戦国ちょっと悪い話47
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0001人間七七四年
2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn前スレ
戦国ちょっと悪い話46
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姉妹スレ
戦国ちょっといい話46
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0488人間七七四年
2019/10/06(日) 14:33:53.95ID:BXDj4gj90495人間七七四年
2019/10/07(月) 18:34:53.73ID:mLJwIBqgすでに夜が明ければ、石田三成・島津兵庫守義弘と舎弟の中務大輔家久(豊久の誤り)・小西摂津守行長ら
は関東勢の旗の手を見て関の藤川を渡り、小関の南辰巳に向かって備える。備前黄門秀家も手勢の大軍を率
いて同所に備えた。大谷吉隆(吉継)・平塚為広・戸田武蔵守重政(勝成)と子息の内記重宗・津田長門守
信成は石原峠を引下し川を渡り、関ヶ原の北野に出て西北の山を後ろにあて、不破を左に見て辰巳に向かう。
家康公の旗本は鶴翼に備え、16段に備を定めて先陣は福島正則、鉄砲8百挺・弓5百張を段々に組み合わ
せてまず矢合わせの鏑を石田の先手へ射掛けた。さて鉄砲を一度につるべ放ち、金鼓を鳴らして鬨を揚げれ
ば東兵も共に同じく太鼓を打ち、楯の端や胡ロクを叩いてこれを助け、都合7万5千3百余人が鬨をどっと
作れば、西国勢13万8千6百余人も同じく鬨を合わせつつ、諸手一同に戦を始めて白刃を交えたのである。
福島父子は弓鉄砲の迫り合いを経て長柄を揃え錣を傾け三成に突いて掛かれば、小西行長も相掛かりに掛か
り揉み合った。これを見て東国方の細川・黒田・加藤は走り合わせ、命を鴻毛よりも軽くする。また西国方
でも島津兵庫守・宇喜多・島津中務大輔と掛かり合い、互いに魚鱗鶴翼の秘術を尽くし命を限りに攻め戦う。
中でも小西は手の者共に目合わせし「敵は大勢、味方は小勢、通り一遍では利はあるまい。羽武者共に目を
掛けるな! 大将に組んで討て!」と風の散る雲の如くに群がり、千騎が一騎になるまでも引くなと、互い
に恥しめて面も振らず相戦う。流石に広き関ヶ原、錐を立てる地も無く敵味方20余万は、算を乱したる如
くなり。
行長は諸将に構わず自兵を引き纏い、三国黒という長さ9寸余の名馬に一鞭当てては馳せ散らし、取って返
し蹴散らし、千変万化の勇を振るう。その形勢、脱兎の網の裏を飛ぶが如し。
家康公が大音声で宣ったことには「敵の旗色は騒ぎ立っている。戦は味方の勝ちなるぞ! 総勝鬨を作って、
旗本の先陣は一同に馬を入れよ! 近習の輩も前一軍は備を崩して石田・小西の横合を打つべし!」と朱旄
を揚げて自ら御駕を進めなされば、御旗本の先陣、16段の先手共は槍の穂先を揃えて馬の鼻を雁行に立て、
大山の崩れる如く突いて掛かると、さしも金石の如く勇を励み備を堅める石田・小西も、この時に駆け破ら
て四方に散乱し、伊吹山・草の谷・伊勢路に掛かって落ちる者もあり、あるいは谷へ落ち入って死ぬ者もあ
り、右往左往に逃れ走った。
行長も心ならず引き立てられて共に敗北し、伊吹山の東粕賀郡に知音の寺があったのでかの寺へ馳せ入り、
しばらく息を継いで世の有様を聞いていた。
(後略)
――『古今武家盛衰記』
0496人間七七四年
2019/10/07(月) 21:09:37.76ID:n4Znc1LY伊吹山にはイエズス会の薬草園があったとか言うけど
ふつうに仏教寺だよね
0498人間七七四年
2019/10/08(火) 16:22:44.93ID:bTgXE5VC「南蛮寺興廃記」の薬草園の箇所
0499人間七七四年
2019/10/10(木) 11:13:50.41ID:zfrqx2uI0500人間七七四年
2019/10/10(木) 12:42:52.59ID:6oB8WiqOこのように伝えた
「この正月、国府台の合戦で思わず我等が勝利したが、これも弓矢を取る身の運不運である。
敵と味方に別れるのも時の勢いであろうが、もし今和睦をしても良いと言うなら、嫡子源五郎(氏資)に
家督を譲り、隠居されたい。そのようにして老後を心置きなく過ごされるおつもりなら、我が子氏政の
妹を源五郎に娶せ、自分がその後ろ盾と成り長く岩槻の社稷を守るであろう。」
そのように言い、それも二度までも使いが来た。その裏には、もし同心しないというのであればこちらにも
覚悟がある、という脅しの意味も含まれていた。
三楽斎も利口な男であったのでそのくらいの事は理解していた。しかし長年の兵乱に勢力は尽き果て、
この正月の合戦で兵の消耗も甚だしく、要害でもない平城でどれほど持ちこたえられるか先は知れており、
ここは一番和睦し、後日に事を謀ることが肝要であると、多年の宿意である上杉への肩入れを打ち切り、
小田原の意に従うことを決心した。
この事を伝えられた氏康・氏政父子は大いに喜び、すぐに吉日を選んで娘を岩槻へ送り、婚姻の式を挙げ、
千鶴万亀の祝をして、両家の昵懇はこの上なくまとまった。実に無意味な事である。
それからしばらく後、氏康は婿となった源五郎氏資に、垣岡越後守、春日摂津守などという太田家の
奉行職と相談させ、野州小山城、長沼城攻めを開始させた。しかしそれは氏康の策で、彼等を両城に
出陣させた後で、不意に岩付城を襲おうという密計であった。
三楽斎はその事に気づいており、またもとよりそのくらいの事は有ると思っていたので別に驚く事もなく、
何食わぬ顔で、密かに妾腹の子である梶原源太左衛門政景を招き、その場合に打つ手を色々と相談して、
政景に川崎赤次郎を添えて盟友である佐竹義昭(実際には義重 )の元に行かせ、自分は浜野修理介を
連れて、これも盟約の有る宇都宮三郎左衛門広綱の元へ向かった。
しかしこの事をすぐ、氏資に付いていた垣岡、春日が小田原に伝えた、氏政は早速太田大膳亮に兵二百騎を
付けて岩付城へ向かわせた。大膳亮はまたたく間に外郭を固めて二度と三楽斎を城に入れなかった。
ここにおいて三楽斎と梶原政景は浪々の身となり、政景のみは、弟の新六郎とともに佐竹に寄宿する
事となった。三楽斎はそのまま武州忍城の成田左馬助氏長を頼った。氏長は三楽斎の娘婿である。
ああ、世に前管領上杉憲政の旧臣は多いが、その中でも太田三楽斎と長野佐衛門大輔業正ほど
無二の忠誠を尽くし、上杉家の再興のため心を尽くした者があろうか。であるのに、時に利非ずとはいえ、
業正は箕輪にて討ち死にし(実際には病死)、三楽斎は今流浪の身となった。そして北条の武威のみが
したり顔となったのは皮肉なことである。
(関八州古戦録)
北条の謀略というより太田三楽斎が策に溺れた感強いな。
0501人間七七四年
2019/10/10(木) 23:56:01.31ID:wCzp0YSp扇谷上杉壊滅後は北条(古河公方)家臣で、謙信越山以降は独立路線でやってるよね
0503人間七七四年
2019/10/11(金) 13:55:59.33ID:ODWSD4PY千本、医王野、岡本である。中でも大関右衛門佐高増は智謀に優れ、七党の中でも抜きん出て、那須家の
柱石とも成っていた。しかし先年の小田倉原の合戦に先陣を切って手柄を立てて以来、党の他の輩からの
高増に対する妬みが増し、一方の福原弾正左衛門資経(那須資郡・那須資胤の弟)の功のみを吹聴するので、
高増はそれが面白くなく、病と称して出仕しなくなった。
那須資胤はこれを怒り、また出る杭は打つに限ると思ったのか、大関の家人・松本美作守を呼び、
密かに高増を殺すように命じた。松本はやむなく了承して黒羽城へ戻ったが、その一部始終を高増へ語り、
御屋形様の命であり、これを断っては即座に誅せられると思い引き受けた、と言った。
大関高増はこれを聞くと
「罪なくして亡ぼされるのは無念である。そもそも殺す理由が不確かででたらめである。」
そう憤り、逆心を起こした。
彼はすぐに常州の佐竹義重に援軍を頼み、鳥山の那須資胤を攻撃することにした。この時佐竹と、
那須資胤を殺し、その二男である三郎義宗を迎えて那須家を継がせる内約を取っていた。
以後、黒羽の城に立て籠もって三年間、すなわち永禄六年の三月下旬より永禄九年夏まで、鳥山と
何度も繰り返し戦った。
(関八州古戦録)
大関高増の逆心について
0504人間七七四年
2019/10/11(金) 15:33:46.50ID:tAqYfxfy策に溺れたというより、身の危険を察して逃げたというべき
養父、義父が婿に討たれるなんてのはよくある話
北畠具教や宇都宮鎮房をみよ
0505人間七七四年
2019/10/11(金) 16:37:31.03ID:zZQFSs+Hかくて行長(小西行長)は「大坂へ忍び行こうか、または薩州へ落ち行こうか、ただ居城へ赴こうか」と様々
に思案したけれども、敗北の従臣共は1人も尋ねて来ない。あまつさえ東兵は八方に充満し、落人を探し求め
たので、翼が無くてはこの場を漏れ出る様子も無い。
行長は今は運命これまでと思い切り、住僧に向かって「不覚者に与して快き戦もせず、無下に敗北したことは
口惜しい。しかしながら、いつまでもここに忍んでも運の開く我が身にあらず。自害しようと思っても、私は
年久しく耶蘇宗門を崇んでいる。天帝の法として、自らその身を傷つけることを深く慎み嫌う。御僧が今まで
深く労り隠しなさった厚志の返礼に、この命を進上する。徳川殿へ注進なされ」と言った。
これに住僧は「『窮鳥懐に入る時は、猟人も之を殺さず』と言うのだとか。ましてや僧侶の身であれば猶更で
す。ただいつまでもここに忍んで、時を待って運を開きなされ」と、もっとも頼もしく返事した。
ここに関ヶ原の近所に林蔵主という僧あってこれを聞き出し、9月18日、家康公が江州八幡山に陣しなさる
所へ参り、竹中丹後守重門を頼んで「行長は山中の賀須川寺に忍んでいます。人数を向けなさるならば、案内
して虜にします」と訴えることにより、かの僧に竹中丹後守を添えてその他大勢を遣わしなさった。
林蔵主は寺へ帰り強力の悪僧5,6人を伴って行くと、討手の輩を門外に残して自ら悪僧共を連れて、小西の
いた座敷へ忍び入って窺うと、小西は前後も知らずに伏していた。僧従は喜んで密かに側に置いていた刀脇差
を盗み取って俄に押し入り虜にしようとした。その音に小西は驚いて起き上がり、僧2人を取って押さえ膝下
