公(上杉憲政)には、両出頭人の菅野大膳・上原兵庫が
これを聞いて申すには、
「北条宗雲は元来伊豆のいかにも小さき所から出たのであり、その族の氏康が何の深きことがあろ
うか。伊豆・相模両国を持っても、北条2,3人を合わせた程の大身衆は越後・関東・奥両国(奥
羽)へかけては、則政公の御旗下に5,6人もおります。
上杉家に伝わる衆(譜代)にも北条程の者はいそうもないので、蔓延っている以上は則政公が旗を
出されて、ただ一陣で北条家を誅罰しなされ!」
との菅野・上原両人の口により、(後略)
一、北条宗雲は古来、伊勢国より乞食を致して(伊勢国より乞食をいたし)駿河今川殿の被官となり、
今川殿の恩恵をもって伊豆へ移りただ今この如くであるから、元来伊豆の狭き所から出た宗雲の子
孫は、少しも深き事なく候。
宗雲の子・北条氏縄(氏綱)は甲斐の武田信虎に大いに争い負け申した。これは駿河あしたか山の
下、東さほの原での事。その気勢をもって氏縄の手に入れた富士川の北は尽く信虎に取られた。
この時、興国寺の城主・青池飛騨(青沼飛騨守)は人より先に信虎の被官となるに付き、青池の息
子・与十郎と申す者を、信虎家中の足軽大将・小幡(小畠)入道日浄と申す侍の婿に、信虎の下知
をもって仕る。ただ今は駿河の今川義元が信虎の婿になる故、息女の化粧田として信虎より今川殿
へ渡す。
これでさえも、父・宗雲が今川の恩恵をもって小田原までも発向したその恩を、子息・氏縄の代に
なって忘れ、替り目を見合わせて今川の持つものを取ったけれども、氏縄が義理違い申すに付き、
珍しく回ってこの場所が今川へ帰ったのは、天道より北条家を憎んだのである。(後略)
――『甲陽軍鑑』
0166人間七七四年
2019/06/13(木) 01:18:22.30ID:NpktaL/T不適当なことではあるまいと思う。第一の危険と恐怖の原因は、山口の王なる毛利 Mory が豊後より都に
赴く路に当たる領内の諸港、特に日本全国に於いて有名である塩飽 Xiuaqui の港に通知を発して、そこを
通過するパードレ達を捕らえるように命じたことが豊後に聞こえたことである。パードレはまた豊後滞在中に
我等の友人の一人から、決して塩飽の港に入らないよう注意を受けたが、都に赴くには毛利の両国に沿った
港湾を通過せざるを得ないので、その危険は甚大であった。
また一層恐怖を加えたのは、乗船の船頭が、我等の大敵である坊主が所領する、大坂と称する市の者で
あった事である。ただし船頭は豊後の王の家臣の如き者で、塩飽にも、その妻子のいる大坂にも、毛利の何れの
港にも決して寄港しないことを王(大友宗麟)と約束したので、恐怖は幾分除かれた。ただし彼は異教徒で
あったので、大いに信頼することは出来なかったが、これ以外に信用すべき船が他に無かったため、
ビジタドールはパードレ4人及びイルマン3人と一緒にこの船に乗り、船頭は常にいかなる事があっても、塩飽に
寄らないと言い、また毛利の領内の町を通る時は、パードレ達を隠していた。
遂に塩飽の前に着くと、船頭は「塩飽に入港せざるを得ないが、決して不幸の起こることはない故、安心する
ように」とパードレに伝えさせた。この伝言を聴いて、この船頭が約束を破り、また異教徒が己の利益の
ためなら容易に陰険なる処置に出ることを思って、諸人皆大いに恐れたが、我等は彼に対して反対する力が
無いために、様々に交渉した後、彼の望むように任せること止むなきに至り、パードレ達は一切をデウスの
御手に任せ、同所に滞在している一昼夜の間は絶えず恐怖を感じていた。しかるにデウスの摂理は、その地の
司令官が前日数レグワ離れた場所に毛利(毛利氏の拠点か)を訪問し、その帰任はパードレ達の出帆後となるよう
計らい給うた。
第二の危険は右に劣らず、パードレ達に対するデウスの摂理もまた少なからざるものであった。堺に近づいた時、
南蛮(日本においては我等をこう称した)のパードレの長が、沢山の宝を持って通過するという噂が立ち、
常にこの海を横行する海賊が多数集まり、堺より6,7レグワの一港に寄港することを聞いて、同港へ行き
安全に略奪を行おうと考えていた。ところが風が強くなり、パードレがこの日のうちに堺に着くことを希望した
ため、船頭にかの港に寄って順風の機を失う事の無いように頼んだ。船頭は同港において納税の必要(海賊への
通行料であろう)があると言って初め拒絶したが、パードレを満足せしむるため、日本の慣例に従い税を堺より
送る事として航海を続けた。
海賊たちが待ち受けていた港に寄らなかった所に、我等の主の摂理が認められた。
海賊たちは我々の船が通過するのを見て、多数の船に乗って出港したが、中にパードレの船よりも大きなものが
二艘あって、ほとんど追いつこうとしたが、風が止んで櫂を用いることが必要となった。兵士たちは敵が
近づくのを見て戦闘の準備を始め、船は急進して逃げた。敵もまた同じ速度で追撃して堺の港まで進み、
小舟は我等の船とともに港に入ったが、大船はパードレの船のようには海岸に近づくこと出来ず、小銃の
着弾距離の所に停まった。もし航路がさらに長いか、また右の船がもう少し小さければ、我々が海賊から
逃れることは出来なかったであろう。この時我々の恐怖がどれほどであったか、尊師も推察されるであろう。
既に港に着いて、キリシタン及び多数の異教徒が小銃その他武器を持って駆けつけたが、海賊たちに
150クルサドを与えて協定を遂げた後、我等ははじめて安全と成るを得た。
堺より豊後へ渡る際の危険もまた右に劣らぬもので、海賊のことと、再び毛利の領内を通過しないことを考え、
路を島々の外(四国の太平洋側の航路を取った)に取り、この航路に1ヶ月を費やしたが、この間
日本の船の不自由の他に、数回非常なる暴風雨に遭い、デウスを想うのみであった。1回は非常に激しい
颱風に遭い、港に入ったが、風は24時間継続した。またある日海賊の船が1艘来た。それのみでは恐怖は
感じなかったが、合図をして他の船を招くのを見て恐れ驚き、この間に一昼夜を経過した。
暴風雨または海賊の危険は、この種の航海においてはパードレ達の常に遭遇するところであって、デウスの
御手に縋り摂理に頼って、常に種々の危険より免れるのである。
(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)
0167人間七七四年
2019/06/13(木) 22:17:55.95ID:igVSyUJR0168人間七七四年
2019/06/14(金) 12:23:58.89ID:IHLOoPFL尽く御修理をされた。この事についてうつけたる者が申すには
「内裏様の御念者(男色相手)は村井殿じゃ」
「何故に」
「今日も内裏様のみしり(御修理と御尻をかけている)をゆかせられるといって、日々御出であるから
そうかと思った。」
と言った。
(きのふはけふの物語)
0169人間七七四年
2019/06/14(金) 12:52:11.46ID:IX8PHLFL【参考】
『直江重光(兼続)書翰留』
(上略)あなたが近日、かぶきを御調査されていることに関して、旦斎が御子息の新二郎殿を御
気遣いなさっているとのことです。実否はどうなのかと御心許ないのです。(中略)
(其元近日かぶき御穿鑿ニ付而、旦斎御子息新二郎殿御気遣之由、実否如何無御心元候事、)
8月13日
千坂伊豆守殿(高信。上杉家江戸家老)
(上略)旦斎より御知らせが届きました。御子息の新二郎殿の様子について未だ解決していない
とのことは、全くもって気の毒です。その事について旦斎へ書状を進め置きました。(中略)
(旦斎より御報相届候、御息新二郎殿様子未相済候由、笑止千万候、右之儀ニ付而旦斎ヘ書状進
置候事、)
9月14日
千坂伊豆守殿
すぐに御知らせを示し下されましたことを忝く存じます。そして御子息の新二郎殿を御気遣いな
さっている様子を承り、御心許ないものと存じます。きっとその他の御気遣いはないものと推し
量っております。なお、追って御意を得られることでしょう。恐惶謹言。
(乍御報示被下、忝令存候、然者、御息新二郎殿御気遣之様子承、無御心許令存候、定而不可有
異儀候由、推量仕候、猶追而可得御意候、恐惶謹言、)
9月14日
小旦斎様
人々御中
――『大日本史料』
0170人間七七四年
2019/06/16(日) 01:09:37.03ID:0tIddNzOいろいろと煩わしいと思い、ずっと秘密にしていた。ではあったが長岡(細川)幽斎へは少しばかり
贈りたいと思い「これは私どもの山に生えたのですが、世上には隠しています。ですがあなた様には
進上いたします。どうか他所へは秘密にしておいて下さい。」と遣わされたが、これに対し
幽斎は狂歌を詠んだ
『松たけの おゆる(生える、勃起を隠喩)を隠す吉田殿 わたくし物(秘蔵のもの、男根の異称)と人やいふらん』
(きのふはけふの物語)
0171人間七七四年
2019/06/16(日) 01:45:44.25ID:kYm8Gowg『薩藩旧記雑録』
今度の織田の事は、天命を逃れた難により自滅せしめたものである。それにつき、残る輩が帰洛する
ことを切々と申すので示し合わせ、きっと入洛するものである。この節にとりわけての馳走は喜悦の
ことであろう。よって太刀1腰と黄金10両が到来したことには喜び入る。なお、昭光(注釈:真木
島)と明秀(注釈:一色)が詳細を申すものである。
(今度織田事、依難遁天命、令自滅候、就夫相残輩帰洛儀、切々申条示合、急度可入洛候、此節別而
馳走可悦喜、仍太刀一腰、黄金拾両到来喜入候、猶昭光、明秀可申候也、)
天正10年(注釈:朱書き)
11月2日 (花押)(注釈:足利義昭)
嶋津修理大夫とのへ(島津義久)
(注釈:義昭が毛利輝元を頼って京都に帰ろうとして果たせず、輝元をもって秀吉に説かせたことは
10月21日の条に見える)
――『大日本史料』
0173人間七七四年
2019/06/17(月) 11:38:38.46ID:aBrfMfav「今日は彼岸の最後の日ですが、このような日に奇特にも上臈衆(高位の女性たち)がお参りになりました。
そこで阿弥陀如来のご誓願にある女人成仏のお話を申したいと思いますが、しかしこれは、
詳しく話せば談義が長くなり、またあらましのみを語れば少々理解しにくくなります。どうしましょうか、
皆様の望み次第にしたいと思います。」
そう仰られたが、談義についてのことなので返答する者も居なかった。そこで貞安和尚が
「上臈衆は長いのがお好きか、短いのがお好きか?」
と尋ねたところ、彼女らは一斉に咲いだした。
これに長老(住職)は彼女らをきっと睨んで
「あなた方の気持ちの有り様はよくない。」
と申された。
(きのふはけふの物語)
まあ少々猥談的なお話ですね
0174人間七七四年
2019/06/18(火) 09:53:54.35ID:pCLnKn9F流され、その後配所を鹿児島に移された。その頃詠まれたものが
大臣の 車にはあらであはれにも のするかごしまになふほうのつ
(大臣の車(牛車)ではなく哀れにも、乗り駕籠に棒で担がれている(駕籠と”鹿児島”、棒と”坊津”を
かけている))
(きのふはけふの物語)
0175人間七七四年
2019/06/18(火) 16:18:05.19ID:XHJKzrW+り家康へ加勢があった。信玄は井の谷へ押したところを、家康衆が足軽を掛けて合戦を始めて攻め戦った
ところ、家康衆と尾州の加勢衆は敗軍した。これを遠州三方ヶ原の一戦という。
「掘田の郷へ敵をやり過ごして合戦すれば家康の勝ちであったろうに、家康衆を遣って合戦を仕掛けて負
けになった」との批判があった。
その明年正月11日、信玄は三河の野田の城を攻め落とそうとして不慮に鉄砲に当たり、この傷を色々と
養生したけれども叶わず、ついに逝去した。(後略。>>113)
――『北条記』
天正元年(1573)正月7日に信玄公は遠州刑部を御立ちになった。(中略)その後、信玄公は御患い
が悪くいらっしゃり、2月16日に御馬を入れた。
家康家・信長家の誰人の沙汰か、信玄公が野田の城を攻めようとして、鉄砲に当たり死に給うと沙汰仕る。
皆虚言である。およそ武士の取り合いでは、弱き方より必ず嘘を申す。越後の輝虎との御取り合いでは、
敵味方ともに、嘘を申した沙汰はついになかった。
たとえ鉄砲に信玄公が御当たりであっても、それが弓箭の瑕(名折れ)になることはない。長尾謙信(上
杉謙信)は武州忍の城において堀の端に馬を立てておられたのを、城の内衆は輝虎と見て鉄砲を寄せて、
いかほど撃ってもついに当たらなかった。その鉄砲に謙信が当たれば、結果強き大将と誉めはすれども悪
くは申すまい。
すでに信玄公が信州川中島において謙信に勝ち給う時、謙信が名馬の放生月毛を乗り捨てられた。これを
長坂長閑(光堅)が取って乗り、「流石の謙信も馬を捨てられた」と長閑が申せば、信玄公は大いに怒り
なされ、「馬がくだびれたならば乗り換えても構わないことだ。そして乗り換えた時に合戦が負けとなれ
ば、中間どもは馬を捨てて逃げることだろうに、それを輝虎が弱いとは一段と無穿鑿な申しようだ!」と、
長坂長閑を悪しく仰せられたのは、3年目に聞こえたことである。
輝虎が川中島合戦の時、和田喜兵衛が一騎で供を仕って退いた。そうして越後へ到着して馬から降りると
同時に、喜兵衛を謙信が手討ちに致されたのを信玄公は聞こし召して、「さては謙信ほどの侍も後れてし
まっては、ちと取り慌てることもあるのだろう。武士は誉めるも謗るも、踏まえ所をもって沙汰するもの
である」と信玄公は仰せられたのである。
――『甲陽軍鑑』
0176人間七七四年
2019/06/18(火) 19:03:01.58ID:fSX0hArW近衛信尹といえば、娘の名前を「太郎」にしたとか面白い話があるけど、
ユネスコ世界記憶遺産にも登録された、近衛家に代々伝わっていた藤原道長自筆の「御堂関白記」についての本を読んでたら、
近衛信尹が薩摩に流された時に、何を思ったか自筆本の寛弘5年(1008年)のところの紙背(裏面の白紙)にだけ
先祖の近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』の抜書を書いてしまったようだ、とあった。
紙の節約のために紙背を利用するのは珍しくないとはいえ、600年近く伝わっていた家宝によくやるもんだ
0178人間七七四年
2019/06/19(水) 17:14:14.53ID:MKvkS746これは史実にない真実や、どや???
0179人間七七四年
2019/06/20(木) 00:37:47.96ID:EX6KxfGeこの頃、同所に甚だ良き家数棟を建て、その中にミサを行うべき立派な祈祷書を設けた。
彼は老後の休憩所(隠居所)として世子(大友義統)から、その滞在している地方を貰い受けることを
希望していたが、世子が昨年これを与えたため、ここに移った翌日、イルマン二人を招いて、
同地方に有る寺院三ヶ所にある仏像を尽く破壊し、一つも残らず焼く事を命じたためこれを実行した。
王はまたビセプロビンシヤル(ガスパール・コエリョ)より、同所に駐在するためのパードレ一人、
イルマン一人を請い受け、同地方の二千人を超える異教徒に説教を行わせることとしたが、一部は既に
洗礼を受け、他の者は今教えを受けている。
この町に居た坊主たちには甚だ親切に話させ、彼(宗麟)が既にキリシタンに成っている故、彼等も
キリシタンと成ることを勧め、己(の生活)を支えるに足るものを与えることを約束した。諸人皆これを
良しと考え、今ドチリナを授けられている、
この町は甚だ静かであるため、パードレ一人とイルマン一人が駐在していた小僧院には、豊後の国の
坊主達が木の箱の中に、他の立派な箱を納めたものを宝物として密かに蔵してあった。
この箱には釈迦の教えが、金の文字によって九巻に認められた、甚だ珍しいものが納めてあった。
この書物は彼等の習慣に従って製本され、確実なる文書によれば、これが作られて270年経っているが、
今も新しいもののように見えた。その一巻はインドの管区長に送るが、同所より尊師の元に送り、
坊主達がその宗旨の書物を尊重している事を御覧に供するであろう。
この他に彼等が甚だ珍重する、釈迦の門弟19人の絵を描いた19枚の紙を納めた箱がある、世子が
父なる王にこの地方を譲った後、豊後の坊主達は世子の元へ行き、急いでかの書物と肖像を取り出し、
パードレ達の手に入らないようにすることを願った。この宝物を失うだけでなく、これを焼かれることの
危険があったためである、世子は直ぐに人を遣わして書物と画像を王に請わせたが、良き老王フランシスコは
世子の使者の来る前に使いをイルマン等の元に遣わし、彼等が寺院に於いて第一に取り棄て、又は焼却すべき
ものはかの書物及び画像であると伝えさせた、そのためこの事は既に実行されており、世子に対しては
その使者が遅かった旨を答えた、
右のほか、王はイルマン一人を外の二つの町に派遣し、その住民に説教をさせた、これにより400人余が
キリシタンと成った、
(1584年1月2日(天正11年11月30日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)
うーん…
0180人間七七四年
2019/06/20(木) 08:43:33.06ID:3qib0QTB0181人間七七四年
2019/06/21(金) 00:17:36.40ID:ktoSxB+q彼の父の兄弟である叔父(田原親賢 / 紹忍)の嗣子となった。
この田原親賢は先年報告した通り、養子のシマン Simao (田原親虎)がキリシタンと成ったため、これを
廃嫡した人である。
ドン・パタリヤンはキリシタンと成って既に4年であるが、思慮深く性質も良く、殊に良きキリシタンで
あるため、王は甚だ彼を愛している。この人については長く報告することも出来るが、簡略にするため
やだ2,3の事を述べる。彼は臼杵より4日路の城に居て、その叔父が承知しないためわずかに4,5人の
キリシタンの家臣が共に居る。叔父の妨害は甚だしいが、一層信仰を固くし、しばしばパードレ、イルマンたちに
書簡を贈って、常に彼のためデウスに祈ることを請い、その信仰については、これを捨てるならその前に死する
覚悟であることを、我々が疑わないようにと願っている。彼の求めに応じてパードレ一人が告白を聴きミサを
行うため同地に赴いたところ、彼の喜びは甚だしく、寸時もパードレの元を去らず、デウスが天使を降ろし
給うた思いがすると言った。復活祭の日は多数の異教徒に囲まれていて城を出ることが叶わなかったため、
キリシタンの家臣を集めて、立派な祭壇を設けて一同祈祷を成し、諸人の頭には薔薇の冠を置き、頸には
ロザリオを懸けた。終わって彼等を饗応し、貧民に食物を与えた。
付近の異教徒の貴族が彼の居城に来た時、彼に金の屏風を贈った。屏風は内部に木を用い、紙を合わせて
作った物で、日本人が部屋の壁掛けのような目的で使っている。
この屏風には異教徒たちが喜ぶ絵が描いてあったが、彼は難しい顔をしてこれを見、他の点では甚だ立派で
高価なものであったが、その面前でこれを焼かせ、使者には「キリシタンはこのような卑しむべきものは見ない」
と言った。
彼は臣民がキリシタンと成ることを非常に希望している故、デウスの御恵により彼等の君主に成った時には、
必ず皆洗礼を受けること疑いない。
(1584年1月2日(天正11年11月30日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)
田原紹忍がキリシタン嫌ったのも、キリシタンが信仰を理由にこの金屏風の話みたいな事するからでは…。
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