【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その14
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0001人間七七四年
2011/11/07(月) 17:56:41.52ID:gc+MSXxX徳川家・松平家と家臣団まで包括するスレです。
人の一生は
重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
0042人間七七四年
2011/11/10(木) 22:35:30.99ID:0VuUdhFr雪斎は両方読んでたんだろうが、本で読んだ兵法をいきなり実践して見せた点では、大村益二郎並みの天才だったろう。
家康も、初陣や第2戦目の桶狭間の前哨戦で活躍できたのは、座学を実践に移す力があったからだと思う。
0043人間七七四年
2011/11/10(木) 23:32:58.80ID:bQagP/7K御三家に配って徳川園には文庫として今に残るからね。
半数以上が韓国中国のものだったか、さすが家康だわなぁ。
人質時代にやることないから勉強してたというのはありそだな。
野山を走り回ってた信長とはちと違うか。
ただ桶狭間の頃はまだ高校生ぐらいだから兵法を活用したとまで
持ち上げるのは厳しいかもね。
0044人間七七四年
2011/11/11(金) 00:21:10.92ID:xIZUu8A6資料を分析したらほとんど駿府にいなかったようだと
本で見たことがある
0045人間七七四年
2011/11/11(金) 00:22:29.77ID:xIZUu8A6一緒に駿府に行った年上の人間が岡崎岡崎と言ってたのが頭に染み込んだんじゃない
0046人間七七四年
2011/11/11(金) 00:26:08.45ID:SLNOzKoz0047人間七七四年
2011/11/11(金) 01:37:07.39ID:Q8ExZtbRだろねえ、だから「待望の自国自城に帰った」みたいに
言われるけど意外と「初めて来た、見た」じゃなかったのかなってね。
0048人間七七四年
2011/11/11(金) 01:46:49.11ID:SLNOzKoz0049人間七七四年
2011/11/11(金) 02:49:05.95ID:Q8ExZtbRちなみにその後は駿府に戻ったの?
005048
2011/11/11(金) 07:30:38.55ID:z05NQ//Iあと、元康の康は祖父清康の康だし、その祖父が獲った岡崎や父祖伝来の安祥には行かずとも思い入れはあったと思うが
0051人間七七四年
2011/11/11(金) 08:48:07.87ID:TNN70E3Nさんきゅ。老臣なんかは思い入れが強くていろいろ話したろうねぇ。
ただ帰れるかどうかもわからないからあんまり話すのも
かわいそうみたいなのもあったかなとか。
0052人間七七四年
2011/11/11(金) 21:42:06.92ID:w6TeOftQ何で学問の話になってるんだ、、、
0053人間七七四年
2011/11/11(金) 21:59:25.50ID:TNN70E3N信用はできるのかな。
誰かあれ読めませんかね。「さきやう」って誰だろう。
0054人間七七四年
2011/11/11(金) 22:42:01.90ID:3VJ0MsI5でちょっとググってみたら浅野幸長が左京大夫だから、
時期にもよるけど幸長じゃね?
0055人間七七四年
2011/11/11(金) 23:17:31.11ID:TNN70E3Nググってみたが、幸長が左京大夫になるのは1589で、もう市は
亡くなってるんだよね。
徳姫が嫁ぐのは1567で、その前とすると市が嫁ぐ前ぐらいかな。
とすると尾張時代ということになる。
その頃の「さきやう」とすると・・・?
0057人間七七四年
2011/11/12(土) 01:24:57.25ID:kMU8RSHyところで細川は右京だわなぁ。
0058人間七七四年
2011/11/12(土) 03:32:05.29ID:jnx3KFdZ右京左京は誰なのか知らんかった
0059人間七七四年
2011/11/12(土) 05:35:47.75ID:A2/40o850060人間七七四年
2011/11/12(土) 13:41:47.28ID:nTlZAd5yだとしたらこの書が証拠になるかもしれないね。
この柘植左京亮というのが、左京亮、になるのは秀吉の
時というからこれはどうなんだろう、織田家にいた頃はなんと呼ばれてたか。
柘植というのも後に名乗ったみたいだけど三重の出身で
海の方にいたというのを見かけたことがある。
さて。
0061人間七七四年
2011/11/12(土) 19:55:13.58ID:/eueVVoX自分で補足だが、『武辺咄聞書』に以下の記述が有った
>家老物頭舌をふるひ「此君、幼少より臨済寺の雪斎にたより、
>兵書を読習給ふと言共、ケ程の明智はよも不出。
>生付給へる名将也。老前き頼母敷」と感しける。
若干信憑性に欠ける資料だが、これが雪斎師匠説の初出らしい
後は臨済寺に「家康公手習いの間」の遺構が残ってるくらいか
0062人間七七四年
2011/11/12(土) 20:46:39.28ID:nTlZAd5yほ〜、勉強になるなぁ。
ところで清洲同盟時上洛までで1561〜68として
この間家康が尾張に行った記録はどのくらいあるんだろう。
信長の方からはあまり記録がないのかな。
0063人間七七四年
2011/11/13(日) 08:59:26.25ID:u6WjGNbb柘植左京亮が天正十三年に任官する前から「左京」
を自称していたかどうかがポイントだと思う。
「関白任官記」の柘植左京亮、津田大炊頭
「歴名土代」の平重長、平吉広
が対になると思うけど、通説と違って
柘植左京亮吉広、津田大炊頭重長の可能性も考えられ、
柘植左京亮も「大炊」を称した説もあるのでややこしいけど。
0064人間七七四年
2011/11/13(日) 10:33:28.14ID:cgSEu4Zlどこでされてるの?
市は信長の妹でしょ?
そういう説があるのは知ってるが、あくまでも異説でしかない。
そう言ってる学者の名を教えてくれ。
0065人間七七四年
2011/11/13(日) 11:01:41.02ID:jT7hvLRT市は信長の妹扱いで政略結婚をしたのであって、
実の妹であろうがなかろうが学術的には重要ではないから
そんなことを研究している学者はいないと思うよ
0066人間七七四年
2011/11/13(日) 11:43:36.66ID:QYDARDmBでもどっちにしろ、妹として長政に嫁いだんだよね
ところでここ家康のスレなんだが、どうして市の話になってんの?
0067人間七七四年
2011/11/13(日) 13:59:30.64ID:HEvFPVXV天正13年とはかなり空くでしょう。
それに任官した位をその前に名乗るかどうか
「左京」が一般名?というのもあるしね。
それと織田にいた頃のこの人物が市が連絡するほどの
人物だったかという点もある。
年齢的に20代というのもギリギリぐらいだろうけど。
>>66
ごめん、言い出しっぺ。
ネタがなかったし、家康にも少し関わるかなと思って。
それと異説を唱える人たちがお江人気で結構取り上げられたりしてるみたい
だからね。そういうのがこの書状で「間違い」というのが分かってくると
ちと面白そうで。
一つの史料からたくさんのことがわかる実例というのもこれまた
珍しそうだし。
0068人間七七四年
2011/11/13(日) 14:12:38.49ID:jT7hvLRT例えば佐久間信辰も「左京」を自称していますよ。
佐久間信盛は右衛門尉を自称していたが、後に正式に任官しているみたい。
0069人間七七四年
2011/11/13(日) 14:13:24.28ID:QYDARDmBああそういうことか
市と家康が何らかの交流があったとして
自分たちの子が夫婦になるって、その頃可能性の一つとして捉えられたりしたのかな
0070人間七七四年
2011/11/13(日) 14:35:50.07ID:HEvFPVXV教えてもらったんだが上杉家臣の、後藤左京亮、に比定されているとか。
となると、い、も、とく、も上杉関連の女性というわけで市の書とは
関係なくなってくるね。
発表の場が場だし、増田学長の「もし」が勝手に拡大解釈されているかも
しれない、いい迷惑ってか。
邪馬台国畿内説でさんざんモメたからなぁ。プレス発表は。
0071人間七七四年
2011/11/14(月) 00:52:50.30ID:12n700aK準譜代と考えたほうがいいような気がする。
0072人間七七四年
2011/11/14(月) 04:22:24.21ID:wmNWXPBlそれでも譜代は譜代だ
0073人間七七四年
2011/11/14(月) 05:59:37.53ID:WIschtJVあくまで外様大名と区別する基準だからね。
0074人間七七四年
2011/11/14(月) 08:07:43.64ID:oQ40lCOU小室哲哉が今不幸だ
奥さんが脳出血でマヒだし
派手な生活をしてきたのが、今になって裏目となってきている
暴言吐きまくり自らは高給を取り、低収入者を嘲笑っていたレストランけんの社長も
消えた
人生というのは水戸黄門の歌のように、
山あり谷ありだよな
家康のように、理不尽な苦労に耐えて、
最終的に勝者になっても奢れることなく
清貧な暮らしをしていたからこそ、
徳川250年があり、今の日本がある。
その日本自体が、馬鹿な政治家のせいで
崩壊しようとしている。
家康を一万円札に採用して、
もう一度、家康を再評価する時ではないだろうか。
ちなみに、福沢諭吉の子孫が今TBSの番組プロデューサーをしていて、態度がかなり傲慢だそうだ。俺は偉いんだみたいな。
人の上に人を作らずではなかったのか?
0075人間七七四年
2011/11/14(月) 11:18:27.14ID:Dnri2brd出産したのは浜松城のあたりだったろうが築山ってのは
浜松城には住んでないよね。
とすると築山の世話してたとされるのは岡崎時代ってことか?
そして家康の浜松移転時に連れてったということかな。
0076人間七七四年
2011/11/14(月) 12:51:55.37ID:gBUuYSPj瀬名に折檻されて忠勝に保護されながら
浜松行ったんじゃなかったっけ?
0077人間七七四年
2011/11/14(月) 17:30:43.84ID:WXEfcIX1やってみたら妊娠しちゃったらしい でも外出ししてたのでほんとにおれの子かー?って
疑わしいので家臣にくれてやったらしい ちなみに土井利勝もその手の家康の庶子らしい
って小説に書いてた
0078人間七七四年
2011/11/14(月) 18:23:11.25ID:T8xwcB3b質素な食事のほうが長生きできることをしったのは家康から
0079人間七七四年
2011/11/14(月) 19:04:17.30ID:6xi96sQK譜代・外様のくくりは時期によって変わると考えた方がいいだろうね。
桶狭間後の家康独立時に家臣だったものを譜代とすると、
奥平、牧野、戸田、菅沼といった東三河奥三河の国人も外様になる。
0080人間七七四年
2011/11/14(月) 19:41:51.14ID:WYnINF/n貧乏過ぎる食事でよく長生きしたよな。
薄味の味噌汁に、麦飯と野菜が少なめだろう?
当時だったら美食のほうがはるかにバランス良いと思うのだが、、、
0081人間七七四年
2011/11/14(月) 19:47:08.55ID:WXEfcIX1のちに天皇家ともつながる戦国覇王徳川家康公が最初に娘を嫁がせたのが
なんの由緒もないど田舎の弱小武将とは意外なものよ
0082人間七七四年
2011/11/14(月) 20:00:59.01ID:BCMMmSls小説><
>>81
弱いときは手近なところにやっちゃうもんだね
規模はちょっと違うけど織田も息子の養子先が北畠とか神戸って
織田時代ですら特に重用されてもいない家に行っちゃったし
0083人間七七四年
2011/11/14(月) 20:49:36.41ID:VTbeIBnK基本的に家康(徳川家)研究は関ヶ原を境にしているようだから、
乱暴な言い方をすれば、それ以前が譜代、以後の臣従が外様になるって考えてる。
個人的には、清康が東三河攻めた時に臣従した近藤氏は松平の譜代と
呼んで良いのか?とか、気にはなるけど、研究されてないみたいだし。
流れ的には、清康臣従→次代の広忠が今川に臣従したので今川に臣従→
遠江侵攻時に家康の先導で、一応、表立って徳川への裏切りはしてないから
アリかなぁと思うんだけど。
一向一揆の時なんか一族入り乱れて敵味方だし、臣従しても裏切って
戻ってきたのがギリ関ヶ原前だったから譜代、なんてのもいるから、
関ヶ原以前の徳川家を調べてると、関ヶ原基準の譜代の括りに疑問はあるけど、
どの時点で区切るかってのは、何を基準にするかで変わるんだよな。
もうちっと初期徳川氏研究が進んだら、基準が出てくるかも知れないけど。
0086人間七七四年
2011/11/14(月) 21:28:15.95ID:WYnINF/n有害なほど取れないんじゃね?
0087人間七七四年
2011/11/14(月) 22:42:58.28ID:Dnri2brd折檻というのは信ぴょう性があまりないでしょうからね。
築山もずっと城外にいたしどの記録を重視するかということに
なってしまうのかな。
0088人間七七四年
2011/11/14(月) 23:43:10.81ID:12n700aK家康独立時に家臣だった者→譜代
それから関ヶ原の間までに徳川の家臣になった者→準譜代
以下、外様
という感じかなあ
0089人間七七四年
2011/11/14(月) 23:48:52.07ID:tIyPB9Woという説もあるけど、当時作左はずっと家康と同じ所にいるんだっけ
まあ折檻も、築山殿悪妻説でただの信憑性の薄いホラ話だと思うけど
0090人間七七四年
2011/11/14(月) 23:59:19.20ID:VTbeIBnK岡崎から浜名湖西岸の中村屋敷まで
やってくる、アグレッシブな築山殿も嫌いじゃないわ。
0091人間七七四年
2011/11/15(火) 00:01:34.18ID:H71vQ+kwそこまでアグレッシブなら、家康に直接物申すんじゃw
しかし別居みたいに見えるけど、嫡男は別の城を任せて
でもまだ若いから、養育も兼ねて母親である正室も一緒に置いておくってのは
ここだけ見ても、あまり悪いことじゃないよね?
0092人間七七四年
2011/11/15(火) 00:25:27.41ID:Or7SOoI+ともかくも、小姑と不満タラタラ嫁がいて父が仕事で多忙では
子供はやってられん。
切腹事件は親子不仲説が現代ドラマみたいであれだけど
家臣掌握とか信長に対する遠慮とかが入り交じって
行き着くとこまで行っちゃったってやつかなぁ。
この頃は親子でこういう話はよくあったのかもしれないし
その後おかしな引っ張り方をしなかったのはさすがとは思うけど
家康の最後の一族存続にかける執念はなんか尋常じゃないもんがあるしなぁ。
0093人間七七四年
2011/11/15(火) 00:33:43.32ID:7WsILYcq公人として意識されている立場なので、そこをどう捉えるかで
判断が別れるところだと思う。
伊奈忠次の姉が築山殿の侍女なんだけど、築山殿の訃報を知って
殉死してるから、悪女というほど性悪でもないと思うんだけどね。
0094人間七七四年
2011/11/15(火) 00:41:15.19ID:Uk/BzYdA岡崎城って結構平地だよな?
どこの城?
0095人間七七四年
2011/11/15(火) 01:29:34.15ID:VRhmLHTb築山御前がお万の方を全裸にして、木にくくりつけた上で馬の鞭で叩いたらしい
そこを見回り中の本多作左衛門が発見し、自宅にかくまったということだ
ちなみに、お万の方の女性器は大変美しく、それがもとで女性器の俗語が
生まれたらしい…とウィキペディアに書いてあった
0096人間七七四年
2011/11/15(火) 01:30:46.06ID:7WsILYcqそこの庭だか離れだかを改修して、住んでたと書いてあったな。
そん時盛り土したから、「築山」だと思ってた。
あ、でも何処に住んでたかはハッキリした史料は無いんだっけ?
惑わせてごめん。
岡崎城自体は、竜頭山ていう山の峰を切って造られたと地元の方から聞いたから、
戦国期はもう少し平山城に近かったのかもね。
(平山城と平城って厳密な区分はないらしいんだけど)
0097人間七七四年
2011/11/15(火) 01:38:08.11ID:7WsILYcq0098人間七七四年
2011/11/15(火) 01:51:06.21ID:koJfYPZHべったりして滅亡した豊臣に通じるところが
0099人間七七四年
2011/11/15(火) 06:11:20.51ID:2wsYoaPE逆に若い時は苦労をして人生の辛苦を学び、40歳以降は大器晩成として大輪の花を咲かせたかのような生き方を選ぶか。
人生楽あれば苦あり。
家康の場合は、好き好んで苦労したわけじゃないよな、苦労せざる得ない環境だった。
でも、最終的な勝者は家康になった。
神様がいるのか、誰を勝者にすれはよいのかを神様が選んだとしか思えない程、
家康の晩年の人生の上昇は異常。
0100人間七七四年
2011/11/15(火) 09:33:24.36ID:khsarIbr家康に負けたものたちは皆若い頃に苦労していなかったのだろうか
0101人間七七四年
2011/11/15(火) 14:14:41.19ID:BrLoCZiy浜松城の木にくくりつけられるはずもない。
ウィキは、家康と信長が共に幼少時代をすごした、とか
共に天下を誓い合ったとか小説ネタで書かれてるからなぁ。
歴女のウィキ史観ってやつだ。
0102人間七七四年
2011/11/15(火) 15:28:13.55ID:345sgPP0ずいぶん長いこと認知しなかったし、長男信康が死んで最年長になったあとも
まったく後継者候補になってない
そこからおまん様がセックス大好きやりまん女伝説が生まれたのだろうか
0103人間七七四年
2011/11/16(水) 05:25:26.98ID:rFA14lpMそっから30年以上たってさらにワラワラ作ってるし。
ただ、マジ話だが、「氏」をつくらなかったのは誰か論じてるか?
「天皇賜姓」が豊臣以降ない、という話なんだが。
価値でいったら、将軍、なんて織田のうつけですら追放できる
しょうもない仕事だし、今でも「万世一系」は価値があるでしょう。
これは、結構重大な話ではあると思うんだがね。
二重公儀制なんてのとはレベルが違う話で。
0104人間七七四年
2011/11/16(水) 10:35:58.16ID:RGyRKUfq海狗腎とかの精力剤も使ってたみたいだし。
あと、家康は、熱烈な頼朝ファンだから、源氏を名乗って征夷大将軍になれればそれでよかったんじゃないかと。
将軍がしょうもないかどうかは、実力によるだろうしね。追放といえば、廃帝とか島流しの天皇、上皇もおられたわけで。
0105人間七七四年
2011/11/16(水) 12:17:03.64ID:O/hMqzEL「天は人の上に人を作らずというのは嘘である」が本来の言葉なので
福沢諭吉は現代でいわれえているような平等主義者ではありません
「上になる者そうでない者の差は教育によって作られる。だから学問が大事である」
これが、学問のすすめの著者である福沢諭吉の思想
0106人間七七四年
2011/11/16(水) 14:35:33.58ID:x8ClyEu/そういう間違った解釈はよくあるよね。
エジソンが「99%の汗と1%のヒラメキ」と言ったのは、
努力が大切というのではなくて、
「いくら努力してもほんのちょっとのヒラメキがなければどうにもならない。
ヒラメクかどうかが成功するものとそうでないものの決定的な違いなのだ」
と、続いている。
スレ汚し、ゴメンな。
0107人間七七四年
2011/11/16(水) 16:31:35.98ID:FVxYrTWo0108人間七七四年
2011/11/16(水) 18:34:44.80ID:3+9BkqVS晩年がんばって子供作ったのはお家存続に賭ける
執念と周到な準備ということなんだろうが100年ぐらい後に
機能するところがすごい。
吉宗のマネした御三卿もすぐあとに機能するし。
将軍職というか源長者というのが結構重要で
どっちかというと藤原の手法の長所を狙ってたんじゃないかな。
天皇ベッタリにもならずしかし社会変革的なこともしない
平和で安定の中にお家存続を図ろうとするというか。
平和主義者とか国家のために尽くした聖人とかとは
思わないが「お家の都合しか考えない引きこもり一族」
みたいな八幡もアホな見方だろうなぁ。
0109人間七七四年
2011/11/16(水) 18:36:37.40ID:yNdTr83M元は正信の「百姓は天下の根本也。飢えず、困窮せぬ如く養うべし」らしいが、どうすればこう解釈できるのか……
0110人間七七四年
2011/11/16(水) 18:52:54.21ID:c58cns39由緒ある源氏の長者になることで、ぽっと出の豊臣なんかとは違うんだということを
アピールしたかったんじゃないかな。
0112人間七七四年
2011/11/16(水) 19:57:24.37ID:6UrHqh51百姓から年貢を取ることは鷹に肉を与えるようなもの
多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけない
百姓共は生かさぬよう殺さぬよう
という話だったと思う
0113人間七七四年
2011/11/16(水) 21:57:52.97ID:6KwXsqpI>先ず一人ひとりの田地の境目をよく立て、
>一年の入用作食をつもらせ、其余を年貢に収べし
>百姓は財の余らぬ様に不足なき様に、治る事道なり
でしょ
「百姓は天下の根本也」云々という美辞麗句は本論の前の単なる前フリ
0114人間七七四年
2011/11/16(水) 22:32:18.19ID:3+9BkqVS微妙なとこだが、本当は源氏につながるものでもないから
家康初代にした新たな「氏」創設にすれば、消滅したーさせた豊臣よりは
完全に上になるし源平トウキツと同格になるからね。
やはり天皇家を規定した以上はそこからの「賜姓」というのは
かえって天皇家の価値を高めることにつながるからそれを
あの時点では避けたのかなと。
そうでないとそれこそ易姓革命みたいな手法しかなくなってくるけどね。
後に国王は天皇か将軍かとかそういう問題が起きてくるけど
このあたりの曖昧さが逆にうまいもんだとも思える。
0115人間七七四年
2011/11/17(木) 01:12:15.65ID:FBjJkIS7信長が大枚はたいてやった常備軍の意味がイマイチ分からん。
繁農期の負担率さえ下げるとか
近隣国から手伝いさせたりしたら
何とでもなるんじゃないのか?
0116人間七七四年
2011/11/17(木) 06:44:30.64ID:ovREzery大まかな答えだが、いろんなメリットはあって
相手が農繁期に攻めていければその分有利。
それと鉄砲とかより高度な専門部隊はやはり専門職でないとできない。
農繁期の負担率とか近隣国というのがよくわからないけど
農業の効率は昔は悪いからそんなにコントロールできるものでもなくて
やはりこれも人数は確保しておかないといけないのだろう。
近隣国から手伝わせて裏切られたりしたらかなわんしね。
というか、信長の常備軍というのがもう少し具体的にならないと
検討しにくいところはある。
織田のみならず武田とか他でも普通に常備軍はいたという考え方もあるしね。
0117人間七七四年
2011/11/17(木) 08:30:41.02ID:3M84nubm武田や上杉の農民兵こそ正社員
責任感や愛国心があり、命がけで戦ったから武田や上杉の軍は強かった
信長公の兵は自分の命を捨てて戦うということがない 圧勝しないと逃げる
0118人間七七四年
2011/11/17(木) 10:01:38.85ID:B6N5xRglあと村人ってのは村の軍事・治安も担うセミプロで、愛郷心もあるから強くて粘りがあるのは確か。
だけど例えば武田の百姓は村の世紀の構成員を戦争に出すのは嫌がって、
今で言うフリーターを雇って村人ってことにして戦争に送り出した
当然士気は低くて、武田家からちゃんと村の構成員を出すようにってお触れが出てたりする
0119人間七七四年
2011/11/17(木) 10:30:48.36ID:pfv9mNz/日本のはその実際から常駐軍と呼ぶべき物
0120人間七七四年
2011/11/17(木) 15:09:19.69ID:ovREzery最近やたら方面軍とか司令官とか見かけて
谷口本の影響だろうがゲーム世代に使われてるみたいなんだな
口当たりもいいし。
ただ当時から使われてたわけでないしいかにも近現代的な
軍や兵とミスリードになってしまうんだな。
「決戦」という単語もあまり正確でないという論もあるし
少なくとも信長が最先端とか天才という文脈においては
あまり使用したくはないわな。
0121人間七七四年
2011/11/17(木) 15:35:03.42ID:hBz14nQR意味不明w
簡単に言えば、籠城も鉄砲その他訓練もしてない時期は
兵も百姓も同じわけで、だったら無駄な出費をせず
農地へ帰してやれば、効率的だろと思う。
農具を持つか、武器を持つかの違いだけ。
この理論が崩れるには、徴兵が何日も掛からないといけないが
城から遠く離れた農地なんて、そんなにあるのか?
0122人間七七四年
2011/11/17(木) 15:39:24.95ID:4Bk8K0Me0123人間七七四年
2011/11/17(木) 16:09:32.30ID:ovREzeryあぁ、近隣国、自体がよくわからなかったからいい加減な
オチをつけたんだが、例えば信長が美濃を制圧するでしょう。
中級武将は寝返ったり信長につくわけだが実はその家臣とか
農民さんが略奪狼藉されて織田にウラミをもつものがいたかもしれん。
この頃はまだ天下人どころか「織田のうつけについに征服された」ってものだろうし。
だからいろんな農民ー武士もどきがいて下手に信用したらリスクもあったかなということ。
細かいケンカみたいなのも記録には散見されるしね。
城から離れた農地の話だが、とりあえず城下町システムの完備は
もう少し後で岐阜は広いから農地は離れたとこにもあったんじゃないか。
すぐあとにフロイスの記録によるとすごい岐阜城下の家の数というから
やっぱりどっかから人が来たわけで尾張からの引越しだけとは限らないだろうし
岐阜の奥深い山村なんかからはその他大勢農民さんたちの息子が出稼ぎ?に来ただろう
というのはあるかもということで。
設問がよくわからなかったから勝手に当時の状況を推測してるだけだけどね。
1567〜9あたりで話してるんだがまたイミフな点があったら遠慮なく教えておくれ。
0124人間七七四年
2011/11/17(木) 17:06:09.91ID:3M84nubmやっぱ遠くからバンバンやってるだけってのは楽だよ
刀や槍は使い方は簡単だよ? でも実際に敵に近づいてやりあわないといけない
これは難しいよ 剣道家なんて何十年も練習してる この槍で敵を突いてください、
なんて言われてすぐできないよ 鉄砲はその点、遠くから打つだけなのでできるかもしれない
・・・鉄砲のほうがむしろ初心者むけじゃないかな・・・ 操作なんて1ヶ月で覚えられるでしょ
0125人間七七四年
2011/11/17(木) 17:10:15.22ID:hBz14nQR農業手伝いは近隣国から募るのが普通と思うが
手伝い農に裏切られると、何かまずいの?
ただの夜盗みたいなのと同じじゃね?
0126人間七七四年
2011/11/17(木) 19:20:40.66ID:B6N5xRgl農民、村に関しては相当したたかだよ
恨みつらみではなく、生きるか死ぬかが判断材料だから
うつけだろうがなんだろうが、領主として自分たちの生存権を保証してくれるなら従うし、
どんな善政をしても敗者ではなく勝者に付く
もし生存権を揺るがす事態があれば逃散をちらつかせて妥協を引き出そうとする
それが村という政治単位
0127人間七七四年
2011/11/17(木) 22:23:17.03ID:PgpE99s0力不足であった
0128人間七七四年
2011/11/17(木) 23:46:07.72ID:ovREzeryもちろん同意だよ。
だからあくまで例外的に個人的にとかそういうのの
話ね。利害損得で割り切れないイミフというのは
どんな状況でも発生するし。
でないとどこぞのうつけのようにはさみうちになるわ
泊まってるところを襲撃されるわ大変なことになる。
0129人間七七四年
2011/11/18(金) 11:09:41.60ID:BnoYiRB5の一言で出すんじゃないの?
0131人間七七四年
2011/11/18(金) 11:50:16.66ID:LW9QyfbKスレ違いの話が延々と続いてるようだが。
0132人間七七四年
2011/11/18(金) 12:16:29.45ID:BnoYiRB5諸国の大名がやってた兵農未分離の
有効性について論じてるだけだろ。
0133人間七七四年
2011/11/18(金) 12:26:38.70ID:pDiJU5bD主力だったってことでしょ? そして農民兵のほうが強かった気がする
姉川の戦いで織田が少数の浅井軍へ、徳川が多数の朝倉軍と対戦し、
けっきょ徳川だけで両方撃退したってのはほんとのような気もする
どーも信長の金で雇われた兵は弱い気がする 責任感がない
農民兵って大事だったんだよ 信長の兵農分離ってそんなに有効でもなかったかも
0134人間七七四年
2011/11/18(金) 13:04:17.99ID:DCYi8YZO0135人間七七四年
2011/11/18(金) 15:10:00.37ID:mhXWuYnY本とはかなりニュアンスが違うなぁ。姉川、長篠あたりは割り引いてというより
軍記物扱いしてる人も多いから。
徳川に詳しい方はフロイスの本なんかはどういう感じでとらえてる?
0136人間七七四年
2011/11/18(金) 15:32:29.06ID:DCYi8YZOぶっちゃけフロイスは織田領国以東については碌に記録していない
家康も「三河の王」という認識だけだし
0138人間七七四年
2011/11/18(金) 17:19:07.83ID:pDiJU5bDあ やっぱそう?
0140人間七七四年
2011/11/18(金) 17:38:26.54ID:mhXWuYnYみたいね、だもんで「誇大妄想的な報告書」と見るか
そこをうまく割り引いて「客観的な記録書」と見るか。
最近は訳も増えてきてそれなりに評価をしてる人も
多いみたいだけど織豊期の研究家さんでも意見の
分かれるところだから徳川の方ではどうなのかなと思ってね。
0141人間七七四年
2011/11/18(金) 21:12:38.56ID:DCYi8YZO天下をとった後の宣教師やイギリス・オランダの評価ならあるけど
宣教師がキリシタン禁教前後で好悪を180度変えつつも、それなりに
評価しているのを見ると、司馬の家康評を見ている気になる
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