戦国ちょっといい話37
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0001人間七七四年
2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0680人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:Ws5UmFIv0681人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:jAEdRPYB0682人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:CojEoLp90683人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:5Gws/2E1主従相互の信頼感が無いと絶対にできない
その点この二人は、なんのかんのでちゃんと信頼しあってるよね
ちょっと強烈すぎるけど
0685人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:cHx6w69f榊原康政の組下として上州館林に在った。
ある時、久しぶりに江戸に出府し家康に謁見しようと登城したのであるが、江戸に来てみれば
昔とは何事も異なり、如何にも将軍職の居城に相応しい、広大なものとなっていた。
久三郎はあまりの広さに打ち驚き、玄関のあたりをただウロウロして、どうして良いのか解らぬ
有様であった。
ちょうどその時、昔の朋輩である旗本の某という者がそこを通りかかった。
久三郎が戸惑っているのを見つけ
「やあ、久三ではないか!一体いつ江戸に登られたのだ!?
いやはや、関ヶ原の御勝利の後は、御城も今見えるように、かように広大となったのだよ。
どこに行かれるのかな?私が案内いたそう。」
久三郎、ホッとして嬉しそうに
「これはこれは、某殿ではないか!一別以来だが、ご健勝だろうか!?
この久三郎も久しく大殿様(家康)にお目にかからず、御ゆかしく存じ上げ、
にわかに登城したのだよ。」
「そうであったか。御次の間はこちらである、私の跡をついて来られよ。」
そうして久三郎を案内し、小姓衆に頼んで、清水久三郎がご機嫌伺いに参ったことを伝えてもらうと、
家康も機嫌よく、「久三郎ならここへ呼び出せ」と言い、久三郎は家康のいる居間に通された。
家康はにこやかに
「久三郎、息災か?この頃は館林に居るようだが、田舎であれば色々と不自由もあるだろう?」
と懇ろに声をかけると、久三郎は
「いいえ、不自由なことは特にありません。ですが、濁り酒ばかりで、澄酒(清酒)の無いのには
閉口しております。」
家康笑って
「酒飲みが、田舎に住んで良い酒が飲めないのは一段不自由であるな。
好き酒を取らせよう。」
と、小姓を呼んで
「台所の役人にこう申せ、久三郎は酒好きゆえ、極上々の酒樽を遣わせ。」
やがて二人の小姓により酒樽が運ばれ、久三郎は三河以来の話をして、酒樽を賜いて席を退いた。
帰る時、家康は小姓二人に、玄関まで案内をして送らせた。
小姓二人が帰ってくると、家康は彼らに「何関わったことは在ったか?」と聞いた。
「別段、何も変わったことはありませんでした。ただ、御玄関まで見送った時に、私達両人に、
大儀なりと申され、銀銭2枚取り出し投げ呉れられましたが、いい気持ちはしませんでしたので
そのままに捨て置きました。」
と、少々憤って言う。家康はこれを聞くとまた笑い出し
「あの久三郎が銀銭などを持っているはずがないが…、ああ、思い出したよ。あれは姉川合戦の時のことだ。
久三郎が織田信長から武功の褒美として、銀銭を数多貰ったことが在った。
お前たちに投げた銀銭は、その時のものだろう。
久三郎はああいう武骨者だが、無双の勇士であるぞ。お前たちは彼の武勇にあやかるよう、
その銀銭を守袋に入れて、首に掛けよ。」
と語ったそうである。
ちなみに久三郎、玄関より酒樽を持って帰ろうと思ったが、重かったので、
スルスルと股ぐらから下帯を引き解き、それで樽をくくり肩に引き掛けて帰っていったという。
(徳川武士銘々伝)
0686人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:eMFvHqETどのくらいの家臣の顔覚えてるんだか
しかし最後下帯ってw
0687人間七七四年
2013/07/13(土) NY:AN:NY.ANID:a0sRqpWE0688人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:b5vxQ4Qx思いをしたが、そんな中でも長坂釣閑・跡部勝資の両名は積極的に支持してくれたので、
勝頼は この二人を側近として重用した。
長篠合戦から七年後、織田・徳川の連合軍が武田領への侵攻を開始した。部下の寝返りや
領内の城が次々と陥落したなど良くない知らせばかり飛び込んできたため、戦況の不利を
認めざるをえない勝頼は守りの薄い本拠地の新府城を離れ、家臣の小山田信茂の居城である
岩殿城へ移って立てこもることにしたが、前途に不安を感じた将兵たちは移動途中で
次々と脱走していった。 (続く)
0689人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:b5vxQ4Qx手勢の数を大幅に減らしながらようやく笹子峠に辿り着くと迎えに来ていた小山田信茂
の兵は心を変じて勝頼の軍勢に 鉄砲を撃ちかけてきた。このせいで勝頼の兵はさらに逃げ、
わずか43人に減ってしまった。 この時、逃げた者の中に勝頼が重用していた長坂釣閑・
跡部勝資も含まれていた。
「雑人どもが逃げ散るのは仕方ないが、長坂と跡部だけは許せぬ。追いかけて討ち取れ」
と勝頼は土屋惣蔵と安西平左衛門に命じ、2人は弓に矢をつがえて追いかけた。もう日が
暮れかかっていたが跡部は提灯を馬の鞍の前輪に結び付けていたのでよくわかった。
土屋惣蔵の放った矢が跡部勝資の背中に命中し、射落とすことが出来たが、長坂の方は
暗闇にまぎれて逃げてしまった。土屋たち2人は跡部の首を持ち帰って勝頼に報告した。
この報告は織田・徳川連合軍の侵攻以来、良くない知らせばかり耳にしていた勝頼に
