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【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その14

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0001人間七七四年2011/11/07(月) 17:56:41.52ID:gc+MSXxX
スレ分散しても過疎るだけなので、
徳川家・松平家と家臣団まで包括するスレです。

人の一生は
重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし

人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
0573奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2012/01/31(火) 23:15:30.27ID:Ti9JZwP1
>>572
長子どうしが夫婦だからさ。フロイスの話こそ全く頭に浮かんでなかったよ。
0574人間七七四年2012/02/01(水) 00:14:17.64ID:ZNAfX43d
>>573
その関係じゃ義弟にならんよ。
0575人間七七四年2012/02/01(水) 10:53:14.48ID:HZq0MDwK
清洲同盟だからでしょ?
0576人間七七四年2012/02/01(水) 15:30:35.19ID:9i+X4yhZ
>>573
長子?
信康はそうだが、五徳姫は信忠の妹だから違う。
0577人間七七四年2012/02/01(水) 22:36:49.00ID:yuNYQqpT
そう言えばほとんど話題にならないけど
広忠公って、なかなかな大将じゃなかったの?

ヨイショ無しの実績や評価が知りたい。
戸田康光事件の対処しか知らないw
0578人間七七四年2012/02/02(木) 10:13:10.69ID:LFcKRkyh
広忠は松平の汚点だろ
0579人間七七四年2012/02/02(木) 10:45:53.91ID:GQjG2ecO
いやー状況的に仕方ないだろ

清康さんが三河固めて死んだならともかく
なにもかも途中な段階で急にムラマサが来たので死んでしまったわけだすから
敵は敵のままだし半端な味方は確実に離反するしよくて様子見
つぶれなかっただけ立派であろう
0580人間七七四年2012/02/02(木) 14:41:52.29ID:qbCUk3n4
一旦潰れてるじゃん
というか今川の庇護を受けるために臣従したから、独立勢力としての松平氏は広忠の代に潰れたと言っていいだろう
0581人間七七四年2012/02/02(木) 17:02:57.64ID:yh9FT/Oi
領地支配については、松平宗家家中には今川の直臣となった者もいたものの権力機構は健在であり、
今川氏は松平氏権力の解体・再編を断念し、松平宗家を利用して三河の在地支配を行っていた。
そしてこのことは、松平氏が国人一揆機構から脱却し、すでに家康以前から戦国大名への道を歩み始めていたことの証左である
0582人間七七四年2012/02/02(木) 18:14:11.38ID:cwjl2fC+
どうして離反しなかったのかの方が気になるな。
0583人間七七四年2012/02/02(木) 19:50:00.22ID:chD3qcQG
家康みたいな内向的な人は、戦国時代だから血統によってリーダーでいられたけど、
今だと無理だろうな。
0584人間七七四年2012/02/02(木) 20:11:59.49ID:eZExZRG4
先ず、何を持って内向的と判断したのか
0585人間七七四年2012/02/02(木) 20:46:04.22ID:chD3qcQG
家康は社会外交的には社交的だが、
性格的には内向的じゃん。
いや、いろんな書物を読んだ上での話だがら、
0586人間七七四年2012/02/02(木) 21:06:52.58ID:C0Oa9V6g
山岡壮八か?
0587人間七七四年2012/02/02(木) 21:27:53.10ID:eZExZRG4
家康の人生は自己の内面に向くゆとりは全く無かったと思うが
0588人間七七四年2012/02/04(土) 09:17:20.14ID:0L12DjZI
内向的と言うよりは内弁慶タイプだろ
外面はかなり良い
0589人間七七四年2012/02/04(土) 09:22:38.44ID:v4AHn37T
内弁慶は無いな。家臣への対応は穏便そのもの。
0590人間七七四年2012/02/04(土) 13:46:01.24ID:bdSl+PrD
どこがだよ
他の大名と比べたら徳川の扱いは酷すぎる
みんな冷や飯食らいだし
0591人間七七四年2012/02/04(土) 15:19:36.90ID:FCwRINLX
理不尽に殺していないし、失脚してもアフターケアはしている
0592人間七七四年2012/02/04(土) 15:53:37.44ID:0wovavSQ
飽和した資本主義時代には、徳川家臣団みたいな
慎ましい生活が時代の最先端だよな。

つくづく参考になる組織理論だ。
0593人間七七四年2012/02/04(土) 15:57:08.90ID:/s1h9LL3
他の戦国大名で言えば信長秀吉元就信玄政宗なんかは
性格や思考が垣間見える面白い書状、もっと言えば稚気のあるものが多いけど、
家康に関してはあんまりそういうの思いつかない
そういうのが内向的イメージに寄与してるんだろうね
家康自身が意識的にそういう感情とかを表に出さないようにしてたような気がする
0594人間七七四年2012/02/04(土) 18:12:20.99ID:xjXTQBVG
ン万石あたえられて冷や飯食らいとはこれ如何に

それに信長・秀吉死後の織豊政権やお家騒動の時の最上とか、幕末の伊達を見ればわかるけど、
家臣が力を持ちすぎるとトップの抑えが利かなくなって暴走してまとまりがなくなる
それを御しきれるカリスマが大名にあればいいけど、そうでない人もなるわけで
権力と実力を分離するのは長期政権を作る上でいい方法
0595人間七七四年2012/02/04(土) 20:43:53.91ID:v4AHn37T
>>593
「内向的」とは何かまったく理解してないと思われ
05962012/02/05(日) 01:06:16.15ID:2A27On/0
家康って謀叛を喰らった事は無い?三河一向一揆は別として。
0597人間七七四年2012/02/05(日) 02:02:15.52ID:TW8MBmo5
>>596
徳川家はすごくまとまってたけど背かれたことがないことはないんじゃね?
武田信玄最後の遠征のときは多くの武将が武田がわに寝返った気がする
いやまてよ あーゆーのは謀反とは言わねーな
0598人間七七四年2012/02/05(日) 02:40:54.20ID:AcWh6lWI
>>597
国人連中は徳川家に限らず強い方につくからなあ・・・
あんまり参考にはならんかと

石川一益の出奔も、謀反ってレベルじゃないしね
0599人間七七四年2012/02/05(日) 02:57:46.49ID:9pjTwLqw
大賀弥四郎は……謀反する前にあぼーんか
0600人間七七四年2012/02/05(日) 03:03:00.21ID:TW8MBmo5
真田昌幸が徳川から上杉についたのも謀反ってほどじゃないよなあ
もともと外様というよりはほとんど他人だもんなあ
謀反っていうからには何年かはしっかり徳川家臣じゃないとな
そうなるとほんと少ないな ぱっと出てこない
06012012/02/05(日) 03:49:29.66ID:2A27On/0
寝首を部下に掻かれそうになった話も無いのかもね。だとしたらとても愛された親方だったのかも。
0602人間七七四年2012/02/05(日) 09:33:51.60ID:fX6ihF9W
・宗教がらみの離反は除外
・外様の鞍替えは除外
・譜代でも謀反前に露見したら除外
・譜代でも出奔は除外
こんな感じで除外しまくったら大抵の棟梁は謀反なしじゃねいの

>>595
0603人間七七四年2012/02/05(日) 15:29:36.47ID:AcWh6lWI
国人の離反を謀反に入れたら、大抵の大名は謀反されてるよ
国人ってのはそれだけ微妙な立ち位置の存在だから
0604人間七七四年2012/02/05(日) 16:28:32.26ID:e1ANrGYp
そんなの定義しなくても、「命を獲る謀反」だけで
大賀弥四郎だけになら無いか?

処罰されなかった?石川数正はイマイチ不明だけどw
0605人間七七四年2012/02/05(日) 16:29:06.11ID:TW8MBmo5
ひょっとすると長男信康の切腹は謀反を未然に防いだものかもしれない
まだ十代の血気にはやる若者が、織田に土下座する父を追放して
独立しようと企み、武田とひそかに連絡をとってたのがバレたのかもしれない
信長公が他家の跡継ぎのデキがいいから腹切らせたなんて変だ
0606人間七七四年2012/02/05(日) 18:45:51.78ID:pYhoxd1P
大久保長安がありえそう
経済力も申し分ない
06072012/02/05(日) 20:38:05.86ID:2A27On/0
釣天井事件は秀忠だったか?家康じゃないしな。
0608人間七七四年2012/02/05(日) 21:33:07.50ID:AcWh6lWI
釣天井は秀忠
0609人間七七四年2012/02/06(月) 00:29:15.46ID:+LF6m6A2
あれってでっち上げじゃないの?
0610人間七七四年2012/02/06(月) 00:43:51.20ID:wMEx+djS
家康の蔵人佐って実際に任官してたの?そもそも蔵人佐って役職あったの?
0611人間七七四年2012/02/06(月) 00:54:59.32ID:kYZStvVr
五位蔵人のことなんかね? 令外官はようわからん
0612人間七七四年2012/02/06(月) 01:13:45.20ID:Y4RwHLR9
でっち上げだろうね なんで本多正純が秀忠を殺さないといけないんだ・・・
本多正信、正純親子は徳川家にもっとも貢献したとも言われる大久保家を
蹴落として恨みを買われてたんじゃないだろうか 大久保家を中心に
武闘派が巻き返しをはかって吊り天井事件が起きたのでは・・・
0613人間七七四年2012/02/06(月) 09:42:42.09ID:MLSXUNRB
個人的には大久保排斥は家康の意思だと思うけどね
0614人間七七四年2012/02/06(月) 10:39:15.84ID:QkLtNqz0
大久保長安は、死んでから悪事露見で、横領はしてても謀反じゃないと思うが。それも、本多親子が大久保忠隣を失脚させるために仕組んだという説が有力で謀反とは違うような。
0615人間七七四年2012/02/06(月) 15:55:16.82ID:p83URBFm
さすがの家康公でも、幹部の不正までは
防止できる組織体制敷けなかったって事か?
0616人間七七四年2012/02/06(月) 17:13:40.64ID:kPYWzWNb
不正を防止できる政体など無い
不正は常に不正ではない
昨日合法今日違法そういうこともある
0617K2012/02/06(月) 18:37:27.56ID:3/UrInEQ
日本人、全員!!
これを観ないでいろいろ言っても、しょうがないと思います!
       ↓
http://www.youtube.com/user/amenouzumei#g/u
(真実のエッセンスが上手くまとめられています。) 
ネット上では、「9.11」「アラブの春」「真珠湾攻撃」「南京大虐殺」「民主党の実態」他、真実は多くの人に知られています ソウル在住の中国人急増、地元住民と対立も(11 が、
政治、戦争歴史、マスコミ、教科書、宗教、医療業界、警察、司法・・・
これらが見事に世界規模でシステム化され、国民は完璧に洗脳されて来ました。
真の情報を得られるのは、インターネットとほんの一部の書籍のみ。
アメリカ人は既に気づきはじめました。
このシリーズの内容は、みごとに集約されています。
初めて観る方にとっては、最初のうちは「100%ウソに決まってる!」と言って観ることを止めるでしょう。
でも、決して観るのを止めないでください!!(お願いします。)
否定するなら、最後 (上級編)まですべて観てから否定してください。
否定は出来ないはずです。
これらの周辺の関連動画も片っ端から観ることをお勧めします。
みなさん、日本が、世界が、幸せになることは、共通の願いなのではないでしょうか。
「自分は知っている!」という先入観は捨てて観ることをお願い致します。
、、、
0618人間七七四年2012/02/06(月) 18:47:49.16ID:TlmbZZwe
>>612
本多家改易したのって、正純が福島正則のように勝手に改築したからと聞いたんだが
あとお江が寝込んだことにしようとかいうけど、その時期お江さん本当に寝込んでいたようだからね
正妻見舞いがてら一度帰って、また日を改めて行くつもりだったとか?
06192012/02/06(月) 19:42:42.74ID:R/CqpGjm
有馬の金を横領した奴とか長安とか釣天井とかキナ臭い事件が多いな。いかに家康が良く抑えてたかが分かる。また本多家って明治の大久保利道みたいなイメージだ。
0620人間七七四年2012/02/06(月) 22:30:59.48ID:kV383DW0
むしろそれらは家康の置き土産
幸い秀忠も家光も堅実に統治していたから大事には至らなかったが
0621人間七七四年2012/02/07(火) 15:00:00.72ID:K+f70Zya
いくら平和な世を望む機運があったとしろ
危険な2〜3代がのりきったというのはたいしたもんだ。
無能だからよかった、なんてヒネた言い方もあるが偉大な
初代の遺言?を忠実にこなすというのもまた重大な役目
だろうしな。
清盛、頼朝見てると本当に思うわ。
0622猿飛佐助2012/02/07(火) 15:13:14.55ID:sVv91E0v
世のため人のため、家康を殺すか、考え中・・・
0623義経2012/02/07(火) 15:44:10.14ID:sVv91E0v
家康は800年前、鎌倉幕府の重臣だったらしい。

もう、いやんになる。

北条討つべし!!!
0624人間七七四年2012/02/07(火) 19:51:09.30ID:NR+s8j0a
そんな皆様には「やる夫鎌倉幕府」
http://oyoguyaruo.blog72.fc2.com/category23-0.html
06252012/02/09(木) 19:39:31.31ID:/hbxgCBH
忠輝と政宗がつるんでの謀反って本当にあり得たのかな?これもでっち上げ?家光時代になっても政宗は戦国の生き証人として重宝されたみたいだけど
0626人間七七四年2012/02/09(木) 20:01:32.69ID:09SODPLT
>>625
忠輝は100万石近い大封をもってたのにぜんぶとられて坊主になったんだから、
そりゃかなりはっきりした証拠が出ちゃったんじゃないかなあ それで観念した
もしハメられたとしたなら、忠輝にはハメた相手がわかってたはずだし、
キレて殺害してたと思います
0627人間七七四年2012/02/09(木) 23:28:08.42ID:LAf/QN34
顔が恐ろしいとかで嫌う親なんて居ないよな。
武将としては恐ろしい方が良くないか?

信康がフラッシュバックしたのだろうか?
って事はやっぱり信康は謀反かw
0628人間七七四年2012/02/09(木) 23:35:33.59ID:wc0oGUxS
政宗は使節団の記録で「政府転覆をたくらんでた」という
話があるね。
それが本心かどうかは別の話だけど
ケイタイも無い時代だし、つるんで、ってのは
かなりあれじゃないかなぁ。
0629人間七七四年2012/02/10(金) 00:45:24.54ID:oPAuKuEp
家康が悪人って言う人のほとんどの理由が豊臣家への扱いだけどこのあたりを詳しく調べれば調べるほど家康って実は戦国大名で一番律儀だったんじゃないかと思う。
このあたりを秀吉が織田家に対してやった事と比較すると明らかに家康って豊臣家を残そうとぎりぎりまでねばったんだなあというのがわかる。
0630人間七七四年2012/02/10(金) 01:49:12.51ID:/ISq3aTy
◆源頼朝◆父方:河内源氏、 母方:藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む

■三河国高橋荘・高橋新荘
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁


【鎌倉幕府】

■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護

■関東御分国(源頼朝を国主とする知行国、国司は頼朝が推挙、当初は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国)
・三河国:源範頼(頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、頼朝と幼なじみ)の娘←三河国司は、頼朝が初めて国主とした推挙した事例
・駿河国:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と知り合う)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(実の父親は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼の兄、孫が初代細川氏の細川義季))

