戦国ちょっと悪い話32
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0001人間七七四年
2012/06/16(土) 10:16:13.81ID:lqw/WNsT戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
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0954人間七七四年
2012/08/13(月) 14:48:54.75ID:HF7C+RxT全く浮世を捨て切ったと言って、召し使っていた侍たちも筑前守(長政))に揃えて渡した。
その時、無足者(知行を持たない家臣)のうち確かな者には知行をこれだけ、知行を与えるほどではない
者には扶持・切米をどれだけ、知行を取っている者には相応に加増を取らせ、その者たちを
安堵させるようにして、如水自身は知行も家臣もいらない、と言い渡した。
ところで如水の弟に黒田養心という人が居た。養心は病弱で役に立つような人ではなかったので
2千石で召し置かれていたのだが、この養心に1万石を取らせ、宗像郡のうち津屋崎という所、
ここは城はないが要害だというのでこの場所に置き、如水もこの近所に小屋同然の家を作らせ、
小姓など知行取り10人ほど、徒者少々にてそこに暮らしていた。
それから博多においては、博多町屋敷の空き地に、表向きは町家に拵えた屋敷を造り、
いかにも逼塞の体に、殊勝に見せていた。
さてさて、そのころ如水は太宰府天神信仰の体にて、時折太宰府まで出かけていたが、そのあたりの山陰、
いかにも閑静な山中に茶屋を造り、その近辺、あの藪の中、この森の陰と屋敷を造らせ、
ここに屈強の侍60余騎を置いた。
さらに牢人衆を町中に住まわせ、彼らを商売人に紛れさせた。
また馬敷という深山からは材木が採れた。如水は、ここは涼しい山中であり、また中間どもに
材木を採らせるためとしてこの山中に小屋を掛け、定番だのなんだのと名目を付けて侍どもを
隠し置きいた。
さらに博多の町外れに広い空き地があるのを見つけると、如水は長政に、鷹師どもをここに置くようにと
指図した。これに長政は
「その場所は城から1里ばかりも離れていて不自由な場所です。鷹師であればもっと近くに置きましょう」
と反対したが、如水は
「悪いようにはせぬ!とにかく私のいう通りにしろ!」
こう頻りに言ってきたので致し方なくそこに鷹師を置くようにすると、それに紛らわして
家来も馬も持っていないような小知行の者たちに
「人も要らず、まして馬も無用である!家をあの地に、町家のようにして造れ!」
そのように申し付けた。この下知に従い、指図通りに、この小知行の者たちを
町人とも鷹師とも解らないような体で召し置き、牢人も少々紛らわせた。
この他、ここの新田・あそこの山守などと名づけ、あるいは牢人のようにして人を置き、
突然の合戦などで人が必要な時は、いつでも騎馬の侍200騎余りが確かな者たちを引き連れて
集結するようにしていた。
それなのに普段は人も持たず、逼塞一遍の体で居たのだ。全く恐ろしい覚悟である。
ある者の言う、奮馬は死するまでと言うのは、この様なことを言うのだろう。
(古郷物語)
0955人間七七四年
2012/08/13(月) 16:14:02.27ID:EBJkiDF+0956人間七七四年
2012/08/13(月) 16:33:14.14ID:W6MJCntJ「愚息め、せっかくの好機であったものを…いいこと考えた!
百万石あれば天下を取れると太閤のお墨付きをいただいておるこの如水ならば
半分の五十万石もあればたちまち天下の半分を切り取ってみせるであろう
然る後内府と天下分け目の大いくさを行い是を打ち破れば宿願の天下も夢ではない!