に押し込み刺し殺そうとすると太刀脇差が無い。そこへ悪僧4人が前後左右より飛び掛かり組み留めようとす
るのを、小西はすかさず取って投げ付け押さえた2僧を押し殺した。
時に門外にいた竹中重門は大勢を率いて押し込み、ついに虜にして疲馬に乗せ八幡へ来たり、小西を献じた。
家康公の御感あって、抜群の功として竹中に小西が差していた光忠の刀と兼光の脇差を当座の褒美として賜わ
り、次に林蔵主を召されて黄金10枚を賜った。
諸人は皆、かの出家に似合わぬ任侠をあまねく憎み謗ったが、天罰かまたは小西が怒れる報いなのか、かの僧
が黄金10枚を賜わり帰るのを近辺の盗賊共が聞き付けて押し込み、僧従を残らず搦め置き、かの黄金宝物を
ことごとく奪い取り、あまつさえ林蔵主の耳鼻手足を断って逃げ行けば、林蔵主はその夜中に狂死した。因果
歴然の道理また宜かなと、聞く者は舌を巻き恐懼した。
さて行長は10月朔、石田・安国寺と共に各々雑車に乗せて洛中・洛外・大坂・伏見を引き渡し、三条河原に
おいて首を刎ね梟首せらる。嗚呼憐れむべし。
――『古今武家盛衰記』
0506人間七七四年
2019/10/11(金) 23:41:31.19ID:TJDlXuplの黒羽藩や大関氏一族の展示を見たら
外様にも関わらず江戸時代を通じて黒羽藩をずっと大関氏が支配していたからか
大関高増についてもここで言われてるほど黒くない印象だった。
展示されていた高増の伝記
・高増は大関弥五郎増次の養子であるが実は大田原資清の嫡男であった。
増次が戦死し、ほかに子供がいなかったため増次の父親の宗増は資清と和議して高増を大田原氏の後継とした。
・大関高増は資清が死んだ後は那須氏の重臣として政治的・軍事的に活躍した。
・>>503同様、活躍を妬んだ那須資胤により殺されそうになったため佐竹と組んで対抗。数年後資胤と和睦。
・和睦後、高増は未庵と号し、高僧・大蟲宗岑と問答。
自分自身を運命に翻弄されそうな存在とし、人生のあり方の悩みを宗岑に吐露したところ
「大切なのは過去ではなく今現在である」と諭される。
・主君の那須資晴に千本資俊・資政親子の討伐を命じられる。
高増は、資政に嫁がせていた娘を離縁されていたため、これ幸いと千本氏を殺害。
・小田原合戦の際、主君那須資晴に秀吉の元に参陣するよう説くが聞き入れられず、息子の晴増とともに秀吉のもとに出仕し、大関氏の所領安堵。
0507人間七七四年
2019/10/12(土) 09:57:40.42ID:21VI279s×大田原氏の後継
○大関氏の後継
0508人間七七四年
2019/10/12(土) 12:05:11.95ID:zZ547gHR家臣を集めて連歌の会を催し、これを年忘れとした、その後夜明かしで酒宴を張るのも
恒例となっていた、
この頃太田三楽斎は片野の砦に住んでいたが、この事を知って色々と工夫をしたが、ついに
小田城を乗っ取ろうと決心した。
そのころ天庵は藤沢城に住み、小田城には息子の彦太郎守治が入っていたが、彼のもとでも
この行事は行われていたのである。
三楽斎はまず、真壁氏幹入道道無に相談し、佐竹、多賀谷も巻き込んで密議を行った。
彼はこのように説明した
「これは必ず成功する。小田城中には二、三内応する者もあり、大晦日の夜に兵を出せば
正月には城はこちらの手にあるだろう。」
これに多賀谷側より「その内応する者とは誰か」と問われると、三楽斎はそれらしき書状を
二、三出してみせた、それで安心したものか、真壁、多賀谷、佐竹も彼の企てに同意した。
その年の大晦日、三楽斎父子、同新六郎康資、真壁掃部介、坂本信濃守、佐竹より岡谷縫殿介、
根本太郎、多賀谷より家人の白井全洞などが集まり、小田城近くまで進んだ。そこで人馬を休めつつ
手引の者を待ったが、いっこうに現れない。
佐竹側が
「三楽斎殿、これはどういうことか」
と尋ねると、
「内応のものが有ると言ったが、あれは嘘だ。」
と答えた。
一同驚き
「嘘だと言うが、証拠の書状まで見せたではないか。」
「だからそれが嘘である。」
「ではあれは偽の書状か」
「いかにも。そうでもしなければあなた方は同意しないと思った。」
「それは酷い。そのような事なら我々は帰る。」
憤る彼等に三楽斎は
「まあ待て、連歌のことについてはよく調べてある。小田城の者達は必ず遊び呆けて酒に成り、
家中一同は酔いつぶれて物の役に立つものは一人も城中に居ないだろう。
ここは一つこの三楽斎に任せて頂きたい。決して悪いようにはしない。」
こうも三楽斎の術中に落ちた以上、一同も今更否とも言えず、夜明け近く、貝を吹き盾を叩き、
一斉に鬨の声を上げ小田城に攻めかかった。三楽斎の旗本である益戸勘解由、高橋上野介、石井峰岸
などの勇士は真っ先に大手門を押し破り城中へと乱入した。
小田方はこんな事が起こるとは夢にも考えておらず。連歌の後の酒宴で酔いしれていた所で、寝耳に水の
驚きようであり、周章狼狽はその極みに達し、太刀よ物具よと探す者はまだいい方で、堀を乗り越え、
狭間に潜って逃げ出し、敵を防ごうという家来は一人も居なかった。
彦太郎守治も仕方なく脇虎口より逃れ出て、菅谷金吾入道全久の木田余城へと退散した。
三楽斎はやすやすと小田城を乗っ取ったのである。そしてしばらく番兵を入れて様子を見ていたが、
取り返しに来る様子もなかった。
ところが二月に入って異常に雪が降ったのだが、その大雪の日に小田彦太郎守治は、菅谷、大藤、月岡
といった家臣を率いて不意に押しかけ、小田城を取り戻した。
こうして元のように小田守治が城主に戻ったのである。
(関八州古戦録)
0509人間七七四年
2019/10/13(日) 15:15:04.76ID:EPNnuZ5J小田天庵(氏治)と彦太郎守治父子は、小田城は取り返したものの、昨年大晦日の遺恨を果たすべく、
真壁暗夜軒道無(氏幹)を討とうとしていた。
天正元年(1573)四月下旬、小田父子は4千の兵を率いて筑波根の尾根続きである青柳山を越え、
新治の乙幡村へ着陣した。ここは真壁氏幹の領内である。小田勢は家という家に火をつけ狼藉を
働いた。
乙幡より太田源左衛門資晴の居る柿岡は行程一里半ほどの場所であるので、この噂はすぐに伝わり、
資晴はこの事を片野に居る父の三楽斎へと伝えた。三楽斎こそ、昨年真壁とともに小田を追い落とした
張本人である。三楽斎父子の他に、太田新六郎康資も共に資晴の加勢に来た。
しかし太田勢は小勢、小田方は多勢であるので、一戦を交えると太田方はすぐに近くにあった古屋敷に
駆け込み、その中に立て籠もった。そして小田勢が退くと打って出て、返せば古屋敷に逃げ込み
立て籠もる。そんな事を4、5回も繰り返して時を稼いでいるうちに、真壁氏幹と息子の右衛門太郎広幹が、
次男右衛門次郎久幹、甥の掃部介たちを引き連れ駆けつけ、小田勢が西の方より押し寄せると聞いて、
その方へと馬を急がせていた。所がそうではなく乙幡に敵が有ると解ると、山手に出ようと近道を駆けた。
真壁勢が近づくのをはるかに見た小田天庵父子は「これこそ当面の敵である。」と、太田父子を捨てて
真壁勢に向かった。この場所は三方を山に囲まれ、その中に十町ばかりの平場が有った。狭い場所であるが
小田勢はその中いっぱいに、蜘蛛の子を散らしたように待ち伏せた。
真壁氏幹はこれをよく見破り、先鋒が矢を射かけようとするのをしばらく止めると、敵の先鋒には
目もくれず、弓鉄砲を敵の本陣に向かって激しく射込ませた。小田勢はまたたくまに裏崩れをはじめ、
右往左往した。
(中略)
かくして小田勢は敗北し、もと来た道をしどろになって退く所を、真壁勢はすかさず追撃した。
天庵父子は帰りの四里ほどの道を、一度も返すこと無く逃げていった。
この時、未だ古屋敷に籠もっていた三楽斎父子は軍勢を外に出すと、逃げていく小田勢には手も触れず
ただその傍を一緒にどこまでも走った。そしてやっと小田城の近くになると、小田勢が言っているのと
同じようにわめきながら、味方を装って敵とともに手勢もろとも城内へなだれ込んだ。それから城門へ
上がって太田の旗を押し立てた。
これを見た天庵父子は歯噛みをして口惜しがり、残兵を集めてすぐに奪い返そうとしたが。後より
真壁勢がすぐに追い付いてきたため、このまま前後を敵に挟まれてはどうにも成らないと、城を捨て、
天庵は藤沢城へ、彦太郎守治は木田余城へ逃げ込み、後日の運に任せたという。
(関八州古戦録)
天庵様が鬼真壁に敗れるというお話。なんで直接小田城乗っ取りを企てた太田父子ではなく
真壁氏幹を目の敵にしたのかはよくわからない。
0510人間七七四年
2019/10/13(日) 21:28:17.17ID:g7tFGYqt敵陣に大量のキングコブラをまくという戦法
で、琉球が島津軍に対抗するために大量のハブをまいた話があったけど、
頼山陽「日本外史」の島津の琉球討伐の記述で
「夏、難巴(なは)津を攻む。虜(琉球軍)、徹夜鎖を以て船を聯(つら)ね、津口を扼守す。
而して津傍に山あり。険にして蛇蝎多し。虜(琉球)、恃んで兵を置かず。
我が軍(島津軍)、火を放って山を赭(あかつち)にして上り、進んで楊睽灘を奪ひ、千里山に戦ふ。
利あらず、転じて朝築城を攻めてこれを抜く。
琉球王尚寧、その弟・具志をして来って降を乞はしむ。許さず。
五戦して国都に至り、尚寧及び王子・大臣数十人を擒へて、厳しく抄掠を禁じ、国民を安撫す。
六十日を以て琉球を定む。」
蛇がいるから兵を置かなかった、とかあるから
こういう話が、蛇をまいて兵の代わりにした
という話になっていったのかも
0511人間七七四年
2019/10/13(日) 21:29:07.61ID:g7tFGYqt徹夜鎖→鉄鎖
0512人間七七四年
2019/10/14(月) 12:28:02.56ID:qrq/6fPw嫡子である刑部大輔義頼(弟で養子とも)へ安房一国、弟に下総の領内半分を与え、房州館山に在城の事、
次男梅王丸へは上野国を譲る、しかし未だ若年なので天羽郡佐貫の城主・加藤伊賀守が後見すべし、
とあった。そして下総の残り半分は末の娘の化粧田として、都合三ヵ国の家人は、義頼・梅王丸の
領地の2つに分かれて奉公するように、とあった。
梅王丸と妹君の母は上総千本城主・東平安芸守の妹で、加藤伊賀守の孫娘にあたるため、
幼少の姫君とともに亀の城へと移った。
ところが里見義頼は、自分に譲られた領地があまりに少ないことに怒り、内々に加藤伊賀守に
相談し、梅王丸を房州の円明寺にやって春斎(淳泰)と名乗らせ剃髪させ、わずかに二十貫文の厨料を
与えて館山の城へ押し込んだ。その上母堂および妹君は、上総国高滝の琵琶が首という所に小さな居宅を
普請して移した。
この事を母堂は恨みに思い、「我が身死なば悪霊と成って義頼に取り憑くであろう。」と歯噛みして
口惜しがった。また梅王丸の所領であった上総の領民たちが、東平安芸守、同右馬允父子にけしかけられ
方々で一揆を起こした。
義頼はやむなく、東平父子を討つため正木大膳亮時義を大将に立てたが、これに加藤伊賀守が
反対し数日間内輪もめが続いた。かといって今更房州の寺にやってしまった梅王丸を引き戻すという
わけにもいかず、結局、久留米、千本を根城とする東平父子へ強く談じ込み、条件をつけて収まった。
また梅王丸についた一族も、円明寺の住持を通じて歎訴してきた事で、ある程度その意向を聞き、
上総、下総を平均して義頼の持ち分とした。
その後義頼は春斎を還俗させ、里見讃岐守義成(義重)と名乗らせ、所領一万石を分け与えた。
(関八州古戦録)
里見義弘死後の、里見の騒動の模様。
0513人間七七四年
2019/10/15(火) 07:22:09.91ID:wpzSmfNx0514人間七七四年
2019/10/15(火) 14:54:40.83ID:pTZaer+B天文七年の国府台の戦いにつきあたる。この戦いで生実(小弓)の御所・発性院足利義明が討ち死にするが、
その義明に加担して軍功のあった里見刑部大輔義堯の叔父に、里見上総介実堯という人物が有った
(実際には実堯は義堯の実父であり、稲村の変で主君義豊に謀殺されており、ここでは桐生家重臣となった
里見勝広と混同していると思われる。以下里見勝広として記す)。この戦いの後、里見の頭領で甥である
義堯と不和に成り本国を出奔し、東上野に来て、一族の由来を以て仁田山の里見蔵人の家人と成った。
その後、弘治年間、上杉輝虎に攻められ仁田山城が落ちたことから桐生へと移った。
桐生大炊介直綱(助綱)はこの勝広が高家の余流であり(新田源氏は足利御一家とされた)、武勇にも
優れている所から礼儀を尽くしてもてなし、一門の列に加え、赤萩という所に砦を築いて城将とし、
仁田山八郎をつけて守らせた。
この桐生助綱死後、養子の又次郎重綱(親綱)が後を継いだが、奸臣の津布久(刑部)、山越(出羽守)
らに壟断され、家法が廃れて席次が乱れ、里見勝広も度々譴責されたが、幸い親綱はそれを聞き流していた。
しかしこのままでは将来がないと見た勝広は、嫡子平四郎実勝、次男兵部少輔勝康に、家人の
正木大倉左衛門を付けて密かに赤萩を立たせ、越後へやって上杉輝虎に仕えさせたのである。
その後この兄弟は佐渡、越中、および本庄の城攻めなどで抜群の働きをしたため輝虎に厚遇された。
その間父である里見勝広は老後を赤萩に残って日を送っていたが、例の津布久、山越らの悪家老が
桐生親綱に有りもしないことを讒言して、終に詰腹を着る仕儀に至った。すなわち、桐生家より
山越出羽守、荒巻式部太夫、斉藤丹後守、藍原左近太夫、津久井和泉守、風間将監、清水道仙、
内田主馬之介、水沼主税介らが人数を引き連れ赤萩へ押し寄せたのである。
これに里見入道(勝広)は少しも騒がず
「定めて桐生よりの討ち手であろう。子の兄弟が居合わしていれば私も采配を振るって華やかに
一戦を仕る所であるが、今はもう甲斐のないことである。腹を切って相果てる事としよう。」
そう言ったが、側に仕える石原石見守がそれを制し
「生害はいつでも出来ます。ひとまず谷山へ退き、御運の末を見届けてからになさりませ。」と言った。
これに近習の大貫佐兵衛弘景兄弟は
「この仕儀に至って谷山へ退かれたとて、老木に花も咲きますまい。逃れようとして却って見苦しい
有様に成っては、越後の二人の御子息まで面目を潰します。この上は寄せ手に一矢なりとも報いた上で
御生害あってしかるべきです。」
そう諌めたが、石原は無理に引き立て裏山より勝広を落ちさせた。
大貫兄弟は「今はもう主従三世の縁もこれまでである。せめて落ちられるまでの防ぎ矢を仕らん。」
と、長男彦八郎、次男彦七郎、弟の源左衛門、郎党筒田三郎右衛門らが打ち連ねて大庭に躍り出、
最後の杯を交わす間もなく敵に切り込み、思う様に切りかかり、瞬く間に敵のうち名のある
清水入道道仙、水沼主税介、風間将監の手勢から二十騎を討ち倒し、全員討ち死にをした。
大貫佐兵衛父子は館に火をかけ煙の中より打って出て戦い、切り死にした。
一方、里見入道勝広は石原石見守に連れられ谷山までどうにか落ち延びたものの、そこで石原は
たちまち変心して入道に生害させ、その首を証として敵陣へ送った。このため石原石見守を憎まない
者はいなかった。
(関八州古戦録)
何故か里見実堯と混同されていますが、桐生氏より仁田山赤萩を任された里見勝広の顛末。
0515人間七七四年
2019/10/16(水) 10:49:58.51ID:37WPgNMgこの大膳亮って誰だろう?
梅王丸の側近である当主の憲時か、それとも勝浦の時忠か
0516人間七七四年
2019/10/16(水) 10:51:49.41ID:37WPgNMg0517人間七七四年
2019/10/16(水) 14:21:58.97ID:yXUU6QxE地侍たち数代の暮らしを支えてきたが、彼等が仕えているのは桐生大炊介直綱(助綱)であった。
しかし桐生家が衰えてからは小田原の北条氏の幕下に入り、一年の内一、二度、小田原へ参勤する
他は、他家との関わりは一切なかった。
ところが天正七年、由良信濃守国繁が
「神梅の郷士たちが、一番に近い我が金山に服さず、小田原に参勤するのは奇怪至極である。」
と言い、攻め寄せてきた。
当時、元々の主家であった桐生家は、伊勢崎の荻田備後守に乗っ取られようとしたのを、金山の
由良氏に救援され今もわずかに虫の息を保っていたが、所詮金山の先方たらざるを得ず、
その桐生の兵とともに、金山の藤生紀伊守(善久)、金谷因幡守に率いられた兵に、新田、山高、
津戸、吉次、広沢、荒戸、本宿の地下人百五十人余りも加わり、塩原表へと打って出て、明神の
森に陣を取った。神梅一党を討ち滅ぼすためである。
金谷因幡守はその他の諸士、郷士一千余人を引き連れ梨の木坂の上に陣を進め、後陣の藤生紀伊守との
連絡のため、伊藤右京亮、木村縫殿介に弓三十人を塩原の陣に置いて出撃した。そしてこの部隊は横瀬山の
峰を越えて元原へと出ようとした。
神梅勢より出張っていた強戸、高草木の者達がこれを見て「桐生、金山の勢が押し出してきた!」と、
神梅の松島入道に報告した。入道は「来たか。小勢ならば討ち取って神梅の土産にせよ。」と命じた。
神梅勢はもとより地形に詳しい強みが有り、敵が小勢ならばとたかをくくっていたのだが、最初のうちこそ
勝利したものの、徐々に敵の圧力に押され、だんだんと討ち取られていった。
そこで松島入道、愛久沢能登守以下の者達は神梅に寄り合い評定し、松島入道はこのように言った
「敵はわれら神梅党本来の成り立ちを知らないため、このような事が起こったのだ。」
そもそも鎮守府将軍源頼義が、奥羽での前九年の役にて安倍宗任、貞任兄弟を討ち、京へ報告するため
嫡男八幡太郎義家を代官として差し向けた折に、降参の夷賊七百三十人余りが旧主の名残を惜しんで
この国まで来た。この時、義家が「かねて朝廷で定められている数、百人以上を連れることが出来ないため、
これより皆奥羽に戻るように。」と言った。しかし松島、愛久沢の党八、九十人は、今後奥羽との飛脚の
中継としてこの神梅の山中に残ることと成った。その後桐生家の配下として安堵を得たが、本来は
鎮守府将軍の旗下であり、それ以外の誰の命も受けぬ者である、というのが彼等が先祖より言い伝え
られてきた事であり、この松島入道、愛久沢能登守の二人の老人も自任し、また神梅衆全体の
誇りでも有った。
しかし今はそうも言っておられず、このように桐生金山の兵に攻められては一旦勝つことが出来たとしても
最後には負け、神梅は滅ぼされてしまうため、ここは事の次第を述べて和睦したほうが良いと、松島入道の
長男である松島弥四郎に、丈目、平沢などという郷士が付き添って高津戸の敵陣へ向かった。
高津戸で藤生紀伊守、金谷因幡守と対面して趣旨を述べると、この上は人質を差し出すべしとして
和睦が成った。そしてこの事を金山の由良国繁に報告する間、この三人は高津戸の陣に留め置かれたが、
神梅の者達は不安になって、三百人ばかりが徒党を組んで迎えに来た。
ところがこれを見た梨の木坂の金山勢が「すわ!敵が来た。」と思い、五百騎ほどで突撃し、
横瀬の北と南の表で合戦と成った。互いによく戦い、未だ勝負のつかぬ所に、金山より和睦が成立した
との伝令が届いた。『向後は互いに見方である。』との由良国繁の言葉に一同唖然とした。
この戦いで桐生の兵百七十人余りが死に、また坂の麓ではこの和議のため使いとして来た松島弥四郎も
討たれ、付き従った丈目、平沢も深手を負い、神梅に引き上げた後、二、三日で死んだ。
その後松島、愛久沢より小田原の北条氏政へ事の次第を通達し、返事はなかったという。
以後、神梅の郷士は金山の由良国繁の旗下となった。
(関八州古戦録)
現在の群馬県みどり市あたりに在った、神梅郷士たちについてのお話。
05181/2
2019/10/17(木) 14:21:19.72ID:HO4sb0ij大胡、山上、伊勢崎などの城を攻め落とすつもりであった。また自身でその周辺も見て廻り、翌日には
膳城の様子を窺おうと、一条右衛門太夫信連、原隼人佐昌勝、真田安房守昌幸、土屋宗蔵昌恒以下を
引き連れ、持小旗だけの軽装で、総勢、武具も付けずに出発した。
当時膳城は、先年に金山の由良信濃守国繁の持城と成り、地勢をよく知っている大胡民部左衛門を主将、
渋皮主膳正を副将として守らせていた。
さて、この時城中では秋の月見の宴が開かれており、皆は気散じの酒盛りをしていた。ところがその席で
思いがけなく、玉村五郎兵衛という侍が渋皮主膳正と口論を始め、それに那波、伊勢崎、片岡と言った者達も
加わり、あまつさえ双方の家人小者たちまでもを巻き込んで、二手に分かれて収拾のつかぬ混乱となった。
この有様に大胡民部左衛門は怒り大声で叱咤した
「このような時に強敵である武田勝頼が攻めてくればどうするのか!勝頼は隣の厩橋城に来ているのだぞ。
そのための防備こそ急がねばならないのに、酒を食らって喧嘩をするとは何事だ!恥を知れ!」
しかし誰の耳のも入らず乱闘を続けていた。
そんな最中、この膳城に武田衆が到着した。
勝頼も城の中がなんとなく普通でないと察したが、自分たちは武器も持たず素手のままであるので
手を出すわけにもいかず、一旦取って帰ろうとした。
膳城の門番は武田衆に気がつくと驚いて城中に注進した。しかし混乱の中下知するものもおおらず、雑兵達は
