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【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その14

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0001人間七七四年2011/11/07(月) 17:56:41.52ID:gc+MSXxX
スレ分散しても過疎るだけなので、
徳川家・松平家と家臣団まで包括するスレです。

人の一生は
重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし

人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
0331人間七七四年2011/12/31(土) 21:18:07.81ID:kM6X99Yn
まちがえた、327は晴豊記だ。
ただ他の日記の残るような公家さんはみな改竄欠損だらけだから
よほどつい本音がでたんだろなと。
「不可驚事也」なんて残ってるのは黒幕説に利用されかねんわ。
0332人間七七四年2011/12/31(土) 21:21:16.95ID:Kn5WWRKH
>>330
最近聞いたばかりの
面従腹背
という感じだろう
秀吉にしても自分を悪いようにはしないのは分かってたから
それなりに従っておけばどんどんと自分を取り立てるはずと分かってた
それで力を蓄えていった
ただそうはいっても秀吉が先に死ぬかは本当に運だったから
そこも備わってたのは間違いなし
03332011/12/31(土) 21:22:58.64ID:PFSwDUDG
寺の坊主を殺したりいろいろやったからなぁ
その面しか見ない人には信長は外道に見えるんだろうけど

>>330
秀吉は甘いよな
あれだけ目を掛けてやったのに死後手のひら返して大阪滅ぼすなんてよ
秀吉の墓までぶっ壊したんだろ、やり過ぎだよな
0334人間七七四年2011/12/31(土) 21:23:56.78ID:kM6X99Yn
>>330
あれさ、秀吉がボケて信用したのか
そこはマジで信用したのかどっちだろうね。
もし家康がだましきったのならそれこそタヌキなんてもんじゃない
もんな。
ただ50代後半だしあそこから家康がすべてをかけて勝負に来る
なんてのも確かに想定はしにくいわな。
そのままだって大老筆頭格で何の不満もなかっただろうし。
だから天下を目の前にしたというかかなり前から想定はしてたんじゃ
ないかな。自分が先に死んだら仕方ないが相手が先に死んだら
勝負だって。じゃないと幕府解説後の完璧さが説明できないもんな。
03352011/12/31(土) 21:26:57.08ID:PFSwDUDG
てか秀吉は福島以下、自分の子飼いの武将がみんな家康につくと思ってなかったべw
福島なんて、家康抑えの為の兵糧まで家康に提供しちゃうんだぜ?w

そもそも家康抑えの為に尾張に配置したのに、兵糧ごとごっそり寝返るなんてな
0336人間七七四年2011/12/31(土) 21:31:40.52ID:kM6X99Yn
秀吉が三成を地方にとばしてたりしたら
家康はどういう作戦で行ったかね。
無理やり私婚繰り返してアヤをつけたかな。
03372011/12/31(土) 21:37:34.28ID:PFSwDUDG
>>336
史実と同じじゃないのか?
難癖つけて、攻め込むぞ!って脅す
前田をそうしたように、上杉をそうしたように
そして全て配下に収めた後に、大名の取り潰し実行する
これが家康のやり方だね
ま、家康に250万石も持たせたのが敗因かもな
100万石程度の武将だったら発言力あっても
周囲が束になれば勝てない相手ではなかった、兵の動員力が違うからな
0338人間七七四年2011/12/31(土) 21:53:44.31ID:n76RcxQl
>>329
近衛前久は徳川の時代になっても信長の追悼句会開いている。
信長は彼を嫌う人間にはとことん嫌悪、憎悪されるけど、
心酔する人間は彼の死後も長く慕ってるんだよ前田利家とか細川忠興とかね。

>>333
秀吉自身が大恩を受けた織田家を乗っ取り、あの仕打ちだよ。
事実上織田家を崩壊させたのは秀吉だからなあ。
同じような事を家康にされても文句は言えないだろう。

>>334

>ただ50代後半だしあそこから家康がすべてをかけて勝負に来る
なんてのも確かに想定はしにくいわな。

そうだよなあ。。。。言われてみれば。。。。
歴史の事実だから違和感を感じなかったけど当時から見れば
「まさかの行動」だったんだろう。
0339人間七七四年2011/12/31(土) 22:24:50.74ID:ykG7ZBvs
50って言ったら、本当にもう老人だもんな…
そこから新たに幕府立てて朝廷対策して豊臣政権崩壊て
数年単位じゃ無理だろうし、途中で家康が死ぬかもしれないし
そりゃ健康に気を使うよなぁ
0340人間七七四年2011/12/31(土) 22:29:05.47ID:dbcp6HbH
>>337
家康の関東転封は、秀吉としては、体よく左遷したつもりだたんだろう。
要衝の東海道から僻地の関東に移し、しかも全くの新領土だから、経営に手間取って、力を削げる位に考えていたろう。
関東の支配を短期間で固めた家康と家臣団の力量が凄かったんだが、そこまでは予測できなかったんだろう。
0341人間七七四年2011/12/31(土) 22:39:05.41ID:crPn243i
旨味のあった連中が懐かしんでただけだろwww
0342人間七七四年2012/01/01(日) 03:13:46.06ID:wrXd3Iz/
とりあえず、祭祀とやらを他の何よりも重要のように思ってる奴らは、卑弥呼の時代の祈祷文化から何も進歩してないってことだな。

皇紀2670年だっけ?
じゃあ西暦200年前後と言われる卑弥呼の時代とか何してたんだよという話。
なんで天皇が統治してたのに邪馬台国と言う独立国を勝手に作られちゃってるんだよ?wという話。

はっきり言うと、天皇の歴史は1000年以上サバ読んでて、実在確認されてる天皇は西暦500年ぐらいの人だよ。
神武天皇から漏れなく「漢」字で名前が付いていることには目をつぶるお前ら、いい加減理解しろよ。
紀元前600年とかの日本にいた架空の原始人にとりあえず「チャーリー」とか「ミヒャエル」とか「ロドリゲス」とかそういう名前付けてるのと一緒なんだよ。

松本智津夫と同レベルのインチキ祈祷師の洗脳から早く醒めろよ。
0343人間七七四年2012/01/01(日) 14:05:34.89ID:y2H+TTsX
何言ってんだ、この鮮人?
0344人間七七四年2012/01/01(日) 16:07:40.44ID:bh/zsP/D
家康が関東に入ったころって石高は低くなかった?
城もまともに無かったようなド田舎とのことだし
そのうちにどんどん開拓していって石高が上がっちゃったていう
0345人間七七四年2012/01/01(日) 18:05:26.26ID:GJiXC6J6
ある程度低いが、
武蔵60万石、相模25万石、伊豆10万石、
下総35万石、上総35万石、安房5万石、上野50万石、
以上220万石はあった。
開拓で、255万石に上がったかな。
0346人間七七四年2012/01/01(日) 18:08:19.89ID:+7y9H/BG
伊勢氏、吉良氏、上杉氏、富永氏、全部三河繋がり
全くゆかりのない所で、一からやったわけではない
0347人間七七四年2012/01/01(日) 18:09:09.30ID:rY+weHQD
それでも35万石かー 開拓すげぇな
0348人間七七四年2012/01/01(日) 19:20:52.22ID:+7y9H/BG
九州四国から飛ばされて、イチからなら分かるがな
小田原城の大森氏などもは、先祖が三河の高橋惟康と言っていたんだろ
太田道灌とかの太田氏も三河太田氏で三河に多いわな
関東などとっくの昔に三河に牛耳られてた
家康も統治が簡単だったワケだ
0349人間七七四年2012/01/01(日) 20:51:33.86ID:9DGEmAZX
徳川氏関東移転は、土着性の強い豪族連合から脱却する好機だったという説があった
0350人間七七四年2012/01/01(日) 21:09:07.36ID:/LCWO1J6
家康は、北條氏直の舅で、氏直と叔父の氏規の助命を秀吉に取りなしているから、北條旧臣らとしては、新領主として受け入れやすかったことが、家康の新領地支配の成功の一因だったかもしれない。
あと、家康は、新領地を家臣団にあてがう過程で領主としての権限強化にも成功している。
でも、あれだけの新領を短期間で掌握したのは、家康の力量のなせる技だったろう。
0351人間七七四年2012/01/01(日) 21:26:11.31ID:9DGEmAZX
その典型が、井伊12万石、本多、榊原10万石に対する酒井3万石という薄祿であった
0352人間七七四年2012/01/01(日) 21:33:22.09ID:pcHMLk5j
>>351
前三者は秀吉の指示とも言うから、家康としては彼らも酒井と同程度にしたかったのかもしれない
0353人間七七四年2012/01/01(日) 23:33:36.09ID:XX7KMmRC
土豪ってよく出て来るけど、
徳川家では具体的にはどんなのを言うの?
0354人間七七四年2012/01/02(月) 01:26:56.35ID:2rxef1h/
徳川(松平)家自体が土豪だけど
0355人間七七四年2012/01/02(月) 08:15:06.77ID:NCBGxDXr
関東移転はこないだ本が出てたけどまず家臣に
ほぼ未知の地をあてはめてそこを統率させないといけないし
自分は江戸自体を作らないといけない。
もし飢饉でも起きてたら家康最大の危機だったろうし
新組織団設立のチャンスというのは確かにそうなんだが
ちょと結果から求めすぎでそれを成し遂げたとしたら
家康の評価を高める方向で語るのが一番だろうか。
0356人間七七四年2012/01/02(月) 11:10:57.54ID:ZTQGNtHg
源三河守範頼の吉見御所
吉良氏の世田谷御所、蒔田御所、吉良殿、吉良の殿様、吉良閣下

三河の源氏を崇拝する文化のあった関東を統治するのは簡単


0357人間七七四年2012/01/02(月) 16:52:07.82ID:Exo3i3S1
後北条氏の同盟者ってのが半分以上で
そんなのこじつけだろw

 〇∧〃 
 / >  でもそんなの関係ねぇ!
 < \  そんなの関係ねぇ!
03582012/01/02(月) 18:14:51.88ID:74M8vOAg
0359人間七七四年2012/01/02(月) 18:20:54.03ID:oaz5/U88
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0360人間七七四年2012/01/03(火) 03:16:45.44ID:BDt1gyXg
>>345
それだけあってあの辺グダグダしてたのはなかなか勢力がまとまらなかったせいだよなあ
そこに秀吉が思い切ってどっさり任せちゃったから一気にまとまった力を得られたんだし

>>351
古参の家臣は家康直轄家臣みたいな感覚で
石高は少なくても格が高いからそれで満足しろという感じだったのかも
0361人間七七四年2012/01/03(火) 03:42:44.69ID:mds9j1RH
日本は必ず負けると見事に予感を的中させた、その屈託した先見性

苦難を排し、見事ハワイ攻撃を成功させた、そのずば抜けた統率力

日本が求めるリーダーを体現した理想の男がいた。

山本五十六は凄い!
______  ___________
         V

      ヽヽ〃 /
       ヽ〃   真珠湾奇襲!    
      ( _)
       | |  シコシコ・・・ シコシコ・・・
       | | /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ     
     /⌒ヽ⌒ヽ___   |  ∴ヽ  3  )
     /  ゝ      |
    /  _  ゝ___)(9     (` ´) )j
   /  丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| ハァハァ…
  /   )           (   Y ̄ ̄ ̄ ̄)
 / _/           \____/

       ↑
     詐話師 半藤一利 w
0362人間七七四年2012/01/03(火) 10:59:33.54ID:C53WFIlV
>>345
在京賄料として関東以外に10万石ほどあったんじゃなかったっけ?
0363人間七七四年2012/01/03(火) 11:07:28.90ID:2tGFz77T
奥州探題(斯波氏、吉良氏、石橋氏、石塔氏)といい九州探題(一色氏)といい、流石に所縁の無いところでは、三河武士も上手くいかなかった

一方の関東民は従順だったよね
いきなり乗り込んで来ても、三河の源氏マンセーだから



0364人間七七四年2012/01/03(火) 22:14:18.99ID:Vy4kNzB0
その理論は、同盟国・後北条以外の所領が
従順だったんじゃないと、成立たないだろ。

お前ら知識は多くても、頭は悪いのか?
0365人間七七四年2012/01/03(火) 22:36:42.27ID:aZBKPYrH
人をすぐに馬鹿にするような奴よりは頭いいと思うけど
0366人間七七四年2012/01/04(水) 00:23:37.95ID:ja2rWa4F
確か、家康公は、駿府では、北條氏規と屋敷が近く、親交があったらしいね。
0367人間七七四年2012/01/04(水) 00:26:32.40ID:YeUawEl+
今川の人質時代の幼なじみだっけ?
小田原の役以降のこの二人が地味に気になる
0368人間七七四年2012/01/04(水) 00:40:19.51ID:xidYDTom
駿府時代、家康は、北条氏規、岡部正綱とよく鶇を取りに出掛けたそうです
0369人間七七四年2012/01/04(水) 01:07:22.27ID:c0Uywemy
降服後、元味方勢力の統治に
反乱多発した例たくさん出せる人居ませんかぁ(;¬_¬)?
0370人間七七四年2012/01/04(水) 11:12:59.96ID:xidYDTom
日本語でおk
0371人間七七四年2012/01/04(水) 11:57:56.31ID:liTB9Gu+
後北条と同じように降服後、徳川家みたいな同盟勢力の統治に
反乱多発した例たくさん出せる人居ませんかぁ(;¬_¬)?

出せないと「地縁があったから」って証明には成ってませんよぉ。って事w
0372人間七七四年2012/01/04(水) 12:29:10.36ID:FznhNkcF
家康の性質を「凡人の心を持った天才」と考えてみた
何、この厨二病設定
0373人間七七四年2012/01/04(水) 12:31:21.04ID:cfyNwt0k
>>363
そもそも小田原北条はよそ者の上に侵略者だったから関東衆に物凄く嫌われてたし
統治も悪かったから百姓からも恨みを買っていた
だから普通の統治してくれれば万々歳だったんだよ
0374人間七七四年2012/01/04(水) 12:34:05.94ID:fdxeSMqM
関東民は従順に統治されたよね
日本一の名門揃い、源氏のエキスが濃縮された三河武士
三河様熱烈歓迎だったのかしら


0375人間七七四年2012/01/04(水) 12:50:52.69ID:z20ujt+C
北条が荒らし回ったのは大きかったわな
関東は鎌倉どころか平安以来の土着勢力がいまだ幅を利かせていたし
関東公方を頂点とする旧体制が維持されていたから、北条が滅茶苦茶にしなかったら家康も手を焼いただろう
0376人間七七四年2012/01/04(水) 14:01:40.88ID:9uHqoZ61

源氏ロンダリングwww
0377人間七七四年2012/01/04(水) 14:46:22.76ID:fdxeSMqM
太田道灌が吉良に臣従の態度を示したのは理解出来る
平安末期、頼政系が三河に多数逃げてきて、その一人に道灌の先祖源広綱もいたからね
広綱は安城という所に城を構え、後に伊豆に移住するワケだが、一族の太田氏、大河内氏が三河に残り吉良に仕えていた

後北条氏も分かるんだよな
先祖の伊勢氏、記録に残る最古の資料は、俊継の従兄弟が吉良荘の奉行をやっていた

上層部が古くからの繋がりがあるのは分かるが、中層〜下層まで三河マンセーなんだよな


0378人間七七四年2012/01/04(水) 18:37:03.63ID:5Bn/yvzp
5代?大国の後北条が無法者とか
三河者だったから従順だったとか

稀な事例で、一般論を語らないでもらいたいな(′・_・`)
0379人間七七四年2012/01/04(水) 20:14:12.21ID:5Bn/yvzp
三河者が関東で絶大な人気あったら
何で吉良上野介はずっと嫌われてて

年寄りにあり得ん不意打ちした挙句に討ち逃した
年寄りにあり得ん不意打ちした挙句に討ち逃した
キチガイ浅野がたんだ(;¬_¬)?
0380人間七七四年2012/01/04(水) 20:14:29.48ID:5Bn/yvzp
↑人気だったw
0381人間七七四年2012/01/04(水) 21:05:46.38ID:FYA2k3X+
また、太田道灌が文明12年(1480)に山内上杉氏の家臣高瀬民部少輔に提出した書状「太田道灌状」によれば、道灌は成高を「吉良殿様」と敬称をもって呼び、
「吉良殿様は江戸城に御籠城になって、御命令になっていたので、城下の軍勢はそれに従って数ケ度合戦を致して遂に勝利を得た」と武将成高への感謝を記しています。

鎌倉鶴岡八幡宮の供僧だった相承院の快元の記録した「快元僧都記」によれば、快元は吉良頼康を「吉良殿様」「蒔田御所」と敬称を使用、北条氏綱に対しては「氏綱」と呼び捨てにしています。
当時の関東では「足利氏一家衆」という吉良氏の存在が小田原北条氏以上に尊敬を受けていたものと思われます。



家康関係無し
室町時代から、武蔵国の事実上の親分は奥州吉良氏ですw



0382人間七七四年2012/01/04(水) 21:10:40.56ID:FYA2k3X+
松平城山城

【歴史】時期は定かではない。城山〔標高254m・比高70m〕に太田道灌が築き、松平宗
家3代信光が改修し、信光の八男光親が城主となる。その後、光親は能見城〔岡崎市元能見町
〕へ移り、廃城になったと伝わる。


http://www.geocities.jp/shiro20051212/Matsudaira-Joyama-Jo.html



まゆつばだが、事実なら支配層はみんなグルです
0383人間七七四年2012/01/05(木) 01:29:42.79ID:ZFLSY/nZ
ちょい質問
伊賀越え時の同行者について調べたいんだけど、どの文献に載ってるか知っている人いる?
さっぱり検討がつかなくて困ってる、もしよければ教えてほしい
0384人間七七四年2012/01/05(木) 01:46:46.08ID:KZTC6ULJ
忠勝、康政、長谷川、茶屋、服部半蔵と影の軍団、多羅尾半蔵、江
0385人間七七四年2012/01/05(木) 06:54:08.97ID:K4gi3Uup
関東がそんなカビの生えた名家をありがたがる土地なら、
なんで北条が関東管領を追放するのに協力したのwww
0386人間七七四年2012/01/05(木) 13:26:33.48ID:wrJNm4Q2
>>385
北条は叩いても大丈夫と思ってる阿呆がいるんだよ
0387北条氏平2012/01/05(木) 17:19:34.43ID:KZTC6ULJ
北条氏を伯耆一国15万石格で国主待遇に復する旨、大老土井近江守勝秋どのとの内諾はあったのだよ
0388人間七七四年2012/01/05(木) 17:52:36.62ID:e1LI/Rba
>>383
普通にウィキに載ってる以上のこと?
家康系の一次史料に載ってる以上のことはマイナー書状に
書かれてたりするぐらいしかないだろうけどそういうのは
信憑性に欠ける。
有名人は34人とかなってたけど、江が入ってたらイヤだなぁ。
0389人間七七四年2012/01/05(木) 18:02:13.29ID:RqKKOMm+
松方の天地人の家康が一番家康っぽい。
滝田の徳川家康は綺麗すぎて嫌いだし家康っぽいくない。
津川の葵徳川三代はキャラがチャラ男すぎて嫌い
0390人間七七四年2012/01/05(木) 18:02:29.74ID:GmUui5sy
>>383
昔、「その時歴史が動いた」のサイトにあったけど
消されているな
0391人間七七四年2012/01/05(木) 18:35:43.76ID:7zK7Rbr+
>>389
天地人の家康は松方弘樹が本気出しすぎて超ヤクザだったなあ〜
かっこよかったけど本物はもうちょっと小柄でガメツいジジイだった気がする
暴力団の新しい法律のせいで松方さんテレビ界から干されそうとか
なんとか生き残って欲しい こないだ江戸城大乱やってたけどすごくかっこよかった
酔っ払うと腹を押さえてび、備中〜〜は、はようぉおおお〜〜〜〜ってやってる
0392人間七七四年2012/01/05(木) 20:47:31.45ID:DF0BdgmJ
俺は毎年書いてる気がするが
小さい頃に高田なんとかって原作で放映された松方家康公で
最後の「人の一生は、重荷を追いて遠き道を行くが如し」
を知ったその日からずっと尊敬してる。
0393人間七七四年2012/01/05(木) 23:05:36.44ID:KZTC6ULJ
松方の家康はヤクザっぽい
0394人間七七四年2012/01/05(木) 23:25:44.70ID:u4xU/6Vk
コブ康はねーわ
なんだよあのコブ
0395人間七七四年2012/01/06(金) 00:44:12.83ID:8DKGAe07
>>388>>390
そうなのか…ありがとう
図書館にでも通って、もうちょっと頑張って調べてみるよ
0396人間七七四年2012/01/06(金) 04:45:53.21ID:xlYWf9ZZ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E8%B6%8A%E3%81%88

図書館にいく手間よりかはいいだろう。
0397人間七七四年2012/01/06(金) 17:18:24.38ID:sH2hxVu+
穢土に徳川の本拠地があったというのは間違いでしょうな
駿府幕府というのが正しかろう
03982012/01/06(金) 17:49:34.41ID:5EQTqTyB
家康は息子だけじゃなく家臣にも冷たかったべ
ケチケチ親父、譜代の家臣でも最高でも10万石しか知行与えないんだからな
0399人間七七四年2012/01/06(金) 17:53:43.67ID:sH2hxVu+
Bの家康嫌いは異常
0400人間七七四年2012/01/06(金) 17:55:38.11ID:awojJ3Bv
>>398
必要ないし
04012012/01/06(金) 18:00:55.91ID:5EQTqTyB
なぜ?
秀吉は大盤振る舞いするけど
家康はほんとケチだね
0402人間七七四年2012/01/06(金) 19:30:42.56ID:Nv4T+HqJ
金貸してくれっていう人には、バンバン金借してるじゃん家康
0403人間七七四年2012/01/06(金) 19:53:05.42ID:awojJ3Bv
>>401
軍事的には三個備を編成できるあの位で十分
むしろ戦時に他の大名を指揮下に入れるなら半分以下でも良いくらい
0404細川忠興2012/01/06(金) 20:20:47.45ID:7a3U3ZSB
内府様に金を借りたお陰で秀次事件の連座を免れました。ありがとうございました。
0405人間七七四年2012/01/06(金) 21:16:22.24ID:HsAJJMTY
あんまりよく知らないんで適当に書くけど
石高を多くしてる大名たちは基本的におまえらは独立だから全て個々でなんとかしろっていうもので
石高が低い立場が近い家臣は「欲しいときだけお小遣い」という感じで何か起きたら兵力は家康から貸与するんじゃないの?
例えば井伊の赤備えがすごいといってもせいぜい中核の直轄部隊ぐらいで
あとは徳川の兵という感じで必要なときに必要な数を家康から+αされるみたいな
でも外様なんかはそういうのも全部自前で持ってないと駄目っていう
0406人間七七四年2012/01/06(金) 21:17:50.12ID:oLBkRduq
また、太田道灌が文明12年(1480)に山内上杉氏の家臣高瀬民部少輔に提出した書状「太田道灌状」によれば、道灌は成高を「吉良殿様」と敬称をもって呼び、
「吉良殿様は江戸城に御籠城になって、御命令になっていたので、城下の軍勢はそれに従って数ケ度合戦を致して遂に勝利を得た」と武将成高への感謝を記しています。


>吉良殿様
>御籠城
>御命令



力抜けよw万年パシリのカントン民w
0407人間七七四年2012/01/07(土) 00:51:54.88ID:tqESw7y2
幹部:暴走出来ない
中堅以下:徳川直参な気がして良い。

家康公は組織をよく分かっていらっしゃった。
0408人間七七四年2012/01/07(土) 10:46:01.03ID:ZEaEIENz
>>406
チョンはすっこんでろ
0409人間七七四年2012/01/07(土) 10:48:03.20ID:gQDzT4dL
>>401
秀吉の大盤振る舞いのおかげで、
死後は有力大名が徒党を組んでの大乱。

室町幕府と同様の失態だろう。
0410人間七七四年2012/01/07(土) 10:51:44.59ID:3OSKHkow
大盤振る舞いした信長も殺されちゃったしなあ
0411人間七七四年2012/01/07(土) 12:34:24.47ID:jJTJwfsX
そりゃ織田や豊臣と徳川は置かれた状況が全く違うもの
信長や秀吉も別に好きで大盤振る舞いしたわけじゃない
織田は尾張の数郡から始まり、関東から中国にかけて勢力を広げたわけで
その過程に織田家臣は数百万石を切り取る功績を挙げたわけだからそれに応じた報酬を与えねばならない
領地の拡大が大きければ大きいほど家臣の仕事量は増えるから自然、報酬も増える事になる
豊臣に関してはもっと極端で、信長から与えられていた播磨や長浜などの領地から天下統一まで漕ぎ着けたわけで
しかも元より配下が殆どいない為、多くは同格だった勢力の兵を用いていたから恩賞はより多く出さざるを得なかった

天下取りは必ず初めは増やす作業になる
敵の領地を奪って配下に与える、の繰り返しだ
鎌倉政権、室町政権、織田政権、豊臣政権、いずれも臣下が肥大化したのはこの為
一方、徳川の場合はこの作業を飛ばす事ができた
秀吉が天下を統一し体制が整いつつある時点で、豊臣家と入れ替わり政権を継承したからだ
家康の拡張事業は入れ替わる為に行った関ヶ原だけで済み
臣下に大きな報酬を与える機会も少なくて済んだ
0412人間七七四年2012/01/07(土) 13:45:40.49ID:Rz/mo/TQ
>>411
妄想乙。

鎌倉、織田は大盤振る舞いしていない。
室町は、将軍権力が脆弱だったので仕方がない面もある。

秀吉は、必要も無いのに大盤振る舞いして自爆した。

徳川は、ある程度以上の規模の大名を作らなかったし
大名同士が徒党を組みにくいように操作した。
0413人間七七四年2012/01/07(土) 14:14:59.54ID:jJTJwfsX
>>412
お前の方が妄想全開だろw
現実にどの政権も大大名を量産している
徳川だって関ヶ原で大盤振る舞いしている
戦いが続けば徳川政権でも大大名を量産しなければならなかったのは間違いない
恩賞無しで何十年も戦わせるなんて不可能なのだから
0414人間七七四年2012/01/07(土) 14:46:25.43ID:XD73eU+e
>>412
戦国史研究でもよみなさい
0415人間七七四年2012/01/07(土) 15:05:29.68ID:LKooypHN
関ヶ原の空手形っぷりは凄いよね
伊達さんに百万石のお墨付きとか、なんて危険なことを…
結局おじゃんにしたけど
0416人間七七四年2012/01/07(土) 15:08:07.11ID:ZN+zAou/
徳川は大大名を作らなかったというより
一旦は関ヶ原の戦功とかで作ったものの政治力を駆使して
戦以外の方法で上手いこと弱体化させたり旗本クラスの地位に降ろしたんじゃないかね
関ヶ原以前からの豊富な資金力をバックに唯一抵抗した豊臣は攻め滅ぼされたけど
0417人間七七四年2012/01/07(土) 16:12:51.14ID:LKooypHN
ところで、昔の手紙って親しい人に書く時
自分の名前や相手の名前の漢字を省略して書く時があるけど
家康も自分の名前略した文字はあるのかな 康とか?
0418人間七七四年2012/01/07(土) 17:04:39.60ID:jlI2lgBz
ブログみてたらこんなのあったんだけど本当?

本多忠勝の家臣の大谷
その大谷の草履取りが殉死のときに残した辞世の句

死にとうない ああ死にとうない さりとては
君が情けの 今は恨めし
0419人間七七四年2012/01/07(土) 22:41:50.13ID:Hdg1hXh5
前田・島津・伊達ってどうして、5万石くらいオマケ付けてでも
分離転俸出来なかったのだろうか?
0420人間七七四年2012/01/07(土) 22:47:26.67ID:e51bn6y5
>>419
他の土地で100万石工面するのが面倒だったんじゃね?
0421人間七七四年2012/01/07(土) 23:41:59.63ID:Hf6qODdS
前田、伊達は大国だが雪国で行動限界あるから捨て置きされた風
秀吉子飼いの大名を潰したかっただけじゃね。
0422人間七七四年2012/01/08(日) 11:52:36.05ID:QDQkPjMW
大平洋側は雪国ってほど降りまへんがな
0423人間七七四年2012/01/08(日) 12:19:18.57ID:9SkhdC3g
>>421
初期の江戸幕府は、親藩だろうが譜代だろうが平気で取り潰してる。
秀吉子飼いうんぬんは、何の関係も無いな。
0424人間七七四年2012/01/08(日) 12:31:41.97ID:W/13sAdu
徳川家は人間はメンドクサイが、方針は苛烈なまでに単純明快
0425人間七七四年2012/01/08(日) 13:27:21.18ID:lDaZ0YDe
単純明快にしないと、メンドクサイ人たちがメンドクサイことをし始めるからだろ
江戸城中でションベンしたら罰金五両って決まりにしたら五両払って立ちションし始めたりな

まあ蜂須賀さんは三河武士じゃないけれども
0426人間七七四年2012/01/08(日) 14:54:20.51ID:G74+Tj3P
>五両払って立ちションし始めたりな
何だよそれw
0427人間七七四年2012/01/08(日) 16:09:14.06ID:nBKGKs1X
なんかの小説読んでたら、(津本陽だったかなあ〜)前田家って、大坂の陣の後、
よく戦ったということで四国まるごとあげるって(北陸のは没収)話があったらしいよ
でも損するってことでうまいこと前田家が断ったらしい
0428人間七七四年2012/01/08(日) 19:41:18.92ID:oOMElPe2
>>426
鼻毛の殿様 前田利常公のよくある逸話かな?
0429人間七七四年2012/01/08(日) 20:59:10.16ID:rCl1+MlQ
>>419
島津は、あれ以上の僻地はないだろう。
0430人間七七四年2012/01/08(日) 22:21:37.26ID:BrrYatFE
実際の徳川家康は真面目で無口だったらしいから、何を考えているのかわからす、とっつきにくい人だったらしいな。
不思議ちゃんなところがあった。

現代に生まれていたら、二ちゃんねらーになっていそう。
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