戦国ちょっと悪い話34
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0001人間七七四年
2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0467人間七七四年
2012/11/22(木) 22:36:02.02ID:R4HQtNgt0468人間七七四年
2012/11/22(木) 22:45:44.31ID:jkNr+Exv0469人間七七四年
2012/11/22(木) 23:06:54.70ID:V6DmeAAv好き好んで呂布とか関羽とかにケンカ売るより絶対勝てそうな文官っぽいの狩って手柄にするほうが生き残れそうだもの
狩れそうもないなら畳で畳み掛けてから種子島で穴だらけにするなり工夫せにゃならんけど
0471人間七七四年
2012/11/23(金) 02:14:30.90ID:dFOR1EtY戦目付がしっかり見てる
0472人間七七四年
2012/11/23(金) 06:53:10.56ID:dl9dHUF/0473人間七七四年
2012/11/23(金) 09:47:50.09ID:Ol09G7q6薩摩国ではちぇすと・すてがまりが深刻化しており…
0474人間七七四年
2012/11/23(金) 10:37:57.13ID:ZTR2EY3J0475人間七七四年
2012/11/23(金) 16:01:33.05ID:PKSClC2sいや、そりゃ強敵倒すよりは評価低いだろうけど
一定の地位のやつ倒せばそれはそれで評価上がるでしょ
0477人間七七四年
2012/11/23(金) 17:22:39.10ID:nNaCNMWS0479人間七七四年
2012/11/23(金) 18:22:09.21ID:nvVEh4UF凄すぎるだろw
0480人間七七四年
2012/11/23(金) 19:58:25.93ID:Q0PWAsmz「お、あいつ、いい甲冑着てるがヒョロっとしてて腕っ節はなさそうだな。
さしずめ筆より重い物は持ったことがないってクチか?もらった!」
なんつってうっかり挑みかかったらこれが釣りで、実は百戦錬磨の返り討ち
職人でした〜、なんてこともないとは限らんからな
0481人間七七四年
2012/11/23(金) 20:08:30.95ID:38qBCV/1戦国時代後期、ルソン(ルソン島、現フィリピン)に日本人町があったという事は割と有名であるが
その開設の経緯というのは決して穏やかなものではなかった。
天正18年(1591年)9月、豊臣秀吉は原田孫七郎を使者にしてルソンのスペイン総督府に対して入貢を要求した。
スペインからすれば何とも屈辱的な出来事であったが当時のスペインはアマルダの海戦で無敵艦隊が敗れるなど
既に衰退期に入り始めていたため、報復などの行動は取らずこれをスルーした。
しかし、翌年に秀吉が朝鮮出兵を実行に移したことで秀吉のルソン侵攻も無いとは言い切れない情勢になると、
スペイン総督府は現地にいる日本人たちが有事の際に日本側に付くことを警戒して、
当時ルソンに住んでいた日本人をマニラのディオラ地区にまとめて強制移住させた。
これがマニラの日本人町の始まりであったと言われている。
0482人間七七四年
2012/11/23(金) 20:13:30.58ID:a2c6DmNE0483人間七七四年
2012/11/23(金) 20:19:19.58ID:LnXJOezq直線で行くのは遠そうだよなー
0484人間七七四年
2012/11/23(金) 20:21:51.57ID:YGa+HmrI0486人間七七四年
2012/11/23(金) 21:45:06.68ID:fY8xBBsI八つ当たりで全然関係ない他のスペイン人の家を刀振り回して襲撃する
とか普通にやる蛮族どもなので隔離は妥当
0487人間七七四年
2012/11/23(金) 22:18:50.69ID:X2nhYk3I小田原攻略に失敗し退いた景虎に対し、成田長泰が反旗を翻した。
ところがこの時厩橋城には、成田長泰の次男の小児と、成田家家老・豊島美作守の二名が、
景虎への人質として置かれたままであった。
景虎が厩橋に帰城する前日、城の夜番を勤めているかせ者(名字を持つ下級の侍)が一人やってきて、
豊島を物陰に呼び出して囁いた
「豊島殿、あなたは成田長泰の御別心のために、明日には切腹させられるともっぱらの噂です。
そういうことですが、私はあなたの御命をお助けしてもいい。
あなたは忍に帰れば、五千貫程の大名だと聞いています。
…私に三十貫の所領を与える気はありますか?」
この言葉に豊島は大いに驚き
「それは何よりも易き事なり!」
と、この夜番の者と深く語らい、三十貫の所領を与える書状を書き与え、「ひとえに頼む」と
協力を依頼した。
夜番の者大いに喜び、馳せめぐって川船などを置き様々な準備をし、帰ってくると
豊島を夫男に変装させ、熊手などを背負わせて、城から出そうとした。
この時豊島は
「成田の御子息もどうにかして一緒に落ち延びさせたい。」
と言ったが、夜番の男は
「美作守殿一人を落とすのさえ大変なことです!その上御子息のことは、父である屋形(成田長泰)
ですら捨てて反旗を翻したのです。そうである以上是非に及ばず。御子息はここに残して、我々は
退きましょう。」
そう言われたため、成田の次男が寝入った隙に、豊島は夜番の者に付いて番所を忍び出て、
船に乗り早々に忍へ帰った。
成田の次男は豊島がいなくなったことに気が付き、後を追って外に出て探したものの見つからず、
そうしている内に追手が迫ったため川に飛び入り、そのまま空しく亡くなられたという。
さて、豊島美作守は忍へ帰ると自分の家にも入らず、先ず息子の左馬助を呼び出し、城に使いを
立てさせた。その言上はこうである
『私は数度の忠孝を立て、更に一度の不忠もありませんでした!それなのに何故、私を捨て殺しに
為されようとしたのか!?甚だ以て口惜しい!
この上は小田原へ参り、氏康殿に奉公仕ります!御暇を申し上げる!』
そうしてまさに打立とうとしている所を、成田長泰の息子の五郎が城から駆けてきて豊島を呼び止め
「誠に代々の家老である事と言い忠節といい、お主の言うことは全て、道理至極である」
と謝罪したので、仕方なく豊島も忍に帰り、元にように家老に復帰した。
そしてあの夜番も取り立て、約束通り三十貫の所領を与えた。
しかし、この時の恨みにより、後に豊島美作守は成田長泰の子息・氏長と一味して、長泰を
追放したのだという。
(關侍傳記)
成田長泰に見捨てられた家老、についての逸話である。
0488人間七七四年
2012/11/23(金) 23:17:17.02ID:LnXJOezq慌てて逃げ戸惑っているうちに堀に落ちて死んだ次男が憐れだなー
0489人間七七四年
2012/11/24(土) 07:46:09.28ID:Nv1NUoo1戦国の立身出世は無法地帯だ
0490人間七七四年
2012/11/24(土) 08:15:52.70ID:fOzuw8R10491人間七七四年
2012/11/24(土) 09:03:26.74ID:n6A74ZEw0492人間七七四年
2012/11/24(土) 09:21:23.34ID:2Sp792xX0493人間七七四年
2012/11/24(土) 09:37:47.42ID:u6/4nlA+しっておるのか半兵衛!
0494人間七七四年
2012/11/24(土) 10:01:50.61ID:iTkx5WcK0495人間七七四年
2012/11/24(土) 10:02:21.20ID:iTkx5WcK0496人間七七四年
2012/11/25(日) 03:07:57.31ID:JRdbPDlrttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3382.html
0498人間七七四年
2012/11/26(月) 18:41:29.94ID:VSIyx/om見ても覚えず、学問・講習の筋を習っても、忘れ果てては何の役に立つだろうか?
人と近付きになっても、一度ばかりではその名前も顔も覚えられない、という例は多い。
記憶力が強いというのは、人の羨むことである。
青山伯耆守忠俊は記憶力に非常に優れ、旗本・小身の輩まで、一度その名を聞きその顔を見れば
能く覚えて、再び会った時には、必ずその名を呼んで挨拶をした。
その様であったので青山も自分の物覚えの良さを自慢していたが、ある会合において、
一座のものから青山に
「真似ようとしても出来ないことだ。有り体に言って中々及ばないことです。」
と声をかけられると、青山これに対し
「だいたい物覚えなどというものは、努力次第でどうにか成る事ですよ。」
と言い出した。これを聞いて同席・末座の人々、口をそろえて
「稽古によって出来る事なら、是非習いたい!」と、その答えを所望すると、青山は笑いながら
「意地がキレイか、意地が汚いかという事です。」
という。一座の人々困惑し、「そう言われても、全く理解できない。」と言えば青山
「されば、である。あなた達も、御三家・国持大名などの顔名前はきっと覚えているでしょう?
しかし小身の者たちに対しては侮っているから、その名も知りません。
私は末々まで、人であることに替わりはないと、平等に考えているので、能く覚えるのです。」
この言葉に一座のもの、皆感じ入った様子であった。
と、この場の遙か末座に、未だ無官の、若き日の知恵伊豆、松平伊豆守信綱があった。
彼は一人、青山の答えに感心した様子も見せずに嘯いていた。
青山はこの信綱の様子をいち早く見て取り、彼の方を見て声をかけた
「どうした!そこに居る小癪仁はどう思うのか!?」
これに信綱、冷然と
「…私の考えとは違う了見です。感じ入る所までは行きませんね。」と言う。
青山「では、お主の考えを聞きたい!」と、信綱の話を聞く姿勢を見せる。
すると信綱、少し進み出て
「太陽・月の事はきっと知っておられるでしょう。では、その他の星の名、星座の名など、
それをすべて覚えていらっしゃいますか?」
青山はこれを聞くと「どうやってすべての星の名を究め知ることが出来るだろうか?
天文の家であっても、細かな星は粟三斗分の数ほどもあると言っているが、それでも尚
具体的な数はわからないのだ。そうであるものを、どうしてその名を知ることが出来るだろうか?
この答えに信綱
「さて、あなたもそうお考えになりますね。
例えば、私のような愚かなものであっても、御三家は勿論、国取り大名も数が少ないので、
日月・五星・二十八宿と同じように、覚えるのが楽です。
しかし小身の衆は天の星の数よりも多いほどですので、どうして覚えられるでしょうか?
伯耆守殿のように、生まれつき記憶力の良い人には、そういったものも覚えられるのでしょう。
あなたがどう申されても、自分の意地の清濁とは関係ないことです。」
これには流石の青山伯耆守忠俊も閉口してしまったそうである。
ちなみに、物覚えには少しはコツがあるらしいよ!(物を覚ゆるは少しは傅も有る事とか)
(武野燭談)
青山忠俊と知恵伊豆の、記憶力についてのお話。
0499人間七七四年
2012/11/26(月) 20:55:34.56ID:luN+5ubm0500人間七七四年
2012/11/26(月) 21:16:46.67ID:A9QZagF9江戸時代にこんな奴いる訳ないだろうが
0501人間七七四年
2012/11/26(月) 21:21:01.19ID:VSIyx/omちなみに原文
『我等は末々までも人に替りなき處を考へて、平等に存ずる故に能く覚え候』
武野燭談は宝永6年(1709)成立
0502人間七七四年
2012/11/26(月) 21:25:32.97ID:T7w6fXkLの53p見たらそのまんま書いてある
0503人間七七四年
2012/11/26(月) 21:33:57.24ID:Z47zLL3B表現としてはそうおかしくないんでないの
0504人間七七四年
2012/11/26(月) 21:54:09.00ID:luN+5ubm0505人間七七四年
2012/11/26(月) 21:59:08.26ID:MtgoaPV4口で焼き味噌垂れる前と後に権現様と言え!
こうですか?
0506人間七七四年
2012/11/26(月) 22:34:59.64ID:fv8Yc8Y/0507人間七七四年
2012/11/26(月) 23:33:23.45ID:/sxQ+pTx0508人間七七四年
2012/11/27(火) 00:54:18.38ID:/cGhAlBG人類平等という思想と社会秩序のための階級格差は別なのだ
05091/2
2012/11/27(火) 20:02:32.43ID:/gAGb3HT成田長泰は71歳の老年と成り、子息氏長が成人したというのに、彼に家督を譲らず、常々色を好み酒に長じ、
城外に別荘を建てて、小筑という女を上方から呼び寄せ寵愛した。
家老や一門の者達、これを諌めたものの聞き入れようとしなかった。まさに老醜である。
このような状況の中
成田長泰に見捨てられた家老
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7055.html
↑これで危うく見殺しにされかけた豊島美作守は長泰への恨みを忘れておらず、氏長、及びその母に
申し上げることには
「長泰様は老体の御身でありながらあのような無行儀の作法、御一門も他家も、嘲り疎み果てております。
この時に、私は皆々と相談し、大殿を無理に隠居させられるように才覚いたし、若殿を世に立てたいと
考えているのです!」
これに母親も氏長も同意し、豊島の計画に参画した。
そんな陰謀が起こっているとは知らず、成田長泰は梅阿弥という同朋衆一人を共とし、妾の小筑の元へ
出て酒宴していた所、成田一門家中、豊島に賛同し、重臣である小田伊賀守を始め、豊島左馬助、
別府兄弟といった人々は忍城に集結し、成田長泰を城に入れないために門などを皆閉じた。
恐るべき嫌われっぷりである。
帰ってきた成田長泰が見たものは、完全に閉じられ自分を拒絶する忍城であった。
が、この成田長泰は只者ではなかった。
彼は水落の桶が城内に繋がっていることを知っており、特殊部隊のごとくそこに潜りこんだ。
長泰に続いて梅阿弥も桶を潜った。
「大殿が桶をくぐられた!」
05102/2
2012/11/27(火) 20:03:08.44ID:/gAGb3HT槍を構え待ち構えた。と、潜ってくる長泰の姿が!十兵衛は一気にこれを突いた!
が!成田長泰は塚原卜伝の第一の弟子であった。彼は兵法の達者であり、桶の口から突かれた槍の刃を、
口で噛み止め受け止めたのだ!
奇妙な手応えに十兵衛、槍を引きぬく。すると
『ズザザザザザザザザ!!! スポッ!』
槍の穂先を咥えて成田長泰が、桶口から引っ張りだされた!槍で大殿を釣ってしまったのだ!
藁で穴の中の土蜘蛛釣り上げたような、あの感じである。まあこっちは釣りたくて釣ったわけではないが。
三友十兵衛はこれに当然ながら驚愕し、さらにその後から梅阿弥も出てくるとその場から逃げ出してしまった。
しかしそれを誰が攻められるだろうか?
成田長泰は、あまりのことに硬直したその場の者達を蹴散らし本丸に入り、息子長氏を発見すると
たちまちに捕らえたちどころに殺そうとする!城内の者達はこの猛獣か悪鬼のような老人(71歳)に
どう対処していいか解らず右往左往し、捕縛された氏長も死ぬ覚悟を決めた。
と、ここで長泰、何故か述懐を始めた
「しかし、氏長がこのように歳たくるまで、家督を渡さないことについて腹立するのは仕方のない事だ。
されども私は、かつて城攻めに失敗した盃尾を攻め落として後に隠居すると心に決めていたのだ。
それがあれこれと引き伸ばしに成り、このような親子の不和になったこと、口惜しき次第である…」
などと嘆きながらやっぱり氏長を殺そうとした、その時!
「まてまてまてー!!!!!」
現れたのは成田家の菩提寺・立圓寺の長老!彼はこの親子の紛争への扱いを入れに来たのである。
長老は先ず(実に賢明なことに)長泰を無理やり引き立て、立圓寺に入れた。そのお供に何故か
今回の陰謀の主犯・豊島美作守まで付き合わされた。お供の者達が「氏長様が御父君に向かって
このような例の少ない反逆を為されるなど、天道に背く行為です!」とさめざめと泣いている中、
長泰は豊島美作守に対し「美作守、お前は嘘泣きしなくていいぞ。この逆心、お前の仕業であろう!」
と言ったとか。
そうしている内に氏長が、やっぱりあんな邪悪な父親は討ち滅ぼさねばならないと軍勢を立圓寺に向けたが、
この時は立圓寺の僧侶たちが皆鉄砲・槍・刀で武装し迎撃の体制をとったため攻めこむことが出来ず、
親子の紛争は降着。ここに小田原の北条氏が介入する動きを見せたことで、成田長泰もここでようやく、
このままでは北条に成田家は併呑されると危機感を覚え、氏長に家督を譲り自らは出家した。
(關侍傳記)
成田家の親子不和、についての逸話である。
0511人間七七四年
2012/11/27(火) 20:18:29.37ID:eahOQBlN0512人間七七四年
2012/11/27(火) 21:19:03.07ID:LWIGGGqm0513人間七七四年
2012/11/27(火) 21:20:17.46ID:7A9ljxOf0514人間七七四年
2012/11/27(火) 21:45:36.79ID:cXcv4PNSニッカリと笑いかけてきた。
この男はこんな夜中に若い女がいる訳が無い、これは物の怪の類に違いないと思い
一刀で女の首を刎ねた。
翌日、同じ場所を通ったが女の死体はみあたらず、そこには首の無い地蔵があったという。
この男の刀は備中青江貞次作のもので以後は「ニッカリ青江」と呼ばれたという。(常山紀談)
0515人間七七四年
2012/11/27(火) 21:47:09.43ID:CgL4870Aこっちには異説が
0516人間七七四年
2012/11/27(火) 21:55:55.27ID:cXcv4PNSニッカリ青江の話はいくつかパターンがあるが
今、丸亀市立資料館にあるニッカリ青江は脇差なんだぜ
http://www.city.marugame.lg.jp/institution/culture/01.html
0518人間七七四年
2012/11/28(水) 08:32:18.16ID:XcCkf9pN結局、北条が動きを見せたことで隠居したのか
道徳心がとか武士の道がとかそんなのカンケーねぇ!って話だなw
しかも坊主が出てきても話がややこしくなってるだけだし神も仏もねー
0519人間七七四年
2012/11/28(水) 11:30:28.26ID:A7PgpirE0520人間七七四年
2012/11/28(水) 18:55:08.62ID:sbemlcRK0521人間七七四年
2012/11/28(水) 19:30:19.40ID:vZJ3EBrF夜、神埼の長者林を通りかかると、
突然に大男が立ちふさがり、
「裸になり、持っている物すべて置いていけ」
と言うと同時に、大力で相田が刀を抜けぬよう両手首を抑えた。
相田は、
「裸になるから、どうか命だけは助けてほしい」
と力なく言うと、大男は両手を放した。
すると相田はまず大小を大男に渡し、
つぎに衣服をいそいで脱ぎ渡し、
おそるおそる立ち去る様子を見せながら、
すれ違いざまに、大男が取り上げた刀の柄を握り、
立ち去る方向に抜き、そこから反転し袈裟がけに斬り殺した。
相田はそれから神埼へ行き、事の次第を届け出た。
何のお咎めもなく済むかと思われたが、
しばらくしたある日、鍋島紀伊守様が佐賀城へお越しになり、
「わたしは足を一本折ってしまいました」
と、いきなり勝茂様に申し上げた。
普通に歩行しているが、なぜそんなことを言うのかと勝茂様が尋ねると、
「普段から可愛いがっていた、
数人分の大力を持ちよく働く駕籠かきがいたのですが、
それを中野内匠のところの者に斬り殺されたのです。
ですからすぐにその者に切腹をお命じください。」
と訴えた。
勝茂様は事情を紀伊守様に説明したのだが、
最後はやむなく、相田に切腹を命じることになり、
これは何とも残念なことであった。
切腹の当日、中野一門が総出で相田の見舞いに訪れた。
相田はそれを殊更喜んで、
「わざわざのお見舞い、誠にかたじけなく思います。
お礼に、日頃練習していた仕舞をお目にかけましょう」
と、子供たちを呼び拍子をとらせ、
ゆうゆうと仕舞を舞い終わると、
甥の相田権兵衛が介錯をつとめ最後を遂げた【葉隠】
0522人間七七四年
2012/11/28(水) 19:34:29.08ID:zt5JlkmR0523人間七七四年
2012/11/28(水) 19:37:58.99ID:aCLMo1m90524人間七七四年
2012/11/28(水) 19:41:46.70ID:wAyX7EF70525人間七七四年
2012/11/28(水) 20:33:19.68ID:hxqGvG8Vその因縁は彼らの子弟にも、不思議に受け継がれていた。
長宗我部元親の後を継いだ盛親が、関ヶ原で西軍に付き、改易され京で寺小屋の師範をしていたこと、
これは有名である。
一方、仙石秀久は東軍に付き、彼の仙谷家は近世大名として生き延びた。
ところが、である
秀久の跡継ぎである仙石秀範は関ヶ原において、父とは違い西軍についた。
そのため戦後、秀久より廃嫡・追放処分を受けた。
こうして仙石秀範は京に牢人し、奇しくも彼も、寺小屋の師範となった。
そして大阪の陣が起こる。仙石秀範も、長宗我部盛親と同じように豊臣方として大阪城に入城した。
この時秀範は豊臣秀頼より、大名格として三万石ほどの所領を与えられたという。
しかし夏の陣で豊臣家が崩壊すると彼は行方不明となる。討ち死にしたとも、丹波に逃亡したのだとも伝わる。
そして、秀範の息子である長太郎、この時十歳は伯耆で捕らえられ、閏6月22日、乳母の子とともに
六条河原で斬首、晒し首とされた。
関が原後、不思議にも長宗我部盛親とほぼ同じような人生を送った、仙石秀久の息子についての話である。
0526人間七七四年
2012/11/28(水) 20:37:49.50ID:mC8QOvN40527人間七七四年
2012/11/28(水) 21:00:15.73ID:7gcmoWU50529人間七七四年
2012/11/28(水) 21:12:46.68ID:hxqGvG8Vうわ、なんで耳川なんて書いたんだろw;
>>525
1行目
? 耳川の戦い
◯ 戸次川の戦い
申し訳ない
0530人間七七四年
2012/11/28(水) 21:13:25.17ID:eYxSm6Lj0531人間七七四年
2012/11/28(水) 21:44:32.63ID:sbemlcRKそれとも柴田勝家が上杉謙信に敗れた戦いだったかな?
0534人間七七四年
2012/11/28(水) 23:41:47.33ID:xvXPbHwF詫びとしてちょっとすてがまり要員として井伊勢に吶喊してくる
0535人間七七四年
2012/11/28(水) 23:46:25.07ID:HGwaImoa0536人間七七四年
2012/11/29(木) 00:12:54.99ID:GxJjnsEb柏木源藤さんか
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6524.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6519.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-858.html
0537人間七七四年
2012/11/29(木) 08:24:34.16ID:ad3LN7d1クマーを釣ったのが田手畷
センゴクと信親と十河さん釣ったのが戸次川
0539人間七七四年
2012/11/29(木) 09:44:27.85ID:CG4P9gBD0540人間七七四年
2012/11/29(木) 09:59:31.59ID:/mCku+bg島原の戦いは沖田畷
0541人間七七四年
2012/11/29(木) 11:08:37.38ID:zK9ZsB660542人間七七四年
2012/11/29(木) 11:34:54.86ID:5nEj0bsG津軽信建の嫡男である熊千代はこの年のある日に祖父為信の元へ遊びに行った。
その折にどうしたことか、囲炉裏の中へ真っ逆さまに落ちてしまい、顔から頭にかけて、月代まで焼けただれてしまったといわれる。
熊千代ののやけどは為信によって秘密にされていた。しかし、噂が信建の耳に入ってしまう。信建は烈火のごとく怒った。
「熊千代をすぐさま黒石から堀越へ連れて来い」と、家臣に命じた。
この使者に選ばれたのが、天藤家の衛門四郎、小太郎、佐衛門四郎、甚右衛門の四兄弟(津軽家譜草案)であった。
天藤兄弟はさっそく黒石館に駆けつけ、為信に目通りした。信建の意志を伝えたが、為信は拒絶した。
やけどの熊千代を見れば信建が何をしでかすか分からないからである。
しかたなく四人は堀越城へ帰還、その旨を信建に報告した。しかし、逆上している信建は、
「必ず連れてもどれ」と重ねて厳命。兄弟は再び黒石を訪れたが、為信は依然として連れ帰ることを許さなかった。
兄弟は板ばさみとなり、しばらくは黒石館で粘ったものの、ついにはあきらめて堀越へ帰ることにした。
ところがその途中、ちょうど天藤家の前にさしかかった時、四人は信じられないものを見た。
家族が皆殺しに遭い、その遺体を縁者、知人らが葬ろうとしていたのである。
仰天して訳を聞くと、四人の帰りが遅いので、激怒した信建が斬り殺させたのだという。
兄弟は呆然し、怒った。
0543人間七七四年
2012/11/29(木) 11:36:14.04ID:5nEj0bsG我々の家来としての命運もここに尽きた。家族を皆殺しにするほどの主君だから、我々も極刑に処されるだろう。
しばり首になるよりは、場内へ斬りこみ、命を懸けて諌言しよう。 それから腹を切っても遅くは無い。むしろ家族への供養になる。」
四人は堀越城に着くと、喚声をあげて無二、無三に斬り込んだ。黄昏時だったという。
不意をつかれた城内の武士はたちまち斬られて、四人は信建の居間の近くまで迫った。
しかし、ここで「三代相伝の主君へうらみをなし奉らんことは、臣たる者の道にあらず。」と剣先が鈍った。
そこで、この上は、日ごろ奸臣と苦々しく思っていた奴ばらを討って取り、最後の思い出とするべく城内を発った。
一方の津軽信建は居間にいた。騒ぎを聞いて仰天し、乱入者どもが近づくにつれて、色青ざめ、立ち尽くすばかりであった。
とうとう、女中のすすめに従い、長持の中にかくれ、女どもにかつがれて居間を脱出、四兄弟が城を出るまで離れたところに隠れていた、とされる。(永禄日記)
さて、城外へ出てきた天藤兄弟は白取瀬兵衛を襲うも、下人どもがかけつけたため、撤退。
次に森岡信元を暗殺した梶仁右衛門方を襲撃し、仁右衛門の母を惨殺。夜明けの頃だったという。
この後も四人は散々に暴れ回り、奈良岡万助が討たれ、他にも怪我人が十数人いたという。
徹夜で暴れた天藤兄弟は疲れ、近くの空き家に入り休憩した。
この頃には騒動を聞いた津軽家中の諸士が天藤兄弟の立てこもる空き家を包囲。
双方とも激しい攻防戦をするも、多勢に無勢。
東海幸義が向かいの家の屋根にこっそり登り、雁股の大矢を放ち、矢は衛門四郎の首を貫き、二本目の矢は小太郎の胸板を射通し、二人は討たれた。
これを見た左衛門四郎と甚右衛門は立ち腹を切り、最期を遂げた。
家臣が首を持ち帰り、ことの次第を言上すると、信建は怒りにまかせて首を獄門にかけたという。
津軽の官製史書『津軽一統志』もさすがに哀れと思ってか、一件っを記したあと、「天藤が横死せし、不運のほどこそ浅ましけれ」と結んでいる。
以上、「続・つがるの夜明け」から
ちなみに熊千代のやけど跡は治らず、醜いままであったのも一因となり、津軽氏を継承せずに為信三男で関ヶ原合戦時に家康本陣にいた津軽信枚が二代目を継承することとなった。
0544人間七七四年
2012/11/29(木) 14:19:17.31ID:ebhULvH2信建が豊臣に近かったことと為信よりも先に亡くなったことで、この系統は没落するんだよな
0545人間七七四年
2012/11/29(木) 18:05:53.89ID:iGTjITmr奮戦して敵に目に物見せてやろうと、五郎入道正宗がうった乱刃の
抜けば玉散るばかりの太刀三尺二寸を軽々と掲げ、多勢の中に打って出た。
隆豊は活人剣、殺人刀、向上極意の妙剣、十字手裏剣、沓ばう身などの
兵法の術を尽くして斬り廻ったので、もはや手先に向かう兵もいなくなった。
隆豊は「もう相手になる敵もいないか。雑兵なぞを太刀汚しに殺しても仕方ないな」
と立ち帰り、仏前で鎧を脱ぎ短冊を一枚取り出して
「見よや立つけぶりも雲もなか空にさそひし風のあとも残らず」と辞世を残す。
黄門定家卿の末流とはいえこのような時に歌を詠むとは思いもよらなかったが、
歌道に入魂したのでこのように口ずさんだ。優美な心である。
かくて隆豊は腹を十文字に切り、返す太刀で胸もとを突き立て夕の露と消える。
その死を惜しまない人はいなかった。
――『室町殿物語』
0546人間七七四年
2012/11/29(木) 18:31:49.44ID:MIYs+5wb0547人間七七四年
2012/11/29(木) 18:59:30.64ID:CG4P9gBD0548人間七七四年
2012/11/29(木) 19:22:44.14ID:oQXW4n1B一条さんとこと同じ
0549人間七七四年
2012/11/29(木) 19:34:57.38ID:oQXW4n1B中国にはそのタイプの英雄が多いな。
まあ、広大な大陸だから逃走しながら闘争する戦術使いやすいのだろうな
0550人間七七四年
2012/11/29(木) 19:42:51.96ID:ynFq+kSp0552人間七七四年
2012/11/29(木) 21:42:50.99ID:bwSx+5J3永禄十二年(1569)、武田信玄と北条氏康が三増峠で合戦に及んだ。
結局戦いは信玄方が勝ったが、武田方の殿として残った三島一族は北条方の追い討ちにあい、味方から引き離されてしまった。
三島勢は追撃を振り払い、なんとか鳶尾山のあたりまで落ち延びた。
「ここまで来ればもう少しで甲斐の国ざかいぞ!」
落ち武者たちはお互いに励ましあって夜の山道を進みつづけたが、突然一人が叫びだした。
「う、海じゃ!」
指さすあたりを眺めると、確かに海のようだ。見渡す限り一面に白い波がきらめいていた。
当然、甲斐に海はない。
「で、では、われらは道を間違え小田原の海に出てしまったと言うのか」
落ち武者たちは呆然として顔をみあわせた。
故郷の山が近いと、心がゆるんだあとだけに、もはや一歩も踏み出す気力は無かった。
「もはやこれまで、敵の手に掛かって死ぬよりは……」
と、一人が腹に刀を突き立てると、もう止めるものもなく、次々とそのあとを追って死んで行った。
……しかし、落ち武者たちが見たのは海ではなかったのである。
月の光をうけて、一面にしろじろと揺れている蕎麦の花を、海と間違えたのだった。
わずかに生き残った落ち武者の一人からこのことを聞いた村人たちは、あまりの痛ましさに言葉もなく、それから蕎麦づくりをやめたのだという。
今でも厚木の市島では、蕎麦はつくらない。
『乱世に生きる 日本の民話8』より
本棚をあさってたら面白そうな本を見つけたので一部を編集して抜粋してみた。
蕎麦の花を海(川)と間違えた、って話は上杉謙信が川中島から撤退する時にもあった話だけど、これは逸話のテンプレなのかしら
0553人間七七四年
2012/11/29(木) 22:08:21.68ID:1uUTXw8I>「ここまで来ればもう少しで甲斐の国ざかいぞ!」
いやいやいや、まだまだ全然遠いから、
険しい丹沢つっきって直線でも国境まで20km以上あるから(´・ω・`)
0554人間七七四年
2012/11/29(木) 22:28:36.25ID:Why8UaWw0555人間七七四年
2012/11/30(金) 01:14:07.14ID:Ba2DCcCh0556人間七七四年
2012/11/30(金) 06:30:43.10ID:szDOamf6史料的に、とうもろこしが伝来するのはこの10年後だけど
0557人間七七四年
2012/11/30(金) 09:09:24.71ID:pJDwcquZどんだけ遠くから見てるんだ
0558人間七七四年
2012/11/30(金) 11:05:56.64ID:2tcsPcxhこういう錯覚を起こしても不思議ではないな
0559人間七七四年
2012/11/30(金) 12:18:44.93ID:y8PtCFIH極限状態下で今までの苦労が無駄と判明したら心折れるわ
厚木に出たなら実際に道間違えたっぽいし
0560人間七七四年
2012/11/30(金) 13:51:07.33ID:k53uNVz4城が燃えていると勘違いして自害した白虎隊士も近い感じかね
0562人間七七四年
2012/11/30(金) 15:44:41.78ID:8UXR3/YH0563人間七七四年
2012/11/30(金) 15:50:43.87ID:gG4Vpwu30564人間七七四年
2012/11/30(金) 17:17:15.99ID:IYlXkk4M『日本の皇帝で、「コンバコンドノ(関白殿)」と称する者は、薪売りの卑しい身分から今の身分へと
暴力を以ってのし上がってきたもので、現在はその身分に尊大に安んじています。
彼は反乱の恐れのあるところには、身分は低いが彼の信頼するものを統治責任者として送り込み、それまでの
血統と相続故に支配していた者達を殺害、あるいは幽閉します。
また彼が領地、あるいは何らかの地位に誰かを据える際には、その者の子、あるいは兄弟、又は他の人質を
自分の元に取ります。
このようにしてすべての基礎を固め服従させたので、今は国内で何もすることが無くなり、それぞれ兵力五万を擁する
軍隊を3隊作り上げました。各軍は兵糧、武器、弾薬を多量に備えた艦船多数で武装しています。
彼は朝鮮遠征を公にしましたが、朝鮮というのは中国に隣接した屈強で過酷な地であり、遠征しても必ずや
敗北に終わるほど獲得の難しい土地であります。ですから、彼は彼はマニラを攻撃するためわざと朝鮮の名を出し
噂を広めたのだと明らかに推測できます。
何故なら、彼は当地の情報を収集するために放ったスパイ(私がこの手紙を書く3年前に、3〜40人の日本人が
キリスト教の巡礼衣でやって来ました。信心行のため当地の教会を訪問するという名目で、首からロザリオをかけ
たくさんの苦行をしていましたが、マニラ市に隣接する、周囲1.5レグアに及ぶ地帯全体を、海や河口を通って
くまなく歩きまわり、全て偵察して帰っていったのです)の他に、ガスパール(原田孫七郎)とか言う日本人キリシタンが
極めて特異で、またしばしば目立ちました。この男は当地の事情について非常に多くの情報を得、偵察していったのです。
帰国したこの男を、主人であるコンバコンドノは大いに褒め、多くの褒美を取らせ、自分の甥に領国を放棄させた上、
手元の300万金のうち200万金を与えました。
あの男は自らこの遠征にやってくるはずです。戦に勝とうが死のうが、ここに留まるためです。その狙いは
毎年当地から陛下に送られる、多額の金です。
コンバコンドノはそれを聞き及び、当地の征服を企て、その実行を望んでいる、ということなのです。』
フィリピン総督からの、豊臣秀吉の脅威についての報告である。
0565人間七七四年
2012/11/30(金) 17:22:30.98ID:eTJKxE2aそりゃスペインの守備隊なんてカスみたいな人数しかいないだろうけど…
0566人間七七四年
2012/11/30(金) 17:50:00.55ID:PJUFqn7+明から大軍がやってくるわけでもないし、スペイン人追い払うだけならなんとでもなるでそ。
もちろん、その後きちんと統治できるとは、とても思えないけど。
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