戦国ちょっと悪い話33
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0001人間七七四年
2012/08/14(火) 19:13:27.50ID:90iWq5dq戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1339809373/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0489人間七七四年
2012/09/20(木) 11:02:12.15ID:SHb5RPY50491人間七七四年
2012/09/20(木) 11:36:35.24ID:wUnYQsSP滅んだり小大名で終わったりしてたら殆ど戻って来なかったと思うぞ。
0492人間七七四年
2012/09/20(木) 13:59:32.40ID:/XjT+PGhまぁそういう、勝ち馬に乗ろうとした奴もいただろうけど、一向一揆の時に一揆に参加して
終息後に降伏せずに一旦は出奔した連中とか、結局ほんの数年で帰参した奴も結構いた
当然、当時の家康は、天下どころかなんとか三河一国を平定っていう段階
たぶん、「どうせ降伏しても冷や飯喰わされるんだろ!」と思って出奔したものの、あとで
降伏組が意外に冷遇されてなかったりする様子を聞いて、「なんだ、じゃ帰ろ」ってことに
なったのではないかと
0494人間七七四年
2012/09/20(木) 15:16:58.50ID:ufXKlLDXつうか一揆側って次男坊以下や分家とかが多かったって昔の群像かなんかで書かれてるのを読んだ記憶があるんじゃが
0495人間七七四年
2012/09/20(木) 18:50:17.79ID:mT5W41pB退却する奇襲部隊を追撃した幸長だったが、この退却は偽装であり、浅野勢は伏兵に囲まれ、窮地に陥った。
浅野勢は大将の幸長みずから鉄砲を連射し、槍を振るい反撃したが、あるいは討たれ、あるいは散り、
城の惣構に逃げ着いた時には、幸長に従う者は重臣の浅野河内守と、徒歩武者の橋本六郎のみとなってしまった。
「ようやく逃げおおせたか。やれやれ、安心したら腹が減ったのう。」
「殿、これを。」
やっと一息ついて飢えを漏らした幸長に、六郎は腰の袋から握り飯を三つ取り出し、一つは幸長に献じ、
一つは自分で食い、残る一つを再び腰袋に収めた。
「おっ、良い物を持っておるではないか。残る一つ、わしにくれぬか?」
六郎の様子を見ていた河内守の頼みに対し六郎は、この重臣を睨みつけて答えた。
「これは、拙者の予備食にござる。いざという時はこれを食って最後の力を振るい、殿の馬前に果てる覚悟。
貴殿こそ、お家の重職たる身が腰兵糧の用意も無く、どうして戦陣に臨んでおられるのか?
今日、奇襲に敗れたのも貴殿らの、そのような用意の無さゆえではありませぬかな。」
戦後、日本に帰った幸長に河内守は、六郎を己の組下にする事を望んだが、河内守の心底を見抜いていた幸長は
ついにこれを許さなかった。(近古史談より)
橋本家は、芸州浅野藩家臣として永く続いたという。
島津家・中馬大蔵と浅野家・橋本六郎、どこで差がついたのか 慢心、環境の違い
0496人間七七四年
2012/09/20(木) 18:58:25.28ID:6+IZfnb9中馬の場合は駕篭かきに食わせたほうが
それぞれの主君の生き残る確率が高くなるわけで
なぜ差がついた、とか言われなきゃいけないのかがわからない
0498人間七七四年
2012/09/20(木) 22:35:28.68ID:wUnYQsSP0499人間七七四年
2012/09/20(木) 23:39:52.44ID:7951B03d河内守は自分の分があるにもかかわらず六郎に良い物持ってんなって言ったんだろうか
もしそうなら河内守は仲間を盾にして逃げおおせたような奴なんだろうな
0500人間七七四年
2012/09/20(木) 23:45:18.01ID:pQEoZRdk0501人間七七四年
2012/09/20(木) 23:49:47.93ID:3fQNXpI2ttp://photo.uzra.jp/event/2012101314sp.php
0502人間七七四年
2012/09/21(金) 09:45:26.64ID:AFJc4VZR0503人間七七四年
2012/09/21(金) 18:03:47.66ID:MHus+mKZ向かったところで、中村と言う場所で落ち武者狩りの郷民に取り囲まれた。
盛政は彼らを睨みつけ
「私の命運はここに付きた!再び合戦をしても勝機はないだろう。
お前たち、あの藤吉猿面郎のところへ私を連れて行け!ひとこと言っておきたいことがある。」
こうして盛政はこの郷民たちに捕われ、北の庄の浅野長政のもとに連行された。
長政は盛政を見て、彼を侮るように言った
「あなたは鬼玄蕃とまで言われた人ではないか!どうして未だ死なずにいるのか!?」
盛政はこれを聞くと
「汝はなんと愚かなことか。かつて源頼朝は大庭景親に負けて伏木の中に隠れ、将軍足利義稙(原文では義昭)は
細川政元に捕われ幽閉されたが、後についに脱出し大功を立てたではないか!
将たるものが、どうして容易く敵に自分の死を許すことがあろうか!」
これを聞いた人たちはみな、盛政の凄まじい気魂に舌を巻いたという。
(佐久間軍記)
0504人間七七四年
2012/09/21(金) 18:18:55.37ID:61LT6kna0506人間七七四年
2012/09/21(金) 19:02:33.25ID:2M0Px8yd0507人間七七四年
2012/09/21(金) 19:29:48.96ID:ggKjd+3g郷民も身ぐるみはぐより褒美をもらうほうが得だと思ったんだろうね
0509人間七七四年
2012/09/21(金) 21:15:12.12ID:Dhfzjym20511人間七七四年
2012/09/22(土) 01:02:26.01ID:F7XLBAknそれとも豊臣家の中枢に居た人なのにあまりにも早く家康の軍門に下ったから
江戸初期には侮られて小物役にふさわしいと思われてたんだろうか
0512人間七七四年
2012/09/22(土) 01:07:25.95ID:QuUwL04tという話が本当ならどの豊臣恩顧の武将よりも豊臣への
恩は深いはずなのに...
0513人間七七四年
2012/09/22(土) 05:33:44.59ID:v4hiVesG0514人間七七四年
2012/09/22(土) 06:06:52.39ID:qRdHmeZi0515人間七七四年
2012/09/22(土) 06:14:44.22ID:JJ8Bdbbi0516人間七七四年
2012/09/22(土) 07:34:28.08ID:/3atuCBe捕縛された佐久間盛政も山口甚兵衞、副田甚左衞門に警護され京へとその身を移された。
秀吉は浅野長政を使いに立て盛政にこう言った
「私はお主の大功を知っているので、殺すに忍びない。そこで怨敵と言う思いをひるがえして、私に従ってはくれないか?
九州の諸大名は未だ服属していない。私はお主に肥後を与え、九州の討伐を任せたいと考えているのだ。」
盛政はこれを聞くと
「命を助けてもらい、その上大国を与えられるということ、これは後代までの名誉である。
私が九州に行けば1年のうちに平定するだろう。平定を終えて上洛をして、秀吉に対面すれば、
その時私は必ず憤怒の感情が生じて、思わずとも秀吉を斬り捨てるだろう。
そうでなくても肥後に下って、反乱を起こすだろう。私は秀吉とはそれほど相容れないのだ。
命を助けてもらった恩、国主としてもらった恩を返すこと無く却って災いになるというのはどうかと思うだろう?
恩というなら、速やかに死罪にしてもらいたい!」
長政は帰って秀吉にこれを報告すると、秀吉は再び長政を盛政の元に使いさせた
「もしかしてお主は、私が何かはかりごとをお主に対して企んでいると考えているのではないか?
私はそんなことはしない!その事は天のご照覧に任せる!とにかく、早く私に従って欲しい。」
盛政は答えた
「私は秀吉にはかりごとが有ると考えてはいない。そもそもそういう話ではない。
勇者たるもの発した言葉を、再び翻すべきではない!
