戦国ちょっと悪い話47
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0001人間七七四年
2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn前スレ
戦国ちょっと悪い話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1533172633/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1528724750/
0588人間七七四年
2019/11/18(月) 21:31:24.22ID:Z4HZ3/VQ戦争に勝って凱旋帰国する時にユダヤ人の指導者のエフタが
「神よ、帰った時に私を一番最初に出迎えた者をあなたに捧げましょう」
と誓ったところ、出迎えに出たのが自分の一人娘だったために泣く泣く犠牲に差し出した
って話があったっけ。
0589人間七七四年
2019/11/18(月) 21:36:04.12ID:Z4HZ3/VQ世禰(よね)姫
だと太田道真の娘(道灌の姉妹)が生贄になった話があるな
0590人間七七四年
2019/11/18(月) 22:07:32.12ID:J67dMudtやってもだめで最後の手段が人柱なのか
0591人間七七四年
2019/11/19(火) 05:28:15.75ID:F/WKH0BG当時、戦乱の世の中だった頃は、国々で私に取り合いをして、その領地を得るのは手柄次第という
世の中であり、他国に調略のため遣わされた衆などは、相手も警戒しているため事々に咎められ、
戒められた。なんとか縄抜けなどをして帰国することが出来た者も、その帰路様々に考え
「世を渡る業の中でも、御奉公ほど難儀なものはない。今度まかり戻ったあかつきには、
やがて許可をとって実子養子などに所帯を譲り、私は奉公から抜けよう。」
などと思って帰国し、出仕するのであるが、主君と対面し御盃を下され、働きの様子など尋ねられ、
それを聞かれ少々の御落涙までなされ、様々に忝ない御意を与えられた時は、ある歌に
いく度か 思ひさためてかハるらん 頼むましきは心なりけり
(何度思い定めてもいつもその決心は変わってしまう。 頼みにならないのは心というものである。)
と申す如く、人の心というものは移ろいやすいものであり、この時にはまた
「明日にも御用を仰せ付けられれば、どこであっても参ろう!」
などと存ずるようになってしまうのだ。これは古き衆の申したものである。
(老翁物語)
0592人間七七四年
2019/11/19(火) 06:12:13.64ID:c7+9ePhx0593人間七七四年
2019/11/19(火) 12:53:09.00ID:w7JFmwuW現代のおとめ
https://i.imgur.com/5ZrEmmS.jpg
0594人間七七四年
2019/11/19(火) 21:59:39.09ID:TPf5fdbm0595人間七七四年
2019/11/20(水) 10:18:36.31ID:E3OwGiOxそこに人柱の話が混ざっちゃったのかな
0596人間七七四年
2019/11/21(木) 05:31:48.34ID:nixR1LJw畠山右衛門佐義就に赦免が有った。東山殿(足利義政)並びに将軍御所(足利義尚)よりの御内書が
河内に下された。また(義就と対立している)畠山政長にも同日御内書が下され、右衛門佐と
和睦し、開陣するようにと仰せになられた。東山殿は色々と相談され、世上の無事のためにこれを
仰せ出になったのだという。ただし管領(畠山政長)はこれに同意せず、上意に応じなかったそうである。
これについて後日様々な噂が立った。畠山義就と政長の和睦については、左衛門督(政長)が上意に
従わなかったため、東山殿は様々にぞの所存を述べたが、細川九郎(政元)も同心せず
「今回のことは三条大納言公治卿および伊勢貞陸の申し沙汰であり、義就にとって有利な内容である、」
と、左金吾(政長)、細川九郎は触れ申しているとか。これも雑説であろうか。
二十日 晴
今日聞いたところによると、畠山右衛門佐(義就)が御免された事につて、世間の雑説では細川京兆家の
領国である丹波、摂津、四国より軍勢が上洛するという。また今回の和睦を主導した三条亞相(公治)、
伊勢兵庫頭(貞陸)の身上について様々に沙汰されている。この二人は細川方にて彼らの疑念するような
事は知らないと弁明しているという。
四月三日 晴
今夜半、三条大納言公治卿の屋敷が焼亡した。夜中に数百人が乱入し放火を行い、亭主の亞相(公治)は
逃げ出し、翌日近江坂本まで下向したという。一体誰がこのような事をしたのかは解らない。
畠山右衛門佐(義就)御免の事が沙汰された事で、義就の敵方がこのような所業に及んだのであろうか。
先月、右衛門佐は東山殿並びに将軍御所に、和睦の御礼として銭三万疋、腹巻一両をそれぞれ進上したと
沙汰されている。
(長興宿禰記)
応仁の乱後も争いを続けていた畠山義就と畠山政長の和睦を画策したところ、これを主導した一人である
正親町三条公治の屋敷が焼き討ちにあったというお話。
0597人間七七四年
2019/11/21(木) 09:28:57.17ID:Av9/D6vT火のない所に煙は〜って言うけど、或いは福山藩みたいに前の藩主家の遺徳を消すための意図的なマッチポンプとか風説の呂布とかかもね。
とは言え記録として当事者の名前も残ってるし、やはりこじ付けの線もなきにしもあらずか。
0598人間七七四年
2019/11/22(金) 02:55:36.03ID:jkB1AxvD0599人間七七四年
2019/11/22(金) 14:27:26.92ID:Qpp5OHLLまあたしかにそんな感じだけど
0600人間七七四年
2019/11/23(土) 00:21:19.20ID:r+ggbXlg「布射遼丸 ?琴阮嘯」
呂布は弓術の、宜遼(ぎりょう)は丸(剣玉?)を遊ぶ技の名人で
?康(けいこう)は琴をひくのが、阮籍(げんせき)は口笛を吹くのがうまかった。
千字文
0601人間七七四年
2019/11/23(土) 00:32:51.10ID:ki8idwmy九個中八個は常に空中にあったとか
0602人間七七四年
2019/11/24(日) 23:00:38.51ID:LxKVTKWI0603人間七七四年
2019/11/25(月) 17:11:20.43ID:PFiqaOws0604人間七七四年
2019/11/25(月) 18:36:10.23ID:MTy7lteY0605人間七七四年
2019/11/25(月) 20:49:51.24ID:z2ln6eW8さすがクズジャップだな
親の顔が見てみたいわ
毎日泣いてるぞw
0606人間七七四年
2019/11/25(月) 20:59:32.67ID:qUbIlY43専ブラ切り替えてこっと。
0607人間七七四年
2019/11/25(月) 21:56:35.38ID:3dkkU37Y語尾が「わね」ってオカマかよwwwww
2丁目行ってこい
0608人間七七四年
2019/11/25(月) 22:12:51.25ID:vr5GJaw20609人間七七四年
2019/11/25(月) 22:36:10.73ID:3dkkU37Yおめでてーな
祖国に凱旋してそのまま帰ってくるな
0610人間七七四年
2019/11/26(火) 04:42:36.14ID:EAOaT5Z9人数を少々打ち出していた。そのような所に、秀吉公の手勢である羽柴左衛門督(堀秀政)、
中川瀬兵衛(清秀)が山崎の宝寺(宝積寺ヵ)の上に打ち上った。明智の軍勢が山崎の
山八分目程に在った時、早くも秀吉軍の先手は嶺に到着しており、夜が明けるのを待ち受け
嶺よりおろし懸かり、鬨の声を上げて打ち立てた。
明智の者共はたまらず崩れ、勝竜寺城に向けて落ちていった。明智光秀も川を越えて逃げ、
江州坂本城へ向けて落ちて行ったが、山科にて穢多たちが多く出て鑓合いとなり、馬より突き落とされ
相果てた。こうして異議なく秀吉公は本意を遂げ、諸大名衆との関係も大形相調って御在洛になった。
その後、越前の柴田勝家と後取合となり、賤ヶ岳の一戦に勝家は打ち負け、越前は尽く秀吉公の
御手に入った。秀吉公方で鑓の働きで、加藤主計(清正)、同左馬介(嘉明)、糟屋内膳(武則)、
平野遠江(長泰)、片桐市正(且元)、脇坂甚内(安治)、石川兵助(一光)の七人が手柄をなし、
これを七本槍と称した。
上方のことは前後ともに不案内であり、間違っている所も有ると思いますが、お尋ねに背く事も
出来ず、承り及んでいるのはこの様なものです。
(上方之儀前後無案内之儀候條、相違儀も可有候、御尋之旨難背候て、承及所如斯に候。)
この後秀吉公は、徳川家康公との御取合に罷り成り、尾張の小牧にて大合戦があった。秀吉公方の
池田勝入が鑓下に討死、永井右近(直勝)が討ち取った。秀吉公は犬山より撤退し、同国竹ヶ鼻と
申す城を攻めた。ここには織田源吾殿(長益)が家康公方に味方して籠もっていたが、秀吉公の
攻撃がはじまると、源吾殿の懇望によって城を請け取り、源吾殿は京都へと同道された。
(老翁物語)
老翁物語に記される山崎、賤ヶ岳、小牧長久手合戦の模様。「上方のことはよく理解してないので
間違いも有ると思う」と、書いた本人(毛利輝元の右筆であった小田木工丞)が告白しているのが
面白いですね。また賤ヶ岳七本槍から福島正則が外され石川一光が入っているのも興味深いと思います。
0612人間七七四年
2019/11/26(火) 07:09:16.46ID:Nfd0XG0w0613人間七七四年
2019/11/26(火) 07:25:00.89ID:UrXF0AP/0614人間七七四年
2019/11/26(火) 11:23:23.50ID:LFC1RICg0615人間七七四年
2019/11/26(火) 19:13:27.56ID:njxBcZBd防芸の国境を流れる木野川(小瀬川)はたびたび氾濫を起こす川で、正則の統治時代に流域の数カ所で大規模な河川改修が行われた。
大掛かりな工事だったが作業自体は恙無く成功裏に終わり、落成した堤防を検分に訪れる。 誰もがお褒めの言葉もあろうかと思っただろうが、到着した正則は現地を一目するや血相を変えて棟梁を呼びつけた。
「これはいかなることか。不届き千万、切腹を申し渡す!」
正則が怒ったのも無理はなく、湾曲した川の流れの中、新造された堤防は大きく川幅半ばほどにまで張り出していた。
先述の通り木野川は防芸の国境を流れる川、すなわち福島領と毛利領の中間点。
まして芸州はもとより毛利の本貫の地、関ヶ原の結果とはいえ正則が入部していることに含みがあろうことは明らかだった。正則は自家に明らかに非がある形で公事に発展することを恐れたのだ。
結果、みごと堤防は落成したにもかかわらず棟梁は切腹。その甲斐あってか、はたまた正則もまた程なく川中島へ減封となったためか、木野川の堤防は問題とされることなく残った。
この堤防群は福島堤と呼ばれ、今も当時の威容を残しているという。
0616人間七七四年
2019/11/26(火) 20:02:43.66ID:tMteSYMN0617人間七七四年
2019/11/26(火) 20:52:16.90ID:qbnfwHsR一国一城令が出る前に築城から僅か3年で廃城にしてたり、徳川家相手に相当気を遣ったのかねぇ?
