戦国ちょっと悪い話32
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0001人間七七四年
2012/06/16(土) 10:16:13.81ID:lqw/WNsT戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話31
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1335874012/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336017262/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0042人間七七四年
2012/06/19(火) 21:23:31.28ID:I7GNrwE50043人間七七四年
2012/06/19(火) 21:24:13.83ID:I7GNrwE50044人間七七四年
2012/06/19(火) 21:30:24.26ID:jF3RBF9q0046人間七七四年
2012/06/20(水) 00:13:05.50ID:PJfY082c村田珠光 侘び茶の開祖
武野紹鴎 侘び茶を継承
千利休 侘び茶を大成
古田織部 大名茶
小堀遠州 綺麗さび
三歳様....(´・ω・`)
0047人間七七四年
2012/06/20(水) 00:27:18.76ID:3mwhdrwn0048人間七七四年
2012/06/20(水) 00:34:29.56ID:60T+aq8cメインストリームだけだと省略されがちだけど、茶人の逸話系の本だと頻出になったりもする三斎様
0049人間七七四年
2012/06/20(水) 00:53:09.11ID:3mwhdrwn0050人間七七四年
2012/06/20(水) 01:33:39.98ID:wA+M4wC80051人間七七四年
2012/06/20(水) 01:36:32.36ID:Ecl6qRcyむしろマー君のパパが歴代の中では異質
0052人間七七四年
2012/06/20(水) 15:18:13.89ID:YKSpc3r6天正19年(1591年)、ポルトガル領インドから日本に使節が届いた。
秀吉はこれに返書を出すとともに、返礼としていくつかの品物を用意した。
その内訳は、甲冑2領、薙刀・太刀・打刀・脇差がそれぞれ一振りずつ。
さらに小袖20枚が加わるはずだったが、秀吉がこれを北政所に見せたところ、北政所がいたくこれを気に入り、周囲の家臣たちも
「インドからはたくさんの絹の品物がきたのだから、向こうではそれは珍重されないでしょう」
と言ったため、小袖はねねに与えられた。
なお、刀剣についても「ポルトガル人は刀身よりも装飾の方を気にし、価値を鑑定できるものはいないので、送るのは無駄なことです」
と言う者がいたが、秀吉は
「たとえ相手に価値を鑑定できる者がいなくても、余のような立場の者が優れていないものを送るのは良くない。
余は日本で価値が高いと信じられている物を送ったという評判が永久に残るのを望んでおり、適当なものを送ったなどと噂されたくない」
と言ってこれを退けた。
0053人間七七四年
2012/06/20(水) 20:43:49.96ID:GcAuAipGもったいない、なんで?って思った事があるけど、刀剣に対する価値観が全然違ってたんだな
そして400年前の武士がその事を知ってたのか
0054人間七七四年
2012/06/20(水) 20:56:26.77ID:eNBVepZF0055人間七七四年
2012/06/20(水) 21:22:19.86ID:827IoW0k0056人間七七四年
2012/06/20(水) 21:33:18.67ID:eyRTNYac0057人間七七四年
2012/06/20(水) 22:22:15.27ID:3mwhdrwn勿体無いのは戦地でそのまま持主と共に朽ち果てたり、内地に進駐軍が来る前に埋めたり廃棄されたりした刀…
0058人間七七四年
2012/06/20(水) 23:06:12.30ID:N1H1AwKq0059人間七七四年
2012/06/21(木) 00:02:46.19ID:x3xjk6YB0060人間七七四年
2012/06/21(木) 00:04:49.18ID:ltWkLfs50061人間七七四年
2012/06/21(木) 00:07:54.89ID:7x7/Irpi0062人間七七四年
2012/06/21(木) 01:23:00.45ID:9Oh3YIzE0063人間七七四年
2012/06/21(木) 03:43:39.97ID:5vqeqewn0064人間七七四年
2012/06/21(木) 04:55:28.81ID:x3xjk6YBそれこそ伝家の宝刀とかってんなら遺棄はしないだろうが…
0065人間七七四年
2012/06/21(木) 12:35:41.18ID:wcUDvhvz0067人間七七四年
2012/06/21(木) 18:24:23.37ID:Biwd+Gpm普通に何度も研ぎを入れるだけでも刀身が痩せてしまい、初期の姿が保てない
よって名刀は美術的観点から考えると、使用しないことが望ましい
0068人間七七四年
2012/06/21(木) 18:41:44.06ID:wcUDvhvz0070人間七七四年
2012/06/21(木) 19:02:00.19ID:6PBHZxiB0072人間七七四年
2012/06/21(木) 19:27:40.42ID:hWxvXE7w生涯に212人もブチ殺しておきながら
「ワシの流儀は戦わずして勝つ(キリッ)」とか言っちゃう剣聖がいるらしい
0073人間七七四年
2012/06/21(木) 19:36:44.59ID:NkL3lkMW0074人間七七四年
2012/06/21(木) 21:57:55.02ID:dR41ppxHこの贈り物、
1594年12月に、マドリード郊外のエスコリア宮で、
フェリペ二世(当時ポルトガル王兼任)らに披露されたそうな。
1884年に火事で焼けたそうだけど、
ある程度原型たもった甲冑が残っているって、歴史群像で読んだことがある。
0075人間七七四年
2012/06/21(木) 22:09:05.24ID:dR41ppxHとあるから、立派なもの贈った意味は、面目保つと言う意味ではあったと思うw
なにこのガラクタとかされたら恰好悪いしw
0076人間七七四年
2012/06/21(木) 22:46:18.00ID:1xqbsN7a今頃どこかの歴史博物館で西洋の武具と日本の武具が並び立ってたのか。
惜しいな
0077人間七七四年
2012/06/21(木) 23:09:27.49ID:hWxvXE7wマドリードの王宮武器庫に日本甲冑が3領所蔵されている。
仁王胴具足・本小札色々威丸胴・伊予札色々威腹巻。
腹巻は伝わった時代が違うようだが、他の2領は秀吉がフェリペ2世に贈ったものという。
当時の記録とも甲冑の描写と符合するので間違いないだろう。
19世紀の末に武器庫が火事になった際に損傷し、残欠が整理されて現在に至る。
で、その丸胴具足は大袖を備えているが、全体の性格は実用より儀礼性が高いものだ。
同時期に作られた贈り物や儀礼用の本小札丸胴(ロンドン塔にある、
徳川秀忠がジェームス1世に贈ったものなど)にも同様に大袖が付随していることからも、
文禄・慶長期には、大袖は実戦から遠ざかっていたと見ることができるのではないか。
このときの戦場ではより動きやすい壷袖・蝶番袖や袖なし籠手のみが多かったかもしれない。
甲冑の詳細は土井輝生の『武具甲冑紀行』の1巻をどうぞ。
0078人間七七四年
2012/06/22(金) 16:26:37.14ID:/ftld+HA秀吉の九州攻めの最中、司祭ガスパル・コエリョは秀吉を訪問するため、先に博多で待機していた。
そこでコエリョは、同地に足利義昭がいることを知った。
秀吉が備後から連れてきていたのだ。
コエリョは日本の風習通り、贈り物を携えて彼を訪問した。
『公方様は司祭を特に優遇し、きわめて教養ある言葉を用いて彼と語らい、手ずから杯と肴を供し、日本式の麻衣である
カタビラ(帷子)二着を贈与した。
彼は談話の間、しばしば、かつ長時間にわたって、すでにデウスの教えについては幾ばくかの事を聞いているが、それらはことごとく神聖、
また正当な宗教であり、全く道理に基づいているものと思われる。
よって自分が当初の将軍職に復帰した暁には、当日本66ヵ国の全てにおいて、デウスの教え以外にはいかなる教えも説いてはならぬ
と厳命するであろう。
下関においては、その地を通過する際に1、2度キリシタンの話を聞きはしたが、なにぶんにも道中のことで引き続き聴聞できなかった
ことゆえ、予に説教するため修道士を派遣してくれるよう尊師に願う次第だ、と語った』
どう見てもこの話とリンクしていると思われたので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6516.html
0079人間七七四年
2012/06/22(金) 19:30:03.58ID:eB8HCZ9D細川ガラシャの侍女に、霜女という人が居た。彼女の夫は明智光秀に使えた入江兵兵衛という武士であり、
山崎の戦いで討ち死にした。その縁のためであろうか、霜女は細川ガラシャ夫人に仕えた。
以下、霜女による細川ガラシャ夫人の最期に関する証言である。
『石田治部少輔乱(関ヶ原)の年7月12日に、小笠原昌斎・河北石見の御両人が台所(奥)に参られ
私(霜女)を呼び出し、こう申された
「治部少輔方より、何れも(徳川家康とともに)東に出陣された大名衆から人質を取るのだという風聞を
奥方様(ガラシャ)はご存知でしょうか?ご存知だとしたら、この事についてどのようにお考えに
なっているのでしょうか」
私はこれをその通り秀林院様(ガラシャ)に申し上げました。秀林院様がこれを聞いて仰ったのは
「治部少と三斎様(忠興)とはかねがね御関係が大変悪いので、定めて人質を取る時はまっ先に我が方に
要求してくることでしょう。もし最初でなければ、他家の対応を見ながら考えることも出来るでしょうが
一番にそれを要求してくればどうするべきか、昌斎・石見によく検討してみるよう伝えなさい。」
私はこれをまた、その通りに両名に伝えた。これを受けて小笠原昌斎・河北石見は、
「石田方より人質を要求されれば、『忠興様のご子息である与一様(忠隆)、同じく与五郎様(忠秋)は東に
出陣成されているし、内記様(忠利)は江戸に人質としてあります。現在我が方には人質に出すべき者は
一人もおりません。よって人質を出すということは不可能です。どうしても人質を出せというのなら、丹後に
使者を出して、幽斎様に京に上って頂き人質になって頂くしかありません。それを申し使わす時間もあるので、
それらの調整が終わるまで人質の件はお待ちくださるように。』と返答すると言われ、これに秀林院様も
「それこそ然るべきである」と仰られた。
そのような時、”ちやうごん”と申す比丘尼があり、これは常々御上様(ガラシャ)の元に出入りしていたのであるが、
石田方はこの人を頼み、内々に「(ガラシャに)人質に出るように」何度も申し上げた。しかしこれにも
「三斎様の御ためにも、人質に出ることはどんな事があろうとも同意できない」
と拒否された。その後この比丘尼が参られ今度は「そういえば宇喜多秀家様の奥方と、忠興様嫡男忠隆様の奥方は
同じ姻戚(両方前田利家娘)であり御一門であります。ならば宇喜多殿の屋敷に入るということでもいいのです。
その分には、人質に出たと世間も申しますまい。そうなされませ。」
これを聞いた御上様は
「宇喜多の八郎殿(秀家)は確かに一門ですが、これも治部少の一味ではありませんか!そこに出るのも
同じ事です!」とこれも拒絶した。
16日、石田方より公式の使者が参られ、「是非是非御上様を人質に出して下さい。それを聞き入れないのなら
我らは押し入ってでもその身柄を頂く!」と申しよこした、
この強行な姿勢に小笠原昌斎・河北石見は激怒した。
「あまりの申し様ではないか!この上は我らが切腹する事態になっても、絶対に人質に出ていただく訳にはいかない!
これにより屋敷中の者たちは覚悟を決めました。御上様の御意には
「本当に石田方が押し入って来たら自害いたします。その時は昌斎が奥に入りなさい。私の介錯をするように。」
と仰せになられた。与一郎様の奥方も人質に出してはならない。これも一緒に御自害なされると言うことも、
内々に約束された。
小笠原昌斎・河北石見・稲富祐直などが談合し、稲富は表にて敵を防ぎ、その間に御上様にご最期を迎えて頂く、
という事に決まった。そのため稲富は屋敷の表門に居た。そしてその日、夜の入の頃、敵が御門前まで押し寄せた。
0080続き
2012/06/22(金) 19:30:59.70ID:eB8HCZ9D御上様御座所へ参り、「只今が、ご最期の時です」と申し上げた。内々に約束してあったことなので、与一郎様の
奥方様を呼んで、一ヶ所で果てられようと、奥方様のお部屋に人を遣わしたが、もはやどこかに落ち延びた後であった。
最早仕方のない事なので、御上様はお力なく、お一人で御自害なされた。昌斎が長刀にて御介錯された。
その前に御上様は三斎様・与一郎様への書置を作られ、それを私に御渡しになり仰せられたのは、”をく”と申す
女房と私の両人は落ち退きてこの書置を届け、最期の様子を三斎様に申し上げるように、とのことであった。
私は「ご最期を見捨てて落ち延びるなど出来ません!どうかお供をさせて下さい!」と申し上げたが、
「二人は落ちるのです。そうしなければ、一体誰が私の最後の様子を伝えるのですか?どうか、お願いします。」
そう仰られたために、私はその御最期を見届けて屋敷の外に出た。内記様(忠利)ご存じの方には、内記様への
御形見を遣わされた。
私達が御門に出た時には、もはたお屋敷に火がかかっていました。御門の外には大勢の人が居ましたが、
後に着いた所によると、それは敵ではなく、家事を見物しに集まった人たちであったと言うことです。
敵も居たのですが、それらは稲富を引き連れて、御上様のご最期以前に引き上げていったのだそうです。
この事も、後になって知りました。
お屋敷において切腹されたのは、小笠原昌斎、河北石見、石見の甥六右衛門、同じく子一人、このあたりは
覚えております。他にも2,3人も切腹されたと思いますが、それははっきりとは覚えていません。
細々としたことまでは書き付けられませんでしたが、だいたい概略はこういうことでした。』
(霜女覚書)
0081人間七七四年
2012/06/22(金) 19:49:56.66ID:dsc/DapB0082人間七七四年
2012/06/22(金) 19:53:38.30ID:371T431n稲富さんが上手く騙してくれたんだね!
0083人間七七四年
2012/06/22(金) 20:27:06.35ID:7dxXa9EY0084人間七七四年
2012/06/22(金) 20:38:49.58ID:Yew3VIlI0085人間七七四年
2012/06/22(金) 20:57:48.57ID:iFDQZ7aD興味本位で戦を見に行って巻き込まれて死んだ奴とかいっぱいいたんだろうな
0086人間七七四年
2012/06/22(金) 21:12:18.69ID:MnPLGTVQ代わりにわしを人質として連れて行けみたいなことを言ったのかね?
0087人間七七四年
2012/06/22(金) 21:23:37.24ID:PMARcdPpって脅して三成に説明しに行っただけだったりして…
0088人間七七四年
2012/06/22(金) 21:28:22.75ID:CxmBMAPS「だったら、稲富は逃げたのであろう、あいつは腹を切るようなやつじゃない」って三歳様は言ってたりする。
0089人間七七四年
2012/06/22(金) 21:30:55.29ID:iFDQZ7aD0090人間七七四年
2012/06/22(金) 21:53:13.07ID:S5/vHg8V怖いような面白いような。
0091人間七七四年
2012/06/23(土) 00:14:22.85ID:3r7dyb+D0092人間七七四年
2012/06/23(土) 00:24:43.63ID:FEE8Fg+wこの思いを共有したく…。(既出だったらスミマセン)
噺家さんで「三遊亭歌武蔵」という師匠がいらっしゃいますよね。
武蔵川部屋のお相撲さんだったという経歴のある方です。
最近ここのスレとかまとめサイトとかを見るようになって、
その影響か、つい師匠のことを「三遊亭鬼武蔵」と
言いそうになって気付いたんですが、
力士時代「森武蔵」というしこ名だったんですよね…。
いや、本名が若森さんだからだとは思うんですが、岐阜県出身だし…。
0093人間七七四年
2012/06/23(土) 09:23:30.25ID:3eke8mgx逸話スレで悪名を馳せてからそれを知ると
朝青龍みたいな感じを想像してしまう。
0094人間七七四年
2012/06/23(土) 12:05:52.67ID:G24LmmGy0095人間七七四年
2012/06/23(土) 12:34:53.35ID:uD1byG+X0096人間七七四年
2012/06/23(土) 12:57:45.33ID:wazEjIhL0097人間七七四年
2012/06/23(土) 12:58:09.86ID:Ia2lEB/+0098人間七七四年
2012/06/23(土) 13:05:33.06ID:sw93JDny0099人間七七四年
2012/06/23(土) 13:08:03.71ID:9U8evgnK0100人間七七四年
2012/06/23(土) 13:15:36.95ID:3nrTBRmgあのあと一度、三斎さまのところに顔出した話はあったよね、そこで何らかの申し開きはあったかも
ただそれを表に出してしまうと勘違いで自害したマヌケということになっちゃってまずいから
稲富が泥をかぶったままとし、身柄は徳川が召抱えたからもう手が出せないっす、という体にしたとか
のこのこ出て行った時に斬られなかったのがガラシャがらみの三斎さまの対応として不自然極まりねぇ・・・
0101人間七七四年
2012/06/23(土) 14:08:34.50ID:C+9ijvklあるいはすでに36人斬ってたか
0102人間七七四年
2012/06/23(土) 14:21:05.47ID:E+Y5tmlo確かに、敵前逃亡か裏切りかで味方見殺しにした、それも当主の妻をも見殺しにした訳だから
忠興じゃなくとも斬られてもおかしくない失態だよな
ヘタレの稲富にしてはさっさと忠興の方に顔を出してるし、言うとおり稲富が悪いという事にして事態を丸く収めたのかね
0103人間七七四年
2012/06/23(土) 14:24:49.68ID:6HtTLQ3l「さて又、信長記を見るに偽り多し。3分の1は実際にあったことがだ、3分の1は似たようなこともあった。
しかし残りの3分の1は全く事実のない、信長記の作者の創作である。
自分の贔屓のものの逸話を、自分の知恵のあるままに上手く捏造したのだろう。」
という批判が有名だが(ただし三河物語のここに言う”信長記”は、太田牛一のいわゆる「信長公記」だという説もある)、
実は「常山紀談」にも小瀬甫庵への批判が収録されている。しかもそのネタ元の人からの!
『小瀬甫庵は町医者であり、加賀の金沢に住んでいた。
甫庵は、前田利家の家臣であった横山山城守長知の元に心やすく出入りし、毎晩のように夜話を楽しんでいた。
横山長知は尾張の出身であり、織田家のことをよく覚えていたので、甫庵は信長のことを毎回尋ね、さらに
秀吉のことも問いただした。
長知はが、あることは詳しく、あることはうろ覚えを語り聞かせた事を、甫庵は筆記し、信長記、太閤記の二部の書を著し、
世の中に発表した。
この事を知った横山長知は
「信長や太閤のことを筆記するために尋ねたと知っていれば、もっと答えようがあったのに!
遺漏も多く、語り尽くしていないことも多い。
筆記し出版するということを全く知らせなかったために、ただこの場だけの物語として言い聞かせたのに、
それをそのままに書著するとは、今更ながら甚だ遺憾なことだ。甫庵はまったく馬鹿者である!
(今に於いて甚遺憾なり。甫庵馬鹿者なり)」
そう言い捨てたそうである。』
甫庵のネタ元、横山長知、大いに憤る。というお話。
0104人間七七四年
2012/06/23(土) 16:55:03.33ID:3eke8mgxまるでマスコミが事件現場周辺の住民にインタビューしたのを
都合よく編集した感じだな
0105人間七七四年
2012/06/23(土) 17:37:50.48ID:7MWDdH3C0106人間七七四年
2012/06/23(土) 20:00:07.39ID:3eke8mgx稲富「屋敷の中では既に皆自刃して果てた、これ以上の狼藉は無用!」
石田方「ちぇっ死体じゃ人質にならねーから引き上げるか、代わりに生きてるお前連れてくわ」
稲富「あーれー(皆様方、今のうちに落ち延びなされ」
とか言って上手く相手を丸め込んだつもりが
中の人が稲富裏切ったもう駄目ポ→奥方自刃&屋敷に火を放つとかだったら悲しすぎる
0107人間七七四年
2012/06/23(土) 20:53:08.84ID:3nrTBRmgということは実はその時点で人質が成立してた可能性があるのか?
自害モードに入っちゃって説得聞かない人達を無視して稲富(さくせん:いのちをだいじに)
が独断もしくは嫡男周辺で計らって石田方を退かせたけど連絡間に合わず、みたいな
そうするとその後の嫁が逃げたことで三斎激怒して忠隆が廃嫡になったってのも
いろいろありそうな・・・
0108人間七七四年
2012/06/24(日) 01:06:50.77ID:PCMdbXAzガラシャを永遠に自分のモノにしたい忠興は
関が原に際してガラシャが石田方に捕捉された時点で死ぬ手はずにしていて、
その時に全責任をかぶせる役として稲富をガラシャにつけてた……というのはどうだろう
稲富なら、それなりの立場ながら正直使いどころのない奴だし、
一度逃げたら現場に引き返す事はないだろうし、
「稲富が帰って来た」という事が「ガラシャの死」を確定させる暗号みたいな役割を帯びるだろうし
つまりあの現場では脇役のようだった稲富だけが事の流れが見えていた状態だったとか
0109人間七七四年
2012/06/24(日) 01:14:49.40ID:XCF0KyZA上野を北条領、甲斐と信濃を徳川領とする事で和睦した。この和睦の証として、家康の娘である督姫を正室に迎えた氏直は
ある日、家康から中国産のミカンを贈られたのだが、北条家の面々はこれをただのミカンと勘違いし、
「徳川領ではそんなにミカンが珍しいのか。ならば山ほど送って驚かせてやる。」
大箱いっぱいのミカンを送り返した。これを受け取った家康は
「氏直はまだ若いから仕方ないが、老臣たちも一緒になってこんな子供じみた真似をするとは、
北条家も滅亡の運命にあるな。」
と冷笑したという。
0111人間七七四年
2012/06/24(日) 01:18:46.41ID:cg09ikiR今月頭にも出た
0112人間七七四年
2012/06/24(日) 01:26:45.77ID:PCMdbXAzこっちの話だとオレンジだね
統合すると、北条に送られた物候補は、オレンジ、九年母、中国ミカンか
0113人間七七四年
2012/06/24(日) 01:53:12.07ID:lQVuy8FS0114人間七七四年
2012/06/24(日) 02:39:06.80ID:KNx+oA6x日本人は判官贔屓大好きなんじゃねーのかよー
0115人間七七四年
2012/06/24(日) 02:52:45.06ID:XCF0KyZA1586年、徳川家康が織田信長の後継者として勢力を伸ばしていた豊臣秀吉に臣従し、北条家も服属を迫られる状況となった。
家中では、当主の氏直ら恭順派と、家中に強い影響力を持つ父の氏政ら交戦派に分かれたが、家康の
「こちらの説得を聞き入れない場合は同盟破棄も辞さない。」
という強い説得を受け、秀吉に使者が送られる事になった。その後、北条家と豊臣配下の真田家との間に会った領土問題に秀吉が
裁定を下し、北条家もこれを受け入れて、氏政が上洛し臣従の意を示すことで話がまとまりかけた。所がそこに、北条家家臣、猪俣邦憲が
真田配下の名胡桃城を奪取するという事件が勃発した。これに激怒した秀吉から
「必ず氏直の首を刎ねてやる!」
と宣言されると、氏直は
「北条家は何も知りません。父の氏政は上洛させますが、そのまま抑留されるなどの噂もありますので、
かつて家康殿の上洛に際して豊臣家から人質を出した様なご配慮お願いします。」
といった弁明書を送り、家康にもとりなしを頼んだものの、聞き入れられる事は無かったという。
0117人間七七四年
2012/06/24(日) 03:17:14.57ID:c3mdYiEV最近、判官贔屓に拒絶反応が出るようになって
やっぱり時代を作った人のほうが凄いやって思うようになったな
0118人間七七四年
2012/06/24(日) 03:48:00.62ID:CDjhDghM信長みたいな武将に今の閉塞した空気を作り替えてもらいたい
0119人間七七四年
2012/06/24(日) 04:36:38.31ID:L7BEoLx50121人間七七四年
2012/06/24(日) 08:35:38.39ID:6PanonHY> 593 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/14(木) 12:19:34.12 ID:sqRAU7+v
> 織田配下だった逸見昌経は
> 8000石の所領を持ち若狭衆筆頭として活躍。
> 天正9年2/28に馬揃いに傘下したが3/26に死去。
> すると信長は所領全没収の上
> 5000石を溝口秀勝に
> 3000石は武田元明に分配され
> 子の源太虎清は追放される。
> なんら罪もなく武功を重ねてきたのに・・・
> こんな暴君はありえない。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1331989369/
0123人間七七四年
2012/06/24(日) 09:25:33.31ID:UaJtz3Jfはめるのは簡単だろう
0124人間七七四年
2012/06/24(日) 09:52:41.86ID:F/V7u639猪俣が北条勢の防衛戦のことを考えて名胡桃城を奪取したみたいだよ。
戦術的な判断で、あの城取ると上野の防御の助けになるとか。
また氏康時代から、本城の小田原で侵攻軍を受け止めて、支城で絡め取る戦法が通用してたから、
豊臣勢にも同様に通用すると思ってたらしい。
でも豊臣の攻勢は一拠点で支えられる規模では済まなくて、
四国や九州を攻めたように多方面から大軍を投入してきた上に、補給も完璧だったからご存じのとおり小田原も落ちた。
完全に秀吉の戦略勝ちで、関東の一武将では思いつかないくらいスケールが大きい攻勢だったんだね。
0126人間七七四年
2012/06/24(日) 11:50:49.76ID:lQVuy8FSナンバー2とナンバー3が縁戚でラスボスもあんまり無茶できないだろうな
0129人間七七四年
2012/06/24(日) 12:26:35.09ID:26aRAo2Sそれこそ小牧長久手から小田原合戦までの8年間、ほぼ絶え間なく。
こういう状況があるから北條もうかつに秀吉を信じるわけには行かなかったし、常に警戒を行う必要があった。
0130人間七七四年
2012/06/24(日) 12:29:32.06ID:1Z8Av8D30131人間七七四年
2012/06/24(日) 12:32:25.85ID:7p6rjKG8秀吉的にはそんなめんどくさい状況にしたくないだろうなあ。
ちゅーことはやっぱり北条はどう対応しても潰されたんじゃなかろうか。
0133人間七七四年
2012/06/24(日) 12:35:07.14ID:SG+Vq1CYその上、本能寺の変の直後にすぐさま織田を裏切っていたしなあ
0134人間七七四年
2012/06/24(日) 12:40:59.24ID:cg09ikiR家康「北条からミカンが山ほど送られてきた」
秀吉「これほど見事なミカンを産出する国がそばにある。
北条はなんとしても滅ぼさなければならぬ」
加藤清正(大カトー)加藤嘉明(中カトー)加藤光泰(小カトー)
「そうだそうだ」
0136人間七七四年
2012/06/24(日) 16:40:53.77ID:+k+xMmvQ名胡桃城と沼田城って利根川を挟んでだいたい3qくらいしか離れていないんだよね。
晴れた日なら見えるくらいの距離だから、そこが敵方のままでは沼田城を活かしきれない。
0137人間七七四年
2012/06/24(日) 17:08:07.40ID:2bQdFUfL0138人間七七四年
2012/06/24(日) 20:26:10.69ID:vC4ERPjY「北条の兄弟衆が上洛したら事態は最悪だぞ」って警告する書状が残ってるみたいだし
石田ごときの讒言に左右はされないだろうけど、秀吉が北条滅ぼす気満々だったのはこの辺も関係するのかな?
対して家康はギリギリまで秀吉と北条を取りなそうとしてたし、戦後も氏直赦免に奔走した
三成と家康の対立って結構早い段階から始ってたのかな
0139人間七七四年
2012/06/24(日) 21:22:44.68ID:c3mdYiEV0140人間七七四年
2012/06/24(日) 22:10:35.42ID:F/V7u6390141人間七七四年
2012/06/24(日) 22:28:21.99ID:26aRAo2S今川氏真養子として今川の継承権を、
武田信玄娘黄梅院の子として武田の継承権を所持しており、
さらに徳川家康の娘婿という、東国大名のサラブレッドにも程がある存在だったりするw
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