勝手勝手に柄道具を手に取り出撃し、まず武田方の倉賀淡路守秀景に襲いかかった。
武田方ではこれを見て西上野衆が取って返し、雑兵たちを取り押さえようとしたところ、これに釣られ
武田衆は総勢がどっと引き返してきた。雑兵達はうろたえ城中に逃げ込んだが、武田衆もこれを追いかけ
虜にしようと堀際まで押し寄せた。
この時勝頼は、故信玄より不用意な城攻めを固く戒められていた事を思い出し、皆に引き返すように
下知したのだが、時既に遅く、土屋宗蔵の手の者である脇又市郎という若者が木戸を押し破り廓の一部に
押し入った。続いて同じ手の者の一宮佐太夫も押し入り、城兵六人と渡り合っていた。一宮はかなわじと見て
引き返そうとしたが、脇又市郎だ「死しても退くべからず」り声をかけて踏みこたえ戦った。
この間に武田方では一条信連の組より浅見治部太夫、堀喜右衛門、中根七右衛門などの歴戦の者共が
駆けつけ、平服のまま切り込んで敵を廓内に追い込んだ。
しかし寄せ手は素手のままであるし、城兵は仲間喧嘩の真っ最中で、双方とも不用意の戦となった
わけである。
それでも城中には腕に覚えの有る侍たちも居て、勝頼の家臣でかつて遠州高天神城の戦いでも
高名をはせた、小笠原民部の家来である林平六郎が討ち死にした。また原隼人佐昌勝も攻め入って
敵七人に取り囲まれて戦っているうちに、小溝に足を踏み入れ、立ち直ろうとする所を真っ向から
眉間に切りつけられて倒れた。曲渕勝左衛門が彼を肩に担いで城外に連れ出し、原の付き人に渡したが、
後に甲府に戻ってから死んだ。
脇又市郎は最後まで戦いよく首も取った。彼は甲府の足軽大将・本郷八郎左衛門の甥で、駿州の先鋒である
脇善兵衛の養子となり、かつて三州長篠合戦に於いて二ヶ所の傷を負いながらも功名を上げた侍である。
この時二十五歳であった。
このような中、皆に心すべしと説いていた主将の大胡民部左衛門も寄せ手の浅見治部太夫に討たれ、
残兵悉く撤退して城は落ちた。
05192/2
2019/10/17(木) 14:23:30.93ID:HO4sb0ij素手のままで城を落とした事はない。宿老の勝八太郎などは、これまで勝頼を少しでも早く成長させ、
采配を渡したら自身は剃髪して介添と成り、先陣を仕ろうと思っていたが、勝頼がこれほど潔く
育ったからには、おそらく敵の三重の柵はおろか、十重の柵も踏み破って戦っても負けることはないだろうと
気を強くした。
このように褒めるものも居たが、批判するものも居た。
「今もし、敵の中に楠正成のような智謀の良将がいて、偽って同士討ちの体に見せかけ、これを見て
好機と思い素手で城攻めすれば、寄せ手は片端から生け捕られ、生きて帰る者は一人も居なかったであろう。
勝頼公は血気盛んで猪武者だったからこそ、五年前長篠の戦いであのような大敗を喫したのではないか。
あの時敵の三重の柵を破ることが出来ず、信玄公以来の名だたる名将を数多く討ち死にさせてしまった
ではないか。」
そのように嘆くものもあり、事実今度の戦いで死んだ原隼人佐は、その長篠の戦いで生き残った
数少ない勇将であったが、跡部、長坂という勝頼の佞奸どもに家法、軍法が歪められていくのを見るより、
いっそ討ち死にしたほうが良いと思って、今度の戦いに自ら身を投げ出し戦死したのだろう、などと
言われたのである。
(関八州古戦録)
武田勝頼の有名な「膳城素肌攻め」についてのお話
0520人間七七四年
2019/10/18(金) 13:57:46.00ID:mXMwVoJ5信玄の無二の幕下であった。しかし信玄亡きあと、その後を継いだ勝頼と不和に成った。
そこで勝頼はこれを攻め滅ぼさんと、武田逍遥軒(信廉)に小山田備中守昌行、横田十郎兵衛守昌などの
部将を付けて出陣させた。もちろん木曽義昌にも油断はなかった。
天正十年正月二十八日、敵味方の激しい戦いが始まった。木曽方で奈川の城主・木曽兵部丞仲親、および
今井丹波守などの働きで、武田方は一旦退かざるを得なかった。
この間に木曽義昌は岐阜の織田信長に助勢を請うた。それについて、甲州乱入のための手引をしても良いと
伝えた。信長は大いに喜び、嫡子秋田城介信忠に先陣を命じた。
信忠は五万余騎を率いて二月十二日に岐阜を出発し、信州伊那郡高遠へ押し出した。
加勢の徳川家康も、三万騎を率いて二月十八日に遠州浜松を出た。案内役は穴山陸奥守入道梅雪庵で、
富士の麓の川内通りから市川口へと押し出した。
これらに続き信長も、三月五日に七万余騎を率いて安土を出た。
武田家は新羅三郎義光以来の甲斐源氏の頭領として、現在数ヵ国を領している名高き大名である。
それをただ退治するという事では名目が立たぬと思ったのか、信長は前関白である近衛前久公を
担ぎ出した。一見朝敵征伐に見えるからである。人の口を塞ぐ信長の策であった。
三月十三日、信長の軍は信州根羽駅に着陣、翌十四日波合へ軍を進めた。十日には既に、城介信忠の名で
関喜平治、桑原助六郎の二人を降伏を促す使いとして出していた。
織田方の先陣は滝川左近将監一益、川尻肥後守秀隆であった。
そして甲州田野郷天目山に頼る所もなく彷徨っていた武田大膳大夫勝頼とその子太郎信勝は、
織田方に捕えられる前に自害した。
彼等の首実検の時、信長はこのように言った。
「そなたの父信玄は、平生言葉に表裏があり、無礼無道であったため、その天罰が子孫に当たったのであろう。
こうして数代の領民を失い、かような仕儀となった。お主も思い知ったであろう。
皆もこのざまを見ろ。快いことではないか。」
(関八州古戦録)
関八州古戦録における、武田家滅亡についての記事。
0522人間七七四年
2019/10/19(土) 09:29:00.86ID:YAAZcgX4強すぎて誰もかなわない感覚
0523人間七七四年
2019/10/19(土) 11:23:30.95ID:meTP904Y絶望しか無いな
0524人間七七四年
2019/10/19(土) 12:26:36.49ID:gY8uFqPvと言った話も。なんて優しい信長
0525人間七七四年
2019/10/19(土) 12:39:26.70ID:Dc3TRckHこれだけで得々と先導する穴山梅雪って印象が出るのは何なんだろ
ああゆう末路になるわなあって感じの
0526人間七七四年
2019/10/19(土) 14:11:28.28ID:rHW680I5都落ちまでは3年、壇ノ浦まででもたったの5年。
執権北条氏も元弘の乱までは絶頂期で、それから2年で滅亡。
それを考えれば豊臣家は長生きしたほうなのかもしれない。
0527人間七七四年
2019/10/20(日) 09:16:13.25ID:OKDUeII+石田とか増田やらの奉行衆がよっぽど有能だったんかね
0528人間七七四年
2019/10/20(日) 19:17:00.09ID:CFGmSaJm0529人間七七四年
2019/10/21(月) 15:14:52.67ID:nRo1POF005301/2
2019/10/22(火) 15:27:08.66ID:YTH2ODIp上杉謙信が死んでからは佐竹義重の一味となり、小田原の北条氏を仇敵としていた。
この佐野と長尾顕長の足利とは土地が入り組んでいて、年来その境界で争いが絶えなかった(境目相論)。
それはついに両地頭の矛盾と成り、長尾顕長は永禄の頃は館林に在城し、足利の岩井山城を白石豊前守、
渕名上野介に守らせていたのだが、若林郷、猿田の川端で両家は争い、この時は佐野方が切り勝ち、
野田、小曽根を越えて館林の近辺まで押し入った。しかし金山の由良氏が長尾方に立って援軍を出したため、
佐野方は退いた。
その後も佐野方は抱えの砦に浅羽右近将監資岑を入れ置き不意に足利を襲い、足黒、西川あたりでの
初田合戦でも、佐野宗綱自身が乗り出して足利方と戦い首まで取った。その復讐として足利方も、
須花、猿崎の両城にあった小野兵部少輔・同長門守兄弟を襲撃しこれを殺し城を奪った。
宗綱はこの事を日夜く惜しく思い、土民田夫をそそのかして足利領の名草周辺の田畑を踏み荒らさせ、
麻畑を蹂躙し、放火狼藉を仕掛けた、
そしてその年(天正十二年)の十二月、ついに宗綱は重臣であり大貫隼人正、富士源太を呼んで言った
「明元旦に旗本の人数を率いて足利表へ出陣し、敵の油断を突いて勝利を得ん!」
ただし本道の寺岡通りを通れば目立ち、金山や館林より援軍が後詰に来られては困る。とにかく名草に出て
藤阪の詰め所を踏み荒らして、須花、猿崎の両城を取り返し、あわよくば彦間、岩手山まで押しかける。
そのため上役たちに触れを回し、急ぎ人数を集めるよう命じた。そしてもし金山、館林より後詰めが出た
場合は、直ぐに引き上げるとも語った。
しかしこれを聞いた大貫、富士たちは
「敵の不意をつくというのは兵法として最大の策ではありますが、除夜より元旦にかけて敵を襲うというのは
楚の項羽であっても好まれなかった事です。せめて正月三が日の、年始めの祝事が済んでからになされては
いかがでしょうか。」と諌めた。だが宗綱は逸りたち一向に聞かず、夜陰に及んで陣触れをした。
明けて天正十三年元旦、雪中であり、また夜中のにわかの陣触れのため旗本の集まりはひじょうに悪かった。
腹に据えかねた宗綱は馬廻りのわずかに集まった旗本のみを引き連れ石塚に向かって駆け出した。
赤見内蔵助、富士、大貫と言った重臣たちが馬の轡に取りすがって止めるのを振り切っての出馬であった。
夜前よりの深い雪を蹴り、元旦の眠りを覚ます出馬であったが、夜明けには遠く敵の番所の早鐘が聞こえ、
金山、館林の後詰めがあり、危ういとも思われた。
しかし佐野宗綱はすべてを運に任せて、一散に須山城を奪回しに向かった。ここは先の城主・小野兵部少輔が
追い出された後、足利方で彦間の小曽根筑前守が入り守っていたが、この思いもよらぬ朝駆けに大混乱と成り、
太刀を取る暇も無い所に佐野方が無二無三に攻め入り当たるを幸いと撫で斬りにし、簡単に乗っ取ることが
出来た。小曽根は搦手より逃亡した。
宗綱は敵に隙を与えず、続けて藤阪、彦間の砦も落とそうと、平地であろうが坂であろうがが構わず
「者共つづけ」と敗兵を追い、藤阪山の北まで来た時、運が尽きたということであろうか、どこからか
飛んできた流れ弾が錣(兜で左右後部の首筋を覆う部分)を打ち抜き、馬よりどうと落ちて気を失った。
この時、宗綱には栗田という下人が一人ついていただけであった。栗田は気を失った主人を半町ほども
ひきずり自陣へ戻ろうとしたが、敵の若侍が一人、逃さじと追ってきたため、そこに主人を打捨てて
味方に注進するため駆け戻った。