しかしあの辺りは元々の川の流れのせいかこの工事のせいかは知らんが、車で走ると道がくねってる上に狭めで難儀な場所だわ。
0618人間七七四年
2019/11/26(火) 20:52:26.68ID:RiijQ3KX0619人間七七四年
2019/11/26(火) 21:49:50.99ID:3ZFS8SM20620人間七七四年
2019/11/27(水) 04:29:24.61ID:KeSnhB3nかなり気を使っているぞ、市松。
駿府派の本多正純とのつながりが強かったせいで、
江戸派の土井利勝、酒井忠勝らとの対立に巻き込まれる形になって、
結果改易食らったいうのが今の定説だし。
0621人間七七四年
2019/11/27(水) 11:53:05.20ID:man8xGaoその前のシーンで当の家康が生前から潰す気満々で悪巧みしてて、どっちにしろ潰されるんですけどねって解説が入る
0622人間七七四年
2019/11/27(水) 12:55:52.94ID:OpahBc85熊本ではいまだに「せいしょこ」「せいしょこ」と慕われているけどさ…
0623人間七七四年
2019/11/27(水) 15:55:00.42ID:k1+nLxDB06241/2
2019/11/28(木) 14:18:17.20ID:oSsDNnzT武州忍城の城主である成田下総守氏永は、舎弟左衛門佐泰喬(泰親)、及び田山豊後守、奈良、玉井、
以下五百余騎にて小田原城に籠もり、忍城には留守を置いていた。(中略)
忍城では豊臣軍が迫ると、近隣のすべての地下の農民、商人、社家、山伏、さらに15歳以上の
小冠者(元服して間もない若者)までもかき集めて、彼らを堀裏に置いて旗を差させ、敵方に
多勢が城に籠っているように見せかけ、また鉦や太鼓を用意しておき、敵が不意に攻めてきた場合は
これを打ち鳴らして他の手より救援させるようにと重々に仕組みを手配して、忍城には都合
二千六百二十七人が立て籠もった。
城将の成田氏長の正室は太田美濃守入道三楽斎の娘で、息女が一人有あったが、この娘とともに
この城に籠城した。彼女らは母娘共に容貌麗しく、優れて甲斐甲斐しく操ある女性であった。
「私達は女の身であると雖も、父祖も夫も、数代の弓矢の家に生まれ、たとえ氏長が留守であろうとも
このような時に至って武名を貶めること有るべからず。」
そう言うと、城代の成田肥前守をはじめ、一族家臣等に下知し、士卒の心を一つにして、城を枕に
すべき旨を、心から申し渡した。すると城兵たちは恥の有る者も無い者も、女性にてさえかくの如き
なのだと、感じ入らぬ者は居なかった。
寄せ手は、石田三成、大谷吉継、長束正家を大将として二万余騎にて館林城を落とすと、一両日
人馬の息を休めて、六月四日に忍城へ押し寄せた。生田口と下忍口は石田治部少輔、早見甲斐守、
北条左衛門太夫、並びに佐竹・宇都宮の衆七千余人、人丸墓山を本陣として大宮口までを打ち囲んだ。
佐間口は長束大蔵少輔、伊東丹後守、結城左衛門督晴朝、水谷伊勢守勝隆、岩上但馬守らが加わり
四千六百余人、
長野口は大谷形部少輔、松浦安太夫、鈴木孫三郎以下六千五百余人、これは北谷口までを受け持ち
陣を張った。
これらの攻め口は全て水田の池地であったため近づくことが出来ず、遠巻きに構えていた。皿尾口は
中江式部少輔、野々村伊予守、および江戸川越の五千余人、ここもまた僅かに細道が有る程度で、
左右は深い沼であり、足を踏み入れれば進むことも退くことも自由にならない有様であった。
それでも寄せ手は砦をひとつ乗っ取りそこに陣を付けた。そして持田口の一方をわざと開けておいたが、
これは城兵を放心させて城を攻め落とそうという術であった。
そもそもこの忍城のあるこの地は全体が大沼であったのを、成田氏長の祖父である中務少輔親泰が
多年多くの人力を用いて築かせた城塁であり、さりながら今なお四面深田であり人馬の駆け引きも出来ず、
故に今度の豊臣軍も、寄せ手は攻めあぐね暫くは攻めるのを見合わせたものの、だからといって
攻めねば城の落ちることはないと諸隊は相談し、鬨の声を挙げて矢鉄砲を打ち込み戦うものの、
足場が悪いため死傷者は数しれぬ有様であった。
そのような中、城方では下忍口にて別府小太郎、野澤金十郎の二人、共にこの時二十歳であったが、
先駆けして奮戦し、小太郎は深手を負って倒れ、これに寄せ手の武者が駆け寄り首を取ろうとした所に、
小金井善忠の郎党・橋爪孫兵衛という者が馳せ合わせ、かの武者を討ち取り別府を城内に引き入れた。
また皿尾口にては寄せ手は馬より下りて徒士となって攻めかかったが、城兵の松橋内匠助という
鉄砲の手練が、大筒で試しに撃ち出した所。進軍してきた寄せ手の兵七、八人がたちまち命を落とし、
これによってこの方面の軍勢は裏崩れを起こして引き上げた。中江、野々村はこの体たらくを怒り、
「この口は足場が悪いので力攻めは無理だ、策を以て攻めるべきである、」と、井楼を二ヵ所に作り
そこに大筒を仕掛けて城に向かって撃ち込んだ所、暫くは城方からの攻撃が止まったという。
06252/2
2019/11/28(木) 14:19:06.84ID:oSsDNnzT「この城は要害の地であり、また兵糧、矢弾も多く籠め置いてあると聞く。であれば、早期に陥落させる
事は難しいだろう。そこで城郭の四方に堤を築き、そこに利根川荒川より水を引いて水攻めにすべきだ。」
そういう訳で、近隣にこの工事のことを触れ、過分の米銭を与えて人足をかき集め、昼夜を問わず
土石を山のように運ばせ四面に堤を築かせた。
ところが、この時忍城内に籠もっていた農夫、商人らも、夜中に密かに抜け出て土石を運び賃銭を取り
それにて米穀を買い求めまた城中に入った。工事を担当する奉行の者達はこの事を聞きつけて
「この城に糧を入れるのは木の根に水を与えるようなもので、こんな事ではいつまで経っても
城が落ちることは有りません。城内より出てくる人夫は搦め捕って首を刎ねるべきです!」
と訴えたが、石田治部少輔はこれを聞くと頭を振って
「いやいや、そのような事をすべきではない。堤さえ出来れば城兵は片端から溺れ死ぬのだから、
たとえ米穀が城内に充満していても何の意味もない。また、もし彼らを誅殺した事で、これに関係のない
外の人夫たちが恐れて逃げ去ってしまっては、堤はますます完成しなくなる。何も知らぬ体にて
堤の完成を急ぐのだ。」
そう言って、日夜下知を励ますと、幾程もなく堤は完成した。
「それでは」と、利根川を防ぎ留めて江原堤に水を流したが、この時、五月雨の時期が終わると
炎天が続いていたため水の流れも乏しかった。そこで荒川を防いで水を流した所、水は滔々と流れ
溢れた。これに城兵たちは高地へ集まったが、それほど困った様子もなかった。
そのような中、同月十六日の申の刻(午後四時頃)より空曇り雷鳴轟き、夜間には豪雨と成った。
ところがこれによって、寄せ手の築いた堤が、川西という所より五、六間も切れたかと思うと、
新しく築いた堤だったためあちらこちらが押し破られ、逆水となって寄せ手の陣所に押し寄せ、浸水に
よって若干ながら人馬が溺死に及んだ。その後水は引いたが、道は深泥の如くと成り、馬の蹄も
立たない有様で、寄せ手も遠巻きにして徒に時を過ごすしか無かった。
(関八州古戦録)
「忍城の戦い」について
0626人間七七四年
2019/11/29(金) 13:28:38.61ID:hQb+dwiO城方の手抜き工事で堤が破れたというのに秀吉のせいにしちゃってさ。
0627人間七七四年
2019/11/29(金) 13:40:10.38ID:yRCWEj3c06281/2
2019/11/29(金) 14:29:18.61ID:tnZCnaZ3浅野左京大夫幸長、木村常陸介重茲、同伊勢守定重父子、赤座久兵衛直保、以下この方面が落ち着いた