都合よく目の前に五十二万石の領地が広がっておるグフフ」
0957人間七七四年
2012/08/13(月) 19:09:56.89ID:ER4+IZgZ本気で隠居もするけど、備えも細やかにきっちりしておく
いかにも知恵者らしい如才ない話
0958人間七七四年
2012/08/13(月) 19:13:13.68ID:nW9C8wHs松平定綱と井伊直孝は故あって数年にわたって断交していた。
ある時、直孝は麾下の士に「いま天下で異変があったとしたら、
その時に私が会わなければならないのは松平越中守だけだ。
近年、互いの心に隔たりがあって疎遠になっていることを
残念に思う」と言ったのを、その士が定綱の家に来て告げた。
これを聞いて定綱は喜び、和談のために使者を取り交わして
早いうちに面会しようとしたのだが、病に罹ってしまい、
直孝と会うことができずに死んでしまった。
――『名将言行録』
0959人間七七四年
2012/08/13(月) 19:44:30.33ID:VsMs2P86死去が1604年だからまだまだ油断出来ない時期の話だもんな
で、なんか問題になったら「隠居が勝手にやってたんです、ほらあんな人ですしー(棒)」
てすっとぼけられる配慮までしたものと思われる
0960人間七七四年
2012/08/13(月) 19:49:53.48ID:7X34yFFk0961人間七七四年
2012/08/13(月) 20:00:32.75ID:UaTtOTGh0962人間七七四年
2012/08/13(月) 20:04:20.52ID:l2uRUcA5あ、そうか、権現様のかくし…
0963人間七七四年
2012/08/13(月) 20:45:51.86ID:MV1dIMPX0964人間七七四年
2012/08/13(月) 21:04:42.54ID:UaTtOTGh翌年の春、宗茂は清正に
「これまでの御芳志によって、心静かに休息させていただき、満足この上もありません。
ですが私は現在、暇を持て余している遊人ですので、都に上り名所旧跡を見物したいと思っているのですが
これをどうお考えでしょうか?」
まあ、ニートしてますが引きこもってばかりいるのもアレなので外に出て京都観光でもしたい、という
ような話である。これに清正は
「尤もの仰せです。どうぞ御心に任せて下さい。この清正からも一つ馳走させてもらいます。」と、
京までの旅行について懇切に取り計らい、宗茂を京都まで上らせた。
宗茂は京都、南都(奈良)、泉州堺などを心静かに遊覧し、三歳の春を送った。
3年も遊び歩いていたのかと思わないでもないが。まあともかくもそのあたりで「今度は江戸に行ってみたい」と思い、
慶長8年の秋ごろ、江戸に行き高田の宝祥寺に忍んで滞在していたのだが、旧交のある大名小名が
これを聞きつけ訪問してきたため、後々は忍ぶも何も無いような状態で、諸大名の馳走に会って
彼方此方と忙しくしていた。
そんな時、土井大炊頭(利勝)が取り持ちをして、この宗茂の江戸滞在のことが
大御所(徳川家康)に伝えられた。このとき家康は
「先年関ヶ原の時、宗茂が石田に与したのは心から出たことではない。後から聞いたところだが、
宗茂は小早川秀包と共に、毛利輝元に色々と異見したのだが、輝元が聞く耳を持たなかったので
致し方なく大津城の攻め手に加わったのだという。宗茂にとっては詮方無き次第であったのだ。
大炊頭、その方より宗茂に、彼が輝元に異見した当時のこと等を聞き、その上で今後の身の上について
相談をしてくるのように。」
そうして訪問した土井利勝に、宗茂も徳川家から扶持されることに、いまさら異議はないと答え、
直ぐに召し出され奥州棚倉において1万石を、堪忍分として与えられた。
この時立花宗茂は
「この度1万石を仰せ付けられたことを、完全に満足とは思っていない。
だが、関ヶ原の折、私が毛利輝元に諫言したということが上聞に達した。
これこそ私の本懐であり、どんなものもこれに過ぎることはない。」
そう言って喜ぶこと限りなかったという。
(立斎旧聞記)
「とにかく輝元が悪い!」で家康と宗茂が即座に和解、という微笑ましい逸話である。
0965人間七七四年
2012/08/13(月) 21:38:35.13ID:MV1dIMPX0966人間七七四年
2012/08/14(火) 00:18:43.43ID:4JYYrUrJ0967人間七七四年
2012/08/14(火) 01:39:55.21ID:XAdBBDXl0968人間七七四年
2012/08/14(火) 07:17:20.89ID:E1Hky5l80969人間七七四年
2012/08/14(火) 08:06:20.34ID:b1X0oJOX0971人間七七四年
2012/08/14(火) 11:33:25.70ID:fiOs9Nt20972人間七七四年
2012/08/14(火) 11:42:45.08ID:9LaxXP4H0973人間七七四年
2012/08/14(火) 11:58:22.66ID:flU5ze7h0975人間七七四年
2012/08/14(火) 14:52:27.24ID:Ib2dEjUM0976人間七七四年
2012/08/14(火) 15:25:13.76ID:tUPjInXhなんか干し飯濡らした印象しかない。
0977人間七七四年
2012/08/14(火) 15:33:13.33ID:K+oDm8So亀レスだけど確か信長が勝頼の首実験の時不運だったと
労わりというかそういう言葉をかけたという逸話もなかったっけ?
どっちが本当なんだ。
0978人間七七四年
2012/08/14(火) 16:58:26.36ID:IZFYcCRz0980人間七七四年
2012/08/14(火) 17:16:45.86ID:tUPjInXh0981人間七七四年
2012/08/14(火) 17:24:53.22ID:udOYREmL神妙に勝頼親子の首を信忠と一緒に見続けたという逸話もある
0982人間七七四年
2012/08/14(火) 17:30:54.33ID:IZFYcCRz秀吉は勝頼さえいれば東国の平定は楽だったのにと惜しみ
家康は甲斐信濃平定の足がかりをつかんだ
ここで信長は天にも地にも人にも見放され滅亡フラグ立てる
0984人間七七四年
2012/08/14(火) 19:11:15.49ID:4IK9zLH20985人間七七四年
2012/08/14(火) 19:14:01.26ID:4IK9zLH2戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
0986人間七七四年
2012/08/14(火) 20:39:04.46ID:lPYzGUNE永正9年(1512年)、下野宇都宮家で「宇都宮錯乱」と呼ばれる大きな家中騒動が起き、当主宇都宮成綱は隠居に追い込まれ子の忠綱が跡を継いだ。
隠居をした後も実質的な権力をは忠綱に有り、2年掛けて錯乱を鎮圧し、反抗勢力の主である芳賀家を叩き、
宇都宮家の安泰に務めたがその成綱も永正13年(1516年)に死亡してしまう。
忠綱の代の宇都宮家には2つの爆弾があった。まずは父成綱の弟興綱、もう一つは宇都宮錯乱で大いに活躍した壬生綱重の息子、壬生綱房である。
忠綱は叔父の忠綱を仲の悪かった芳賀家に送り込んで取り込みを図ったが、仲の悪い芳賀家に
これまたさほど良好ではない間柄の叔父を送り込んだ事は、反忠綱勢力の結集を強めてしまったらしい。
大永3年(1526年)、ついに反抗勢力が忠綱に牙をむく。
結城政朝が宇都宮領に攻め込んで来たことで忠綱が迎撃に出撃した隙に興綱が宇都宮城を占拠したのである。
本拠を追われた忠綱は壬生綱房に匿われたが大永4年(1527年)に興綱を接近した綱房に暗殺されてしまった。
こうした経緯で宇都宮家19代当主宇都宮興綱が誕生したのであるが家中の混乱はこれで収まらない。
興綱は忠綱への反抗に役立った芳賀家嫡流に家督を返還し、宇都宮家中での地位を保全したのだがこれがまずかった。
芳賀家は忠綱時代より更に強大になった壬生綱房と手を結び、やがてこの両者の専横に手が付けられなくなったのである。
天文元年(1532年)、興綱は芳賀高経・壬生綱房によってかつての「家督簒奪」の罪を糾弾され強制的に隠居に追い込まれ、
天文5年(1536年)にはついに芳賀高経よって暗殺されてしまう。
芳賀や壬生が興綱の家督簒奪を罪に問うのはまさに「お前が言うな」状態では有ったのだがこうして興綱の短い春は終わった。
0987人間七七四年
2012/08/14(火) 20:44:47.89ID:QoHnq8Qd頭悪すぎだろう・・・
0988人間七七四年
2012/08/14(火) 21:30:35.14ID:xUEdL4ex0991人間七七四年
2012/08/14(火) 23:59:11.01ID:xUEdL4ex宇都宮中興の祖・成綱の跡を継いだ18代当主・忠綱は叔父の興綱に城を追われ、腹心の壬生綱房の元に落ち延びるも暗殺。
これにより19代当主となった興綱も壬生綱房、芳賀高経らによって若干二十歳の嫡男・尚綱に家督を譲らされたうえ暗殺された。
しかし宇都宮家の混乱はさらに続くのである。
まず、興綱へのクーデターで協力関係にあった芳賀高経と壬生綱房が対立した。
芳賀家は宇都宮家当主を出すほどの有力な一門だったが「宇都宮錯乱」で失脚。返り咲きを望む芳賀高経は先代当主・興綱排除の功績から宿老筆頭の座を要求した。
しかし先々代当主・忠綱暗殺の功績により宿老筆頭となっていた壬生綱房はその座を譲らず、クーデター後も尚綱の後見役として宇都宮城代に就任。
家中での権勢を高め、ついには宇都宮惣領家が相伝してきた日光山御神領の支配権まで握ってしまった。
これに憤った芳賀高経は天文7年(1538年)に挙兵するも敗走。常陸の小田政治を頼って落ち延びるも、あっさり宇都宮家に引き渡され斬首。
そして天文18年(1549年)に那須高資との戦いで20代当主・尚綱が討ち死にすると宇都宮家の混乱は最高潮に達する。
当主討ち死にの知らせが伝わるやいなや城代の壬生綱房は宇都宮城を占拠。
那須高資と和睦し、那須家に身を寄せ亡父・芳賀高経の仇を討った芳賀高照を当主として招く。
もちろん高照にはほとんど実権がなく、実態は綱房による傀儡に他ならない。
こうして主家を乗っ取った壬生綱房、まずは会心の笑みであった。
0992人間七七四年
2012/08/15(水) 01:11:14.22ID:7RQ+gPFVこれの更に続きがこれになる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4508.html
0993人間七七四年
2012/08/15(水) 07:51:11.19ID:NQXs0Hg/0994人間七七四年
2012/08/15(水) 08:50:24.96ID:JcWCV5o5ちょwwww天庵パパひどいwwwww
0995人間七七四年
2012/08/15(水) 09:13:00.06ID:2eVX/EEK0996人間七七四年
2012/08/15(水) 10:18:31.21ID:JcWCV5o5つか、まぁ、逃げる先が小田家ってのがそもそも間違いだと思うんだけど、
なんか縁故あるんだっけ?
0998人間七七四年
2012/08/15(水) 10:26:08.30ID:qxrimqnSえっ
0999人間七七四年
2012/08/15(水) 10:41:38.76ID:mr0nU9S7じーちゃんから孫に口聞いてもらう気だったなら考え甘すぎだろ…
1000人間七七四年
2012/08/15(水) 10:49:46.05ID:JcWCV5o5これが世の爺・婆の常だ!
孫の頼みなら引き渡しても仕方ないか〜
1001人間七七四年
2012/08/15(水) 11:01:09.12ID:JcWCV5o5戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
すまぬ、余計なことをしたようだ・・・
10021001
Over 1000Threadー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
l { .、 /
', ` '' ' rTヲ
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