【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その14
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2011/11/07(月) 17:56:41.52ID:gc+MSXxX徳川家・松平家と家臣団まで包括するスレです。
人の一生は
重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
0472人間七七四年
2012/01/14(土) 09:57:03.60ID:AFsug7p2その意味で私称ではない
0473人間七七四年
2012/01/14(土) 10:10:27.42ID:60cQVEIsアレだろ、信長とか言う田舎モン、豊田市の長興寺を、あまりのデカさに城と間違えて焼き討ちしたんだよな
で、後から足利将軍家ゆかりの由緒正しい寺と知って、びびって立て直したんだよw
この長興寺は、系図上源頼朝の実の弟の家系である中条氏の創建
豊田は源頼朝のひいおじいさんが開発した所だから、源頼朝の血縁が絡んでいる
0474人間七七四年
2012/01/14(土) 10:15:24.02ID:RkEffknK三河は元々足利一門の領地だったから、それを横領した挙げ句に清和源氏を名乗らせろと言ってきた家康を不快に思ったのだろう
義昭が没落してからは形振り構わず濫発したけど
0475人間七七四年
2012/01/14(土) 10:31:50.25ID:60cQVEIs時代はややズレるが、スター勢ぞろいの三河なんだよ
足利義満が三河で
天恩寺創建
足利一族の菩提寺滝山寺本堂立て直し
実相寺本堂立て直し
六名堤造営(堤のせいで下和田郷に水がいかなくなり、佐々木高秀が足利義満に泣きつく)
御馬城築城
細川頼之が三河で
蓮性院創建
斯波義将が代々一族が眠る三河で
永源寺創建
0477人間七七四年
2012/01/14(土) 11:57:19.36ID:60cQVEIs三河は足利一族の植民地、松平は土着の土豪
これが馬鹿の壁だな
三河と足利氏の関係は平安末期に遡る
菅生郷(岡崎城近辺)は足利義兼の所領であり、義兼の兄である足利義清(矢田義清)は、西尾の矢田城主であった
菅生郷の郷司は、足利被官で源頼朝からも陸奥国信夫郡の所領を与えられた高階惟長
この高階惟長と矢田義清は同盟関係で、2二人とも水島の戦いで戦死したワケだが
この矢田義清の実の子義範は、母親の父新田義重に引き取られて初代山名氏となる
嫡男である広沢義実は豊田の広沢に移り住み、生まれた子供が初代細川氏の細川義季だ
何故山名義範が、養父(実の祖父)新田義重に反して源頼朝に協力的だったのかも
三河を中心にとらえれば全て裏が読み取れる
0478人間七七四年
2012/01/14(土) 12:26:33.47ID:SsRjZmmB家康が従五位下三河守に任じられたのは、1566年、このとき信長はまだ無位無官、信長は、1568年に足利義昭を将軍に立てて従五位下弾正小忠にはじめて叙位任官している。
家康は、信長を介さず独自の朝廷工作で任官している。
当主が官位を有する今川家で教育され、いまや今川と対峙するようになった家康の方が官位の重要性を先に認識していたのだろう。
あと、出身地、領地(荘園)所在地を「苗字」(本姓ではなく)として名乗るのは当時では一般的なこと。
足利、新田、吉良、島津なんかもそうなんだが。
0479人間七七四年
2012/01/14(土) 13:14:25.85ID:AqtolcEPたという解釈でいいんだよな?
0481人間七七四年
2012/01/14(土) 14:17:18.49ID:Lp3n2CMvお前がないと言い張っても書状が存在しているのだからどうしようもないよ
その後も足利家は家康に「松平」で書状送ってるし
義昭が徳川姓と官位を改めたのはずっと後
0482人間七七四年
2012/01/14(土) 15:09:18.76ID:oP6bFkt0家康の三河守叙任は永禄9年末だが、既に義輝は死亡してる。
次の足利義栄は、永禄11年に将軍に叙任されてるけど
義栄から家康に書状とか出てたっけ?
0483人間七七四年
2012/01/14(土) 18:05:40.17ID:Fiulpjf7叙任叙勲は別に将軍が出すもんじゃないけど。
清盛の初官なんて将軍のいない時代だが一体誰が
出してると思ってるの?
0484人間七七四年
2012/01/14(土) 18:49:04.76ID:HGLlLkCk家康が勅許を得て、自家を他の松平諸氏とは違うんです、とアピールするために改姓したのはわかる。
ってか、主張的には本家を継いだ、って形か。
で、なんで江戸時代に入って、徳川の子供の家が松平になるの?御三卿とか。
0486人間七七四年
2012/01/14(土) 20:45:35.38ID:HGLlLkCkあと、会津のケースは?
0487人間七七四年
2012/01/14(土) 21:02:35.32ID:oP6bFkt0御三卿は、基本的に徳川を名乗ってるけど、2男3男などは
松平家に押し込んでる。
会津の初代は秀忠の隠し子保科正之。松平性を与えられて
子孫は松平を名乗る。 (結城秀康と同じパターン)
0488人間七七四年
2012/01/14(土) 23:26:09.92ID:HGLlLkCk秀吉の豊臣大安売りみたいなもんね。
ありがとう、だいたいわかった。
0489人間七七四年
2012/01/15(日) 08:58:44.51ID:Z3q2/nh7どこにどう馬の骨がいるかわからない。
だからその一族の中できっちり「家康直系」という
特別な価値を明確にしたのが「徳川」姓。
だから徳川の子供でも安っぽくつけなくて「徳川」
を名乗ることは松平一族の中で「特別な価値」があるということが
わかるようになってる。
御三卿が徳川を名乗ったのはこれは異例なことで
吉宗が家康ー吉宗系統で将軍職を独占しようとした
その作戦の一環というのがよりわかりやすい理解。
だから長男以外は普通の松平にされちゃうのね。
平氏の中でも清盛直系だけを「平家」というように
松平だけでは何がどうかわからないイナカッペだから
初代「徳川家」という特別なくくりにした、という感じ。
これを20代前半で実行したのだから当時から天下取りの意思があった
とすると誤解が生じるけどさすがではあるな。
それと上の方でおかしな展開が続いてたけど、
徳川改姓は源氏としては朝廷から認められず藤原家としてなら
ということで認められた。例のチリ紙に書いた系図ね。
だからずっと署名は藤原家。
ここでよく誤解があるけど、藤原家として、ということは
出自がはっきりしない、という代名詞みたいなもので
所謂正統公家的な藤原家の子孫として認められたという
解釈ではない。
これは現在でもそうで藤原さんは子孫でもなんでもなくて
近衛さんとか九条さんが藤原直系になる。
長くてごめん。
0490人間七七四年
2012/01/15(日) 09:44:32.52ID:QtimRa22御三卿は、嫡男だけが徳川なんて事は無い。
ついでに言うと、御三卿は他家乗っ取り要員。
場合によっては自家が断絶しても、他家に養子に出してしまう。
0491人間七七四年
2012/01/15(日) 10:59:14.28ID:L4NFrw4P御三卿は実質的に領地を持っていないので、当主のみの家であり
子供が大勢生まれた場合は家督相続者以外は養子に出してしまうしかない
将軍家や御三家が後継者を求める場合は空き家にしても養子に出し、再び将軍家や御三家から養子を迎える
の繰り返し
つまり嫡男だけが徳川姓と言うか嫡男しか家に残らないから結果的に一人しか御三卿の徳川を名乗るものはいたかった
また、他家を乗っ取る為にあるわけでもない
あくまで将軍家と御三家の保存が目的
過剰人員を他家に送り込んだだけで、空き家にしてまで養子に入る場合は将軍家か御三家に限られる
0492人間七七四年
2012/01/15(日) 13:59:55.76ID:+cCu7CY2室町幕府樹立後(初期)、西三河人の日本支配構造
【東海道】
・伊賀国守護:仁木義直、細川清氏、仁木義長
・伊勢国守護:仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・志摩国守護:仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・尾張国守護:中条秀長
・三河国守護:仁木頼章
・伊豆国守護:石堂義房
・遠江国守護:今川範国、仁木義長、今川範氏
・駿河国守護:石堂義房、今川範国、今川範氏
・武蔵国守護:仁木頼章
・安房国守護:斯波家長
【畿内】
・摂津国守護:仁木頼有、細川繁氏
・和泉国守護:細川顕氏
・河内国守護:細川顕氏
【北陸道】
・若狭国守護:斯波(大崎)家兼、斯波高経、斯波氏頼、細川清氏、石橋和義
・越前国守護:斯波高経、細川頼春、斯波氏経
・能登国守護:吉見頼顕、吉見頼隆 ← 吉見氏は源三河守範頼を祖とする三河ゆかりの氏族
・越中国守護:吉見頼隆、細川頼和、斯波高経
0493人間七七四年
2012/01/15(日) 14:00:28.35ID:+cCu7CY2・奥州探題:斯波(大崎)家兼
・羽州探題:斯波(最上)兼頼
・下野国守護:斯波頼兼
【山陰道】
・丹波国守護:仁木頼章、仁木頼夏
・丹後国守護:今川頼貞、荒川詮頼、上野頼兼、仁木頼章
・但馬国守護:今川頼貞、吉良貞家、仁木頼勝
・伯耆国守護:石橋義和
・石見国守護:上野頼遠、上野頼兼、荒川詮頼
・因幡国守護:吉良貞家、今川頼貞
・伯耆国守護:石橋和義
【山陽道】
・備中国守護:細川頼之
・備後国守護:仁木義長、石橋和義、細川頼春
・安芸国守護:細川頼之
【南海道】
・紀伊国守護:細川氏春、
・淡路国守護:細川師氏、細川師春
・阿波国守護:細川和氏、細川頼春、細川頼之、細川頼有
・讃岐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
・伊予国守護:細川頼春、細川頼之
・土佐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
【西海道】
・九州探題:一色範氏、一色直氏、細川繁氏、斯波氏経
・筑後国守護:一色直氏
・肥前国守護:一色直氏、一色範光
・肥後国守護:一色直氏
・日向国守護:細川頼春、一色直氏、一色範親
0494人間七七四年
2012/01/15(日) 14:10:21.39ID:+RRuyb8v0495人間七七四年
2012/01/15(日) 19:20:30.79ID:iOK384lB0496人間七七四年
2012/01/16(月) 01:52:28.81ID:C//vCHAb元を辿ればみんなアフリカ武士だし、現状なら今住んでいる場所を名乗るべき
都合の良い期間だけ抜き出す事になんの意味があるんだ
0499人間七七四年
2012/01/19(木) 12:29:25.31ID:e0BvloU5くやしのか?w
しょうがないだろw日本人は三河武士のパシリになるDNAを持っているw
足助重範が豊田から駆けつけてきて、後醍醐天皇軍3000人の総大将とか、三河の足利一族、家康だけじゃないよな
お前ら今(トヨタグループ)も昔もパシリすぎm
0500人間七七四年
2012/01/19(木) 14:03:53.98ID:4iQjCulg北海道・宮城・京都・福岡以外の一流府県は全部愛知県人が
拓いたって思想持ってるけど、
維新の薩長土肥って最近ではどうなってるの?
0501人間七七四年
2012/01/19(木) 14:25:38.71ID:IaW0GfTS0502人間七七四年
2012/01/19(木) 14:59:38.80ID:e0BvloU5なぜ足利氏が、三河守護になれたのか考えた事はないのか?
答えは簡単、元々三河に所縁があってなれたワケだな
足利宗家だけでなく、庶流の足利義清は西尾の矢田に住んで、矢田義清と号した
義清の実の子の一人は初代山名氏の山名義範、嫡男の孫が初代細川氏の細川義季
なんてことはない、細川氏つーのは、祖父の代から三河にいたワケだ
そしてなぜ山名氏が新田氏に従わず、源頼朝足利尊氏側で活動したか理由もわかるね
山名氏とは三河にいた足利一族だからさ
0503人間七七四年
2012/01/19(木) 23:33:50.39ID:sURAieTl元々始皇帝とかも自称したのがはじまりなのに
莫迦の歴史を研究してるようなもんやな。
0505人間七七四年
2012/01/20(金) 23:56:55.60ID:JS2ToUwe1337年 西三河武士団、室町幕府樹立
1603年 西三河武士団、江戸幕府樹立
1937年西三河武士団、トヨタ幕府樹立
2007年 トヨタ幕府世界販売生産世界一
2012年 トヨタ幕府世界販売生産 世界一に返り咲き見込み
実績が違いすぎますわw
0506奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/01/21(土) 00:42:39.53ID:Zqem7at70507人間七七四年
2012/01/21(土) 11:28:38.38ID:6y9zM1Fe山城同士の定時連絡とかして無かったんだろうか?
俺が国持ちだったら、全ての砦や城に定時連絡便走らせるんだけどなぁ。
あと月例で侍大将以上集めて、自他国一般情勢の勉強会開いて情報共有すると思う。
0509人間七七四年
2012/01/21(土) 17:29:42.27ID:gTUJ8BJp言ってみただけじゃないだろうな
過去を遡って、社会増を調べあげるぞ
俺をナメるなよ
0510人間七七四年
2012/01/21(土) 19:25:20.86ID:gaUVTqb3http://music.geocities.jp/jphope21/0204/43/289_2.html
最終的な決着がないのが、徳川の戦い方だ。
(仮説を含む)
( http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/02/p006.html )
0511人間七七四年
2012/01/22(日) 04:21:41.12ID:htXS+fOrマニフェスト、イギリスで始まりました。
ルールがあるんです。
書いてあることは命懸けで実行する。
書いてないことはやらないんです。
それがルールです
0512人間七七四年
2012/01/24(火) 19:24:12.62ID:FBhiMiSH0513人間七七四年
2012/01/24(火) 19:51:27.73ID:K1hkmYiO0514人間七七四年
2012/01/24(火) 19:59:25.58ID:otZt8YKr0515人間七七四年
2012/01/24(火) 20:30:47.05ID:fCxKwPbf0516人間七七四年
2012/01/24(火) 20:55:15.59ID:K1hkmYiO0517人間七七四年
2012/01/24(火) 20:55:30.19ID:tR2JMIjm家康は多趣味
0518人間七七四年
2012/01/24(火) 21:03:31.61ID:avYeXohE城塞読め、城塞
お前なら切腹して果てるよ
0522人間七七四年
2012/01/24(火) 23:47:35.57ID:mzQI3Qnn普及したのは木版本だから、家康の活版が直接原因では
無いと思う。
太平が続いて、庶民が教養や娯楽に時間を取れるように
なったのが大きいんじゃないかと。
0525人間七七四年
2012/01/25(水) 09:31:44.98ID:YKPMF4uK明治に入ったあと公的な支援がなくなっとの洋化政策によって結構苦労してる
0526人間七七四年
2012/01/25(水) 10:58:11.34ID:iG9gKRoO0527人間七七四年
2012/01/25(水) 11:12:12.46ID:YKPMF4uK室町末期に日本でルールが大幅に改正されて当たらし物好きの戦国大名の間で一大ブームが巻き起こり、近代囲碁が成立する
おそらく、大陸は逆輸入したんだろうね
大衆レベルでは旧ルールでやってるかもしれんけど
0528人間七七四年
2012/01/25(水) 11:50:36.76ID:FJ7tLMYI中国と日本が盗んで自国の文化と主張してるだけ
0529人間七七四年
2012/01/25(水) 15:44:51.27ID:jAfBfd28今年は初代大橋宗桂名人から記念すべき400年。
あ、将棋ね。
その年にコンピューターに負けるというのもなんだが・・
とりあえず家康さまには感謝しないといけないわな〜。
0531人間七七四年
2012/01/26(木) 00:42:29.85ID:Xhfod5dkみると当時から「識字率」は相当にあったはずというのが
普通だろうな。
でないといきなり江戸で全国に普及すると言うのは
なかなか説明に苦しむ。
昔はひまだから今より普通にカナぐらいは覚えてただろうし。
0533人間七七四年
2012/01/26(木) 15:39:16.57ID:f91n20Ygそんなことを言ったら、
公文書がきっちりのこってる20世紀初頭のヨーロッパの識字率は100%近くないとおかしいけど、
実際は30%くらいだったとか
史料があるからと言って即識字率には結びつかない
史料ってのはだいたい学識のある層がつくるものだから
0534人間七七四年
2012/01/26(木) 15:45:12.49ID:Ayo58s3g戦火で喪失しなくなったというのが大きいな 火事はあったけど
0535人間七七四年
2012/01/26(木) 16:04:10.43ID:PnCjoog7なので平安としたのだけど、地方の寺なんかに
庶民の名前がたくさんあって書いたのは字がわかる
お坊さんだろうけどひらがなや漢字もいっぱいあって
当然庶民も自分の名前、つまりカナぐらいは判別
できてただろうとは歴史と言うか言語のほうの専門家が言ってる。
歴史の方だと史料中心主義で「それは推測」と認めてないが
江戸の前段階でもある程度はあったろうという話ね。
将棋の駒もそうだが一番古いのは貴族の屋敷や寺社だが
江戸期にあんだけの漢字のゲームが一気に普及するというのも
それまでにある程度の知識はあったかと。
当然「あれは単に記号だよ」と言うだろうが川柳なんか見ても
普通に読み書きパロってるし。
%の話はよくわからないが、各階級によって違うから
あれだけど庶民でも3〜50%ぐらいはあったじゃないかな。
そして平安から400年かけてだんだんあがってきて江戸になると。
0537人間七七四年
2012/01/26(木) 23:31:46.14ID:xbDYrh5Fインコは文意把握して喋ってるわけじゃあるめえ
今の小学生と意思疎通はできるが、文語文かけっていってどれだけの人間が正確なもの書けるよ
0538人間七七四年
2012/01/26(木) 23:41:50.26ID:aclcThAl江戸時代に極て高い識字率があったのは間違いないが、別に義務教育があったわけではなく
民間に学問をする風習があったのが要因なわけで、それがいつ頃から普及したのかが分からないと何とも言えん
まあ、小作人まで読み書きが出来たとは思えないけど
公家、武家、神官、僧侶、商家あたりは100%に近い数字で
百姓は富裕層が中心だったろうと思う
0539人間七七四年
2012/01/26(木) 23:47:59.00ID:PnCjoog7物証があるんだけどそっから説明しないといけないのか。
お寺の記録なんかは江戸にも直結するから比較しやすい
だろうと思って例にしたんだけどさ。
平安から残る文字が上級貴族だけに使われてて
庶民には普及して無かったとかいう主張ならそれはそれでいいけど
それはそれで笑われるぞ。
単にからんでるだけの子供ならいいだろうけど。
0540人間七七四年
2012/01/27(金) 00:00:05.02ID:jRdm+upJ室町だが、高野山が守護への苦情があったら提出しなさいと言うと
かなりたくさん集まったと記録がある。
まとめた正式な訴状なんかはお坊さんが書いたんだろうけど
各荘民が「うちはこんだけボッタくられた」とかいうのは
普通は庶民がメモ程度とはいえ提出したということだろう。
そういう部分的な例から識字率とかは判定しようが無いが
カナぐらいはある程度は普及していたんだろう。
また守護が「遅れたからあんた2割り増し」なんて文書も
あるがこれはちゃんと「読めた」ということだろう。
江戸に詳しいのならその連続性からその前段階でもそれなりに
普及はしていたというのは理解してもらえるはずなんだけどね。
0541人間七七四年
2012/01/27(金) 00:48:58.67ID:AhMTkxv0一揆起こすような連中・層はそれなりに読み書きは出来ただろうな
村の名士みたいなのが文言書いて後は当て字で署名程度だろうけど
>>539
中身ねえな
要約すると「俺はこう思う!それに反論するお前は恥かしい!」
ナンダコレ
>>540
憶測じゃん
文字が理解できるごく一部に充てて書いて証拠とし、それをその理解できるやつらが理解できないやつに読み聞かせろ
こうも解釈できらあな
0544人間七七四年
2012/01/27(金) 13:45:28.84ID:EMoNY9Sb俳諧、とか風俗の方でもいいからさ。
543に言っておくが、お寺の記録の中に庶民が
書いたと思われるのく見られるのもあるという話ね。
541もだが、当て字、じゃなくてカナが多い、と言ってるでしょう。
「だろう」ってそちらの方が推測になってるしさ・・
結局中世史料を見たことも無くて誤読して
レスされても困る。
ちゃんと「中世庶民はカナも読めない」という
主張をされるならそういう具体例を頼む。
0545人間七七四年
2012/01/27(金) 18:26:42.29ID:AhMTkxv0説明できないならレスしなきゃいいのに
541は結論として憶測してるけど、>>540は憶測を基に自説を展開してる
違いぐらい分かるよな?
0546人間七七四年
2012/01/27(金) 19:18:09.93ID:HD992qgQ無かったことの証明はできない
あったと主張するがわが証明をするべき
それと庶民つっても、
支配階級、つまり庄屋や土豪、地侍あたりは読み書きできても不思議じゃない(出来なくても不思議ではないけど)が、
水飲み百姓なんかがが読めたのかってのが主眼
そこらへんが読み書き出来ないと識字率は上がらないから
庶民庶民というけど、そこら辺の区別がついての発言?
どうも庶民(百姓)で一括りにしてるけど、庶民にもはっきりと差はあるんだよ
今みたいに平等なんてない時代なんだから
0547人間七七四年
2012/01/27(金) 19:26:17.79ID:E5yxtFmT0548人間七七四年
2012/01/27(金) 20:24:43.39ID:MtCBk1Ln0549人間七七四年
2012/01/27(金) 22:21:24.19ID:AhMTkxv0その辺だよなー
紙も当時高価なのに、庶民に簡単に手に入るものじゃない
紙を用意できる時点でそれなりの余裕がある、つまり上層の人間
勿論底辺層が簡単に紙を用意できたというならそれはそれで面白い発想だ
0550人間七七四年
2012/01/28(土) 00:58:02.83ID:Jswoz5kT登るは遅く、こければ一気に転げ落ちてゆく如し
さればゆえ油断大敵身のほどを知れ
0551奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/01/28(土) 01:02:36.20ID:CRh4Be670552人間七七四年
2012/01/28(土) 01:10:38.13ID:R7bnG1KJ足軽として最前線で戦ってたし、口論から人を斬り殺したりしてるけど、
家康公って自分自身の手で人を斬り殺したことがあるのかなあ
0553人間七七四年
2012/01/28(土) 01:20:19.93ID:Jswoz5kTポジション的に一番神経疲れそう
現代でも過労死するの中間管理職だろ
0554奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/01/28(土) 01:25:00.37ID:CRh4Be67組織に属さない体の金持ち。
「お大尽」てヤツさ。
0555人間七七四年
2012/01/28(土) 02:01:46.37ID:5iani2ip家康お気に入りの鷹に怪我させた小姓を切り殺している
関ヶ原でも門奈を切り殺そうとしたし、信長公記でも家康が弓で敵兵を射ったと書いてあるし
結構殺してるんじゃないかな
0556人間七七四年
2012/01/28(土) 02:20:42.76ID:rd1CHHjO0557人間七七四年
2012/01/28(土) 02:22:08.59ID:bXNxI8Mm0558人間七七四年
2012/01/28(土) 03:26:53.16ID:Jswoz5kT0559人間七七四年
2012/01/28(土) 04:02:22.56ID:PyiwX3tJ0560人間七七四年
2012/01/28(土) 09:42:01.21ID:ajI8zyZg油で高温処理する天ぷらは調理法として安全だと思っちゃったんじゃないかな
当時、保存技術が低いから油が悪かったんだろう
好物ってわけでなく豪商から西洋から伝わった珍しい料理なんすよってすすめられたんだっけ
当時の天ぷらはころものついた天ぷらじゃなく
さつま揚げみたいなのとも聞くけど見た客に出せない目の悪い小鯛をすり身にする経済的な調理法だったかもよ
0562武闘派坊主和崎俊哉
2012/01/28(土) 18:46:39.91ID:PyiwX3tJ0564人間七七四年
2012/01/29(日) 00:52:31.07ID:+GnT+Jh2それは人を傷つけるだけのことだ
0565人間七七四年
2012/01/29(日) 12:08:40.37ID:9uATBoeE舶来のオリーブ油で揚げてるから、高価なものであることは間違いないがね。
食が進んだのはいいが、弱ってるところに油っこいものを食べたんで体調悪化、さらに自分で調合した強い薬を使ってさらに悪化という具合。
当時のことだから、胃癌は助からないが、体の衰弱で少し死期が早まったくらいかね。
0566人間七七四年
2012/01/29(日) 12:31:00.79ID:mNneeRuM0567人間七七四年
2012/01/29(日) 15:56:23.01ID:F4hiLJCy0568人間七七四年
2012/01/30(月) 22:50:54.97ID:cnRWdYNmあとはチャンス(近隣大名が死んだとか)が来るまで待ってるイメージだが
誤解してる? 三方が原の事情説は知ってる。
0569奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/01/30(月) 22:59:38.80ID:2tslDyXI0570人間七七四年
2012/01/30(月) 23:16:57.65ID:xGnKc3dUおれが長年、家康が嫌いだった理由がやっとわかったわw
そういう要領のいい抜け目なさが嫌いだったんだ
0571奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/01/31(火) 00:14:31.93ID:/HarLBUW信長の弟
秀吉の弟
系図を少し齧って、義理を消せられば、ね。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています