武田勝頼について パート10
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0001人間七七四年
2018/10/14(日) 07:44:04.05ID:gvBN66dm武田勝頼、武田義信、仁科盛信など、勝頼関連やその周辺について語りましょう。
0525人間七七四年
2018/10/31(水) 13:52:11.43ID:LpD4cCpmこれ、別スレにいる「ねえ」とか言う奴か?
1日に36もレスするとか、あいつじゃないとあり得ん。
0527人間七七四年
2018/10/31(水) 14:32:33.98ID:icozd/aH商売っ気が強くて嫌な寺だろ?
0529人間七七四年
2018/11/01(木) 04:43:22.55ID:UuXb/1oA0530人間七七四年
2018/11/01(木) 07:07:45.14ID:Pw3BySmG0531人間七七四年
2018/11/01(木) 07:23:15.58ID:OYaNoOus0532人間七七四年
2018/11/01(木) 08:03:31.87ID:3jZGkAQpあの時に甲斐一国って・・・蟄居謹慎でもするのかw
0533人間七七四年
2018/11/01(木) 10:35:31.01ID:bkZ791VV0534人間七七四年
2018/11/01(木) 10:48:30.15ID:3cxJCOsL秋山将監の子孫と思われる
好きな言葉
武田四十八将のひとり。山梨県南アルプス市の秋月院を開基した
http://c.5chan.jp/disp/UNIYpAYedW
0535人間七七四年
2018/11/01(木) 10:51:56.07ID:3cxJCOsL0536人間七七四年
2018/11/01(木) 11:02:43.94ID:vLY3OTGa仮に48いても従来の24と違って役立たずなのは確かだな。長篠後の武田を見ていれば。
0537人間七七四年
2018/11/01(木) 12:18:24.40ID:3cxJCOsLそれをいうと、武田二十四将がネタという話です。
ウィキペディアより
武田二十四将(たけだにじゅうししょう、たけだにじゅうよんしょう)は、武田信玄に仕えた武将のうち、後世に講談や軍記などで一般的な評価が特に高い24人をさして呼ばれるようになった武田家家臣団の呼称。
0538人間七七四年
2018/11/01(木) 12:22:44.72ID:3cxJCOsL現在、山梨県と甲府市が行う信玄公祭り(武田二十四将出陣)はあくまでPR用です。
0539人間七七四年
2018/11/01(木) 12:29:56.38ID:vLY3OTGaそうだけど、24の山県とかは文書でまだ記録があるだけ活躍してたのは明白。
48はどうなんだ? 軍鑑にすら記述が無いんだが。
0540人間七七四年
2018/11/01(木) 12:41:28.56ID:3cxJCOsL48を言ってるのは私ではありません。
フェイスブックの秋山さんと秋山院の和尚です。
ネタというか、言い伝えだと思います。
0541人間七七四年
2018/11/01(木) 12:45:40.56ID:3cxJCOsL勝頼の事を知りたい場合は、山梨県韮崎市にある新府城にあしを運んでみるとよいと思います。
実際の兵糧の蓄えとか、軍備、何人収容出来た城なのか書いてあります。
私は昔、母と観光で新府城へ行きました。
今度また行こうと思うので、行ったら画像載せます。
0542人間七七四年
2018/11/01(木) 13:06:54.82ID:vLY3OTGa長篠の時に秋山って何してたの?
参戦してないのはわかる。
なら美濃で活動してたのかと言われたらそうでもないし。
信長と信忠と主力がいない美濃で暴れたりはできなかったのかな?
