戦国ちょっと悪い話33
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2012/08/14(火) 19:13:27.50ID:90iWq5dq戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1339809373/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0625人間七七四年
2012/09/30(日) 21:54:34.45ID:LAvg8iav0626人間七七四年
2012/09/30(日) 21:55:30.82ID:Vo4QF4Tz徳川家康が、小幡勘兵衛に軍配団扇のことを聞いた所、信玄公の故実によって調進して献上します、
と言って、十数日の後、こしらえ立てて献上した。
表に日月を金銀で出し、裏に北斗七星を銀で象眼して、大へん美しいものであるが、
全部が鉄でこしらえてある上に形が大きく、おそろしく重かった。
家康は、ちょっと持って見るや、グワンと投げ出して、
「こんな重いものを持って、どうして兵の指揮が出来るものか」
と、どなりつけたという。
0627人間七七四年
2012/09/30(日) 21:58:57.06ID:6vAGaoJa畠山義春さん、甲陽軍監を聞いて
逸話の編集者とかではないと思うが、こんな逸話があったな(1636年の事の話になってる)
0628人間七七四年
2012/09/30(日) 22:20:08.60ID:LAvg8iav0630人間七七四年
2012/09/30(日) 22:36:26.23ID:/SVpEYRs>>624の「虚妄多し」って言ってるのは多分1770年成立の常山紀談(湯浅常山著)
常山紀談にまんま「甲陽軍鑑虚妄多き事」っていう項目がある
まぁ、そもそも甲陽軍鑑の冒頭に昔のことなので細かい年代は記憶違いが多いと断り書きがあるくらいなんで
甲陽軍鑑は、歴史書ではなくて、戦国時代のバリバリ武闘派爺さんが
記憶頼りに当時の首脳部批判も交えて昔語りした書物として読むべきなのではなかろうか
で、余談なんだけど
そこで甲陽軍鑑はここが間違っている、って歴史的な事実関係の誤謬を散々指摘してるんだけど
締めの言葉は「戦国の勢いをよく知り、かつ侍の情に達っせし者の書いた書だから、
弓箭取る者が心の慰みとして愛すべき書であって、虚妄を以て棄てるべきではない」
って言ってるから、18世紀の人間である湯浅常山から見ても、
甲陽軍鑑は戦国時代の気風をよく伝えている文書だったんだろうね
0631人間七七四年
2012/09/30(日) 22:44:35.54ID:LAvg8iav他の売文屋からw
0632人間七七四年
2012/09/30(日) 23:03:58.68ID:T6lieRIp甲陽軍鑑では深志城代には日向大和守を任じたとあります。
馬場信春は1559年に120騎の将になったとありますが、他の将は、
山県昌景:1552年150騎、1563年300騎
春日虎綱:1552年100騎
秋山虎繁:1556年250騎
原昌胤:1550年120騎
0633人間七七四年
2012/09/30(日) 23:04:44.28ID:ISUWi90Fその家康は鉄軍配ももてないほど衰えてたんだな
0634人間七七四年
2012/09/30(日) 23:07:40.98ID:aiKXKzxe0635人間七七四年
2012/09/30(日) 23:12:03.26ID:KqbV6UIN0637人間七七四年
2012/10/01(月) 01:03:58.13ID:keNEq6Ue0638人間七七四年
2012/10/01(月) 01:28:16.89ID:XwcHZDvV0639人間七七四年
2012/10/01(月) 03:35:15.06ID:hIkxFoXoたしかその後義春の息子は圧力かけられて
「うちの父親の方が間違ってますごめんなさい」って
言わされてるんだよな…
0640人間七七四年
2012/10/01(月) 07:14:07.26ID:PA4vPWOX武田四名臣は五人で龍造寺四天王の逆バージョンだな
二人はプリキュ…武田四名臣!
