戦国ちょっと悪い話33
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0001人間七七四年
2012/08/14(火) 19:13:27.50ID:90iWq5dq戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1339809373/
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戦国ちょっといい話34
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0524人間七七四年
2012/09/22(土) 12:07:25.53ID:LoeRgdT80525人間七七四年
2012/09/22(土) 12:14:52.32ID:hBrVEyEn活動時期は江戸初期だけど生まれは戦国ってことで一つ
0526人間七七四年
2012/09/22(土) 12:24:46.56ID:96f3VvAj浅井長政 (1545年 - 1573年) - 戦国時代の武将・大名。(浅井氏)
浅野長政 (1547年 - 1611年) - 戦国時代から江戸時代の武将・大名。(浅野氏)
黒田長政 (1568年 - 1623年) - 戦国時代から江戸時代の武将・大名。(浅井氏)
池田長政 (1575年 - 1607年) - 戦国時代から江戸時代の武将。(池田氏)
上杉長政 (生年不詳 - 1628年) - 江戸時代の旗本。(上条上杉家)
織田長政 (大名) (1587年 - 1670年) - 江戸時代の大名。(織田氏、芝村藩)
山田長政 (1590年 - 1630年) - 江戸時代、シャム(現タイ)の日本人町の頭領として活躍した人物。
関長政 (1612年 - 1698年) - 江戸時代の大名。(関氏、宮川藩)
織田長政 (旗本) (1628年 - 1690年) - 江戸時代の旗本。(織田氏)
0527人間七七四年
2012/09/22(土) 12:26:14.75ID:4Cw0SdeS0528人間七七四年
2012/09/22(土) 12:28:22.84ID:96f3VvAj「オレは14歳で初陣して以来、手柄を何度も取った。
しかし、人は皆『如水の子だから当然だ』という目をしている。
その点、幸長はさして武辺者でもない弾正(浅野長政)の子だから、
あまねく天下から武勇をもてはやされている」と。
0529人間七七四年
2012/09/22(土) 12:32:40.70ID:EB2SNDHC0532人間七七四年
2012/09/22(土) 13:23:50.56ID:F7XLBAknそれも同時代の人から見ればとびきりの武辺者だと思うけど
0533人間七七四年
2012/09/22(土) 13:43:27.23ID:uCrdzVEhあのクロカンの息子なんだからさぞ出来がいいんだろう、
とか思われてたんじゃないかと
0534人間七七四年
2012/09/22(土) 13:47:22.01ID:fd1muouz大隅の城において薩州様が手討ちに及ばれたことがあった。
その時、お使いになった正宗の切先が鴨居に当たり折れてしまったそうである。
これ以来島津家においては正宗を差し料とはしないと言うことだ。
これは薩摩の国人、小川權兵衛から聞いた話である。
『鍛錬玉函』
『鍛錬秘函』
やっちゃった感がすごいですが
これはどの島津の殿様なんでしょうねえ・・・・・・?
0536人間七七四年
2012/09/22(土) 14:00:10.18ID:96f3VvAj0538人間七七四年
2012/09/22(土) 14:13:58.05ID:F7XLBAknそう言えば嫁を失った後の秀忠の手討ち話は豪快で爽快感すらあったな
0540人間七七四年
2012/09/22(土) 14:56:48.87ID:rIHbkXdq0541人間七七四年
2012/09/22(土) 15:18:38.01ID:pPMT5WgO0543人間七七四年
2012/09/22(土) 15:52:52.43ID:nlPpsqja0544人間七七四年
2012/09/22(土) 16:07:36.49ID:hBrVEyEn鴨居とかで刃毀れしちゃう間抜けは、まああいつだな
東郷に襲いかかって返り討ちにあったのと同じ匂いがする
0545人間七七四年
2012/09/22(土) 16:10:34.29ID:pPMT5WgO0546人間七七四年
2012/09/22(土) 16:21:21.93ID:URmyPShf0547人間七七四年
2012/09/22(土) 16:59:16.30ID:ttUqhglz0548人間七七四年
2012/09/22(土) 17:21:58.61ID:96f3VvAj0550人間七七四年
2012/09/22(土) 20:47:10.39ID:pPMT5WgO0551人間七七四年
2012/09/23(日) 11:12:38.64ID:yvQg5f+q0552人間七七四年
2012/09/23(日) 13:42:41.15ID:Bs7TKjKoここに出た話では棚の中に差し込んで斬ったんだっけ
0553人間七七四年
2012/09/23(日) 14:59:53.21ID:yvQg5f+q鴨井の真下あたりにいるのを切るとか鴨井から一歩のところで振りかぶるとかしないと当たらないな
0554人間七七四年
2012/09/23(日) 15:38:24.29ID:RI8/iPDP0555人間七七四年
2012/09/23(日) 18:09:57.65ID:yEt8ZH620556人間七七四年
2012/09/23(日) 18:12:44.76ID:UJFrPpIcその下の横木に刀が食い込むくらいになるらしい
重位からしてみればYOU、鴨居ごと斬っちゃいなYO!ってことか?
0557人間七七四年
2012/09/23(日) 18:22:16.85ID:RI8/iPDP0558人間七七四年
2012/09/23(日) 19:07:35.90ID:dMgqV0aj0559人間七七四年
2012/09/23(日) 19:47:54.29ID:EMkUoTnH『これは未だ、吉川元春様が生きておられ、我々と織田信長との和平が敗れ、織田との戦いが続いていた頃のことです。
ある時、元春様より隆景様に、次の合戦におけるご自身の方針の所存を遣いを以ってお伝えなされました。
これを聞いた隆景様は驚かれ
「元春は若武者か、五百三百の侍大将のつもりか!彼の言うような事が出来るわけがない、
こんなものは討ち死にするだけだ!彼はここから一歩も引き下がらず、敵に向かって攻めかけるとのみ言っている!
敵の大将である羽柴秀吉は大敵である。その秀吉との争いで、このように短慮で勇一途を専らにしては、
大敗するのが目に見えておる。このような作戦は、尼子勝久程度の敵に対してするものだ!」
私たちは隆景様の仰ったことを、誠に道理だと思いました。この事は元春様が誤っていると考えたため、
元春様の元に行き、この事を申し上げました。すると元春様は
「隆景ともあろう者が、なんと武道を心得ぬ事を言うものだろうか!
どうして私が秀吉を尼子勝久のような小敵と同じに見て、あの方針案を作るものか!
よいか、勝久のような小敵には、先ず負けぬ工夫をして、よく身を縮こまらせ堅く守る戦をするのだ。
そうすれば所詮相手は小敵であるので、次第に威勢衰えて結局は敗北するのだ。小敵こそ恐れるべきものである。
さて、現在我々は織田信長を敵とし、羽柴秀吉と合戦に及んでおる。
織田は大敵強敵であろ、中でも羽柴秀吉は大勇にして智を兼備した良将である。
彼は天性の大将であり、敵が弱気であると見て取れば、即座に打ち破り、そのまま足を止めず
三ヶ国も五ヶ国も、直ちに押し入るような弓取りである。
例えば、我等が父元就が厳島で陶晴賢を討ち滅ぼした時、家中からは「一両年ほど置き
戦備を整えて山口に攻め入りましょう」との声が上がった。これを聞いた父上は
『元就の弓矢は古風でな、私ならば陶を討ったその勢いに直に乗り山口に攻め入る。
そうすれば大内義長はその年のうちに滅びるだろう。期間を空けるのは、遠慮過ぎたる弓矢の取り様である!』
そう言って批判なされた。
秀吉は元就様のような大不敵の将であり、味方が少しでも弱気を見せれば、その威勢に任せ大軍を以って即時に攻め潰してくる。
この様な大将が、しかも大軍を以って敵対している以上、我々は勇を専らとして何度も攻めかかり、
彼の戦機を奪い動揺させ、十死に一生の戦いを決せんとする体を示すべきだと、私は言ったのだ。
それを小敵などとの戦と同様に考え、危うい戦を謹んで身を大事とのみ心得るのは、敵に威を奪われ
味方は気後れをし、ついには刀を血塗る事すら無く大敗するものである!
大敵を見ても恐れず、勇みたるこそ良きことなのだ。
思い出して欲しい。元就様が尼子を攻めようと出雲に侵入する時は、戦を後にし謀略を先にして、
陣城を築き、当方の安全を第一に考えられた。
ところが陶のような大敵と戦うときには、彼は2万余、我々はわずか三千で対峙し、風雨の中
厳島に渡り千死一生の合戦を挑まれた。
これは我々が規範とすべきことではないのか!?
秀吉のような敵を勝久などに対するように心得、危ない危ないと謹んでいれば、終には
戦わずして大いに敗亡してしまうだろう。
敵によって対応も変化させるべきなのだ。」
この様に承り、我等も愚かながら、これもまた畢竟の道理であると思いました。
いつも元春様のもとに参って仰せを承れば、これは当然の理であると思い、隆景様のもとに参って
仰せを承れば、これもまた至当であると思いました。
どちらのご所存も、一つとして愚かなものはありませんでした。
この様な名将が、今や二人ながらにして亡くなられたことの、なんと嘆かわしいことでしょう。』
秀吉との戦いについて、吉川広家と小早川隆景の方針の違い。という逸話である
(陰徳太平記)
0560人間七七四年
2012/09/24(月) 10:44:56.30ID:p3i0xl6D0561人間七七四年
2012/09/24(月) 13:40:04.74ID:zK088e/x0562人間七七四年
2012/09/24(月) 17:07:42.40ID:d6MMRShR0563人間七七四年
2012/09/24(月) 18:24:46.93ID:tt2gFvNR松平忠直は讒言を信じて家臣の布施但馬(久世但馬守)を殺害した。
この時、表口より本多富正、好寄屋口より永見伊右衛門、台所口よりは
永井道存が討手として遣された。
その話を聞いた徳川家康が「その道存とは誰だ。
他の二人のようにこのような時に出るべき者なのか」と尋ねると、
本多正純が「それは永井善右衛門のことでこざいます」と答えた。
「善右衛門のことか! 親の秀康の心にかなわず退去した者を
その子が使っておるのか!
他所に口に糊する所がなかったのだな。親が見限った者を
子として養う道理はない。我が生前に再び道存の面を見ることはないだろう!」
家康は相当不機嫌だったようで、忠直としても放置しておくわけにもいかず、
道存は逼塞を命じられた。
――『徳川実紀(武功実録)』
0564人間七七四年
2012/09/24(月) 21:30:29.62ID:maC7aOIv秀忠に対する礼の篤さが権現様の心を溶かしたのか
0565人間七七四年
2012/09/24(月) 21:46:59.11ID:c7kC9PRQhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6023.html
上の話だと永井善左衛門は、秀忠に壺や刀を献上して徳川家に戻った、てことになっているが
秀忠は親の家康の心にかなわなかったものの帰参を許したことに?
0566人間七七四年
2012/09/24(月) 21:56:24.12ID:PFkfcjlj彼は天性大剛勇猛であったので、大工の道具を売却して太刀を買い、太閤が未だ筑前守であったときに
これに奉公し、上月合戦において27歳にて南條元続の若党の頸を獲ってから後、数度の勇を顕し、
特に賤ヶ岳の合戦において比類の無い鑓働きをし次第に立身して高麗の陣の頃には
12万石(10万石とも)を采地し、諸大夫から四位の侍従に昇進した。
正則は酒に関していつも悪い癖があり、酔うと些細な事でも家人を自ら斬り殺したり、
切腹させたりした。
しかし酔っていない時はそのような悪癖は聊かも無かったのだら、そういう時もあまりに理屈を
強く重視する人で、そのため愛という事を知らず(余リニ理強ク被樹ケル故、愛ト云事ヲ不知)、
小さな罪でも許さず、彼の与える罰は常に、手柄を立てた時の賞に勝る物であった。
そんな事だったので人々の心は彼に叛き親しむこと無く、ただ悪鬼天狗のように恐れていた。
(陰徳太平記)
陰徳太平記より、福島正則についての解説である
0567人間七七四年
2012/09/24(月) 22:00:17.68ID:PFkfcjlj×聊かも無かったのだら
◯聊かも無かったのだが
です。
0571人間七七四年
2012/09/25(火) 23:22:08.95ID:/0D5qFmv1597だったしwww
0572人間七七四年
2012/09/26(水) 00:02:11.99ID:NzqqgQxX1997年じゃ平成になってからの叙任になってしまうな
0573人間七七四年
2012/09/26(水) 00:15:53.23ID:zOxjmtoR筆者はもとから市松を良く思ってなさそうね
0574人間七七四年
2012/09/26(水) 00:57:27.13ID:IU4GiR0Q上杉景勝は越後、信濃の旗下の兵を動員して反乱を起こした新発田へ出陣した。
同年九月、
この隙をついて隣国深志城の小笠原貞慶は、兵三千余を率いて上杉方の竜王城を襲った。
この時、城主清野清左衛門佐は景勝の新発田攻めに従って居た為、
城には隠居した父の清就軒と兵四十余が籠るに過ぎなかったが
清就軒は、信玄公以来の武功の将だったので、
兵を三つに分け城内や山岳に潜ませ五千六千の兵に見えるように配置した為、
小笠原勢を食い止めることに成功した。
そして自らは、海津城の村上(山浦)国清の許へ援軍の要請に向かった。
海津城で国清に面会した清就軒は、
「我等が敵を引き付けている内に海津城から兵を出し、
敵の後方から切り崩せば小笠原勢を討ち取る事が出来るでしょう」
と主張したが国清は、病気を理由に出陣を渋った。
これを聞いて清就軒は、
「自身の出陣が無理ならせめて二十三十の寄合武者だけでも寄越すべきである!
このような不義な振る舞いをするのであれば、
川中島の四郡の内に貴殿の下知に従う者は一人も居なくなるだろう!!」
と怒り戦場へ戻って行った。
これに国清もさすがにこたえたのか二日後に配下の島津勢を加勢に向かわせた。
島津勢が到着する前の九月十一日払暁、
小笠原勢は竜王城の守りが堅く進攻は無理だと判断し、兵を九つの備に分け撤退を始めた。
山上からこれを見た清就軒は、
十騎に雑兵四百五十余を率いさせ山上に残し、自らは三十騎を率いて山を駆け下りた。
不意を突かれた小笠原勢は混乱し、歩者二三〇、士五六騎の被害を出して壊走していった。
十月五日、帰国した景勝は清就軒に感状を与え、救援を拒否した国清は、春日山城に召喚され
「今度の様子頼もしからず。ゆくゆく、川中島を敵に取られるべき事眼前なり」
と叱責され海津城主を罷免された。
『管窮武鑑』
0575人間七七四年
2012/09/26(水) 10:27:59.59ID:Ii86Mq/Sちゃんと成功するもんなんだなー。
それにしても、小笠原勢は一度も攻めなかったのか。
0576人間七七四年
2012/09/26(水) 13:16:27.86ID:5xg+0/viもしかしたら、この板の住人が1票ぐらい入れてくれるかもしれん。
0580人間七七四年
2012/09/26(水) 21:00:19.82ID:SlP38sd50582人間七七四年
2012/09/26(水) 23:11:58.10ID:V+z4qb0d0583人間七七四年
2012/09/26(水) 23:25:22.35ID:aENemeea敵の主力が出陣している隙をついて敵地に乱入する小笠原貞慶。
そのまま攻めかかった場合は、こんな感じ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-630.html
0584人間七七四年
2012/09/27(木) 04:30:59.03ID:Q5dWYvzf彼もまた父のように武田家に忠義を尽くしたかというと…、
ついに織田軍の武田征伐が開始され、東駿河の三枚橋城にいた信達は勝頼の元に馳せ参じる!
「勝頼様のおそばで戦いますぜ!」
…しかし実態は、近隣の戸倉城が同時に動き出した北条軍に落とされたため、
恐れおののいて逃げてきただけであった。そのため三枚橋城はそのまま北条軍のものとなってしまった。
これに対し勝頼は「なに三枚橋放棄してこっち来てるんだ!お前はもう地元の海津城に帰ってろ!」
と叱られ、とぼとぼと信濃の海津に帰還する。
その後、やって参りました鬼武蔵!これに対して信達は!
「あたしゃ強い者には逆らいませんぜ。この通り人質も差し出します。へっへっ。」
と息子を人質に出してさっさと降伏、そのまま鬼武蔵の配下になる。
しかし間もなく本能寺の変が発生。鬼武蔵はただちに帰還することに。
すると信達は…!
「おおっと兄さんここからは帰しまへんで。立場は逆転したようですのう!」
と裏切り、一揆衆を率いて鬼武蔵の帰還を妨害する。
これに対し鬼武蔵側は大塚次右衛門を使者に立て、
「こっちには人質がいるんだ!こんな状況で汚ねえ真似しやがって、道を開けろ!」
と強い態度で責めたて、不可侵の約束を取り付ける。しかし…、
「なーにぶっ殺しちまえばいいってことよ。」
と約束を破り攻撃する。
しかしそこは相手は鬼武蔵。あっさり撃退される。
再度不可侵の約束を取り付けられて撤退されてしまう。
しかし鬼武蔵の怒りは収まらず、その後人質は皆殺しにされてしまった。
次に信達は上杉景勝に臣従することにした。
しかしやがて北条氏が勢力を伸ばしてきた。隣の真田昌幸も北条氏に仕えることにしたという。
「こりゃまた強い方に乗っとかな損でんな、上杉はんサイナラ。」
とまたしても裏切ろうとするが…、
景勝「てめえが裏切るだろうことはすでに見抜いてたんだよッ!!」
とここで信達、ついに誅殺されてしまった。
しかも話はここで終わらない。
やがて鬼武蔵の弟・森忠政が川中島に配置される。
そこで忠政が初めに手を付けたことは…、
「ここに兄貴を裏切って随分ナメた真似してくれた奴らがいるってなあ!ケジメつけてもらおかあ!!」
と残る春日一族を徹底的に探し出して皆殺しにしたという。
忠義?なにそれおいしいの?
0585人間七七四年
2012/09/27(木) 08:55:38.89ID:ylUuRTa00586人間七七四年
2012/09/27(木) 09:35:01.19ID:il61QrAl0587人間七七四年
2012/09/27(木) 10:25:33.36ID:g5jwDPI20588人間七七四年
2012/09/27(木) 12:41:41.93ID:K93fT0nf0589人間七七四年
2012/09/27(木) 12:57:03.26ID:DZcRIs4J真田パパンも春日信達も、「長篠合戦で兄ちゃん死んじゃった組」ですな
武田の武将、長篠後に運命かわっちゃった人がたくさんいるね
0590人間七七四年
2012/09/27(木) 13:09:46.29ID:ZIUk9L710591人間七七四年
2012/09/27(木) 14:05:28.68ID:5KBqIbgC「彦根往古ノ聞書」(慶大図書館収蔵)から
「(井伊)直孝様の時代、家中に上泉権左衛門という人がいた。この人はお見目えの時、髪を結わず長髪で登城したため、藩主の目にとまりお叱りを頂戴した」
剣豪・上泉伊勢守の孫、居合の達人の権左衛門は「拙者は髪にて御奉公は仕らず」と抗弁
結局は、直孝は激怒し、閉門処分に。彦根も退去して尾張に仕える
彦根藩ではその後、長髪登城で2人、ちょんまげを糸でなく藁で結った1人が、閉門処分となっている
戦国期には自由だった髪型も、寛永頃には戦闘の準備行動であるちょんまげが主君への奉仕を象徴し、管理統制へ移行したようだ
…直孝に抗弁して刃傷沙汰にならなかったから、いい話だったかもしれない…
0593人間七七四年
2012/09/27(木) 14:18:19.06ID:g5jwDPI20594人間七七四年
2012/09/27(木) 14:24:26.63ID:4Q5aK0LGttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?no=4215&spの逸話を思い出した
しかし糸でも紙でもなく藁で髪結ぶっておしゃれ上級者すぎるなw
0595人間七七四年
2012/09/27(木) 15:04:30.88ID:OFBUKKBq0596人間七七四年
2012/09/27(木) 16:17:38.68ID:6bzTicsI0597人間七七四年
2012/09/27(木) 17:36:03.46ID:4pQ4ekKl恐らく家を残すことに気持ちが向かい過ぎていたんだな
海津城に戻ってからの行動も、そもそも地政学的にも勢力の大きさ的にも風に靡き
機会主義的な行動も選ばざるを得ず、地侍や農民たちからの突き上げに抗せなかった
面もあるんだろう
愚将凡将と評される人にも全く持って弁護の余地が無い訳ではないさ
0602人間七七四年
2012/09/27(木) 23:35:26.78ID:YE1hKJAw人質37564の話も、こういう事情があったとしたら致し方なく思えるな
てゆーかこいつ、正真正銘のクズすぎて言葉が出ねえ・・・
0603人間七七四年
2012/09/27(木) 23:42:06.24ID:jLsdpooI権左衛門さんってこのことで出奔して尾張に流れ着いて
尾張柳生の所にやってきて剣聖の孫の実力を遺憾なく発揮することになるのか
0604人間七七四年
2012/09/28(金) 00:16:00.10ID:Wj5+BYCP水軍のサポートあってこその拠点だしな
防御力に乏しいし既に兵も足りないので籠城して持久戦も難しく、
撤退するのも止むを得ない選択だろう
>>584はやや悪意あり過ぎないか
0605人間七七四年
2012/09/28(金) 00:18:06.33ID:cG/fzyhGさらにたちが悪いのは、こいつがこういうことするから
虎綱の甥は甲陽軍鑑の執筆を佐渡島に逃れて行わなければならず、
その結果甲陽軍鑑は間違いだらけになり、後世史料的価値なしと断じられることに…。
0606人間七七四年
2012/09/28(金) 17:37:46.53ID:JqkI9rwb0607人間七七四年
2012/09/28(金) 17:52:01.16ID:IO6GurYO0608人間七七四年
2012/09/29(土) 10:10:52.43ID:wO9vk1yW本職なんか、してる暇ないってくらい
0609人間七七四年
2012/09/29(土) 10:17:21.15ID:v/n0K/kkhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/890234
真田幸村が関ヶ原の後、十勇士とともに豊臣の味方を募りながら悪党倒しつつ諸国を漫遊するという
水戸黄門真田幸村バージョン
0610人間七七四年
2012/09/29(土) 14:36:21.07ID:v/n0K/kkある時の事、宗像の大宮司より政資に、印子金(良質の金)で作った獅子の像一匹を増進された。
その姿は後ろを向く形であったため、政資は、対となるもう一匹があるはずだと思い、それも合わせて
自分に渡すようにと、所望の使いを、数度にわたって大宮司へと遣わした。
しかしその獅子像は元来1匹しか無かったため、大宮司はその旨を伝えその要求を断ったのであるが、
政資はこれを信じず、
「私に渡さないため深く秘蔵するとは!なんと憎いことか!」
と大いに怒り、ついに大宮寺を自害させた。大宮司は自害に及んで、このような辞世の句を詠んだ
『根をたてば 末は枯葉の藤原や 何せうにとて打捨にけり』(藤の原と、藤原氏である少弐氏を懸けている)
後に大内義興によって追討された、少弐政資についての逸話である
(陰徳太平記)
0611人間七七四年
2012/09/29(土) 18:49:47.03ID:XbXJhMnF0612人間七七四年
2012/09/29(土) 20:23:06.65ID:cKk1FnPP0613人間七七四年
2012/09/29(土) 20:33:54.95ID:LkCWWSBB0614人間七七四年
2012/09/30(日) 00:49:44.53ID:hTyMeY/dttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3815.html
こっちだと獅子の像が猫の像になってたりするけど同じ話っぽいよね
0615人間七七四年
2012/09/30(日) 08:01:26.61ID:XwnLgV5F0616人間七七四年
2012/09/30(日) 10:57:38.72ID:fCyEyFS1・・・少弐さんというといつ討ち死にするんだろうって聞いてしまう
0617人間七七四年
2012/09/30(日) 14:18:30.19ID:lDqfzO4N政元の養子細川澄元を擁立するとして政元に反旗を翻した。
しかしこの反乱に追随するものはおらず、逆に元一の弟・薬師寺長忠によって攻撃を受けるなどし失敗、
9月18日には元一の籠る淀城は追討軍により落城、自害者数名、討たれたもも数知れずという状況になったが、
それでも薬師寺元一は脱出した。しかし水中村という所の葦の中に潜んでいた所を発見され、
生け捕られて薬師寺氏の菩提寺である一元院に監禁された。
10月2日には赤沢宗益討伐の軍勢も出発した。
この様な中薬師寺元一は切腹の処分と決まった。
元一は住持に引導を請うた時、この様に言った
「ご存知のように私は常に一の文字を好んでいる。
故に名は与一、実名は元一、寺は一元院と号しておる!
しかれば腹も一文字に斬り申す!」
そうして見事真一文字に腹を斬って死んだ。
文字通り最後まで一の文字に拘った、薬師寺元一についての逸話である
(陰徳太平記)
ちなみにこの薬師寺元一の辞世の句は
『地獄には よき我が主(若衆)のあるやとて 今日おもひたつ旅衣かな』
と伝わる。
彼が主君政元と衆道関係にあったとも言われる所以である。
0618人間七七四年
2012/09/30(日) 14:50:10.47ID:UYXoHlotぜひ大河ドラマの主人公になって欲しいキャラだな
0619人間七七四年
2012/09/30(日) 15:55:03.14ID:T6lieRIpとりわけ山本勘助の活躍はその実在すら疑われるほど怪しいものなのは周知の通り。
しかし甲陽軍鑑の怪しさはこれだけにとどまらない。
その活躍が怪しい人物がもう一人いるのだ。
その人物とは、「不死身の鬼美濃」で知られる馬場信春。
武田四名臣の一人とされ、甲陽軍鑑の中でもさかんに信玄に助言するさまが描かれる。
しかし実際の活躍の記録は信長公記での長篠の合戦の記録にとどまる。
三方原の合戦の後、信春が800の手勢で信長軍1万を退けたという話もあるが、これも明白に誤りである。
なぜならこの戦いで美濃岩村城を信春が落としたことになっているからだ。
実際の岩村城は三方原以前に武田方に降っており、三方原後秋山虎繁が入城しており、馬場の記録はない。
さらに馬場発給の竜朱印状はなく、政治的に高い地位にいた記録はない。
実は甲陽軍鑑の中でもよく読めば馬場の地位の低さが見えてくる。
他の四名臣や秋山、原昌胤などは20代で150騎ほどを与えられているが、馬場は32歳でようやく50騎である。
また他の将がいずれも城主、城代経験があるのに対し、馬場はない。
さらには築城術を山本勘助から教わったなどという怪しい話が残るばかりである。
0620人間七七四年
2012/09/30(日) 16:00:35.30ID:5uAaIze50621人間七七四年
2012/09/30(日) 16:05:12.89ID:XjEq5PrD0622人間七七四年
2012/09/30(日) 18:26:43.69ID:q0viYpZX0623人間七七四年
2012/09/30(日) 20:45:05.61ID:/SVpEYRs以下、ややスレ違いかつ長文の為、適当に読み飛ばしてください
まず甲陽軍鑑は、近年の研究によれば、国語学的には、その語彙は江戸期ではなく戦国期の語彙が多くを占めており
書誌学的研究からは、編者とされる小幡景憲がかなり原資料に充実に書写を行っていたことが、明らかになっていて
少なくとも(関係者の多くが生存していた)元和年間の認識が反映された、
武田時代の史料や関係者からの聞き取りを踏まえた記述を含む史料である(丸島和洋氏)といった感じに、
かつての通説が言うほどいい加減なものではなく、
一定の配慮・留保はしつつも以前よりはやや肯定的に評価するのが最近の学会の風潮になっている
で、馬場については、
>>他の四名臣や秋山、原昌胤などは20代で150騎ほどを与えられているが、馬場は32歳でようやく50騎である。
馬場は、他の4名臣や秋山、原昌胤と比べると15歳くらい年上だから
馬場が25くらいの時期、ようやく晴信がクーデターを起こして甲斐一国をまとめ挙げた段階
他の武将は、20代の頃、信濃への侵攻を重ねて武田家の所領が急速に拡大している時期にあたり
若くても出世しやすかった
実際、この時期に馬場も120騎持ちに加増されたと甲陽軍鑑にも記してあったはず
異なる時期・状況での麾下兵力を比べるのは誤解を招くのではなかろうか
あと信春が少なくとも牧之島城代だったことは間違いないはず
武田勝頼の代に牧之島城代を信春の息子とされる「馬場民部少輔」が務めているけど
(勝頼が馬場民部少輔の同心衆に軍記粛正を指示する文書が残っている)
父の後を継いだ以外に考えられないし
馬場信春がその知名度に比べてえらく一次資料が少ない謎な人物であることは確かだけど
だからといって、「怪しい話」で一括りにしてしまうのはいかがなものか
ややスレ違いな長文失礼しました
0624人間七七四年
2012/09/30(日) 21:31:39.98ID:aiKXKzxe甲陽軍鑑は江戸期に逸話の編集してた人が虚妄多しって言ってるくらい滅茶苦茶だからなあ
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