ため人馬を暫く休めていた所、忍城が未だ落ちていないという事が笠懸山の本陣に聞こえ、秀吉より
急ぎ忍城攻めの加勢に向かうようにとの下知が有り、そこで直ぐに忍城へと向かった。
ここに、同国大里郡の久下城主、市田太郎という者があった。彼は武蔵七党の一員であり、また
重代の国侍であったが、僅かの分限であったので成田家の旗下に属し、当時は成田氏長の妹婿であった。
である以上、事ある砌は氏長より、忍城の留守居である成田近江守の助勢に駆けつけるよう定められ、
普段は久下を守っていた。この度は成田氏長、泰親兄弟が小田原に籠もったため、久下は小領であり、
また非常に僻地でも有ったので、そこは放置して忍城に籠もることを申し合わせ、本丸に入って
共に籠城した。
その頃、忍城では『小田原城内にて成田氏長が二心を起こし、上方勢に内通した。」との話が
聞こえてきた。そのため留守居の者達も両端を持す態度を取るように成り、市田太郎の姉は、北条方の
福島伊賀入道(賢成ヵ)の妻であったので心定まっているとして、市田並びに成田近江守を共に
持田口へ出して外郭の警護に当たらせた。
ところがこの処置に成田近江守は憤り、密かに浅野幸長の陣へ使いを立てて内応する旨を伝えた。
この事について、幸長の家老たちは石田三成に相談した所、三成は
「わが陣へも敵方より返忠の約を成す者があり、既に条件などを議定している。なので明日にでも
総攻めをすれば、簡単に城を乗っ取る事が出来ること疑いない。」
との返事であった。故に浅野家中はこれを事実と心得、軍勢の準備をした。
ところが、実は石田治部少輔は以前より忍城攻めのため在陣しているというのに未だ功を顕すことが
出来ておらず、加勢の手によって城を攻略されてしまえば面目が立たないと思い、浅野家を欺き、
彼らが功を立てることが無いように彼らを謀ったのである。
06292/2
2019/11/29(金) 14:29:48.02ID:tnZCnaZ3激しく打ち掛け攻め懸った。これを見て城方は、坂巻靱負尉が合図の鐘を鳴らした所、近辺の持口より
援兵が出た。寄せ手は頻りに競い進んで深泥を踏み越え塀へ乗ろうとした所を、城兵が矢弾を
夥しく放ったために多くが討たれた。
浅野幸長は長野口に陣していたが、西南の方から鬨の声や鉄砲の音が聞こえてくると
「すわ、搦手にては戦いが始まったようだ、者共進め!」と長野口へ押し寄せ、堀を越え柵を破って
城門の際まで攻め懸ったため、城兵たちも「これは持ち堪える事はできない。」と思い、ここを捨てて
大手の行田口へ引き取りはじめると、幸長の家人である浅野平右衛門、沖小平太が真っ先に進み、
この撤退に付け入ろうと追いかけた。
城兵の柴崎和泉守、三田加賀守、同次郎兵衛、吉田和泉守、同新四郎、鎌田次郎左衛門、秋山宗右衛門、
成澤庄五郎らがこれを支え防ぎ戦っている間に、雑兵たちは尽く行田口に逃げ入った。
浅野、大谷、松浦、鈴木の軍勢が既に大手の橋前まで詰め寄せたが、この八騎が橋詰にて踏み堪え、
槍衾を作って防いだため、寄せ手も更には進みかねた。
この時城中より、今村佐渡守、福島勘解由、坂本将監、島田出羽守以下三十余人が城門を開いて
突いて出、先の八騎の武者と一体となり、ここで敵も味方も勇戦し、寄せ手の浅野平右衛門が
討死し、沖小平太も福島勘解由に討たれ、大谷家の家人である飯沼主水正は今村佐渡守に組討され、
同じく家人の高田喜太郎も島田出羽守に付き伏せられた。これによって寄せ手が怯んだ様子に、
城方は「良き頃合いである。」と城に引き上げたが、城方も成澤庄五郎、秋山宗右衛門が討死し、
鎌田次郎左衛門は食い止められ橋の上で鑓を合わせていたが、彼は覚えの者であったので、鑓で
戦いながら「城門を早く閉ざせ!」と叫んだ。そこで城兵が木戸を閉めている間に、鎌田はそこで
討死した。彼の死を惜しまぬものは居なかった。
寄せ手は城門を破ろうと、寄り集まって押し掛けたが、最初の合図の鐘を聞いて佐間口を固めていた
正木丹波守以下五十余人が町家を廻って寄せ手の弓手に向けて鉄砲を撃ちかけ「裏切りが出たぞ!」
と叫んで真っ直ぐに打って掛かった。寄せ手は敵の規模を知らず多勢であると思いこみ、とうと崩れて
引き退いた。これを見て城兵はまた木戸を開いて切って出て、正木の人数と一つになり散々に戦い、
寄せ手はたまりかねて長野口方面へと引き上げた。
この時、長束正家および結城勢は佐間口を受け持っていたのだが、行田口、下忍口にて合戦が始まったと
聞いたため、「我々も攻め口を乗っ取ろう。」と押し寄せたが、この口を守る正木丹波守は行田に
救援に行っており無勢であったものの、福島主水正、櫻井又右衛門、内田孫六郎らが鉄砲を使って
ここをよく支えた。長束の家人である家所帯刀が先導して、有坂宮内丞、一宮善兵衛などという勇士
たちが続々と城門に取り付き後よりも大勢が続いた。すわこの口は破られると見えた時、正木丹波守が
行田口の敵を追い払って自分の持ち口に取って返る所を寄せ手が見て、「敵には後詰めが有るぞ!」と
心得、色めいて撤退した。この時城兵はまた打って出て追い打ちをかけたため、寄せ手は多く討たれたが、
城兵の被害は微小であった。総じてこの一日の戦いで、寄せ手の死傷者は数百人、城兵の討ち死には
五十五人、手負いは四十余人であったという。
石田治部少輔、並びに佐竹宇都宮勢は終始軍勢を出さず、徒に黙殺していただけであった。
このようであったので、市田成田の内応のことについても失敗し、寄せ手の面々はまた、城を遠巻きに
するのみであった。
(関八州古戦録)
忍城攻めで三成が浅野幸長を陥れたお話。
0630人間七七四年
2019/11/29(金) 17:14:26.33ID:hQb+dwiO0631人間七七四年
2019/11/29(金) 19:38:34.49ID:6I18+3aOフレンドリーファィアで有名な某政○家が頭に浮かんだ。
しかし政敵ならいざ知らず、主人の一門格になんちゅう事すんねん。
結局それが後に自分に返ってくる訳だけどさぁ…
0632人間七七四年
2019/12/01(日) 13:00:24.75ID:6Y7LonhJ0633人間七七四年
2019/12/01(日) 19:01:57.00ID:7pu/GFyd0634人間七七四年
2019/12/01(日) 20:15:11.15ID:RQmFJeyR石田三成被害者の会一同「お前が言うな」
06351/2
2019/12/02(月) 14:12:43.45ID:HJq7LjB6秀吉の小田原征伐に際し、城の西方、早川口を守っていたが、尾張入道は以前より北条家に対し
二心を抱き、最初豊臣方の堀左衛門督秀政と内通していたが、秀政病死の後は細川越中守忠興、
黒田勘解由孝高に属し、また上方勢に内通を成せば伊豆相模の両国を宛行うべき旨、豊臣秀吉公より
墨付きを送られていた。
天正十八年六月八日の夜に入って、尾張入道は嫡子・笠原新六郎(政晴)、次男・左馬助(直秀)、
三男・源次郎を人気のない場所へ招くと、このように言った
「近年の両府君(北条氏政・氏直)は、以前とは違い、この尾張入道に対して万事粗略にして、
心を隔てられている有様である。私は以前よりこれについて深い憤りを抱いていたが、時を得ずして
今まで何も出来なかったが、今、北条を離れ豊臣家に従属して長く子孫の栄幸を得たいと思う。
この事を理解してほしい。」
これについて、嫡男の笠原新六郎は基より父に逆心を勧めていた立場であったため
「全く然るべきです。」と申したが、次男の左馬助幼年より氏政の寵愛を受け、昼夜膝下より
去ること無く、現在も他に異なるほど昵近であったため、ここにおいて進退窮まり、落涙を押さえながら
申した
「急なことですが、我々は既に君臣五代の間家運を共にし、恩を頂き忠を励んできました。なのに
今この時に至って、本来潔く死して道を守るべき譜代の我々が、相伝の主君を傾けて不義の汚名を
挙げるなど、これ以上に天下から批判される事は無く、死後にも悪名がつきまとうでしょう。
そのような野心を控え、忠死を旨とすべきです。」
尾張入道はこれを聞くと
「私がこのように考えているのは、お前たちを生きながらせたいと不憫に思うからだ。しかし
同心無いというのならば力及ばず、子に対してであっても面目が立たないので、皺腹を切るより
他ない。」と短刀に手をかけた
左馬助は慌てて押し止め、「そこまで思い極められておられる以上は、兎にも角にも父上の命に
お任せします。」と宥めると、尾張入道も悦んだ。
それから五、六日過ぎて、十四日の夜に、聟である内藤左近太夫、並びに舎弟松田肥後守、及び三人の
子供を集めて茶会を催し饗応したが、その際尾張入道は
「当城の傾敗も近いと見える。この上は上方一味の志を顕し、明日夜に入って細川、池田、堀の
軍勢を我が持ち口に引き入れようと思う。この事を寄せ手に言い送るべし。」と私語した
これを聞いた左馬助は、この企てを暫く伸ばそうと考え
「先に密かにこの話を承ったのは八日、、また明日は十五日ですが、それらは共に不成就日であり、
何となく心に引っかかります。いま一両日伸ばしては如何でしょうか。」と申した所、
尾張入道も「そういう事であるなら。」と十七日に定め、「もはや違変は無いぞ。」と言って、
その日の密談は終わった。
そうして左馬助が陣所に帰る時、尾張入道は急に思案し「左馬助は普段より忠義を専らとるる
者であり、もし志を変じては由々しき事態である。」と考え、横目付の士を二名付けて帰らせた。
左馬助は仕方なく、普段本丸に置いている着料の鎧に用が有ると言って近習を遣わして取りに行かせた。
そしてその夜、かの鎧を入れていた具足櫃の中に入るとそのまま密かに運ばせ、子の刻(午前〇時頃)
本丸に入り、氏政・氏直父子に謁見し、「老父の一命を賜るのであれば、一大事をお知らせいたします。」
よ申し上げた。氏政も「これは仔細があるに違いない。」と考えその旨を約束すると、彼は父尾張入道の
陰謀について在るが儘に告白し、自身はまた直ぐに陣所へと帰った。
06362/2
2019/12/02(月) 14:13:21.71ID:HJq7LjB6翌日「火急の相談が有る。」と尾張入道をこの場所に呼んだ。松田はさにあらぬ体にて、袖なしの
陣羽織を着て「一体何事でしょうか」と出座した所、北条陸奥守氏照、板部岡江雪斎が彼に向かって
「あなたの逆心の企てが明らかであると突然に知らされた。どうして累代重恩の主君に背いて
別心を挟んだのか。本来なら死罪にすべきであるが、宥恕あり押籠めとする。」
と告げた。これに松田は些かも悪びれず
「かつて武田信玄が当表に乱入した時も、私が敵方に一味したという風説が流れたため、人質を
取られたでは有りませんか。しかしこれは敵の間者による計略であり実態は有りませんでした。
今回もまた間者や讒人による悪意ある風説でしょう。」と事も無げに申し上げた。しかし
「いや、そのような言い訳は無駄だ。これはあなたの肉親によって露呈された事であり、
妄言の類ではない。」
この氏照、江雪斎の言葉に入道は屈服し、一間の場所に押込められ、番兵を付けられた。
この時、尾張入道の召し使っていた岡部小次郎という、当時十五歳の少年であったが、内々に
密談のあらましも聞いており、心もとなく思って入道の跡を付けて陣所を出て、軒伝いに片廓の
建物の上に這い登り、その始末を聞き届けた。これによって、彼は後日徳川家康に召し出され
家臣の列に加えられたという。
松田の旗は白地に黒筋であった。十七日の夜、細川忠興、池田輝政、および堀家の人数は手引の
合図を待ち受けていたが、松田の持ち口では彼の旗、馬印が取り払われてみ知らぬ旌旗に立ち代った。
これを見て「さては陰謀露呈して警護の武士が交代したか。」と寄せ手も推察し、この事態について
協議している間に事の次第が噂として世間に流れたため、上方勢も手を空しくして引き上げた。
左丘明の伝に、『大義滅親(大義、親を滅ぼす)』という言葉がある。この時の左馬助の行為は、
忠貞余りあり、不孝もまた甚だしい。何を是として何を非とするべきなのだろうか。
後世の判断を待ち、私はあえてこの是非を論じない。
(関八州古戦録)
0637人間七七四年
2019/12/03(火) 06:19:31.82ID:RCYAL5ymこの頃豊臣秀吉公の右筆に、山中山城守長俊という人物が居た。彼は元々、近江源氏
佐々木承禎(六角義賢)に仕えていたが、牢人と成った後久しく殿下に仕え。その文筆によって
優遇を受けた。また彼は連歌を好くし、彼の時々の秀歌は人口に膾炙していた。
忍城の成田氏長兄弟もまた以前より連歌を嗜み、臨江斎(里村)紹巴の元に時々、百韻の批評を
求めてはるばる京まで送るなどしていたため、山中山城守とは面識はないが、風雅の友として
長く文通しており、また了意という連歌の道の達人を上方より招いて扶持を与えていたが、
先年故郷に帰った折に、里村紹巴に誘われて殿下に謁見した時、秀吉公は成田の噂を聞かれて
「関東筋に必要なことがあれば、その時は手引を頼むと、内々に伝えるように。」
と伝えた。
このような事があったので、秀吉公は山中山城守を呼び出して言った
「忍城が未だ落ちていない。汝は成田と旧知であるから、彼に書簡を送って我が方に
帰降するよう勧めてみよ。」
と宣われたため、山城守は直ぐに一書を認め六月二十日、夜に紛れて成田氏長の陣所に遣わした所、
氏長より「一段同心」の返事が送られた。これに殿下は大いに喜ばれ、
「これにて事は成った。敵城の没落ほど、敵を討つための策の基はあるだろうか!」
そう言って徳川家康公へ成田よりの返書をご披見に入れられ、これを北条氏直に見せ、
「関八州の諸将はこのように我が方に服従している。籠城に全く利はない。早く講和すべきである。」
そう調義を入れるようにとし、家康公より小田原城中に向けてこの調略を入れると、城内は色めき立ち
雑説紛々たる状況になった。
北条氏直は成田氏長に「議したいことが有るので急ぎ片曲輪に出席するように」と使いを三度まで
出したが、すべて病気と称して出ようとしなかった。そこで医師である田村安栖を彼の持ち口に
遣わし、「そなたに二心の風説が有る。その実否を糺したい。」と言い送った。
これを聞いた氏長は
「敵は大軍を以て忍城を侵し攻め、士卒足軽等に至るまで皆殺しになるかと思うと情けなく、
思うに堪えず、山中山城守を通して降伏を乞いました。虚報ではありません。」
と答えた。これに氏直は怒り、成田の陣所の四面に柵を設置させ、山上郷右衛門の組の侍八十余人に
よってこれを警護させた。
その後、秀吉公より石田治部少輔の元に墨付が送られ、成田氏長が帰降する事を城中へも
知らせるようにと有り、石田より諸将に通達し、龍淵寺の僧を使いとしてこれを城中に伝達
すると、城兵たちもどうすることも出来ず、同月二十七日、浅野左京大夫幸長に対し城を
明け渡した。
(関八州古戦録)
忍城開城の顛末。
06381/2
2019/12/05(木) 18:09:28.65ID:0N8R+1fU引きも切らず東西南北に別れ去り、あたかも蜘蛛の子を散らす如きであった。
この時、豊臣秀吉公より北条氏政父子に使者を以て
『和平の証であれば、一旦下城あるべし。』と伝えてきた。
これを見た氏政父子は憤った
「殿下の言葉とも思えぬ!伊豆相模の両国相違無きと言われた以上、この城にそのまま在るべしという
和睦であったはずなのに、約を変じること心得かねる!」
そのように返答した所、秀吉公より
『そういう事であれば和談を破るという事であるから、元のように籠城せよ。いつでも戦って