0641人間七七四年
2012/10/01(月) 08:48:09.23ID:t61Mpwrf生涯かかっても信玄公の境地には立てなかったようだな家康
0642人間七七四年
2012/10/01(月) 08:55:40.46ID:QWWKI9y10644人間七七四年
2012/10/01(月) 09:07:53.24ID:t61Mpwrf0645人間七七四年
2012/10/01(月) 10:02:47.65ID:ETyexKjT0646人間七七四年
2012/10/01(月) 10:06:34.46ID:I6jY8+jS0647人間七七四年
2012/10/01(月) 10:32:16.20ID:35zBFJFB0648人間七七四年
2012/10/01(月) 12:08:07.29ID:UrnBCJG7謙信が本陣まできて軍配で受け止める的な講談めいたことがない限り頑丈である必然性が
0649人間七七四年
2012/10/01(月) 12:21:09.94ID:+FJ8prk40650人間七七四年
2012/10/01(月) 12:21:56.10ID:mh0Ik8pe大阪夏の陣では漏らしてない。
人間は成長するんだよ。
実際は夏の陣でも漏らしていて、天下人なのにウンコ漏らしは
まずいと緘口令が敷かれただけかもしれんがw
0651人間七七四年
2012/10/01(月) 12:22:35.88ID:gQLxbHHJ0652人間七七四年
2012/10/01(月) 12:43:14.31ID:jU/Yr0o8浅野裏切りのデマを流された汚いやり方に動揺した所を捨て身で突撃されただけ
0653人間七七四年
2012/10/01(月) 12:52:47.70ID:ETyexKjT0654人間七七四年
2012/10/01(月) 14:33:11.32ID:ASK7EGlJ0655人間七七四年
2012/10/01(月) 14:52:37.50ID:kscez4Ld0656人間七七四年
2012/10/01(月) 15:05:09.93ID:ljRYPRmaあれは家康に叱り飛ばされる秀忠がかわいいよなw
「あほーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」ってw
0657人間七七四年
2012/10/01(月) 15:09:06.04ID:XwcHZDvV事実関係確認しようにも周りに武田関係者なんていないわけだし。
そんな中、山本勘助や馬場の助言がやたら多いのは、とりあえず誰かの記憶がはっきりしない助言を
全部彼らの助言という扱いにしたのかも。
あるいは家臣の意見をよく聞く名君信玄を演出しようとしたか。
0658人間七七四年
2012/10/01(月) 16:50:39.32ID:mkRU7gY/0659人間七七四年
2012/10/01(月) 17:01:56.57ID:kjSDLvxy0660人間七七四年
2012/10/01(月) 18:53:40.26ID:gR1Zw0A2今川義元は子息氏真に書を贈り諌めて曰く、
「お前はすでに成長したというのに未だに童心を失わず、
鶏を闘わせたり狗を走らせるばかりで、第一になすべき文武を疎かにしている。
今これを改めなければ、必ずや国は覆り、家を滅ぼすことになるぞ」
しかし、氏真は父の言葉を意に介さず、ついには滅亡するに至った。
――『名将言行録』
0661人間七七四年
2012/10/01(月) 19:00:23.42ID:kzckAfJY0662人間七七四年
2012/10/01(月) 19:23:02.65ID:+FJ8prk40663人間七七四年
2012/10/01(月) 19:44:37.94ID:PJ3s3G8W考えられる。しかし出雲国内には三澤、三刀屋、赤穴といった強力な国人たちがあり、彼らは経久の威令に
従おうとはしなかった。しかし容易に攻め従えることのできるような相手ではなく、
これは謀略をもって討つべきだと、寝食を忘れて考えぬいた。
そしてある時、山中勘ノ充と云う者を近づけ、言った
「私は三澤を騙すぞ!汝は智弁人に超えた者であるので、この謀略をきっと成功させてくれると信じる。
私の言うとおりに行動し、三澤を誑かしてみよ!」
そうして詳細を説明すると、山中は「御諚承り候」と、これに同意した。
さて、この頃経久の歩兵に、死罪になるべき重罪の者があった。山中はこれを喧嘩のようにして
斬り殺し、三澤の元へと逐電した。経久はこれに大いに怒り、山中の妻子並びに老母までを捕縛し詰牢に監禁した。
三澤の元に逃げ込んだ山中は二心無くこれに仕え、三澤も彼を不憫に思い召し使った。
そして2年ほどが経った。「いまこそ謀略が成功すべき時だ。」山中は三澤に向かってこんな事を言った
「私は些かの口論によって、経久の澤田と申す徒歩の者を斬りましたが、経久の奴は私の老母、妻子を捕縛し
牢に入れてしまいました。侍の喧嘩口論で相手を討って退転するなどというのは良くあることなのに、
その罪を妻子父母に及ぼすなど未曽有のことであり、無念至極に思っています。
願わくば私に、精鋭の兵200を付けて下さい!
