戦国ちょっと悪い話34
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0001人間七七四年
2012/10/23(火) 19:20:04.34ID:FaZWZMUh戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0302人間七七四年
2012/11/11(日) 13:48:46.76ID:/GWsp2jW井伊直盛「娘に男子名をつけるな」
ところで桶狭間で死んだのって、井伊家当主の信濃守直盛じゃなかったっけ
0303人間七七四年
2012/11/11(日) 15:49:09.12ID:Z+QhB4y6娘である直虎の婚約者の井伊直親だよね?
0305人間七七四年
2012/11/11(日) 17:21:26.34ID:hdbPQjTf0306人間七七四年
2012/11/11(日) 17:30:42.93ID:kV/M+FxC0307人間七七四年
2012/11/11(日) 17:41:36.01ID:ut9h+xZE0308人間七七四年
2012/11/11(日) 18:02:19.30ID:AeeH5fip0309人間七七四年
2012/11/11(日) 18:30:39.10ID:kV/M+FxC0310人間七七四年
2012/11/11(日) 22:21:31.21ID:YcRj7Yl30311人間七七四年
2012/11/11(日) 22:49:23.25ID:6Mb3Sbrlそれはただの不用心かと、むしろそれを教訓に日本一の強国に成長したところを褒めるべき
そこんところ踏まえても武雄藩主茂義とか知名度低いよなあ
0312人間七七四年
2012/11/11(日) 22:55:40.74ID:4F/SxG4G0315人間七七四年
2012/11/12(月) 21:54:15.92ID:VYcOdj0h直茂公
「息子(勝茂公)は年齢のわりに逞しいし、力もある。
武士として見所があり、わたしも喜んでいる。
家来たちと相撲をとらせてみたが、
歳上の者にも勝ってみせたぞ」
と上機嫌で仰せになられた。
生運はこれを聞いて、
生運「私は老いぼれですが、それなら一番お相手いたそう」
と言い、勝茂様をお身体がお痛みになるほど投げ飛ばした。
そして、
「まだ骨格も考え定まってないうちから、自慢事などなさると、
いつか恥をかきますよ。
まだまだ見かけよりも全然弱いです」
と言い残して退出したとのことだ 【葉隠】
0316人間七七四年
2012/11/12(月) 22:22:00.19ID:85/3QSwu0317人間七七四年
2012/11/12(月) 22:24:19.19ID:HgDbQET70318人間七七四年
2012/11/12(月) 22:27:52.41ID:fWtNB/H00319人間七七四年
2012/11/12(月) 22:39:30.06ID:VRtijOy30320人間七七四年
2012/11/12(月) 22:41:02.43ID:SdiwlhJ4こういう家臣は大事だ
0321人間七七四年
2012/11/12(月) 22:56:50.97ID:VYcOdj0hオレはこの話が、下村生運が、
「直茂さま、それは貴方がよくありません」
とやらなくて正解だったと思う。
親子の間に善悪つけるよりはって意味で
0322人間七七四年
2012/11/12(月) 23:05:14.19ID:H8/TFiru0323人間七七四年
2012/11/12(月) 23:06:07.07ID:Kz1pjgFx0324人間七七四年
2012/11/12(月) 23:17:33.71ID:ksWIqIaj0325人間七七四年
2012/11/13(火) 00:38:25.02ID:jpcXJsCK0326人間七七四年
2012/11/13(火) 00:58:26.71ID:WwEpuaWj・理非(善悪)を糾す者は人罰に落ちるなり
これはアイツが悪い!その場合はソイツが悪い!
とやる奴はニュー速にいっぱいいるが、
アイツらそんな立派か?
口では上手く説明できない感情を憶える(笑)
0327人間七七四年
2012/11/13(火) 01:38:25.52ID:yUrCqml00328人間七七四年
2012/11/13(火) 01:54:19.89ID:HFDR/2WCそれに比べると鍋島家臣は慈悲の心があるわ
0329人間七七四年
2012/11/13(火) 03:18:59.54ID:N2q6IJwS島原の乱抜け駆けの後日談を思い出した。
0330人間七七四年
2012/11/13(火) 09:14:37.13ID:zBZp6/Juところで勝茂って逸話で怒られてばっかりいないか?
0331人間七七四年
2012/11/13(火) 09:32:23.95ID:GNTDovvs別に龍造寺が好きなわけでもないんだろうけど
0332人間七七四年
2012/11/13(火) 09:44:22.65ID:LnUTaeXc0334人間七七四年
2012/11/13(火) 12:01:16.78ID:dwcQzrdC0335人間七七四年
2012/11/13(火) 12:56:05.78ID:BIFa2zp4なんという為骨豊!
とののしられたんだろうか
0336人間七七四年
2012/11/13(火) 20:16:40.47ID:cRqPCY+g0337人間七七四年
2012/11/14(水) 03:27:02.07ID:KlA4uQ+g0338人間七七四年
2012/11/14(水) 20:52:44.03ID:KZrrNcPJ「人という物にはな、その職分に対し、必要なことと、不必要なことがあるものだ。
織田常真(信雄)は、茶の湯・歌学・乱舞・管弦の上手、その他華奢風流のことは、およそ天下に肩を並べることがない、
というほどの才能の持ち主であるが、肝心の国を治め家を整え、武道を磨くことに関しては、その父である
信長公が切り捨てられた、爪の先ほども持っていなかった。
対して徳川殿は、華奢風流なことは全くしないが、国を治め家を整える道をわきまえ、武道を専らにし、
軍士を取り扱わせることに関しては、まあ我が国は別にして、諸外国でも稀な人物である。
(武野燭談)
そんな秀吉の、織田信雄と徳川家康に関する評論。
我が国は別にしてって、軍士の取り扱いに関しては俺のほうが上だ、って底意なんでしょうねw
0340人間七七四年
2012/11/14(水) 22:12:41.58ID:/we7SijK0341人間七七四年
2012/11/14(水) 23:04:38.51ID:gIQ61QyW0342人間七七四年
2012/11/14(水) 23:14:01.10ID:D8KGBkE00343人間七七四年
2012/11/14(水) 23:28:32.05ID:ngiMIftZ暇潰しのためだけの趣味はしなさそう
見習いたいけど暇だとネットでどうでもいい情報見てしまう・・・
0344人間七七四年
2012/11/15(木) 00:08:55.23ID:g6F5c+if家康「この年まで、これほどわしの考えにあった文を読んだことはない」
0345人間七七四年
2012/11/15(木) 09:56:12.77ID:+cL6Oq9Nなお親宅は家康に初花肩衝を献上し、関東移封後も三河に留まったという興味深い人
どうやら徳川家や家臣が三河に残した菩提寺等の権益確保の意味もあったようで
0346人間七七四年
2012/11/15(木) 10:02:30.60ID:eKUiGN/E0347人間七七四年
2012/11/15(木) 10:10:27.87ID:dfWJvC5Sだから権現様は天下をとった、と結論づけるために
0348人間七七四年
2012/11/15(木) 12:44:25.50ID:CTJ+rpLg0349人間七七四年
2012/11/15(木) 14:22:41.12ID:+cL6Oq9N0350人間七七四年
2012/11/15(木) 17:16:39.75ID:sJhHeHwo机によりかかって書を読み、塵や埃が満ちて歳月を経ても掃除しないので
坐席には汚痕が生じた。常に筆硯を扇匣に納め、宮中の公宴があるごとに
これを携えて輿に乗っていたという。
また光広は甚だ洗浴を嫌った。無理やりこれを勧めるとあたかも嬰児のように
嫌がり、あるいは泣き出しさえしたという。
――『近古禅林叢談』
当代一流の文化人なのに…(´・ω・`)
0351人間七七四年
2012/11/15(木) 17:34:45.83ID:lXvY0Pro0352人間七七四年
2012/11/15(木) 17:35:13.12ID:CTJ+rpLg0353人間七七四年
2012/11/15(木) 21:14:24.42ID:oFcVa2HA0354人間七七四年
2012/11/15(木) 22:14:43.09ID:vyaPZ90y0355人間七七四年
2012/11/15(木) 22:47:41.19ID:oFcVa2HA俺のにおいが大好きなんだそうだ
0356人間七七四年
2012/11/15(木) 23:09:03.47ID:3ygoGafw0357人間七七四年
2012/11/16(金) 02:09:46.53ID:ur8xobUU鬱・アスペ等、発達障害やメンタルを病んでる人によく見られる症状の一つ
0358人間七七四年
2012/11/16(金) 05:50:38.38ID:P5y5DJjI0359人間七七四年
2012/11/16(金) 07:21:29.43ID:lfgeQGMY0360人間七七四年
2012/11/16(金) 17:05:17.68ID:zInIO4Sh天文六年の夏、小田原浦近くに釣舟が多く浮かんでいると聞いた北条氏綱は
小舟に乗って海士の働きを見物した。この珍事の御遊の時、氏綱が酒に興じていると、
一尾の鰹が舟に飛び込んで来た。
氏綱は心から喜んで「勝負にかつを!」と格別の祝辞を述べてその鰹を酒肴とした。
同年七月上旬、上杉朝定が武州へ発向したが氏綱はこれに討ち勝って武州を治めた。
このようなこともあって諸侍は戦場の門出の酒肴にはもっぱら鰹を用いたのである。
――『仮名世説(北条五代記)』
つまり北条の侍は門出のたびに「勝負にかつを!」とか言っていた可能性が…。
0361人間七七四年
2012/11/16(金) 17:26:13.86ID:pZ5KUHo50362人間七七四年
2012/11/16(金) 17:29:04.16ID:QKtyiHv1駄洒落の程度は変わらない気がする
0363人間七七四年
2012/11/16(金) 17:30:58.34ID:QKtyiHv10364人間七七四年
2012/11/16(金) 18:42:15.22ID:5jyCoJ8y0365人間七七四年
2012/11/16(金) 18:58:54.43ID:OBboKc7Mてのはごく最近の考えなのかしらね
まあ同じ人間だしそんなことはないか
0366人間七七四年
2012/11/16(金) 19:34:10.64ID:4iolDIe7現代でもキットカットとかカツ丼とか。
まぁ元より掛詞を嗜む民族やから。
0367人間七七四年
2012/11/16(金) 20:06:19.03ID:lfgeQGMY0368人間七七四年
2012/11/16(金) 20:43:30.29ID:G4g5YLGaそんな光秀が本能寺の変で天下を取った。
摂津衆の一人中川清秀は去就を決めかねていた。
光秀と戦うべきか味方すべきか。
というのも情報が錯綜し、本当に信長が討たれたのかよく分からなかったのだ。
そんなところへ秀吉が大返しで戻ってくる。
そして秀吉から受け取った書状には驚くべきことが書いてあった。
「信長公は生きておられる。」
「マジで!?」と思った清秀にさらに秀吉の書状は畳み掛ける。
「信長公配下の福富秀勝が比類なき活躍を見せて明智軍を撃退し、再興の機を窺っておられる。
某はただちに信長公にお味方し、光秀を討つつもりだ。そなたも我に協力致せ。」
もちろんこの情報は嘘で福富秀勝は討死しているのだが、
これに乗った清秀や池田恒興ら摂津衆は秀吉に付き、光秀は敗れ去ることになる。
自ら武略だと公言した武士の嘘によって滅びたというのは皮肉ではなかろうか。
0369人間七七四年
2012/11/16(金) 21:03:43.07ID:Mw4z+MRM縁起物つながりで隣国武蔵ではかつて神様(大国主命)がデートで待ちぼうけ食らった時に「まつのは嫌じゃ」と言ったのがきっかけで正月飾りが門松じゃなくて門竹になっているし。
きっと東国では駄洒落がマイブ〜ムだったんだよw
0370人間七七四年
2012/11/16(金) 21:06:03.17ID:ZgBj9tqX>>360が起源なのか、同じよーな事を思いつくオヤジがほかにもいたのか。
多分たくさんいたんだろうなぁと、親父の駄洒落好きを眺めながら思う。
0371人間七七四年
2012/11/16(金) 21:33:05.55ID:GCwhZs9g/⌒ ⌒\
/( ●) (●)\
/::::::⌒(__人__)⌒::::: \ 勝負にかつお!
| |r┬-| |
\ `ー'´ /
0372人間七七四年
2012/11/16(金) 21:48:04.37ID:b1s+1kor0373人間七七四年
2012/11/16(金) 22:56:28.99ID:rCjdr2xShttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1353070132/
【ソウル聯合ニュース】韓国農林水産食品部が参鶏湯(サムゲタン、鶏のスープ料理)の販路多様化に向けて活発な動きを見せている。(2012年7月24日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120724-00000043-yonh-kr
アメブロの記事数 有名人、かつキーワード 「サムゲタン」
http://search.ameba.jp/search.html?q=%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%B2%E3%82%BF%E3%83%B3&row=100&profileRow=&target=blog&aid=&author=talent&start=0
2009年 1件 2010年 0件 2011年 2件 2012年 122件〜 ←7月から急増
0374人間七七四年
2012/11/16(金) 23:11:16.59ID:Mw4z+MRM0375人間七七四年
2012/11/17(土) 04:11:50.67ID:lBgMlPiN0377人間七七四年
2012/11/17(土) 06:02:33.04ID:VHL946FJ「打ち、勝ち、喜ぶ(ドヤァ」とか、いかついおっさんがやってたとか胸アツだなw
信長もやってたんだっけ?
0378人間七七四年
2012/11/17(土) 07:14:00.85ID:cRdfo5U3そういえば道灌が小机城落とす時に駄洒落で士気上げたって逸話もあったな
0379人間七七四年
2012/11/17(土) 07:28:06.53ID:lAqgGaMs0380人間七七四年
2012/11/17(土) 07:39:06.84ID:TrRLS7Sn織田信長「今日の戦、勝とう!」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3814.html
0381人間七七四年
2012/11/17(土) 08:32:54.58ID:9HFL+wwt0382人間七七四年
2012/11/17(土) 11:42:09.51ID:FN+U41b2三人揃っていた秀吉が強いわけだ
0383人間七七四年
2012/11/17(土) 11:42:56.86ID:VEzNwv2Wんで、ないわーと無視しちゃう空気読めないやつは戦場の空気も読めなくて…
0384人間七七四年
2012/11/17(土) 12:11:28.85ID:rmrlWqhQ普通に使われてるテクニックだしね
駄洒落も一種の教養というか、
その場の状況に合わせた駄洒落や、縁起のいい駄洒落は大歓迎、みたいな感じじゃないかな
昔は験担ぎや迷信は現代より真剣に重視してただろうし
0385人間七七四年
2012/11/17(土) 14:11:19.04ID:9HFL+wwt0387人間七七四年
2012/11/17(土) 18:45:19.43ID:EBnG3Pg5くだらねー言葉遊びだろ駄洒落なんてと切って捨てるかは受け取る側によるんだろうな
0388人間七七四年
2012/11/17(土) 19:34:29.85ID:58Pjgq4O受け取り手が不自然な愛想笑い作るのがオッサンの駄洒落
0389人間七七四年
2012/11/17(土) 20:41:54.80ID:TrRLS7Sn天下の諸侯も、この君のためには一命をどうして惜しもうかと、争ってかしずいていた。
関ヶ原の合戦の際には一方の大将であり、福島正則以下の諸将、この君の下知に命をかけること
本望であると勇まれたとか。
この時、徳川家康は井伊直政、本多忠勝に仰せ付けられ、「忠吉を良く引き回すように」と命じた。
これによって、島津義弘が丸備えを立てて撤退する所を、井伊直政は先駆けして食い止め、手痛い働きがあったが、
忠吉も手負い、井伊直政も鉄砲によって腕を撃たれたので、布で腕を縛り首にかけて、忠吉を誘導して
本陣へと帰った。
まず忠吉が家康の御前に出ると
「忠吉は手負いをしたか。初陣の働き、見事なり!」
と、ご褒美に所に井伊直政がまかり出た。家康これを見て
「兵部(直政)は手負いをしたか!薬箱!薬箱!」
と、自分の薬箱を取り寄せ、自身の手で膏薬を傷口に付けられた。
おおよそ人の親として、子供ほど可愛いものは無いこと、上下ともに同じである。
であるのに愛する子の初陣に、薄手ではあったが傷を被った事を驚く様子もなく、兵部が手負いをしたことには
慰め問わせられた所に、『名将の御こころざしは凡人の及ばざる所である』と、当時の人々は感じ入ったとの
事である。
(武野燭談)
関ヶ原の傷
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6932.html
これの、当時の人たちの感想なども入ったバージョン。
しかし忠吉、イケメンで性格も良くて諸侯からモテモテだったとか。
長生きしたら秀忠の脅威になったかも知れませんねw
0391人間七七四年
2012/11/17(土) 21:56:04.07ID:gBKKcuS2同じ話でも感想が違うな
0392人間七七四年
2012/11/17(土) 22:07:05.78ID:fmNyxEsJ0393人間七七四年
2012/11/17(土) 22:14:54.01ID:ji8WLaz80394人間七七四年
2012/11/17(土) 22:28:41.94ID:ji8WLaz80395人間七七四年
2012/11/18(日) 00:19:40.31ID:Zt+952DC永禄12年(1569)、伊勢北畠氏討伐の軍を発した織田信長は、
北畠具教が籠る大河内城に向かって進軍中、北畠氏の支城・阿坂城に降伏を勧告した。
ところが城主・大宮入道はこれを激しい調子ではねつけたので、
これに腹を立てた信長はならば攻めよと、先手の軍勢を呼び返して阿坂城攻めを命じた。
この時の織田勢の先陣は木下藤吉郎秀吉であり、真っ先に進んで阿坂城に攻めかかったが、
城主大宮入道の子息・大宮大之丞は高名な強弓の上手であったため、
寄せ手は容赦なく矢を浴びる羽目になり、秀吉自身も左の太ももを射られてしまった。
ところが、秀吉は少しも怯まずに味方を励まし、ひたすらに攻め立てたので、
たちまち城方は疲れ果てる。
ここで大宮の家老・遠藤源五右衛門、同條助は敵が大勢なので臆病風に吹かれたか、
にわかに心変りして寄せ手に内通し、城内の鉄砲の火薬に水を入れ、使い物にならなくしてしまった。
こうなっては大宮もどうしようもなく、士卒の助命を条件に開城し落ち延びていった。
(伊勢国司記略)
この戦いで受けた傷が秀吉の生涯唯一の戦傷だったらしく、
これがなければ本多忠勝のような無傷に関する伝説ができてたかも知れない
ちなみに負傷した箇所は左肱説もある
03961/2
2012/11/18(日) 01:15:20.20ID:Zt+952DC信憑性の薄そうな話ですが続き
天正4年(1576)、伊勢北畠氏の養子となっていた織田信雄により、北畠一族が謀殺されると、
北畠氏の旧本拠地であった多気の霧山城には先に阿坂城で木下秀吉を射た大宮大之丞など北畠氏の残党が集まり、
城代北畠政成を中心に抵抗の姿勢を示した。
これに対して具教暗殺に参加した長野左京ら信雄配下の軍勢と、
さらに羽柴秀吉の三千余騎を加えた一万五千余騎が霧山城下に乱入してきた。
その時、真っ先に「羽柴秀吉!」と名乗って出てくる者があった。
城方の大宮大之丞は、前に阿坂城で秀吉を射落としたときは仕損じたので、
今度こそは秀吉と組んで勝負せんと進んで門を開き、弓矢を取って散々に射かけたので寄せ手は逃げ崩れた。
そして遂に大之丞は秀吉の胸板を射ぬき、秀吉は只一矢にて死んでしまった。
ところがそこに、「真の秀吉ここにあり!」
と叫ぶ者が現れ、大之丞はそれでも心得たりと矢を射かけたが、矢種が尽きたため
太刀を抜いて大勢を切り抜き、秀吉(二人目)をも討ち取ってしまった。
03972/2
2012/11/18(日) 01:19:49.24ID:Zt+952DC又も「秀吉!」と名乗る者(三人目)が現れたのである。
流石の大之丞も疲れ果て、当家の運はこれまでと城下の新長門守屋敷前で自害したのであった。
秀吉と名乗った者(三人目)はその後城方の村賀徳太郎に討ち取られたが、
織田方は次々と攻め寄せたので、北畠政成らは奮戦したが自害に追い込まれ霧山城は落城した。
(伊勢国司記略)
この霧山城合戦の話は藤堂藩の学者・斎藤拙堂の伊勢国司記略にある話だが、この話の出所は
「多気記」という霧山城跡の近くに住む郷士が持っていた旧記で、
史料集めをしていた拙堂の門人が借りてきたものだという。
流石に信憑性に問題があるのは認識していたのか、拙堂はこの話の最後に注記して、
「誠しからぬ事も色々混じっているが、旧伝の事もあるだろうし、
ここにしか載っていないこともあるので記録しておく」と述べている。
0398人間七七四年
2012/11/18(日) 02:02:32.39ID:WCHFMqI10399人間七七四年
2012/11/18(日) 09:33:39.69ID:QawyyZ2gこれは悪い話w
0400人間七七四年
2012/11/18(日) 12:42:51.61ID:Ox43ucax0401人間七七四年
2012/11/18(日) 13:40:10.81ID:3Tq+sXAx■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています