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戦国ちょっといい話37

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0001人間七七四年2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0580人間七七四年2013/06/29(土) 20:16:14.71ID:qqzxEcEo
>>579
現代でも考えれないやつがいるのに、この時代に障害者のことまで考えて政治やってたのか
0581人間七七四年2013/06/29(土) 20:26:36.96ID:fW3y00Y7
>>580
徳川幕府は何故か障害者、特に視覚障害者に対して非常に篤く保護していた(盲目の人間から借りた金を返さなかった場合は重罪になったり)
秀忠の実母が駿府で盲目の女性を保護したりしてたから、そう言う影響があるのかも

「ごぜんのう」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4398.html
0582人間七七四年2013/06/29(土) 20:47:26.30ID:CdywC1KT
シグルイの賎機検校が頭に浮んだが、あれは架空人物だったかな?検校自体は確かに超高位。
0583人間七七四年2013/06/29(土) 23:30:34.80ID:XRomesF3
>>581
家康の先輩の信長からしてそうだからな
0584人間七七四年2013/06/29(土) 23:50:07.28ID:a/5/lKhC
先輩というか同盟相手。
歳上を先輩と呼ぶならその通りだけど
0585人間七七四年2013/06/30(日) 09:12:55.75ID:svqe9QSc
天下人としての先輩って意味では?
0586人間七七四年2013/06/30(日) 20:59:38.28ID:crWtZLaO
>>583
信長は知障の人を保護したんだよな
慈悲の心ありすぎるのに仏敵っていう
0587人間七七四年2013/06/30(日) 21:05:50.15ID:HPu0gylf
>>586
信長の場合は、たまたま目にした障害者を個人的に哀れんだだけで、仕組みや制度のある恒久的な施策として
行ったわけではないから、それを慈悲と呼ぶのは正直抵抗がある。
0588人間七七四年2013/07/01(月) NY:AN:NY.ANID:gV91UkMh
>>587
政治家以外に慈悲のあるやついないのかよ
0589人間七七四年2013/07/01(月) NY:AN:NY.ANID:4xg1CQW2
>>588
信長は最高権力者なんだからそういうことが出来る立場じゃん
0590人間七七四年2013/07/01(月) NY:AN:NY.ANID:8f1b5CkQ
法は定められても行き渡るかは別問題なんだよな
現代でもそうじゃん
0591人間七七四年2013/07/01(月) NY:AN:NY.ANID:4xg1CQW2
関ヶ原による長宗我部家改易後、近江に流れ井伊家家臣となった福富親政は
大阪冬の陣にも出陣した。

「講和が成立したため、私は大阪城内に参り、古主である長宗我部盛親公に御目見得いたしました。
盛親公は私への御意に

「この度其の方はどこの攻め口に居たのか?」

とお尋ねに成りました。私が「井伊掃部頭(直孝)の手に居りました」と申し上げると、

「去る4日の朝、土居を攻め立てた人数の中に居たのか?」

とお聞きになられたので、「御意の通りです。4日の朝の掃部頭備のうち、
討ち死にした者の死骸を、ただ今回収しているところです。」とお答えすると

「掃部頭の手勢のうち、あの朝どれほど討ち死にしたのか?」

「17人、討ち死にいたしました。」

「そこは、私の持ち口であった。私への報告も、其方の申す通りである。」

そうして御側衆に仰せ付けになられ、討ち死にした17人の旗指物をお取り寄せに成り、
私に見せて頂きました。井伊家の同僚として近しい者達の指物であったので、それを見ると
涙を流してしまいました。

この時、盛親公は

「この平右衛門の祖父である飛騨と、父の隼人は、その時代非常に活躍し、討ち死にをした
者たちだ。」

と、その傍にいた中内惣右衛門と言う御仁にお話されました。誠に、忝い次第でありました。

それから盃を頂戴つかまつりました。その座には、近藤喜左衛門、川村半助、十池新右衛門
という方々が居ました。

このうち十池新右衛門は、この後紀州大納言様御家に仕えたと聞き及んでおります。」
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

大阪冬の陣の和議の後の、長宗我部盛親と旧家臣との会合の模様である。
0592人間七七四年2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:TC+OmiSz
最上義光の時代、大和の高島に守光居士という長寿の者がいた。
百二十歳を超えていて昔のことも知っているので、多くの人々が昔話や長寿の術を学んでいた。
義光も興味をもって招き、乱世の興亡についてでも聞いてみようとした。
そうして数時間も話してみたが、どうにも無駄なことしか覚えていない。

そして長寿のこつといえば、暑さ寒さや湿気を避けて、ただ一人超然としてストレスをためず、嫌だと思うことはしないということだとか。
義光はこれを聞いて、
「あなたはそれでよかろうが、我々のような(領民をおさめる)立場では役に立たないことですな。
家臣もあなたの長寿の術を学んだらば、仕事をやめて私にまじめに仕えなくなるでしょう」
と述べ、居士を送り返した。
義光曰く「人の知恵は金銀のようなもの、はかりしれない財産をたくわえるようなものだ。
そうはいっても、仕事をしたり俗世の銭勘定も必要だ。このことを考えねばならない」とのこと。
(『太平将士美談』)
0593人間七七四年2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:JMUgaiQq
>>592
前に出た逸話で似たようなのあったな
ある武士が天下取りまでの策略考えたけど、
天下人の気苦労考えたら嫌になって、
出家して悟りひらくのを選んだ話
今回の最上さんとは逆方向に行ってるが
0594人間七七四年2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:s8KgypPU
120歳超えw年齢サバよんでるだろ守光居士
0595人間七七四年2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:LWjMtGce
渡辺幸庵「ガタッ」

天海「ガタッ」


真田信之「くっ・・・!私もストレスさえなければ!」
0596人間七七四年2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:SG0HMbHj
石田重家「真田殿、徳川の敵を父にもったその気持ちよくわかりますぞ」
考えたら信之と重家って母方の従兄弟だった。二人とも短命なわけだ
0597人間七七四年2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:rTXVgEIo
大阪夏の陣、幕府軍は遂に大阪城内に突入する最終局面となった。

私(水野勝成)は船場の道から城に乗り込もうと考え、その道筋を進んだ所、
船場方面から明石掃部の軍勢が押し上がってきた。そこは去年の大阪冬の陣で、
東堂和泉守(高虎)が仕寄せした場所であった。

敵はその道を押し上げ、鉄砲を一度に撃ち放つとそのまま騎馬の者達が突進した。
この攻撃に味方は追い立てられ崩れ、我々の手前まで逃げて逃げ駆けて来る。

私はその時馬から降りて立ち、

「卑怯者共!一体どこへ逃げる気か!?お前たちの顔は皆見知っているぞ!返せ!!」

と怒鳴ったが、聞くこともなく皆崩れ懸った。

この時私の家来である廣田図書、尾関左次右衛門と申す者達が鑓を手に敵へ向かっていった。
特に廣田図書は私のいた所から14,5町(およそ1.5〜6キロメートル)先まで進み、敵と
鑓を合わせてこれを突き倒し、首を獲ったのを目撃した。

それから私も急ぎ進んで、廣田図書の首を取ろうとした者を突き倒し、図書を討たせる事を
阻止した。そして突き倒した者の首を

「これこそ鑓下の首(相手を倒し喉に垂直に鑓を突き立てたもの)である。この首をとれ!」

と言って、岸文左衛門と言う者に首を取らせた。
そして他のもの2名が私に向かってきたが、私は彼らを突きまくった。
するとまた一人、今度は金のなし打ちの兜に鳥尾の引廻しを付けた者が私の右側から鑓を
突いてきた。私はその場でこの敵を突き倒し、傍に居た成瀬久太夫と言う者が走り出て

「この首を私が討ちます!」

と申したので、その首は久太夫に取らせた。

その後、敵は引いていったので、桜門に私の幟を一本、一番に立てた。
この時、幟奉行の神谷久右衛門と言う者を召し連れて出陣していたのだ。

二番に越前の一伯様(松平忠直)の幟が一本立った。
この二本より他に、桜門に立った幟はなかった。
(水野日向守覺書)

大阪夏の陣で、大阪城に乗り込む時の模様である。
0598人間七七四年2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:aeQlAzKj
強い人は本当に強いんだな
0599人間七七四年2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:wnAbh2d7
>>597
するとまた一人、今度は金のなし打ちの兜に鳥尾の引廻しを付けた者が私の右側から鑓を突いてきた。

派手な格好した奴が出てきたなぁ
金色の梨子打烏帽子型の兜に鳥尾の引廻し…
そりゃ格好まで強烈に印象に残るわな
実際、こうして勝成が思い出して語ってるわけだし
やられた奴も本望かと
0600人間七七四年2013/07/02(火) NY:AN:NY.ANID:xFdArd2N
安土城といい大坂城といい名城が焼け落ちて残ってないな
0601人間七七四年2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:tR9aGuPf
鍋島直茂の祖父、鍋島清久が本庄の社に年越しの参籠をしたとき、
その社には既に一人の尼が参籠をしていたので、清久は尼に素性を尋ねたところ、
「一生行脚をしている者で、生まれた土地も父母も存じません」という返事であった。
清久は尼の身を哀れんで屋敷に連れ帰り、元日の祝膳を出してやり、五日間屋敷に置いておいたところ、
よく気が付いてこまめに立ち働くので、約束して夫婦になった。
この妻が産んだ子が、直茂の父である鍋島清房だということである、妻の名は松月妙栄(妙英とも)と言った。
清房が三歳になると、妙英は清久に暇乞いをし屋敷を出ていった。
清久は止めようと後を追ったがどうしても追いつけず、ついには筑後川を越え高良山の方へ向かい、やがて行方が分からなくなったという事である。

葉隠から、ちょっと不思議な話。
おとぎ話みたいだな。
0602人間七七四年2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:dTwRYJ14
九州だから猫岳の猫かもしれんな
0603人間七七四年2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:fycOV6BR
鍋島のほうが化け猫だったのか
0604人間七七四年2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:TmhV5QdQ
>清久は止めようと後を追ったがどうしても追いつけず

左慈を追いかけた許褚思い出したw
0605人間七七四年2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:iNC3M3XN
本当は遊女に産ませたのを、跡取りが遊女の息子とは聞こえが悪いので、
行脚の尼ということにしたのかなと思った
0606人間七七四年2013/07/03(水) NY:AN:NY.ANID:HEsRDELb
「三国志演義」には許チョが左慈を追っかけるが追いつけない、て描写があるが
「三国志」「後漢書」「捜神記」「神仙伝」といった書物には左慈と許チョの話はでてこないはず
「神仙伝」には孫策が馬で左慈を追うが、どうしても追いつけなかった、て話があるから
そちらのほうが例としては適当かと
0607人間七七四年2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:rQA4dZJ8
>>605
俺もそう思ったわ
0608人間七七四年2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:q3xkEGJ6
或説に、信長公が伊勢国浅香の城を攻められた時、秀吉公は先陣にて
城主の大宮大之丞に左の股を射られながらも追手の門を打ち破って攻め入りなさった。

そのため信長公はとても感心なさって「昔の朝比奈義秀にも劣らない」と
のたまったので藤吉郎はたいへん喜び、『義秀』を顛倒して『秀吉』と改められた。
ただし『義』の字は公方の諱を憚って『吉』の字に変えなさったと云々。

(江源武鑑に、佐々木義秀の諱を授かり、秀吉と名乗り給ふとあり、
かの書は、偽作なれば採るに足らず)

――『新東鑑』
0609人間七七四年2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:XtivCs9V
背の低い秀吉をみて朝比奈三郎扱いって無理がありすぎる
しかし親父の諱は考慮しなかった、てことか
0610人間七七四年2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:9G8lPEZd
縮地法か、北の将軍様とやらも得意だったとか
0611人間七七四年2013/07/04(木) NY:AN:NY.ANID:9G8lPEZd
>>609
『新東鑑』と言うだけあって吾妻鏡に無理でもこじつけたんかねぇ
0612人間七七四年2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:pyXRG0Tz
利長、未来への遺産


「瑞龍公世家」や「加賀藩史料」などによると加賀の太守・前田利長は、
弟の利常に跡を譲ってから自身は越中の開発をめざした。

関野と呼ばれた沼地を高山右近に拓かせ、詩経から引用して高岡と命名。
「前田家長久のために、何とかして財政の基盤となるものを…」
この頃病魔に侵されて臥せりがちだった利長は死を意識しつつ、高岡の整備を進める。
そして領内の優秀な鋳物師たちを集め、五千坪近い土地と諸役免除といった特権を与えて優遇した。
それは高岡を工業都市として発展させようとする利長の決意の表れでもあった。

利長の死後、一時高岡は衰退したものの利常たちの庇護で盛り返し、金物加工をメインに越中経済の中心になった。
そして今でも富山県は銅工業やアルミ加工などにおいて日本一のシェアを誇る工業県の地位を守り続けている。
0613人間七七四年2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:STkZBiM/
神通川…いや、なんでもないです。
0614人間七七四年2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:2oT87jeU
赤座さんが溺れたのは庄川だっけ
0615人間七七四年2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:pyXRG0Tz
>>613
アレは飛騨からの汚染だから越中は被害者なのよ
0616人間七七四年2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:6IvEpCWo
或本に、本多飛騨守成重は作左衛門重次の子息なり。童名は仙千代丸(おせん)、
成人して丹下と称す。

父重次が訳あって上総国小原の荘に籠居した時、成重も出仕を止められた。

関ヶ原御陣の時には御後に陣を構え、慶長18年に越前国の丸岡の城を賜って
忠直朝臣に属せられる。

5月7日に、一番に合戦を始め、真田の陣を打ち破り、自ら敵2騎を切って落とし、
大勢の敵を追い崩し、首273を討ち取り、大手の城門を破って左の脇より
城に乗り込み、あちこちに火をかけて首28を切った。

手勢の者たちは討たれた者5人、傷を被る者7人であった。

元和9年、忠直朝臣が配流の後に再び将軍家に召され、慶安4卯年12月に卒す。
時に62歳なりと云々。

――『新東鑑』

実際の没年は正保4年で76歳。
0617人間七七四年2013/07/05(金) NY:AN:NY.ANID:UoH+26jL
武将の履歴書書き出されたらきりがないんだけど
0618人間七七四年2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:ITK1TnaR
いい話でもなんでもないし。

むしろ、譜代の重臣の没年も知らなかった新東鑑作者の悪い話?
0619人間七七四年2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:O3JwR3TQ
享年間違われて草葉の陰でおせんが泣いている悪い話か
0620人間七七四年2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:VdEudswC
假屋原甚右衛門の活躍 その1

祐兵様は都から一里ほどの松山(セウセン)と言う城に文禄二年二月より
在陣していたが、このとき馬の飼料が尽きて難儀に及んだ。

これにより祐兵様は假屋原甚右衛門尉満次を呼んで「昨日、島津又次郎
家中の者が大豆を求めに出たが、唐人多人数が現れて半弓で射たて、是
を追ってきたので、手負い数人を出してむなしく陣屋へと戻ったと聞く。
汝は才覚をもって筏を組みモクソ川を渡って大豆を求めてくるように。
警護の為に鉄砲足軽十五人を差し添えよう」と仰せられた。

假屋原は難儀な事だとは思ったが断わりようもなく、陣屋を出てモクソ
川を渡って大豆二十五石を得て、その上テルマカクセイの郷民等十八人
を捕えて戻ってきた。

(日向記)

朝鮮陣のところでやたらと假屋原甚右衛門の記事があったので、三部作
として書き込みます。

ところで島津又次郎って誰なんでしょう。
0621人間七七四年2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:VdEudswC
假屋原甚右衛門の活躍 その2

祐兵様が朝鮮国楚天(泗川)に在陣していたとき、兵糧が既に尽きよう
としていた。そこで假屋原甚右衛門を呼んで汝が才覚するようにと
仰せられた。

甚右衛門は警護の足軽十人を召し連れ田里へ出て人跡山林を見回って
みたころ、洞穴を隠したような怪しい所があるのを見つけて掘りかえ
してみたところ、穴蔵が三つ見つかった。

甚右衛門は大いに喜んで、大小豆大小麦を掘り出して馬を探しだし百駄
をつけて帰ってきたと言う。

(日向記)

「前回と同じパターンかよっ」と言いたくなる出だしですが、それだけ
朝鮮陣では兵糧馬糧の手配に困ってたんでしょうね。

隠し倉庫を見つけられた住人にとってはとんだ災難でしょうか。
0622人間七七四年2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:VdEudswC
假屋原甚右衛門の活躍 その3

祐兵様が清館に在陣していたとき、士卒を船に乗せ蔚山へと鴨狩に
遣わされたが、この時、伊東平右衛門と家僕一人、曽我弥三郎が同道
して三人で奥深く遊猟していた。

假屋原甚右衛門はこの三人と途中で行き会い、甚右衛門は平右衛門に
対して「少人数で奥深く入られると伏兵にあって難儀するでしょう。
早く引き返して下さい」と申しあげた。

平右衛門は血気盛んな若武者であったから「何ほどの事があろうか、
其の方も来られよ」とさらに奥へと向かった。

甚右衛門はこれを見捨てがたくともに遊猟していたところ、案の如く
韓人三十人余りが現れ半弓をもって射たててきた。

多人数に対抗するすべもなく引き上げようとしたが、弥三郎は皆とは
離れていたので早々に討たれてしまった。

平右衛門と家僕、假屋原の三人は離れずに引き退いたが、厳しく追い
迫ってきたので、道の端にあった少し切り立った場所を後ろ盾として
襲い来る韓人を切り払う事、三・四度に及んだ。

これで討ち取り難いと思ったのか怯む色が見えた所で、三人一緒に
切って出て追い払った。

この時、平右衛門は二ヶ所、家僕は三ヶ所、假屋原は六ヶ所を負傷
した。平右衛門主従は深手であり歩行も叶い難く見えたので、韓人が
うち捨てた半弓を手輿としてこれに乗せ、舟へと戻って帰陣した。

祐兵様はこれを聞き「假屋原の働きにより平右衛門の命が助かった」
と肥田木伝右衛門を使者として備前祐定の御刀を褒美に与えられた。

(日向記)

ようやく兵糧探し以外の話です。大名でも中川秀政が狩猟中に討たれ
たりしてるから、敵中の狩猟は危険だったのでしょうね。

なお伊東平右衛門は以前の逸話にも登場した虎ハンターです。
0623人間七七四年2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:WbhhgLau
ググってみると小田原の北条氏家臣ってのしか出てこんね>島津又次郎
0624人間七七四年2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:VdEudswC
>>623
そうなんですよ。他は幕末の人だったりしますしね。

次郎以外の又○郎だとすれば多数の候補が出てくるし
次郎が正しいとすれば藤次郎あたりもありそうですし・・・
0625人間七七四年2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:ARBe2bS+
前田利常公の時代のこと

山本瀬兵衛は御用によって、小松から金沢に召されたのだが、いつもどんな用であっても、
召された時には軽いものを利常公に献上していたのに、この時はうっかり忘れて来てしまい、
台所奉行の佐藤久右衛門の所に行き

「何でもいいので、手頃なものが有れば貸して頂けないだろうか?後で同じ物をそろえて返すので。」

と聞くと、「今朝方どこかからサザエが一折来ていたが」とのことなので、それを借りた。

ところが、その時期はちょうど夏であったため、サザエのうち1つか2つ、臭うものが有り、

「主に腐ったものを贈るなどあるものか!」

と、受け取った利常な以ての外に機嫌が悪くなり、そのため右筆の中村久越殿が山本の所に
やって来て、彼を散々に叱りつけ、この事を聞かせると、山本はしかし

「これは近頃迷惑なことです。私は急に召し出されたため、献上品を忘れてきてしまい、
台所に行って佐藤久右衛門殿に『何かあったら貸してほしい。後で揃えてお返しする。』と言って、
サザエを借りたのですが、その時私は焦っていて、それをろくに確認しませんでした。
そのため、少し悪いものがあったのでしょう。」

と言い、この事が中村久越から申し上げられると利常は

「それが申し訳になるものか!それは田舎たわけの披露というものだ!
佐藤久右衛門は田舎ぶりの抜けない人間で、それ故に信頼していたのに、久右衛門は
親や子供には知らないが、人に物の用に立つものを貸さないような者であったのか!
そのような人物を重宝して台所奉行に置いていればそれは、前田家全体が田舎一門と
見られてしまう。それはたわけの至極である!早々に調査をせよ!」

との御意であったので、次の日山本瀬兵衛が、再びサザエを佐藤久右衛門から取り寄せさせた所、
今度は初めのものより大きく新鮮で、見事なものをくれ、しかも目録に印まで押して遣わされた。
これを見た前田利常は

「久右衛門は山本瀬兵衛の事をちゃんと心に懸けておるわ」

とお笑いに成り、中村久越は山本に「昨日はお叱りになったのに、今日のサザエは見事だと、
お褒めになっていたよ」と伝えて笑われた。

この事は私(著者)の亡父である、山本瀬兵衛が話したことである。
(微妙公夜話)
0626人間七七四年2013/07/06(土) NY:AN:NY.ANID:vX30mZNK
>>625
献上品を借り物で済ましてるのに、そのこと自体は怒らないんだな
0627人間七七四年2013/07/07(日) NY:AN:NY.ANID:5K76/cB6
あ゛あ゛あ゛あ゛面倒くせぇwwww
昭和時代の盆暮れの挨拶よりも面倒くせえよよよよよ
0628人間七七四年2013/07/07(日) NY:AN:NY.ANID:5PR2IANo
「武士の家計簿」でもやれ挨拶だの祝いだのお礼だのって金かかってたな
あれも加賀藩だったけど
0629人間七七四年2013/07/07(日) NY:AN:NY.ANID:ZcdGcfU1
成瀬正成は徳川家康の近臣で、尾張の徳川義直に付けられ、
義直に対しても忠勤を尽くして仕えた。

正成が日頃望んでいたのは「恐れ多いことだが、死後には尊神(家康)の
御かたわらに侍りたいと思う」ということだった。

程なく正成が身罷ると、義直はその志を思って遺言に違えず亡骸を日光山に送った。

その死の三日前の事。天海は「今朝神祠に参ったところ、正成がここに来て
神君の御前に侍っているのを見た。正成は近いうちにきっと身罷ると思う。
まもなくやって来ることだろう。本当に哀れなことだ」と言って涙を落とした。

――『東叡山開山慈眼大師縁起』
0630人間七七四年2013/07/07(日) NY:AN:NY.ANID:4dLEp5fA
>>628
映画ては演出かもしれないけど
膨大な借金か抱えて家財道具売り払っても残り十年返済で事を納めたんだよな
0631人間七七四年2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:GuwzKjER
  この暁に三人様がお越しくださってありがたく思います。
  あれこれ考えましたが、色々お望みされても、樂茶碗を皆様には準備できません。
  私の手元の「大黒(おおぐろ)」は紹安(利休実子の道安)へ譲りたいと思っています。
  「早舟」は松賀嶋殿(蒲生氏郷)にお届けしたく思います。
  茶碗を早く欲しがっている越中様(細川三斎)もその事はご了解頂けないと困ります。
  「大黒」を道安に、「早舟」を松賀嶋殿に与えるという事を古織様(古田織部)とご相談頂き、今日中に済ませてください。
  明日には松殿(氏郷)は伊勢松ヶ嶋に戻られます。
 「早舟」については仕方ありませんし、お届けする事は難しいです。
  越中様もご理解くださいまして、
  右の通りに「早舟」は氏郷殿に、「大黒」は紹安に与える事に致します。
  申し訳ないですが、そのように致します。
 
天正十五年頃、利休が作らせた黒茶碗という名物に
利休の弟子の三人(三斎、織部、他一名不明)が強く魅入られ
唐物とは別の新しい茶の湯の形が出来上がっていく当時の事情が伺える書状である
0632人間七七四年2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:dyP9ywVX
>>631
茶の湯批判した武士の言葉も残ってるがなんかわかるな
いらぬ争いや、いらぬ浪費になる部分が茶の湯にはあるかもね
0633人間七七四年2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:ArubJxJS
石見、出雲、伯耆と言った国々は吉川元春公の管轄する国筋であったため、公は別して
御油断なく、御心を使っておられた。
しかし、それでもその統治には非常にご苦労が多く、下々までも疲弊し根気を尽くしてしまい、もし合戦があれば、
軍は弱体化し敗北に及ぶであろうと、過半の人々が思っていた。

しかしそう言う時に元春公は、帰路の道における橋などを外され、わざと帯紐を解かせ背中炙り(背中に日を当てること。つまり上半身裸)
の姿となって、川を渡るようなことが度々有った。
(老翁物語)

意図が解るような解らないようなお話ですが、たしかになんだか凄そうです。
0634人間七七四年2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:IOjK+Hvw
754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) NY:AN:NY.AN ID:IhonAuQA
実戦期である戦国時代の甲冑がそのままの状態で残ることは極めて希で、
身分の低い雑兵のものに至っては単なる消耗品なのでまず現存しないという。
実戦期の軍装の詳細についてはよくわかっていない点が多い。
その点、当時の日本を訪れた宣教師や、文禄・慶長の役で実際に日本の鎧武者を目撃した明・朝鮮人の証言は
誇張や卑下表現が含まれているとしても、参考になると思う。
何故なら日本人にとっては当たり前でいちいち記録に残さないような事柄でも、異国人である彼らには
驚きの目で捉えられることが少なくないからだ。

というわけで、以下にまとめてみた↓


「我々の武装具は極めて重い。日本の物はとても軽い」
「我々の甲冑は、すべて鋼鉄で出来ている。彼ら(日本人)のは角または革の薄片を、縒り糸で縫い合わせたものである」
「我々の兜は瞼甲(ヴィゼイラ)を着ける。日本人は顔に悪魔の半分の仮面を着ける」
・・・ポルトガル、ルイス・フロイス「日欧文化比較」

「倭国軍は鬼や獅子の面を被っていたので、人馬が驚いて退き、ぬかるみにはまって動けなかった」
・・・明国、宋応昌「両朝平攘録」

「奇怪な身なりをして敵を驚かせ、牛頭に鬼面をした者もある」
・・・明国、李睟光「芝峰類説」

「おおむね倭人たちは紅黒の鉄の甲冑を着て色とりどりの鉄兜を被り、口角には髭を縦横に生やし
鉄広大(鉄の衣を着た道化方)のような姿をしており、金冠の黄金色の羽根・金挿・羽衣・羽箒・螺角などことごとく奇怪な形相である。
奢侈であり、鬼神のようでもあり、獣のようにも見えたので、これを見る者、驚かざるをえなかった」
・・・李氏朝鮮、李舜臣「忠武公全書」

「華麗多く虎皮及び鶏尾をもって戦服を作り、金銀をもって仮面を拵え、馬面及び人面を表す、それは偽り驚かすこと甚だしく、
人の眼に眩いばかりに光り輝いた。壬辰年に敗退した軍の者たちは皆、虎・豹・水石の怪物が一時に出現したようで、不覚にも気を失い、
魂を奪われたと言っている」
・・・李氏朝鮮、姜侃「倭情録」
0635人間七七四年2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:BwAmEKdz
姜ハン「看羊録」にも確か、
獣の皮を軍服につけるようなコケオドシに驚いて逃げてどうする、と
朝鮮軍を批判している箇所があったような

ついでに、日本ではしょうもない茶碗に何両も出して馬鹿じゃないのか、と書かれた箇所も
0636人間七七四年2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:L5vtjPnZ
ただ転載してくるんじゃなくて
もうちょっと体裁整えてほしい気がするなあ
0637人間七七四年2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:pEeQQoRE
結局雑兵の装備の話ではないのか
0638人間七七四年2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:L5GXRMT6
ドラマとかだと面頬がされないこと多いからな
やっぱり面頬あってこその具足だと思うぜ
0639人間七七四年2013/07/08(月) NY:AN:NY.ANID:dyP9ywVX
日本てやっぱ南方系の戦闘文化も混じってるんだな
マレー系やポリネシア系も獣装ったりするでしょ
0640人間七七四年2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:gVAVZrex
>>637
おおむねって言ってるから多分雑兵含んでるんじゃないか?
意外に着飾ってたんだな
雑兵は鎧もつけないってのは嘘か
0641人間七七四年2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:x5lDZsPG
雑兵と言っても朝鮮征伐に出たような人はほぼ正規兵みたいなもんだろ?
人数とか装備とか揃えて出してるだろうし
戦国中期ぐらいまでの地侍が集めてきたようなほんとの雑兵(?)はバラバラだと思う
0642人間七七四年2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:OOoYPZdE
ルイス・フロイスのは雑兵っぽいな
0643人間七七四年2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:KgHgRreq
>>641
大名直属の兵でさえ装備が揃ってるのは珍しいよ。

しかも豊臣政権は軍役が過重だったから、どこも人数を揃揃えるのに苦労して
地侍層も動員されてる。
0644人間七七四年2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:662ovtGo
牟田家は代々龍造寺に仕えた武辺の家で、神崎郡に住んでいた。
天正12(1584)年に島原有馬の陣で隆信が戦死したとき、牟田家の紀伊守家式もともに戦死したが、
その次男である信式は、天正4(1576)年のころ讒言により武雄に逃れ後藤家信の家臣となって外助を称し、犬走に五十国の領地を得て、
以降幕末明治に至るまで後藤家に忠勤をはげんだという。

慶長5(1600)年、鍋島家は関ヶ原で西軍に加担したが、家康より許しを得柳川立花家を攻めた。
後藤家信の子茂綱も2500の兵を率いて参陣し、信式の息子である二代目外助もまた弟助九郎とともにその戦列に加わった。
この戦いでは立花方もよく守り戦ったので、鍋島方はどうしてもこれを破ることができなかった。
そこで外助は単身で敵陣に切り込み、軍扇を以て見方を誘導し、ついに立花方を崩すことに成功した。
しかし外助は敵兵のために斬り死に、弟の助九郎もともに戦死した。
兄外助21歳、弟の助九郎は19歳であった。
茂綱はこの兄弟の死を深く憐れみ、その墓を武雄円満寺に建て、厚く弔った。



山内町史(現武雄市)より、武雄牟田家の逸話でした。
ちなみに外助の遺児六兵衛はこの時1歳で、後に茂綱に従って島原の陣に出陣して功を上げ、
茂綱の死去した際には、生前の寵恩に報いる為に殉死したと書いてあります。
子孫は幕末武雄の近代化軍隊の装備充実に貢献し、戊辰戦争でも大砲隊の隊長として活躍したということです。
0645人間七七四年2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:KgHgRreq
正家は後事についての遺言を書き残し、家人奥村左馬・西川兵庫・小西
治右衛門・長束与十郎らに形見を与え、白装束で切腹の座についた。

池田(備中守長吉)・亀井(武蔵守茲矩)に向かい「ここまで御出でいた
だきご苦労な事です。それでは今生の暇をたまわりましょう」と告げ、
切腹しようとしたところで、長束は再び両人に向かって「それがしの
家来奥村左馬は身近くで召し使ってきたものであるので冥途の供をする
覚悟と見えます。しかし無益の事でありますから殉死を留めて頂きたい」
と懇ろに言い残して切腹した。

奥村左馬は介錯したその刀を腹に突きたてようとしたが、(池田)備中守
家人武蔵掃部・瀧川織部らが間髪入れずに飛びついて刀を奪い、色々と
教訓したので奥村も力なく承引した。後に寺沢志摩守が召し出して領地
千石を与えられたと言う。

(關原軍記大成)

長束正家の最後の模様である
0646人間七七四年2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:jxIXN26k
>631訂正です
六行目 誤:道安 正:紹安
0647人間七七四年2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:Sks87be+
細川越中守国替之事

いにしえより細川家を見ていけば、足利義詮公が早世され、跡継ぎの義満公が
幼く征夷大将軍に任じられたこの時に、細川武蔵守頼之朝臣が後見をし奉り、
それより細川家は代々、三管領四職に人材を輩出してきたのであるが、天文11年(1542)の春、
三好筑前守長慶が細川家に変わって天下の権を執り、細川晴元を捕えて芥川に押込めてより、
細川家は衰微して、永禄・元亀の頃には、細川兵部太輔藤孝は、微々たるありさまで、
山城国長岡に居住していた。

藤孝はこの頃、京都七人衆(稲屋妻豊後守、下津権内、岩成主税介、荻田亀之助、
細川兵部太輔藤孝、小泉某、鴨目某)と呼ばれた者達の一人であった。

嫡子の與一郎忠興は、明智日向守(光秀)の聟となり、明智の贔屓によって段々に立身し、
天正9年(1581)には丹後へ来たりて、翌年中に丹後一州、ことごとく手に入れ、
20余年の間、丹後の国主をされた、

慶長5年(1600)関ヶ原の一乱に莫大な軍功があったため、国替えを仰せ付けられ、
豊前、並びに豊後の杵築を与えられ、その年の冬、細川忠興は豊前の小倉に入部するため、
宮津の城を御出になった。

家の再興はこの宮津より起こり、また馴れ久しい国でも有ったため、忠興も
思い残すこと多く感じられたのであろう。犬の堂を過ぎると、天の橋立を
歌に詠まれた

 立ちわかれ 松になごりはおしけれど おもひきれとの天のはし立

(丹州三家物語)

細川忠興が、国替えのため丹後を出立するときの模様である。
0648人間七七四年2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:d5OfSJvu
>細川家は代々、三管領四職に人材を輩出してきたのであるが

日本語でお願いします
0649人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:p4PW85Qg
日本語はどうでもいいけど武将の履歴書はキリなくなるからな…
なんでも「○○の模様である」って言えば逸話になるってもんじゃないぞ
>>644なんかは単身で敵中に飛び込んで〜ってあたりでオリジナリティがあるからいいけど
0650人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:lOqBGKNW
>>648
どうみても日本語だけど?
0651人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:wcR6MlGy
少し前に我らが常真様の話が出てたので、その後の常真様について

織田信雄の遺作

大阪城を退去した織田信雄とその郎党を、家康・秀忠は厚遇した。
上州甘楽などに5万石を与えるだけでなく、国主格まで与えたのだ。

「そういえば…北畠氏館にも見事な庭園があったな」
60近くなっていた信雄は、かつて自分が継いでいた名族の館にあった細川高国作の庭園を思い出していた。
そして実質的な藩運営は息子の信良に任せながら自身は陣屋内の作庭に没頭した。
「論語によれば智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむという。なら私は山を楽しもう」
とこの庭園を楽山園と名づけた。
その名の通り近隣の山々を借景とし、庭園内部にも山を思わせる立体的な空間を作ったその造りは見事で、
織田家が領地替えになった後も代々受け継がれ、初期大名庭園の傑作として群馬県での国指定名勝第一号となっている。

昨年発掘調査と復元工事も終わって一般公開されているので、一度是非。
城下の雰囲気もかなり残っていて、結構楽しめる場所ですよ。
0652人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:yUQUoM1X
常真様、智者でない自覚はあったのか・・・。
0653人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:UTGj2i6t
>>652
でもあの激動の時代を生き抜いて家を残してるところは並の人ではないな。氏真公にも言えるが
親父様は天下人だしそういうプライドが邪魔して普通は家つぶしてるよ
秀頼公も信雄公のように柔軟に生きられたら豊臣も残ってただろうにな
0654人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:oZdMkUTU
稲富(祐直)と言う者は。奇妙希代の鉄砲の上手であった。
その技術の妙を語っても、未だそれを実際に見たことのない人間で「そんな話は信じられない」
と思わぬ人は居なかった。

稲富が常に使っている鉄砲は一両から八匁弾(約40グラム弱〜30グラム)に限り、
その町間も8町(約870メートル)以上は好まなかった。
8町よりうちの物であれば、火蓋を切って当たらないというものはなかった。

あるいは闇夜に、狐や狼の声を聞きすえて、闇中で仕留めるのは、ただ箱の中の物を拾うがごとくであった。

稲富は25歳の時に橋立大明神に17日間断食して、目くら撃ちという工夫をしたと聞く。
十能十藝、いにしえより手練のものは多いが、離れたものに当てる飛び道具で、稲富ほど
精妙な者は未だ聞いたことがない。
(丹州三家物語)


稲富祐直の鉄砲の技術について伝える逸話である。
0655人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:0LWdkB0+
870メートルともなると本当にただ当たるだけなんだろうなあ…

>>652
でも智者より仁者のほうが格上っぽいw
0656人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:xgCwvMxK
ライフリング無しだと絶対に着弾がばらつきそうだけどなあ
0657人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:sdeKJFjI
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   l   > ,=ニ\ ゛ | ''゛_,=ヘ、 r' {_
  /~''i //_\_..`7| l、{''″/__`>ヽ |r`i
  l .{`|./ ヽ二・ニゝチ、 ! .ゝrニ・二r  } ! i l
  { {(l {      ノ | | ヽ   ::  }| ソ/
  ヽヽ|.{    /  | |  \    i.|//  確実に仕留めるのは八町までだ
   \|.i   /  ,,.. | l._,, . \  i !/
    乂i  /    - (__,)-゛   ' {丿
    .l .!、.      ,. !.,  .,   / |
    人 \   .!''''" ̄~ ̄`''!  / 人
   ./ | .\ ,\  '-"" ゛-'  / / | .ヽ
  ノ  .{  \ .ヽ,.,   .:   ,イ /  }  ヽ
-'″  l    `' 、`.───″    .}    ヽ
0658人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:yUQUoM1X
※ただし目の前の虎は除く
0659人間七七四年2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:vQUXyBbc
※ただし実戦には使えない
0660人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:m1TV0Nsx
のちの八町ミッソーである
0661人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:EX41pm2q
さて、蘆名修理大夫盛高は俗類の親しみにより師(天海)を会津に呼び請け、
稲荷堂の別当にした。盛重が会津を落とされて常陸国江戸崎という所に移ると
師も伴われ、その領分の不動院という旧寺があったものを修造して住まわれた。

文禄二年の夏、日照りが続いて草はみな枯れてしおれ、千里の間に青苗は見えず、
民は憂いてどうしようもなかった。里の人々は苦しんで師に雨の祈りを願ったので、
師がただちに川のふちに出て修法なさるところに、一人の女が五鈷を持ってきた。

女は「これで加持してください」と言って師に五鈷を与えて消えてしまった。
師は川のふちにのぞみ請雨の法を執り行い、仏舎利一粒を竹葉に乗せて水の上に
浮かべなさった。

すると水中より青蛇が出てきて舎利を咥えて沈んだ。少しの間に黒雲は立ち重なり、
雷はひどくうなって稲光が起こると、急に大雨が降って枯れた稲葉も色を変え、
百穀は実って人民も栄えた。

先の女についてはその行方を尋ねたが、どこの誰とも知る人はいなかったという。
五鈷は今に当山の霊堂にある。

――『東叡山開山慈眼大師縁起』
0662人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:UXpdGKNA
天正15年(1587)肥後国惣国一揆の時のこと、私(水野勝成)は佐々内蔵助(成政)に支えており、
方々に働いた。

佐々方は山家の城の近くに付城を一つ作り、そこには佐々が取り立てた三田村庄左衛門という者を
置いていたのだが、その城に兵糧を入れるという時、安国寺恵瓊を物頭として、毛利殿より
兵糧を入れることとなったが、一揆勢は兵糧を入れさせまいと、ウチノコカという場所から軍勢を出した。
そのため立花左近(宗茂)兄弟が軍勢をこれに詰めた。

兄の左近殿も手柄をなされたが、とりわけ弟の弥七郎殿(直次)、この頃20歳ばかりに見えたが、
残る所なく大いに働かれた。

天野源右衛門(安田国継・本能寺で明智方として森乱丸を討つ)は太閤様の御舎弟美濃殿(秀長)の
家来であったのだが、浪人し西国へと下ってきていた。美濃守殿の所に居た頃は安田作兵衛と
名乗っていた。この頃は立花殿に客分として在り、この戦いでも白に鶴の絵の指物を差し残る所なく
働いた。

佐々内蔵助の手勢では、私と遠藤助右衛門と申す者の二人が、この方面に出撃し戦っていた所、
立花殿の家臣で十時(連貞)と申す者と、先の天野源右衛門が合流し、弓をとって互いに言葉を合わせ働いた。

ところで私はこの時の立花殿の家臣の名を失念していたのだが、先年、肥後加藤家改易(寛永9年(1632))
による肥後の城の請取に参った時、立花三左衛門(鎮久)に逢い、原の町の茶屋で

「昔、肥後の山家の付城に兵糧を入れた時、そなたの朋輩で私が知っている居るはずなのだが、
久しいことでも在り名前を失念してしまった。何と申す人であろうか?」

「それは十時と申す者です。」

そう教えてくれた。その後、十時の倅である山弥が私のところにやってきて、肥後でお逢いした。

「あなたの親父殿は今も御息災だろうか?」

「去年、おこりを患い、だんだん悪化して、今は歩くこともかないません」

そのようなことを語ってくれた。

天野源右衛門は上方に在り、今も友人である。
(水野日向守覺書)


水野勝成、肥後国人一揆における兵糧入れについての証言である。
0663人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:9wcel/X/
本物の仏舎利なら、五鈷より貴重な気がするけど
0664人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:eYSg+cGL
>>654
スペンサー銃を持った八重以上の腕前だね
※但し、実戦を除く
0665人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:+RrdzeUR
藤堂高虎 供養の茶園

藤堂高虎は加藤嘉明とは犬と猿だったそうだが、
加藤清正については憎からず思っていたようである。


藤堂和泉守高虎は忠厚にして、また故舊に厚し。

肥後の領主加藤忠広が国替えとなった時、
その父加藤清正の位牌は、京都の本國寺にあった。
だが、もはやそれを祭る者もいなくなってしまった。

これを憂えた高虎は、
「あれほどの茶人であったのに・・・」とでも思ったのであろう、
宇治に茶園を置き、清正の供養にあてた。

そこは歳月を経てもなお、絶えることなく茂れたという。

                            「茶道美談」
0666人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:mNzfjgk3
それほどの茶人なのに、なぜ落語の「荒大名の茶会」では作法を知らないことに
さすがに三歳様は作法に詳しいことになってたけど
0667人間七七四年2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:0q3JhaWw
そういえば、あの話には高虎は出てこないな。
0668人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:xYgqJVLO
清正「茶もいいけど、酒の方が…」
0669人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:I3PfL6gs
毎日、髭を扱きながら精進したんだろ
0670人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:Z6dCIJ8o
家伝の御旗系図を再度お手に入れられる事

祐兵様が入国に及び、日向没落時の奈須右近将監祐貞(日向星原城主)の
忠節の功を謝する為かつ三位入道殿が預け置かれた御旗御系図等を返して
もらう為にと、曽我雅楽助を使者として送られた。

右近将監は「曽我は我が親類であれば他人の疑いも遁れ難い。大切な御旗
系図であるから伊東の御一族か、さもなくば一軍の大将たる人を寄越して
頂きたい」と申され曽我をすげなく返された。

これによって山田土佐入道匡徳が豊後大友殿へ先年の謝礼の為に使者と
して送られていたが、続いて神門村へと赴き御旗御系図等を受け取って
帰るようにと仰せ付けられ、かの所へと到着した。

右近将監は畏まって預け置かれた御旗御系図ならびに文書目録を調えて
一紙に抑留仕らぬ旨の起請文を添えて渡し、匡徳にも馳走して藤島の脇差
を与えられたと言い伝えられている。

(日向記)

山田土佐入道は、以前の逸話にも登場した島津義久に妻子を送り返して
貰った人で匡徳(匡得または京得とも言う)は入道後の号です。
0671人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:ljsgihvP
>669、髭を茶筅にするわけですね。わかります
0672人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:TSNLLwvw
>>670
家久勢を破った堅田合戦で佐伯勢の指揮採った人か
0673人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:Z6dCIJ8o
>>672
その人です。

三位入道たちが豊後を去った後、佐伯氏に仕えて島津と戦い続け
九州征伐後に伊東家へと帰参した訳です。
0674人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:XFzDdm9d
南龍公・徳川頼宣は天下の人が仰ぎ見る勇猛な人であったが、ある時、紀州藩の
附徒歩の衆に盗みをしたものが在り、頼宣はこれを庭前に引き出させると、自ら業物を
抜き放ち、袈裟懸けに斬って捨てた。
そして徒歩頭の水野甚三郎を諸士並み居る中に呼び出し

「甚三郎!自分の組下にこのような悪人が居ることも知らぬ愚か者め!
汝もこのように罪人を斬って見せよ!」
と、怒鳴りつけた。

甚三郎は主人と言えども、諸人の面前でこのように辱められたことに強く憤り、頼信が
奥殿に下がった後、感情が爆発した

「親の心すら子知らず、という!ましてや組子の心の中など知る事ができるだろうか!?
なんと無理なことを仰せ付けられるのだろう。
侍に対しこのような辱めを受けた以上、御奉公も今日これまでである!面白からず!」

そう叫びながら脇差で髻を掴んで切り払い、家にも帰らず和歌山城下を立ち去った。
翌朝、頼信はこの甚三郎の小舅である、水野淡路守重良を召し出し

「淡路!其方の親類であるが、徒歩頭の水野甚三郎はよくよくのたわけ者である!
私の耳に入るまで、組下の者が城下にて盗みをいたすを心得ず、私がその者を手討ちにして
恥ずかしむれば、主に暇をとって立ち退く有様である。
淡路、汝の親類であるぞ!いかに心得るのか!?」

そう言って淡路守を叱責したが、淡路守重良も甚三郎の小舅であるので申し開きをすることも
憚られ、ただ頭を伏して当惑するのみであった。

その時、傍にあったのは徳川家康によって頼宣に付けられた安藤帯刀直次であったが、
彼は頼宣が淡路守を責めるのを聞くと、こう、声を上げた

「淡路守殿!甚三郎を呼び戻されよ!」

淡路守は御前であるのでとかくの返事も出来なかったが、帯刀は再三同じ言葉を繰り返したため、
頼宣も気に触り、彼の方を見て言った

「帯刀は何と心得てそのように言うのか!?組下に悪人があるのを知らず、それを咎めれば
主に暇をとって立ち退くような奴を、戻す道理などあるものか!」

帯刀、頼宣に向かって

「親の心も子は知らず、まして組子の心など、頭が知れるわけがありません!
これは無理なご批判でござる!」

しかし頼宣は納得しない

「帯刀は知らないのか!?権現様(家康)の時代、徒歩の者が奥女中に文を遣わすという
罪を犯した。そしてその罪で徒歩頭の松平若狭守は改易になったのだ。そのような先例もあるのだぞ!」

これに帯刀は立ち上がり、頼宣を睨みつけ、大声で怒鳴りつけた

「権現様も、凡夫ではありませんか!決して仏でも神でもない!
親のしたことであっても、阿呆なる事まで子は学ぶべきでしょうか!?」

(権現様も凡夫にて御座候ぞ、佛にても神にてもなし。
親のしたる事にても、あほうなる事は子はまなぶ物にて候歟)

そう言い放つと御前を退出した。
(徳川武士銘々伝)

安藤帯刀直次の、強烈な換言についての逸話である。
0675人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:x78r2ohj
安藤さんその後どうなったんやろ?
0676人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:o9g1z5M4
いつもの安藤帯刀さんですね。
0677人間七七四年2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:XsRHo0Kf
>>675
この程度で安藤帯刀をどうにかしていては
紀州の主は務まらない
0678人間七七四年2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:SnZQXFKP
頼宣も叫ぶ、勘三郎も叫ぶ、帯刀も叫ぶ、今のドラマみたいだなw
0679人間七七四年2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:a0sRqpWE
頼宣と帯刀っていつもブチ切れあってるけど仲いいよな
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