天正十年六月三日子刻(0時)に京都から飛脚が到来。
「信長公・信忠卿が二条本能寺で昨日二日の朝、惟任が為に御切腹なさ
れました。急ぎ御上洛ありて日向守を討ち平らげるのが当然でしょう」
との旨を長谷川宗仁が密かに申し送ってきた。
秀吉は大いに驚かれたが何事も無かったかのようにふるまった。

四日朝、御馬印だけを持たせ陣を見回られた。いつもは百騎ばかりを
召しつれて見回られるが、京からの話を聞かれてからは、静かに堤を
巡回され、対する輝元の陣も堅固であるように見えた。

即座に毛利家臣安国寺を呼び寄せ「分国を保ちたいのであれば、降参
してもらいたい。そうであれば和睦は長久に続くでしょう」と告げた。

安国寺はこれを承り「もっともの事でもあり、輝元には少しも疎意に
存じられないだろう。御状の趣を申し聞かせましょう」と帰っていった。

輝元は「分国に相違が無いのであれば受諾しよう。起請文を取り交わし
人質を進じよう」と承った。

秀吉はこれであれこれは片付いたと考えられたが、明日五日の朝に返事を
するとして、その日は毛利からの使者を帰された、

五日の朝、小早川、吉川よりそれぞれ使者がきた。
ここに至って秀吉は亡君の事を隠し続けるのも限界であろうと考えられ
「このたび信長公は去る二日惟任日向守の逆心により御父子ともに京都で
弑された、このような状況でも最前に定めた和睦の条件に相違はないか」
と仰せられ「両使は輝元に報告して、その上で決めるがよかろう」と使者
を帰された。

両使は即座に立ち戻り小早川、吉川から輝元に信長公御父子の事を報告し
家老の面々を呼集して、どうするべきかを評議を行った。

若くて勇みがちな人々は、天の与えた幸いであるから和睦を破棄して帰陣
し、世の動きを見られれば良いのではないかと高言するものが多かった。

しかし小早川隆景がこれを諌めたので満座は沈黙し、輝元も尤もであると
考えられた。

輝元は前回送った使者に加えて信長公の御弔として福原越前守広俊を添えて
秀吉の陣に送った。

両使は蜂須賀彦右衛門尉に対して最前に約した和睦の条件で相違なしと、
輝元ならびに小早川、吉川の誓紙をもって申された。

秀吉は大いに悦び。「明日には出立するので、鉄砲五百艇、弓百張、旗
三十本を合力していただきたい。またこちらからも「今後も毛利を粗略には
しない」旨の誓紙を出そうと言われ、福原越前守と安国寺を呼び寄せて
血判に及び、口上を述べられた。

輝元も了承し、即座に人質として元就八男藤四郎(小早川秀包)に桂民部少輔
(広繁)を添えて進上され供奉した。

(日向記)

本能寺の変に伴う毛利家との和睦についての話