とって唯一のちょっといい知らせであった。
0691人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:OpO7ySR5長坂は勝頼と天目山で最後まで奮戦したはずだし、跡部も逃亡してないようなのに
二人まとめて逃亡したことになってる
0692人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:FMG1rW/R0693人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:b1n0iIqo最近丸島先生に、信頼性が比較的高いと評価されてた甲乱記では、最後まで付いてきてたし…、
と思って調べたらわかった。この話、多分武田三代軍記だね
最後の二行が手元にある武田三代軍記とちょっとニュアンスが違う気もするけど、解釈の違いかな
0695人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:E2EHQAbjこちらに出で来る廣田図書とたぶん同一人物
水野勝成の家臣に広田儀太夫という者がいた。
小身で右筆をしていたが、道明寺の戦いで敵の勇士と戦い首を獲って勝成に見せた。
勝成が歓喜しているところに、儀太夫は何を思ったのか
「失礼だと思うのですが申し上げます。明日の戦いでは側近くに置いていただけないでしょうか」
と願い出た。勝成は儀太夫の心中を察して側近くに置いた。
さて、また当日に戦いがあり敵の隊の一つが水野軍の旗本に突撃してきた。
儀太夫は一番に敵と槍を合わせて討死した。
勝成自身が槍を振るうほどの状況になったが、やがて水野軍に加勢が来たため敵は退いていった。
勝成は儀太夫が勇ましく討死したのを不憫に思い死体を確認すると多数の槍傷で体中が真っ赤に染まっていた。
あまりに不憫に思った勝成が、笄(こうがい、刀の鞘に挿しておく、金属性のへらのようなもの)で儀太夫の口を開けて薬を飲ませると息を吹き返したため急いで医者を呼んで治療させた。
治療の甲斐あって儀太夫は助かり、有馬温泉での湯治で完治した後に大加増され家老となり広幡図書と名を改めたという。『勇士物語』
ちなみに水野家を代表する家老に広田図書という人物がいる。
若いころから勝成に仕え、厚い信頼を受けた側近。大坂の陣後、勝成が福山藩主となると、領内の総奉行を任され、農業生産に関する改革にあたった。
(戦国武将データファイル99より)
さらに余談として勝成は、家臣が病気になると、自ら薬を届けた逸話があるが
勝成は当時、平戸に来る中国人との貿易を行っている(小場家文書)ので漢方薬が入手できたと思われる
と『福山開祖・水野勝成』に書かれている
0697人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:8ibW5COi引用に関してのルールってのは結構複雑だけど、少なくともこういう引用は許諾もいらない
0698人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:E2EHQAbj著作権などという難しいことはなにも考えずに書きこんだ
反省している
0701人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:E2EHQAbj引用云々がそんなに面倒臭いとは思わなかったな
ちなみにあたなが心配している現代の雑誌から引用したのは、この一文だけ
若いころから勝成に仕え、厚い信頼を受けた側近。大坂の陣後、勝成が福山藩主となると、領内の総奉行を任され、農業生産に関する改革にあたった。
0702人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:lK0ElBHH> 引用は権利者に無断で行われるもので、法(日本では著作権法第32条)で認められた合法な行為であり、
> 権利者は引用を拒否することはできない[3]。権利者が拒否できるのは、著作権法の引用の要件を満たさない違法な無断転載等に限られる。
> 要件
> 文化庁によれば、適切な「引用」と認められるためには、以下の要件が必要とされる。
> 最高裁判所昭和55年3月28日判決[4]によれば、適切な引用とは「紹介、参照、論評その他の目的で著作物中に他人の著作物の原則として一部を採録すること」とされる。
> ア 既に公表されている著作物であること
> イ 「公正な慣行」に合致すること
> ウ 報道,批評,研究などの引用の目的上「正当な範囲内」であること
> エ 引用部分とそれ以外の部分の「主従関係」が明確であること
> オ カギ括弧などにより「引用部分」が明確になっていること
> カ 引用を行う「必然性」があること
> キ 「出所の明示」が必要(コピー以外はその慣行があるとき)
>
> ? 文化庁 (2010, §8. 著作物等の「例外的な無断利用」ができる場合 G ア、「引用」(第32条第1項))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E7%94%A8
引用は「正当な権利」であり、この場合「要件」にも合致しており、何ら問題はない。
引用の範囲を狭く取ろうとする考えのほうが学術的にも記念だよ
0704人間七七四年
2013/07/15(月) NY:AN:NY.ANID:wcFOw4zh秀吉は嘉明を養子の秀勝に近侍させた。時に十三歳。
天正四年、秀吉が播磨を征伐するや、嘉明は主の秀勝に暇を告げずに
おもむいて軍に従った。夫人(政所)は怒って秀吉に、
「孫六は無頼な者です。早くお帰しになってください」と書を送ったが、
秀吉はその盛んで勇ましい志に感心して嘉明を軍中に留めた。
――『加藤嘉明公(家譜)』
0705人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:PbZX7DTZ人が長く楽しませぬものと思われる。我が主君の御側に仕え、朝夕見奉って感じたことだ」
と言った。
また「今とても富める者がいたとして、他人に『十年のうちに家を潰し、朝夕の生業も
ままならなくなるだろう』と言い聞かされて怒らない者がいるはずはない。
しかし、贅沢を教えて淫酒を勧め、家を亡ぼさせて困窮に及ばせても人は怒らない。
これは愚かな例えではあるが、深く覚悟すべき事だ」と言った。
――『責而者草(太平将士美談)』
0706人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:w1rOqJDb高力与左衛門清長について、これは三河一向一揆の時のことである。
高力の家の領地、高力郷は、一向一揆の本拠地といっていい土呂郷の隣であり、
一揆の脅威の正面に在り、領内の騒擾甚だしく、家康からは濫妨の禁止を命ぜられたものの、
一揆方よりの狼藉を止めることは難しかった。
そこで高力は思案し、高力郷中の仏像経巻を全て一ヶ所に集め、安全な場所に保管した。
一向一揆が静まると、高力はそれらの仏像経巻を取り出して元の寺々に返した。
これに寺僧はもちろん、郷民たちも大いに喜んだ。
これより後、人々は高力清長の事を「仏高力」と呼ぶようになったという。
(徳川武士銘々伝)
「仏高力」の名の由来について、こういう話もあったんですね、という逸話。
0708人間七七四年
2013/07/16(火) NY:AN:NY.ANID:TtpWh5Rh移封される前に秀吉が直政を召して言った。
「汝が10万石(実際は12万石)の封を得たのは、
我が汝の多大な戦功や働きに感じ入り、徳川殿に勧めたからである。
我の厚意を知ったからには必ずその事を忘れぬように」
直政は拝謝して答えた。
「殿下の御厚意はこの身が終わるまで忘れません」
続いてまた秀吉が言った。
「ならばもし、豊臣と徳川の両家が信を失い、東西兵を構えることになったら、汝は誰の為に忠謀をなすのか?」
直政はこれに答えた。
「私の身命を賭して、死を以てして必ずや両家の御和睦を成してみせます」
秀吉は甚だ感賞して言った。
「汝は将才のみにあらず、治国の事にも長じておるな」
──直政は天下に両兵部と言われる一人である。
小早川隆景は賞して言った。
「直政は小身なれども、天下の政道相成るべき器量あり」と。
(名将言行録)
0709人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:4csEEpJg0710人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:Zt8IRpVx0712人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:aMEsZfWB0713人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:U0thrqxv氏政たち兄弟の為に結構動き回っていたね
氏規の自害を身を呈して止めたりとか
0714人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:Er1CMP1q備中国吉備津大明神に願をかけ、三七日(21日)参籠が満るその夜、夢のなかに
『東国に行き給え、御剣を遣わすであろう。』
と顕れたため有難く思い、東国に向かうとその途中、華表の傍にて旅人に行き会った。
彼が申すには
「私は路銀が無くなってしまい、大変難儀しています。この刀を差し上げますので、
代金を頂けないでしょうか?」
新九郎は『夢に出た御剣とはこの事である。』と悟り、刀を買い取り三度押し頂いた。
それから武者修行を思い立ち、近郷にて名家の子息、内藤、笠原、二階堂、大道寺、
松田、井上、平井といった勇士30人が新九郎に同道して、諸国に武者修行に出た。
そして数度の戦功があった後、駿河太守の妻は新九郎の叔母であったため、駿河に下り
扶持を請け、新九郎は大気者であるとの評価を得て、興国寺城番大将となった。
延徳年中に堀越城主足利茶々丸を攻め取り城主となる。
その後相模国小田原城を乗っ取り、姓名を改め北条早雲瑞公となり、関八州の太守と成られた。
(中國兵亂記)
伊勢新九郎盛時の故郷である備中のあたりに伝わったと思われる、北条早雲についての伝承である。
0715人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:InJKhd0c【水野勝成の逸話まとめ】
●16歳のとき、高天神城攻めで15の首級をあげ、主君だった信長から戦巧者として永楽銭の旗印をもらう。
●19歳のとき、甲州黒駒合戦で北条軍(一万人)とひとりで対峙し、300の首級をあげる。
●21歳のとき、父親の家来を殺してしまい、勘当される。
●その後、「奉公構」(他家仕官禁止→再就職できない)を言い渡されたので、偽名を使って、佐々成政、黒田長政、小西行長、加藤清正など、
名だたる武将のもとへ仕官。どこでも大活躍するが、次第に戦い自体に虚しさを感じて失踪する。
※この時代の逸話も多く、虚無僧になったり、姫谷焼の器職人になったりしたほか、大坂で泥棒をやっていたという説まである。
●36歳で父親が味方に暗殺され、16年ぶりに実家に帰って家督を継ぐ。
●関ヶ原の戦いで徳川家康に呼ばれて参戦。敵将の福原長堯から名刀「名物日向正宗」(現在の国宝)を奪い取るなど、数多くの武功をあげる。
●関ヶ原の戦いの活躍が評価され、大坂の陣では軍監(軍の最高責任者)に任命される。
●宮本武蔵と親交があり、息子・勝俊のボディーガードをさせる。
●大坂夏の陣では、軍の責任者なのに自ら先陣に立って戦い、大坂城に一番乗りを果たす。ちなみに、勝成はこのとき51歳だった。
>●19歳のとき、甲州黒駒合戦で北条軍(一万人)とひとりで対峙し、300の首級をあげる。
って、黒駒合戦はともかくそんな逸話あったっけ
0716人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:Zt8IRpVx0717人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:Zt8IRpVx0718人間七七四年
2013/07/17(水) NY:AN:NY.ANID:7us94E0hこれだけは無いと断言できる
0719人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:yUwHaGZZ0720人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:p1hg5PWF上記リンクの逸話に登場する相浦源左衛門のお話
あるとき、源左衛門に仕える者が家老衆に呼び出された。
その者が家老衆のもとへ行くと、源左衛門への手紙を渡された。
その者が手紙を届けると源左衛門はその場で一読し、
「家老衆がおまえに不届きな行いがあるから、
わたしに討ち果たすようにと言ってきた。
おまえも侍であるから剣術を常日頃心掛けていただろう。
これまで限りの命、東の土手でわたし相手に思う存分働くがよい」
と、その男に言った。男も、
「わかりました」
とだけ、答えた。
そうして源左衛門はその男を引き連れ堀端沿いに歩いていくと、
「源左衛門殿っ!!」
と、堀の向こう側にいた源左衛門の知り合いが叫んだ。
その声に反応して源左衛門が振り返ると、
引き連れた男が刀を抜き後ろから斬りかかろうとしていた。
気づいた源左衛門は後ろに飛ぶと同時の抜き討ちに男を斬り殺した。
源左衛門はこのとき着ていた着物を封印し、一生人に見せなかった。
死後、取り出してみると襟が切り裂かれていたという【葉隠】
0721人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:p1hg5PWF葉隠には斬り合いの様子にもう一説あるとあり、
その一説では、
源左衛門の家の門のを出る前にその男が後ろから斬りかかり、
気配を察知した源左衛門が振り返るも足を滑らす。
しかし仰向けに倒れながらも刀を抜いて、
そのまま寝た状態で横に刀で払って、
その男の両手を斬り落として、
立ち上がりしとめたとも言われている
とのことです
0723人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:soQ/799xこの源左衛門は討ち果たされるようなことを無意識にたくさんやってそうw
0725人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:VHn20M5U0726人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:FkOVtbEo天正10年(1582)、高松城籠城戦の末、宗治が切腹をすると、又八郎は在所に引き込み、帰農した。
又八郎は元々実直な人物で、友人たちも多かったが、慶長16年(1611)に病死した。
ところが死去して二七日(14日)過ぎると、蘇った。
墓所より大声が聞こえたため、村人たちが慌てて掘り返すと、以前と変わらぬ又八郎が現れた。
墓から出てきた彼が言うことには
「あちらで閻魔王に言われたのだが、『お前は今こちらに来るべき者ではないが、年来仏を
信心しているので、来世を見せよう。今後も信心堅固に、仏法を願い申すように。』
とのことであった。
そうしてこの世に帰ってきたのであるが、万人講を行なって、この郡の奥里鬼城に閻魔王堂を建立し、
朝夕念仏を勤めてほしい。
ここは郷境であり、年来争い多くあり、戦死した傍輩も数多ある。この死者たちが来世において
難儀の体をしていることを、彼らの家の子、家流の者達に伝えてほしい。
そしてこの郡の岩屋に毘沙門堂を建て、備前の八木山常慶に本尊を作らせるように。」
そう、夢うつつのように語った。
その後平山村法道寺に阿弥陀堂を建て、朝夕念仏を唱えて後生を願い、
また『往生仕候はば、末世子孫可為繁盛』と万人講を勧めた。
そうして上記の願いが成就すると、又相果てたとの事である。
(中國兵亂記)
0727人間七七四年
2013/07/18(木) NY:AN:NY.ANID:wMkXErXu0728人間七七四年
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:8Jl3h8L0宇都宮に滞在した時、徳川家康家老の本多に用があって呼んだ事があった。その節、忠勝は一揆退治として
下総の庁南にいたが、早々と宇都宮に参った。
秀吉は諸大名出仕の中で「わしはこの度熊野山より佐藤四郎忠信の兜を求めた。兜の主忠信は忠義も武勇も
数百年の後まで人に語られて知らぬ者はいない。その忠信に変わらぬ剛の者にこの兜を取らせたいと思う。
天下に忠信と同じ兵は誰がいるだろう」と尋ねた。諸人は謹んで申し出す者はいなかった。
すると秀吉は「忠信に勝るとも劣らぬ兵は家康公家中の本多中務である」と言った。
その子細は、先年、長久手合戦の時、池田勝入父子と森武蔵守を家康に討ち取られた秀吉は無念至極なので、
六万人の兵で早々と楽田を出立し、長久手へ駆け付け、家康の疲れ足へ仕かけようと揉みに揉んで行くと、
五百騎を率いた忠勝が四、五町を隔てて並び軍勢を進めていた。忠勝は少しもひるまずに、
「今ここで秀吉公が戦を挑む時は軍勢を進めて前の妨げとなる。秀吉公が長久手へ駆け付けることを滞らせ、
長久手表の家康公は十分に御勝になるだろう。ここで秀吉公を遮り留めて討死し、上方勢の長久手到着を
遅らせるぞ」と士卒に下知して、五百の小勢で本陣数万へひたすら挑戦し、鉄砲を撃ちかけた。
諸大将はこれを討ち取ろうと望んだが秀吉は許さなかった。両軍は並んで二里ばかり移動したところ、
鹿の角の兜を被った武者一騎が川岸へ乗り下し、馬の口を洗った。秀吉はこれを見て、
「大将分の者のようだ。何者なのか見知っておらぬか」と問うと、稲葉伊予守が「本多平八です」と申した。
秀吉は覚えず感涙を流して「平八は先年姉川で先陣して朝倉一万の中へ馬を入れたが、その戦功が
ちょうど目の前に見えている。只今、彼が小勢で秀吉の大軍に仕かけているのは、秀吉を道で手間取らせて
家康に合戦をなし遂げさせるためだ。古今の勇士、忠義の士である。只今平八を討ち取っても秀吉の運が
極まれば戦いに負けるだろう。たとえ家康が数万の勇士を持つとしても、わしの運が強ければ戦いに
勝つであろう。絶対に平八を鉄砲で撃ってはならぬぞ」と皆々に言って矢止めさせたのであった。
秀吉は「この場の働きは忠信にも勝るものだ。故に忠信の兜を中務に取らせる」と言うと、その翌日に
忠勝を呼んで先の件を話し、かの兜を与えた。その晩、秀吉は忠勝を呼んで御前で茶を下し、その上で密かに
「人はお前の武勇を知っているといえども、名を天下に知らしめようと忠信の兜を遣わし、大剛一の兵と
日本に披露したのは秀吉の恩だ。それでは、家康の恩とわしの恩とはどちらが深いと思うか」と尋ねた。
忠勝は頭を地に付けてとかくの答えもなかった。だが、秀吉がしきりに問い詰めた時、忠勝は涙を流して
「君の恩は海よりも深いものですが、家康公は譜代の主でございますので同日には申し上げられません」
と答えた。秀吉は機嫌を悪くして座を立ってしまった。この忠勝の答えを天下の人々は誉めたのだとか。
――『責而者草(武辺咄聞書)』
0729人間七七四年
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:raG9RO2S0730人間七七四年
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:81fUZ/QC忠勝「いまわたしの官位は義経より上なのに、その家来の兜と言われても」
0731人間七七四年
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:1OJpSu240732人間七七四年
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:ALqSd73d「古田織部の焼かれた茶入の中でも良い物で、なおかつ織部自身の茶の湯に出した
茶入というものは、あるのでしょうか?」
遠州は答えた
「ええ、御座います。その茶入は、餓鬼の腹によく似ているからと、『餓鬼はら』と名付けられた
茶入です。実に、一段見事な茶入です。」
これを聞いてその茶入を手に入れたく思った利常は、遠州の語った内容を書き付け、
京都でこれを尋ねよと高田弥右衛門らに命じた。
高田達が探し尋ねると、その茶入はとある町方のものが所有していることがわかった。
その町人に、譲ってもらうよう頼み、代金のことについて尋ねると、
高田が買取の値段を言い出す前に町人は
「何と言っても御大名様がお尋ねになった事ですから、金五百枚と申し上げてください。」
と、金五百枚を要求した。そこで高田弥右衛門もこれを利常に報告した。
そうした所で利常は小堀遠州に京へ言ってもらい、その茶入を確認してもらった所、
「成程なるほど、間違いなくこの茶入です。」
とお墨付きを得たため、利常は高田に金五百枚を遣わし、町人より茶入を買い取った。
その後、小堀遠州がまた利常の元に参った時、利常はこの『餓鬼はら』の茶入で茶の湯をされた。
茶の湯が終わると小堀遠州が尋ねた
「この茶入を買い入れるのに、代金はいかほど必要だったのでしょうか?」
「持ち主が金五百枚と申しましたので、その通りに遣わしました。」
これを聞くと小堀遠州、手を叩いて痛快そうに
「実にご尤もなことです!御大名がそのようにしていただいてこそ、織部の焼き物に
価値が付くというものです!織部も泉下にて喜んでいることでしょう!」
そう申し上げ、帰っていったそうである。
これは今枝伊兵衛の話に承った事である。
(微妙公夜話)
0733人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:MNPFUEiv0734人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:S2B+QJIP0735人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:HtKZ9df0先代の事などで争い治まりかねない所もあった。
これによって本多作左衛門がやってきて制札を見た所、法度の箇条
が多くて内容も難しかったので、
一、人を殺すものは命が無いぞ
一、被をつけると火あぶりになるぞ
一、狼藉をすれば作左しかるぞ
と言う三カ条にして仮名文字へと書き改めた。
その後はよく治まったと言う
(古老物語)
作左が叱るの別バージョン
0737人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:7Rhnmpwc違うのは傷害が火付けになってるとこか
0738人間七七四年
2013/07/20(土) NY:AN:NY.ANID:5Okx8lxE0740人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:NujmEwqjいる父勝重の家老へと申し送ったが、どういう支障があったのか
秋の末まで一品も届かなかった。
再度連絡を入れ「以前に連絡した御供支度の品々が只今になっても一品
もやってこないのは、不届き千万です。早々に送っていただきたい」
と催促した。
十月になって荷物が一個届いたので家老どもがこれを披露した所、
重宗はすぐに「ここへ持参せよ」と申されたので、家老両人が
これを開けて中を見られると大きな竹の子笠が一つだけ入っていた。
家老たちは何れも呆れた様子であったが、重宗は何か気づいたようで
笑いながら「下げよ」と申された。
その時、谷三助と言うものがそばに居合わせ「なにやら御合点なされた
ように見受けますが、あの笠はいったい何の御用に立つものなので
ございましょうか」と尋ねると、重宗は「あの笠を着て上を見るなと
言う事だよ」と破顔一笑なされた。
三助は「親も親、子も子である」と感じ入ったと言う。
(古老雑話)
「笠を着て上を見るな」と題される板倉親子のコミニュケーション
0741人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:eAqvRqgq0742人間七七四年
2013/07/21(日) NY:AN:NY.ANID:kQ2J5fDN0743人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:C6lOJI8L0744人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:+Df13ACw家康公がある時、鷹野へと御出でになられたが今日は終始養生の為の出御で
あるから、何れも御前をはばからずに休息するようにとの事で、野に幔幕を
めぐらせた。
上様にもお弁当を召し上がっていただこうと御小姓衆が重箱を持参していた
のを本多佐渡守が見つけ
「これは御慰めの御成に用いるべき器ではない。かような品に華美を尽くし
ては、御供の末々までが見習って奢侈の始まりとなるだろう。天下の政務を
とられる御身には以ての外である。」
と言い重箱を取り捨てられた。
家康公はこれをもっともと思われたのか、いささかも機嫌を損ずること無く
御供の者に持参した握り飯を取り出させて召し上がられたと言う。
(翁草)
0745人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:dj1tS+n0サドの守も根は・・・
0746人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:vRxasmXX0747人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:De49AHFU0748人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:T1hGTjTW0749人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:2aZxhEOM「この一巻は、とし頃心にかけて、要用の事ども秘書の中より撰、又智ある人にたづねもとめ、家の宝と記し置侍るもの也。」
として、文学や和歌の解釈や、しきたりの解説など、有職故実の秘伝を著したものである。
中には当時の赤松家の格式や、家中の女たちの名と身分別の服飾について詳しく述べている部分もある
貴重な資料でもあるが、それだけではない。
日々の生活の中で役に立つ(かもしれない)秘術も、いくつか書き残してくれているのだ。
以下に書き出してみよう。
一、おもふ人を恋しくバ、あまがいる(雨蛙)に名を書て、其おもふ人の戸の口に入るべし、必出来るぞ。
一、ぬす人の呪い(まじない)にハ猋符をかく。
(猋=ひょう(犬という字を3つ書く)。犬が群れになって駆けるさま。転じて「つむじ風」)
一、おもふ女恋敷バ、あり原と書、狐のほこらへ入る。
一、犬きびしくおそひなば、五ツのゆびの内四ツのゆびを、未申酉戌と四本の指をしかとおさへ、戌にむくべし、退くべし。
あの魔法使いの甥(ただし養子)が伝える戦国の秘法、試してみてはいかがかな?
0750人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:irfFttyt「私は若年の頃から方々で合戦をしてきたが、心掛けた所に押し寄せ、、目的が叶わず
撤退した、などということは殆ど覚えがない。
無理な所でも形勢をよくみて押し寄せ、敵の軍勢を多く討たせ、或いは敵を追い出し、
或いは降参させたこともあった。様々に、心地良いことが多かった。
尤も、私自身が戦闘のまっただ中で乗り回し、采配が切れ落ちるほど戦った事もあったが、
どうして私一人でこのような戦いができただろうか?
歴々、親類衆から、その家中それぞれで備を形成したほどの下々まで、みな我が下知がなくても
一つの心で励まないものは一人もなかった。
だが、そう言う者たちも稀なのだ。惜しき者たちが次第に私の前から失せていくのは、
私の命を一つづつ、取り除くのと同じである。金の鎖で繋ぎ止められるなら、そうしたいのは、
良き武者の命である。しかしそういうことも出来ず、だからせめて今の若き者どもに、
昔の者達の名をつけて使いたいのだ。」
そう言って、ハラハラと涙を流されたそうである。
(政宗公御名語集)
晩年の政宗の、思いの伝わるような逸話である。
0751人間七七四年
2013/07/22(月) NY:AN:NY.ANID:CH0zadcSんで、よく泣いてる
きっと同じこと何度も話すじじいだよ
0752人間七七四年
2013/07/23(火) NY:AN:NY.ANID:BTaLqH8H秀忠様が諸大名を召して土井大炊頭利勝をもって来年嗣君に世を譲る
と仰せ出されたので、誰もがお祝いを申し上げているなかに井伊直孝
一人は黙然としていた。
利勝はそばに招いて「なぜそのようになさるのか」と問いかけると、
直孝は「天下乱れのもとになると存じますので、とても目出度くは
思えませぬ。」と答えた。
利勝が「その仔細は如何に」と問いただすと、直孝は「大坂の乱後、
すぐに江戸の石壁の営み、日光の御造営などが続き、天下の諸大名は
とても困窮しております。このような時に御代を譲られますと諸大名
は献上物への費えが嵩み、将軍宣下の祭礼を執行するにはなお困窮に
及び、重税を課して民を苦しめる他やりようがありません。これは
万民の嘆きとなり乱のもとになると存じます」と申し上げた。
利勝は「至極もっともな事である。この旨ありのままに言上しなさい」
と直孝を御次の間に伴って、利勝は御前へと進み出てしかじかの旨を
言上した。
秀忠様は即座に直孝を御前へと召され「汝が言うことはもっともで
あるが、既に公言してしまったからには止めがたい。今後もはばかる
事無く言って欲しい」と仰せられた。
直孝はそれは良くない事だと考えたので「そのように私の言う事を
もっともと言いながら用いられぬのは、いかに仰せとはいえ、よく
ありませぬ」と答えた。
暫くお言葉が無かったので、利勝が「私は既に年老いましたが、壮年
の者がこのような直言を申し上げた事は、誠に天下泰平の基でござい
ます。明日諸大名を召されて、掃部頭が申す事はもっともであるから
昨日の件は中止すると仰せ出されるべきでしょう」と申し上げたので
秀忠様は諌めに従われた。
直孝は「私の申す事を用いて頂き忝けなし」と謝し奉り御前を退去な
された。
秀忠様の諌めを受け入れる器量と、直孝の直言は君臣ともに立派なこと
だと世の人々は語ったと言う。
(明良洪範)
井伊直孝の諫言についてのお話
0756人間七七四年
2013/07/23(火) NY:AN:NY.ANID:BTaLqH8H家中の士が具足甲冑頬当をすれば戦場で見ても誰だか判らなくなる
だろうと、家中の士の具足冑前立までそっくり違わぬように極彩色で
描かせて、その者の姓名を記した。
会津城広間の番所から書院に至るまで屏風を何双も立て置き、諸士
が互いにこれを見知るようにされた。
もし誰かが具足を威しなおす等、品の変わる事があれば役人までこれ
を届けさせ、絵師がかの士の許へと行って、とくと見届けさせてから
前々の絵を書き改めさせて張り直した。
六尺の六枚屏風に六人づつ描かれていたが、大大名であったので
全ては描き尽くせず、侍大将・組頭・物頭・物奉行・小荷駄奉行・目付・
横目・あかし・使番等が出されていた。
馬廻の士は一手一手の旗指物、相印で区別が付いた。
その頃、諸家においてはこれを取沙汰して、もっともよい格式である
と評判であった。
(当代奇覧)
0757人間七七四年
2013/07/23(火) NY:AN:NY.ANID:pLWRatP90758人間七七四年
2013/07/23(火) NY:AN:NY.ANID:MDDnDXwB通直の死後、信治は仙石越前守秀久に付いて豊臣秀吉に仕えようとした。
秀久は先に秀吉の命により、大友氏の加勢となって豊後国に至り、
島津の兵と戦って利を失った。この時、秀久は信治に救われて逃げることができたので、
この事が露見するのを恥じて、信治のことを秀吉に讒言した。
そのために信治は高野山に逃れ、その妻子を安芸国竹原に隠した。
その後、織田信雄が伊予国に下向の時、信治はおもむいてこれに属した。
信雄は土方雄久と天野雄光をもって秀吉に請い求め、信治を剃髪させてその死を償はせた。
信雄が京都に帰る時、信治はこれに従い、終身扶助を被って死去した。
――『寛政重修諸家譜』
0759人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:igpQpala系図の書き換えがどうのと子孫の人のHPにあったが、それが正しければ武田元明の従兄か従弟なのか
0760人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:TmkU2EJ90761人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:0WfaAUvp0762人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:aUKSJxzL安国寺恵瓊:安芸武田家
蠣崎信広:安芸武田家5代目(若狭武田家2代目)武田信賢の息子とされる
木下勝俊(長嘯子):武田元明の息子という奇説あり
どこまで本当だろ
0763人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:igpQpala0764人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:M7mvSSdV「俺はもう生まれて七旬(7回目の10年)に及ぶわけだが、どんな事だって若い連中には負けないと思ってる。
だけどな、年齢を経ることが必要な事ってのは、別にあるんだ。
俺なんて未だ若年の頃の心が失せなくてね、人さえ許すのなら今でも飛び出して行きたいんだが、
そういうことをぐっと抑えているのが、年齢なんだよ。
年齢や経験を持たないただ若いだけの奴らが、分別無くどうにかして人と変わったことをしようと思うのは、
まあ尤もなことさ。
若い時って、悪事をしても許されることが多いよな。
俺は、召し使っている小姓なんかでも、その前髪を取らせれば普段召し使うにも便利はいいのだが、
前髪が未だあるんだと思えば、もっと幼かった頃からの気分が離れず、気遣いしないんだよ。
同じ頭でも前髪が無くなっちゃうとな、大人しやかに見えてしまって、もう接する心地が違うんだ。
だからなかなか前髪をとらせないんだよ。
第一に、前髪を取らないのはその本人にとっていいことがあってな、歳が行っても前髪が有ると、
どんな悪事をしても『前髪の有る若輩故のことだ』と、許されることが多いんだ。
逆に良いことをすると『未だ若輩なのに奇特だ』と、人もやたら褒めてくれる。
前髪がないと、そういう事がないんだよなあ。何につけても、良いふうに取ってくれないんだよ。』
(政宗公御名語集)
伊達政宗の年齢論?みたいな話である。
0765人間七七四年
2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:X8HjAZMo政宗と和解させる伏線だったのか
0766人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:uMnhwpxr0767人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:uEWy1HX30768人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:4xxAUktY烏丸光広卿が有馬へ入湯していた時、播州加東郡より貧しい病人が
来ていて入湯していた。
光広卿はこれを憐れみ御台所にて養わせていたが、有馬を出立する際
に宿の亭主に病人を労わってやってくれと言い残し、その代金を与えて
帰洛された。
病人は本復して故郷へと帰り父にこの事を報告すると、父はこれを喜び
都へと上り、烏丸邸へ参上してこの件の御礼を申し上げた。
光広卿はこれを聞かれ「奇特である。よくここまでやってきた」と言い
いろいろな品を与えられ、さらに自詠の短冊をも与えられた。
あしきとて思ひは捨し親と子のうときをは猶哀れとも見よ
今もその家ではこの短冊を持ち伝えてると言う
(当代奇覧)
0769人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:++CW38Ni0770人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:nUhTQfLI幕末に総髪が多くなるのは、志士の間で総髪にすることで、『俺は月代を剃る暇もないほど国事に奔走しているんだ!』って
世間にアピールする面が大きかったらしい。
0771人間七七四年
2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:3IIEf/D5関係ないが、ゲルが整えない状態の髪をテレビで公開したときの衝撃を思い出したわ
0772人間七七四年
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:QyNlIWGn高坂昌信に「今死ぬことは容易いが、生きながらえて主君のために戦死することは
難しいことであろう」と強いてとどめられ、その通りだと思って殉死を止めた。
その後の長篠合戦で昌次は「今日の討死は高坂がかねて諫めたところだ」として
織田家の陣に向かい、柵際に攻めよせて自ら柵木を引き破り、なおも進んで奮戦し、
鉄砲に当たって討死した。
――『寛政重修諸家譜』
0773人間七七四年
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:p7JI9yPt関ヶ原で西軍に付き、伏見城攻めなどに参加した雑賀孫市はその頃水戸徳川家に使えたが、
或る時、鳥居左京亮忠政の元に使いを送った。
『私は、あなたの御父、元忠君の(伏見城での)御最後に参り合わせました。
その時の元忠君の御物の具を、今日まで家に伝えております。
あなたの父君の御形見であるので、御覧になるのであれば、返還したいと思います。』
これに忠政は大いに喜び
「一見することを許していただけるのなら、大変ありがたい。」
と返答した。
やがて雑賀孫市は、元忠の甲冑を携えて忠政の屋敷を訪問した。
忠政は恭しく玄関に出迎え、書院に孫市を通して、父の甲冑を床の上に据えて、これに向かい拝礼し、
雑賀には山海の珍味を所狭しと並べ、心を尽くして饗した。
翌日、忠政は孫市の持ってきた父の甲冑、大刀を使いに持たせて、孫市のもとに送った。
そして
『あなたのご芳志により亡父の物の具を見ることが出来たのは、返す返すも大きな悦びでした。
そうではありますが、忠政の方には形見と見るべき物の具は少なからずあります。
ですのでこれは、見苦しいかもしれませんが、雑賀殿の戦功の御名誉とともに、
あなたの御家に差し置かれ、ご子孫にお伝え頂ければ、後世への御遺誡にも成ると存じます。』
そう、伝えた。
その後、鳥居家では毎年、綿を厚く入れた小袖を数多、常陸国の雑賀家に贈るのを恒例とした。
水戸徳川家ではその使者の来る時は、道路を修繕し、雑賀の家に魚鳥を多く与えその饗応に使わせた、
という。
(徳川武士銘々伝)
鳥居元忠の遺品の甲冑についての逸話である。
0774人間七七四年
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:N8q5VtOC厚恩を受けた家臣として、その主君に殉じるというのは立派だけど、兵を率いる指揮官としてはどうなんだろうなあ、と思わんでもない
0775人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:QmOHOR/p真田信幸が上田に居た頃(関ヶ原合戦後の頃か)、家臣らと船に乗ることがあった。
そのとき岸辺に杉菜が多く生えているのを見た信幸は、杉菜を指して家臣に問うた。
「お前たちはあの杉菜を食べたことがあるか?」
家臣たちはこれに答えて、
「いえ、まだ試したことはありませんが・・・」
信幸はそれを聞いてこう言った。
「それこそ泰平の世の恩恵だ。
昔、勝頼没落の時(甲斐から落ちのびる際の)道すがらに
あれを取って食べたことがあるが、とても食えたものではなかった。
ほかに稗粥も度々食べたのだが、これもまた非常に不味かった。
それでも、昔あのような苦労をしたからこそ、今お前たちを扶持することができるのだ。」
悪い話スレでいかもの喰いの話を見たので、普段食べないようなものを食べた話。
出典は国会図書館の近代デジタルライブラリーで見られる「武人百話」という本から。
0776人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:HfEb4Ibv0777人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:zYj6vKDjついでにその甲斐から落ちのびる時の様子を「加沢記」から
これも近代デジタルライブラリーで読める
(勝頼が昌幸ではなく小山田の策を用いて裏切られた後、なぜか新府で?)
信幸公が勝頼公に召しだされ、
勝頼「昌幸のこたびの忠心は忘れぬ。小山田の言葉を信じたためにこうなってしまうとは、
とうとう神にも見放されたようだ。昌幸は私を甲斐のないものだと思ってるだろう。
どうか、お前の母、弟、一族を無事に逃がしてやってくれ。お前たちの繁栄を祈る」
と杯を賜り、甲州黒という名馬、金作りの太刀を下賜された。
また、勝頼公は若年の落人であれば生け捕りになりかねない、と考え数十人をさいて5,6里送り届けさせた。
これも昌幸公の忠義に感じいったからである。
信幸一行は三月五日新府を引き払い、信濃境に向かっていると、甲州の落人狩りのため盗人百人から二百人が襲ってきた。
当時、信幸十七歳、御弟の藤蔵(信繁)十五歳、源五郎七歳、御姉十八歳、そのほか矢沢、根津、室賀の娘などが同道していた。
信幸公は先陣に進み、その勢男女二百余人で盗人を追い払い、鳥居峠で人馬を休ませた。
このことは盗人に知れ渡ってしまい、信州のスッパ、上州、武州のワッパ千人余りが集まって峠の麓で鬨をあげた。
信幸公の母は百千の雷鳴に勝る鬨を聞き
母「多勢に無勢、しかも度々の戦で我々は手傷を負ってます。潔く自決をしましょう」
と涙ながらにおっしゃったが、信幸公は武勇の大将であるため、怒ってその母親に申し上げた。
信幸「あの程度の烏合の衆、百万騎でも物の数ではありません。ご安心を」
と鎧の上帯を締め直し、十文字の槍を取り、勝頼公より賜りし甲州黒にまたがり、
手勢二百人を五十人、五十人、百人に分け、鬨の声をあげさせた。
盗賊たちは、さては落人ではなく尾張勢であったかと思い、逃げ去っていった。
(その後、無事味方と合流し、信幸一行は戸石城におちつく。)
0778人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:it/TbstRばあちゃんがまえふきのとうとかつくしんぼとかの雑草を佃煮?のようなかんじで
調理してくれたことがあったけど普通に食べられたぞ
0779人間七七四年
2013/07/27(土) NY:AN:NY.ANID:or5clOXrhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130726-00000009-kana-l14
「火牛の計」は津波? 小田原城奪取に新説/神奈川
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