■政所(実務を司る役所、室町幕府の管領にあたる)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、四男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司、高師直の先祖)の室)
・執事:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0631人間七七四年2012/02/10(金) 16:32:47.82ID:kZLGLy97
そっかなぁ。
律儀に関してはいいんだけど
豊臣家は滅ぼす気だったとは思うな。
結果論にしろ何でも一番いいタイミングをつかまえてるとこ
なんかはさすがだとは思うわ。
0632人間七七四年2012/02/10(金) 16:50:53.68ID:Okskupmm
豊臣にも逃げ場はあったのに逃げなかったって印象が強くなった
徳川がいちゃもんつけてとよく言われてるが
豊臣も徳川にいちゃもんつけてるよね
0633人間七七四年2012/02/10(金) 17:27:45.55ID:Xw770qHZ
最初から滅ぼす気はなかったと思うよ
江戸開府した前後では割と情勢が不穏でリスクが大きすぎる
千姫輿入れとかをどう見るかだけど、それで取り込めればよしと見るね

でも予想以上に早く上手くことが収まって幕府の権力が固まった
豊臣の諸大名への影響力も目に見えて衰えてきた
しかも豊臣はなんか今でも主筋と思い違いをしてる
今ならいけると決断したのが1614年、と
0634人間七七四年2012/02/10(金) 18:29:54.08ID:dcFY/7Tu
>豊臣も徳川にいちゃもんつけてるよね
正論での必死な弁解しか思いつかないが、、、
0635人間七七四年2012/02/10(金) 18:44:54.46ID:CdNApXJu
でも関ヶ原から14年も待ったってのが腑に落ちない
1600年の時点で家康も結構な年齢だったし
0636人間七七四年2012/02/10(金) 19:28:35.20ID:X4t+NDlc
加藤清正、浅野幸長などの死は豊臣に大打撃だったと思うよ。
家康としては自分が生きているうちにすべての戦の種を潰すっていう
強い思いがあっただろうね。
豊臣家が健在だったら、家康は豊臣家をないがしろにしている
みたいな理由で戦の大義名分とかにもされかねなかっただろうし。
0637人間七七四年2012/02/10(金) 20:08:21.70ID:oPAuKuEp
当時の平均年齢から考えるといつ明日死ぬかもしれない年齢だった上1608年?には死にそうな病をわずらったときもある。
豊臣家を屈服させないまま死ぬ可能性が高かったにもかかわらず長い時間をかけて豊臣家の天下を諦めさせようとしたのがわかる
それに比べると秀吉はしずがたけの戦いのあと速効で信考とその母親を殺し、天下を統一した数か月後信雄の領土を、転封に難色をしめしたという理由だけでほとんど没収している。
自分をとりたててくれた恩家を速効でつぶした秀吉と、長い時間を与え転封も人質も断り続けた豊臣家を優遇しつづけた家康。
この二人を比べると家康以上に天下をとってなお豊臣家を長く存続させる事ができた武将はほかにいないと思う。
もちろん秀吉が悪辣だったのではなく家康が戦国武将としては異常に律儀だっただけで。
0638人間七七四年2012/02/10(金) 20:44:18.00ID:YoYaJi9Z
殺らなければ殺られてた秀吉と、圧倒的な差が出来ていた家康を一緒に語れるところがすごい
秀吉だって完全無力の織田秀信はそこそこ厚遇してたで
0639人間七七四年2012/02/10(金) 20:58:13.62ID:SQjUYVlv
>>638
秀吉も自身が攻め込まれた訳じゃなく、先制攻撃して抹殺してるから
自衛じゃなくて100%簒奪だな。

0640人間七七四年2012/02/11(土) 01:24:38.47ID:1wMw6gRA
>>638
殺らなければ殺られていたのは家康も同じ
天下を統一した後小牧の戦いですでに旧織田家にみはなされていることがはっきりしていて危険性がほぼ無い信雄を改易したのは
改易もしくは反抗した信雄を殺しても反発する大名がいないという確信があったからでは?ちなみに改易後の織田一族の総石高は30万石程度
対して家康は織田家と違い天下を統一した為遥かに危険性が高い豊臣家を65万石の大名として十数年優遇し続けた。
そもそも秀吉の場合は信長の血族がたくさんいた為一人や二人殺しても彼の血族が絶えることが無いため旧主の一族を根絶やしにしたという悪名をかぶらずに済んだ。またその必要もなかった
対して家康は秀頼が背けば当然彼と徳川を恨むであろうその子供を殺さざるを得ない。これが問題で反乱した秀頼の直系を断つことは秀吉の血筋を根絶やしにした事になってしまう。
つまり秀吉は織田家の血筋を根絶やしにしなかったのに{そもそも必要無いし血族が多くて不可能だが}家康は根絶やしにした悪い奴だということになる。
もし秀吉の息子がたくさんいたら秀頼の直系を断ってもほかの血族がいるかぎり秀吉の血筋を根絶やしにしたという悪名を負うことわなかったが
結局秀頼は背き、彼の血筋のみを絶った事が秀吉の血を根絶やしにした、家康はインケンだ、それにくらべて秀吉は織田の血筋を根絶やしにしなかったいい奴という評価になった。
やったことは同じなのに。
0641人間七七四年2012/02/11(土) 08:26:39.02ID:wM9NW8tk
信雄も豊臣家も転封を拒否してるわけだ。
これが何を意味するのか理解してないとか馬鹿すぎるだろ。
0642人間七七四年2012/02/11(土) 08:57:18.06ID:56ILJWVU
解っていて意地を通したと信じたい…
0643人間七七四年2012/02/11(土) 10:28:46.14ID:qqfrT6+T
大坂の陣が始まる前に前田に徳川寝返って豊臣についてね、とか言ってたらしいし
本気で幕府側に勝てると思ってたんかね
0644人間七七四年2012/02/11(土) 10:53:13.99ID:XOdgEDkM
>>642
信雄は、分かってなかったかもな。
0645人間七七四年2012/02/11(土) 11:54:13.70ID:9qgbkYpT
恩賞辞退しただけなのに改易とは
0646人間七七四年2012/02/11(土) 12:51:50.67ID:2lXKIZAU
というより、そうしたルールが生まれて定着していくのがこれからだろう
転封自体が滅多くあることではなかったし
問答無用で大名を取り潰せる強大な権力も日本史上で初だった
0647人間七七四年2012/02/11(土) 13:07:57.15ID:8i/aGbsk
>>646
秀吉は、以前から転封しまくりだよ。
大規模な領土獲得があった場合は特にね。
0648人間七七四年2012/02/11(土) 14:50:33.23ID:8WEShukz
◆源頼朝◆父方:河内源氏、 母方:藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)


■藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)

■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁


【鎌倉幕府】

■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護

■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
・三河国:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、頼朝と幼なじみ)の娘)←頼朝が初めて国主として推挙した事例
・駿河国:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と懇意)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模国:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総国:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃国:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後国:安田義資(甲斐源氏)
・伊予国:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)

■政所(実務を司る役所、室町幕府の管領にあたる)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・執事:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0649人間七七四年2012/02/11(土) 15:23:09.39ID:vnvJ7ix3
最初から豊臣潰す気だったかどうか知らんが、
あれだけ反抗的な豊臣を死の直前にやっと潰すくらいだから、
豊臣がもうちょっと上手く立ち回れば潰されずに済んだんじゃね?
0650人間七七四年2012/02/11(土) 15:29:28.93ID:9Y5pPVE/
家康って和歌はどれくらい残しているんだろう
一覧載ってるとこないかな
0651人間七七四年2012/02/11(土) 15:50:36.52ID:8WEShukz
◆源頼朝◆父方:河内源氏、 母方:藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)


■藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)

■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁


【鎌倉幕府】

■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護

■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)

国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、頼朝と幼なじみ)の娘)←頼朝が初めて国主として推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と懇意)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)

■政所(実務を司る役所、室町幕府の管領にあたる)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・執事:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0652人間七七四年2012/02/11(土) 16:24:53.13ID:56ILJWVU
>>650
大日本史料の家康逝去の項にあるが、達筆過ぎて読めん
0653人間七七四年2012/02/11(土) 16:55:56.86ID:fS7lhYcc
633が言うようにまずは幕府安泰が先だから
ずっとチャンスをうかがってたとは思うな。
最初という意味だと関が原より前から狙ってたようには
思うけど心に1%ぐらいはあったろうぐらいしか言えないか。

転封というのも栄転と左遷があるから時期と場合によって
違うのを単純化しては語れないわな。

それより信孝を殺したのは秀吉ということでいいんかね。
しばらく前は「それは信雄」、秀吉は織田家簒奪なんかしてない
というのがワラワラわいてて話が先に進まなかったもんだが。
0654人間七七四年2012/02/11(土) 18:46:46.68ID:1wMw6gRA
司馬遼太郎の関ヶ原と覇王の家で家康好きになれました。
0655人間七七四年2012/02/12(日) 00:29:32.17ID:HtOmF7eR
◆源頼朝◆父方:河内源氏、 母方:藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)


■藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)

■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁


【鎌倉幕府】

■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護

■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)

国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))←頼朝が初めて国主として推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と懇意)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)

■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0656人間七七四年2012/02/12(日) 01:13:48.24ID:uqA0Bjsb
>>653
>それより信孝を殺したのは秀吉ということでいいんかね。
>しばらく前は「それは信雄」、秀吉は織田家簒奪なんかしてない
>というのがワラワラわいてて話が先に進まなかったもんだが。

史料では信雄でFA
「話が先に進まなかった」って、単純に
貴方が望むような歴史的事実がなかったというだけの話
0657人間七七四年2012/02/12(日) 01:33:54.05ID:pBmvJOGp
>>653
大阪城を立てたのは大工ってのと同じようなもんじゃね
0658人間七七四年2012/02/12(日) 02:09:29.95ID:JkXLWJjj
誰に殺されたとしても「報いを待てや 羽柴筑前」という辞世が真作なら
秀吉を恨みながら死んだことだけは確か

もっとも秀吉厨は贋作だと言うだろうが
0659人間七七四年2012/02/12(日) 02:24:04.23ID:uqA0Bjsb
ま、単なる逆恨みだけどね
一度秀吉と敵対して敗北、母親と娘を人質に出して降伏しているのに
更に秀吉打倒の兵を挙げるなんて畜生のすること
そもそも信孝が秀吉の主君だったことなど一度もないのに
「主を討つ身の」なんて言ってるのは如何にも勘違いの信孝らしい

ちなみに信孝辞世の句の出典は『川角太閤記』
真贋は定かでないが、信孝個人の名誉としては
上述の理由からむしろ贋作であったほうがマシな出来
0660人間七七四年2012/02/12(日) 09:07:38.05ID:OgRvWGCo
というと今でもここでは、史料FA,ってことね。
別にどうでもいいが、オヤジが生きてた時には
ヘイコラしてたのに、死んだら豹変、というのは
逆恨みと言う言い方もあるだろうが、「主家に対して
ひでぇなぁ」てとこだろう。
一緒に光秀やっつけるあたりまでは、忠臣モード
だったのにいつのまにやらだもんな。
0661人間七七四年2012/02/12(日) 09:33:33.22ID:OgRvWGCo
ついでだが「史料にない」とことというのは
「わからない」「確認できない」とはいえるが
「事実は無かった」とまではいえないだろう。
「史料にあることは100%事実」としても「ないことは事実としてない」
とまでいうのはそれこそ論理の飛躍と言うかね。
史料中心主義というのはこの「ある」の反対概念を「ない」と
してしまうところに特徴がある。
あくまで史料上「確認できるーできない」としかいえない事を
「事実としてあるーない」というところに変換または飛躍させてしまってるわけだ。
つまり歴史学の一端としての「史料解釈」という方法論を
「歴史学の目的ー結論」にしてしまってるというか。
同じ中世でも様々な解釈や論点が展開されてるんだが
この織豊期というのは特に「信雄が切腹命令出した、はいおしまい」
「100%事実はいおしまい」とね。
もちろんそうなんだがこの結論から逆算して他の事象を
語るからまたおかしくなってくる。
0662人間七七四年2012/02/12(日) 10:26:39.70ID:SVhvQz8E
無い事の証明なんてのは悪魔の証明でしかない。
しかも他の事実が史料で存在するのに
史料に存在しない事を事実だとするなんて妄想以外の何物でもない。
0663人間七七四年2012/02/12(日) 14:20:54.95ID:UA8ZBRuR
この人本能寺スレにもいたなww
向こうで黒幕説でもいってろw
0664人間七七四年2012/02/12(日) 14:39:01.49ID:LE3QXOjf
上の方で「なかったことの証明はできない」と言われてたが、
多分同一人物。
同じスレで同じことを二度も言われるとは懲りてないというか。
0665人間七七四年2012/02/12(日) 16:41:36.67ID:HtOmF7eR
◆源頼朝◆父方:河内源氏、 母方:藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)


■藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)

■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁


【鎌倉幕府】

■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護

■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)

国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))←頼朝が初めて国主として推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と懇意)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)

■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0666人間七七四年2012/02/12(日) 22:02:18.35ID:PzwKuHGA
徳川家康から家の字貰って名前に入れてた人はどのくらいいるの?
0667人間七七四年2012/02/13(月) 11:40:16.72ID:hQjQL0M6
島津家久、最上家親、石川家成、奥平家昌、酒井家次、松平家次、松平家広、他
徳川譜代や江戸初期の大名で家が上につくのはみんな家康の偏諱だろう
0668人間七七四年2012/02/13(月) 12:07:50.94ID:UVhkCSzY
天下は回りもち、実力のある人間が取る
てのは当時の大名たちみんな思ってただろう
清正だって文句あるなら兵隊集めて徳川を攻めろって福島に言ったくらいだし
大体秀吉も自分がやったことをやり返される認識があるなら
秀頼と淀にめろめろになったり海外出兵や派手なパフォーマンスしてる暇あったら
家康みたいに自分が死んでも磐石なくらい組織固めればよかったのに
ライバルだった家康に頼る時点でダメ
0669人間七七四年2012/02/13(月) 12:14:17.99ID:wE+Wx8R6
ちょっと淀殿には政権担当能力があったとは思えないよねえ
本来なら三成らがうまくやるべきだったんだろうけど
家康公はきちんと天下を治めてた 淀殿に文句言われる筋合いはない
浪人を何万人も集めて家康が死んだら蜂起じゃーとか言ってたら
潰されて当たり前だよ
0670人間七七四年2012/02/13(月) 19:59:46.72ID:YCEAq60G
あの国家安康の事件の時には家康は豊臣家を完全に潰そうと決心していると思われがちだけど実はこの後も家康からわぼくの申し入れがあったんだよね。
たしか上洛?か、淀を人質にだすか、転封か、浪人放出するかのどれか一つを選べだった。
これを無理難題とは言えないだろう。最初から条件をのまさせないつもりなら全て受け入れろと言うはずだし。
家康の年を考えるとこのわぼくは自分で秀頼を潰す最後のチャンスを家康自身が潰そうとしているような物だから本気でわぼくしようと考えたとしか思えないだが?
0671人間七七四年2012/02/13(月) 20:32:52.62ID:sIyVbZvx
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏  母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)

■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
三河国高橋荘
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、惟康は後に駿河に移住初代大森氏に、小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭

三河国高橋新荘
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁


【鎌倉幕府】

■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護

■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)

国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏)の室)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)

■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0672人間七七四年2012/02/13(月) 21:35:52.84ID:7GPTeHui
家康は会津征伐が終わったら、それを頼朝の奥州藤原氏討伐になぞらえて
征夷大将軍に就任するつもりだったのかな
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