攻め落とすであろう。』との返事があった。
これに氏政父子は進退窮まり、どうしたものかと考えたが、士卒たちは尽く退散した後であり、
今更籠城するような力も尽き果て、言語道断なる有様であった。
ここで徳川家康公より榊原康政を以て御異見が加えられ、同九日、北条氏政父子三人、および
氏照、氏邦ら伴って、城下の田村安栖(田村安清:北条家侍医)の居宅に移り、城は井伊兵部少輔(直政)、
榊原式部大輔(康政)がこれを請け取り、番兵を以て七口を警護した。そして殿下の命に任せられ、
翌十日には家康公が御入城された。
秀吉公は家康公にご相談された
「我々が遥々とここまで下向したのは偏に北条一族を根切りにするためである。であるのに
今尽く宥恕せばこれまでの発言への信用も無くなってしまう。である以上、氏政氏照は誅殺し、
氏直はそなたの聟であるのだから、今回のそなたの勲功に鑑みて死刑は宥し置く。氏房、氏邦、氏規も
またこれに準ずるべし。」
家康公はこれに御同心され、同十一日未の刻(午後二時頃)、検使として中村式部少輔一氏、
石川備前守貞清、蒔田権佐正時、佐々淡路守行政、堀田若狭守に、井伊直政、榊原康政を加えて、
千五百余騎にて田村安栖の屋敷を固めた。この時までに氏政父子に従う士卒は八、九百もあったのだが、
この軍勢を見ると等しく、我先にと続々と落ち去って残兵も僅かであった。
06392/2
2019/12/05(木) 18:09:45.97ID:0N8R+1fU思い、黙して言葉を発することが出来なかった。これを北条陸奥守氏照が察し、言葉をかけた
「各々のここまでの御来臨、定めて当家の一類に対する生害の催促なのでしょう。であれば
暫く沐浴の暇を頂き、その間待っていてほしい。」
中村、石川はこの言葉を得てようやく秀吉公の命を伝え、「心閑に用意有るべき。」と答えた。
その後、氏政、氏照は座に坐り、筆を取って傍の帖紙に辞世の和歌を書いた。
左京大夫氏政
『雨雲の 覆へる月も胸の霧も はらひにけりな秋の夕風』
『我身今 消とやいかに思ふへき 空より来り空に帰れは』
陸奥守氏照
『吹と吹 風ないとひそ花の春 紅葉の残るあらはこそ』
氏照は属鏤匕首を取って腹を十文字に掻っ切った所を、家人が後ろに廻って首を前に落とした。
そして氏政、この時五十三歳も続けて切腹した。この時介錯する者が居なかったが、美濃守氏規が
近づいて介錯した。そして自身も腹を切ろうと太刀を取って肌を押し脱いだ所で、検使の面々が
急ぎ彼を掻き抱き「殿下の命は両将のみである!卒爾の義あらば我々の後日の落ち度とも
なりましょう!」と押し留めた。
この時、陸奥守氏照の侍童に山角平太郎という者があり、ここまで扈従していたのだが、検使の面々が
美濃守を押し留めている隙に氏照の首を抱き取って走り出したが、暫くこれを追いかけて奪い返した。
そして氏政の首と同様に、殿下の実検に備えられると、
「王命を恐れぬ不逞の臣である。朝敵にも等しい。」
として、石田治部少輔三成に下知して京に送り、一条戻橋にて梟首された。
衰勢興亡は世の常の習いであるが、早雲庵宗瑞より既に五代の運を得て、九十余年の暦を伝え、
類葉枝を連ね栄華は関八州に冠たる豪家が一時に滅亡したこと、時節の到来とは言いながら
なんと儚いことであろうか。
また、かの山角平太郎は氏照生害の後にあのような仕儀に及んだことで、井伊直政が召し連れて
陣屋に帰り徳川家康公にお聞かせした所、家康公は
「若年の身でありながら主人の首を奪い取ったその志、殊勝の振る舞いであり、奇特の者である。」
と称賛され、御家人に加えられ、後に武州多摩の関戸の郷に所領を与えられた。
(関八州古戦録)
北条氏政、氏照の切腹について。
0641人間七七四年
2019/12/05(木) 21:24:34.25ID:1Oc8oAjB0642人間七七四年
2019/12/05(木) 22:44:29.39ID:qdHMo2wl多摩の関戸って小田原衆筆頭の松田家が代官するいい所貰ってんだな
0643人間七七四年
2019/12/06(金) 09:25:49.12ID:brHVrkeT彼の北の方(督姫)は徳川家康公の姫君にて、過ぎし天正十一年七月、小田原にお輿入れ成されたが、
いまや別離の御暇乞いにおよび、紅涙に沈まれていた。その心痛わしい中、氏直は肌につけていた
お守りを取り出し北の方に見せた
「これは高祖(伊勢宗瑞)よりの守護であるとして、当家相伝の重宝である。初代早雲庵が
伊豆国より起こって、明応四年九月十三日、湯坂の城に大森不二庵(藤頼ヵ)を追い落とされた時、
夕方に出陣の身固めをされ食事を取り、勝栗を半分食し、半分を鎧の引合に押し入れて出御されたが、
その夜、難なく本望を遂げられた事により、吉例の物であるとして、この勝栗の方辺を綿襴の袋に入れ、
以後氏綱、氏康、氏政、そして私まで、五代の間持ち伝え秘蔵してきた。
私は今、浪客となった。よってこれはあなたに渡して置く。もしまた、この後一門の中から
世に出て家を継ぐ者が有ったなら、その者に渡してほしい。」
そう言ってこれを渡した。北の方は涙に咽びながらこれを受け取り、以降肌身より離さず所持して
いたが、氏直死去の後、彼女が家康公の仰せによって池田三郎左衛門輝政と再婚する事に成った時、
彼女より北条美濃守氏親へ譲られたという。
またこの時、北条左衛門太夫氏勝も高野山に氏直の供をすると、その準備を調えていたのだが、
家康公より殿下に申し入れがあった
「氏勝は最前に麾下に入り、関東諸城への案内をなし、軍功を励みました。これを無下に高野山へ
遣わされるのは理屈が通りません。そのような事をすれば、今後一体何者が我々に帰降して返忠を
成すでしょうか。枉げて本領を宛行われるべきでしょう。」
秀吉公はこれを聞かれると
「忙しさのあまり気が付かなかった。私の誤りである。」
として、氏勝を留め置き相州玉縄の旧領を与えた。
斯くして同月二十日、氏直は小田原を発った。随行する人々は、太田十郎氏房、北条安房守氏邦、
美濃守氏規、左衛門佐氏忠、右衛門佐氏堯、松田左馬助、内藤左近太夫、福島伊賀入道、堀和佐兵衛尉、
依田大膳亮、山上郷右衛門、諏訪部宗右衛門、大道寺孫九郎、菊地七兵衛、以下三十人、
そして雑兵は三百人であった。家康公よりお見送りとして、榊原康政が差し添えられた。
秀吉公は温情を施され、旅中の差し障りが無いようにと、警護の士、駅路の伝馬、道中の賄いを
充分に宛行われ、高野山に至ると二万人(二百人ヵ)の扶持料を賜り、その他雑用、調度についても
要望どおりに準備させた。そして高野山の山上は寒冷が殊に甚だしいと殿下は聞き及ばれ、
これを労り、翌年十一月十日にこの面々を天野の地に移し、衣服、酒茶の類までも豊かに贈られた。
天正十九年の春、氏直は泉南の興応寺に来て半年ばかり滞在し、その間に秀吉公は
彼を大阪城に招き対面して、北畠(織田)信雄の旧宅に入れ白米三千俵を与え、その後来春には
西国中国の内に一国を宛行う事を約束したのだが、氏直は俄に痘瘡を病んで回復すること無く、
十一月四日、三十歳にて逝去された。あれほどの豪家であり、また家康公の聟君であり、
殿下にも慈悲を加えられていたというのに、誠に是非無き次第である。
舎弟の太田十郎氏房も翌年四月二十日、肥前国唐津の陣中に於いてこれもまた痘瘡を患い、
不孝短命にして二十八歳にて卒去した。ここにおいて、北条家の正統は断絶したのである。
(関八州古戦録)
小田原開城後の北条氏直について
0644人間七七四年
2019/12/06(金) 10:08:01.62ID:yzluYGCw0645人間七七四年
2019/12/06(金) 10:39:05.02ID:LVehz+Z0都合良くどんどん死んだな
玉縄って北条綱成の築いた巨城でしょう?そんなとこの旧領を北条氏勝に与えて良かったのかしら?
0646人間七七四年
2019/12/07(土) 04:32:43.45ID:mZxo5fAk0647人間七七四年
2019/12/07(土) 10:55:03.01ID:AzvJW3Lj0648人間七七四年
2019/12/11(水) 11:01:10.95ID:+Xsq24cf戦国時代のある日、山形の最上家と谷地の白鳥家の間で縁談の話が持ち上がりました。
最上義光は家臣の蔵増親景に命じて長男の最上義康と白鳥長久の娘の日吉姫(伏姫とも)の婚儀のために、姫を谷地から山形へと迎える新道を(山形から漆山、高擶、蔵増、谷地を通る最短距離の新街道)を切り開きました。
日吉姫はこの道を通って山形に嫁ぎ、沿道の領民たちは、この道を「向去(ムカサリ)道」と呼びました。
それから間もなく血染めの桜で知られる白鳥長久謀殺事件が起き、婚姻が事実上のおしゃかとなると、最上の軍勢がこの新道を谷地まで攻め入り、姫の里の谷地は落城。
「ムカサリ道」は「いくさ道」でもあったのです。
天童にあるこの道も、今ではわずかに名残を留めるだけとなりました。
また、長崎と山辺間の「立道」(たちみち)にも中山氏と山野辺氏の縁組の不幸な逸話があり、以後嫁入りの際は「ムカサリ」はこの道を避けて通らなくなったと言います。
他にもムカサリと冠される橋があり、白鷹町荒砥の「ムカサリ橋」も何故か理由はわかりませんが、昔から「ムカサリ」は渡れない橋だと言われています。伝承は理屈ではないということでしょう。
山形の昔話
天童の昔話
てんどうのむかしばなし第二集
白鳥十郎公ものがたり/槙清哉/著
山辺夜話/武田泰三/著
あらと百物語/荒人・乱舞実行委員会/編
0649人間七七四年
2019/12/11(水) 19:54:52.99ID:wpvlNuOq4101「残された妻・嶋子は秀吉のもとに差し出され…」
11031「伝説の姫君嶋子」
という逸話では小弓公方の末裔・足利頼純の娘であり
塩谷氏に嫁いでいた嶋子という絶世の美女が、
北条滅亡後、古河だか宇都宮にいた秀吉のもとに参じ
自身が側室となる代わりに小弓公方の血を引く弟と、古河公方の娘を結婚させることで
足利の家(のちの喜連川氏)を残そうとした、てなってたけど
https://www.iza.ne.jp/smp/kiji/life/news/191211/lif19121112270008-s1.html
家康監視に足利氏を利用? 小田原落城後に出した秀吉の書状見つかる
小田原落城直後の時点でまだ神奈川にいた秀吉から足利頼純に厚遇を約束するような書状が発見されたようで
嶋子側室の件は大して影響なかったのだろうか
少なくとも逸話では嶋子は神奈川には行ってないようだし
0650人間七七四年
2019/12/11(水) 20:42:19.27ID:qSXNh1zJかなり気配りした手紙みたいだけど学芸員の妄想じゃないのかな
小弓足利のために動いた里見も削減しちゃってるし
0651人間七七四年
2019/12/11(水) 21:23:42.59ID:eRGzA007秀吉が刀一腰貰った事に対する礼と
北条が滅亡して年来の北条に対する鬱憤が晴れてさぞや満足でしょうってことしか書いてない
この書状の内容だけじゃ到底家康監視のためとは読み取れない
あくまで学芸員の推察だな
06521/2
2019/12/12(木) 11:31:17.84ID:g+fbVvyj石田治部少輔(三成)は伊吹山へ逃げ隠れていたが、田中筑前守(吉政)の家臣が捕えて家康公の
元に送り、小西摂津守(行長)、安国寺(恵瓊)両人も方々にて捕縛された。
三人共に洛中を引き廻しにされたのだが、この時太夫殿(福島正則)はこの三人に小袖を二つづつ
与えた。中でも治部少輔は「太夫殿の御心指し感じ奉る」と悦び、衣類を着替え、太夫殿の与えた
小袖を着て洛中を引かれ三条河原にて首を切られた。
石田治部の弟である石田杢(石田杢頭(正澄)、実際には兄)、家老の島左近は佐和山の留守居であったが
(島左近は実際には関ヶ原で討ち死にしている)、佐和山城が攻められた折二人共切腹した。
徳川家康公は海手を通られ大津城に在陣され、三左衛門殿(池田輝政)、太夫殿は道中のそれぞれの
宿に制札を立て、百姓や山中に逃げた者達を帰宿させた。
その後太夫殿は山科に在陣し、子息(養子)の刑部殿(福島正之)を北政所様への御見舞に遣わした。
この時、京三条口の番をされていた稲図書殿(伊奈昭綱)の番頭が、ここに柵を付けて鉄砲の者
三百人でこの番所を堅めていた。ここを福島刑部殿は理を入れ京へと通過したのであるが、その後に
刑部殿へ急用があるとして、太夫殿家臣の佐久間嘉右衛門と申す者、知行二百石取りの侍を刑部殿の
元に遣わしたのだが、この嘉右衛門も番所にて、急用であることとを理り申したのだが、当時は
厳しい時分であり、番所では通そうとしなかった。この時嘉右衛門は「慮外では有るがここの番の
責任者である図書様に理由を申し上げたい。」と色々と言ったのであるが、とにかく通さないと申し、
竹杖にて押しのけられた。この時少し竹杖が当てられた。
嘉右衛門は無念に思ったが、多勢に無勢であり、その上番所でも有ることから是非無く、命ぜられた
急用も打ち捨てて太夫殿の元に帰ると、直に罷り出て
「今度のお使い、御急用を打ち捨てて罷り帰った事、なんとも御迷惑をおかけしたと思っています。
しかしながら稲図書殿御番所にて色々とお理りを申し上げたのですが通してもらえず、あまつさえ
竹杖にて押し出され、杖も当たりました。これでは男が罷り成りません。只今より私は切腹仕ります。
相手は図書殿でありますので、哀れと思われ敵を取って頂ければ、有り難く存じ奉ります。」
このように申し上げた。太夫殿は「それは卑下すべき事ではない。多勢に無勢だったのだから
仕方がない。」と言ったのだが、嘉右衛門はそのまま帰って切腹した。
06532/2
2019/12/12(木) 11:31:45.63ID:g+fbVvyj「さてもさても不憫な事だ。」と涙を流し、この嘉右衛門の首を取り寄せ、井伊兵部少輔(直政)殿の
元ににこの首を送り、先の嘉右衛門についての事を伝え「稲図書の首を見せるべし。」と荒々しく
申し入れた。兵部殿はお聞きになると大いに驚き
「ご立腹は尤もです。しかしこれは稲図書が存じているわけではありません。この上はその場で
番をしていた三百人の者達を首にして進ずるので、それでご納得頂きたい。」と返答したが、
太夫殿はこれを聞き入れず
「嘉右衛門の相手は図書である。嘉右衛門はそう申し置きをした。どうしても図書の首を見なくては
ならない。この事を家康公に申し上げて頂きたい。その上で御同心無いのであれば、御忠節はこれまで
である。おっつけ大津へ向かい、家康公に直にお断りを申し上げるだろう。」
このように申し越してきたため、兵部殿は更に驚き、「さてさえ是非もなき義である。」と思われ、
とにかくそれぞれと相談すべきであるとして、浅野紀伊守(幸長)殿、細川越中守(忠興)殿、
池田三左衛門(輝政)殿、黒田筑前守(長政)殿に、この件の扱いを成されるよう頼んだ所、
この四人も内々に太夫殿の性格を存じており、「家康公に申し上げるしか無いでしょう。」との
意見であったため、これを報告した所、家康公は
「それならば三百の番の者達に切腹させ、それにて堪忍するように伝えるべきだ。」と仰せになった。
兵部殿は「先だってそのように申したのですが、まったく聞き入れず『それならば直にお断り申す』と
言っております。」と申し上げた所、家康公は
「さてさて、聞き及んだよりも気違いである(扨々、聞及たるよりも気違にて候)、今は大事の前の
小事であり、是非に及ばず。図書には切腹させよ。」
との上意にて、稲図書は切腹し、その首は太夫殿の元へ遣わされた。太夫殿は大いに悦び
「このようにして頂いて過分に忝ない。」と、すぐに大津へ御礼に参った。
図書は一万石取りの、直参の衆であった。
(福島太夫殿御事)
0655人間七七四年
2019/12/12(木) 21:53:44.99ID:ZtdUB/mz今の感覚だと十分気違いだけどな
0656人間七七四年
2019/12/13(金) 00:05:02.32ID:YZgR0DVQならぬ
「三百分の一の命事件」
として人権教育のネタにされそう
0657人間七七四年
2019/12/13(金) 00:13:10.73ID:PYMzNtB90658人間七七四年