経久の月山富田城は案内を良く知った城です。夜討ちを行い私の鬱憤を晴らしたいのです!
実は尼子の一門の中に3人、私と思いを同じくする方々がいます。ですので経久の頸を討つことはもはや、
袋の中の物を探るに等しい行為だと考えています。」
このようにいかにも頼もしげに語ったため、三澤も大いに喜び、野沢大学兵衛、三澤与右衛門、梅津主殿助、
野尻、竹田、中原、下川といった、三澤氏配下の屈強の兵たち500人を選び山中に付けた。
山中は「謀略、成れり」と経久にありのまま報告する。報告を聞いた経久は「年来の謀略、一時に叶った!」
と喜び、早速伏兵を3ヶ所に置いて、寄せてくる敵を待った。
山中は三澤勢500の先頭に立って、月山富田城へと急いだ。
軍勢が中チカという場所に忍び上がったところで山中「さて、あなた方は暫くここでお待ちください。
私は合流する一族を手引きしてきます。」そう言って一人出ていった。
残された軍勢は、待っている間に一町でも上がっておこうか、などと言っている時突然、
月山富田城の城門が開き一千余の兵が鬨を作って打出てきた!
寄せ手の三澤軍は、今夜の夜討ちの事を敵は察知していないと全く油断していたため、
この不意打ちに「これは何事か!?山中に野心があったのか!?」と大いに驚き、既に逃げ腰に
なっていたが、流石に三澤の郎党の中でも名を知られた者達だけに、みな一箇所に固まり
ひしひしと撤退していった。
が、ここでまた思いもよらぬことに、今度は後ろから敵が突然現れ鬨を合わせて攻めかけてきた!
三澤軍の者たち「これは山中に騙されたのだ!こうなったからにはただ一方を打ち破って
落ち延びるしか無い!」と叫んで撤退しようとしたが、暗闇の中、道もない場所へと入り込んでしまい
更に混乱し、何も出来ないまま討たれるものもあり、谷や穴に落ちて空しく死ぬものもあった。
そんな中でも三澤与右衛門、野澤といった者達は真ん丸となって襲いかかる尼子勢を打ち破りつつ
撤退したが、3ヶ所の伏兵に逢い、野澤大学兵衛、梅津主殿助、野尻、竹田、猪口などの勇士を始めとして
200あまりが討たれ、なんとか生きて逃げ切ったのは、三澤与右衛門、中原、下川ら100ばかりという有様であった。
かくして三澤は多くの家臣を討たれ、その勢力も凋落した所に、経久から「近日中に三澤を討伐する!」
との声が聞こえてくる。これにはもはや耐えられず、三澤は居城である亀瀧城を出て尼子経久に降伏した。
経久は三澤の勢力を併合すると一気に国中に討って出て、三刀屋、赤穴といった有力国人を尽く幕下に従えた。
尼子経久、謀略をもって三澤を討つ、という逸話である。
(陰徳太平記)
0664人間七七四年
2012/10/01(月) 19:52:49.78ID:SHcdWNxnhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2902.html
0665人間七七四年
2012/10/01(月) 20:31:17.01ID:0oYt8lS/0666人間七七四年
2012/10/01(月) 22:01:46.46ID:V8qDhI04>浅野裏切りのデマを流された汚いやり方
日本全国vs牢人&裸城の戦いなのにそんなの信じる馬鹿いるのかよ
普通なら「ねーよw」で済む話。
0667人間七七四年
2012/10/02(火) 08:08:35.87ID:npjl9vln最後の大戦から14年だから戦場で前線に出た幕府方の将兵も若く経験の無いものが多く…
とも考えられんかね
0668人間七七四年
2012/10/02(火) 08:24:16.57ID:1m4zqM3Qさて、この亀右衛門の友人に、増田蔵人という者があった。
この友好は蔵人の父が臨終の時、彼にくれぐれもと深く頼み置いたことによる。
蔵人は細川家で六千石を領していたが、家は常に貧乏で一金の貯蓄もなく、この事を亀右衛門は常々
諌めていたが、蔵人はその度に「実にそのとおりだ」と言いながら、しかし反省した様子は見えなかった。
有る年、蔵人は1年間江戸にあって後、細川家の領国である小倉への帰国の途についた。
亀右衛門は彼の帰路を推し量って逆に江戸方面へ上り、桑名で行き会った。
亀右衛門が十人ほどの徒歩の者共を引き連れ馬にて通るのを見た蔵人は、これを不思議に思い
「どうして今、江戸へと上るのか?」
と尋ねた。すると亀右衛門は
「やがて華々しいものを見るぞ!今は一言の暇も惜しむゆえ申せぬ。その理由は早々に小倉に帰って聞かれよ!」
そう言い捨て打ち過ぎた。蔵人はこれを聞くと馬を返して亀右衛門に追いつき
「日頃の友情はこういう時にこそ表されるものではないか!密かに私だけに教えてくれ!」と、従僕達はみな後ろに下げ
唯自分一騎のみで亀右衛門の側に付いた。すると亀右衛門は馬から降り、蔵人を前に呼び寄せ
「私は片時の時間も惜しんでいるのだが、この上は話してしまおう。よいか?今度、大坂に事が起こる。
そのため我が君にも近日中に御船出あるべしとの、幕府よりの陣触れがあった。これによって私は俄に
命を蒙り、急ぎ江戸に参る最中なのである。」
これを聞いた蔵人は驚愕した。「私は貧困であり、少しの貯蓄もないことはあなたも兼ねてよりよくご存知であろう。
どうして今私が、人並みの出陣が出来るだろうか!それに帰国後江戸に戻るということになれば、もはやその旅費も
無いのだ!この上は唯この場で腹を斬るしか無い!
これを見た亀右衛門殿「貴殿は常々私の諫言を聞きながら、これを用いようとしなかった。
普段から軍役を疎かにし、殿より頂いた大禄を空しくして、今またここで犬死するなど、一体何の意味があるのか!?
従者を扶持する資金がないのなら、只一騎敵と戦い討ち死にすれば良いだけではないか。
されどもこんな所で切腹など、人に笑われるだけの話である。
加々山隼人は貴殿と同じ知行であるが、彼は兵船数艘、騎兵歩兵の3〜400をいつでも揃えられるよう用意をしている。
貴殿は彼に劣っていることを、口惜しいと思わないのか!」
蔵人はこれに途方に暮れて「死ぬにも死なれず、帰るにも帰られず…」と、悄然として溜息を付くばかりであった。
と、暫くして蔵人が全く追い詰められた様子なのを確認すると、亀右衛門はにわかに言った
「実はさっき言ったこと、アレは全部ウソだ。」
「…!なな!?」
「ウソだ!…が、今の天下は既に乱の兆しがある。そもそも時安けれど危を忘れざるを武備と呼ぶ。
夏に衣を作って冬の寒さに備え、晴れた日に傘を貼って雨を待つのと同じ事だ。全ての事はあらかじめ
準備をしておかなければ、突然のことに対応することは出来ない。明日にも兵乱という事態も
考えられるのだ。もし本当に合戦騒ぎが起これば、貴殿は間違いなく今のように狼狽しただけであっただろう。
貴殿は、普通の諫言ではもはや容易く聞いてはくれぬと思ったので、今度貴殿が帰国するのを利用して
かく注意したのだ。」
増田蔵人はさすがにこの諫言に感じ入り、帰国すると驕りを捨て倹約を守った。そしてそれから3年、果たして
大阪の陣起こる。この時蔵人は見事、六千石の軍役を果たしたそうである。
現代でも耳の痛い人がいるであろう、井戸亀右衛門の諫言、という逸話である。
(武士道美譚)
0669人間七七四年
2012/10/02(火) 14:00:57.12ID:revx2Qwa0670人間七七四年
2012/10/02(火) 14:30:16.40ID:gREDtAD2政宗「俺は素直だから人の言う事聞くよ。借金までして金を使うやつなど信じられぬ」
忠教「忠告聞いて短い刀にしたし、老中におべっかを言ったよ」
0672人間七七四年
2012/10/02(火) 15:12:33.13ID:Q4Igc7Eu黄金伝説の無人島生活で台風が来るってんで必死で台風対策するも
結局ほとんどろくな風雨が来ず空回りに終わったのを見るに、
日本人の何でも備えすぎの風潮にはいささかうんざり。
0673人間七七四年
2012/10/02(火) 15:49:25.04ID:Vdedxfgm0674人間七七四年
2012/10/02(火) 15:51:44.32ID:vWdIZzrV如水「金をためておかねば」
利家「いきなり戦が始まった時に役に立たんぞ」
0675人間七七四年
2012/10/02(火) 16:18:57.03ID:9K05Yjh70676人間七七四年
2012/10/02(火) 17:03:31.16ID:Y5U38PiW0677人間七七四年
2012/10/02(火) 19:57:26.36ID:l3oT3NZz0678人間七七四年
2012/10/02(火) 20:02:06.94ID:J9gE9iit0679人間七七四年
2012/10/02(火) 20:07:04.92ID:Z7bsmnpv0680人間七七四年
2012/10/02(火) 23:14:36.58ID:rr0ZzEuQ小牧長久手の戦いの時、水野太郎作正重の隊下の同心が、森長一(長可)を銃で
撃ち落した。敵陣が色めくのを見て正重はただ一騎山の尾崎を下り突入していった。
徳川家康はこの様子を見て馬廻に命じて仕掛けさせ、敵陣を攻め破った。
戦後、家康は「今日の戦は大久保忠佐が先駆けになって大功を立てたな」と
感心した。正重は「これはそれがしと忠佐を見間違ったのだ」と思ったが、
無闇に言い争ったりはしなかった。ところが、重ねて軍功について論じた時、
またも家康が同じことを言うので正重は耐えかねた。
「山を下ったのはそれがしだ。あなたはその時、渡辺弥之助(光)と同じように
控えていたではないか。余人ならばこんな言い争いはしないが、あなたのような
何度も武功を立てた人が、上の見間違いをいいことに人の働きを自分の物に
しようというのか! あなたらしくもないことだ!」
光も「正重の申すことに些かの間違いもありません。それがしも見届けました」
と証言した。家康はつぶさに事情を聞き、「そうか、儂の見間違いだったか。
正重よ、そういうことは心に隠さずともよい」と懇意に諭したので
正重も畏まってその場を離れたという。
――『徳川実紀』
0681人間七七四年
2012/10/02(火) 23:51:47.72ID:/kQXZxDD0682人間七七四年
2012/10/03(水) 00:27:39.09ID:8y/DQByZ正重も言うように忠佐さんほどの歴戦に武功ある者が
家康の言うことは絶対だからといって黙って手柄にしようとした?のは悪い話だな〜w
当の忠佐さんはどう思っていたのか知りたいな
0683人間七七四年
2012/10/03(水) 04:23:11.74ID:703xjnuS馬場信春は実際の活躍が極めて不明な中、信長公記にだけは「中にも馬場美濃守手前の働き比類なし」と活躍が記録されている。
では信長公記における「比類なし」と称えられた働きとはどのようなものだろうか。
織田家以外の武将で同様に称えられた武将を見てみよう。
林弥七郎
林弥七郎と申す者隠れなき弓達者の仁体なり。弓を持ち罷り退き侯ところへ橋本一巴鉄炮の名仁渡し合ひ(中略、過去スレ弓vs鉄砲参照)
林弥七郎弓と太刀との働き比類なき仕立なり。
美濃屋小四郎
(三好勢により将軍義輝殺害、さらにその弟の足利周ロも殺害、美濃屋は周ロに特に目をかけられていた家臣)
美濃屋小四郎未だ若年十五、六にして討手の大将平田和泉を切り殺し御相伴仕り、高名比類なし。
三好左京大夫義継
御女房衆御息達みなさし殺し、切つて出で余多の者に手を負はせ、
其の後左京大夫殿腹十文字に切り、比類なき御働き哀れなる有様なり。
高橋甚三郎景業
(朝倉)義景に腹をきらせ、鳥井与七高橋甚三郎介錯を致し両人の者も追腹仕り侯。中にも高橋甚三郎が働き比類なきの由に侯。
諏訪勝右衛門女房
諏訪勝右衛門女房刀を披き切つて廻し、比類なき働き前代未聞の次第なり。
土屋右衛門尉昌恒
武田四郎勝頼若衆土屋右衛門尉、弓を取りてさしつめ引きつめ散貼に矢数射尽し能き武者余多射倒し追腹仕り、高名比類なき働きなり。
武田麟岳
りんがく長老、中にも比類なき働きなり。(麟岳は如意山宝珠寺の住職で勝頼の従弟であり、敵を9人斬って死んだという。)
このように概ね個人的武勇を示して討死した者を「比類なし」と称える場合がほとんどである。
また三好義継を除いては一軍を率いるほどの大将はおらず、
出家した僧や女性までも含まれている。
馬場信春も同様だとしたら、彼の姿も見えてくるのではなかろうか。
0684人間七七四年
2012/10/03(水) 07:34:38.20ID:SFQprfYR他の方々、度々の長文のややスレ違い、ご容赦下さい
まず、信長公記の長篠の合戦の項目に
武田勝頼の部下が攻め寄せる様が記載されているけど
それによれば一番手が「山県三郎兵衛」(昌景)、2番手が「正用軒」(武田信廉)
3番手が「西上野小幡一党」、4番手が「典厩」(武田信豊)と挙げられていって、
5番手に「馬場美濃守」が「推太鼓にてかかり来り、人数を備へ、右同前に勢衆討たれ引き退く」とあるから
この記載からも「馬場美濃守」が大勢の部下を持ち、
武田方において山県昌景、武田信廉、武田信豊ら
有力武将と並べられる格をもった部将であったことが分かります
信長公記の記述から、馬場信春が一武者に過ぎなかったって解釈するのは無理があるでしょう
まとめると一次資料と信頼性の高いといわれる信長公記の記載だけからも、
(>>623にもあるけど)馬場美濃守が牧之島城代を務めていたのはほぼ間違いなく
(ちなみに>>619では甲陽軍鑑の記載上で馬場美濃守は城代経験がないとおっしゃられているけど
甲陽軍艦にも品33に「信玄公馬場美濃守をめし、信州まきの島城代に被仰付候」(原文ママ)とあって
城代であったことが明記されてます)
武田御一門衆の重鎮武田信廉、武田信豊、宿老中の宿老山県昌景、上野の有力先方衆小幡一党と
並べられる武将であったことが分かりますので、
馬場信春に関する一次資料が少ないとしても、こうした武将がただの平武将だと理解するのは困難です
あと一次資料が少ないことに関して、多くの方に誤解があるようなので付言しますと
武田の直臣関係の史料は、武田家が滅亡したこともあり残りが悪く、
かつ従来学会において、(武田家に限らず)大名自身に比べ、その家臣団に対する関心が薄かったため、
家臣クラスが出した文書の集積分析が現状発展途上であり、むしろ一次資料が少ないことの方が普通です
だから家臣クラスの実態に関して、
一次資料が少ない→ほかの逸話は全て創作だ、とするよりは
一次資料からここまでは分かる→他の詳しいことは不明ながら、今後の研究の発展を待ちましょう、
とするのが今のところは穏当なのではないでしょうか
このスレはまとめサイトを通じて比較的影響力が強いため、偏向した認識が広まるのを恐れて
ややスレ違いながら長文書き込みいたしました
お目汚し失礼いたしました
0686人間七七四年
2012/10/03(水) 09:15:26.49ID:yBCynJqv上の間違いへの対応は、今も昔も難しいよね〜
0688人間七七四年
2012/10/03(水) 10:46:44.91ID:DFAL9Secまあ、だいたいそんな両極端なのは淘汰されて>>684みたいに落ち着くよね。
0689人間七七四年
2012/10/03(水) 17:26:37.55ID:KBr/Hjcd0690人間七七四年
2012/10/03(水) 18:48:37.22ID:2nybaQpz0691人間七七四年
2012/10/03(水) 19:31:59.23ID:8soiD6DU25歳まで役立たずで人から謗られていた(名将言行録)らしいし
近頃じゃ尻働きさえ高坂じゃないガセの可能性を指摘されているしな
0694人間七七四年
2012/10/03(水) 20:24:23.51ID:8soiD6DU0695人間七七四年
2012/10/03(水) 20:29:13.36ID:GSppoI6U0696人間七七四年
2012/10/03(水) 20:51:50.34ID:v4s7PdNG0697人間七七四年
2012/10/03(水) 21:44:58.50ID:pNp2QEwi確かに。
最近ちょっとおかしいな。逸話そのものや書状などじゃなくて
怪しげな概説や創作が蔓延ってる。
0698人間七七四年
2012/10/03(水) 22:25:37.36ID:yBCynJqv0699人間七七四年
2012/10/03(水) 23:29:36.38ID:SFQprfYR武田家家臣に多田新蔵という剛勇で知られた若者がいた。
彼はあるとき喧嘩沙汰を起こしたが、新蔵の父は武勇忠節名高い多田淡路であったためその際は許された。
にもかかわらず、その後、新蔵は甘利同心の福田という者との間で再び喧嘩沙汰を起こしてしまった。
その仔細はこうである。
福田は、酒に酔っ払った様子で自身の下女を町中に立たせ、往来の者に触らせ、
人の女に手を付けたといって打ち伏せて、刀脇差を奪い取ろうとした。
日暮れ時で、よく見えなかったたため、福田はその相手が新蔵だと気付かないまま、
逃がしてたまるかと、刀を抜いて新蔵を追いかけた。
新蔵はいろいろと言って釈明しようとしたが、福田はこれを許さず新蔵に切り付けた。
そこで新蔵は、刀を抜き、一刀にて福田の頸を打ち落とした。
この件は当然問題となり、山県三郎兵衛(昌景)を奉行として詮議が行われた。
新蔵は、「喧嘩の始終を、目撃していた町人を召し寄せて、拷問して聞いてみてください。」と言う。
呼ばれた町人は、拷問を受けるまでもなく見たままを話したので、
新蔵は赦免され、福田は切られ損となった。
それどころか福田の行いは強盗であるとされ、福田の女房まで磔に処せられた。
山県は、普段は新蔵のことを嫌っていたが、少しも私心を交えることなく判断なさったため、
このような結論となったのだった。
以上、修羅の国たる甲斐らしい突っ込みどころが多すぎる話を「甲陽軍鑑」からニュアンス訳で。
ちなみに書によって、本来別の人物である
新蔵、久蔵、三八が混同されて記録されているため混乱が生じていますが
既出の「多田満頼、久蔵、天下に名をはせた勇者の物語・いい話」
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-382.html
に出てくる久蔵と上記の新蔵は、おそらく同じ人物です。
0701人間七七四年
2012/10/04(木) 01:56:44.56ID:DyCMgkKm0702人間七七四年
2012/10/04(木) 06:29:50.11ID:FJiAJpCG逆に原さんとか小幡さんとか四名臣だけど内藤さんは評価低いね。徳川で言う大久保ポジションというか。
0703人間七七四年
2012/10/04(木) 10:10:52.12ID:Z89BwmrG武士道を知ることができる
0704人間七七四年
2012/10/04(木) 10:27:07.04ID:FTj2+X6D目撃者を拷問するなとw
0705人間七七四年
2012/10/04(木) 10:30:31.08ID:+upK+BFu下女は無事だったようだが
0706人間七七四年
2012/10/04(木) 10:31:49.86ID:K+7a1/nLなんで女房まで磔になるんですかー!やだー!
0707人間七七四年
2012/10/04(木) 11:17:51.17ID:Fcg6TPfa0708人間七七四年
2012/10/04(木) 12:08:32.97ID:EabxPmNO0709人間七七四年
2012/10/04(木) 12:17:16.53ID:DyCMgkKm0710699
2012/10/04(木) 12:34:39.98ID:GqDbShNe共犯ってよりも、主人の罪に妻子が連座したってことだと思う(この場合は子がいなかったみたいだけど)
甲州法度にも、罪人の妻子に刑罰が当然に連座することを前提にした規定があるし
>>701,704
甲陽軍鑑には他の逸話にも、証人として呼ばれた町人に対して、
拷問してでも話を聞けとする信玄の意向が示されるシーンがあるんで、
本当に拷問するかどうかは別として、
証人に拷問すると脅してでも証言させる、っていう発想は当時としてはそれほど突飛なものではないみたい
怖い世界ですなw
0711人間七七四年
2012/10/04(木) 12:52:46.60ID:466WC98E0712人間七七四年
2012/10/04(木) 13:38:37.38ID:Fcg6TPfa0713人間七七四年
2012/10/04(木) 14:44:05.02ID:EabxPmNO何でもかんでも連座という法は無い
0714人間七七四年
2012/10/04(木) 15:50:00.46ID:J3MY6+oyニア ごうもんしてでも といただす
「なにをする きさまらー!!」
0715人間七七四年
2012/10/04(木) 16:34:41.73ID:AeP+oVK60716人間七七四年
2012/10/04(木) 17:56:06.88ID:H5EgBvVS0717人間七七四年
2012/10/04(木) 19:33:02.84ID:kO5vp65O0718人間七七四年
2012/10/04(木) 20:46:54.73ID:+r+WOQwx0720人間七七四年
2012/10/04(木) 23:57:54.42ID:EY7LAARa0721人間七七四年
2012/10/05(金) 06:29:34.92ID:7dNJWe3whttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3125.html
これの謀殺の内容が出ていたので書いてみる
上にあるように、家臣である太田但馬守長知に愛妾を寝とられた前田利家はこれを甚だしく怒り、
横山大膳長知、山崎長門長徳の二人に、太田但馬の誅殺を命じた。
しかし太田但馬といえば、前田家を代表する武勇の者として有名であった。
横山大膳は命を受けて、勝尾半左衛門と共に登城した。
この時太田但馬は既に登城しており、何事も無く座していた。横山大膳、席にすこうとするその時、
突然側に居た侍童を激しく叱りつけた!
この騒ぎに驚いた太田但馬は急いでその場にやってきて、「何事か?」と尋ねる。横山大膳
「私が先に、この者に命じて書類の文案を作らせたのですが、このように間違いだらけなのです!
これを見てください!」
そう言って懐中よりその書類を出して太田但馬に渡す。但馬は体を屈め手を伸ばしてこれを受け取ろうとする。
その時
横山大膳、すかさず刀を抜いて大膳の頭を斬りつける。しかし浅手。「何事ぞ!?」太田但馬叫び
刀を抜いて横山大膳を刺す!違わず腹の真ん中を貫いた。が、『ガキッ』刀弾かれる。
横山大膳は太田但馬が剣術の達人であることを知っていたため、懐中に金属の鏡を忍ばせていたのだ。
そして横山大膳は身を躍らせ再び斬りかかり、ついに但馬を殺した。
勝尾半左衛門も走りよって後ろから但馬の背中を斬りつけたのだが、却って但馬によって傷を負わされた。
この時前田利長も但馬の剛勇を気遣い、薙刀を取って彼に挑んだという。
山崎長門は期を失って、ついに斬りかかることが出来なかった。
時に慶長七年のことであったという。
太田但馬守長知謀殺、についての話である
(武士道美譚)
0722人間七七四年
2012/10/05(金) 13:05:42.28ID:/mBoLR5g>>上にあるように、家臣である太田但馬守長知に愛妾を寝とられた前田利家はこれを甚だしく怒り、
利家になってる
0723人間七七四年
2012/10/05(金) 17:17:34.99ID:7dNJWe3w0724人間七七四年
2012/10/06(土) 18:06:43.48ID:S/s/koTS醍醐の花見の折、関白は近臣らが君(徳川家康)を笑い種にしているのを聞かれ、
「家康には芸が三つある。常人の及ぶ所ではない。第一に武略は人より優れ、
第二に思慮深い。そして第三に金銀を多く持っている。この三つは人が笑うことの
できない大芸だ。お前たちは何を笑うのか!」と言われたところ、
近臣どもは「殿下は徳川殿の何が良くていつも贔屓なさるのだ」と言ったとか。
これも本文(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3333.html)と同じ様なことを
様々に伝えているのである。
――『徳川実紀』
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています