戦国ちょっといい話37
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0001人間七七四年
2013/04/08(月) 06:40:28.41ID:3qR6cDS1戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0409人間七七四年
2013/06/06(木) 10:29:09.76ID:Dr27dp+R豪雨と疾風に見舞われたので七日はそのまま滞留して、八日に姫路に
至って御帰城なされた。
その日は諸卒を休息させる為に出陣を延期して、九日未明に姫路を
出発して急がれたので、十一日午の刻前に尼崎へ到着した。
秀吉はすぐに落髪し、三七殿(織田信孝)、丹羽五郎左衛門尉(長秀)、
池田紀伊守(恒興)と長子勝九郎(池田元助)等へ使者を送り「中国とは
和睦して今日ここまで参陣しました。軍評定をして明日には惟任を
討ち果たしましょう」と申し入れたので何れも尼崎に集まられ、評議
では一番高山右近、二番中川瀬兵衛尉、三番池田殿と定められた。
十二日には先鋒は山崎天神の馬場芥川の辺りに充満していたが、後陣
はいまだに西宮小清水の辺りを急いでいた。その夜は別々に宿陣して
十三日には山崎表へ一同が揃うようにとの御命令であった。
惟任方へも明日十三日に合戦の上で勝敗を決しようとの旨を言い送り
「望むところである」との返事であった。
伊東佑兵は備中御陣よりお供して姫路に一日逗留、九日には供奉して
御上洛になられた。
(日向記)
日向記による中国大返しの模様
0410人間七七四年
2013/06/06(木) 10:33:54.70ID:M7gG74OV0411人間七七四年
2013/06/06(木) 22:32:35.01ID:Z7rXj5e/神右衛門が、
「佐賀に変わりはないか?江戸は無事か?」
と尋ねると、客は、
「江戸は穏やかです。佐賀も異変なしです」
と答えた。
客が帰ったあとに、神右衛門は子供を集め言った。
「今日は客人がわざわざ訪ねて来てくれたから、
馳走をしようと考えていたのだが、
挨拶の仕方が不愉快であったので、
最低限のもてなしをして帰すことにした。
だいたいこのような国境の地に来て、
その家の子供や家来の前で、あの挨拶はないだろう。
『佐賀に異変はないが、一寸先は何が起こるかわからないので、
侍どもが油断するということはありえません』
と挨拶をするべきであろう。」
と訓示したという。
これは父、山本神右衛門から聞いた話だ。
また、この山本神右衛門は、見廻りの人に、
「世の中、変わりはないか?」
と尋ね、
「無事です」
と答えが返ってくると、
「無事とはさても心配なことだ」
と言ったとのことである 【葉隠】
0412人間七七四年
2013/06/07(金) 09:55:29.67ID:sVgKc4Yfだいたい同じような内容が毛利側、羽柴側両方の史料にも見られるから
どうやらこれが史実みたいね。
0413人間七七四年
2013/06/07(金) 09:57:33.23ID:7u8b/B3W0414人間七七四年
2013/06/07(金) 10:20:01.73ID:Xe9aBHnf0415人間七七四年
2013/06/07(金) 11:15:50.44ID:vwIjszRc0416人間七七四年
2013/06/07(金) 14:51:28.19ID:EuDxLF/i次は柴田と組んで明智を倒し、
最後は家康と組んで柴田を倒す・・・なんて巧く行く分けないよな。
0418人間七七四年
2013/06/07(金) 15:34:16.65ID:AyjBnaSK0419人間七七四年
2013/06/07(金) 16:42:19.02ID:9NOimaRp毛利方としても和睦ができるならそれに越したことはない状況だし、
もっけの幸いと受け入れたんだろうなあ
結局柴田あたりが攻めてきたら元も子もない
0420人間七七四年
2013/06/07(金) 18:50:45.19ID:9xWeM5LF伊東佑兵は秀吉の麾下にあり、備中御陣よりこのかた片時も離れずに
随行していた。
惟任日向守が敗れた時、立派な鎧をまとった武者が一騎で落ちて行った。
秀吉公はこれをご覧になって「能き敵であるぞ、若き者ども討ち取って
高名せよ」と仰せられ「我こそが討ち取らん」と逞しきものが四、五騎
ほど出撃していった。
佑兵はこの中を駆け抜け「返せきたなし」と呼ばわったところ、敵も
もはや遁れ難しと思い引き返してきた所、これをすかさず組み伏せて
討ち取った。
秀吉公はこれを望見して「只今、庵に木瓜の旗をつけて敵を討ち取った
のは日向の伊東ではあるまいか」と仰せられていた所へ、佑兵がかの首
を持参し実検に備えた。
秀吉公の御感浅からず、南都金坊左衛門尉政則が打った三尺長身にくり
から龍を彫り熊の皮の投げ鞘をつけた御槍を手ずから賜り面目を施した。
その槍は今も相伝して家宝としている。
六月十三日、惟任はついに討たれたので秀吉公は凱旋され、信長公の
葬事を営み、大徳寺の塔頭として一宇を建立し総見院と号された。
それから秀吉公は尾州へ向かわれ、織田の幼主を安土城へお入れして、
十一月には江州長浜へ御出陣、濃州一国を平均に討ち靡けてから宝寺城
(山崎城または天王山城とも呼ばれる)に御帰城された。
(日向記)
日向記に記された山崎の戦いの様子なのだが戦の内容は全てスルー。
まあ佑兵は秀吉の馬廻でしかないから仕方ないんだけど…
0421人間七七四年
2013/06/07(金) 18:58:12.56ID:Rg3gkucJ父教明の落魄して美濃にあるや、嘉明もまた従って美濃に来たり、好んで馬を養い、
すこぶる馬術に長じた。
ある日、嘉明が馬を引いて近江長浜に至り、城主加藤景泰に謁して馬を売ろうとした時、
城中に荒馬がいて将士にはこれをうまく操れる者がいなかった。
景泰が命じてこれに試乗させたところ嘉明はすぐに承知し、乗鞍一鞭馳騁思い通りに
ならない事はなかった。
景泰は大いに感歎し、翌日嘉明を引き連れて秀吉に謁見しこの事を語ると、
秀吉は珍しく思って命じて嘉明を景泰の子とし、姓を加藤、名を左馬之助嘉明と改めさせて
家臣に加えた。
――『鹿深遺芳録』
もともと岸氏を称していたのが、三河を逃れて仮に賀気氏を称し、
嘉明が養子になって加藤姓になったということらしい。
0422人間七七四年
2013/06/07(金) 19:02:03.80ID:0j7xiByN0423人間七七四年
2013/06/07(金) 20:09:46.49ID:khp2Jdun信長に見てもらうため、わざわざ出陣を要請したみたいな話があるけど
毛利は総大将TERU&叔父さん2人のほぼ全軍といっていい軍勢だし
織田vs毛利の最終決戦を見込んでの出陣要請だよな。
つまり本能寺の変後にTERUが全力でラスボスを追撃すればラスボスは
滝川さん状態になって、播磨あたりまで毛利領って事もありえた。
ま、TERUにそんな決断は出来ないけど。。
0424人間七七四年
2013/06/07(金) 20:44:01.57ID:9xWeM5LF0426人間七七四年
2013/06/07(金) 21:57:27.11ID:+GqKqFljこの時水野次郎右衛門、畏れながらと申し上げた
「そのようにお申し付けになった上は、御普請をしっかり行わないものがあった場合は、
それが例え、小関石見、福島丹波、その他組頭などの重臣の方々であっても、そういった時は
必ず罰金などを厳しく取り立てます!」
この水野次郎右衛門の言葉を聞いて、側近の人々を始め家中の身に覚えがある者達、大いに驚き慌てたそうである。
ちなみにこの水野次郎右衛門は徳川家康公も御存知の者で、それは同国の三河の出身であるためであった。
それ故に、彼には度々上意もあったそうである。
(福島太夫殿御事)
こんな所にも居た、しかも例によって一筋縄でいかなそうな三河水野一族。というお話。
0427人間七七四年
2013/06/09(日) 08:15:28.91ID:2jQXQQ2r薩州の軍勢に捕えられ鹿児島に送られ義久に仕える事となった。
義久は名のある武士の妻子であるからと常に懇意にされていたが、
土佐入道が飫肥へ帰参したとの話を聞いて、妻子に衣類金銀を与えて
土佐入道の許へと送られた。情けある事でした。
(日向記)
島津義久が山田土佐入道の妻子を送り返す良い話
山田宗昌は天文年間から活躍していた伊東家の武将で、伊東義祐が
伊予へ移った時には豊後に残って、その後も佐伯惟定の元で島津と
激しく戦い、伊東祐兵が飫肥に復帰した時に帰参した人です。
敵の妻子にも情けをかける島津義久はよく出来た人ですね。
0428匿名大名
2013/06/09(日) 11:19:44.47ID:7oA6JdOJ0429人間七七四年
2013/06/09(日) 11:52:32.88ID:evYMY+3l0430人間七七四年
2013/06/09(日) 14:38:55.90ID:gVgNBzv/0431人間七七四年
2013/06/09(日) 14:39:26.47ID:gVgNBzv/0432人間七七四年
2013/06/09(日) 14:40:22.45ID:7F14SXff0433人間七七四年
2013/06/09(日) 15:29:37.85ID:07+AIUNl0434人間七七四年
2013/06/10(月) 09:03:01.26ID:W6c3jPw9北越の柴田勝家を征伐された後、加州は前田利家、越前若狭は丹羽
長秀に与えられた。柳瀬七本槍の面々にもそれぞれ御加増があった。
その頃の佑兵はわずか三十人扶持の堪忍分であったが、たびたびの
軍労を思召して、河州丹南郡の内半田村五百石の知行を賜った。
秀吉公はかつて姫路から御帰陣の時、いかなるついでであったか
「伊東殿は幸先の能い人である。やがて本国へ復帰する事もできる
だろう」と仰せられたと伝えられる。誠に符合する御祝詞であった。
(日向記)
0435人間七七四年
2013/06/10(月) 09:39:55.78ID:VILycKP0「灘のけんか祭り」が今年も勇壮に営まれた。
姫路・松原八幡神社の氏子地区のうち、仕切り役の「年番」に当たった東山地区は、3基の神輿を激しくぶつける「神輿合わせ」を披露した。
そのとき歌われた「石搗(いしづき)祝い歌」にこんな一節がある。
「何じゃいの 瓢箪や サーエットエー」。
瓢箪とは信長の中国攻略を指揮し播磨に入った羽柴秀吉。「秀吉がどれほどのものか」。心意気を歌い継いできたという。
祭りは播磨国守護、赤松政則が社殿再建を祝って米を寄進し、喜んだ氏子らが米俵を担いでお旅山に駆け上がったのが起源と伝えられている。
だから秀吉に対置されるのは恐らく赤松氏だろう。
戦国時代には三木の別所長治が秀吉に抗戦。領民を救うため自害し今も敬愛される。
鎌倉〜南北朝にさかのぼれば、現在の上郡町を拠点に室町幕府に貢献した赤松円心の存在感が際立つ。
荘園制度に反発し、「悪党」と指弾された反骨精神。
後醍醐天皇に反旗を翻したものの劣勢になった足利尊氏に、九州への一時撤退を進言した知恵。
尊氏に加勢して、上郡に構えた白旗城に籠城し、敵の軍勢を50日間足止めした勇猛果敢。
播磨のアイデンティティーを語るときに欠かせない円心の坐像が、
12月2日まで姫路の県立歴史博物館で開催中の特別展「赤松円心・則祐(そくゆう)」で鑑賞できる。
不敵な面構えは見覚えがある。
そうだ。祭りで会った男衆の顔だ。
(神戸新聞 正平調 2012.10.29)
0436人間七七四年
2013/06/10(月) 09:43:00.62ID:VILycKP0記事に出てくる赤松円心の坐像
http://kamigori.info/akamastu_enshin.html
その木像をヒントに描かれた、上郡町のマスコットキャラ
http://www.hyogo-tourism.jp/tabinet/yurukyara/profile/enshin.html
名物「円心モロどん」(なかなか旨かった。)
http://kamigori.info/enshin_morodon.html
0437人間七七四年
2013/06/10(月) 12:23:49.99ID:W6c3jPw9宮川甚右衛門を使者として用事の旨を含めて遣わされた。
進物は如水翁へ鷹二羽、由地以益老へ鹿皮十枚である。
甚右衛門は豊前に到着し進物を差し出して用事の旨を申し上げた。
如水翁はこれに会い「よき時期に参られた。使者にだけ伝えたい事が
ある」と御前近くに呼び寄せられ「太閤様は殊の外に衰弱されている
その上天下には怪異が度々おこっており、もし乱世になったら佑兵は
小身であるから家を保つのも心許ない。一時も早く島津へ申し入れて
縁辺を組まれるか、または入魂の契約を結び神文を取り交わしておく
べきであろう。この事を早く朝鮮へ罷り戻って申し伝えよ」
と仰せられた。
甚右衛門は畏まって急ぎ船を出し、正月八日に安哈良に到着。
佑兵に御返答一通りを申し上げてから、隠密の御口上がございますと
言った。御前伺候の小姓どもまで引き下がらせてから、島津と入魂に
するべき趣の巨細を申し上げた。
その頃、島津はカトクへ在陣していたので佑兵は彼陣へ出向かれて、
島津に入魂にしたい旨を談ぜられ、互いに神文を取り交わし、以後は
入魂になられたとのことだ。
(日向記)
黒田如水、乱世を予見する
0438人間七七四年
2013/06/10(月) 12:28:50.22ID:UnbnNjc+本気で東軍として九州をまとめることで、天下安寧考えてた気もしないではない
0439人間七七四年
2013/06/10(月) 12:29:37.05ID:vG5RRJYo0440人間七七四年
2013/06/10(月) 19:07:32.54ID:/2Mvl9bzそれに佑兵は国を追われてたことで秀吉の配下になれたし、天下取り事業に加われた
その過程で秀吉の懐刀である如水と昵懇になったので、如水を頼るのは自然な理
また領地を接する大大名の島津に潰されないように約定を交わすのも自然な理
0442人間七七四年
2013/06/10(月) 20:11:44.40ID:GWHqvamu「左手のエピ省きやがって、捏造するな!」
といちゃもんがくると予想
0443人間七七四年
2013/06/10(月) 20:18:11.17ID:gOq1FwJe0444人間七七四年
2013/06/10(月) 21:14:21.39ID:B+lr4YVI日本三大松原のひとつに数えられる佐賀県唐津市の虹の松原に
地元の人たちの間で語り継がれてきた秀吉伝説がある
1.景観を楽しむ秀吉が頭が高いとにらみを利かせて以来高く伸びない「にらみ松」
ひれ伏したようには伸びるが垂直には伸びない(実際は強い潮風が原因)
2.秀吉が騒々しい!と一喝して松原からセミの声が絶えた
話の起源はどちらも不明だという
いい話か悪い話か分からんが、昔から地元の人たちにも畏怖されてたんだなという話
0445人間七七四年
2013/06/10(月) 22:01:44.69ID:vG5RRJYo朝鮮征伐の時の話かね
これは有名だよね
http://www.crossroadfukuoka.jp/jp/event/?mode=detail&id=4000000000103&isSpot=1
0446人間七七四年
2013/06/11(火) 05:46:05.21ID:7kCSsO88東西両軍が乱戦の時に、敵の後ろである松尾山より兵を下ろし裏切りをさせれば、
即座に徳川家康の利運となると考えた。
秀秋の家老平岡石見は長政と内縁が有り、また平岡の家臣である井上越前は、長政の家老、
井上九郎右衛門の弟であったので、彼らを頼りに小早川方にこれを伝えよと、家臣である
大久保伊之助、神吉三八を派遣した所、小早川秀秋は「黒田殿の提案に同心する」との
返事をした。
大久保・神吉が帰ってこのことを伝えると、長政は大いに悦び、重ねて小早川の陣所に、
黒田方より人質として、吉田宮内、大久保伊之助を遣わした。
しかし、秀秋の同心が偽りであり、こちらからの人質たちを手籠めにすることも考えられると、
菅正利を指し添えて遣わした。
菅正利は小早川陣へ行き、そちらの諸将と軍の手立てについても談合し、互いの内通は相整い、
小早川方からの人質として平岡石見の弟を人質として連れ帰った。
この後、小早川秀秋の返り忠にて、終に徳川家康の勝利と成ったのである。
(菅氏世譜)
黒田家側の記録に有る、小早川秀秋寝返りについての逸話である
0447人間七七四年
2013/06/11(火) 10:06:27.01ID:nIBCP0EI天下を狙ってたと言うのは大げさだろうが、広家宛の書状とか見てると
天下安寧からはほど遠い気がする
0448人間七七四年
2013/06/11(火) 12:59:47.06ID:oa9WKeCDつって家康に止められたんだっけ
0449人間七七四年
2013/06/11(火) 13:15:47.73ID:nIBCP0EI一応、家康が薩摩出陣を延期するように要請した書状が届く前に
島津が謝罪してきてたので如水の主導で延期してる。
ちなみに清正は八代攻めを島津に邪魔されたので戦いたかったらしい。
0450人間七七四年
2013/06/11(火) 17:43:19.96ID:26GGUzHn島津宛てに徳川と和睦するように勧める書状を10月28日の日付で送ってるし、
これは、状況的に如水か清正の許可を得て送っただろうから、
全体的に積極的には島津を攻める気はなかったんじゃないかな。
0451人間七七四年
2013/06/11(火) 20:25:35.22ID:7kCSsO88城主である松田氏家臣・サイ所元常を騙して暗殺し、城を奪い取った事で有名だが、この瀧口城は備中の
三村家親による備前侵攻の時に奪われた。
そこで永禄七年(1564)、直家は松田氏などと和解した上で同盟し、瀧口城を攻め、7月9日に、
ついに城の奪還に成功した。
さて、同月11日、宇喜多直家から瀧口城で三村方として戦った、備中幸山城主・石川源左衛門久式に
使いが送られた。
『今回は国人達が不意に合戦に及んでしまい、我々は呉越を隔てることになりましたが、
これは全く私の本意ではありません。
瀧口城の傍にある福輪寺から、討ち死にされた方の死骸を集め置きました。
雑兵の死骸は、福輪寺にて葬礼をいたします。』
直家はこのように申し寄越した。
石川久式はこれを聞いて、直家の懇情に感じ入り、返答を送った。
そして脇田村で討ち死にした石川方の将・小田小太郎の死骸は、彼の郎党である
名越修理と有岡右京が行って福輪寺の山の峰で葬礼をして墓所を築き、印塔を立てた。
また討ち死にした兵429人は、同所の峰に3つの塚を作りそこに取り納め、それは
福輪寺の首塚と呼ばれるようになった。
この後、備中と備前との交通が絶たれたため、備中の諸士でこの合戦で討ち死にした者の
子孫や親族は、2月、7月、8月の彼岸に、代理の僧を福輪寺に立てて墓所に火を灯し
墓に水をかけた。
宇喜多直家が毛利家に従い幕下に入ってからは、直家はこの地の郷民に申し付け、
墓所に石塔を建て、7月13・14日には脇田村、湯廻村、四之御神村の峰々に数万の火を燈し、
討ち死にの子孫、士農工商旧功の恩を思い出し、酒菓を供えて供養した。
宇喜多直家はこのように言った
「敵となり味方となるのも、前因後果の報いなのだ。仇であっても善の心で報いる事が、
義士道というものである。」
これを聞いた、ある古い武士は、こう感想を洩らした
「直家は計略の謀の手腕を持ち、毛利家の威を借りて、まさしく家を興す人物であろう。」
【中國兵亂記】
宇喜多直家の、備中の国人懐柔策の一端が見えるような逸話である。
表面的にはいい話なんだけど、そのとおり受け取っていいのかどうかちょっと迷うのは
直家の人徳なのだろうなw
0452人間七七四年
2013/06/11(火) 22:02:19.19ID:NnZK3DSB一度浦上宗景に反旗を翻しても許されて味方増やしてるくらいだし。
真の謀略家とは人徳があって信頼される人物でないとなれないんだろう。
0453人間七七四年
2013/06/11(火) 22:32:09.22ID:qgKBMWpr0454人間七七四年
2013/06/11(火) 22:44:27.52ID:K+2XHs9Bもうちょい距離のある人には自分だけは大丈夫と思わせる何かがあるのかな
0455人間七七四年
2013/06/12(水) 00:02:25.27ID:Vc+Sdv0A守ってあげたい感じになったのかも
0457人間七七四年
2013/06/12(水) 00:06:00.19ID:/qj52nhH一分もレスまでに経ってないやん
0458人間七七四年
2013/06/12(水) 08:40:35.68ID:eNWMgWw/0459人間七七四年
2013/06/12(水) 10:07:39.79ID:+e/Yj0vr島津と立花が関ヶ原では同じ西軍だったり
直家の逸話も素直に感心する俺みたいな奴は
暗殺されるのだろうな
0460人間七七四年
2013/06/12(水) 10:56:00.79ID:dxfa4KPr弟子も多く、それぞれその道の一つずつ伝承していた。
枝吉三郎左衛門はその中でも、理論を体得しておられた人だ。
あるとき三郎左衛門が了哲を訪ねると、
「衆道の心得を悟ったか?」
と問われた。
三郎左衛門はそれに、
「好きであるのに好かぬものです」
と答えた。
それを聞くと了哲は喜んで、
「その言葉を待っていたのだ。
それを言えるまで、長年かけて苦労したものだ」
と申されたとのことだ。
後年、三郎左衛門にその言葉の意味を問う者がいた。
そのとき三郎左衛門は、
「衆道の極意は命を捨てることです。
そうでなければただの恥となりましょう。
しかし衆道のために命を捨てるならば、
武士の道のため捨てる命がなくなります。
そこで私は、好きであるのに好かぬものと理解しました」
と答えた 【葉隠】
0461人間七七四年
2013/06/12(水) 12:01:29.20ID:5k95V3pOが起こり、毛利の者どもが大勢で当家船手の者を海へ追い込んだと注進
があった。
まず最初に落合九右衛門尉、宮田久左衛門尉、平賀喜左衛門尉とその他
足軽どもにて交戦し、その時三名が討死した。
さらに河崎大膳亮ら大勢で駆けつけて、敵多数を海へ追い込んだが、
当家の者も数十人が手負いとなった。
その時、落合九右衛門尉の嫡子小辨と言うものは年は十六歳で容顔美麗
であり佑兵様の小姓としてお傍に居たが喧嘩の注進を聞いて駆け向かい
一文字に切って掛かった。
毛利家の侍何某が弓を取って矢を放とうとしていたが、その幼年にして
勇猛な事を感心したのか、それとも美麗なるを惜しんだのか、その矢で
地面を射、小辨の姓名を尋ねこれを讃えて退いた。
喧嘩騒動は寺沢志摩守、島津又七郎、相良左兵衛の三大将が間に入って
和睦となった。
この小辨は元来勇士であり、ある時、佑兵様の目の前で敵を討ち取った。
比類なき働きでもあり、格別のご褒美を賜るであろうと誰もが思ったが
その沙汰は無かった。
この措置について佑兵様に尋ねたところ「褒美を遣わすべきなのは当然の
事である。しかし、かの者は若く余りある勇気を持っている。今褒美を
与えれば、今後も同じような行動に及び討死するのは必定だと思ったので
そうしないのだ。」と仰せられた。
小辨には後にその事とは別に御脇差が与えられた。元服してからは落合
浅之助と名乗り、日向宮崎合戦でも活躍した。
(日向記)
釜山の喧嘩騒動と褒美の与え方の話
0462人間七七四年
2013/06/12(水) 16:14:48.87ID:SewYdqbu0464人間七七四年
2013/06/12(水) 18:35:13.31ID:osN9UWAL0465人間七七四年
2013/06/12(水) 21:50:27.31ID:IlT3t1fh衆道の理論ってなんや・・・
0466人間七七四年
2013/06/13(木) 00:09:53.00ID:fOs1Mueiとはいえ、色情は富貴の名主も下賤の者も陰陽合躰の道、人たる者に変わりはない。
そのような事があれば主人は勘弁して双方を呼び出し、当座の戯れなのか夫婦の契約なのか聞き届けるべし。
死生ともに申し合わせた契りだというのならば宥免して罪の程を許し、所帯を持たせよ。
そうすれば男女とも心魂に徹してありがたく思い込み、事ある時には先途の用に立つこともあるだろう。
今川了俊の条目にも「恩の為に死ぬ者は少なく、情の為に死ぬ者は多し」と書かれている。
――『山本道鬼入道百目録聞書』
0467人間七七四年
2013/06/13(木) 01:24:13.21ID:WRfY7l51「道」がついてるから単純な肉体の男色行為ではないのかもな
死ぬまで秘める恋が最上と言うんだから
秘め通したなら肉体的行為はあるはずないし
0468人間七七四年
2013/06/13(木) 05:23:48.10ID:A8WkT8qM0469人間七七四年
2013/06/13(木) 08:27:00.05ID:zRxxuX0C0470人間七七四年
2013/06/13(木) 09:02:01.16ID:BH4MtpB5宣教師の記録だと、「バビロンの風習」「悪魔の習俗」などと批判していて、主に仏教僧が衆道文化の中心だったから
「やっぱり仏教僧は悪魔の使いだ」みたいな記録をしていたな。
0471人間七七四年
2013/06/13(木) 09:43:32.07ID:b+eaHdGV0472人間七七四年
2013/06/13(木) 11:01:19.27ID:X2+vpcge右大臣に補任された。
上卿(陣儀の最上位者)は広橋大納言兼勝卿。奉行職事は烏丸左中弁光広
朝臣。参仕弁は坊城左中弁俊昌朝臣。淳和奨学別当、源氏長者、牛車兵仗
等も宣下される。
辰刻、山科内蔵頭(言緒)、冷泉中将為満朝臣が紗狩衣を着用して共に伏見
城内府亭へ向かった。(彼らの役割は家康の装束関係と思われる)
午未下刻、上卿他諸役衆が伏見に向かわれた。
内府は皆が佇立している間に御対面所へ御出でになり上段中央へ南向に
着座された。御装束は左折の折烏帽子、香(紅色の)直垂、露(直垂の袖口から
垂れている紐)は萌黄、前後の腰帯は白生絹。
土御門左馬助久脩が御身固(身体の堅固を祈る儀式)に参り、久脩が退いた後、
上卿・奉行職事・参仕弁等が前に進む。上卿が着座する前に勅使右大弁宰相
(勧修寺光豊)が前に進んだ。
続いて官務(壬生)右大史孝亮が将軍宣旨を葛蓋(文箱)に入れて持参。大沢侍従
(基宿)が受け取り、家康公の御前に置いて披覧。それから御座の脇に置かれた。
西の縁の方に砂金袋が置いてあり、永井右近(直勝)が砂金を葛蓋に入れて大沢
侍従に渡し、大沢侍従は葛蓋を壬生孝亮に返した。
次は(中原)大外記師生が右大臣宣旨を葛蓋に入れて持参。その様子は将軍宣旨
と同じであった。
次は壬生孝亮、氏長者宣持参
次は中原師生、源氏長者宣持参
次は壬生孝亮、淳和奨学両院別当の宣旨持参
次は中原師生、牛車宣持参
次は壬生孝亮、牛車宣持参
次は中原師生、兵仗宣旨持参
その都度、砂金をたまわる。
次は上卿に黄金十枚を台に乗せて給わり鞍置馬も給わる。次は勅使に黄金五枚
並びに鞍置馬を下され、次は奉行職事に黄金五枚を下され、次は参仕弁に、金
五枚枚を下された。各々は御礼を申しあげ、すこししてから座を立った。
上卿と勅使は太刀を折紙にて進上して御礼申された。次は奉行職事と参仕弁は
太刀で御礼申され。次は大外記、官務、少史安陪盛勝、小外記三善英芳、出納職、
清同、職忠、外記、使部重昌、官使部、告使はそれぞれ太刀にて御礼申され。
次に陣官人は太刀は進上せず、それぞれ御礼を申しあげた。
御礼の後は(饗応の為に)常の座敷に上卿以下が入られ平伏する間に、家康公が
お入りになられ予(舟橋秀賢)冷泉(為満)山科(言緒)等もお供して移った。
地下録物(葛蓋に入れられた金額)
将軍宣旨砂金二十両、右大臣宣旨金十両、氏長者宣録、外記、官務へ両宣旨
十両ずつ、牛車両宣旨十両ずつ、淳和奨学両院別当宣録、十両、兵仗宣録、十両
以上、金九枚
少史、小外記、出納、使部、告使、陣官人等へは銀子三枚ずつ下され、
各々に差はつけられ無かった。
(慶長日件録 慶長八年二月十二日条)
家康の将軍宣下の様子である
0473人間七七四年
2013/06/13(木) 12:18:09.30ID:o5FqMAIwというと首をスポポポーンと言う想像が先に立つ・・・・憑かれてるだな、俺
0474人間七七四年
2013/06/13(木) 16:40:53.30ID:WRfY7l51というか和歌も衆道も公家から武家が影響受けた
0475人間七七四年
2013/06/13(木) 20:01:19.27ID:q16XBwe5そういった堕落への反動として厳格な一派による内部改革が行われて、
当時わざわざ日本までやって来たのがその連中
極東の異教でもそうなのかよぉぉぉ!?と彼らが思ったかどうかは定かでは無い
0476人間七七四年
2013/06/13(木) 20:20:36.43ID:BH4MtpB5関ヶ原宿に泊まるその日の道中、道端ではこべが見事に成っているのを見つけ、これを乗っていた馬に
挟み進んだ。
さて、関ヶ原宿に着くと、そこにはろくな食材がなかったため、長谷川は焼いた干鱈に先に摘み取った
はこべを加え入れて汁を作り利常に差し上げた所、これを大変気に入られ。度々お替りをして
召し上がった。
そして長谷川を御前に召し、
「殊の外よき汁であった。どうしてこのような料理を思いついたのか?」
と聞いた所、長谷川は
「私が先行して進んでいた所、道際に見事なはこべを見つけました。関ヶ原宿には多分良い食材は
無いだろうと思ったので、このはこべを取り乗り掛けの馬に付けて、こちらに到着した所、
案の定良い食材はありません。ですので先の御汁にしたのです。」
そう申し上げると、利常は感心し
「自分の役儀をよく心得ており、大変奇特である。」
と言って御箪笥の中から金子を、包のまま下された。
その包の中には金子が、一歩五十八切(一歩金は小判の4分の1)も入っていた。
後で長谷川徳左衛門は「御汁一つ料理してたいへんな金子を貰ったよ」と大いに自慢していたそうである。
(微妙公夜話)
0478人間七七四年
2013/06/13(木) 22:13:58.08ID:H5d6Iz5s氏長者宣は天皇からの源氏長者の認定で、
源氏長者宣は家康の前に源氏長者だった久我通堅からの、
源氏長者の地位を譲るというものでは?
0479人間七七四年
2013/06/13(木) 22:55:19.56ID:WVkdhc2h賢き所が勝手に源氏長者を変えたことになるから
余計な火種を産まない為のシステムなのかな?
0481あのさあ
2013/06/14(金) 00:00:37.39ID:GwXDBRrp0482人間七七四年
2013/06/14(金) 00:09:47.72ID:JmQvBJyQそうでなければ養子にする必要性が無いと思うのだが
0483人間七七四年
2013/06/14(金) 01:09:05.78ID:/LdnPYlZ子作りどころか縁故人事に政治闘争に露骨な金集めに、もうルネサンス期はなんでもありだったそうで
イエズス会ができたころはルター派や改革派教会の分離、ついでにイギリス国教会まで分派する事態
0484人間七七四年
2013/06/14(金) 01:23:17.02ID:Zt6v0d4rて調べたらインノケンティウス8世(1484-1492)、ユリウス2世(1503-1513)、クレメンス7世(1523-1534)、
パウルス3世(1534-1549)にまで子供がいるんだな
こりゃルター派が台頭したり反宗教改革でイエズス会が日本にまできたりするわけだ
0485人間七七四年
2013/06/14(金) 08:10:13.02ID:13GGnsHQ0486人間七七四年
2013/06/14(金) 08:17:43.14ID:JmQvBJyQ0487人間七七四年
2013/06/14(金) 09:01:05.75ID:uE3n0wC40488人間七七四年
2013/06/14(金) 09:04:24.37ID:uE3n0wC4語るに落ちて喪男だってバレバレじゃねーかよ俺、Orz
0489人間七七四年
2013/06/14(金) 09:08:29.76ID:gWY/UrM40490人間七七四年
2013/06/14(金) 12:04:33.29ID:QDY9rtk10491人間七七四年
2013/06/14(金) 18:41:52.96ID:u9TOWBaL0492人間七七四年
2013/06/14(金) 19:49:27.85ID:QDY9rtk1たしかにそういうことはあるかもしれないね
禅も無善無悪なとこあるし
0493人間七七四年
2013/06/15(土) 02:43:37.53ID:opU4Q7H/俗世にまみれた仏教に魅力を感じない
0494人間七七四年
2013/06/15(土) 06:04:49.15ID:Qs0DfyBLそもそも日本の仏教は
謎のマジカルブッダパワーで災害・疫病から国を守ろう
というのがコンセプトだからな
僧侶は呪術師系公務員という扱いで
悟りに到達するために戒律守るなんて誰も期待してなかった
0495人間七七四年
2013/06/15(土) 07:43:29.81ID:NnBQlPlZ0496人間七七四年
2013/06/15(土) 07:50:31.89ID:kXba0flvhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
続けるならこっちでお願いします
0498人間七七四年
2013/06/15(土) 13:45:24.80ID:geI8ZKOL嘉明が眠りに就いた後、侍臣は密かに出て行ってこれを見たので、
ただ一人の老人が次室に残るのみとなった。
そこにたまたま目覚めた嘉明が「侍臣らはいずこにおる」と問うたので、
老人は事実を答えた。
これを知ると嘉明は老人に「お前も見に行け」と言った。
――『加藤嘉明公(細野写本)』
0499人間七七四年
2013/06/15(土) 18:27:10.31ID:4n+cmVjc0500人間七七四年
2013/06/15(土) 19:13:56.55ID:7YNrIGDv0501人間七七四年
2013/06/15(土) 19:23:30.66ID:p1LPZbCT秀忠さんとかそれくらいしかねんぞ
0502人間七七四年
2013/06/15(土) 19:27:08.40ID:dvguJODFhttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274087812/424
0503人間七七四年
2013/06/15(土) 19:48:52.94ID:qbbrMiMl勝手に退出した奴は斬首で、注意しなかった
老人は切腹あたりが妥当。
0504人間七七四年
2013/06/15(土) 20:02:48.19ID:qSiYlSlG0505人間七七四年
2013/06/15(土) 20:15:08.71ID:Biuot+vQ0506人間七七四年
2013/06/15(土) 20:27:04.76ID:VI93AqAZ加藤嘉明は戦場での猛将っぷりみせつけてるし天下人が移り変わる中で藩存続させた姿を
家臣は間近で見ているわけだからそんな心配は無いだろ
まあ息子はなにかと父と比べられて舐められやすくはなっただろうが
0507人間七七四年
2013/06/15(土) 20:30:02.80ID:GVF5T2t50508人間七七四年
2013/06/15(土) 21:16:55.04ID:v0gfl6Zx抑えつけると反発する人間もいるからなあ
正解はないでしょ
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