2019/12/13(金) 08:00:56.52ID:s4xg30G00659人間七七四年
2019/12/13(金) 10:17:23.42ID:mPdwyCZg0660人間七七四年
2019/12/13(金) 13:36:01.77ID:8Mf1pdbu>>この事件はその後に福島正則が改易される遠因となったともいわれる。
そりゃそうだ
0661人間七七四年
2019/12/13(金) 19:44:49.92ID:ibMCuezW0662人間七七四年
2019/12/13(金) 23:25:36.92ID:kT2im1w3丹羽長秀の最期を知っているはずなのに、
どうしてそこから学ばずに天下取りの野望を持つ者に擦り寄って一時の大領を得る事を選ぶかねえ。
0663人間七七四年
2019/12/13(金) 23:30:59.34ID:7tRh0pW4それに自分が上に立てないなら次の覇者に接近するしかないでしょ
0664人間七七四年
2019/12/14(土) 00:43:50.77ID:B9HMV06b0665人間七七四年
2019/12/14(土) 11:24:20.94ID:gZ81JtYRあったのだが、両人がそれぞれを相手取って公事(訴訟)を起こした。しかし非常にたわけた公事で
あったため、この訴訟を裁こうという者は誰も居なかった。
この事を太夫殿(福島正則)がお聞きに成り、
「さてさて、憎き奴らにて何とも申し付けようがない。である以上、神前にて鉄火を取らせるように。」
と申し付けられた。これにより、神前に竹棚を拵え器を重ね、それから黒鉄を長さ8寸、幅2寸に
仕り(1寸は約3センチ)、フイゴを立てて真っ赤に熱した。
両人は裃を着し、舅の次右衛門が先ず、熊野の牛王神符を三つ折りにして、両手に牛王の端を大結に
包むと、その上で鉄火を金鋏にて挟んで両手の上に乗せた、次右衛門は三歩あゆみ、いかにも静かに、
素早く器の上に鉄火を置いた。牛王神符は塵となり、器も焼けた。
婿の小源太も同じように手にとった牛王神符に鉄火を乗せ、いかにも足早に、少し手前から器に向かって
鉄火を投げた。
それから両人の手を布の袋に入れて3日過ぎて見てみると、次右衛門の手は火傷で腫れ上がり、
小源太の手は火傷していなかった。これによって次右衛門は切腹し、そして小源太は、訴訟が鉄火にまで
及んだため御奉公致し難く、御暇を下されるよう申し上げた。
太夫殿はこれを聞くと
「小源太は若年の頃より側で使っていたため、多少ひいきがましく思っていたが、にくき奴で、
殊に馬鹿な事をした。そこで腹を切らせろ」
(小源太若年よりそばにつかい被申候故、少ひいきかましく被存候得共、にくきやつ
殊にばか成仕形、其にて小源太腹切らせ候へ)
と言って、切腹させた。
(福島太夫殿御事)
鉄火をした意味が良く解らない。
0666人間七七四年
2019/12/14(土) 14:31:35.78ID:weGXiG/K0668人間七七四年
2019/12/14(土) 16:23:38.59ID:q3vyqnhr0670人間七七四年
2019/12/14(土) 19:13:00.61ID:gZ7AuHZc0671人間七七四年
2019/12/14(土) 23:07:30.81ID:ZwYPSKTU藤堂は外様で唯一駿府に屋敷を持って本多親子と親しくする一方で
次代を見据えて江戸の土井、酒井の娘を一族に嫁がせるとかやってるからな
こういうところでの心配りの方が重要だったと思う
0672人間七七四年
2019/12/15(日) 00:18:04.15ID:Tb2jvQB00673人間七七四年
2019/12/15(日) 09:20:11.35ID:m85Y+NJZ06741/2
2019/12/15(日) 11:41:47.53ID:ejsf4hb3かぶき者であった。また杉村四郎兵衛と申す侍の小舅である、林傳兵衛と申すかぶき者が居たが、
彼は牢人であり杉村四郎兵衛に頼って彼のもとに居住していた。
ある時、この林傳兵衛がいかにも長い刀を研ぎ屋にあつらえさせていた所、この研ぎ屋に来島左門が
参り、長々しい刀が坪に立て掛けてあるのに気が付き、「その刀を少し見せよ。」と手に取り、
「さてさて、この刀は一体何者が指しているのか。これは役に立たない。」と言った。
ところが丁度この時、刀主の傳兵衛がそこに在った
「その刀は私の刀である。役に立つと思ってこうして拵えさせている。それを役に立たないとは
不審に存ずる。」
そう申した所、左門は
「誰が刀主とは知らず申したのだが、言った通りであり是非に及ばぬ。この刀は其方の刀か、
このような刀は役に立たぬ。」
これに傳兵衛は
「いかにも役に立てて見せよう!」と申し、長々しい口論となった。
さて、竹中斎宮と申す五百石取りは太夫殿の側小姓であったが、彼もまた大変なかぶき者であり、
羽織などに『生過ぎたりや廿五』と大紋などに散らして、それを太夫殿の前でも着していた。
彼が先の牢人・林傳兵衛と日頃より親しくしており、故にあの来島左門と傳兵衛の口論の事を
聞かされた。ところがこの竹中斎宮はわるものであり(斎宮わるものにて)、来島左門の知り合いの者に
「研ぎ屋で牢人である林傳兵衛の刀を左門が見た事で、散々にやりつけられ非常に見苦しい様子で
あったそうだ。」と悪口を言った。知り合いの者はこれを左門に語ったが、左門は
「それは牢人の嘘だ。彼は私に返す言葉もなかったのだ。」と申し、これを聞いた斎宮は傳兵衛に
またこれを語り
「このままでは男として成がましい故、来島左門と果し合いをすべきである。私は助太刀を致す。」
と申した。そしてその後斎宮は左門に
「其方に林傳兵衛が果し合いをするそうだが、殊の外身の用心をして人を数多連れておくべきである。」
と申した。左門はこれを聞くと
「さてさて、その牢人が私と果し合いをすると申しているのか。やさしき申し分であるが、かの者に、
何時であっても私は一人で歩く。そう心得られよと伝えて頂きたい。」と申し、それより左門は毎日、
広島の街中を草履取りも連れずただ一人でで、20日ほども歩いたが、特に変わったことも無かった。
ある時、2月の彼岸に海善寺という浄土宗の寺で談義の有る時、来島左門は小姓一人を連れて
この寺に参ったが、林傳兵衛はその彼の跡を付け、左門のいる場所に密かに人の中を分け入り、
左門の後ろに忍び寄った。この時竹中斎宮は彼の助太刀を約束し、傳兵衛の後ろに忍んでいた。
傳兵衛は左門を討ち取ろうと「おぼえたるや!」と言葉をかけ刀を抜いた、左門は「心得たり!」と
申すや太刀速に傳兵衛を一刀で討った。そこに斎宮が、左門が立ち上がろうとした所を長刀にて
突き殺した。左門の小姓は刀で斎宮としばし戦い、斎宮はそのまま引き帰った。そこから直に城へ
参ると太夫殿へ
「来島左門が牢人と喧嘩をし、海善寺にて果てました。」と報告した。
06752/2
2019/12/15(日) 11:43:28.73ID:ejsf4hb3伝えると、彦右衛門は驚き、先ずは御城に参り、太夫殿へ申し上げた
「左門が喧嘩をした所、竹中斎宮が助太刀し、左門を突き殺しました。斎宮に処罰を仰せ付けられます
ように。」
太夫殿はこれを聞くと「斎宮はたった今、左門は喧嘩で果てたとだけ言っていた、不審なことである」
と申された。これに彦右衛門は
「左門の小姓がその場に居合わせ、斎宮の長刀とせり合い、長刀の柄に切れ込みを入れたと申して
おります。斎宮の長刀をご覧になって下さい。」
そう申し上げたため、斎宮の長刀を取り寄せご覧になった所、柄に切れ込みが在った。
このため竹中斎宮は自身の屋敷で蟄居していた所、村上彦右衛門らがにわかに押し込み、塀を破って
切り入らんとした所、内より理り申して来たことにより、扱いと成って斎宮に腹を切らせた。
その後に太夫殿はこのように申された
「杉村四郎兵衛もにくき奴であるので、内々法度にて申し付けよう。牢人を抱え置いて喧嘩をさせたのは
曲事である。」と、彼の組頭である蜂屋将監を呼び出し「杉村四郎兵衛も切腹させるように」と
申し付けた。この時四郎兵衛の屋敷は闕所となったため、四郎兵衛の馬をどうするべきかと、この
馬を持ち去った。太夫殿はこれをお聞きになると
「さてさて、四郎兵衛はにくき奴で心がけが専一で無かったが、蜂屋将監に預け置いたのに、
将監の申し渡しは覚悟が無い。大事の侍を預け置いた所に馬を持たせないのは大いなる間違いである!
今後のためにも将監は罰金として銀20枚を出すように。」
との事で、銀20枚をお取りになった。
(福島太夫殿御事)
いろんなとばっちりだらけの話
0676人間七七四年
2019/12/15(日) 22:41:22.10ID:GGURV1yb0677人間七七四年
2019/12/16(月) 00:54:01.68ID:YZiNpUgO福島・加藤の改易は
https://nichibun.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=933&file_id=18&file_no=1
読むと、正直どっちも自業自得としか…
徳川に頭を下げる云々以前の問題。
0678人間七七四年
2019/12/16(月) 14:57:54.04ID:r8/T39Ix「豊臣秀頼による大仏再建の成し様が悪い。」との事で、御袋(淀殿)か秀頼が江戸に下るように、
との仰せがあった。市正は大阪に帰るとその通りに申し上げたが、御袋様も秀頼も「江戸に下る
事は出来ない。」との意向で、秀頼に至っては、市正が江戸にて心変わりしてこのような事を
言っているのだと思った。その後色々有って、太夫殿(福島正則)の意見を聞きたいという事になり、
太夫殿より、堀田角左衛門という侍が大阪によしみが有ったためこれを上らせ、このように申し上げた
「ここは御袋様が江戸に御下りになり、家康公と御対面あった上でまた大阪に戻るべきです。
御姉妹方(妹のお江の方)へ御挨拶遊ばすという事にすれば宜しいでしょう。」
太夫殿からの意見はこのようなものであったが、全く御同心無く、逆に非常に御立腹されて
「重ねてこのような意見を申してはならない。」との返答をされた。
この返事が持ち帰られると、太夫殿は未だ見ぬ内に、使者の堀田に申し付けた
「大坂からの御返事を頂いた以上、これは直に家康公に差し上げるべきだ。」
こうして返事は家康公の元に届けられ、家康公はこれを一覧すると以ての外に御腹立ちに成り、
即座に京への出陣を命じ、諸大名も尽く軍勢を連れ大阪へと向かった。
この時太夫殿はこのように申し上げた
「私は秀頼を攻めることは出来ません。ですので嫡男の備後守(福島忠勝)を上らせたいと思います。
この太夫には江戸の留守を仰せ付けられますように。」
これを「如何にも尤もな事だ。」と思われ、「備後守を急ぎ上らせるように。」として、
備後守は大阪へと上った。
(福島太夫殿御事)
秀頼から福島正則への返答に家康公激怒し大坂の陣に
0679人間七七四年
2019/12/16(月) 18:27:38.91ID:RnBCNb55格下には強く、格上には弱い。
お家存続とプライドの両立にはこれしかない。
0681人間七七四年
2019/12/18(水) 15:08:24.44ID:fk6UWCwO林、鳥越、尾石、上原、中島、などといった歴々の侍が持ち固め、隣国からの侵入を防いでいた。
また同国奥郡の内を、須々木、秋山その他にて持ち固めていた。
ところが、石川左衛門佐殿に実子がなかったため、奥郡の内、須々木、秋山の一家より養子を取り、これに
高松城を渡して後に相果てた。この養子は筑前守と申したが、これも若い頃に相果て、男子が無かったため
高松城は城主の居ない事態となった。そこで旗下の者達が内談し、筋目の儀である事から、須々木か秋山と
談合して城主を定めようと申していた。
このような中、清水長左衛門(宗治)は高山という城に在ったが、彼は「侘所の者を我々の旗頭と認めるのは
心外な事である。願わくば私が下知をしたい。」と考えていた。この時長谷川と申す者も、高松城主と
成ることを望んでおり、どうなるのか心許ない状況であった。
そのうちに、長谷川方の内談として、「清水長左衛門も高松城主を望んでいると伝え聞く、とにかく先手を
越されては厄介なので、折を見て長左衛門を滅ぼそう。」という話が伝え聞こえた。
永禄八年八朔の出仕の日、諸侍が残らず登城した時、清水長左衛門はこの長谷川を手討ちにし、旗下の衆に
「今日より高松城主は私に定まった!野心の衆が有ったため只今存分にした!」
と申し渡した所、これに否を唱える者は一人もなく、「そういう事ならば人質を申し受ける。」と、
残りの者達より四、五人の人質を城中に取り込み、それより様々に下知を加え、以降国中が固まったという。
その後、毛利家が各地で強盛となり、備中沖郡についても小早川隆景公の御旗下となった。
ところがこれに関して、須々木、秋山らが手切れを成した。この時は因幡国鳥取籠城の時期で、
清水長左衛門はこれに出陣していたため留守をしており、息子の才太郎は当時八歳であったが、高松城下の
小川で五、八人の体にて遊びに出ていた所に、須々木、秋山より、忍びの者数人が密かに高松城近辺に
派遣されており、この時才太郎を拐い人質に取って帰った。
長左衛門が留守でもあり、取り返す手段もなく、城の留守居より因幡国へ注進がなされた。これを
隆景公に申し上げ、清水長左衛門は帰国して須々木、秋山と和平の手を遣わしこれを調え、才太郎の兄弟を
須々木の娘へ遣わすという事で、才太郎を取り返した。そして又すぐに因幡へと出陣した。
その後、因幡は毛利家の御利運となり、帰陣の際に備中奥郡も支配下に置きたいとの、隆景公より御談合があり、
須々木、秋山を「舅入の祝いである」として饗し、高松へ呼び寄せた所を討ち果たし、これにて異議なく
奥郡も隆景公が手に入れられたのである。
(C水長左衛門尉平宗治由來覺書)
清水宗治も非常に戦国の国衆らしい動きをしていたのですね。
0683人間七七四年
2019/12/20(金) 21:51:58.76ID:R4W40bDn0684人間七七四年
2019/12/24(火) 17:25:07.07ID:5KvSs45W当時、知行三千石であったのだが、山口玄蕃宗永(秀吉より秀秋に付けられた家老)の申す所によれば、
「清水の事について太閤様が度々仰せになられていると承っている。そのような人物に三千石では
隆景公が不足に思われるだろう」という事で、五千石を下された。
その後、筑前中納言殿は越前へ御国替えとなったが、この時私はお暇を頂くことを申し上げ、
「筋目の事ですので、宗瑞公(毛利輝元)に御奉公したいのです。」
と申した所、石田治部少輔(三成)より、安国寺恵瓊が使いとして参り
「宗瑞公に仕える事は断念し、中納言殿の元に参るように。そのようにすれば当面三百人扶持の上、
七千石が与えられるだろう。」
そう申して来たのだが、これを断り、御家(毛利家)に罷り帰った。
(C水長左衛門尉平宗治由來覺書)
石高増やしてもらっても金吾の所は嫌だったらしい清水さん
0686人間七七四年
2019/12/24(火) 20:16:09.32ID:ZCiNnBz+無嗣断絶は置いといても、転封が多すぎてやってられなかったろうなぁ…。
丹波亀山 10万石→筑前名島 30万石→越前 北ノ庄 15万石に減封→また筑前でなぜか50数万石に加増→備前岡山55万石。
たったの数年で何回転封してるんだよ…
0687人間七七四年
2019/12/25(水) 10:20:38.11ID:wAqUySn3秀吉系からの家臣ですら諫言した者がムッコロされたりしてるし…
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