戦国ちょっと悪い話34
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0001人間七七四年
2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話33
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姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0567人間七七四年
2012/11/30(金) 18:13:57.18ID:wGHN8sOI鷹狩りに出かけ、一日中遊んで暮らした。同じ時、十河一存の子・孫六郎修理大夫の
次男・七郎兵衛が五十人ばかりで勝尾寺より帰るところだった。
一行が草の深い所の傍を通ると駒形の鷹犬が草原を嗅ぎ回っているところだった。
犬は人々をきっと見て見知らぬ奴だと大いに吠え掛かり、飛びついて噛み付こうとしたので、
小姓が素早い手利きで打刀を引き抜き、犬の細首をずんと切り伏せた。
その後、犬引きが犬の死骸を見つけて仰天し駒形に報せると駒形は「なんたる狼藉だ!
畜生をかように切って棄てるとは、あの野郎め逃がさんぞ!!」と、只一人三町ばかりを
走って一行を追いかけた。追いついた駒形は一行五、六十人の中へ押し入り、
「只今鷹犬を殺しなさったのはどなたですか」と言ったが、侍たちは「いやぁ知らないな」
とばかり言うので駒形は機転を利かせて「犬は畜生ですから別に死んでもよいのです。
ただ、もし噛まれた方がいて痛がっておられるのではと思いここへ参ったのです」と言った。
例の小姓は「ああ、そういうことか」と思って「それがしと主人へ噛みつこうとしたので、
ただ一打ちに致した。あんな癖の悪い犬を飼うなんておかしいですよ」と厳しく言った。
「さてはコイツか…」と感づいた駒形は「おのれも共に畜生道へ行きやがれ!」と言うままに
小姓の細首を宙に落とした。一行は大騒ぎになって傍にいた若侍が刀を抜いて向かったところを
駒形はその右腕を切り落とし、そのまま多勢を切って廻ると近寄る者もいなくなった。
そこへ駆けつけた駒形の侍や勢子三十人ばかりが切り掛かったので、勢子どもも多く切られた。
しかし、かなわないと思ったのだろう、五十余りの侍たちは主を捨てて逃げ出し、遅れた
七、八人が切られてしまった。後に隣郷にも聞こえて「駒形が手柄、修理の孫六郎後を取りける」
と噂になったので暫く世間へ出てこなかった。
――『室町殿物語』
駒形さんは愛犬家なんだなぁ(棒読み)
0568人間七七四年
2012/11/30(金) 18:27:38.41ID:Z1IEIH2n0569人間七七四年
2012/11/30(金) 19:32:14.01ID:Ba2DCcCh0570人間七七四年
2012/11/30(金) 19:44:08.71ID:QGq5E4hF0571人間七七四年
2012/11/30(金) 20:53:09.48ID:8UXR3/YH0573人間七七四年
2012/11/30(金) 21:26:48.41ID:jAQ+L2/w「大阪の大野修理より伊勢神宮の御師(祈祷師)たちに、内々に関東方を調伏するための祈祷が依頼され、
禰宜たちが大勢申し合わせ、大野から多くの金子を受け取り、人形を作り将軍家御父様(家康)などを
呪詛し奉りました!」
「そうか、それはけしからぬことであるな。」
と、勝重は答えたものの、訴えを聞き流し取り調べようともしなかった。
訴人はそれを不満に思い
「これは以ての外の罪であり、早々にお仕置きなさるべき事でありましょう!
もしこれを放置していることが大御所様のお耳に入れば、伊賀守様の罪にも相成りますぞ!」
と言い募った。
これに京都所司代の中にも、訴人に言うことに同調するものが出てきた。
そのため重勝は家康に、この措置についてお伺いを立てた。
家康はこれを聞くと呆れ
「そもそも禰宜・山伏のたぐいが、金子をもらって人に頼まれその様なことをするのは、珍しくもない話だ。
それゆえ、仮に我々が豊臣家より更に多くの金品を渡していれば、その者たちは喜んで、逆に秀頼を呪詛したであろう。
そんな連中の手際で動くような運で、天下の権が握れるものか!
そんな者達の命など奪うまでもない。示しがつかぬというのなら、厳しく叱りつけ追い払えば良い。」
勝重は我が意を得たりと頷き、呪詛をした禰宜たちに伊勢からの追放を命じた。
命が助かったことに彼らは大いに喜び
「誠に寛大なるお仕置きです!徳川家は万代にわたって栄えるでしょう!」
と、口々に言ったという。
(明良洪範)
なるほど、家康の言った通りの者たちであった。
0576人間七七四年
2012/11/30(金) 22:27:18.93ID:IfA6klnT同じ逸話の別バージョン
伊勢大神宮の御師と家康 出典は老談一言記
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4115.html
あとこれも。ソース不記載だけど、ググったら駿河土産が出典らしい
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3740.html
駿河土産の逸話では、追放されずに御咎めなしになってる
管轄から考えると、伊勢の案件だから山田奉行が処理している
駿河土産が出典のバージョンが一番史実に近いのかな
0577人間七七四年
2012/12/01(土) 14:37:03.30ID:Ss79z7lE『今より前には、嘗ては互いに通信したことなしと雖も、礼儀を尽くしてこの書簡をしたためる。
我が偉大なる主君関白は、来年戦争を行わんため中国に向かわんとしている。もし同国が、他の諸国とともに
降伏し貢物を送らざる時は、仮に遠しと雖も、戦士を派遣してその国を占領せいむべし。
これ故に、付近の諸国はみな降伏して命令に服従している。
貴殿の富める国に対しても、また戦争を行おうと考えていたが、原田(孫七郎)が関白の顧問会議の一員である
何某に告げ、同人が関白に告げた所によれば、もし日本国およびその宮廷において決定したるところを通知せば、
必ず貢物を贈るべきが故に、戦を行う必要なしとの事であった。
右の意見に従いて、この書簡を贈る。
私は当国の大官の一人であり、我々が速やかに相まみえられるよう、この書簡の如くいたせば、
貴国は安全に眠れることを得るであろう。
恐れること無く、躊躇すること無く、私が派遣する人物、すなわち私の通事に一切の秘密を語れ。
適当なる、敬意を表す。
天正十九年九月十一日。シャウリュウキュウ発(地名らしい。不明)。執事』
(異国往復書簡集)
この「ティアン・キット侍従」なる人物、浅野長吉、すなわち浅野長政であったらしい。
長吉→チョーキツ→ティアン・キット、となった模様。
大陸出兵と同時期に進められていた、豊臣政権によるスペイン勢力への圧力の一端である。
0578人間七七四年
2012/12/01(土) 14:50:54.49ID:63HARdOs0579人間七七四年
2012/12/01(土) 15:29:29.94ID:3tkmdVk/0582人間七七四年
2012/12/01(土) 15:52:14.30ID:967gJXn3天正十七年(1589)二月二十五日の、聚楽第落書事では秀吉は、警備責任者17人、容疑者・関係者60数人を処刑している
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5904.html
一方、家康は京都で『御所柿は独り熟して落ちにけり木の下に居て拾う秀頼』という落書が出た時、板倉勝重に
「落書きは禁止するな。はしたないことだが私が見て参考になることもあるだろうからそのままにしろ」
と命じている。
0583人間七七四年
2012/12/01(土) 18:01:06.58ID:669Qsn1+0584人間七七四年
2012/12/01(土) 18:21:19.91ID:XRs2qPBY0585人間七七四年
2012/12/01(土) 19:30:47.01ID:ODu+rC7g佐久間は怠け者だと罵倒されたし安藤は大昔の謀反容疑が理由だったからな
要するにおまえは気に入らないから追放すると言うことだからな
天才だから人の気持ちがわからなかったんだね現代でもそういう上司がいるが
0586人間七七四年
2012/12/01(土) 19:33:55.00ID:dlP8Q0d40587人間七七四年
2012/12/01(土) 19:34:50.19ID:Ss79z7lE信長の実際の性格→俗説の家康の性格
秀吉の実際の性格→俗説の信長の性格
家康の実際の性格→俗説の秀吉の性格
こんなイメージ
0589人間七七四年
2012/12/01(土) 19:39:54.21ID:5YiYLZ5M0590人間七七四年
2012/12/01(土) 20:53:22.27ID:ekfVfwoM昔の謀反で追放といえば林佐渡守の方が有名だろ(´・ω・`)
信長の性格の過酷さをあらわすエピというと
塙直政討ち死に後の遺族への扱いだな
明智の謀反にも絶対に影響してるわ
0591人間七七四年
2012/12/02(日) 13:06:03.36ID:3doiYio0佐久間折檻状はまず石山本願寺攻略の遅滞と炎上への怒りが最初にあって
なまじ自分で書いたもんだから途中から筆と勢いが乗っかって書き過ぎちゃった、
て気配が半端ない
一晩寝かせて祐筆に清書させたら内容変わってたんじゃないか、あれ
0593人間七七四年
2012/12/02(日) 14:30:32.51ID:DhGJv2v5ある時、将軍自ら美麗な印籠を求め、忠俊に「どうだ?中々見事なものだろう?」と、自慢げに見せた。
これを手にとった青山忠俊、
「上様にはなんとなさる!!!」
激怒
「御祖父様(家康)は一生のうち、かような印籠を持たれたことはありませぬ!全て長門の黒塗りでありましたぞ!
そもそも印籠などというものは、薬が入れば用が足りるもの。上様のご治世未だ間もない折柄、かような華美なものを
ご自身が好まれれば、皆がこれに習いまする!!」
と、この印籠を庭石に向かって投げつけた!
それでも未だ怒りが収まらなかったか、そのまま庭に出てこれを足蹴にし踏み砕いた!
全て家光の目の前、他の家臣たちもいる前での出来事である。
当然ながら家光はこれに激怒し、即座に所領召し上げを命じたが、忠俊は「こんな事もあろうとは、かねてより覚悟!」
と、嫡男の宗俊を伴い、相模藤沢に蟄居した。
これに対し家光は
「罪をなしたのは忠俊であって、子息には何ら罪はない。従前通り出仕するよう」と、
宗俊に戻ってくるよう伝えたのだが、
「父が勘気を受けたのに、子供だけがどうして栄えられましょうか!」
そう言って出仕しようとはしなかった。
後に家光は大いに後悔し、忠俊に対して再三出仕するように命じたのだが、ついに出仕することはなく、
蟄居のまま一生を終えた。
青山忠俊、将軍の面目を丸つぶしにしてまでの諫言であった。
(駿江雑説弁)
0594人間七七四年
2012/12/02(日) 14:45:40.20ID:u6VZGYqj0596人間七七四年
2012/12/02(日) 15:51:44.29ID:W5qoZGjU0598人間七七四年
2012/12/02(日) 19:03:32.14ID:wM6SK17W慶長13年(1608年)2月、森忠政が統治する美作でのこと。
津山城普請奉行の一人である薗四郎右衛門が今村与一右衛門の屋敷の前を通りかかったところ、
かねてより遺恨のある足軽数人に襲撃を受けるという事件が起きた。
しかしながらこの四郎右衛門も只の奉行ではない。殺されるどころか敵相手に大立ち回りを演じてついには足軽たちを撃退したのである。
主君の森忠政はこれを聞いて四郎右衛門の首尾よきを賞して50石を加増した後、足軽たちを一人残らず処刑した。
(森家先代実録)
0599人間七七四年
2012/12/02(日) 19:09:38.62ID:NAmIn8cp0600人間七七四年
2012/12/02(日) 19:12:34.52ID:dkwSjn/Q0601人間七七四年
2012/12/02(日) 19:16:03.93ID:p39R6qdU0602人間七七四年
2012/12/02(日) 19:20:32.42ID:YUwcE7Qz0603人間七七四年
2012/12/02(日) 19:23:40.81ID:6xDbdqAk0604人間七七四年
2012/12/02(日) 19:47:04.12ID:VPBbHfJr0605人間七七四年
2012/12/02(日) 19:55:14.52ID:ejwx7XgR0606人間七七四年
2012/12/02(日) 20:54:28.56ID:/LHDYjR+今川氏真みたいに、讒言を受けて家臣を誅殺したものの後で罪を撤回し、
讒言した者を罰するけど命は助ける、みたいなことをやってると遺恨が
深まる一方になる
0607人間七七四年
2012/12/02(日) 21:03:12.35ID:71bXYi1H0608人間七七四年
2012/12/02(日) 21:16:18.37ID:nxs0sbJaよっぽどひどい恨みを買ったんだろうけど、何やらかしたんだ?
0609人間七七四年
2012/12/02(日) 21:32:16.43ID:p6ggS3XC・・・ていう幻聴が聞こえたorz
0610人間七七四年
2012/12/02(日) 21:36:55.60ID:WHuJOZktって声が聞こえたような…
0612人間七七四年
2012/12/03(月) 02:06:10.41ID:6mzFXQpn0613人間七七四年
2012/12/03(月) 06:42:39.38ID:B4nuTJbp0614人間七七四年
2012/12/03(月) 10:39:53.93ID:WuGekULZ0616人間七七四年
2012/12/03(月) 12:37:58.85ID:iWZv2K9t0617人間七七四年
2012/12/03(月) 12:41:42.75ID:+CZVJZi60618人間七七四年
2012/12/03(月) 18:02:06.58ID:tVKt69Nz駿河にて塙団右衛門は名高き大剛士と聞いたお万は、
「お子たちに太刀を参らすのは当たり前のことです。
大将の宝とはまさに士であって、それ以上の物はありません」
と、鏡台金として毎年賜る五百両のうち二百両を団右衛門が
流落していた時に与えていた。
「有事の時には剛の者を一人でも愛しき子に参らせたい」
と言っていたのだとか。
大槻磐渓曰く
「化粧に務めてその美を飾るのは婦人の常態である。
その化粧料を捨てて国家のために猛士を養うなど思いもよらぬことだ。
ああ、この母にしてこの子あり。南龍公が勇武絶倫であることは
怪しむに足りないことである」
――『近古史談(常山紀談)』
でも結局団右衛門は…。
0619人間七七四年
2012/12/03(月) 19:06:57.08ID:iMgPW1C60620人間七七四年
2012/12/03(月) 21:10:34.29ID:3KzWe+JKそういう伝手があれば大坂の陣でちょっと活躍すれば取り立ててもらえたのに
0621人間七七四年
2012/12/04(火) 00:07:45.67ID:P2+cHhb7名誉欲だけが人一倍あったんじゃね?
大阪方で暴れまくって死んだおかげで名前が400年後まで残って大正解だな。
0622人間七七四年
2012/12/04(火) 00:24:08.06ID:aonzPXzXhttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1354532641/
お前らの子供の名前は当然、忠興、政宗、家久、鬼武蔵のどれかだよな?
0623人間七七四年
2012/12/04(火) 00:54:32.67ID:+g/9nTeHあと多分政宗ってつけている人は割といると思う…
0626人間七七四年
2012/12/04(火) 01:44:05.08ID:BTuNTrTu0628人間七七四年
2012/12/04(火) 02:31:29.12ID:zdXS89/+おそらく名前負けと人は言うさい
0629人間七七四年
2012/12/04(火) 02:34:53.48ID:CqSua+tS0630人間七七四年
2012/12/04(火) 10:13:38.56ID:PkRKXyoH0632人間七七四年
2012/12/04(火) 16:35:15.94ID:zdXS89/+0633人間七七四年
2012/12/04(火) 17:10:37.33ID:pZhWRVCfつか、子供らしく「奇妙」でいいだろ
茶筅、次、人、お拾、とかもご用意しておきました。
0634人間七七四年
2012/12/04(火) 17:13:31.31ID:+wjTY34W0635人間七七四年
2012/12/04(火) 17:16:19.26ID:pZhWRVCf0637人間七七四年
2012/12/04(火) 17:29:28.97ID:XMiSo4Mt0638人間七七四年
2012/12/04(火) 17:31:17.25ID:3cNd9Dyv0639人間七七四年
2012/12/04(火) 18:52:02.90ID:mUQkG000本多佐渡守と同姓同名の奴を見たことがあるし
0641人間七七四年
2012/12/04(火) 19:36:25.54ID:Y5gPfHjsまさに肥前の熊って感じの恰幅の良い女の子だった
0642人間七七四年
2012/12/04(火) 20:32:44.12ID:lj5ANi5x(この前々日、スペイン領メキシコより来航したビスカイノ一行は、江戸にて将軍秀忠との会見を
成功裏に終わらせていた)
『翌日、栄光ある聖ヨハネの金曜日、我々の使節は随行の兵に隊列を組ませ、聖フランシスコ修道院まで
ミサを拝聴に行き、この町(江戸)で成功を収めたことを神に感謝するように命じた。
つまり、陛下(フェリペ2世)に奉仕でき、日本の皇太子(秀忠)や他の人々には喜んでもらえた以外に、
死者もなく、この町にこの時期よく起きたような流血や不愉快なことは何ら起きなかったからだ。
日本人自身がこれに気が付き、使節に対し、非常に幸運な事だといった。
修道院に向かって歩んでいると、途中に政宗という武士が待ち受けていた。
政宗は奥州国の領主であり、二千人以上の兵と騎馬の人を沢山引き連れていた。
強大な領主であり、望めばいつでも八万人以上の兵員を戦闘に動員することが出来た。
彼は使節を認めると直ちに馬から降り、「私のために、使節に随行している兵に礼砲を撃たせてほしい」と、
部下に言伝で伝えさせた。彼はそれを見たかったのだ。
かくして、直ちに我等の兵が二発撃ったので、その爆音は驚き耳を覆うほどであった。
たまたま近くにあった馬は火薬の音で大混乱に陥り、主人を地面に振り落として逃げようとし、
また食料や野菜を積んでいた馬は地面に転がった。
この事態はこの紳士(政宗)を大喜びさせ、彼は死ぬほど笑った。
一段落つくと彼は使節に近づき、地面今で届きそうなお辞儀をして礼を述べた。
『自分の家来と国をその様に具す』と言い、丁重に挨拶をして前進を始め、通り過ぎた。
このような礼節の丁重さでは彼ら(日本人)は世界中のどこの国にも勝り、特に高貴な人々にあってはそうである。』
政宗、外国使節と出くわして江戸でひと騒ぎ起こしたらしい、という記録であるw
0643人間七七四年
2012/12/04(火) 21:05:33.89ID:mUQkG0000644人間七七四年
2012/12/04(火) 21:18:11.09ID:O2Ntq34+0645人間七七四年
2012/12/04(火) 21:20:33.62ID:yYYl/Xuv0646人間七七四年
2012/12/04(火) 21:53:25.17ID:/KICZSw/0647人間七七四年
2012/12/04(火) 21:57:15.97ID:3cNd9Dyv江戸の街中で空砲とはいえ鉄砲撃たせたのか。
0648人間七七四年
2012/12/04(火) 22:13:38.33ID:3pzAUFFQ0650人間七七四年
2012/12/04(火) 23:21:34.38ID:FykM800i0651人間七七四年
2012/12/04(火) 23:31:34.37ID:Q/bj9MAf0652人間七七四年
2012/12/04(火) 23:53:29.23ID:FiynpENi・・・あれ?そんなに動かせたっけ?
0653人間七七四年
2012/12/05(水) 01:17:42.66ID:EIqB+a1o0658人間七七四年
2012/12/05(水) 03:31:59.13ID:7oZ/i2bJ俺らも笑ったwww
0659人間七七四年
2012/12/05(水) 18:35:32.10ID:IGvxYZE00660人間七七四年
2012/12/05(水) 19:51:46.31ID:m2gTiIkH0661人間七七四年
2012/12/05(水) 20:18:47.06ID:9P1FqeYG「日本人の礼儀正しさパネェ」で締めくくる書き手の感性もスゴイな
0662人間七七四年
2012/12/05(水) 21:18:38.00ID:Qr7e9wQ/0663人間七七四年
2012/12/05(水) 21:39:39.49ID:/0Npa9i80664人間七七四年
2012/12/05(水) 23:45:34.05ID:+E8g/w+O一つになって万里小路へ一文字に押しかけ洪水が入り込んだ。洛中はさながら
河原のようになり、訴えがあったので検断人・伊澤新右衛門の同心・岡部忠兵衛が
奉行として普請を務めた。
人々は土俵を築き立てて井関を組み、雲霞の如く南北に馳せ群がって働いていたところ、
ある四十歳ほどの男が精根尽きて、堤の下の柳の陰で東を見渡して伏していた。
これを見つけた岡部は杖で男の背中をひどく突いて「こんなにも皆が隙なく相働き、
休む間もない普請だというのに伏せておるとは物臭き曲者め。とっとと立ち上がれ!」
と、男を睨んだ。
すると男は「今朝より人一倍働きましたので精根尽きて休んでおります。
それを泥杖で突っかかる方こそ曲者じゃ」と言い返した。それを聞いて岡部が
「何という狼藉を言うのだ!」と重ねて杖で打ったが、二打目に男は
腰の一尺と五、六寸の打刀を引き抜き、弓手の脇腹を彼方へ通れと突き刺したので
岡部は二言と言わずに死んでしまった。そして男もまた大肌を脱いで土俵の上に腰掛け、
腹を十文字に切った。
この一件が松永の耳に入り、松永は「日本一の不覚者め。物頭だからと下を侮る者が
必ずこのような怪我をするのは度々の習いだ。同心は自身のせいで、使用人は運が
尽きたためにまったくの犬死をしてしまった」と散々に立腹して伊澤を呼び
「重ねて起こりうることなれば、同心たちによくよく言い付けよ。彼らの恥は松永の恥だ」
と、怒った。
――『室町殿物語』
松永は平蜘蛛の人かな?
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