私に対しては明日、必ず車に乗せて洛中を一見させて、河原にて殺されるのが良いだろう。」
秀吉もこれには
「勇者の一言というものは俚諺にもあるように、もはやとても、私に従うような事はないだろう。」
と、ついに盛政の助命を諦め、彼に最期の衣装を与えた。
佐久間盛政は自らの小袖の上に染物の赤い大広袖を着て車に乗った。
その姿は、身長六尺(約180センチ)、顔は紅潮し、頬髭があったと云う。
天正11年(1583)5月12日、年齢は30、車にて洛中を引き回れた。
世に聞こえた鬼玄蕃を見ようと貴賎上下を問わず馬車道に横たわり、
男女が巷に立ち並んでこれを見た。
盛政は引き回されながら彼らを睨みつけ、河原において処刑されたとの事である。
(佐久間軍記)
以上、佐久間軍記に見える、佐久間盛政の処刑に至る様子である。
0517人間七七四年
2012/09/22(土) 08:51:18.05ID:lu9U/Xis0518人間七七四年
2012/09/22(土) 09:24:56.87ID:LIK4VB4Q0519人間七七四年
2012/09/22(土) 09:49:16.48ID:muq0fmif寧ろ、信長さんの処刑命令をあっさり受け入れた秀吉さんを受け入れられないんじゃないのかな〜
0520人間七七四年
2012/09/22(土) 10:45:05.55ID:F7XLBAkn0521人間七七四年
2012/09/22(土) 11:40:44.23ID:ZpdO2oWP0522人間七七四年
2012/09/22(土) 11:52:36.88ID:jGro9prD0523人間七七四年
2012/09/22(土) 12:00:39.49ID:rIHbkXdq0524人間七七四年
2012/09/22(土) 12:07:25.53ID:LoeRgdT80525人間七七四年
2012/09/22(土) 12:14:52.32ID:hBrVEyEn活動時期は江戸初期だけど生まれは戦国ってことで一つ
0526人間七七四年
2012/09/22(土) 12:24:46.56ID:96f3VvAj浅井長政 (1545年 - 1573年) - 戦国時代の武将・大名。(浅井氏)
浅野長政 (1547年 - 1611年) - 戦国時代から江戸時代の武将・大名。(浅野氏)
黒田長政 (1568年 - 1623年) - 戦国時代から江戸時代の武将・大名。(浅井氏)
池田長政 (1575年 - 1607年) - 戦国時代から江戸時代の武将。(池田氏)
上杉長政 (生年不詳 - 1628年) - 江戸時代の旗本。(上条上杉家)
織田長政 (大名) (1587年 - 1670年) - 江戸時代の大名。(織田氏、芝村藩)
山田長政 (1590年 - 1630年) - 江戸時代、シャム(現タイ)の日本人町の頭領として活躍した人物。
関長政 (1612年 - 1698年) - 江戸時代の大名。(関氏、宮川藩)
織田長政 (旗本) (1628年 - 1690年) - 江戸時代の旗本。(織田氏)
0527人間七七四年
2012/09/22(土) 12:26:14.75ID:4Cw0SdeS0528人間七七四年
2012/09/22(土) 12:28:22.84ID:96f3VvAj「オレは14歳で初陣して以来、手柄を何度も取った。
しかし、人は皆『如水の子だから当然だ』という目をしている。
その点、幸長はさして武辺者でもない弾正(浅野長政)の子だから、
あまねく天下から武勇をもてはやされている」と。
0529人間七七四年
2012/09/22(土) 12:32:40.70ID:EB2SNDHC0532人間七七四年
2012/09/22(土) 13:23:50.56ID:F7XLBAknそれも同時代の人から見ればとびきりの武辺者だと思うけど
0533人間七七四年
2012/09/22(土) 13:43:27.23ID:uCrdzVEhあのクロカンの息子なんだからさぞ出来がいいんだろう、
とか思われてたんじゃないかと
0534人間七七四年
2012/09/22(土) 13:47:22.01ID:fd1muouz大隅の城において薩州様が手討ちに及ばれたことがあった。
その時、お使いになった正宗の切先が鴨居に当たり折れてしまったそうである。
これ以来島津家においては正宗を差し料とはしないと言うことだ。
これは薩摩の国人、小川權兵衛から聞いた話である。
『鍛錬玉函』
『鍛錬秘函』
やっちゃった感がすごいですが
これはどの島津の殿様なんでしょうねえ・・・・・・?
0536人間七七四年
2012/09/22(土) 14:00:10.18ID:96f3VvAj0538人間七七四年
2012/09/22(土) 14:13:58.05ID:F7XLBAknそう言えば嫁を失った後の秀忠の手討ち話は豪快で爽快感すらあったな
0540人間七七四年
2012/09/22(土) 14:56:48.87ID:rIHbkXdq0541人間七七四年
2012/09/22(土) 15:18:38.01ID:pPMT5WgO0543人間七七四年
2012/09/22(土) 15:52:52.43ID:nlPpsqja0544人間七七四年
2012/09/22(土) 16:07:36.49ID:hBrVEyEn鴨居とかで刃毀れしちゃう間抜けは、まああいつだな
東郷に襲いかかって返り討ちにあったのと同じ匂いがする
0545人間七七四年
2012/09/22(土) 16:10:34.29ID:pPMT5WgO0546人間七七四年
2012/09/22(土) 16:21:21.93ID:URmyPShf0547人間七七四年
2012/09/22(土) 16:59:16.30ID:ttUqhglz0548人間七七四年
2012/09/22(土) 17:21:58.61ID:96f3VvAj0550人間七七四年
2012/09/22(土) 20:47:10.39ID:pPMT5WgO0551人間七七四年
2012/09/23(日) 11:12:38.64ID:yvQg5f+q0552人間七七四年
2012/09/23(日) 13:42:41.15ID:Bs7TKjKoここに出た話では棚の中に差し込んで斬ったんだっけ
0553人間七七四年
2012/09/23(日) 14:59:53.21ID:yvQg5f+q鴨井の真下あたりにいるのを切るとか鴨井から一歩のところで振りかぶるとかしないと当たらないな
0554人間七七四年
2012/09/23(日) 15:38:24.29ID:RI8/iPDP0555人間七七四年
2012/09/23(日) 18:09:57.65ID:yEt8ZH620556人間七七四年
2012/09/23(日) 18:12:44.76ID:UJFrPpIcその下の横木に刀が食い込むくらいになるらしい
重位からしてみればYOU、鴨居ごと斬っちゃいなYO!ってことか?
0557人間七七四年
2012/09/23(日) 18:22:16.85ID:RI8/iPDP0558人間七七四年
2012/09/23(日) 19:07:35.90ID:dMgqV0aj0559人間七七四年
2012/09/23(日) 19:47:54.29ID:EMkUoTnH『これは未だ、吉川元春様が生きておられ、我々と織田信長との和平が敗れ、織田との戦いが続いていた頃のことです。
ある時、元春様より隆景様に、次の合戦におけるご自身の方針の所存を遣いを以ってお伝えなされました。
これを聞いた隆景様は驚かれ
「元春は若武者か、五百三百の侍大将のつもりか!彼の言うような事が出来るわけがない、
こんなものは討ち死にするだけだ!彼はここから一歩も引き下がらず、敵に向かって攻めかけるとのみ言っている!
敵の大将である羽柴秀吉は大敵である。その秀吉との争いで、このように短慮で勇一途を専らにしては、
大敗するのが目に見えておる。このような作戦は、尼子勝久程度の敵に対してするものだ!」
私たちは隆景様の仰ったことを、誠に道理だと思いました。この事は元春様が誤っていると考えたため、
元春様の元に行き、この事を申し上げました。すると元春様は
「隆景ともあろう者が、なんと武道を心得ぬ事を言うものだろうか!
どうして私が秀吉を尼子勝久のような小敵と同じに見て、あの方針案を作るものか!
よいか、勝久のような小敵には、先ず負けぬ工夫をして、よく身を縮こまらせ堅く守る戦をするのだ。
そうすれば所詮相手は小敵であるので、次第に威勢衰えて結局は敗北するのだ。小敵こそ恐れるべきものである。
さて、現在我々は織田信長を敵とし、羽柴秀吉と合戦に及んでおる。
織田は大敵強敵であろ、中でも羽柴秀吉は大勇にして智を兼備した良将である。
彼は天性の大将であり、敵が弱気であると見て取れば、即座に打ち破り、そのまま足を止めず
三ヶ国も五ヶ国も、直ちに押し入るような弓取りである。
例えば、我等が父元就が厳島で陶晴賢を討ち滅ぼした時、家中からは「一両年ほど置き
戦備を整えて山口に攻め入りましょう」との声が上がった。これを聞いた父上は
『元就の弓矢は古風でな、私ならば陶を討ったその勢いに直に乗り山口に攻め入る。
そうすれば大内義長はその年のうちに滅びるだろう。期間を空けるのは、遠慮過ぎたる弓矢の取り様である!』
そう言って批判なされた。
秀吉は元就様のような大不敵の将であり、味方が少しでも弱気を見せれば、その威勢に任せ大軍を以って即時に攻め潰してくる。
この様な大将が、しかも大軍を以って敵対している以上、我々は勇を専らとして何度も攻めかかり、
彼の戦機を奪い動揺させ、十死に一生の戦いを決せんとする体を示すべきだと、私は言ったのだ。
それを小敵などとの戦と同様に考え、危うい戦を謹んで身を大事とのみ心得るのは、敵に威を奪われ
味方は気後れをし、ついには刀を血塗る事すら無く大敗するものである!
大敵を見ても恐れず、勇みたるこそ良きことなのだ。
思い出して欲しい。元就様が尼子を攻めようと出雲に侵入する時は、戦を後にし謀略を先にして、
陣城を築き、当方の安全を第一に考えられた。
ところが陶のような大敵と戦うときには、彼は2万余、我々はわずか三千で対峙し、風雨の中
厳島に渡り千死一生の合戦を挑まれた。
これは我々が規範とすべきことではないのか!?
秀吉のような敵を勝久などに対するように心得、危ない危ないと謹んでいれば、終には
戦わずして大いに敗亡してしまうだろう。
敵によって対応も変化させるべきなのだ。」
この様に承り、我等も愚かながら、これもまた畢竟の道理であると思いました。
いつも元春様のもとに参って仰せを承れば、これは当然の理であると思い、隆景様のもとに参って
仰せを承れば、これもまた至当であると思いました。
どちらのご所存も、一つとして愚かなものはありませんでした。
この様な名将が、今や二人ながらにして亡くなられたことの、なんと嘆かわしいことでしょう。』
秀吉との戦いについて、吉川広家と小早川隆景の方針の違い。という逸話である
(陰徳太平記)
0560人間七七四年
2012/09/24(月) 10:44:56.30ID:p3i0xl6D0561人間七七四年
2012/09/24(月) 13:40:04.74ID:zK088e/x0562人間七七四年
2012/09/24(月) 17:07:42.40ID:d6MMRShR0563人間七七四年
2012/09/24(月) 18:24:46.93ID:tt2gFvNR松平忠直は讒言を信じて家臣の布施但馬(久世但馬守)を殺害した。
この時、表口より本多富正、好寄屋口より永見伊右衛門、台所口よりは
永井道存が討手として遣された。
その話を聞いた徳川家康が「その道存とは誰だ。
他の二人のようにこのような時に出るべき者なのか」と尋ねると、
本多正純が「それは永井善右衛門のことでこざいます」と答えた。
「善右衛門のことか! 親の秀康の心にかなわず退去した者を
その子が使っておるのか!
他所に口に糊する所がなかったのだな。親が見限った者を
子として養う道理はない。我が生前に再び道存の面を見ることはないだろう!」
家康は相当不機嫌だったようで、忠直としても放置しておくわけにもいかず、
道存は逼塞を命じられた。
――『徳川実紀(武功実録)』
0564人間七七四年
2012/09/24(月) 21:30:29.62ID:maC7aOIv秀忠に対する礼の篤さが権現様の心を溶かしたのか
0565人間七七四年
2012/09/24(月) 21:46:59.11ID:c7kC9PRQhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6023.html
上の話だと永井善左衛門は、秀忠に壺や刀を献上して徳川家に戻った、てことになっているが
秀忠は親の家康の心にかなわなかったものの帰参を許したことに?
0566人間七七四年
2012/09/24(月) 21:56:24.12ID:PFkfcjlj彼は天性大剛勇猛であったので、大工の道具を売却して太刀を買い、太閤が未だ筑前守であったときに
これに奉公し、上月合戦において27歳にて南條元続の若党の頸を獲ってから後、数度の勇を顕し、
特に賤ヶ岳の合戦において比類の無い鑓働きをし次第に立身して高麗の陣の頃には
12万石(10万石とも)を采地し、諸大夫から四位の侍従に昇進した。
正則は酒に関していつも悪い癖があり、酔うと些細な事でも家人を自ら斬り殺したり、
切腹させたりした。
しかし酔っていない時はそのような悪癖は聊かも無かったのだら、そういう時もあまりに理屈を
強く重視する人で、そのため愛という事を知らず(余リニ理強ク被樹ケル故、愛ト云事ヲ不知)、
小さな罪でも許さず、彼の与える罰は常に、手柄を立てた時の賞に勝る物であった。
そんな事だったので人々の心は彼に叛き親しむこと無く、ただ悪鬼天狗のように恐れていた。
(陰徳太平記)
陰徳太平記より、福島正則についての解説である
0567人間七七四年
2012/09/24(月) 22:00:17.68ID:PFkfcjlj×聊かも無かったのだら
◯聊かも無かったのだが
です。
0571人間七七四年
2012/09/25(火) 23:22:08.95ID:/0D5qFmv1597だったしwww
0572人間七七四年
2012/09/26(水) 00:02:11.99ID:NzqqgQxX1997年じゃ平成になってからの叙任になってしまうな
0573人間七七四年
2012/09/26(水) 00:15:53.23ID:zOxjmtoR筆者はもとから市松を良く思ってなさそうね
0574人間七七四年
2012/09/26(水) 00:57:27.13ID:IU4GiR0Q上杉景勝は越後、信濃の旗下の兵を動員して反乱を起こした新発田へ出陣した。
同年九月、
この隙をついて隣国深志城の小笠原貞慶は、兵三千余を率いて上杉方の竜王城を襲った。
この時、城主清野清左衛門佐は景勝の新発田攻めに従って居た為、
城には隠居した父の清就軒と兵四十余が籠るに過ぎなかったが
清就軒は、信玄公以来の武功の将だったので、
兵を三つに分け城内や山岳に潜ませ五千六千の兵に見えるように配置した為、
小笠原勢を食い止めることに成功した。
そして自らは、海津城の村上(山浦)国清の許へ援軍の要請に向かった。
海津城で国清に面会した清就軒は、
「我等が敵を引き付けている内に海津城から兵を出し、
敵の後方から切り崩せば小笠原勢を討ち取る事が出来るでしょう」
と主張したが国清は、病気を理由に出陣を渋った。
これを聞いて清就軒は、
「自身の出陣が無理ならせめて二十三十の寄合武者だけでも寄越すべきである!
このような不義な振る舞いをするのであれば、
川中島の四郡の内に貴殿の下知に従う者は一人も居なくなるだろう!!」
と怒り戦場へ戻って行った。
これに国清もさすがにこたえたのか二日後に配下の島津勢を加勢に向かわせた。
島津勢が到着する前の九月十一日払暁、
小笠原勢は竜王城の守りが堅く進攻は無理だと判断し、兵を九つの備に分け撤退を始めた。
山上からこれを見た清就軒は、
十騎に雑兵四百五十余を率いさせ山上に残し、自らは三十騎を率いて山を駆け下りた。
不意を突かれた小笠原勢は混乱し、歩者二三〇、士五六騎の被害を出して壊走していった。
十月五日、帰国した景勝は清就軒に感状を与え、救援を拒否した国清は、春日山城に召喚され
「今度の様子頼もしからず。ゆくゆく、川中島を敵に取られるべき事眼前なり」
と叱責され海津城主を罷免された。
『管窮武鑑』
0575人間七七四年
2012/09/26(水) 10:27:59.59ID:Ii86Mq/Sちゃんと成功するもんなんだなー。
それにしても、小笠原勢は一度も攻めなかったのか。
0576人間七七四年
2012/09/26(水) 13:16:27.86ID:5xg+0/viもしかしたら、この板の住人が1票ぐらい入れてくれるかもしれん。
0580人間七七四年
2012/09/26(水) 21:00:19.82ID:SlP38sd50582人間七七四年
2012/09/26(水) 23:11:58.10ID:V+z4qb0d0583人間七七四年
2012/09/26(水) 23:25:22.35ID:aENemeea敵の主力が出陣している隙をついて敵地に乱入する小笠原貞慶。
そのまま攻めかかった場合は、こんな感じ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-630.html
0584人間七七四年
2012/09/27(木) 04:30:59.03ID:Q5dWYvzf彼もまた父のように武田家に忠義を尽くしたかというと…、
ついに織田軍の武田征伐が開始され、東駿河の三枚橋城にいた信達は勝頼の元に馳せ参じる!
「勝頼様のおそばで戦いますぜ!」
…しかし実態は、近隣の戸倉城が同時に動き出した北条軍に落とされたため、
恐れおののいて逃げてきただけであった。そのため三枚橋城はそのまま北条軍のものとなってしまった。
これに対し勝頼は「なに三枚橋放棄してこっち来てるんだ!お前はもう地元の海津城に帰ってろ!」
と叱られ、とぼとぼと信濃の海津に帰還する。
その後、やって参りました鬼武蔵!これに対して信達は!
「あたしゃ強い者には逆らいませんぜ。この通り人質も差し出します。へっへっ。」
と息子を人質に出してさっさと降伏、そのまま鬼武蔵の配下になる。
しかし間もなく本能寺の変が発生。鬼武蔵はただちに帰還することに。
すると信達は…!
「おおっと兄さんここからは帰しまへんで。立場は逆転したようですのう!」
と裏切り、一揆衆を率いて鬼武蔵の帰還を妨害する。
これに対し鬼武蔵側は大塚次右衛門を使者に立て、
「こっちには人質がいるんだ!こんな状況で汚ねえ真似しやがって、道を開けろ!」
と強い態度で責めたて、不可侵の約束を取り付ける。しかし…、
「なーにぶっ殺しちまえばいいってことよ。」
と約束を破り攻撃する。
しかしそこは相手は鬼武蔵。あっさり撃退される。
再度不可侵の約束を取り付けられて撤退されてしまう。
しかし鬼武蔵の怒りは収まらず、その後人質は皆殺しにされてしまった。
次に信達は上杉景勝に臣従することにした。
しかしやがて北条氏が勢力を伸ばしてきた。隣の真田昌幸も北条氏に仕えることにしたという。
「こりゃまた強い方に乗っとかな損でんな、上杉はんサイナラ。」
とまたしても裏切ろうとするが…、
景勝「てめえが裏切るだろうことはすでに見抜いてたんだよッ!!」
とここで信達、ついに誅殺されてしまった。
しかも話はここで終わらない。
やがて鬼武蔵の弟・森忠政が川中島に配置される。
そこで忠政が初めに手を付けたことは…、
「ここに兄貴を裏切って随分ナメた真似してくれた奴らがいるってなあ!ケジメつけてもらおかあ!!」
と残る春日一族を徹底的に探し出して皆殺しにしたという。
忠義?なにそれおいしいの?
0585人間七七四年
2012/09/27(木) 08:55:38.89ID:ylUuRTa00586人間七七四年
2012/09/27(木) 09:35:01.19ID:il61QrAl0587人間七七四年
2012/09/27(木) 10:25:33.36ID:g5jwDPI2■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています