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戦国ちょっと悪い話27

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0001人間七七四年2011/07/12(火) 22:18:10.41ID:tSU9HVMm
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話26
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戦国ちょっといい話27
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0762人間七七四年2011/09/07(水) 02:40:23.88ID:aba4rV/4
>>759

>吉の字はそうでもないような、大友吉統くらい?

大谷吉継は、秀吉からの一字拝領という説とそうじゃないという説があるみたいだね
0763人間七七四年2011/09/07(水) 02:43:45.25ID:rtmyKiZn
>>761
そのかわり三成と茶々がモロに割食ってるよな
0764人間七七四年2011/09/07(水) 03:04:01.57ID:TUkkEK5t
そういえば秀吉は山崎の合戦の後くらいから明らかに「残酷で直情的な信長」ってイメージを増幅させる
宣伝工作やってるなあ。秀吉が編纂させた天正記なんかの信長像もそんなだし。
その上で、信長の忠臣でありながら彼の残虐性をよしとしない秀吉、ってイメージを広めてた感じ。
0765人間七七四年2011/09/07(水) 06:59:35.98ID:nRx8OIWG
>>763
加賀藩士「名越小十郎」先生の雑記曰く「史書の人物像はあまり信じるな」

「阿国歌舞伎」から丁度百年記
「主人公は名古屋山三郎でなるべく史実に沿って書いて!」

と任されたのは代々加賀国の史料編纂に代々携わった一族名越小十郎(名古屋山三郎の玄孫)


「名越高家流は家祖「北条高家」にハジマリ・・・(略 名越高範の代で今川国氏の次女を娶り代々今川の・・・(略
今川義忠に仕えた中興の祖「那古屋蔵人高信」が一代で那古屋城を起こし・・・(略
駿河の国より養子氏豊を迎え・・・(略 尾張の虎に那古屋城盗られ・・・(略 
蔵人は信秀に娘を差し出し・・・(略 一門織田に組みする事・・・(略 

継いだ蔵人実孫の名越因幡守は・・・(略  松下嘉兵衛の間者(スパイ)と疑われていた
十五歳の「木下藤吉郎」を助け・・・ これが後々山三郎の代で・・・(略

信長公の命を受けた因幡守高久は伊勢上野に移りしは・・・
山三郎母信包女共々、小谷の方子女を預かりて幾年・・・(略

当主因幡守が伊勢上野で臥せば・・・嫡男於千も続け様に病で倒れ・・・
山三郎、一門男子「今川氏秋(今川氏豊の孫)」の世話に成り、槍術の指南を受けるも・・・
氏秋、本能寺で明智勢に敗れ・・・ 十の頃の山三郎いよいよ男子の身寄りなくなりて・・・

かつての藤吉郎こと秀吉公の手厚い庇護もあり・・・(略
一族子女は・・・かねてよりの姉分、茶々姫のご助力ありて・・・」



幕臣「ちょっと誤字脱字が数箇所見受けられたんで修正しておきました!」


「名越因幡守は・・・人質として織田に送られた「松平竹千代」を匿いし・・・(略
身寄りがなくなり・・・(略
かつての竹千代改め「神君家康公」の手厚い援助に命を救われし・・・(略
名越一門、豊臣の縁者なれど石田治部の謀事に気付き・・・家康公に組みす事、森右近殿に・・・

淀殿、淫乱かつ艶美なれば・・・名古屋山三郎に思いを懸け・・・不義なる事・・・
大坂が亡びしは、他でもない淀殿の不正より起りし・・・」

名越小十郎 「おーい最初の趣旨はどこいったー!」と幕臣を叩いて失業しかけた。
0766人間七七四年2011/09/07(水) 07:32:25.10ID:YNmUUbZu
つまりパニクってて門番斬っちゃったりするドジな一面はあるけど
意外と穏和な性格の鬼武蔵も有り得るかも知れないと。
0767人間七七四年2011/09/07(水) 07:44:53.18ID:D3AGk44L
スレ違いですまんのだが、
足利将軍さんたちの「義」はどっからくるんだっけ?
0768人間七七四年2011/09/07(水) 09:45:10.76ID:6ao8lC8k
>>759
>>762
田中吉政とか堀尾吉晴あたりはどうなのかな?

例外はあるとしても「吉」の字は子飼いが多い感じか
0769人間七七四年2011/09/07(水) 11:31:03.67ID:MqAQQoUL
>>759
>>768で出てる田中吉政、堀尾吉晴もそうだけど、他にも毛利吉政(勝永)、小出吉政、
木村吉清、別所吉治、三好吉房などたくさんいる
0770人間七七四年2011/09/07(水) 12:19:10.75ID:JyCPRZSB
>>755
松平信忠は家康の曾祖父にいるし、あやかる程の人でもない。(むしろ家臣達に強制的に隠居させられた人)からね
0771人間七七四年2011/09/07(水) 14:58:26.56ID:oRDOMkAJ
でも織田信忠より松平信康の方が元服は少し早いんだよね
元服前でもあらかじめ信忠の諱は決めてあったりしたのかな
0772人間七七四年2011/09/07(水) 15:07:50.83ID:sQzJK4Od
名前ネタいい加減うざいんですけどぉ
0773人間七七四年2011/09/07(水) 15:18:31.59ID:aByzjdGm
>>767
源頼義/義家の系統だから
0774人間七七四年2011/09/07(水) 16:14:20.89ID:rtmyKiZn
>>772
嫌なら話題を振って流れを変えろよ
「俺が気に食わない」だけじゃ共感は得られないぞ
0775人間七七四年2011/09/07(水) 17:59:50.60ID:31zt8piV
机上の砲論家、稲富さんのWikipediaの記事から転載

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f4/Hiyawajyu01.jpg
0776人間七七四年2011/09/07(水) 18:05:20.62ID:J8aLuBdL
天正8年(1580)、長らく織田信長と戦っていた石山本願寺であったが、朝廷からの勅命による和議を受け入れ、
本願寺顕如は大阪からの退去に同意した。

ところがこれに断固として反対する集団があった。石山本願寺に籠っていた、雑賀、淡路からの傭兵たちである。

「我々は山越(傭兵に支払われる給与)で今まで妻子を養ってきた!そうであるのに急にここを退去せよというのは
我々にとって迷惑である!」

彼らがそういうのも最もであろう。ここを追い出されれば、自分たちはたちまち困窮してしまうのだ。
そこで彼らは石山本願寺の新門跡の教如を立て

「先ず(講和派の)本門跡(顕如)と北の方を城から出し、自分たちはこのまま大阪城(石山本願寺)に籠ろう!」
と主張した。

これに教如も同調し、石山本願寺は抗戦派が占拠する形となった。
そのため顕如とその北の方、そして下間、平井、矢木といった重臣たちは勅使にお礼を申し上げた上で
雑賀からの迎えの船にのり、4月9日に大阪を退出した。

まるで後の大阪の陣の最後を彷彿とさせるような、石山合戦再末期の、石山本願寺の様相である。
(信長公記)
0777人間七七四年2011/09/07(水) 18:22:09.75ID:UHvnztdo
>>775
まずは服を脱ぎます
0778人間七七四年2011/09/07(水) 18:40:10.51ID:IhPiptoC
>>765
文面を見た時の小十郎の表情が想像できますな。

あの名古屋山三郎って、周囲を驚かすド派手な鎧兜に身を包んで泥田の畷道に突っ込み、
最後は赤松円心配下の弓の達人に眉間を射抜かれたという人の子孫だったのか。
派手なのは先祖譲りなのかも。
0779人間七七四年2011/09/07(水) 20:07:12.05ID:5n/Xdbo3
>>750
あとは石川数正が家康の偏諱をいけて「康輝」と改名しているね。
0780人間七七四年2011/09/07(水) 23:10:19.17ID:RhUBYnRm
>>776
ちょうどセンゴクでやってるところだな
0781人間七七四年2011/09/08(木) 00:15:57.17ID:Qtfkw5vQ
>>775
腕毛と腿毛がセクシー☆
0782人間七七四年2011/09/08(木) 00:17:15.97ID:+5j/TItu
小田原攻めのころ、関東では大軍の長陣によるものか、米価が高騰し、諸大名はその対応に頭を悩ませた。
徳川家でも困り果てた家臣たちが主君にこの件について相談したが、家康は言う。

「どれだけ高くとも良い。周辺で米を買え。」
「それでは大損になりますが?」
「かまわん、どんどん買い取るのだ。」

家康の言う通りにしたところ、「小田原では米が高く売れる」という評判があちこちに流れ、
諸国から商人が米を売りに来るようになった。すると、急に米価は下がり安定した。

それから少しして、家康が荷駄奉行の伊奈忠次を呼んで指示を与えた時、忠次がこんな事を言い出した。

「昨年から有事に備えて兵糧を買い集め、沼津に運んでおきました。ところが今、関東に来てみれば、
こちらの米価も、江尻や沼津の米価も、そう変わりがありません。これでは運送費の分、
こちらで買った方が得でした。なぜこんな事になったのでしょう?合点が行かぬことでございます。」

家康は、苦い顔をして答えた。

「それは、長束大蔵大輔(正家)の仕掛けた事だ。あの男は、さしたる武功も無いが、こういう計略に
抜群の才を持つので、関白から要地に一城をも与えられているのだ。
それよりわしは、お前の職分で今ごろそんな事に気づいている方が、合点が行かぬわい。」

忠次は冷や汗を流しながら、主君の前を退出した。(天元実記)


こういうのも秀吉の『戦争』だったんだろうなあ
0783人間七七四年2011/09/08(木) 00:35:32.51ID:9E2t5uxO
家康も認める長束正家の手腕はやっぱすげー
0784人間七七四年2011/09/08(木) 00:43:46.80ID:GCb/dbCD
家中随一の内政屋、忠次よりはるかに経済に詳しい家康凄過ぎw
0785人間七七四年2011/09/08(木) 00:51:29.06ID:9E2t5uxO
家康は土井利勝にも、お前もうちょっと人見ろよって言ってる逸話なかったっけ
0786人間七七四年2011/09/08(木) 01:53:19.80ID:gCxiSUv2
>>785
これかな?

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?no=5140
0787人間七七四年2011/09/08(木) 15:30:43.37ID:o3NfJ4+8
家康「わっちは賢狸イエヤスそれくらい見抜けて当然でありんす」
0788人間七七四年2011/09/08(木) 21:10:13.98ID:lK534Zs3
毛利秀元は元就庶子・穂井田元清の子として生まれ、輝元の養子となっていたが、
輝元に実子が生まれると家督相続を固辞した。
自ら身を引いたというと何やらカッコイイけれども、
実はこれ、養子入り当初からの織り込み済みのコトだった。
「輝元様に実子が生まれたら相続権を放棄します」って内容の起請文を提出している。
提出させられた、と表現した方がいいかもしれない。
しかしその代わり、かなり広い領地(毛利氏領国の約四分の一)を分知してもらう約束だった。
この約束は豊臣秀吉の肝入りなのでかなり重い意味を持つ。

輝元に実子・松寿丸(後の秀就)が生まれたのは1595年、
その二年後に隆景および元清、三年後に秀吉が没した。
そろそろ後継問題もケジメをつけなきゃいけなくなった輝元は……

輝元「あのね、秀元にこんなにあげると、本家が立ち行かないんだお
   秀元にあげる約束だった山陰にはもともと吉川一門を配置してるし、
   朝鮮から戻って日も浅い今、所領替すると家中が大混乱だお」
秀元「太閤とのお約束を違えるおつもりですか!?」
輝元「死んだ太閤も、毛利家全体のためなら許してくれるお、まけてくれお」
秀元「…………」
輝元「安国寺も元康叔父上(相談役)も賛成してくれてるお!」
秀元「……仕方、ありませんね(ギリッ」
輝元「ありがとう、ありがとう(号泣)!感謝してるお!!!」

まだ年若く後ろ盾の実父もすでに亡くしていた秀元が抵抗できるはずもなく、
結果的に四万石ほどまけさせられた。
お家騒動にもならず円満に(?)事が片付いたいい話かとも思ったけど、
やっぱり泣き寝入りした秀元がかわいそうなので悪い話に。

すぐに関ヶ原で大減封くらう羽目になるしな。
0789人間七七四年2011/09/08(木) 21:35:22.93ID:rlYfoPek
有名な落首のお話。既出でしたら御容赦を。


永禄8年(1565年)5月、松永・三好の軍勢により将軍足利義輝は暗殺される。
義輝弟で奈良興福寺一乗院の覚慶も厳重な監視下に置かれたが、幕臣らの働きに
より、7月末、近江国甲賀郡の和田惟政の許へ脱出した。まもなく同国矢島に移った
覚慶は、還俗して名を義秋と改め、諸国大名へ手紙による援助要請を開始する。

上杉輝虎、北条氏康、武田信玄、朝倉義景、六角承禎、畠山義綱、織田信長、斎藤龍興
島津貴久、相良義陽、etc etc

だが、どの大名も動かない。
奈良脱出に尽力した朝倉義景は上洛構想を持ち合わせず、武田信玄は遠方を理由に
拒否、上杉輝虎も武田・北条の動きを懸念し動くに動けない。一旦は講和を了承した
織田信長と斎藤龍興は再び干戈を交える有様である。そのうちにお膝元の六角氏の
様子も怪しくなり、三好軍も攻め込んで来る。やむなく京よりさらに遠方となる
若狭国へと脱出、のち越前へ移ることとなる。


二進も三進もいかなくなったこの頃の義秋を皮肉ってこんな落首が作られたという。


『こよこよと すりあけ物の奈良刀 みのながいとて 頼まれもせず』

こよこよと  →「出兵してちょうだい」という義秋の叫び
         (「うちにおいでよ」というばかりの朝倉義景のことを指すとも)
すりあけ物の →剃髪者、すなわち覚慶=義秋

奈良刀    →奈良で作られた刀、粗悪品が多く鈍刀の代名詞
        すなわち奈良興福寺にいた覚慶=義秋

みのながいとて→刀身が長いからといって  美濃の長井氏(斎藤氏の前姓)だって

頼まれもせず →誰が買うもんか  頼みにならんわ(嘲笑)


辛辣だねえ…やっぱり作者は京の公家あたり?
0790人間七七四年2011/09/08(木) 21:39:11.13ID:3zF9S54S
私です。
0791人間七七四年2011/09/08(木) 21:41:39.33ID:rlYfoPek
>>790
名乗られよ
0792人間七七四年2011/09/08(木) 21:50:39.63ID:lK534Zs3
>>789
思い違いだったら悪いんだけんども、義昭でねえべか
0793人間七七四年2011/09/08(木) 21:54:23.90ID:tJHSZLtm
>>792
義昭は
覚慶→義秋→義昭
と改名してる。「義昭」の改名は永禄11年(1568)4月15日
0794人間七七四年2011/09/08(木) 22:01:31.70ID:lK534Zs3
なる。ありがとうです
0795人間七七四年2011/09/08(木) 22:11:31.68ID:L8cIkRY+
>>788
隆景さんが死んだ後の毛利家は哀れすぎる・・。
0796人間七七四年2011/09/08(木) 22:48:50.45ID:/oWiGQY2
>>788
そうやって養子の分け前まで取り上げてよけいな栄養与えるから
秀就はちょっと踊っただけで息切れするようなピザに…
0797人間七七四年2011/09/08(木) 23:34:50.44ID:A4ZoQvuK
仮に島津、相良が動こうとしても九州だし動けないよな。
0798人間七七四年2011/09/09(金) 01:13:25.26ID:I8ULHjBE
足利氏は嫌われていたってことか
0799人間七七四年2011/09/09(金) 01:17:13.74ID:GQDIxff8
動けなかったんじゃないのかな?
三好や義栄のこともあるし
0800人間七七四年2011/09/09(金) 01:23:34.55ID:bG0sHAHA
大友なんかは何かある事に「ホントは都に上って公方様にご奉公したいのに大内(毛利)が邪魔して
できないんですよー(棒)」って言ってきてるなw
0801人間七七四年2011/09/09(金) 09:29:54.32ID:L3K9Pxy9
はるばる京都まで行って、その隙に領地を他国に落とされたりしたらそれこそ笑いものだしなあ
0802人間七七四年2011/09/09(金) 09:56:12.94ID:OvixDAxa
景虎さんは上洛する事を周知してから、少人数で上洛
したことあるよね
0803人間七七四年2011/09/09(金) 10:06:20.95ID:sOte0jDb
>>801
大内義興は上洛したけど畿内に拠点を築けないまま
尼子の活発化で帰国したんだっけ
0804人間七七四年2011/09/09(金) 12:56:47.64ID:PCPFy3SN
「すりあけ」は、刀の磨上げの意味もかけてんのかね
0805人間七七四年2011/09/09(金) 18:18:32.91ID:h6RlMJbq
徳川家康が病死した後、江戸幕府二代将軍に就任した徳川秀忠は諸大名に自分への忠誠を示す
誓紙を提出するように求めた。この時伊達政宗と同席していたのは、かつて勢力争いを繰り広げた
因縁の相手、佐竹義宣であった。そして政宗は義宣に対し

「誓紙に使う牛王宝印(ごおうほういん・熊野神社等が出す護符)を何枚か持っているから使いたければ使うといい。」

と持ちかけたが、義宣は政宗を見るや

「かつて大名達は豊臣秀吉公にも誓紙を差し出したが、背く者は多かった。貴殿もその一人だ。余った護符は取っておいて、
 次の機会に使えば宜しかろう。」

と皮肉交じりに拒絶した。義宣からすれば「お前と一緒にすんじゃねぇ!」という想いがあったのかも知れない。
さすがの政宗も

「くっ・・・・・・」

黙るほかなかったという。以上、佐竹義宣が政宗に放ったきつい一言である。
0806人間七七四年2011/09/09(金) 18:24:49.39ID:GQDIxff8
義宣さんは颯爽としてて格好いいな
これはさすがのまーくんも言い返せなかったか
0807人間七七四年2011/09/09(金) 18:32:46.91ID:rxC0jH8I
(でも感じちゃう…)
0808人間七七四年2011/09/09(金) 20:00:10.54ID:n7Z16FiT
爽やかなまでにド直球な皮肉だなあw
0809人間七七四年2011/09/09(金) 20:13:01.03ID:Q4gMti3q
名家の余裕
0810人間七七四年2011/09/09(金) 20:18:06.35ID:JUUlwqn3
さすが律義者www
0811人間七七四年2011/09/09(金) 20:34:41.79ID:bS3KZeml
伊達さんも佐竹さんも名家だからなぁ〜
つか、従兄弟になるんだっけ?
0812人間七七四年2011/09/09(金) 20:42:37.72ID:nVAR94ip
秀吉がとった誓紙がなんの役にも立たなかったことを知っているのに、
秀忠はなんで同じ事をしたのかな、そこが小心者の秀忠らしさかな
0813人間七七四年2011/09/09(金) 20:50:29.35ID:GQDIxff8
秀忠のどこが小心者…?
歴代将軍は代替えしたら常に誓紙を求めてなかったっけ
0814人間七七四年2011/09/09(金) 20:52:48.37ID:No37d+WJ
>>782
さすが下々が「上様にはよく商いを遊ばさる」と評判しただけあるな。
米が上がると城の米蔵を開いて売って、下がると米を買って蔵に入れてたしな。
0815人間七七四年2011/09/09(金) 20:59:15.32ID:PaRCRtRi
それって米価を調整して生産者と消費者の双方を守ってるだけじゃないの?
0816人間七七四年2011/09/09(金) 21:05:02.79ID:No37d+WJ
駿府に隠居してからもしてたらしいから、儲かるからしただけと思うけどなw
0817人間七七四年2011/09/09(金) 21:33:05.05ID:fSdvAoWz
そういう財テクは秀吉から学んだんだろうね>家康
太閤になってからも蔵米算用状という、蔵入地から納められる米の量と
その相場価格を記した文書を見て、自ら買い時売り時を決めてたというから只事ではない
当時は畿内と東北地方では米価に8倍もの差がついてたというから、
公儀として米の流通販売権を掌握してたらボロい商売だったろうな
0818人間七七四年2011/09/09(金) 21:45:10.69ID:bxd+qlrb
家康や秀吉が商売をするのはいい話になるのに前田利家だと悪い話になってしまう不思議





・・・あれ、ここ悪い話スレか。
0819人間七七四年2011/09/09(金) 21:52:22.64ID:bG0sHAHA
つーか米などを売買するのは、例の秀吉の鳥取城攻めの前、鳥取城の連中が兵糧を高値で売った例を
出すまでもなく、秀吉や家康に限らず戦国大名なら普通の事。

タイミングや状況を間違えると「鳥取城渇え殺し」になるわけだがw
0820人間七七四年2011/09/09(金) 22:13:00.17ID:fSdvAoWz
「安く手に入れたものを高く売る」という点で見たら誰でもやる普通の商行為だろうけど、
秀吉や家康のように日本全国に直轄地を持ち、地方の米を都市部で独占的に販売し差益を得るとか、
米相場に介入して米価をコントロールするってのはやはり天下人じゃないとできないこと
貨幣価値があるため稲作に向かない土地でも無理やり米を作らせたという米作偏重が
江戸時代に頻発した飢饉の原因の一つとなったという見方もあるから、悪い話と云えなくもない
0821人間七七四年2011/09/09(金) 22:20:04.36ID:SKGSreut
武将風雲録では基本です
0822人間七七四年2011/09/09(金) 22:54:19.68ID:ytKbqLMM
>>788
秀元、最終的には泣き寝入りどころか…
0823人間七七四年2011/09/09(金) 23:35:40.40ID:6wSFu4cE
秀吉が三木城を攻めたとき、前後三年に及んで落城しなかったのは城が堅固である上に、
間道からの兵糧が多く運び込まれていたからだとか。
ある時、秀吉軍が塀際まで攻め寄ると、城内城外の兵が互いに悪口雑言を吐きあう口合戦となった。
城内の兵はその時、生魚を差し出して広言したのだが、それを見た秀吉軍は
「おいっ!なんで城内に生魚があるんだ!?さては・・・」
と、抜け道の存在を悟り、周辺を厳しく探索して抜け穴を発見した。
この道を止められ、遂に三木城は落城したという。
(播州太平記)
0824人間七七四年2011/09/09(金) 23:51:14.83ID:/yAKlicF
お池やお堀で魚は取れないの?
0825人間七七四年2011/09/10(土) 00:19:00.87ID:nB0XvDKG
>>824
「生魚」といってもさすがにコイやフナじゃなさそうな。
これの読み下し文が載っていた本によると、三木城には、城壁から生きた鯛を寄せ手に見せ、
食糧に困っていないことを示したという伝承があるそうです。
0826人間七七四年2011/09/10(土) 00:21:25.19ID:Nvs96m2B
この失敗に学んでがっちり包囲した結果が飢え殺しか、ままならんな
0827人間七七四年2011/09/10(土) 01:30:39.35ID:nB0XvDKG
三木城の大手門は四足門であり、ことごとく鉄を打った柱、扉は厚さ5寸余りのクスノキの一枚板で、隙間無く鉄の金具を打ち並べ、高さは2尺5寸。
さらに棟木は銅の延べ棒、瓦も残らず銅でできており、まさに「函谷関もものならず」であった。
兵糧攻めによって城中には飢人ばかりだったが、秀吉軍はこの門をどうしても突破することができず、手をこまねいていたのである。

軍見分の役として遣わされていた明智光秀はこの難儀を聞くと、刃渡り8寸余り、柄の長さ5尺余りの大マサカリを担ぎ、
マッチョな兵(逞兵)300人余りには掛矢と大槌、鉄梃などを持たせて鉄門に向かい、それらを一斉に打ち下ろさせた。
これにはさすがの鉄門もメキメキと音を立てて歪んでいく。
そこに光秀が大マサカリを振り上げて、扉を続け打ちに薙ぎ払ったものだから、さすがの楠板も金具もろともバラバラに砕け散ってしまった。

驚いた守備隊が打って出てきたが、光秀はマサカリを真っ向に指しかざし、当るを幸いと敵兵を打ち砕き、たちまち城兵二十余騎を打ち落とし、
その他数知れぬほどの飢人に怪我を負わせたのだ。

これを見た秀吉は大いに喜び、「この虚に乗じて攻めよ!」と采配を打ち振ると、明智勢は下知に従って「エイ!エイ!」と声を揃えて鉄梃を振るい、
飢人達を追い立てたのである。
その様子に城兵は「地獄もかくばかりであるか」と恐れおののくばかりであった。
(播州太平記)
0828人間七七四年2011/09/10(土) 01:31:46.87ID:H7j31K3R
光秀無双w
0829人間七七四年2011/09/10(土) 01:39:54.50ID:nB0XvDKG
何ともぶっ飛んだ作者不明の軍記物は、信長の悪い話へと続いていきます。

秀吉の報告でこの光秀の抜群の働きを知った信長は大いに喜び、
「今に始まらぬ勇猛の働き、また、三木城の鉄門を破りしこと、稀代の手柄である!
よって、恩賞として越前永平寺領の内、130町を取り上げ、これを遣わす。
もし、寺僧が異議に及んだら誅罰せよ!」との書状を光秀に下した。

信長の一生のうちはかくの如く社領を没収して武士の知行となし、または沙門を殺すこと限りなし。
その罪、天に背きて人々にも見放され、狂いたまいける。
0830人間七七四年2011/09/10(土) 01:40:34.90ID:sc9LLtbF
ガリガリにやせ細った城兵にゴリマッチョな300もの兵が
「エイ!エイ!」と声を揃えて鉄梃を振るう姿はシュールすぎる・・・。
0831人間七七四年2011/09/10(土) 01:43:55.60ID:QrskhIo+
>>812
政権としての一種の儀式でしょ
まさかそんなので謀反が防げるとは誰も思ってないよ
0832人間七七四年2011/09/10(土) 06:33:26.79ID:Oaugt5Ep
まさか光秀が巨大マサカリ持って陣頭に立ち城兵を無双するとは…
事実なら信長は体育会系マッチョ(スキンヘッド)な光秀をしばいたりしてたのか…
こりゃ死に際に是非も無し…って言っちまうわな
0833人間七七四年2011/09/10(土) 07:48:37.08ID:oEYIne3m
殺し間(物理)にて候
0834人間七七四年2011/09/10(土) 08:30:21.60ID:C9BqRf5U
幽斎といい光秀といい戦国の教養人は大力がデフォなのかw
0835人間七七四年2011/09/10(土) 10:14:44.58ID:eRLa3vpP
>>832
近江を手に入れたころには相撲に嵌まってたからなあ
けっこうそういった連中を好んで傍に置いてたんじゃないかな
0836人間七七四年2011/09/10(土) 10:40:48.86ID:UyI0ka2x
>高さは2尺5寸。





匍匐前進しないと通れねえwww
0837人間七七四年2011/09/10(土) 10:54:46.80ID:FgxTN5EO
光秀って三木城攻めに参加してたんだ。
0838人間七七四年2011/09/10(土) 11:11:18.25ID:nB0XvDKG
こんなのが大手門って、いったいどんな城やねん!

でも、掲載されている原文ではそのまま弐尺五寸となってます。
二十尺五寸と書きたかったのだと思うけど・・・
大げさが売りの軍記物だし、まあ雰囲気で読み替えてみてくださいな。
0839人間七七四年2011/09/10(土) 12:07:38.97ID:VwN8Ej82
>>805
で、出典は?
0840人間七七四年2011/09/10(土) 13:51:41.32ID:5UYp8Tkr
>>839
ヒント:近デジ
0841人間七七四年2011/09/10(土) 19:37:01.06ID:+aqI29u/
明応のころ、堺に菜屋という豪商があった。主人が朝鮮へ渡海して商売するほどの家だったが、その留守の間に
女房は間男と密通を重ねていた。

ある雪の夜、菜屋の女房を訪ねて来た男があった。間男が来たと思った女房は、使用人に言って自分の部屋まで
案内させると、みずから部屋の戸を開け、男の手を取った。部屋から漏れる明かりに照らし出されたその顔は、
間男のものでは無かった。

「わしは、そなたの亭主と懇意の者だ。ご亭主が帰って来たら、全て話してやろうか?」
「そ、そんな・・・金なら出します、どうか主人には!!」
しかし行商人姿の見知らぬ男は、女房の願いに承知せず、女房の部屋に上がり込んだ。


その後、主人が朝鮮から帰って来るとの報が入り、女房は家中の大掃除をさせた。自分でも主人の部屋の掃除など
していたが、そのうち菜屋の家宝である名笛が無くなっているのに気づいた。使用人たちにその事を聞くと、
「ああ、いつかの雪の夜に来た旦那様の知人とか言う男が、持って帰りました。」

女房は男を捜して会い、笛を返してくれるように頼んだ。
「何を言う。この笛を証拠に、そなたの密通のこと、詳細にご亭主に伝えてくれるわ。」

困った末に女房は、実父で同じく堺の豪商である臙脂屋(べにや)に相談した。娘の不始末が菜屋に知れたら、
最悪、娘の命に関わるばかりか、自分の堺衆への聞こえも悪い。やむを得ず、臙脂屋は男に会った。
「金でも物でも好きなだけ差し上げます。どうか、娘をお許しくだされ。」

「そうか。実はわしは今でこそ、このような行商人の姿をしているが、畠山政長公にお仕えしていた者だ。
政長公の遺児を奉じ、再起を図っておるが、金穀が不足しておる。臙脂屋どのの、お力を借りたい。」

大義名分を得た臙脂屋は、喜んで莫大な金穀を男に与えた。畠山尚順が紀伊で挙兵したのは、間もなくの事だった。
(応仁後記より)

菜屋の関係者によると男は「木沢」と名乗ったという。
畠山でKIZAWAというと、「あのお方」のパパとか親戚であらうか・・・
0842人間七七四年2011/09/10(土) 21:05:02.14ID:GZBZ0WZW
ああ、戦国5大長政の内の1人か
0843人間七七四年2011/09/10(土) 21:13:41.64ID:FrvOW5Bq
天皇「公家一統……?」



1573年、足利義昭を追放した織田信長は、幕府の権威を借りられなくなったため、今度は朝廷に急接近し、
「公家一統」なるものを唱え出した。

権大納言・三条西実枝などは喜び
「信長は公家一統の政治を500年前のように行うようであります。
 鳥羽上皇以来の代々のご無念もこれで天運が改まるというものです。
 悦びとおそれで薄氷を踏むような気持ちです」
と書いている。

安国寺恵瓊が信長について「明年辺(あたり)は公家などに成らるべく候かと見及び申し候」と書き送ったのも、ちょうどこの頃である。

翌1574年3月、天皇から信長に蘭奢待が下賜され、信長と朝廷の関係はいよいよ深まった。
この時のやりとりについて関係者は次のように明かしている。

「『奈良の東大寺に収蔵されている香木の蘭奢待をいただきたい』
 と宮廷に申し出られたところ、3月26日、勅旨の日野輝資殿・飛鳥井雅教殿が、かたじけないことに、ご院宣を伝えられた。
 奈良の僧徒らはかしこまってお受けした」
(織田家家臣 O田G一氏)

「相談もしてこないことを断るわけにも参らぬので、何なりともやりたいようにしたらよかろう。
 公家一統にと、きれいごとを申した舌の根も乾かぬうちにこんな体たらくでは、先行き一体どうなることやら。
 この一事にて万事が見えたというものだ。
 こんなずさんな手続きで勅封の蔵を空けるとは、いにしえの聖武天皇の御憤りもいかばかりであろうか」
(日本国天皇 O親町氏)

そもそも、信長が部下の塙直政を派遣して蘭奢待の存在を確かめさせたのが3月22日。
切り取ったのは3月28日。
わずか6日という短期間で、正式の勅使も派遣されないまま、信長は蘭奢待を切り取ってしまったのである。

信長が朝廷の事をどう思っていたのか、なんとなく分かる話。
0844人間七七四年2011/09/10(土) 21:17:52.25ID:futfDRv/
そーはいっても、院宣のほうが勅命より重いでしょ
0845人間七七四年2011/09/10(土) 21:30:43.39ID:f+VavbC2
ただの飾りが何勘違いしちゃってんのw
0846人間七七四年2011/09/10(土) 22:31:19.42ID:zWnHOmf/
これだから信長厨狩りはやめられねぇ
0847人間七七四年2011/09/10(土) 22:45:38.83ID:RIPsFW01
これは悪い話だw

三斎細川忠興の遺産 其ノ弐
http://www.shimada-museum.net/event.html
http://www.shimada-museum.net/img/event/005/back.jpg

> 【古典古物を楽しむ講座】
> □9月29日(木)
>
> 『ガラシャ夫人を見捨てた男、稲富一夢』

稲富さん(ノ∀`)
0848人間七七四年2011/09/10(土) 22:53:31.29ID:L/I1HESf
ひでぇ題名だw
0849人間七七四年2011/09/10(土) 23:17:39.46ID:kMx9XFc2
さすがにこれはwww
0850人間七七四年2011/09/10(土) 23:19:24.10ID:1WnkfC7u
見捨てた男というのはひどいなw
0851人間七七四年2011/09/10(土) 23:20:13.13ID:H7j31K3R
さすが戦国のヘタレ王www
0852人間七七四年2011/09/11(日) 02:09:40.69ID:NUMYI2pc
これは同情を禁じえ、、、それほどでもないや
0853人間七七四年2011/09/11(日) 04:21:21.09ID:ofsoMQ+N
こういうのって「近世砲術の祖」とか持ち上げるのが常なのに
ここまであからさまにdisったタイトルつけるのは珍しいなw
0854人間七七四年2011/09/11(日) 07:44:00.90ID:YWJa+l78
山形城吉字構

元和8年、最上義俊の代に御家騒動から最上家は改易となる。
同年、鳥居元忠の子忠政が22万石をもって新たな山形領主となった。

忠政が山形に入ると鍵路や通りの要所要所に砦の様な寺社の軒が連なっていた。

「平穏な世にこの街構えはいけない。これではいつ一揆勢が城の内に集まるかわかったものではない」

三の丸内にあった三割の寺社が破却され、残った多くの寺社も山形城から離れた場所へと移築された。

寺社を大切にした義光の思いが鳥居家の移封にとっては邪魔となった悪い話。
0855人間七七四年2011/09/11(日) 13:49:16.08ID:e56Rhpnz
拠点となる寺社の破却は為政者としては当然の行為だな。
特によそ者の鳥居さんからしたらね。

逆に最上は戦国威風の残る鮭さまの時代から何一つ変われなかったから取潰されたとも言える。
馬鹿な家臣と馬鹿殿ファミリーのお家騒動だもんなあ…
0856人間七七四年2011/09/11(日) 14:13:14.07ID:2NYFZg17
まぁ最上側とすれば、いざ戦時となれば、
その寺社等も防衛拠点にするつもりだったんだろうな。
でも、新規に入る側の鳥居側からは邪魔でしか無いよなぁ。
0857人間七七四年2011/09/11(日) 20:03:09.14ID:+iXHpmGe
マット県山形は自身で滅びればよかったのに
0858人間七七四年2011/09/12(月) 09:59:57.07ID:mvjzbvpi
家康の個人的好き嫌いから潰された感もあるけどな<最上家
徳川四天王と言われた榊原でさえあの仕打ちだ

>>857
意味が解らない
0859人間七七四年2011/09/12(月) 10:05:58.22ID:vGGWbGV7
>>858
最上家取り潰されたとき家康はもう死んでおるがな
0860人間七七四年2011/09/12(月) 11:07:56.03ID:lbhPOM6K
江戸幕府が起こしたあらゆる改易も鎖国も
何もかも家康のせいにしないと気がすまない人って多いよね
0861人間七七四年2011/09/12(月) 14:16:59.39ID:mROD1oIY
司馬先生のことか?
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