この時宗綱は息を吹き返した。田の畦に腰を掛けて前後をきっと見渡すと、続く味方は一人もなく、
敵と想われる若侍が一人駆け寄ってきている。宗綱はもとより剛の者で、心は猛っていたものの、
銃撃と落馬の負傷で心身の衰えいかんともしがたく、雑兵の手にかかるより腹を切って果てようとしたが
もはや手にその力もない。ただ前に立った敵をにらみつけるだけが精一杯であった。
05312/2
2019/10/22(火) 15:27:55.84ID:YTH2ODIp「甲冑の体、ただびとにあらず、佐野の家中にても大将分の手負いと見たり、ただ徒に打ち取らんよリ
その鎧兜を渡されよ。」と言うと、宗綱は苦しい息の下より
「物の具は言うに及ばず、この首そなたに取らすべし。さりながらただ闇雲に敵に渡さば黄泉の旅路の
触りにもならん。そなたの苗字を聞いた上で腹掻っ切ろう。」
「それがしは彦間の士、豊島七左衛門と申す。甲冑をさえ渡さば命は助け申す。」
「なにを小癪な。かかる仕儀に及び一命を継ぎて何をかせん。介錯を頼む。」
そう問答しているうちにも、足利方の者達が集まってきた。
「早々に打て!」との言葉に、豊島七左衛門その頸を掻き落とし、甲冑太刀まで分捕って退去した。
そのころ佐野の旗本達は主人に置いていかれ、行方さえ解らず探していた所に、栗田が馳せ戻り
一部始終を述べた。家人達は大いに力を落とし、また呆れて言葉もなかった。
富士源太郎は涙を抑えて
「この上は彦間の城中に御首があるだろう。これより討ち入って御首を取り戻すか討ち死にするか、
二つに一つである。」と立ち上がった、。しかしこれに赤見内蔵助は
「その儀に勿論であるが、心を鎮めて考えて見るに、今回のことは宗綱公に天魔が魅入っての暴挙であった。
このうえ今我々が切り込んで犬死すれば、府君の無法をさらに上塗りするだけで、敵にとっては倍に倍する
利益となり、味方は未来永劫遺恨を晴らすことが出来なくなるであろう。
ここは一旦栃木へ引き返し、係累の方々より城主を取り立てて後、この仇を報いるのが得策と考える。
皆々はどう思われるか。」
そう言って一座を見回した所、富士、大貫らもこれに同心した。そこで諸勢をまとめ、涙ながらに栃木へ
引き返した。実に無念極まる有様であった。この時このような落首が出た
みそか夜の 闇によしなき出馬して つい立(昨日)姿見せぬ小次郎
(関八州古戦録)
佐野宗綱の元旦討ち死にのお話。内容自体は既出ですが非常に詳細だったので。
0533人間七七四年
2019/10/22(火) 22:24:26.35ID:lTNPtdTHhttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191019-03272884-tokushimav-l36
将棋の「王将」は「大将」になるかもしれなかった? 将棋に関する県内外の資料を紹介する特別展「王手 将棋の日本史」が
19日から11月24日まで、徳島市の徳島城博物館で開かれる。インドから東南アジアを経て平安時代に日本に伝わり、天下人から
庶民まで幅広く愛された将棋。現在の形になったのは15〜16世紀とみられる。豊臣秀吉が駒の名称変更を朝廷に提案した
古文書などをはじめ、肖像画、将棋盤、駒など、歴史、美術史的な資料100点が展示される。国内の将棋関連の資料が一堂に集まるのは初めて。
最も興味深いのは、豊臣秀吉にまつわる古文書「お湯殿の上の日記 第五七」(東京大史料編纂所蔵)。15〜19世紀に朝廷に
仕えた女官が書いた職務日誌で、秀吉が1595年、菊亭晴季ら公家3人を通じて「王将」を「大将」と改めるよう朝廷に提案し、
天皇が許可したとする内容が書かれている。しかし、記述はそれで終わっており、提案理由や後に名称変更が行われなかった経緯などは分かっていない。
江戸時代には、大橋本家が徳川家康から将棋界の取りまとめ役に当たる将棋所を任された。その大橋本家が考案した
「大局将棋」の復元品(大阪商業大アミューズメント産業研究所蔵)も注目を集めそうだ。縦1・3メートル、横1・1メートルの盤に、
各陣営402枚ずつの駒を並べる破格のスケールの将棋だ。
「熊兵」「森鬼」などオリジナルの駒、ルールがあり、大橋本家が将棋家元の権威を示すため考案したとされる。実際に指すと、
勝敗を決するまでに3、4日要するという。
県内関係の出品では、美馬市脇町出身で明治時代に活躍した12世名人小野五平(1831〜1921年)が、三段から七段まで
昇段ごとに受け取った免状5枚が並べられる。
徳島市の中島田遺跡の13世紀の地層から出土した「歩兵」の駒は全国的に見ても古い。駒の裏に「と(金)」の墨書がなく、実際に
使われたかどうかは不明だ。この他、徳島市上八万町の鎌倉から室町時代の川西遺跡から出土した駒には「本横」と書かれている。
中世にはやった「中将棋」と呼ばれる将棋で使われたとみられる。
森脇崇文学芸員は「日本の将棋の長い歴史と伝統を知ってもらい、各時代の人々が親しんできた史実を資料を通して想像してほしい」と話している。
0534人間七七四年
2019/10/23(水) 13:33:11.48ID:Nqs6PsjL家子郎党を招き祝宴をひらき、まず須山城を守っていた小曽根筑前守に抔を与え、二番目に宗綱を
討ち取った豊島七郎左衛門を近くに呼んで「宗綱誅伐の手柄第一である」と抔を与え、感状と褒美が渡された。
(中略)
しかしここで、重臣である江戸豊後守が顕長へ諫言をした
「申し上げます、第一に佐野殿を討ち取ったこと、早速小田原へご報告なさるべきであるのに、御延引
なされているのは何故でしょうか。当家は北条の幕下であり、また小田原は関東無双の大名、油断は大敵
かと存じます。
第二に彦間、藤坂の両城に加勢の人数をすぐにでも差し向けるべきなのに、それも未だ行われていません。
諫言耳に逆らうと申しますが、世俗に勝って兜の緒を締めよとも言います。私が本日顔色のすぐれなかった
のは、この二つが気にかかっていたためです。」
この言葉に長尾顕長も深くうなずき
「その方の言葉も尤もである。しかし小田原への注進はさほど遅れているとは思わない。また
彦間、藤坂への加勢も、佐野方は主人を失い、混乱こそすれ弔い合戦など思いも寄らないはずだ。
しかし勝手兜の緒は締めねばなるまい。」
そう言って、ほどなく彦間、藤坂へ加勢を入れ、また小田原へも、久米伊賀守、金山の由良氏からは
横瀬勘九郎が使いとして立った、北条氏政父子は両人を引見し、懇ろな言葉があり、引き出物なども賜り
帰国した。
(中略)
同年二月二十五日、小田原の北条氏政・氏直父子より、山上郷右衛門という武士が由良、長尾両家へ
使者として差し向けられた。その趣は、先年に金山の武力を以て桐生又次郎重綱を追い払い、また
当春佐野宗綱を討ち取ったこと神妙であると褒め称え
「この上は佐野、栃木、結城、小山辺りまでも手中に入れられたく、出馬に於いては小田原よりの加勢も
参らすべし。だからといって、当方には切り取った領地に対しての野心はない。各々の心次第に
宰領されたい。ただし両家の軍法、采配について、小田原の軍勢との調整が必要であり、
由良国繁、長尾顕長同道にて、小田原へお出向きくださるよう、この山上を案内に立てたのである。」
との内容であった。
そこでこの兄弟(由良国繁と長尾顕長は兄弟)は打ち連れて上州を発ち小田原へと向かった。
由良国繁は林越中守、同又十郎、今井大蔵少輔、鳥山伊賀守、江田兵庫介、小金井十郎兵衛、細谷勘九郎、
堀江彦助、長島外記、金井田伝吉、以下騎馬三十名、弓鉄砲の者百名。
長尾顕長は南掃部介、新井図書介、山名主計介、貝原丹波守、高山右馬介、市川主水介、大岩大助、
芳野加右衛門、宮崎五太夫、江川海老介、斎藤作右衛門、小菅弥太郎、関口右馬介、岩崎弥助、以下
騎馬三十名、弓鉄砲の者七十名を召し連れた。
両家は小田原に到着すると町家に旅宿を定め、それより氏政父子と対面のため城へ上った。
その彼等に、山上郷右衛門に多米主膳正が付き添い、氏政父子の言葉を伝えた。それは意外の
言葉であった
「各々の来臨祝着である。であるが、そもそも当春に佐野宗綱を討ち取った事、早速に注進あるべき
なのに、延引したのはその意を得ず。また秩父新太郎、岩築十郎などが成田左馬介を案内として
栃木の城を攻めた時、両家は何故に加勢をしなかったのか。そのため両勢は土地不案内により
若干の討ち死にが有った。これは両家が見殺しにしたのも同然である。
それだけではなく、近頃両家は小田原を蔑ろにし、あれといいこれといい奇怪の行為多い。
故に北条旗下の理由なく、この逗留の間に糾明するものである。」
そう述べるや突然多勢で取り囲み、そのまま用意してあった座敷牢へ入れ、番兵を付けた。
従った家臣たちはこの思いもかけぬ突然の事態にどうすることも出来ず、ただ臍を噛むばかりであった。
色々と評議をしても、主人二人が虜になった以上いかんともしがたく、その夜のうちに急ぎ上州へ帰ることと
成った。金山の長島外記、館林の外丸源之允の二人はそれぞれ主人の馬に打ち乗り、小田原から
金山までの四十余里の工程を、五時(10時間)ばかりで駆けつけ注進に及んだという。
彼等の乗った馬は両方ともにその夜死んだ、
(関八州古戦録)
佐野宗綱元旦討ち死に続く、由良国繁・長尾顕長兄弟の小田原幽閉についてのお話
0535人間七七四年
2019/10/24(木) 11:51:54.69ID:XxIWfP8w言い、宇都宮の幕下もあった。
ところがその上総介義雄が、近年勢い盛んとなった宇都宮の芳賀一族を憎むあまり、宇都宮の幕下を
離れて小田原北条氏の元へと走った。北条氏は大いに喜び、金山、館林、桐生、小股、壬生、鹿沼、
佐野、足利、栃木に至るまで悉く小田原の指揮下に入るということであれば、兼ねて懸念していた
皆川を落とす好機であると、天正十三年四月下旬、鉢形、岩槻、八王子、江戸、葛西および北武蔵の
軍勢を率いて野州表へと出陣し、都賀郡藤岡に陣を張った。
皆川山城守広照も諜者を放ってこれを察し、佐竹常陸介義重、多賀谷修理太夫重経に後詰を頼み、
七千余騎にて同郡大田原に陣を敷いて待ち受け、対陣と成った。
小田原方についた壬生上総介も、栃木の近藤出羽守勢を併せて栃木表へと押し出したが、皆川山城守は
これを追い払わんと自ら兵を率いて一戦し、難なくこれを追い払った。しかしその後、ここも
持久戦と成った。
(中略)
かくて対陣は百日に及び、敵も味方も長陣に退屈して、終に双方より和睦の話が起こり、小田原よりは
北条陸奥守氏照。佐竹よりは東中無少輔政義が出て話し合い、七月二十九日、勝負無しとして
互いに陣を引き払った。
その後、皆川山城守も何となく北条の幕下に成ったということである。
(関八州古戦録)
決戦のないまま双方引き上げという内容でありながら、結果的に北関東における北条の優位を導いたとされる
沼尻の戦いについてのお話。
0536人間七七四年
2019/10/25(金) 07:14:13.83ID:G5raLgkPこれは常州中堂の益子筑後入道睡虎を誅殺し、その所領六百町を没収するとの話であった。
益子は宇都宮家にとって紀の党と称される、歴代の股肱であった。しかし近年小田原の北条家に加担し
笠間、上三河の土地を掠め取ろうという動きを見せていたためである。
この益子も含め、この頃宇都宮国綱の力が弱くなっていたため家臣たちで宇都宮家より離れていく者が
多かった。壬生の上総介義雄も宇都宮方から離れ小田原に与し、榎本の近藤出羽守も結城晴朝に押しつぶされ、
その後小田原の幕下へ入った。芳賀伊賀守高経も近頃北条氏直に内応しているとの噂があり、宇都宮では
穏やかでない所に、この年の五月上旬、那須与市資景、福原安芸守資則、大関左衛門佐資増ら一千余騎が
宇都宮方の多気城を襲った。
多気城では戸祭備中守、同紀伊守、赤垣信濃守、同周防守以下が奮戦してようやくこれを追い返した。
さらに近頃では日光山の社僧、神人なども重代の由緒を捨てて北条家へ通じ、八月には彼らが不意に
挙兵し、宇都宮方の倉ケ崎城を囲んだ。城方では大門弥二郎、大桶加賀守、戸山彦十郎らが二百騎で
これを守り、社僧、神人たちを追い払った、しかしこの時、大門弥二郎が討死した。
そして九月下旬には北条安房守氏邦が、秩父、鉢形、寄居筋より八千騎を率いて再び多気城を襲った。
宇都宮方は力戦し、十月二日にどうにかこれを追い払った。
しかしここで、今度は北条氏直が直々に大軍を率いて宇都宮を攻めるとの沙汰が報じられ、十二月朔日、
ついに宇都宮国綱より、北条方へ和議を申し入れ、小田原に人質を出したのである。
(関八州古戦録)
天正十七年というと翌年には秀吉の小田原征伐ですが、この時期宇都宮氏も北条の圧力で崩壊寸前で
あったという記事ですね。
0537人間七七四年
2019/10/26(土) 00:07:48.41ID:04mm58w+0538人間七七四年
2019/10/26(土) 04:45:30.95ID:5VwDRVWc05391/2
2019/10/26(土) 11:54:57.21ID:X38jfGoHさながら出家の如く、山伏の如きであった。
ある時は経を読み陀羅尼を弁じ、見る人身の毛もよだつほどであった。
このような状況であったので、お家相続の子が無く、御内・外様の人々は色々と諌めた。
その頃の公方(足利)義澄の母は、柳原大納言隆光卿の娘であったが、これは今の九条摂政太政大臣
政基の北政所と姉妹であった。つまり公方と九条殿の御子とは従兄弟であり、公家も武家も尊崇した。
この政基公の御末子を政本の養子として御元服あり、公方様の御加冠あり、一字を参らせられ、
細川源九郎澄之と名乗られた。この人はやんごとなき公達であるので、諸大名から公家衆まで皆、
彼に従い奉ったので、彼が後継となった細川家は御繁昌と見えた。そして細川家の領国である丹波国が
与えられ、彼の国へ入部された。
そのような所、細川家の被官で摂州守護代・薬師寺与一一元という人があった。その弟は与ニといい、
兄弟共に無双の勇者であった。彼は淀城に居住して数度の手柄を顕した。
この人は一文字もわからないような愚人であったが、天性正直であり理非分明であったので、細川一家の
輩は皆彼を信頼していた。また先年、細川政元が病に臥せっていた頃、細川家の人々は評定して
阿波国守護である細川慈雲院殿(成之)の子、細川讃岐守之勝(義春)に息男があり、これが器量の人体
であるとして政元の養子と定めることを、この薬師寺を御使として御契約があった。これも公方様より
一字を賜って細川六郎澄元と名乗った。
この時分より、政元は魔法を行われ、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、後には御心も乱れ
現なき事を言い出した。この様ではどうにも悪しき事であると、薬師寺与一と赤沢宗益(朝経)は相談して
六郎澄元を取り立て細川家の家督を相続させ政元を隠居させようと、ここに謀反を起こし、薬師寺与一は
淀城に立て籠もり、赤沢は二百余騎にて伏見竹田に攻め上がった。
しかし永正元年九月の初め、薬師寺与一の舎弟である与ニ(長忠)が政元方の大将となり、兄の籠もる
淀城を攻めた。城内をよく知る与ニの案内が有ったために、城は不日に攻め落とされ、与一は自害することも
出来ず生け捕りにされ京へと上らされたところ、与一はかねて一元寺という寺を船橋に建立しており、
与ニはこの寺にて兄を生害させた。与ニには今回の忠節の賞として桐の御紋を賜り摂津守護代に補任された。
源義朝が父為義を討って任官したのもこれに勝ることはないだろうと、爪弾きに批判する人もあった。
赤沢は色々陳謝したため一命を助けられた。
このような事があり、六郎澄元も阿州より上洛して、父・讃岐守殿(義春)より阿波小笠原氏の惣領である
三好筑前守之長と、高畠与三が共に武勇の達人であったため。補佐の臣として相添えた。
05402/2
2019/10/26(土) 11:55:20.60ID:X38jfGoH六郎澄元の後見に上がり、薬師寺の権勢にもまるで恐れないことを安からず思い、香西又六、竹田源七、
新名などといった人々と寄り合い評定をした
「政元はあのように物狂わしい御事度々で、このままでは御家も長久成らぬであろう。しかし六郎澄元殿の
御代となれば三好が権勢を得るであろう。ここは政元を生害し申し、丹波の九郎澄之殿に京兆家を継がせ、
われら各々は天下の権を取ろう。」
そう評議一決し、永正四年六月二十三日、政元はいつもの魔法を行うために御行水を召そうと湯殿に入られた
所を、政元の右筆である戸倉と言う者がかたらわれており、終に生害されたことこそ浅ましい。
この政元の傍に不断に在る、波々伯部という小姓が浴衣を持って参ったが、これも戸倉は切りつけた。
しかし浅手であり後に蘇生し、養生して命を全うした。
この頃政元は、丹波(丹後)の退治のために赤沢宗益を大将として三百余騎を差し向けており、河内高屋
へは摂州衆、大和衆、宗益弟、福王寺、喜島源左衛門、和田源四郎を差し向け、日々の合戦に毎回打ち勝ち、
所々の敵たちは降参していたのだが、政元生害の報を聞くと軍勢は落ち失い、敵のため皆討たれた。
政元暗殺に成功した香西又六は、この次は六郎澄元を討ち申せと、明けて二十四日、薬師寺・香西を
大将として寄せ行き、澄元方の三好・高畠勢と百々橋を隔てて切っ先より火を散らして攻め戦った。
この時政元を暗殺した戸倉が一陣に進んで攻め来たのを、波々伯部これを見て、昨日負傷したが主人の敵を
逃すことは出来ないと、鑓を取ってこれを突き伏せ郎党に首を取らせた。
六郎澄元の御内より奈良修理という者が名乗り出て香西孫六と太刀打ちし、孫六の首を取るも修理も
深手を負い屋形の内へ引き返した。
このように奮戦したものの、六郎澄元の衆は小勢であり、敵に叶うようには見えなかったため、三好・高畠は
澄元に御供し近江へ向けて落ちていった。
この時周防に在った前将軍・足利義材はこの報を聞いて大いに喜び、国々の味方を集め御上洛の準備をした。
中国西国は大方義材御所の味方となったが、安芸の毛利治部少輔(弘元)を始めとして、義材を保護している
大内氏の宗徒の大名の多くは京都の御下知に従っていたため、この人々の元へ京より御教書が下された。
(足利季世記)
永正の錯乱についての記事
0541人間七七四年
2019/10/26(土) 20:58:53.41ID:04mm58w+0542人間七七四年
2019/10/27(日) 14:07:37.07ID:lugWOShB去年織田信長が叡山を焼いた事により、身延を新たな叡山になさろうと考えられ、身延山を
御所望になられた。そしてその代わりとりて長野に寺を建て、今の身延より大きく御普請仰せ付けられ、
それを相渡すとの仰せであった。
身延山の各出家は御返事に、「日蓮聖人の御影の前で鬮を取った上で結論を申し上げる。」と、
鬮を三度、五度、七度まで取ったものの、合点の鬮を得ることはなかった。
その上山が変わらない祈念として、壱萬部の法華経を読んだ。また不思議なことに日蓮聖人の
御告げが多く有ったと沙汰された。
しかしそのような事を信玄公は知らず。是非身延を東の叡山にするべきであると内心定められていた。
「出家に悪く当たらぬ物」と言うが、これは翌年の四月十二日になって思い当たったものである。
(武田信玄は元亀四年四月十二日に病没した)
(甲陽軍鑑)
0543人間七七四年
2019/10/28(月) 12:43:00.08ID:gNYaA4DS北条家中では、北条家の浮沈この一挙に関わる、絶体絶命の時来たりと、心ある面々は眉をひそめ、
手をこまねいて大嘆息しないものは居なかった。
ところが北条氏政、氏直父子はさほど驚く様子もなく悠々として、一族家臣へ向かって
このように言った
「この小田原城は、京から遠く百余里にある。秀吉といえどもそう軽々と兵を動かすこと
かなうまい。しかも小田原の前には、東海第一の難所である足柄、箱根の険がある。
早雲以来五代の臣下が多年守ってきた要害であり、また忠誠なる関東武士があり、知勇備わる
百騎の関東武士は、ゆうに上方の千騎に相当する。
昔、右兵衛佐(源)頼朝公に対して平家の追討軍として、小松三位中将維盛卿が十万余騎の大将として
由井、蒲原まで押し寄せてきた時、彼らは既に関東武士の武勇に恐れすくんでいたため、水鳥の
羽音に驚いて黄瀬川より逃げ帰ったという。
近くは、軍略に長けた上杉謙信、武略縦横の武田信玄らでさえ、城下まで押し寄せてきながら
攻めきれずに退敗した。
そして何たることか、秀吉は卑賤の身より高職に駆け上がり、関西を握ったとはいえ、上見ぬ鷹の
思い上がりである。俗に『凡夫勢い盛んなれば、神仏の祟有り』という。下剋上の天罰は必ず
秀吉の頭上に下るであろう。ことさら不案内な東国に長途の大軍、しかも客戦である。
天険に寄る小田原城を落とすことは不可能であり、また我が城には兵糧弾薬ともに豊富であるから、
五年でも十年でも籠城できる。防戦一方の覚悟を以て望めば、西軍(豊臣軍)を蹴落とした上に、
秀吉を捕虜にすることすら難しくないだろう。」
そう事も無げに大言した。万座の諸士の中には頷いた者もいたが、口を閉じて何も答えず
引き下がった者も少なくはなかった。
(関八州古戦録)
0544人間七七四年
2019/10/28(月) 12:54:07.32ID:YseRBnom0545人間七七四年
2019/10/28(月) 12:54:13.86ID:YseRBnom0546人間七七四年
2019/10/28(月) 17:03:21.45ID:K9sEKsdv0547人間七七四年
2019/10/28(月) 18:18:32.49ID:fMj2ZR8Q伝聞しかないとこういう感覚になるのも仕方ないのかもしれない
いや家臣はともかく殿様がこれじゃいかんか…
0548人間七七四年
2019/10/28(月) 21:23:31.12ID:H3AQXiYY> 忠誠なる関東武士があり、知勇備わる百騎の関東武士は、ゆうに上方の千騎に相当する。
「関東武士」「坂東武者」の凄さがイマイチわからん。8尺の樫やら鉄やらの棒を振り回す怪物が本当に実在したなら確かに凄いが、変わり身の早さぐらいしか印象にない。
0549人間七七四年
2019/10/29(火) 08:44:20.62ID:uskqyWIX源平合戦、承久の乱なんかの実績があるからねえ。400年近く前の話だけど。
室町期は関東は関東で別の国という感じだからアレだけど。
0550人間七七四年
2019/10/29(火) 11:24:17.89ID:BR5Cz2ml北条が人数も装備も厳密に定めたシステマティックな軍制やってた頃
織豊系大名なんて「なるべくいっぱい集めて来て!装備はどうでもいいから!」で
実際に軍を編成するまで何人になるか分からない、とかだもん。
0552人間七七四年
2019/10/29(火) 15:27:24.32ID:dAOfI2mW0554人間七七四年
2019/10/29(火) 23:40:14.08ID:AuUWSkf20555人間七七四年
2019/10/30(水) 00:50:12.19ID:6uSaD8pm実際に向こうの国を見て、国力が違いすぎて戦争になりません、
という人を臆病者扱いして開戦に突っ走った国がありましたな
0556人間七七四年
2019/10/30(水) 07:36:05.15ID:e5kOjoJp0557人間七七四年
2019/10/30(水) 08:07:25.97ID:/PVLas5q0558人間七七四年
2019/10/30(水) 08:45:28.89ID:ziwIggb60559人間七七四年
2019/11/05(火) 07:08:55.43ID:nFt8FQ3f小田原の頼りにしていた山中城が一日で落ちたことを知ると、小田原城中の者たちはあっけにとられ、
城の各口を守っていた将兵もただごとではないと動揺した。関東武者ともあろうものがと深く不安に
かられている所に、上方勢の総大将である秀吉が、四月一日未明に三島を出馬し、足柄、箱根を越えて
小田原の城まで後半里という湯元真覚寺に着いたとの報が届いた。
上方勢の先鋒は。すぐに分かれて湯元口、竹ヶ鼻、畑、湯坂、塔ノ峰、松尾岳といった各所より攻めてきた
ため、そこを持ち口とする諸隊は臆病風に吹かれ、未だ敵の姿を見るか見ないかのうちに、片端から
道を開けて小田原本城へ逃げ込んでしまった。
北条氏政父子は改めて急ぎ評定を開き、畑、湯坂、米神辺りまでは出向いて戦うべきかを尋ねた。
これに対し松田尾張守入道憲秀が進み出てこう答えた
「勢いに乗って一気に進んでくる大敵に、気後れのした味方を防戦に出しても所詮負け戦と成るでしょう。
それでは大事な最期の一戦にも負けてしまいます。それより一刻も早く籠城の策をとって守りを固める
ことこそ肝要に思います。後は敵の疲れを待つことです。」
この尾張守の主張に、諸将も奉行頭も誰も異を唱えず、ただ手をこまねいてその意見を聞いている
だけであった。後で人々は「何と情けないことであるか。これでは北条家が滅びるはずである。」と
思いあわせた。
かつて早雲から氏康の時代は、明け暮れに軍事に励み、肝胆を砕き、寝食を忘れ謀を帷幄の中に巡らせた
ものであった。あるいは出て戦って勝利を得、あるいは籠城して兵を休めつつ戦い、この戦国の世に大敵を
四方に受けて、これを凌ぎつつ領民を安寧に置いて養ってきたのである。
それに比べれば氏政父子は器が小さく、ただ先祖の余光の中に生きて、いざという時の虚実の策とて無く、
衆を頼んで己を失い、ただ呆然と事態を見守っているだけであり、これでは国を失っても仕方のないことだ。
「鵜の真似する烏の、水を飲んで死ぬ」という言葉があるが、それに似ている。
だから今に至っても、はかばかしくない評議が「小田原評定」と呼ばれ、笑い話と成っているのである。
(関八州古戦録)
これを見るに関八州古銭録が成立した頃は、「長引いて結論の出ない会議」ではなく、「消極的で内容に乏しい
会議」を小田原評定と呼んだようですね。
0560人間七七四年
2019/11/08(金) 06:28:46.53ID:kr+sccjl豊臣秀吉に内通していた。先に入道は、秀吉より依頼されていた、小田原城を見下ろせる土地として
笠懸山を選び、この事を堀左衛門督秀政を通じて真覚寺の秀吉本陣へ伝えた。そこは小田原の西南に有る
天然の要害で、風祭村の左に当たる松山であった。
秀吉は箱根より、木樵の通るような険阻な道を通って山上へと上がった。そこは正しく城内を真下に見下ろす
位置であり、ここから攻められれば防ぐこと能わずという高台であった。
秀吉は普請の衆にも物見をさせて、早速ここを切り開き本陣を据えた。すなわち塀を架け、櫓を上げ、
壁には杉原紙の白紙を張って白土の壁に見せかけ、一夜にして城を築いたのである。これが石垣山の
一夜城と呼ばれるものであった。
小田原城内よりこれを見た北条勢は驚き呆れ、一夜のうちに石垣を築き、白壁を塗り、櫓を上げるとは
秀吉はただ人ではない、天満の化身であろうと、舌を巻き身震いをしたという。以後、この山を
石垣山とも、白壁山とも呼ぶようになった。
啼きたつよ 北条山の 郭公
これはこの時、秀吉の作った発句である、
秀吉は徳川家康を呼んで共に高台へと上がり、小田原城を見下ろしながらこんな話をした。
「見られよ徳川殿、北条家が滅びるのももう間もあるまい。何と小気味の良いことか。」
「左様にございますな。」
「この上は、関八州は貴殿に進ずる事としよう。」
そう約束をすると、秀吉は着物の前をまくり、小田原城の方向に向かって小便をはじめ、家康に対し
「貴殿も共に。」
「然らば」
と、二人並んで小便をした。これより以後、並んで立ち小便をすることを、「関東の連れ小便」と
呼ぶように成ったのだという。
(関八州古戦録)
0561人間七七四年
2019/11/10(日) 09:01:59.88ID:oWdch8EX「奉公人の中の大身、小身は言うに及ばず、下々の者まで相手にすると恐ろしい者がある。
それはどういう者だと思うか。」
御噺衆は誰も答えられなかった。そこで信玄公はこう言われた
「それは無分別な者だ。何故ならこの無分別な人物は、後先を考えず、口に任せ手に任せ、
考えもしないようなことを仕出かす。そういった人物は合戦の鍔迫り合いに成れば遅れ逃げるものだ。
ところが良き分別のある人物は、普段から詮索をよく致すために、逃げる無分別者を発見すれば
逃さず、勝負をつけようとする。こうして良き分別者が悪しき分別者と相手をし、徒に身を果たす
ような事になるとしたら、これをよく思案してみよ、分別なき者は恐ろしい人ではないか。」
そう仰られたのである。
(甲陽軍鑑)
有能な人物がバカに殺されてはかなわん、という話でしょうかね。
0562人間七七四年
2019/11/11(月) 03:40:53.26ID:mGN8Rjs40563人間七七四年
2019/11/11(月) 20:54:31.95ID:3AMDOqwhということも言いたいのかも
無能は不要とかだったら部下のストレスはんぱない
0564人間七七四年
2019/11/11(月) 21:53:10.65ID:l/raO2w70565人間七七四年
2019/11/11(月) 23:53:28.42ID:ypIcKaTNこれに真面目な人材が殺されたらたまらん
0566人間七七四年
2019/11/12(火) 12:41:18.32ID:l9uYArUl侮って死んだ分別者w
0567人間七七四年
2019/11/13(水) 16:44:04.13ID:zp2lld1A三月十八日には松井田城を降伏させると、そこでしばらく休息し、兵糧の調達を終えると、松井田城代
であった大道寺父子(政繁・直繁)を手引として、倉賀野、箕輪、厩橋といった城へ押し寄せ次々と
降伏させた、
四月十二日には武州比企郡松山城の攻略にかかる。松山城主である上田自芸斎(憲定)と息子上総介憲定は
小田原に立て籠もっており、留守居役は難波田因幡守、木呂子丹波守、金子紀伊守、山田伊賀守、
同一兵衛、比企藤九郎ら二百余人、雑兵二千三百余がこれを守っていた。
前田利家・利長父子は大手、上杉景勝は搦手と決め、これに毛利、真田、小笠原、そして案内の大道寺の
兵が加わり、先ず遠攻めにして近辺の里や村、山林を伐り攻めやすくして準備を整えた。
城中の者たちはこの様子を見て、その大軍に既に戦意を失うと、城下の寺僧を仲介として降伏を申し出た。
その条件は、本丸、二の丸を渡し、三の丸に諸士の妻子を入れ置くというものであった。
寄せ手の大将たちはこれを受け入れ和睦し、その降人を案内として、北条安房守氏邦の家人たち四百人
ばかりで籠もっていた本田郷西山城に取り掛かると、城兵は一戦にも及ばず鉢形城へ逃げ出し、戦うこと無く
落ちた。次いで河越城へ向かったが、これも降伏をして戦いにならず、かくして北国勢は刃に血を塗ること
無く数城を落とした。
この上は小田原城攻めに合流するとのことで、同二十一日箱根の笠懸山に至って秀吉に謁見し、一部始終を
報告すると、秀吉は事細かに尋ね感心はしたものの、これを褒める言葉はなく。前田利家も上杉景勝も
腑に落ちぬ顔で引き下がり、
「我等の今回の武功は、それほど空しかったというのか。」
「左様である、激しく戦うことこそ無かったが、数城を抜いたこと確かである。」
「無血であろうとも。将兵を多く傷つけ諸城を落とすより功大かるべし。」
そのように不満を述べた。
その夜、秀吉は近習にこう語った
「北国、信州の諸大将、諸士の働きは見事でありその功も大きい。しかし皆降参させてしまった。
戦というものは、一城は帰順させても、一城は攻め殺してこそ、一張一弛の法にかなうものである。
でなければ他の関東の諸士への見せしめとならない。だからこそ強いて褒めなかったのだ。」
両将は後でこれを聞くと尤もだと思い
「さては八王子の城を襲って皆殺しにしてくれん。」
と、利家、景勝は早速小田原の陣営を引き上げ、同月二十三日、急に兵を発して八王子へと向かったのである。
(関八州古戦録)
八王子城攻めに至る経緯
0568人間七七四年
2019/11/13(水) 17:59:21.35ID:MuGqZJnG0569人間七七四年
2019/11/13(水) 23:00:59.45ID:ZnQE/54F「囲まれても降伏すれば助けてくれるみたいだから大丈夫だよ」
「場合によっては次の城攻めの豊臣軍の先鋒になるかもな」
「関白は元農民だって言うし俺も手柄をたてれば武将かもな(^^)」
0570人間七七四年
2019/11/14(木) 04:40:49.06ID:biVTa3Lm15000人で力攻めできてしまう程度の戦力だったことだろうなぁ…。
城主の氏照は小田原行っちゃっているし。
大規模な山城なんだし、周囲には出城、付け城も多数健在だしで、
本来なら5倍程度の兵力差なら1日で落ちるなんてことはない。
05711/2
2019/11/14(木) 13:09:38.79ID:LtK+6vTc八王子城はその留守居として本丸には横地監物吉信、中の丸に中山勘解由家範、、狩野主膳一庵、
山中曲輪には近藤出羽守綱秀らが置かれこれを守っていた。
秀吉は北国の両大将(前田利家、上杉景勝)が八王子城へ向かったことを知ると、木村常陸介重茲を呼び、
過日のこと >>567 もあり、利家、景勝が無理な働きをしないよう、すぐに八王子表へ目付として行くことを
命じた。もしそのような事が有れば諌めるように、との事であった。
木村常陸介には太田小源吾一吉が差し添えられた。
四月二十四日、北国勢は朝駆けで八王子の町へ入るや一気に押し破り、道々あさぎりの中に見張っている
足軽たちを撫で斬りにし城壁へ詰め寄った。そしえ本丸を上杉景勝、中の丸を前田利家が攻めると決め、
また松山城で降伏した木呂子、難波田、金子らを先陣として山中曲輪を攻めさせた。この松山衆はその夜、
夜討ちをかけ、山中曲輪を守る近藤出羽守は奮戦するも討死した。寄せ手も若干討たれたが、敵の首級
三百五十余を得た。これを見た本丸、中の丸の雑兵たちは肝を冷やし、大半が逃げ出した。
城に残ったのは中山勘解由配下の七百余騎と、その手の者僅かに百余人、他に軽卒二百ばかりであった。
中山は城に残った者たちにこう言った
「もしこの中に臆病者が居るなら、それは足手まといに成るだけだ。今のうちに落ちるが良い。
我等は久しく陸奥守(氏照)殿の恩沢に浴する身であり、斬死してもここを去るわけには行かない。
今一度言う。生命惜しき輩は落ちよ。私は少しも恨みには思わない。」
しかし誰も逃げ出そうという者は居らず「生死を共に仕らん。」と、喜び勇んで矢弾を飛ばして
寄せ手に挑み戦った。この攻撃に寄せ手では見る間に死傷者が増えた。この時前田利家は配下の
者たちにこう言った
「先に上州の諸城を落とすといえども、関白殿下になんら功を認めて頂けなかった。されば、今度こそ
降伏を許さず粉骨して攻め殺さねば、何の面目が有って秀吉公に再びまみえようか。
もし首尾ならずんば、我等親子(利家・利長)はこの場において自刃する覚悟である。汝らもよくこの意を
体して忠墳すべし。」
この利家の言葉に、山崎長門守、前田又次郎、青山佐渡守らが先陣を承って金子丸を攻め破った。
ここを守る金子三郎右衛門は山崎長門守の郎党・堀角左衛門が討ち取った。
これと競うように、他の加州勢が中の丸を攻めた。城中からは中山勘解由、狩野主膳らが士卒を下知して
打って出て戦った。この時、前田利長の近習である大音藤蔵は、未だ十六歳であったが真っ先に鑓を入れ
組み討ちして敵の首を取った。続いて雨森彦太郎が高名をした。大音は先に前田利長の勘気を蒙り
蟄居の身であったため、首実検には漏れたが。その日の一番首との事で、勘当が許された。
城方の中山勘解由、狩野主膳らは自身で鑓を合わせ、太刀を抜いて戦ったが、もとより多勢に無勢であり、
衆寡敵せず城中へ引き上げた。加州勢が尚もそれを追って攻め立てたが、秀吉より目付として遣わされた
太田小源吾が誰よりも先に塀へよじ登り城中へ押し入った。小源吾もこの功により、後に秀吉より
豊後国国崎郡杵築城三万五千石を拝領した。
05722/2
2019/11/14(木) 13:09:57.95ID:LtK+6vTcそこで「今はこれまで」と詰の城へ引き籠もり、そこに避難していた足弱(女子供、老人)達を先に刺殺し、
自分たちも心静かに腹を切った。
前田利家は高地に馬を立てて城方の働きを見ていたが、松井田、松山で降った金子、小岩井達を呼んで
尋ねた「城方の者たちは、やがて斬死するか自害して果てるであろうが、あの中に見知った者は有るか。」
「はい、居ります。一人は中山勘解由と言って、武蔵七党の丹党の末裔で、古来より名のある者です。
もう一人は狩野一庵といって豆州の侍で、元は北条氏照の右筆でしたが、才覚あり数度の戦いで戦功を
成し、出世して一廉の武将となり、今は倅の主膳正に家督を譲り、自身は出家しています。」
利家はこれを聞くと「直ぐに馳せ向かい、その者たちが我等の陣に加わるよう説得するのだ。」と命じた。
金子紀伊守の小岩井雅楽介はすぐに八王子城に駆けつけ城門を叩いたが、何の答えもなかった。
彼らは脇門を押し破って中に入ったが、中山も狩野も、既に自害して果てた後であった。二人は致し方なく、
戻ってこれを利家に伝えた。「惜しむべき武士たちである。」利家はそう、彼らの最後を哀れんだ。
後に、徳川家康はこの八王子城での戦いの様子を聞くと、中山、狩野の忠節に深く感じ入り、関東入国後、
武州辺りを放浪していた中山勘解由の嫡子・助六郎照守、次男の佐介信吉を探し出し、召し出して
旗本として取り立てた。そして兄に勘解由、弟に備前守の名を与えた。今もその子孫は続いているという。
また狩野一庵の息子・主膳正も家康によって取り立てられ、慶長五年の庚子の役(関ヶ原の戦い)では
濃州岐阜表で二番鑓の誉れを立てたという。
(関八州古戦録)
八王子城の戦いについて
0573人間七七四年
2019/11/17(日) 03:44:36.13ID:2B3d31sM長浜城の天守閣跡といわれるこの地に、築城に際して人柱となった「おかね」さんの話が伝えられています。
天正二年(一五七四)ごろ、長浜城が築かれることになりました。強固な城を築くための人柱として、長浜一の美女と評判の「おかね」さんが選ばれました。
若くして聡明であった彼女は、けなげにも湖北地帯一円の繁栄を願い、自らの命を捧げたというものです。
「おかね」さんが眠るのは、この辺りといわれ、かつてこの北側にあった堀は、その縁もあり「おかね堀」と呼ばれていました。
平成十六年三月吉日
長浜城跡の豊公園の石碑より
https://i.imgur.com/FraRCww.jpg
0574人間七七四年
2019/11/17(日) 11:33:59.79ID:YffsnREo0575人間七七四年
2019/11/17(日) 13:36:19.67ID:dw0VDGnO0576人間七七四年
2019/11/17(日) 15:47:25.38ID:zzZA82E+0577人間七七四年
2019/11/17(日) 15:51:10.16ID:IDbsoAY7坊さんが念仏唱えながら逃げ回る八つ墓村の世界観みたいな地獄なんだろうなと
0579人間七七四年
2019/11/17(日) 20:54:46.30ID:kQNP8TQ80581人間七七四年
2019/11/18(月) 07:47:44.54ID:BHTWs9MT白川小峰城なんて、人柱に選ばれた藩士の娘が逃げ回って、捕まった場所に追廻なんて不名誉な地名が付いてんだぜ。しかも城の北側のかなり広範囲に…
0582人間七七四年
2019/11/18(月) 11:14:45.57ID:0N5VEnOO被害を出さないように配慮したんだろうが、一緒に生きた犬は埋められるし、娘は精神病むし悲惨
0583人間七七四年
2019/11/18(月) 11:50:03.15ID:cC/oPjqy失敗したら切腹なわけだし、どうせ死ぬならってことで
くじを理由に引責自死ってやつだ
0584人間七七四年
2019/11/18(月) 20:54:34.23ID:R9xUvLnM白河小峰城のおとめ桜
初代白河藩主、丹羽長重は白河藩主として赴任した後、幕命で白河小峰城の改修を始めたものの、ある一角の石垣だけが何度工事しても崩れてしまう。
工事が進まず困った作事奉行の和知平左衛門は合議の末に人柱を立てる事に決め、身分の上下老若男女問わず、次に城門の前に現れた者を人柱とする事に定め、城門に訪れる者を皆で待つ事にした。
すると、1人の娘が城門に近づいて来るのが見えた。何とそれは当の作事奉行・和知平左衛門の娘「おとめ」であった。
仰天した和知平左衛門は
「おとめー!来るな!!来るな!!!」
と必死に身振り手振りで娘がこちらに来ない様に合図を送ったが、父親に会う為に城へと向かっていたおとめは父の合図を早く来いと言う合図と勘違いし、逆に城門へと向かってしまい、
こうして人柱にはおとめがなる事が決まり、それを告げられたおとめは驚き逃げ出したが、遂には捕まってしまい人柱とされてしまう。
この後、工事は無事成功したものの、>>581に書いた様におとめが藩士に追われ捕まった場所は「追廻」と言う地名として今も名を残し、
人柱にされたおとめを哀れんだ人々はおとめが人柱として埋められた場所に桜を植え、おとめ桜と呼んでその死を悼み供養したと言う。
なお現在のおとめ桜はこの際植えられたものが戊辰戦争で焼失した為2代目であると言う。
http://shirakawa315.com/sightseeing/post_43.html
白河観光協会のホームページ他参考にまとめました。
0585人間七七四年
2019/11/18(月) 21:04:39.46ID:R9xUvLnMhttps://eiga.com/news/20160828/6/
https://youtu.be/bDxtGQMmJd0
0586人間七七四年
2019/11/18(月) 21:05:18.21ID:EOdgOTzr0587人間七七四年
2019/11/18(月) 21:08:03.99ID:5ZsNtt8D■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています