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戦国ちょっと悪い話47

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0001人間七七四年2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

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0182人間七七四年2019/06/21(金) 14:36:04.55ID:f5pcw5Wk
ある時、馬場美濃守(信春)のところへ振る舞いに内藤修理(昌豊)・山県三郎兵衛(昌景)・土屋右衛門尉
(昌続)・小山田弥三郎・高坂弾正・真田源太左衛門(信綱)・小幡上総、この衆が参られ、よろずの雑談の
中で小山田弥三郎が申すには、

「各々聞き給え。世間で物の分かりを言って人に教えることが学問者の業である。しかれば学問者の中に物知
りは多い。智者は少ないものであろうが、一文字を引けない人にも智者はいよう。山本勘介などは智者という
者であると信玄公は仰せであったから、さて物知らずであってもまた智者と言って別なのである」

と言えば、そこで馬場美濃が申される。

「小山田殿が宣う如く、松木桂琳は学問をして物を良く読むので、唐の諸葛孔明のことを某が尋ねたところ、

諸葛は百姓なれども大将(劉備)がこれを抱えなさりたいがために、いかにも慇懃な出で立ちで諸葛の宿へ大
将自身がいらっしゃった。けれども2度は留守として押し返し、3度目にかの諸葛は竹を耡っているところへ
大将が行き当たり、何程も慇懃になされたのでここでは諸葛は鍬を投げ捨て、今の大将を守護して軍法を仕り、
戦にその大将が勝ちなさった。

その事を本に向かって申している時は『松木桂琳は物知りかな』と存じた。その時に甘利の同心・春原惣左衛
門が私めの方へ見舞いした。かの惣左衛門は真田殿の家中で武辺・智恵・才覚・弁舌すべてが備わった武士で、
信州村上殿へ武略として真田一徳斎(幸隆)が差し遣し、村上頼平公(義清。頼平は父)を信玄公が押し倒し
て勝利を得なさった。

それは春原が賢き智計の武士なる故で、某は大剛の誉れを感じ、互いの冥加のために春原を一入慇懃にもてな
した。それを松木桂琳が見て、春原が座を立ち帰った後に私めに申すには、『人の同心足軽で殊更小身な者に、
どうして馬場殿ほどの人が殊の外慇懃になされる』と不審がった。

それ故、そこにおいて私めが存じたのは、諸葛は賤しき百姓なれども大きな大将が慇懃になされた談義を言い
ながら、これを不思議と疑うのは、松木桂琳の口と心は合わぬと存じた。そういうわけで、物の本に向かって
談義するのは物知り、本に向かって読む術を知らずとも、心の至っている人を智者とこそ申すのであろう」

これが馬場美濃の小山田弥三郎への返事である。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』
0183人間七七四年2019/06/21(金) 14:43:58.60ID:QGNI5dtj
>>182
まさに頭でっかち…
0184人間七七四年2019/06/21(金) 16:27:20.84ID:u/Ny+gN0
>>181
奈多八幡宮大宮司の子がキリシタン嫌いでどこがおかしいの?
仮に彼がキリシタンとなった場合にどのようなことが起こりうるか考えろよ
デメリットしかないと思うけどな
0185人間七七四年2019/06/21(金) 20:51:41.49ID:M9YcI+sb
>>183
でも現代でもありがちなことだわ
0186人間七七四年2019/06/21(金) 20:52:28.59ID:M9YcI+sb
と言うか小山田さんと馬場さんの良い話のような
0187人間七七四年2019/06/22(土) 15:45:10.78ID:mfU706rp
キリシタン嫌いってこれに通ずるものがあるな
https://video.twimg.com/ext_tw_video/859189019443437569/pu/vid/1280x720/k7p3G9VXkFpS2bfu.mp4
0188人間七七四年2019/06/23(日) 01:25:56.85ID:ISi17C3o
永禄10丁卯年(1567)に太郎義信(武田義信)自害なされて後は、信玄公の跡を継ぎ
なさるべき惣領はおられず。

しかしながら、またその年に誕生された四郎勝頼公の嫡子を信玄公は養子になさり、吉田左
近助(信生)を御使として御曹子を太郎信勝(武田信勝)と名付け参らせられ、武田の重代
(家宝)である行平の御太刀・左文字の御腰物を譲り、武田28代目と定められた。

子細は、四郎勝頼公の母は諏訪の頼茂(頼重)の娘、勝頼公の御前は美濃国の岩村殿という
織田信長の姨(おば)の息女(龍勝院)である。「四郎の父はいやしくも信玄であるから、
例えどこへ頼ろうとも、これは然るべきことだ」と仰せの事により、信玄公の跡目にと今の
御曹司を定められた。

(勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづか
たへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹司を有之)

そうしてこの太郎信勝は7歳で信玄公と離別参らせられたので、信勝21歳までの15年間
は父の勝頼公が陣代となされたのである。(中略)

また奥州より、高崎織部と申す牢人がこの頃甲州へやって来た。この人の物語りによると奥
州の侍大将・伊達(輝宗)の子息(伊達政宗)は太郎信勝と同年である。これは不思議なり。

(政宗は)万海という行者の生まれ変わりで、その事の成り行きはまさしくその通りとの話
を奇特と存じて、紙面に表す。

(奥州の侍大将伊達が子息に太郎信勝と同年なる是れは不思議なり、萬海と云ふ行人の生れ
がはり、その首尾まさしく候由奇特と存じ紙面にあらはす)

後の考えのためにこのようにするのであると、高坂弾正これを書く。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

「いづかたへたよりても」に難しい判断を感じる
0189人間七七四年2019/06/23(日) 07:58:39.53ID:Yd8e5GYv
武田家の跡取りってかなり大変そうだ
信玄も各武将も優秀すぎて
0190人間七七四年2019/06/23(日) 22:57:31.83ID:wQi0OLzi
  義冬(足利義維)に付下侍之覚。

  富永豊後守據宗。           和州高市住人。(兵部少輔父也。)
  結城但馬守重正。           駿州志多住人。
  小寺新右衛門。            阿州松原住人。
  荒川民部少輔珍国。          三州八名住人。(弥三郎父也。)
  森小平太時常。            越前長坂住人。
  村井権内。              関東者。
  天代十郎左衛門。           武州者。
  浅田将監延房。            摂州浅田住人。
  乾鵜之助定直。(後号太郎右衛門。)  河州谷江住人。
  西山源八。              讃州志渡住人。
    今の志渡の玄雪という者はこの源八の孫である。
  堀喜左衛門景盛。           江州之住人。
真淵伊豆守忠元。           但州出石住人。
    親は出石刑部という者である。
  安井源右衛門。            中国者。
  三江兵庫。              播州野口住人。
  湯浅次太夫兼綱。(小次郎父也。)   阿州長山住人。
    
    侍分以上15人。
    都合360人が付き下ったということである。

  以上の侍どもは義冬に仕え忠義は浅からぬものであったが、牢人した事故、扶持すること叶わず、
  三江・富永・結城・乾・荒川・湯浅、以上の6人が残り、その他は暇を遣わしたのである。


一、義賢(三好実休)は持隆(細川持隆)を討ち取って以後、三好民部入道を使いにして義冬へ申す
  には、「徳雲院殿(持隆)は御身を失わせ給うとしても、義冬の御事は別儀もございませんので、
  御領地はまったく相違ありません。只今までのように当地におられますよう」との由を申し越す。

  「徳雲院殿なき以上は、どこへでも立ち退く」との由を義冬は仰せなさるも、民部入道が達て制
  し申すことにより、それならば重ねて御返事なさると宣った。

  持隆の失せた後に、清雲院殿(養父・足利義稙の正室。本書では義維の生母)は勝瑞に居合わせ
  なさる。「もしかすると、義冬はいずこへも立ち退きなさるかもしれない」と、義賢は清雲院殿
  を勝瑞に2,3年も留め置いて平島へ戻し申さぬ故、義冬はどうしようもなく留まりなさった。

  義冬を義賢が介抱したのは、その時の将軍義輝公はいかがなされたのか義冬を親切に思し召した
  ことにより、義賢も少しは敬ったのだということである。

  そんなところに天文23年(1554)3月、清雲院殿は病死なさる。一周忌の後、御下りなさ
  る旨を義冬が仰せられると、義賢ももっともと思い、大船3艘を調えて弘治元年(1555)4
  月10日に周防へ下りなさった。

  供した侍6人の内、乾定直は上方の様子を知るために河内へ戻しなさる。湯浅は阿波の者なので
  義賢に預け置き、残る4人は妻子までも供をした。大内介(大内氏)は殊の外もてなし、小原と
  いう所に居所を構えて義冬を居住させ置いて、大切に致したので永禄6年(1563)の秋まで
  周防に居住した。

――『阿州将裔記』
0191人間七七四年2019/06/24(月) 13:09:15.22ID:DJIUpD3b
>>189
晴信が板垣や甘利を失ったように合戦で殺せばええんやで
0192人間七七四年2019/06/24(月) 20:14:25.64ID:WVVwlE18
千少庵(千利休の養子で娘婿。千宗旦の父)が小座敷に突上げ窓を二つ明けた。利休はこれを見て
「ありえないことだ。燕が羽を広げたようで見られたものではない。塞ぐように。」と言ったため、
少庵はその日のうちにこれを塞いだ。利休に見せると「これでよい」と答えた。

ところが後日、利休の小座敷に、少庵のものと同じように突き上げ窓が二つ明けてあった。
「これはどういうわけですか」と少庵が尋ねると、利休は言った
「数寄に親も子もない。私が二つ明けるために塞がせたのだ。」

(茶道四祖伝書)

えぐいな利休
0193人間七七四年2019/06/25(火) 08:38:11.01ID:XDrCfgpn
>>192
ジョブスの逸話思い出したわw
0194人間七七四年2019/06/25(火) 11:15:08.85ID:COqvQzwm
利休はとある茶師を大抜擢していまも続いてるブランドに押し上げたけど、そこにも裏話があったりするのかな?
0195人間七七四年2019/06/25(火) 23:29:17.61ID:H/k4ezxE
あそこは当主の弟上林竹庵が伏見籠城に参加討死して
幕府の庇護も得たのも大きいんじゃないの
0196人間七七四年2019/06/25(火) 23:35:41.04ID:93p5wq77
利休は唐物至上主義の海外厨だしな
0197人間七七四年2019/06/25(火) 23:36:17.61ID:6D0v9SUX
>>192
こういう奴だから切腹させられるハメになったのかもな
0198人間七七四年2019/06/26(水) 18:00:25.69ID:4xrHW1M3
【令和の戦い 参院選2019】静岡 野党間の遺恨
https://news.headlines.auone.jp/stories/domestic/politics/12487659?genreid=4&;subgenreid=113&articleid=12487659&cpid=10130017

国内 産経新聞
6/25 23:28 .

徳川家康が晩年を過ごした駿府(すんぷ)城など徳川ゆかりの地が数多く点在する静岡県。JR静岡駅前には合戦の指揮で使う「采配」を
握りしめる「徳川家康公像」がそびえ立つ。その家康像を背に、250年以上の太平の世の礎を築いた家康公の威光を借りるようにして
徳川宗家19代目の徳川家広がマイクを握った。

「私たちがこうして豊かな生活を享受しているのは菅直人内閣のおかげだ」

立憲民主党から出馬する徳川は23日、街頭演説で東京電力福島第1原発事故に触れ、対応に当たった菅政権のおかげで日本が救われたと強調した。
静岡が抱える浜岡原発の廃炉も訴え、消費増税中止や「アベノミクス」批判を展開した。

徳川が静岡選挙区(改選数2)を選んだのは「先祖代々縁が深い」から。選挙カーに徳川家の家紋である「葵(あおい)の御紋」を施すなど、地の利を
生かして支持拡大を狙う意図が随所ににじみ出る。地元の選対関係者は「静岡で『徳川』の知名度は抜群だ。顔立ちもゆるキャラっぽい。
トップ当選を狙いたい」と鼻息は荒い。






19代様のあまりのご見識の高さに昇天してしまいそうな東北民です
列藩同盟もその場で崩壊するねこりゃ
0199人間七七四年2019/06/26(水) 21:37:30.77ID:kvO1uRbV
い、いま静岡では義元が見直されてるところだから(震え声)
0200人間七七四年2019/06/26(水) 23:02:59.75ID:vELgf2jt
廃嫡されてるとかじゃないのこの人
0201人間七七四年2019/06/26(水) 23:04:51.66ID:sprWiwgc
大殿乱心!
(以下、悪い話に続く)
0202人間七七四年2019/06/27(木) 01:52:22.96ID:D2BorQg4
もし菅が有能だったら今京兆とか言われたんだろうか…
0203人間七七四年2019/06/27(木) 11:28:14.79ID:kNBXT4tI
令和の御世に主君押込が復活するとは・・・。
0204人間七七四年2019/06/27(木) 11:38:10.51ID:6EbNIj5T
顔つきには血筋を感じないでもない
0205人間七七四年2019/06/27(木) 16:33:56.02ID:s44NIbyz
南部下野殿(宗秀)改易は信玄公28歳の時。山本勘介と申す大剛の兵は、武道の手柄ばかりでは
なく兵法上手であった。ある時に信州諏訪において南部殿家中の者・石井藤三郎という男を南部殿
が成敗致し、切り損なって藤三郎は逃げ回った。

折しも勘介はその近所に居当たり、勘介のいる座敷へ藤三郎が切って押し込んだ。勘介は刀を取り
合わせず、そこにあった薪雑棒を取り向かい受けて組転ばし、藤三郎に縄を掛けて南部殿へ渡した。
少しずつ手傷3ヶ所を負ったが、手傷と申す程のことでもない。子細は30日の内に平癒したから
である。とりわけ勘介は武辺の時も放し討ちの時も数度少しずつ手負い、86ヶ所の傷跡があった。

それを南部殿は悪しく沙汰なされるも勘介は何も言われなかった。この南部下野殿も甘利備前(虎
泰)・板垣駿河(信方)・小山田備中に続いて、少しは武辺の覚えもあるといえど噂で常に無穿鑿
なことばかり言い、遠慮もなく明け暮れ過言を申され、嘘をつきなさる。

無分別で山本勘介を憎み、「国郡を持たぬ者の城取・陣取。外科医者も大したことはないものだと
思うが、ましてや兵法使いが手傷を負っている」(国郡をもたぬ者の城取陣取、又外科医者もふか
き事あるまじきと思ふに、まして兵法つかひにて手を負たる)などと言って山本勘介を尽く悪口な
された。

目付衆・横目衆はやがてこれを御耳に立てた。信玄公は聞こし召し長坂長閑(光堅)・石黒豊前・
五味新右衛門を御使になされ、すなわち書立をもって仰せ下された。その御書の趣は「南部下野が
山本勘介という大剛の兵を悪口したのは無穿鑿である」とのことである。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』


山本勘介は一代で手傷を蒙ること63ヶ所なり。この内20ヶ所は信玄公の御家においてである。
子息(二代山本菅助)も若いながら2,3度良き事があった。一昨年に長篠において討死なり。

――『甲陽軍鑑(品第四十三 軍法之巻)』
0206人間七七四年2019/06/27(木) 23:54:43.76ID:vCWOOG6J
>>205
先祖の話だわ
これだけは今の時代まで親族から伝え続けてるわ
肥後守がまともな人で良かったと感謝もしてる
0207人間七七四年2019/06/28(金) 00:11:30.82ID:DTOY7Kmh
>>206
肥後守って南部宗秀の息子の河西肥後守満秀か
0208人間七七四年2019/06/28(金) 00:48:38.43ID:f3R5LZ75
>>207
そそ、肥後守が先祖なので自動的に下野守も先祖なんだわ
0209人間七七四年2019/06/28(金) 01:15:39.49ID:Or38vN5M
信玄公は書立をもって仰せ下され、その御書の趣は「南部下野(宗秀)が山本勘介という大剛の兵を
悪口したのは無穿鑿である」とのことである。(>>205

一、山本勘介のような小身の者の城取・陣取はまことらしからぬとの事は、物を知らぬ申されよう
  である。唐国周の文王が崇敬した太公望も大身ではあるまじき事。

一、兵法使いが手傷を負っているというのは、一入武士道無案内である。兵法とは手傷を負わぬと
  いうことではあるまい。手傷を負って相手を仕ほすのが本当の兵法である。ことさら其の方の
  被官・石井藤三郎が白刃のところへ、棒で向かって組倒したのならば、たとえ勘介が死んでも
  屍の上まで誉れであろうに、それを嫉むのは無穿鑿である事。

一、其の方南部の手柄は、家中の者である笠井と春日が両人で仕ったのを、自分の手柄のように申
  されたと聞き及んでいる事。

「この3ヶ条をもって成敗仕るべきであるが、それでは山本勘介もきっと迷惑に思うだろう。ここを
勘介に免じて命を助けるので、遠き国へ参れ」との仰せで改易致され、奥州会津へ行って南部下野は
飢え死になされたのである。

(南部宗秀の)70騎・足軽・旗本・その他は方々へ分かつ。春日左衛門・笠井備後は前述の南部両
おとな(老臣。3ヶ条中の春日・笠井)の子である。以上。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』
0210人間七七四年2019/06/28(金) 01:36:42.06ID:xIEGq9+P
そういえば十六代目の徳川家達は貴族院議員時代、シーメンス事件の余波でうっかり総理大臣になりかけたらしいと聞いた
0211人間七七四年2019/06/29(土) 01:57:08.33ID:vUiZFcjS
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス、幕府、ソノ首魁ヲ磔シ、余党ヲ誅ス

『駿府記』

7月7日、水野監物(忠元)が江戸より御使のために参着。(注釈:中略。七夕賀のことに係る)こ
れについて上意を得られたという。

江戸御番衆中の柴山権左(注釈:右)衛門は去る月25日、その小姓に科あってこれを殺した。する
とかの小姓の傍輩が側にいて抜刀し、権左衛門を刺し殺して逐電した。幕府はこれを聞こし召し、方
々へ追い掛けさせ給い、ついにかの者を虜にしてきた。

かの者が語って言うには、日頃約束して曰く「たとえ主人といえども理不尽のことがあれば、その仇
を報いるべし」との由で、連署して徒党を結んだのでこのようになったという。よって拷問して尋問
なさると、その党類を一々に白状した。その族は世に言うところの“哥部妓者(かぶき者)”である。

下鬢髪を切って狂紋所を染め、大刀長柄(原注:その刀には戯言を刻んだ)を帯びてその容貌は尋常
ならず。件の輩はかの白状を聞いて逃げ散ったが、これを捜索してゆうに70余人を搦め捕らえなさ
る。その他に逃げ去った者は5,60人。この如き者は、面々の家中に1人2人はいた。

さて穂坂長四郎など若年の数十人を拘束し、これをもってその所領を離されて、その番頭にその身を
預け置かせなさるという。

(徳川家康の)仰せに曰く、悪党を禁じ召されることは政道の肝心であり、すなわち駿府においては
この如き類はあってはならず、御糾明なさるものであるという。(注釈:『武徳編年集成』には「糾
明すべしとの旨を、町司の彦坂光正に命じられた」とある)

『慶長年録』

大鳥井逸兵衛(大鳥逸平)と申すかぶき者がいて召し捕らえられた。これは2,3年以来、江戸中の
若き衆、並びに威張る下々までが皆一味同心して“逸兵衛組”と称し、一同の思いをなして互いに血判
の起請文を書いた。

その趣は、「この組中はどのような事があろうとも、互いに身命を捨てて見馴染むべし。たとえ親類
父主でも思い替え、兄弟よりも頼もしくあるべし」と申し合わせた。

大将分は大風嵐之助・天狗摩(魔)右衛門・風吹は散右衛門(藪右衛門)、下の組頭は大橋摺右衛門
と申す者で、江戸中に充満して(注釈:『慶長見聞書』に7,8百とある)所々で辻斬りは絶えず。
その喧嘩は数度に及んだので、御法度に仰せ付けられ、「下々で左様の者は召し捕らえて断罪を仰せ
付ける」との由を仰せ出された。

ここに柴山孫作と申す者の家来はその組の小頭であった。孫作は聞いて大いに驚き、他所からの訴人
もいない中で「成敗してしかるべし!」と25日、権左衛門(孫作)は家来の者2,3人に申し付け
置いてかの者を呼び出し「手討ちに仕るべし!」と用意した。すると残る家来どもは皆かの者の組に
なり、「主にも替えてはならない!」と申し合わせて誓紙を書くと、家来は寄り合わせて主の権左衛
門を打ち切って出奔仕った。

これよりなおもって御法度は強くなり、方々の路次に関をそえて在々所々まで御穿鑿なされた。6月
の末に神田の町において夜五つ過ぎ、月夜に笠を着て通る者がいた。不思議であると申して町よりこ
れを捕らえて引いて来て見れ、ばかの主を殺した者である。すなわち宿を尋ねて道具を取り寄せ穿鑿
したところ、一味の悪党の名を書いた帳があった。その類5百人余りなり。

大将の大鳥井逸兵衛を御調べなさればその宿は八王子にあり、すなわち召し捕らえに遣したのである。
逸兵衛は高幡という所の不動堂に相撲見物に行っていたので、大久保石見(長安)家中の町奉行・内
藤平左衛門という者が高幡へ行き、謀って逸兵衛を召し捕らえた。

平左衛門も大力で逸兵衛も相撲の達者、互いに取り合い上下へ返すのを、逸兵衛は大勢より縄を受け
て江戸へ引いて参る。青山権之助(成国)の所に逸兵衛を召し置き、色々と御穿鑿し、水火の責めに
及ぶも逸兵衛は同類を1人も白状申さず。
0212人間七七四年2019/06/29(土) 01:58:56.39ID:9XrjuxYh
この逸兵衛は元来は本多百助(信勝)の小者で、勘解由と申していたずらな倅である。さる慶長の初
めに秀忠公御上洛の御時、百助が御供に参った時に伏見で小者どもが毎晩御殿の近所の辻で、草履の
詰め開き、馬の受け取り渡しを稽古致し、あまりにうとうとしたので、後に御法度になった。その大
将を召し捕らえ、百助の小者も大将で出奔致して佐渡へ逃げ入った。

それから大久保石見の家中で辻喧嘩など一両度首尾の良いことがあり、大久保石見守の目代・大久保
信濃と申す者が逸兵衛を侍に取り立てて召し使った。さて天性この者は利根で弓を上手に撃ち習い、
鉄砲も達者、兵法は槍、総じて侍の嗜みを残さず稽古致した。そのため中小姓に取り上げたうえ、馬
なども乗ることを許された。

その後、本多百助方より構い申すので大久保信濃はすなわち故主へと戻し、逸兵衛が百助方へ帰った
時、逸兵衛は下々4,5人を連れ、弓盾を持たせて犬を引かせ、乗り掛けてやって来た。百助もこの
体を見て「召し使っても詮なし」と衣服などを取らせ、4,5日過ぎると信濃方へ送った。その後、
討ち者などを首尾良く致し、さて信濃に暇を受けて江戸へ来ると、かぶき者の組を立てて棟梁となり、
ついにはこの如くとなった。

(注釈:『武徳編年集成』に「歌舞妓組の棟梁となり、八王子の下原康重作の刀に『生過二十五』と
いう文字を彫った物という。これを使って闘諍辻斬を好んだが、その刀はまことに下作ながら骨の切
れることはその類無し。逸平はこの年25歳なり」とある)

本多佐渡守(正信)・土屋権右衛門・米津勘兵衛(田政。初代江戸北町奉行)方において色々取り調
べたが「一度も申すまい!」との由を申し、何程強く御責めになるとも「同類は申すまい!」と全く
申さず、水責めの又者が脛をひしいでも申さぬ故、米津勘兵衛は「あまりに申しかねるならば、尿水
をくれて問え!」と申し付けた。

逸兵衛は大いに怒って「侍たる者に左様の拷問とは前代未聞なり! いかに罪科の重き者であるとも、
『官人の尸(屍)は平土の上に置かず』と聞く。これにより官人は尸の号あり(武士は死を称えられ
るということ?)。侍はまた侍の法による拷問の作法がある。

なんとまあ、物を知らぬ奉行かな! 左様の問い様をするならば、其の方の子息・勘十郎も私めと同
類だ! 勘十郎にも尿水をくれて問え!」と申して、その後は口を閉ざした。聞く人は「さてさて、
この逸兵衛は只者にあらず」と皆舌を巻いた。

(注釈:『慶長見聞書』には「御馬廻衆の御歴々7,8人を白状致す。その後、方々より白状あって
以上百人ばかりが出奔し申したのを召し出し、切腹、改易、追放なされた」とある)

7月7日、水野監物をもって駿河へこの由を仰せ上げられ、その後逸兵衛は江戸中を引き渡して機物
にかかり(磔にされて)同類は皆成敗。3百人ばかりが切られ、この内無体に死に申した者もいた。

これは当5月に同類が辻喧嘩を致し、相果て申した者がいて、これはこの組の中の牢人である。その
ため同類にあらずといえど、知人と寄り合って代物を用意致し、寺へ送って弔い仏事を致した。その
帳を寺から出したので、帳に付き代物を致した者は罪なくして切られ申す。後日にこの事は知られ、
「奉行衆の誤りではないか」と人は申した。

9月、江戸で今回逸兵衛の同類になった衆で方々に御預けとなった衆は、

米津勘十郎。勘兵衛の子。津軽へ。
岡部藤次。奥州南部。
井上左平次。半九郎(井上正就)の兄。佐渡へ。
保坂長四郎。金右衛門(大坂夏の陣の旗奉行)の子。越後村上へ。村上周防(忠勝)に御預け。
坂部金大夫。越後柴田(新発田)へ。溝口伯耆(宣勝)に御預け。

(注釈:『慶長見聞書』には以上の他に内藤小伝次、大久保源之丞の2人を加える。また『武徳編年
集成』には逸平を梟首したこと、及びその党を斬戮したことを7月に係けている)
0213人間七七四年2019/06/29(土) 01:59:33.88ID:9XrjuxYh
『津軽旧記』

慶長16年(注釈:17年)、柄木田勘十郎(米津勘十郎)御預け。これは公儀御町奉行・柄木田勘
兵衛(米津田政)の子息なり。大取市兵衛と申すも(者の?)御穿鑿に付き、御預けの旨。後に元和
3年、御許しによって罷り上り申す。

(注釈:これより先に煙草の事に因り、悪徒が組を成して京都にいたこと、並びに茨組のことは14
年7月の煙草禁止の条に見える。

この後、寛永6年10月18日、幕府は京中に令して町人が長刀を帯びることを禁じ、ついで慶安元
年2月22日にはその長刀を帯びてかぶきの体を為すことを禁じ、5年正月20日に至り、さらに大
いにかぶき者を逮捕した。かぶき者・町奴・男伊達・侠客などの事がまたその条に見える。

ついで同年2月3日には町人がかぶきに扮することを禁じ、また幡随院長兵衛が殺されたことは明暦
3年7月18日に。任侠の徒を禁ずることは同月22日に。水野成之を刑したことは寛文4年3月2
7日に。さらに男伊達の徒を禁ずることは寛文5年6月に。平井権八を磔にしたことは延宝7年11
月3日に。男伊達の者らが町家に強請することを禁ずることは宝永7年4月に、各々条あり。参照す
べし)

【参考】(>>169

――『大日本史料』
0214人間七七四年2019/06/29(土) 06:49:03.76ID:ziUySTGo
男伊達に草生える
0215人間七七四年2019/06/29(土) 08:59:39.43ID:/SeNJM5V
>>211-213
かぶき者の勢力がすごいことになっとるwこういうの放置してるとそのうちヤクザの組になるんだろうなー
0216人間七七四年2019/06/29(土) 11:04:07.74ID:00Yqoxvp
警察官とヤクザは人間的には同類っていわれてますし
0217人間七七四年2019/06/29(土) 20:55:20.66ID:2+Bij+Sw
まとめの8778
「豊国祭礼図屏風」(伝・岩佐又兵衛作)について
の「豊国祭礼図屏風」の太刀の鞘に
「生きすぎたりや廿三」と書かれているように
かぶき者の間ではかなりの流行語だったようで
0218人間七七四年2019/06/29(土) 21:38:24.11ID:giT/Oas0
隆慶一郎の小説でよくあるあれだ
0219人間七七四年2019/06/30(日) 00:39:14.11ID:raA9xB2O
私(久保長闇堂)の庭前にある七尺堂は、東大寺大仏再建の聖である俊乗上人の御影堂であった。
中井大和守(正清)がそれを建て替えられた時、その古い堂が古びて趣深かったので、ある人に頼んで
前栽の中に移し、繕って茶処に用いたのである。

堂の内はわずかに七尺(約2.1メートル)四方、その中に炉を入れ、床と押入と水屋がある。
水屋に茶道具を仕舞い、床に花や掛物を飾って、押入床を持仏堂に構えて、阿弥陀の木仏を安置した。
茶会をしても、狭いということはない。

鴨長明は維摩(居士)の方丈に倣って隠居し、人と交じわらない事を楽しみ、ただ一筋に阿弥陀を頼った。
私の堂は方丈より小さいとは言え、多くの人を招いて茶の湯をしているため、浄名居士の獅子の座には
叶っていると思う。そんな私がどうして鴨長明を理想とするだろうか。阿弥陀の木仏は俊乗上人の古堂に
ふさわしいと思って安置しただけであり、私には阿弥陀を頼もうという気持ちはない。俊乗上人は法然の
弟子であるから、上人に礼儀を尽くしただけなのである。

江月和尚が江戸に居られた時に私はこの堂を営んだため、用があって書状を差し上げたついでに、この事を
述べて、この阿弥陀の狂歌として

 狭けれど 相住みするぞ阿弥陀仏 後の世頼みおくと思うな

と書き付けて送った所、やさしくも詩歌をもって答えられた

 観音は 同坐とこそは伝えしに 相住まいする弥陀は珍し

 盡大三千七尺堂 堂中同坐仏無量
 自由一箇自然楽 今作西方古道場

そのようであったが、ある時(小堀)遠州殿が来られたので、この事を語って「額を一つ書いていただきたい」と
頼んだ所、微笑まれて「それでは」と、『長闇』の二文字を書き付けられた。私が「どのような意味ですか」と
尋ねると、遠州殿は

「昔の鴨長明は物知りで、智が明らかなので「明」の字が相応しい。一方あなたは物を知らず、智は暗く、しかも
方丈を好まれている。よって鴨長明から「長」の字をとり、また「闇」はその心である。」と笑われた。

そうしたわけで、この七尺堂を「長闇堂」と名付け、「長闇子」を私の表徳号とした。

(長闇堂記)
0220人間七七四年2019/06/30(日) 18:00:42.20ID:jSCm0gOK
うーん、どう解釈して良いのか謎だ
0221人間七七四年2019/07/02(火) 00:24:13.86ID:bhPTTZ/Z
内々以使者可令申之処、惣印軒可参之由承候際、令啓候、信虎女中衆之事、入十月之節、
被勘易巫可有御越之由尤候、於此方も可申付候、旁以天道被相定候者、本望候、就中信虎御?居分事、
去六月雪斎并岡部美濃守進候刻、御合点之儀候、漸向寒気候、毎事御不弁御心痛候、一日も早被仰付、
員数等具承候者、彼御方へ可有御心得之旨、可申届候、猶惣印軒口上申候、恐々謹言、


(内々に使者を出して申し述べるべき所ですが、安星惣印軒がこちらに参ったことを承りましたので、彼に
伝えました。(武田)信虎殿の世話をする女中についての事ですが、10月に入った頃に、占いなども鑑みて
遣わされるとの事、尤もだと思います。こちらに於いてもそのように申し付けておきます。
あまねく天道によって相定める事は、本望でしょう。

なかんずく信虎殿の駿府での生活費についての事ですが、去る6月にこちらから(太原)雪斎と岡部美濃守(久綱)
を遣わしたおりに合意した事であり、だんだん寒気も増してきて、何事にも御不便され、御心痛されています。
一日も早く仰せ付けられ、その生活費を承った者を信虎殿の元へ遣わされるべき旨を心得られるようにと
申し届けました。なおこの事については惣印軒より口上にて申し上げるでしょう。恐々謹言。)

     九月廿三日    義元(花押)
    甲府江参

(天文十年九月二十三日付、武田信玄宛て今川義元書状)

今川義元より武田信玄へ、「信虎さん困ってるから仕送り早く届けろ」という書状である。
0222人間七七四年2019/07/02(火) 19:02:50.69ID:Clh68Acw
そういやツイッターで、「能ある鷹は爪を隠す」とかのことわざは「北条氏直時分諺留」が元らしいがなんで北条なのか、
なんて書き込みを見つけたのだが、詳細は国会図書館デジタルコレクションで『諺の研究』(藤井乙男、昭和4年)の
229ページと238ページを参照のことだね。
0223人間七七四年2019/07/02(火) 19:52:44.70ID:ixlhX9sa
>>221
義元さんも困るわなそれは
ただでさえ厄介な人押し付けられてるのに
0224人間七七四年2019/07/02(火) 20:17:55.08ID:AsuUgu9e
>>221
生活費自分で稼がせれば…いや下手に定期収入得ると怖いなこのおっさんはw
0225人間七七四年2019/07/03(水) 02:38:55.24ID:Xi9PJ/pM
古田織部殿に取り立てられた服部道巴が、遠州殿(小堀遠州・政一)を茶会に招いた時、
その供として私(久保長闇堂)も同道した。その帰り、私が「さても見事な数寄者でした」
と申した所、遠州殿は「一段と不出来な仕方でした。」と批評した。
「なにかお気に入らぬ事が有ったのでしょうか」とお尋ねすると

「そうです。炭手前をした時、彼は前の大炭へ火がよく廻ってしまっていたのを失敗と思い、
動かして隠し、火気を丁度良く見事な状態にして炭を置きましたが、これは道巴には似合わぬ
事でした。悪くなるのは仕方のないことです。それを良く見せようと思う心は、初心の仕方です。」
そう言われた。

(長闇堂記)
0226人間七七四年2019/07/04(木) 01:54:58.94ID:lsPqjLpR
一、天文21年(1552)に阿波国の館・細川讃岐守持隆を、家臣の三好豊前守義賢が討ち取った後は、
  細川の領地はすべて義賢が知行した。三好家はますます威勢を増した。さて義賢は弘治の頃、法体して
  “実休”と号し、五畿内所々に一門を居置いて、おのずから天下の執権を司る。

  しかしながら三好家は細川の家来であることにより、三好の執権を諸国の守護は大いに嫉み、そのうえ
  奢りを極めて我意に任せた故、将軍義輝公も以ての外憎みなさった。

一、三好山城守(康長)・同下野守(宗渭)・同日向守(長逸)・松永(久秀)らが評議したことには、

  「今回の両度の合戦(>>111)はまさしく義輝の御計らいである。そうであるからには我々の行末はしか
  るべからず。深慮を巡らせて義輝を討ち奉り、中国の義冬(足利義維)を都に据え置いて、一族中を心
  安くするべきである」

  と、永禄6年(1563)の秋に三好日向守は周防へ下り、義冬へ申したことには、

  「徳雲院殿(細川持隆)が果てられなさったことにより、ここへ御下向されたことは我々にとって面目
  もなきことですが、しかしながらその折に、我らが実休に組しなかったことは御存じなさることでしょ
  う。実休は天命によって高政(畠山高政)に討ち果たされました。

  さて高政と喜三の両陣は、義輝公の御計らいでございます。実休のことはもっとも悪逆の者なので(義
  維が)御憎みなさるのも道理です。別儀なき我らを御憎みなさることは以ての外です。そうであるから
  には、行末でさえも心安からぬのです。かれこれ時節は到来仕りました。このうえは、三好一家として
  兵を起こし、尊公(義維)を一度御代に立てて三好一族も安堵申したいのです。

  しかしながら尊公が遠国におられては評議もなり難く、まずは阿州へ御帰りなされませ。実休の息男・
  長治は阿州におりますが、かつては幼少でございました。そのうえ父の実休も尊公を疎略には存じてお
  りませんでしたし、また彦次郎(三好長治)は義輝を親の仇と存じていますから、尊公へ少しも別心は
  ありません。早々に思し召し立ちなされよ。そのために一家中より某が御迎えに罷り下り申しました」

  と色々道理を尽くして申したので、義冬は満足なされて早々に思し召し立ちなさったが、「この事を一
  先ず大内介(大内義長)に知らせなければ」との内意があると、大内ももっともとは思いながらも、他
  家の取り仕切りで義冬を代に立て申しては、大内の外聞は良からずと思ったのか、「仰せはもっともで
  すが、私めに存ずる子細がありますので、まず今回は御無用になされませ」と、強いて止め申すことに
  より義冬も日向守もどうしようもなくして、日向守は「罷り上ります」と港まで出て行った。

  義冬は名残惜しく思いなされて、義親(足利義栄)と2人で船着きまで送りなさったところ、三好は船
  から申し越して「今一度申しておきたいことがございます。恐れながら少しの間、船へ御召しなされま
  せ」と申せば、何の思案もなく義冬親子は共に船に乗りなさった。

  すると日向守はかねて家来の者に言い含めており、そのまま船を押し出した。義冬はどうしようもなく
  おられ、折しも順風で難無く阿州に到着して、元の平島の庄に帰る。彦次郎を始めとして三好一家は残
  らず伺候致した。そして日向守は諸事を計らい、領地も相違なく渡した。

――『阿州将裔記』
0227人間七七四年2019/07/04(木) 03:31:42.40ID:ggM6iep6
>>226
永禄6年なら大内義長は死んでますね
年次の誤りか別の誰か?
0228人間七七四年2019/07/05(金) 01:56:33.78ID:mC5kOoJC
(前略)しかればその太郎信勝公(武田信勝)11歳の時、小姓衆多き中にて近習である友野形部の
息子の又一郎と、日向源藤斎の息子の伝次とで「扇切りを致せ」と太郎殿は仰せになった。

その時、友野又一郎は腰に差している扇を抜く。日向伝次は手に持っている扇を腰に差して、指を立
てて向かう。その時に信勝は「はや見えたるぞ、置け。せぬ扇切りに伝次は勝ったこと、逸物の心で
ある」と褒めなさり、日向に褒美を遊ばす。

これを高坂弾正は聞いて曰く、

「この御曹司太郎信勝は近代の名人の大将衆、安芸の元就・北条氏康・北越の輝虎(上杉謙信)・尾
州信長・三州の家康・祖父信玄公の幼い頃に似ている。そのような信勝でおありならば…」

と、只今武田の家は万事政事みだりになり、一昨年長篠にて勝頼公は御分別相違なされた故、長坂長
閑(光堅)・跡部大炊助(勝資)両人の諫めをもって信玄公取り立ての衆は尽く討死して、なお家風
は悪しくなった。そうしてついに武田が滅却してしまえば、太郎信勝の良き生まれ付きも要らず、空
しく相果てなさるだろうと、涙を流すばかりであった。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』
0229人間七七四年2019/07/05(金) 18:08:57.65ID:SJY8LEsO
>>228
戦わずして勝った?それとも逃げるが勝ちっていう精神勝利法を意味してるの?
確かに長篠では決戦せずに退却していればよかったんだろうけどさ、家康と信長を同時に討てるチャンスはこれ逃したらもう無かったろ
解説お願いします。
0230人間七七四年2019/07/05(金) 21:28:01.80ID:+PSLviV1
森武蔵守土岐三河守を討つ

可児郡兼山城烏峰は、永禄年中に信長公の下知によって森越守可勝(越後守可行)が城主であった。その
子・三左衛門可成を経て、武蔵守長可に至って当時は信濃にいたのだが、信長の凶変(本能寺の変)を知
ると急いで帰って領地の可児郡木曽川を限り、恵那・土岐三郡の内7万5千石を有す。ただし妻木領はそ
の他である。

さて妻木(広忠)の舎弟・喜十郎頼明、及び妻木長兵衛頼知の嫡男・久右衛門惟知両人は森長可へ降って
旗下となる。惟知は名を“日本六蔵”と改める。

長可は久々利城を降さんとの意あり。されど三河守(久々利頼興)は文武二道の達人なので、容易に討つ
ことはできないため、方便をもって討とうとする。天正11年(1583)正月、使者を送り、とにもか
くにも打ち続いている疎遠を謝罪し、さて軍議仕りたいので御大儀ながら御来駕を待っている由を、慇懃
に申し送った。

三河守は返答して「口上の委細は承知したけれども近頃は不快(病気)に付き重ねて折を得て、もって参
上致そう」と使者は復命した。長可は重ねて使者を遣わして言う。

「御所労に付き御出馬なき由ですが、当節は取り分け穏やかならぬ砌ですから御疑いもありましょう。貴
殿は信長公の御噂でも、『近辺に肩を並べる者はなし。味方にしたいものだ』と仰せられた程で、貴公よ
り他に頼む方はおりません。御疑いを散ずるがため、舎弟の仙千代(森忠政)を人質に遣わしますので、
隔意なく水魚の思いをなされてしかるべきです。もし御来駕が長引くに及びますれば私めが推参申します」

と、清げなる若武者を仙千代に作り立てて乗り物に取り乗せ、侍2人を差し添え日本六蔵を使者にして、
程なく久々利へ赴いた。三河守に対面して弁舌あざやかに言い、巧みに述べたところ三河守は易々と方便
に落ちて気を許し、「再三の御使者、殊に人質まで御念の入ったこと痛み入る。それならば明日参上して
御意を得申すべし」とのことであった。

よって人質ばかり返し置き(残し置き?)、程なく日本六蔵は首尾良く立ち帰り、ただちに登城してこの
由を武蔵守に告ぐ。武蔵守は喜ぶこと限りなく、ただちに佳酒美肴をもって歓待した。

翌朝、三河守は烏峰に入る。武蔵守は対面してその厚遇に至らざることなし。三河守曰く「御相談の事が
あるとして再度の使者、殊に我が疑いを散ずるがために人質を送られた心底分明、どうして疑おうか。故
に舎弟の仙千代殿と同道して来城したものである」と仙千代を返す。

武蔵守はいよいよ喜び「御承諾のことは大慶浅からず。さてまた相談の事とは他でもない」と雑談を繰り
返し繰り返し、酒を持たせて饗応した。その時の吸い物は鹿だという。台所は狼狽えて生の鹿を出した。

盃が終わって三河守は退城しようとする。かねて合図していた者ども8,9人はこれを送った。城の坂の
東にかかり、板の洞の大道に達する頃に「帰られよ」と言って、三河守が何心なく馬に乗ろうとしたとこ
ろを、戸田勘右衛門(勘左衛門)が抜き打ちに肩先から脇腹にかけて切り落とせば、従者も案に相違して
驚き入り、抜き合わせようとしたが敵い難く是非もなし。皆散々に逃れ帰った。

かくして三河守の首を取り、実検に備える。長可は「仕済みたり」と喜んで久々利を押領し、戸田勘右衛
門を置いて守らせた。

――『妻木戦記』
0231人間七七四年2019/07/07(日) 04:07:09.23ID:2ZKpV0XZ
森武蔵守平井頼母を討つ

岩村城主・森蘭丸は京都本能寺の変に殉じたので、森氏家中の各務兵庫(元正)を城代に遣わした。土岐の
高山・小里及び明智分は城附である。

高山の城主・平井頼母方へ森長可は使者をもって曰く、「貴殿の領地は当方の朱印の内なので、紛れもなく
当家中である。そうであるからには金山に屋敷を渡し申すので、近日参着して受けとるように」と。平井は
使者に対面し「下命の趣、つぶさに承る」と言って、急に返状をしたためて使者に渡した。

 来命を受けるといえども、いささか承知しがたい。

 さて私は元来播磨国に城を有し、昔より数代の将軍にかしずき、諸騒乱の時のみならず木曽の戦の砌に
 は、織田信長公に従って木曽路に迫り、丹波国の住人・西尾某は3百余人を率いて上海道を固めて、土
 岐郡釡戸境権現の城を守った。某もまた2百余騎を率いて伊賀・伊勢・尾張から下海道の要害として当
 城を固め、ついに軍功をなして自力の働きあり。

 しかるに何故、今新たに武蔵守に属すというのか。まったくもって思慮に及ばぬなり。よって返状かく
 の如し。

         天正11末年(1583)正月      平井頼母佐

                  森武蔵守殿

この返状が武蔵守のもとに至る。武蔵守はこれを見て「頼母方は当方の領分でありながら、謂れなきこの言
い立て、近頃のわがままな振る舞い以ての外である! 高山の城へ押し寄せて討ち取るべし、用意せよ!」
と命ず。時に森主水が進んで曰く「今の治平の世に、私に弓矢を弄んではこれ偏に乱を好むようなものです。
私がよろしくこれを処しましょう」と。武蔵守が主水に任じると、主水はすなわち家中の高木与一を久々利
に招いて、密かに内談した。

与一は分別して「まず私が高山の城主・頼母に対面して、計略をもって我が方へ招き寄せて詰腹を切らせま
しょう。私に了見があります」と言い、高山の城へ馳せ参った。頼母に対面すると慇懃に一礼を述べ、次に
「今日某が来城したのは別儀にあらず。この度、貴方より武蔵守へ返状した趣を、君公(長可)は甚だしく
立腹しています。しかしながら私がよろしく取り成し、そのうえ和睦を取り繕うとしています。内談もして
頂ければ」と来訪を勧めた。頼母はその好意を感謝し、「明日推参する」と約束した。高木与一は急ぎ立ち
帰り、屈強の武者2,30人に旨を含めて、頼母が来るのを待った。

平井は家老の土本某とその他家来2人を連れて、久々利に高木を訪ねた。与一は迎え出て、山海の珍味でこ
れを遇した。予め用意した兵どもは広縁の先に出ると「森武蔵守の命である! 平井頼母急ぎ切腹せよ!」と
大音声で呼ばわった。

平井は思いも寄らず「そのこと心得難し! 誰かある!」と呼べば、随行の家老を始めとして部下2,3人が
太刀を抜き、切り出て守り戦うも衆寡敵せず、多勢に切り立てられついに土本は討たれ、他の者どもは皆逃
れ去った。平井も今や叶わぬと思ったのか押し肌を脱いで、「口惜しや! 高木に謀られたるか!」と腹を十
文字に掻き切って死んだ。与一は立ち寄って首を掻き、ただちに武蔵守に送った。

この報が高山に至る。頼母の嫡子・巳之助はすでに13歳の時に母と離別し、今また18歳で父を討たれて
愁嘆限りなし。頼母の妾のまのという者は腹に子を持っていた。

時に巳之助は命長らえても仕方のないことと既に切腹せんとするのを、まのはすがり付いて「どうして切腹
するのです! 播州には一門多し、一先ずはかの地へ忍び、両親の御菩提のために出家しなされ! まず私の
故郷である渡合の里に姥母の家もありますから、ここへ忍ばれませ。幸いにもまた、虎渓山の慶徳院の僧は
播州生まれで、先君と縁だと常に承っておりますから、播州への案内も私から願い出ましょう。それ故、急
ぎ渡合の里へ忍びなされ!」と諫めれば、巳之助ももっともであると部下1人を連れて渡合へ落ちて行った。
0232人間七七四年2019/07/07(日) 04:14:45.25ID:2ZKpV0XZ
小里城主・和田彦五郎、明智城主・遠山民部(景行)らはこの由を聞き、密かに城を開けて各々立ち退いた。
さて小里・明智の両城主は三河辺りに隠れる。武蔵守は高山の次第を聞き、林長兵衛(為忠)を城代とする。

さて林長兵衛はその城下の百姓どもを召し寄せ「この度、平井の一子・巳之助が落去した。所在が分かった
らただちに当方へ知らせよ」と命ず。百姓どもは村々家並に触れを出した。しかるに渡合にいたまのの母は
この由を聞いたことにより娘に密かに告げ、「巳之助を匿ってもし高山に漏れ聞こえたら、どんな憂き目に
あうかも計り難い。密かに訴人して汝も我も命を逃れようと思うがどうか」と語った。

まのは思って「さてはもはや命のほども知れた老母! 今際も知れぬ歳で訴人し命長らえようと計る所存は、
親子ながら恨めしい!」と申せば老母は手持無沙汰の顔をして、ただしおしおと立ち出て後ろの山に登って
行く。まのはこの様子を見るなり「さては訴人するか!」と合点して、老母の心底委細を巳之助に告げた。

巳之助は「そうだろうな。某はこのように世に落ちたのだから是非もなし。討手が向かうなら討死する所存
である。汝は若君を連れてここから妻木の家中に忍び、中垣助右衛門を訪ねて行って、この由かくの如しと
頼み申せ」とあって、まのは仰せを承る。

「私とて女であっても心は男に違いありません。この若君を刺し殺して御最期の御供申さん! たとえ討手
が50騎,百騎来ようとも私が防ぎ申します! 主君はその間に御自害なされよ!」と、まのは足を上げて
力足を踏めば、大地も動くほどであった。

巳之助もこの有様を見て「汝は常に柔和に見えたが今の有様は、まことに木曽義仲の妾の巴とやらもどうし
て汝に勝てようか。たとえ軍兵50騎,百騎が押し寄せてくるとも恐れるに足らず。けれども今を限りの我
が命、所詮長らえることはできない。是非若君を連れて落ち、成長すれば父母、次には私の忌日も語り知ら
せて菩提を頼むぞ!」と是非に是非にと促せば、まのも今は力及ばずして「主君の仰せならば」と泣く泣く
妻木の城下へ落ちて行った。

そこへ討手の大勢が馳せ来たり「頼母の一子・巳之助がここにいる由により討手に向かった! 早く御切腹
あらせられよ!」と呼ばわると、「平井の一子・巳之助これにあり!」と言うやいなや太刀を振りかざして
受けつ開きつ戦ったが、さしもの大勢に切り立てられて思わず後ろのいり(圦か)へ落ち込んだ。討手の者
どもがこれを見て、松明に火を付け振るが如くに投げ込めば、どうして堪えられようか、ついに巳之助は空
しくなりにけり。討手の者どもは首を取り、勝鬨を揚げて帰った。

また、まのはようやく妻木の城下に着き、中垣助右衛門を訪ねて泣く泣く始終を語れば、助右衛門はこれを
聞き「さても頼母氏は切腹、巳之助も今を限りとは痛ましき有様なるかな。願いのままに親子諸共匿い申す
のは安きことだが、ここは高山に程近い。幸い尾州品野の里に永井作右エ門という私の縁者がいる。私から
書状をもって頼み送ろう。まず今宵はここで休息せよ」と心を尽くして言った。

まのは一入力を得て当方の子を抱いて中垣に向かい「このうえの情には、この君は未だ名もありません。名
を付けて頂ければ生々の情でございます」と申すと、中垣は「しからば」と自分の名を形取り“平井助五郎”
と呼ばしむ。程なく夜も明ければ、仲間1人を添えて尾州品野村の永井氏へ送られた。作右エ門は承知して
「5年,10年匿い申そう!」と頼もしく申されたので、諸共に安堵したのである。

かくて助五郎まだ7歳の時、土岐郡の某はかねてこの事々を詳しく伝え聞き「養子にしたい」と永井氏へ申
し入れると、永井氏は「いかにも所望に任せよう。しかしながらこの人は深い由緒のある者なので、養子と
なされても平井の名字を名乗らせられたし」と、肥田の某の方へ送り遣わした。しかるにこの時は森長可は
討死して、舎弟の森右近忠政の代であった。

――『妻木戦記』
0233人間七七四年2019/07/09(火) 00:25:24.04ID:0PpH8yMY
三斎公(細川忠興)は、父幽斎より譲られた肩衝(茶入)を、心にかなわないと安国寺恵瓊へ一千貫で売られた。
その後、安国寺恵瓊が処刑された折、この肩衝は徳川家康公の元に献上された。

ところで安国寺恵瓊の処刑の原因と成った石田三成の乱(関ヶ原の戦い)の時、津田平左衛門(正しくは小平次、
秀政)が家康公に
「天下がお手に入ること必定でしょう、その仕置の際、多数の肩衝が献上されると思います。その中から
必ず拝領をいたしたく思います。」
と申し上げた所、家康公は非常に機嫌よく「そのこと、そのこと」と申された。

合戦後、予想した通りに1日だけで肩衝が16も献上された。この時津田にも新たに領地を与えるとの
上意であった所、「忝ない事ですが、青野ヶ原(関ヶ原)で申し上げましたように、御加増よりも
御茶入を拝領いたしたいのです。」と重ねて言上したため、「尤もである」と、この安国寺肩衝を拝領した。

その後これを三斎公が一万貫で買い取り、中山と銘をつけた。
(筆者注:この時忠興は安国寺肩衝を黙って懐に入れ持ち帰り、後で代銀を届けたという)

この肩衝を見た時、三斎公はこのように詠まれた

 年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山

これは西行法師が関東での修行から帰る時に詠まれたもので、「下るときはまた越えねばならないとは
思っていなかったのだが、今越えることとなった。命が有ればこの佐夜鹿峠のような難所を越えるという
憂鬱な目にも逢うものだ。」という意味である。

この茶入は子息の越中守(忠利)に譲られましたが、後に越中守は金子1600枚で酒井宮内少輔(忠勝)に
売却されたという。

(三斎伝書)
0234人間七七四年2019/07/09(火) 00:55:25.67ID:BTnI+Yho
>>232
戦国の世とはいえ読んでてつらい
0235人間七七四年2019/07/09(火) 15:32:28.95ID:xtfu1St6
大神君(徳川家康)は忍の近辺で御鷹野をなされた。その節、岩松万次郎殿(守純)は御先祖である
新田の御末葉で、御尋ねになったところ新田に幽居して郷民どもは尊敬し、助力仕っているとの由が
御聞に達した。

そこで御会い遊ばされる旨を仰せ出された。これにより(岩松が)忍に参られて御目見した時、岩松
は、当家は嫡流で大神君は御末葉(当流之嫡流大神君には御末葉)との由を以前から家自慢申されて
おり、御前でも同様で、「内府は結構な御巡り合わせです。目出度い(内府は結構之御仕合目出度)」
との由を仰せ上げられた。

これにより大神君も驚き思し召し、御物も仰せられず内に御入りになったという。その後「餓死せぬ
ように」と仰せ出されて、御代官所より20石ずつを進め来たるという。

忠秋公(阿部忠秋)が忍を御拝領の折、御代官中より申し継いだので此方様方(忠秋)より20石ず
つを岩松殿に進めなさり、その後、厳有院様(徳川家綱)の御代に忠秋公は仰せ上げられ、岩松は御
先祖様の御筋目なので御知行を下されるように御世話をなされた。

当時は万次郎殿(富純か)の御亡父(秀純か)の御代で、御知行の屋敷まで御拝領を仰せ出された。
御知行の場所も良き所を渡すように御代官所に仰せ渡しなさったので、此方様(岩松)は御家の御厚
恩と思し召したとの由で、御知行の所も百石御拝領したところ、3百俵程を納めたという。

屋敷も3万坪あって林の惣囲いだという。“田島の屋敷”と申す。

(原注:義貞公(新田義貞)の御居城は分かっているけれども、御当家(徳川家)御先祖の有親公・
親氏公の御居住の場所は分からないという。もしかすると、只今の万徳寺比丘尼の所に大木などがあ
り、景色は常ならぬ場所というが、「ひょっとして、ここでもあろうか」と岩松万次郎殿は仰せられ
たという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』
0236人間七七四年2019/07/09(火) 21:03:41.02ID:g5uv+C8i
系図貸してって呼び出した時のお話か
岩松は足利義兼の庶長子の出であり且つ源姓畠山の祖でもあるからプライドは高いんだろうなあ
0237人間七七四年2019/07/09(火) 23:28:48.29ID:AaMMFxaz
岩松家を下克上し、守純にとっては親父の仇・由良氏を召抱えてて
そんなのが新田を仮冒して一門面して会いたいって言ってきたわけで……
皮肉の一つもいいたくなるでしょ
0238人間七七四年2019/07/10(水) 07:56:39.66ID:EhSynLtZ
なるほど
そうでもなきゃ神君怒るよね
0239人間七七四年2019/07/10(水) 15:49:22.27ID:XPK8fwud
(前略)ところが明成(加藤明成)は闇将で武備を守らず、ただ金銀珍器を好んで臣庶国
民の困窮を顧みず、諸人の肉を削っても金銀となして集めることを喜んだ。

その金銀を集める時は、皆一分にして取り集めた。時の人はこれを“加藤一分殿”と称した。
(原注:“式部”と“一分”は発音が近い故、そのように言ったものか)

これ故に金銀財宝は蔵に充満した。私欲は日々に長じ、家人の知行、民の年貢にも利息を
掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割り付けて取った故、家士の口論、商工の公事喧
嘩は止むことなし。これ故に老臣は心を合わせ、一同にこれを諫めても聞かず。(後略)

――『古今武家盛衰記』
0240人間七七四年2019/07/10(水) 21:06:40.96ID:txMoZn0l
寛永十四年十月五日 吉田御屋敷、三斎様御茶湯、御座敷開き
                辻七右衛門殿、久重、誓願寺永玉、守顕。(茶会記略)

三斎公(細川忠興)が薄茶入を出された時、辻七右衛門殿が「この茶入はなんと言う名でしょうか。」
とお尋ねになった所、三斎公は「吹雪と申します。」と答えられた。

「この茶入の形は三斎様のお好みであると、世間では言われています。」と七右衛門殿が申されると、
「いやいや、これも利休が形を切り出されたものです。しかし最初に私が写したので、世間でそのように
言われているのでしょう。」と答えられた。

三斎公は、唐物茶入を持たずに、瀬戸の山の井肩衝(古田織部が天下一と称賛した古瀬戸肩衝)ばかりを
秘蔵していてもいかがかと思われ、唐物を持った上で、瀬戸を唐物よりも秘蔵すれば良いとして、
古田織部に、彼は所蔵する勢高肩衝(織田信長が所持し、本能寺で罹災した)を所望した。

すると織部は「金子二千枚頂ければ進上いたします」と返答した。三斎公が「肩衝に金子二千枚も出す
取引は聞いたことがない。」と申されると、
「それでは金千枚と、山の井肩衝を残りの千枚分として頂きたい。」と言った。

これに三斎公は
「それは駄目だ、勢高肩衝を所望したのも山の井のためであり、それは出来ない。」
とお答えになったという。

(三斎伝書)
0241人間七七四年2019/07/11(木) 11:55:14.96ID:WC8s2TiO
世宗大王(セジョンデワン)は1450年(世宗32年)2月14日に
同副承旨の鄭而漢(チョン・イハン)にこのような言葉を残した。
崩御3日前だった。結局、これはは遺言になった。
「倭(日本)と野人(女真族)への対応は簡単な問題ではない。
平安に浸っていれば気が緩まないか本当に心配だ。
日々気を引き締めて問題がないようにしなければいけない」

(『世宗実録』)
以下略

ソース 中央日報 
【コラム】無知または無視:韓国の日本対応マニュアル
0242人間七七四年2019/07/11(木) 12:08:12.99ID:WC8s2TiO
朝鮮王朝実録の宣祖修正実録には、1592年に外敵が侵入した時に
朝鮮がどれくらい無防備だったかが赤裸々に記されている。
外敵は20万人を徴発したが、実録には
「釜山(プサン)で見張りをしていた官吏が最初に来た4百余隻を報告し、
辺将が最初の報告を受けたものだけを根拠にこれを実際の数と見なした」
と記されている。

それで
「敵の船は4百隻にも及ばないが、一隻に乗っている人員が数十人に過ぎず、
その概略を計算すれば約1万人ぐらいになると報告したので、朝廷もそのように考えた」
ということだ。

(中略)

1592年、釜山沖に倭軍が予告もなく攻め込んだわけではなかった。
その前年の1591年、朝鮮通信使に渡した国書を通じて豊臣秀吉は明を打つという考えを知らせた。
「一超直ちに明国へ入り、吾朝の風俗を四百余州に易え、帝都の政化を億万欺年に施すは方寸の中に在り」
と伝えた。明への道の途中に朝鮮があった。

ソース 中央日報
【コラム】1592年と2019年、私たちは変わったのだろうか=韓国(1)
0243人間七七四年2019/07/11(木) 12:09:38.55ID:WC8s2TiO
豊臣秀吉を直接見ても対策は分かれた。
秀吉を見た通信使の黄允吉(ファン・ユンギル)は朝鮮に戻ると
「必ず兵火があるだろう」と報告したが、
副使の金誠一(キム・ソンイル)は
「そのような情状は見つからなかった」と正反対のことを伝えた。

実録には秀吉を見た2人の官僚の全く異なる印象評価も登場する。
黄允吉は「眼光が輝いていた」としたが、
金誠一は「目がネズミのようだ」と比喩した。

実録には金誠一が朝鮮に戻る途中で
「通過する帰途でさまざまな倭陣で倭将が与える品物を誠一だけは断り受け取らなかった」
と記録した。
倭には何も要求しないという彼の所信だったのかもしれない。
だが、ネズミのようだという秀吉が送った倭軍は、
明の地上軍を碧蹄館(ピョクチェグァン)で撃破した当時の精鋭兵だった。

(中略)

倭軍との戦闘で釜山の辺将・鄭撥(チョンバル)将軍は
矢がすべて尽きると敵の弾丸を受けて戦死した。
東莱(トンネ)府使の宋象賢(ソン・サンヒョン)は抗戦を指揮し、
鎧の上に朝服を着て椅子に座っていたが、結局死んだ。
準備が整っていない戦争で、
現場の指揮官は死を以て倭軍と対抗しなければならなかった。

ソース 中央日報
【コラム】1592年と2019年、私たちは変わったのだろうか=韓国(2)
0244人間七七四年2019/07/11(木) 12:17:22.82ID:qPa1o5mb
コラム名に笑ってしまった。すまぬ
0245人間七七四年2019/07/11(木) 13:01:05.37ID:37oiW974
スレがスレだから仕方ないけど逆の立場だったら到底笑えるものではないかと
0246人間七七四年2019/07/11(木) 17:28:10.07ID:he4PPQoo
朝鮮がチベットで日の本が中共といったところか
壬辰倭乱で国土は荒廃し書物は消失して文化レベルが水準以下となり水車さえ作れないほどになった
日韓併合でインフラ整備してあげたがそれでもなお日本は朝鮮に対して賠償し続けなければいけない
何故なら日本は朝鮮の一部だからである

https://i.imgur.com/Rc56XJ1.jpg
0247人間七七四年2019/07/11(木) 21:25:57.73ID:6gXsWriM
油断しまくりだな
隣国の情報くらいちゃんと集められそうなもんだが
0248人間七七四年2019/07/12(金) 09:28:52.56ID:8FkbYNGa
もともと水車さえ作れなかったはず
0249人間七七四年2019/07/12(金) 16:30:42.87ID:ycVecxqD
3万石 渡瀬左衛門佐繁詮

太閤が卑賎の時から奉仕した。関白昇進の時に5千石を賜り、旗本の列となる。天正18年(1590)、
小田原の戦功をもって、遠州横須賀城3万石を賜る。ところが、秀次に悪行の詮議あり。渡瀬はその張本
人であることをもって、文禄4年(1595)8月に領地を没収し、佐竹右京大夫義宣へ預けられて常州
水戸へ配流(後に切腹)。


3万石 前野但馬守長康

太閤が筑前守だった時に馬廻に召し出され、前野庄左衛門と称す。賤ヶ岳では四番の軍列であった。後に
但州出石城主となる。長康も秀次へ悪行を勧めたことをもって領地を没収し、駿州府中城主の中村式部少
輔(一氏)に預けられる(後に切腹)。この将は加州の住人・富樫介(加賀守護富樫氏)の末葉で、後に
坪内と改めて、当時御旗本に奉仕した。


18万石 木村常陸介重高

重高は木村隼人佐の息男である。父の隼人佐は太閤が微賤の時からの老臣で、賤ヶ岳合戦の時は三番備、
柴田の先手を追い崩して越前まで突き入り、ついに勝家を自害せしむ。この功をもって山州淀城を賜り、
大名となって卒去した。

常陸介重高は家督を継ぎ、太閤は関白職を秀次へ譲られる。この時、「木村は数年予の老臣であり、目出
度き者である。秀次も予の如く果報を継ぐべし」と、木村を秀次のへ付けなさった。

されども重高は父・隼人佐に劣り、佞奸にして石田(三成)・増田(長盛)と心を合わせて秀次へ悪行を
勧めたことをもって、秀次生害の後に木村は摂州茨木で切腹、その一族は縁者まで尽く死刑となる。この
始終は『秀次記』に委細があるので、ここには記さない。


5万石 熊谷大膳亮直澄(直之)

直澄は熊谷次郎直実の末葉である。太閤が天下草創の始めより馬廻に召し出され、しばしば戦功があるの
をもって5万石まで賜り、秀次の附臣となる。ところが秀次生害あれば、直澄は嵯峨天龍寺へ馳せ入り、
たちまちに自害した。直澄はまったくその誤りがなかったので、太閤も召し返して本領を賜ろうと内談が
あった内にたちまち殉死したため、皆人は残念に思ったという。


8万石 熊谷内蔵介直陳(直盛)

直陳も熊谷次郎直実の末葉で勇猛の者故、太閤の馬廻に奉仕してより、しばしば軍功を尽すことをもって
天下平均の後に、豊後安岐城主となる。これも朝鮮へ渡海し(目付として)諸将の剛臆を告げたが、毛利
(吉成)・竹中(重利)と対決に及んで追放された。直陳も三成の婿なので佐和山へ赴いて忍んでいた。
翌年三成は本領を与えて大垣城へ籠め置いたが、垣見・木村とともに相良・秋月らにたばかられて死んだ。
(後略)
0250人間七七四年2019/07/12(金) 16:31:56.17ID:ycVecxqD
1万石   塩冶隠岐守
1万5千石 寺田播磨守(光吉)
2万2千石 斎藤左兵衛督
3万石   津深右京亮
1万2千石 粕谷内膳正(糟屋武則)

以上五将は各々太閤の代に取り立てとなり、武威を振るったが石田に与するをもって所領を没収なされた。


6万石 戸田民部少輔氏繁(勝隆)

太閤が未だ勢微な時から従った。しばしば戦功があったので予州喜多郡大洲城6万石を賜る。天正13年
(1585)に太閤は四国退治のため、御舎弟の羽柴美濃守秀長と御猶子の三好秀次を大将軍とし、6万
余兵を添えてまず阿波州を攻めさせなさる。

この時、戸田は一番に馳せ加わり戦功をあらわす。それより四国の徒党は尽く雌伏したので、取り分けて
戸田の戦功を感心し、同州宇和郡板島城へ移しなさって官位を昇進し、大名に取り立てなさるとの契約が
あった。そんな折に程なく病死し、あまつさえ令嗣なきをもって所領を召し上げなさった。


7万石 小川土佐守祐忠

伊予今張城主。太閤取り立ての人である(原注:一説に明智光秀の従弟。故あって直参するという)。初
め石田に与し、島左馬介祐滋とともに大谷(吉継)に属して北国へ赴く。後に関ヶ原へ出張して軍談する
ところで金吾秀秋が密かに関東へ通じると聞き、脇坂・朽木・赤座とともに俄に心を変じ、大谷・平塚の
陣を破る功をもって本領を賜る。

ところが祐忠は不行跡にして家人国民に酷く当たり、諸人は疎み果てる折に異心を巧み、天下の大事を企
てた故にたちまち所領を没収なされた。小川父子とその一族与党まで尽く改易なされたという。

――『古今武家盛衰記』

消えた秀吉取り立ての家臣たち
0251人間七七四年2019/07/12(金) 16:39:08.37ID:BhNSOonv
>>247
秀吉が天下統一して朝鮮の使節が来て九州に到着した時、九州で少弐氏が滅んだことを知って
驚いたという記録が残ってる。朝鮮王朝のレベルでは100年位対日情報が滞っていたらしい。
0252人間七七四年2019/07/12(金) 16:44:39.80ID:MSoPE4K2
当時の朝鮮からするとそれまで戦乱続きだった日本が統一された事の方が異常事態なんじゃね
しかもそれをやったのが下層出身者だという
そんでそいつが明を征服しようと企んでるとか
0253人間七七四年2019/07/12(金) 22:02:26.03ID:ycVecxqD
5万石 丹羽備中守長昌(長正)

越前守長秀の次男、修理亮長政の孫。幼少より太閤に仕え、後に越前東江城を賜る。石田に与して大谷に
属し、戦功をあらわす。関ヶ原の敗戦を聞いて逐電した(後に秀頼に仕えて、大坂開戦前に脱出)。(原
注:ある説に曰く、長昌は越前を逃げ出し、後に丹羽左京大夫方へ行き忍んていた。子孫はかの家に仕え
るという)


2万石   多賀出雲守(秀種)
1万9千石 杉若越後守(無心)
1万7千石 横浜民部少輔(茂勝)
1万5千石 杉谷越中守
1万石   寺西下野守(是成)

以上は太閤取り立ての将である。石田に与して大谷に属し、北国で戦功あり。それより大津へ向かって立
花宗茂の先手に進み、命を捨てて大いに戦い、関ヶ原へ出張しようと用意した。しかしすでに敗れたと聞
いて逐電し、諸国に忍んで放浪した。(原注:私に曰く、以上五将の由緒、かつその子孫が諸家の陪臣と
なることは長き故記さない。『太閤記』に詳しい)


1万石 松浦伊予守秀任(久信)

松浦安太夫宗清の従弟。初め安兵衛といった時より、太閤の馬廻に召し出されて頻りに立身した。石田に
与し、大津城攻めで立花とともに軍忠を励む。秀任は元来強力で、鉄棒を提げて馬人の区別なく散々に打
ち倒し、一の城戸を打ち破り二の城戸まで攻め入ったが、大勢に取り詰められてついに戦死した。立花は
その勇を大いに感じ、太平以後に秀任の子を召し出して扶持した。子孫はかの家に仕えるという。


1万石   高田豊後守(治忠)
1万3千石 藤掛三河守(永勝)

以上両将は太閤御取立ての者である。石田に与し、小野木(重勝)とともに田辺城を攻落する。味方敗北
の後に流浪したが、子孫は当家(徳川家)に召し出されて俵数を賜る。子細は知らず。

――『古今武家盛衰記』

追記>>250
富田高定などの伝もあるけど長くなるので割愛
0254人間七七四年2019/07/13(土) 00:45:39.47ID:Kk+VP0qq
若い頃、三斎公(細川忠興)はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も利休に三斎公の悪口を
言っていた。

ある時三斎公は利休の所で
「氏郷は数寄者ぶっていますが、裏口を開けてみれば乗馬用の沓や鼻紙などが散らばっている有様です。
彼は絶対に数寄者などではありません。」
と言った所、利休は
「それも良いでしょう。数寄さえすれば、それでも構いません。」
と答えられた。

そうしているうちに蒲生氏郷が勝手の障子を開け
「誰だかが私の悪口を言ったようだ。しかしその者が恥をかいたのは嬉しい」
と言った。

後で三斎公は「誰かがすぐに告げ口したのだ」と大笑いされた。

(三斎伝書)
0255人間七七四年2019/07/13(土) 11:19:11.37ID:YjWTGmPq
どんだけ仲悪いんだよ
0256人間七七四年2019/07/13(土) 11:25:34.48ID:YjWTGmPq
>>251
驚きです
100年はさすがに。
0257人間七七四年2019/07/13(土) 20:59:04.78ID:A8yxn3Gt
朝廷内は権力闘争の日々、朝廷外は貧困やら倭冦やらでぼろぼろだから日本にかまけてる余裕が無かったのか?
15世紀末だったか16世紀初頭の宗氏の内紛にちょっかい出したのが、秀吉前の日本に関わった最後なのかな?
博多商人とのやり取りで情報は入っていそうな気もするけどね
0258人間七七四年2019/07/13(土) 21:10:06.07ID:I9aZsBuw
15-17世紀の日朝貿易は偽使の歴史だし
朝鮮に日本が朝貢した体裁を整えればどうでもいい
0259人間七七四年2019/07/14(日) 00:52:23.62ID:bpKXLKyV
御所の御台所(崇源院。お江)は、贈中納言藤原の長政卿(原注:浅井備前守殿の御事なり)の
御娘で、御諱は“達子”と申す。御母は織田右府(信長)の御妹(お市の方)なり。

(原注:諸書に記すところは皆“妹”という。ところが溪心院という女房の消息(『溪心院文』)
を見たところ、信長の“従姉妹”であるという。あるいは従姉妹でいらっしゃったのを、妹と公表
して長政卿に送られたのであろうか)

(諸書にしるす所みな妹といふ。しかるに溪心院といふ女房の消息を見しに信長のいとこなりと
いふ。若はいとこにておはせしを妹と披露して長政卿にをくられしにや)

――『以貴小伝』
0260人間七七四年2019/07/14(日) 20:50:03.53ID:S1JzbmpW
『難波戦記』に曰く、御宿越前(勘兵衛政友)の討死は強働きとある。白糸の具足は血に染まり、
赤糸に見えたとある。

光政様(池田光政。芳烈公)へ先の松平出羽守殿(直政)が御物語り致されたことには、御宿は
元来左手が無く手ん棒であるという(御宿事元来左手無手棒ニテ候由)。最期には赤糸の具足を
身に着け、手ん棒で槍を持たせていたという。越前家(越前松平家)の某はよく見知っていたの
で、そのまま討ったということである。

出羽守殿は越前の御手のことを確かに御存知のはずだから、これが本説であろうという。御宿は
手ん棒故に、強戦を仕る様子ではそもそも無いという。

――『烈公間話』
0261人間七七四年2019/07/15(月) 09:44:55.09ID:DWiCMEm8
>>249

前庄殿な後だけどその話武功夜話にでとりましょうですか?
0262人間七七四年2019/07/16(火) 01:34:51.74ID:Y8qQMC2y
同戦記(『難波戦記』)に本多出雲殿(忠朝)戦死の事がある。

自分の手勢の者を先手に残らず掛からせ、自身も掛け出なさったという。横から撃たれた
鉄砲に当たり、馬から撃ち落とされたという。弾の跡は7つあったとかいうことである。
(玉ノ跡七ツト哉ラン有之由)

先の本多能登守殿(忠義。忠朝の兄・忠政の三男)が御物語りなされたとのことである。

――『烈公間話』
0263人間七七四年2019/07/16(火) 07:49:46.14ID:PycxYtRW
>>262
随分と鉄砲の精度が上がったんだな。
0264人間七七四年2019/07/16(火) 10:26:56.94ID:Df4sL/wN
散弾だろ
甲冑に当たると弾けるようになってる
0265人間七七四年2019/07/16(火) 14:56:32.28ID:gRFLGpaC
前日談の
家康から「お前の父親の忠勝は勇猛果敢だったのにお前ときたら」
と言われた話の方は特にコメントなしか
0266人間七七四年2019/07/16(火) 20:50:33.27ID:3XPLdlvt
松平陸奥守様(伊達政宗)は御合口(相手として調子のあうこと)で不意に登城し、御夜話にも
御出仕した。

ある時に御前約で出仕し、正宗は異風を好んだのでいずれも替わり装束であったという。忠秋公
(阿部忠秋)も紅茶裏の御上下を召しなされた。そんな折に、正宗は御酒宴中に御次に御立ちに
なったところ、忠秋公を見なさって、

「さてさて珍しきなり! 紅の袴を着ることは往古ありきたりではあるが、紅の肩衣というもの
はこの歳まで見たことがない! 初めて一覧した!」との由で、かように興じ申されたという。
その時、忠秋公は御脇差に御手をかけ、御憤怒の様子で御睨め付けになられたという。

(原注:正宗は曲者で諸人を嘲り、その上に唾吐きを仕掛け申されたという。向かい仕る兼松某
(若松又七郎か)と申す方は唾を吐き掛けられ、堪忍なりがたく扇子で正宗の顔を強かに打った
という。その時、正宗は「堪忍堪忍!」と申され、「殊勝な若者かな!」と笑い申されたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』
0267人間七七四年2019/07/16(火) 22:08:15.99ID:+SP1oFkm
>>266
あやうく刃傷沙汰じゃねーかw
0268人間七七四年2019/07/16(火) 22:36:46.11ID:tH1GGutY
政宗もう60くらいだろ
いいかげん落ち着け
0269人間七七四年2019/07/16(火) 23:52:24.77ID:G0uW+Lhr
つまり血の気からやっていた事ではなく単に面白そうだからとかカッとなったとかそんな理由ということなのか
自制心が弱くなるから年とった方がむしろヤバくなる人間
0270人間七七四年2019/07/17(水) 07:06:41.88ID:Ga9W4yxv
政宗はよくも暗殺されなかったレベル。なかには親の敵と勘違いされて斬られてしまった人もいるのに
0271人間七七四年2019/07/17(水) 08:23:52.41ID:THuUE6L7
>>266
>忠秋公は御脇差に御手をかけ、御憤怒の様子で御睨め付けになられたという。
煽られてプルプルしてるAAが思い浮かんだw
0272人間七七四年2019/07/17(水) 09:05:06.66ID:jCJ77sYW
かの名老中、阿部忠秋をここまで激怒させる腐れ爺…。
阿部忠秋じゃなければ、切り捨てていたんじゃないか?
0273人間七七四年2019/07/17(水) 15:27:54.93ID:ZijLCe+2
辱めを受けた御家人の岩松又七郎は扇子で頬先を殴り正宗に褒められたそうな
そして主人を守らなかった側にいた小姓を正宗は切腹させた
0274人間七七四年2019/07/17(水) 15:37:43.86ID:nRszZZgX
葉隠だと若松又七郎になってるけどどうも兼松正尾という人みたいだね
0275人間七七四年2019/07/18(木) 00:06:20.50ID:2uZ2Ncs/
兼松又四郎正吉(信長に足半貰った人)−又八郎正成−又四郎正尾

又七郎の「七」はどこから来たのか
0276人間七七四年2019/07/18(木) 03:34:41.78ID:f+XvILOP
http://pbs.twimg.com/media/D_btkR9U8AAmi7M.jpg
0277人間七七四年2019/07/18(木) 08:37:42.59ID:5gA42Ipr
>>273
ひどすぎる
0278人間七七四年2019/07/18(木) 19:31:33.07ID:wMVJRuAB
外桜田南通の石垣は上杉景勝に仰せ付けられ、権現様(徳川家康)も度々御見分ならせ
られて御指図遊ばされた。

上杉家の家老・直江山城(兼続)が罷り出て御挨拶申し上げれば、権現様は直に肩を御
押し遊ばされて、かれこれと仰せがあった。直江も腰を屈めるだけであったという。

(権現様直に肩を御押被遊彼是上意有之直江も腰をかヽめ候迄の由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』
0279人間七七四年2019/07/19(金) 00:03:31.80ID:0NM0kJP3
千利休の身上が相果てた理由についての事である。木下祐桂(秀吉の右筆とも言われる。不明)が
秀吉公に逆らって浪人したことが有ったが、その時知人であったにも係わらず、利休が見舞いの人を
遣わさなかったことに祐桂は非常に腹を立てた。

その後秀吉公に許されたため、その祝いに利休が祐桂の元を訪ねた所、祐桂は
「利休などという人は知らない。」と言って取り合わなかった。このため互いにひどく腹を立てたが、
表向きは仲直りをした。

ところが、秀吉公が祐桂に「この頃何か珍しいことはないか」とお尋ねになった時、祐桂は
利休の娘のことを申し上げた。「それでは」と秀吉公は祐桂を御上使として利休の内儀の元に
(娘を秀吉の側に上げるよ)2度も遣わしたが、内儀は「利休へ申されないのでは困ります。」と
同意しなかった。そして利休はこれを聞くと「とても納得できません」と申し上げた。
祐桂はいよいよ利休に対して腹を立て、秀吉公に報告した。

その頃、前田玄以も秀吉公に対して利休を散々に言った。これらによって、切腹となったのである。
前田玄以は胴高という茶入を取り出して、肩衝と言って利休に見せた所、全く返事すら無かったことを
恨んでいたのだ。

後にこの胴高の茶入は池田三左衛門殿(輝政)が所持し、今は備前の宮内殿の元にある。
習いが有って、胴高というのは茶入の中でも特別なものであり、習いが有れば見分けやすいものなのであるが。
(玄以はその心得がなかったのである)

(三斎伝書)
0280人間七七四年2019/07/19(金) 02:24:54.45ID:z7/Ij/C3
政宗は酒が入るとやらかして後になって謝罪の書状を送ったりしてるからなw
0281人間七七四年2019/07/19(金) 11:41:02.99ID:o6qNcdqI
(`●∀・)まあ俺という存在そのものがやらかしみたいなもんだしな
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