0543人間七七四年
2018/11/01(木) 13:39:31.54ID:/5r8iewO今までの話総合するともととなった人はいたかもしれないが、
江戸時代辺りにその人物の子孫を名乗って、明治前後にいろいろ逸話を盛り込んだって感じする。
>>542
森川尻池田なんかの東濃の抑え組残しているから難しいと思う。
織田がさほど警戒していなかった74年の勝頼の恵那侵攻まででさえ岩村城のみだったのだし。
0544人間七七四年
2018/11/01(木) 14:10:59.91ID:r5jRfnvf長篠と信濃で当主跡取り死亡
天目山で男子全滅
でも同じ清和源氏の津金氏から養子貰って子孫が続いてる
しかしマイナー過ぎて、ほとんどの人がその存在すら知らないレベル
0545人間七七四年
2018/11/01(木) 14:15:18.00ID:pXzmYPYzテレビなんかで磯田や本郷、小和田達が度々指摘しているけど〇〇将や○○名臣の
ような○○部分は後世の人間が呼ぶときにゴロがいい、呼びやすい、粋な感じに
聞こえるみたいな感じで勝手に付けたものだからその数字に決まりはないんだと
だから地域や史料によっては実はバラバラなんだとか…
そんで幕府の武田マンセーも影響してか美術商、絵描きなんかがこぞって二十四将を
取り扱ったり歌舞伎がペーパーに取り入れたりして定着していったんだとさ
よって数字とかあんまり意味なさげ
0546人間七七四年
2018/11/01(木) 14:25:53.45ID:pXzmYPYzただ、信玄堤の近くには将監堤というのもあって
この堤を作ったのが秋山将監と言われている
信玄堤ができたことで別のエリアの水害が起きやすくなったから
築かれたとされる堤、成立年などは不明ながら信玄堤とさした開きは
ないのではないかと推測されている
その秋山将監と同一なのかはわからないけど…
0548人間七七四年
2018/11/01(木) 15:00:07.07ID:/5r8iewO実在したとしてもこりゃもっと下の方の身分かも
週末時間あったら軍鑑も調べてみるか
0549人間七七四年
2018/11/01(木) 15:24:26.99ID:W++bL6jH武田氏の系図
http://c.5chan.jp/disp/qmSnmFV4f5
甲斐武田氏というのは、山梨県韮崎市神山町武田に住んでいたので武田氏と呼ばれました。
信玄の少し前の代(信義)が"武田"を名乗り出したそうです。
0550人間七七四年
2018/11/01(木) 15:32:03.11ID:W++bL6jH当時、武田氏というのは"武田"に住んでるから武田氏
秋山氏というのは"秋山"に住んでるから秋山氏という事です。
武田とか秋山と言うのは"地名"から来ています。
しかも、名乗り出したのは戦国の少し前なので、それまでは武田も秋山も源氏。
武田も秋山も甲斐源氏なので、源氏と呼ばれており、戦国の少し前で信義が"武田"を名乗り、武田氏が誕生しました。
0551人間七七四年
2018/11/01(木) 15:35:40.21ID:OTs5XfPB0552人間七七四年
2018/11/01(木) 15:48:33.64ID:W++bL6jH新府城(想定復元図)
http://c.5chan.jp/disp/b7Z5NGxH4S
この城は山城なので、数千人と言う武士を収容出来ません。
数百人と言う武士で立て篭もり、山に登ってきた敵を鉄砲で迎え撃つような作りのお城です。
織田軍(滝川)の兵2,000くらいが攻めてくると侵攻を食い止める事は出来ないので、それは逃げると思います。
0553人間七七四年
2018/11/01(木) 16:00:40.61ID:W++bL6jH織田軍滝川は兵2,000を甲斐に進めた
これを迎え撃つ勝頼は新府城に兵数百人
織田軍を防ぎ切れないと判断した勝頼は新府城に火を放ち逃げ出した
とか書いた方がリアルに伝わります。
0554人間七七四年
2018/11/01(木) 16:20:28.05ID:VMy7AOh9新府城の地は徳川家康も天正壬午の乱の際に8000人で立て籠もったんだからw
0555人間七七四年
2018/11/01(木) 16:30:47.09ID:W++bL6jH調べてみましたが、徳川家康は新府城を改修して本陣にしています。
徳川8,000は新府城にこもったのではなく、家康が新府城に本陣をおいて、残りの兵は他の城や砦に布陣したようです。
ウィキペディアより
天正壬午の乱において徳川勢は新府城を本陣に、能見城など七里岩台上の城砦に布陣した。
0556人間七七四年
2018/11/01(木) 16:40:19.64ID:OTs5XfPB0557人間七七四年
2018/11/01(木) 16:40:27.06ID:W++bL6jH他の兵 付近の城や砦に配置
新府城は立て籠もる城(ろう城)ではなく、野戦(城の外で戦う)ための本陣を構えるための城なのかもです。
大阪冬の陣の徳川の茶臼山本陣、夏の陣の真田の茶臼山本陣のような扱いなのかもです。
0558人間七七四年
2018/11/01(木) 16:42:03.51ID:W++bL6jH新説ではなくて、ウィキペディアでも新府城は山平城と明記されています。
0560人間七七四年
2018/11/01(木) 16:53:41.19ID:W++bL6jHう-ん、私が行った新府城跡はもしかするとその一部なのかもです。
昔あった新府城は、山全体を使った城だったのかもです。
今ある新府城跡は百人もいられないような小さな敷地でした。
新府城
http://c.5chan.jp/disp/b7Z5NGxH4S
0561人間七七四年
2018/11/01(木) 16:56:06.05ID:VMy7AOh9真田昌幸が作ろうとして間に合わなかった幻の新府城というのはそういうものだ。
0562人間七七四年
2018/11/01(木) 16:59:54.59ID:VMy7AOh9実際はそうではなくて家臣の大半が逃亡して七里岩台上全体を守れる兵力が居なかったから東へ逃亡しただけ。
仮に数万の兵力が居たら七里岩台上に留まるのが一番安全で他の手段など無い。
0563人間七七四年
2018/11/01(木) 17:00:59.35ID:W++bL6jH新府城跡にはそういう案内はありませんでした。
だから全く知らないひとが新府城跡へ行くと、小さい山城と言う印象しか残りません。
徳川8,000が入るとか、その手の説明は案内されていません。
0564人間七七四年
2018/11/01(木) 17:02:45.32ID:VMy7AOh9勝頼が新府城の地へ遷都しようと思ったわけが分かる。
北方だけは敵勢を防げないが東西南からは確実に防げるし確かに万余の兵を収容できるだけの
広さがちゃんとある。
0565人間七七四年
2018/11/01(木) 17:07:44.09ID:W++bL6jH確かに秋月院の門には秋山氏の家紋が!
秋月院(秋山氏の家紋)
http://c.5chan.jp/disp/N55PbF3qOV
0566人間七七四年
2018/11/01(木) 17:10:27.38ID:VMy7AOh9沼田城の乗っかってる台地は万余の兵で守れば
西と南からは鉄壁でどうしようもない。
北と東に兵力を集中すれば良いので守りやすい。
しかし守備兵が千名以下だと防衛線が長すぎて城の役目を果たせない。
最初から戦わず逃亡するしかない。
0567人間七七四年
2018/11/01(木) 17:13:13.87ID:W++bL6jH門や塀など秋山氏の家紋を使うのは、ねつ造するだけなら金がかかりすぎます。
ねつ造と言うのは、紙だけとか低予算なものに限ると思います。
0568人間七七四年
2018/11/01(木) 17:15:41.18ID:W++bL6jH万単位で攻城戦やったのは大阪の陣くらいだと思います。
徳川が攻めあぐねて堀を埋めて平地にして、再度侵攻しています。
0569人間七七四年
2018/11/01(木) 17:16:26.76ID:VMy7AOh9平成の市町村大合併で上野原市に飲み込まれてしまったけど
今も元秋山町の地には多くの人が住み人の往来があるんだよな。
南アルプスの秋山とか秋山氏と何か関係はあるんだろうか。
0570人間七七四年
2018/11/01(木) 17:17:31.23ID:VMy7AOh9まあたいした違いは無いけど。
0571人間七七四年
2018/11/01(木) 17:29:54.71ID:zmyCgiUz長篠で壊滅的な打撃を受けていて後詰なんて無理なこと秋山ならわかりそうだと思いたい。
なのに逃げずに自滅に近い死に方するし。
生き延びて武田家再興を果たそうとかいう考えはなかったのかな?
0572人間七七四年
2018/11/01(木) 18:23:13.41ID:W++bL6jH城を捨てて逃げると言う事は、そこに住む民を見捨てて逃げると言う事です。
当時の武士の仕事は民を守る事で、武士はその見返りとして年貢米を民から集めていました。
秋山が女城主と結婚したと言う事は、女城主は秋山が岩村城主となり民を守ると見込んでの結婚のはずです。
逃げると言う事は妻を裏切り民を裏切る行為なので末代までの恥です。
民と妻を抱える秋山は逃げられません。
0573人間七七四年
2018/11/01(木) 18:41:20.09ID:zmyCgiUzでは勝頼は最後はどうなん?
城捨てて逃げて裏切られて死んだ。
それと足利尊氏見てみ。
何度も本拠から追われてるけど生き延びて復活を果たした。
生きて尽くしてこそだろ。
0574人間七七四年
2018/11/01(木) 19:14:59.80ID:e6We1YcE岩村がある旧恵那郡の生まれとして言うと、「美濃」と言っても、旧恵那郡は信濃(木曽谷)や奥三河と
一体みたいな感じ。武田の三河侵攻は、岩村城争奪や、岩村の南(旧上矢作町)で起きた上村合戦と
連動している。秋山が岩村城や明知城を押さえていなかったら、三河の武田軍は挟撃される。
晩年の信玄が何を考えていたか分らんけど、「遠山氏は武田の属国みたいなもんだし、徳川を安心して
叩くために岩村を奪っておくか」くらいの軽い気持ちで、上洛なんて本気で考えずに岩村を占領したら、
信長がガチギレして勝頼の代に祟ったなんて感じかも知れん。
0575人間七七四年
2018/11/01(木) 19:26:22.38ID:e6We1YcE戦国時代の武将はそんなに殊勝じゃないし、民は民で強かだよ。大国をマジギレさせた奴が
地元の城に居座って、後で村落や城下町ごと根切りや焼き討ちされるより、さっさと落ち延びて
消えてくれた方がマシ。
>>569
Wikipediaベースだと、同じ甲斐国内でも秋山氏の本貫地は西の方(南アルプス市)みたいだね。
地名が統合・消滅する近代以前だと、ありがちな氏や土地の名前はあちこちあったしな。
0576人間七七四年
2018/11/01(木) 19:33:07.50ID:veUkQdh0鎌倉時代の武家なんざ民を守ろうなんて殊勝な思想なぞ無いだろ
鎌倉武士でちょっとぐぐっただけでも反吐が出るようなハナシがうようよ出て来るぜ
民衆と武家の相互利益関係が成り立つようになったのは室町中期くらいからじゃないのか?
0577人間七七四年
2018/11/01(木) 20:05:24.18ID:Pw3BySmG昔、長篠城→田峰城、武節城の勝頼敗走ルートと
奥三河からの岡崎に抜ける山県昌景の別動隊ルート行ったけど
所々に片側が崖で車一台しか通れない道があったり車と鉢合わせしたら所々に作られてる退避所に車を入れて
前から来る車が通りすぎるまで待たないといけない狭い山道だったな
舗装されてる現代でもそんな感じなのに戦国時代にそんな挟撃できる大軍が通れたのか不思議だな
0578人間七七四年
2018/11/01(木) 20:28:01.66ID:W++bL6jH尊氏の場合は、もう鎌倉の北条がダメ過ぎたと言う背景があります。
徳政令など出したが、実際は借金をしなければみな生活出来ませんでした。
北条討伐後の天皇の政策も、いまいち納得出来なかった。
そこで尊氏を担いで将軍にする事で、地方の大名は見返りに生活に困らないだけの土地を手に入れる事が出来ました。
室町幕府は尊氏は実際には戦っていないので、足利将軍の土地と言えば、山城の国、六波羅と関東と東北の探題だけです。
勝頼の場合は、逃げた勝頼を担いだとして、担いだ側にどのような見返りがあるかと言う話です。
例えば勝頼に味方して織田徳川を撃退したとして、どれほどの褒美が貰えるのかと言う話です。
0579人間七七四年
2018/11/01(木) 20:28:24.44ID:e6We1YcEその話は実感を以て分かるけど、だからこそ、岩村や明知みたいな街道≒山道や川筋の
交通結節点を押さえておかないと、寡兵で退路や補給路を遮断されかねないんだよ。
天正壬午だって、豪族に過ぎない真田の寝返りでに補給路を断たれた北条が、万全なら
潰せたはずの徳川と、渋々ながら講和を強いられたように。
0580人間七七四年
2018/11/01(木) 20:43:40.76ID:W++bL6jH一番分かりやすいのが関ヶ原の戦いだと思います。
関ヶ原で家康についた東軍は、見返りとして莫大な土地を貰っています。
反対に西軍についた大名は戦後処理で土地を没収されています。
誰かを担ぐって事は、見返りに土地をくれって事だから、戦いに勝っても土地を与えられない武将はみんな滅びています。
0582人間七七四年
2018/11/01(木) 21:01:39.18ID:W++bL6jH当時はそれが褒美でした。
武士は生活をかけて命がけで戦をしてるので、勝った方の武士は負けた方の土地の略奪や奴隷を認めていました。
焼き討ちする目的は、民家の財宝を奪ったり女子供を奴隷として連れ帰る事です。
無償で戦争しろとかいうと、鎌倉の北条のように味方に裏切られるので、当時の大名は土地が与えられない場合は、代わりに略奪を黙認していました。
0583人間七七四年
2018/11/01(木) 21:49:20.08ID:zmyCgiUzあそことって余計コストかかっただけのような気がする。
信長みたいに取り返すまで待つって戦略が武田信玄や勝頼には感じられない。
1574年の勝頼の侵攻でどれくらいが武田領になったの? 恵那郡全域?
0584人間七七四年
2018/11/01(木) 22:01:01.56ID:veUkQdh0美濃は諦めて三河に転進した
0585人間七七四年
2018/11/01(木) 22:11:37.86ID:W++bL6jH簡単に言うと甲斐から尾張に侵攻するルートは二つしかありません。
一つは、岩村城を攻略して美濃から尾張に南下するルートです。
もう一つは、駿河から三河を攻略し尾張へ西上するルートです。
美濃から尾張へ南下する場合は恵那全域を支配する必要があり、三河から尾張へ西上する場合も三河から徳川を追い出す必要があります。
0586人間七七四年
2018/11/01(木) 22:12:13.52ID:UuXb/1oA遠山友忠の家は武田に従わず、苗木城も従わなかったとされてるが、だとしたら岩村城に相当近いので本当かどうか分からない
コストがかかるって、なんのコストだか知らんが岩村城は長篠惨敗までは機能してたろ
取り返すまで待つなんて戦略ってなんだよ
0587人間七七四年
2018/11/01(木) 22:22:07.06ID:CPP59E62>一つは、岩村城を攻略して美濃から尾張に南下するルートです。
そんなルートは少数の別動隊しか使えません
甲州征伐の信忠軍も大軍の本隊は伊奈街道を通って信州入りしています
同じく奥三河から三河侵攻ルートも少数しかいけないために
三河侵攻は信玄も勝頼も本隊は遠江から来ています
0588人間七七四年
2018/11/01(木) 22:40:50.21ID:EhizS1x9はっきり言ってあまり意味はない。
ただ信長とかまえた場合美濃と国境
が重なるから、どうしても攻勢に
出ておかないと美濃方面から、プレッシャーを
受けることになる。
岩村を攻略したことで、まずは攻勢をうつ
ことが出来、その方面はまずは安泰と
いうところ。
意味が無くはなくて、取れたら取ったほうが
良い。
しかしそれは武田が攻勢に出れている場合に
限る。
長篠以後の守勢にまわった後ではただの
無駄。
守る範囲も人員も多く大きくなって足枷に
なった。
一旦放棄して、国境を固めたほうが良かったが
プライドが邪魔したのだろう。
0589人間七七四年
2018/11/01(木) 22:55:27.54ID:W++bL6jHそれはでたらめです。
戦国時代や江戸時代に伊奈街道など存在していません。
伊奈街道について調査している。
伊奈の「伊」は信州の伊那から、「奈」は甲州の奈良田の頭をとったものと思われる。明治5、6年頃から計画され明治19年に完成した。
0590人間七七四年
2018/11/01(木) 22:59:20.23ID:W++bL6jH0591人間七七四年
2018/11/01(木) 23:07:49.99ID:OTs5XfPB0592人間七七四年
2018/11/01(木) 23:08:41.70ID:CPP59E62信長公記にはっきり伊那口と書かれてるのに
それすらも知らない無知なのか
それとも伊奈の奈じゃないという屁理屈言い出すつもりじゃないだろうなw
0593人間七七四年
2018/11/01(木) 23:12:15.34ID:Pw3BySmG三河なんて地名は存在しない!とか言い出しそう秋山君
0594人間七七四年
2018/11/01(木) 23:14:05.04ID:veUkQdh0あいつも呼吸をするように嘘ついてたよな
0595人間七七四年
2018/11/01(木) 23:14:36.58ID:W++bL6jH信長公記は読んだ事はないです。
別にここは知識をひけらかす場所ではないと私は思っています。
0599人間七七四年
2018/11/01(木) 23:35:00.49ID:W++bL6jHこのご時世はインターネットが普及してるので、検索で確認できる単語を使うべきだと指摘しているつもりです。
伊奈街道を検索しても、この時代には該当しないため指摘しただけです。
0602人間七七四年
2018/11/01(木) 23:48:07.85ID:W++bL6jH織田軍は伊奈街道から侵攻した。
とか書くと流石に模範回答からは外れると思います。
これを正解にすると何でもありになってしまいます。
0603人間七七四年
2018/11/01(木) 23:51:04.60ID:CPP59E620605人間七七四年
2018/11/02(金) 00:02:52.07ID:pMhrGiHz上についての解説です。
現在は恵那山トンネルが開通してるので、岩村城から南下すれば尾張(小牧)まで真っ直ぐ行けるんですよぉ。
当時、恵那から小牧へは行けないって知らなかっただけですよぉ。
http://www.geocities.jp/utakatanoutage1324/page037.html
中央自動車道の中津川を過ぎて長野県に入ろうとする位置に長いながーいトンネルがある。
恵那山トンネルだ。全長は8649メートル。
おやすみなさい
0606人間七七四年
2018/11/02(金) 00:08:30.80ID:pAbDVaIM0608人間七七四年
2018/11/02(金) 01:00:45.85ID:Dbj/spOzID:W++bL6jHはもう少し基本的な歴史の知識身につけたら?
秋山以外でも歴史の知識が無さ過ぎて
すべて指摘したらまともに会話にならない
>>567
著作権があるわけじゃないから家紋を盗用しても特に金がかかるわけじゃないぞ
そして江戸時代じゃ庶民も家紋持っているので
どのみち門や塀には何らかの家紋入れる必要がある
古文書家系図の捏造の方が金かかる
>>574
軽い気持ちで信長の子供を人質にするなよ
まあ今川攻めた時も徳川の人質返さなかったというが
>>576
旅人を弓で射ってはいけませんとか
女を襲ったらお金払いましょうとか
が法か何かで禁止されるぐらいだからな
0609人間七七四年
2018/11/02(金) 01:29:51.85ID:Bw6/gdhb国境付近の山城を抑えるのは武田のいつもの戦略だね
奥三河の山家三方衆、東美濃の岩村城、飛騨の三木に郡上の遠藤の連絡網で信玄の大好きなお手紙のやり取りができる
目的は調略と煽動かな
信長の林、安藤の処分は武田への内通を嫌疑にかけられてという説もあるくらいだし、ある程度の効果はあったっぽい
0610人間七七四年
2018/11/02(金) 05:23:09.81ID:pMhrGiHzう-ん、確かに盗用の可能性はあります。
というのは、塀に刻まれた秋山氏の家紋と、現在の子孫の家の家紋が違います。
当時の秋山氏と現在の子孫の家紋が違う事ってあるのでしょうか?
0611人間七七四年
2018/11/02(金) 06:33:07.71ID:5ytfddzB武田勝頼 山城をめぐる最期の決断 新府城・岩殿城・岩櫃城
0612人間七七四年
2018/11/02(金) 06:57:07.50ID:8e+Rppfdハドリアヌス帝が創った防壁(リメス)の構築やハドリアヌスの長城など
知識として知らなかったのだろうか
天然の要害(川、山、尾根、谷)を利用した砦群や堤などの防衛施設建築など
勝頼にはすべき事がたくさんあったのではという気がしてならない。
あまりに防衛施設を作るのが困難だったりコストに見合わない領土は捨てるという
決断も必用だったろう。
0613人間七七四年
2018/11/02(金) 07:55:10.97ID:NETB2+1f地図を見れば分かるけど、岩村城が織田寄り遠山氏の拠点のままだと、織田が岡崎経由でなく
三州街道から、武田の奥三河侵攻を牽制・阻止することが可能になる。
>>583
1574年の勝頼侵攻で、恵那郡はほぼ制圧されてる。後詰が間に合わなかった信長が防衛線を
引いたのは、現在の瑞浪市(小里城など)。
美濃侵攻には国力不足という自覚があったんだろうが、勝頼はこの後、土岐郡へ西進せず、遠江や
三河と侵攻先をコロコロ変えて、長篠でボロ負けする。
0614人間七七四年
2018/11/02(金) 08:11:00.41ID:pMhrGiHzその手の書物はまだ日本に伝来してないと思いますよ。
戦国と言えば、鉄砲とキリスト教、食品などが日本に伝わっています。
勝頼は鉄砲を作らせています。
0615人間七七四年
2018/11/02(金) 09:10:42.38ID:pMhrGiHzここは勝頼のスレだから、もう少し空気を読んでレスをした方がよいです。
普通に考えてこのスレには武田勝頼ファンが多いと思います。
"長篠でボロ負け"とか書くのは、事実であったとしてもこのスレの住人が読むと不快に感じスレの流れを止めてしまいます。
せめて勝頼は頑張ったが負けてしまったと表現するなど配慮は必要だと思います。
0616人間七七四年
2018/11/02(金) 10:27:51.01ID:1CXtivLG_/ ⌒ ⌒ \ うん、うん、
/)) (●) (●) ヽ それで?
|∩ (_人_) |
/ ノ、_ヽノ_ノ ̄)
/ / /フ_/
L_/\ \(
0617人間七七四年
2018/11/02(金) 10:44:48.10ID:MlOWEfqG史実や立地からして末裔臭い感じがするなあ…
本山格の寺には同じ家紋でかなり古そうな墓石もたくさん並んだ立派な
秋山家の墓があるし秋山ではないけどこの寺には意味深な墓情報もあった
他方で富士市の土屋一族は甲斐土屋家の流れとされていてミュージシャンの
土屋昌巳はここ出の人
0618人間七七四年
2018/11/02(金) 11:03:42.74ID:pMhrGiHz富士宮市のあたりは源平合戦で武田氏も秋山氏も源氏として参加しています。
それに信虎の代、信玄の代と今川氏との交流や婚姻などもあったため、武田家のものが流れるのは自然だと思います。
土屋は昨日、新府城跡へ行き、例位を拝んできました。
下は画像です。
土屋右衛門尉 昌次 霊位
http://c.5chan.jp/disp/hrYesMhH9L
私は観光が好きなので、富士宮市はよく行きます。
旅行好きだと、そういうエピソードはたくさんあった方がその土地へ行く時楽しめるので私は好きです。
0619人間七七四年
2018/11/02(金) 11:05:07.70ID:qsol9XGJ0620人間七七四年
2018/11/02(金) 11:05:13.74ID:KAYjMEkV0621人間七七四年
2018/11/02(金) 11:20:28.65ID:MlOWEfqGへぇ〜宮のどのあたりよく行くの?
宮ってあまり戦国関係観光資源にしてないんだけどなあw
場所柄今川武田北条関係のガチ末裔がたくさんいるんで憚ってるんだが
0622人間七七四年
2018/11/02(金) 11:30:59.73ID:hJ8u8AX6自分は勝頼ファンだけど、別にボロ負けと言われても嫌な気はしないがな
だって長篠は間違いなく結果的にボロ負けだったんだから
あの重臣死亡率と兵の死傷数見て頑張ったなんて言えないから
だったら何で戦ったんだと、逆に批判したくなる
0623人間七七四年
2018/11/02(金) 11:36:30.34ID:im86CdHT何で新府城跡に土屋昌次と甘利信康の墓があるんだよ。この2人は長篠で死んだんだから新府城とは無関係だろ。
しかも土屋の名前は「昌続」なのに昌次になってる時点で眉唾すぎて草だよ。
0624人間七七四年
2018/11/02(金) 11:37:34.23ID:im86CdHT仮に長篠で勝頼が素直に撤退していたら、武田は織田相手にその後も存続できたでしょうか?
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