戦国ちょっと悪い話47
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0001人間七七四年
2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn前スレ
戦国ちょっと悪い話46
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戦国ちょっといい話46
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0952人間七七四年
2020/04/06(月) 22:44:42.04ID:/jHCpreHだからあったか無かったをお前らアホな頭で断ずる事は到底できないのさw
0953人間七七四年
2020/04/06(月) 22:55:54.42ID:SU3aREEw0954人間七七四年
2020/04/07(火) 01:42:34.40ID:GTsReKHF嫡子は毛利庄太郎興元と申す。二男を元就と申す。三男を弘成(元綱)と申す。
毛利太郎弘元の本領は、芸州高田郡吉田であり、かれこれ併せて三千貫の地であり、城は郡山であった。
弘元の死去後、家督は嫡子庄太郎(少輔太郎)興元が継いだ。次男元就には多治比七十五貫の地を分け与えて
猿掛に在城した。三男元綱は如左の地を分け与え。相合に在城した。
しかるに、興元は若くして死去し、興元の子を幸松丸と言ったが、これも八歳にて死去した。
これによって毛利家の家老諸士は相評議したが、元就に家督を継がしめんと云う者もあり、
また元綱を守り立てようという者もあり、未だ詮議まちまちであった所に、元就は兵を起こして
相合押し寄せ、元綱に腹を斬らせ、その一味の者共悉く生害し、その勢いに郡山へ入城して
毛利の家を相続した。時に大永三年八月十日であった。(相合元綱の没年については諸説あり)
元就はその夜の夢に。『毛利の家 鷹の羽を継きははしら』との発句を得て、
翌日万願寺ににて連歌を仰せ付けた。
(毛利元就記)
いわゆる「元綱事件」と、毛利元就の家督継承について。
0955人間七七四年
2020/04/08(水) 22:36:47.37ID:7j1OFAgQこの頃元就は、山口の隙きを明け諸勢を豊前に渡そうと思っていたのだが、思いの外の報の到来に、
豊前での取り合いを嫡男・隆元に任せ、豊前に派遣する予定だった軍勢を召し連れ山口を打ち立ち、
夜日を継いで雲州上日郡(原文ママ)に陣を据えた。山中鹿介も雲州に打ち出て山際に陣を取って対陣した。
このような中、豊前国の毛利隆元の陣に、その御代の公方・光源院殿(足利義輝)より、毛利大友和平の
御扱いとして(筆者注:実際には足利義昭による扱いである)、毛利家へは聖護院(道増)、大友へは
久我殿が御下向し、上意の旨は、
『前々大内が分国、防長両国の義は毛利元就が切り取った地であるので、毛利の分国とするものである。
西海九ヶ国の内、豊前筑前の義は存ずべからず。大友が只今保持しているものである。
諸士はこの旨に相従い、国々を堅固とするように。』
との仰せであった。上意に任せ、大友の軍は引き退き、毛利隆元も松山の城に籠め置いた口羽常吉、
その他諸軍を召し連れ長門国に帰陣した。そして聖護院殿のお供申し、宮島に渡った。
聖護院殿の御宿は座主、隆元の御宿は大願寺であった。
また、元就は雲州上日郡より聖護院殿に使者として福原貞俊を派遣して、
『御尊顔を拝する事が尤もであるのですが、軍陣の状況のため御免させて頂きます。畏まり、
忝ない事ですが、隆元がそこに居りますので、御請方々、頼み奉ります。』
と伝えた。
宮島には二十日ほど御逗留し、御馳走として神前にて能などが仰せ付けられ、御会釈相調い、
聖護院殿は御帰洛された。
そこから毛利隆元は直に雲州へ登られ、吉田郡山の麓も通られたのだが、元就は先陣に在るという事で、
その時は郡山城に御立ち寄りなく、佐々郡と申す所まで御越しになり、人数を揃えるためとして
一両日逗留したのだが、この時、不意に頓死された。享年四十一歳であった。
各々仰天したが、是非無く、この事を元就が聞くと、心の塞がりようは浅からぬものであった。
さりながら、「隆元を弔うための手切れの合戦であるべし」と、山中鹿介の陣山近くに陣を寄せた。
(毛利元就記)
毛利隆元の死去までについて。
0956人間七七四年
2020/04/09(木) 07:13:19.77ID:FV4Nvjb20957人間七七四年
2020/04/09(木) 07:34:26.86ID:uuQ9h7Na0958人間七七四年
2020/04/09(木) 21:06:33.59ID:6VXTQWG80959人間七七四年
2020/04/09(木) 21:16:14.83ID:sycuQPqf「youtubeに上がってるのは通俗的なものばっか。歴史好きが信長を紹介する」
みたいなこと書いてたからすげー楽しみにしてたんだが
「首巻の内容は当てにならない」としながら首巻の記事は「信勝側の主張が混ざってる」って?
それ「史実を追求する」としながら妄説垂れ流す、歴史クラスタが大嫌いな明智憲三郎とやってること一緒じゃん
戦国大名としては信長は「普通」って?全ての戦国大名がドラマチックとは言えなかったの?
で、あげく、「信長に最も似てる絵」と自分が主張する絵にカッポレ踊らせ、割烹着着せ、頬を染めさせ
「信長のイメージを変える」ではなく、「信長のイメージを壊したい」っていう目論見、浅薄なところからきた意志を感じるわ
初回で、「ホントは東国大名が好きだけど大河に便乗しました」って言っちゃったのもマズかったよね
やっぱり、全編通して冷笑系で、熱がないのが伝わってくる
素直に東国大名の誰かから初めたほうが良かったんじゃない?
これは悪い話だ。管理人の悪い話だ!
ただまぁところどころはっとするところもある。そこはいいぞ
あとツイッターで紹介してたフロイスの本面白かったぞありがとう!
0960まとめ”管理”人
2020/04/09(木) 21:56:18.05ID:JjdzMuKB動画への感想でしたらyoutubeの方か、ツイッターでお願いします。
こちらでは場違いであり、他の方の迷惑です。
あなたは匿名掲示板でなければ怖くて書き込めないのかもしれませんが、
僕はそこまで心は狭くありません。
ただし迷惑行為には厳しく対処します。
本スレの皆様には、失礼致しました。
0961人間七七四年
2020/04/09(木) 22:09:38.39ID:sycuQPqf動画だとずっと残るからよくないなと思ってツイッターもアカウントは持ってないし
どういうスレを見てるのか、他に窓口が分からんから「管理人」って名乗ってるんならまぁいいやと
スレももうすぐ終わるし。実際すぐ見てくれたのでまぁ良かったわw
俺からも謝ったほうがいい?ごめんね他の人
0963人間七七四年
2020/04/10(金) 00:58:54.03ID:Z0cMNdBb搦手の物見には志路源蔵を遣わした。この時、厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ、
源蔵は神主の姿で参拝した。故にこれを咎める者は無かった。
その願書を陶晴賢が見て、元就の病気を真と思い喜んだという。
この願書には弘治元年(天文二十四年)十月二十八日とあるという。(筆者注:厳島合戦は十月一日であり、
この日付は九月二十八日の間違いと思われる)
(毛利元就記)
0964人間七七四年
2020/04/10(金) 02:07:49.95ID:pF+bUfNdあれ、元の話だと、隆元元春隆景じゃなくて、庶子三人だったらしいぞ
修身の教科書になるぐらいで、隆元以下に改変されたらしい
0968人間七七四年
2020/04/10(金) 18:06:15.15ID:yWX2hvTc0969人間七七四年
2020/04/11(土) 03:19:39.86ID:ONtCAS+0武田晴信入道信玄は曽我五郎時致の生まれ変わりであるという俗説がある。
その理由は、ある僧が富士野を通った時、曽我十郎祐成の幽霊が現れた。
「私の弟の時致は生前『法華経』を読経するという功により、甲斐国の領主武田大膳大夫晴信入道信玄として生まれ変わったのだ。
しかし私は女色に愛着していたので、今は六道に沈淪している。
どうかこの旨を信玄に告げて彼に私の弔いをさせて頂けないか?」
と頼んできたという。
この俗説を考えてみるとしよう。
まず、そもそも再生輪廻の事は理にない事である。
これだけでなく他の理由も今しばらく俗談から検討したいと思う。
曽我五郎時致は淫奔放蕩の謗りがあるといえど、工藤祐経を討って父の仇に復讐した。
取り所がない者ではない。
武田入道信玄は彼とは異なっている。その罪悪が際立っているものに、父信虎を追放して甲州を領した事が挙げられる。
「不得乎親 不可以為人」という言い伝えもある通り、人に非ざるのなら禽獣である。
ただし虎狼に父子の親しみあり、セキレイに兄弟の情ありという。禽獣にもしかずと言えるだろうか。
ところが物は類を以て集まるというのが世の習いである。
その臣の高坂弾正は主の不孝不義を諫めないだけでなく、信玄が父を追い出したという事実を断りながらも「一生『論語』を手に取られなかった」と『甲陽軍鑑』に記している。
晩年になっても『論語』を手に触れていたら、不孝を悔い旧悪を改める心も有ったのだと思うとひどく恨めしい。
これだけではない。降った諏訪の大祝頼重を誅して所領を奪い、その娘を頂き妾とした。
この妾の讒言により太郎義信飯富兵部を殺害し、欲にふけって親しきを忘れ甥の今川氏真を押し倒して駿州を奪った。
取り所のある人ではない。
(広益俗説弁 続編)
信玄が曽我五郎の生まれ変わりだったという説話があった事も驚きだけど、信玄の人格を否定することで俗説を批判しているのも面白い。
0974人間七七四年
2020/04/11(土) 21:34:55.97ID:BaNKVLgT島津義久と茅葺の門(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-587.html)
の話しを無視している大変立派な門です。コロナのおかげで影がすごく薄くなりましたが
何でわざわざ門だけ復元と思うかもしれませんが島津忠恒が鶴丸城を建築した時期は
鹿児島城ができるまで・悪い話(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-566.html)
↑に書かれてる通り関が原後の微妙な時期に建てられたので天守閣等の目立った物はなく、
館のみという城だったので正門が一番目立つ存在だったそうです。
(鶴丸上跡地自体は美術・歴史館、図書館、博物館、医療センターとなっているので
現在のほうが防御力高そう)
というわけで開通記念に鶴丸城の話をひとつ
鶴丸城はすぐ裏手が山となっていますがそこの防備はどうなっていたのかの話しです。
0975人間七七四年
2020/04/11(土) 21:35:21.32ID:BaNKVLgT現城山展望台の裏手に位置するここは昔は大きな楠がたくさん茂り、暑さ知らずの高涼地だったので
夏蔭と呼ばれていました。
城山は山自体が城の一部とされていましたが(実際戦になったら城山全体に陣を張る見込みだった)
裏手からの攻撃には無防備でした。そこで裏手から攻められた際の要であるこの地を守る為、
武士が配置されていました。
特に城や砦は設けられず、日光から守ってくれる楠のあるこの地は夏蔭城と呼ばれるようになりました。
・・・せめて番所位は作ってあげようよ忠恒さん
補足すると元々城山には上山城という城の遺構がのこっていたのでそれを利用する目論見もあったみたいですが
平和裏に徳川へ帰順できたので作られず、変わりに島津歳久の孫の常久が陣を張っていたのですが、
常久が早世した後は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止となったその後の警備の話となります。
結局、島津家が城山を使った防衛システムを活用することはありませんでしたが、
(薩英戦争の時は大砲の射程内だったため別の場所に避難してますし)
西南戦争最後の舞台に西郷軍が防衛システムを使用、そして最後の日に夏蔭城が陥落し裏手から官軍が
雪崩れ込み西郷さん達の最後の突撃が行われることになりました。
御楼門自体は観光の目玉とはなりませんが上の通り周辺は西南戦争関連や歴史館など歴史好きな人向けの
観光スポットとなっていますので是非お越しください。コロナ終わったら
0976人間七七四年
2020/04/11(土) 21:35:49.86ID:BaNKVLgT鶴丸城の前の本拠地の内城(現鹿児島市立大龍小学校)(おそらく↑↑の島津義久と茅葺の門の城)
ゲームとかだと立派な城ですが実態はただの館でした。(堀とかもなく塀があるだけだった模様)
近くに前本拠地・前々本拠地(清水城・東福寺城)が後詰の城としてあるとはいえ防衛力は無いに
等しかったんじゃないかと。
決戦指向だったせいかそれとも守りやすい本拠地の現日置市や鹿児島に入る前の
姶良市の城々で止めるつもりだったかはあるかもしれませんが、他の大名よりと比べ本拠地の防備に
無頓着な所は面白いです。
0977人間七七四年
2020/04/13(月) 03:10:15.56ID:XFrFh1IY享禄四年、細川晴元と浦上掃部介が摂州尼崎で合戦した。
浦上が敗北しそうになった時、浦上の家臣島村弾正左衛門貴則は敵二人を左右の脇に挟み河に入って死んだ。
その魂はたちまち蟹となった。
島村蟹として甲に人が怒った顔がある蟹がいる、という俗説がある。
〔平家蟹・清経がに・武文がにともいう〕
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6601.html
しかし、これは違う。
傅肱『蟹譜』によると、
“背穀鬼ノ状ノ若キハ、眉目口鼻分布明白、常ニ宝トシテ之ヲ玩ブ”
〔『百川学海』で見た〕
この類であろう。どうして人が死んで蟹となる事があるだろうか。
(広益俗説弁)
0978人間七七四年
2020/04/15(水) 12:08:46.30ID:DKMCvcRx戦国ちょっといい話48
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1586920019/
0979人間七七四年
2020/04/16(木) 00:12:26.93ID:FJJW3kJbこの城主である松永弾正少弼久秀は、大阪の附城を守っていたのだが、信長公に恨みを含み、本願寺門跡、
雑賀の兵を語らい、大阪を退き信貴山城に立て籠もった。それにはこのような理由があった。
家康公御登城の時、久秀も参会したのだが、信長公が家康公に向かってこのように言った
「この翁は松永久秀である。彼については天下に及び難い事が多い。彼は公方足利義輝を弑し奉り、
主君三好義長(義興)を毒殺し、三好一家(三人衆)と戦い東大寺を焼いて大仏を滅ぼした。
また三好長慶次男義継(実際には養子)を欺いて永禄八年より同十一年まで天下を守り大いに奢り、
終に義継を離れこれを殺した。」
久秀は赤面し、額に汗し、頭より烟を立て、その憤りを以て謀反を企んだ。これによって十月、
城介(織田)信忠は大軍を率い和州に御発進され、佐久間信盛、明智光秀、筒井順慶らも大阪の
対城を出て河州より向かい、その通り道であり、久秀の従党である片岡城を攻め落とし、城主・森、海老名を
討ち捕らえ、十月五日に信忠と合流し信貴山城の久秀久通父子を攻めた。
しかし松永父子は激しく防戦し、味方が不利と成った時、佐久間信盛は筒井順慶と相談し、雑賀の兵であると
謀って、信盛の兵を交えて城中に入れたいと告げた。そして雑賀の兵に扮した信盛の兵が、順慶の兵と
追いつ返しつつ挑み戦った所に、久秀は予てより雑賀の者と謀り合っていたので、城門を開いて彼らを
引き入れた。
十月十日、信盛、順慶は、先に入れた兵の手引きにより城に入ると火を放った。久秀は天守に上り、
「たとえ骨と成っても信長の最後を見届けようぞ!(タトヘ骨トナリテモ信長ヲ見ハテン物ヲ)」と
言って自殺した。右衛門佐久通は生け捕りと成って斬られた。久秀の悪逆積り、東大寺を焼き
大仏を滅ぼしたのも十月十日であり、その日に滅亡した事も、世に不思議を成すと云われた。
(佐久間軍記)
0980人間七七四年
2020/04/16(木) 11:49:48.22ID:O4ZY5yYd0981人間七七四年
2020/04/16(木) 21:34:47.03ID:SRx78Wxe0982人間七七四年
2020/04/16(木) 22:01:43.47ID:nEUH2pgM0983人間七七四年
2020/04/18(土) 17:35:20.90ID:25IT3XhX0984人間七七四年
2020/04/18(土) 23:30:44.65ID:tlLr7j1U0985人間七七四年
2020/04/19(日) 15:49:05.80ID:/eXYOJJ00986人間七七四年
2020/04/19(日) 16:20:43.65ID:gBTz30L40987人間七七四年
2020/04/20(月) 03:29:16.96ID:9QHsESdp秀吉公が北条氏政・氏直を攻められた時のことである。秀吉公は北条の家臣松田尾張守(憲秀)の方へ書を遣わして説得を試みられた。
尾張守はこれに同心し、嫡子新六郎(笠原政晴)・次男左馬介(直秀)・三男弾三郎を呼んでこのことを語った。
しかし、左馬介はこれに与せず氏政・氏直に告げたので尾張守を殺されたという。
その後氏政・氏照・氏直が降参すると、氏政・氏照は切腹させられたが氏直は命を助けられ高野山に入り、松田左馬介も彼の供となった。
世ではこの事を挙げて左馬介の忠義を称美している。
今このことを考えてみるために、『通鑑綱目』の話を引用する。
昔朱という者が唐の徳宗を囲んだ時、徳宗の臣であった李懐光に朱を防がせた。しかし、懐光は反逆の心があり軍を進ませなかった。李懐光の子の李?はこれを徳宗に告げた。懐光は死ぬこととなり?もまた自殺した。
また楚の康王が臣の子南を殺そうと思っていた。当時子南の子の棄疾という者は王の御士であった。
康王は棄疾を見るごとに涙を流した。棄疾が「どうして泣かれるのか?」と尋ねると、王は「お前の父、子南は無道なので討とうと思っている。討った後でもお前は留まって居てくるだろうか?」と返した。
棄疾は「死刑にされた父を持つ子を君はどうして用いなさるでしょうか。ただし、王の命令を洩らして自分の刑を重くするようなことは臣であります私は行いません。」と答えた。
王はついに子南を殺した。棄疾は父の屍を請うて葬り、
「父を棄てて、仇に仕えることに私は忍ばない」と言って首をくくって死んだ。
これらの話を受けて思うと、左馬介は父の逆意を君に告げる事は李?に同じといえども、李?は父が死んだ時に自殺し、左馬介は父が殺された時に死ななかった。
棄疾は父を棄てて仇に仕えるのを忌みて死んだが、左馬介は父を棄てて仇に仕えても恥じるところなかった。
古語に”忠臣を求むるは必ず孝子の門においてす”、
とあるように左馬介を忠臣とするのは義にかなわない。この事を考え知るべきだ。
(広益俗説弁)
なんか“忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず”のような話だ
0988人間七七四年
2020/04/21(火) 09:33:58.62ID:t1z05XzMhttps://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f405264408
このスレに男色ファンいると思うけど..何が書いてあるか興味あるな
0989人間七七四年
2020/04/21(火) 10:35:14.76ID:Enw8zNYT有名だからググればいくらでも翻字と訳文が見つかる
0990人間七七四年
2020/04/23(木) 01:19:38.08ID:a5yXEBU0色々御詮議あり、その議論し難かったが、水野日向守殿(勝成)御前に罷り出て申し上げた
「上総殿には、毛頭御逆心などありません。ただ少し御不覚であったのです。」
これによって、上意に「不覚者、兵家に用無し」とて、信州へ御改易と成ったのである。
これを世上に、上総様は伊達政宗の御聟たるによって、内談して御謀叛と云うが、それは全て推量である。
何故なら、御謀叛であるなら、御不憫の御子を御流しになり、他人の政宗をどうして許すだろうか。
ただ不覚は、兵家の大悪なのである。
(松永道齋聞書)
0991人間七七四年
2020/04/23(木) 16:12:04.67ID:KCxkdMlS北条軍に攻められていた羽生城を救援するべく向かったが、利根川が増水しており、足止めをくらっていた。
せめて物資だけでも羽生城に運び入れようと、家臣佐藤筑前の言を受け入れ、船を30艘用意した。
この作戦に先立ち、謙信は筑前に「北条軍の攻撃を受けたらどうするんだ」と聞いたが、
筑前が「ここは敵が攻撃してくるような地形ではない」と断言していた。
しかしこの作戦は北条軍の攻撃によって失敗してしまった。
後日、謙信は羽生城の守将に対して事の顛末を記した書状(現存)を送り、その中で「佐藤ばかもの(に)候」と書いている。
なお、その書状の中では「信玄や氏康でもよくわからない地形では失敗しただろうから、自分が失敗したことも仕方ないことだ」と自らをフォローしている。
0992人間七七四年
2020/04/23(木) 17:14:34.59ID:VBDOvezt0993人間七七四年
2020/04/23(木) 20:24:37.93ID:GyP5Sdtg0994人間七七四年
2020/04/23(木) 20:53:10.48ID:P+13HH7+その割に書状の口悪い、なんなら自分のことまでばかって言っちゃうし
0995人間七七四年
2020/04/23(木) 20:54:17.78ID:sleCFADP0996人間七七四年
2020/04/23(木) 21:20:48.24ID:5cHSIyKI0997人間七七四年
2020/04/23(木) 22:02:11.81ID:f9T78GAV0998人間七七四年
2020/04/23(木) 22:05:57.97ID:gr3PAozX0999人間七七四年
2020/04/24(金) 00:08:34.57ID:qNH2KfF41000人間七七四年
2020/04/24(金) 01:07:34.33ID:6nyGY0u0戦国ちょっと悪い話48
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