戦国ちょっと悪い話27
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0001人間七七四年
2011/07/12(火) 22:18:10.41ID:tSU9HVMm戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1304362000/
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戦国ちょっといい話27
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0736人間七七四年
2011/09/06(火) 20:37:34.59ID:yeZlZEIyさすが中国の男色王の名は伊達じゃないな
0737人間七七四年
2011/09/06(火) 20:37:57.81ID:ONKexbTL十五、六の少年が三年も山口にいて、あの義隆に手を出されなかったとしたら、
そっちのほうが不名誉ではなかろーか。
隆元は人質初日から贈り物攻めで大変大事にされたようだし、
当時の日記に義隆と隆元同宿の記述もあるようだし……
毛利家としては権力者に愛されて大変けっこうなことじゃないのかなw
0738人間七七四年
2011/09/06(火) 20:38:51.97ID:1GMLn5sr言われて見るとそこそこいますな、蜂須賀家政とかもたぶんそうだよね、姻戚でもあるし。
ただ、家康のビッグネームを思うとそれでも思ったより少ないイメージではあるんだけど
よく考えたら家臣以外におおっぴらに名前1字くれてやる、なんてことが出来たのは
秀吉死後〜秀忠2代将軍誕生までの数年間だっただろうし、それ考えるとなんか納得
0739人間七七四年
2011/09/06(火) 20:41:24.87ID:IIXMTDq4通行人が少なかった、より
通行人が、鋸引きの理由を知って憐れんだor恨みをかうのを恐れた
のような気がする
0740人間七七四年
2011/09/06(火) 20:47:57.28ID:FMAob7Diあの時代、男色は珍しくないと言われても
俺はノーマルでもほいほい食っちまうんだぜ というセリフが凄く似合うよね義隆さん
0741人間七七四年
2011/09/06(火) 20:57:46.88ID:rLAdTtyh0743人間七七四年
2011/09/06(火) 21:13:28.58ID:3s40ZfNQなんてきれて離反する君主いそうだなw
0744人間七七四年
2011/09/06(火) 21:42:53.33ID:FMAob7Di出世の為に息子を差し出す奴もいたんだろうか
0746人間七七四年
2011/09/06(火) 22:12:01.21ID:pit7FXLf秀吉のイメージを貶めるために後世に作られた話も多いけどね
主家を滅ぼした徳川家にすれば秀吉が悪党であった方が都合がいい
0748人間七七四年
2011/09/06(火) 22:29:44.80ID:wJtlgc530749人間七七四年
2011/09/06(火) 23:06:04.33ID:DlOiYxB30750人間七七四年
2011/09/06(火) 23:32:21.91ID:YWEGgz/Z榊原康勝
大須賀康高
石川康通(家成の子
0751人間七七四年
2011/09/06(火) 23:43:58.81ID:YWEGgz/Zあと
家康の弟の康元、康俊兄弟、
依田康国(信蕃の子)
柴田康忠
本多康重
松平家清
戸田康長
松平家忠
などなど…
あとはなんといっても松平康安
「やすやす」って…
0753人間七七四年
2011/09/06(火) 23:50:18.80ID:ONKexbTL「差し出す」と言うとネガティブなイメージだけど、
隆景を義隆の強力な庇護下に入れるのは、隆景本人にとってもいいことだよ。
同じ「陰徳記」からになるけど、隆景が継いだ小早川は、
家格からすると姉婿の宍戸などより低く、座配も下座だった。
ところが義隆の推挙で「屋形号(尊称)」をもらえたので、
宍戸より上座に座ることが許されたそうだ。当時は格式に厳しかったんだな。
たぶん家中での発言権も周囲の国人への影響力も増したはず。
0754人間七七四年
2011/09/06(火) 23:53:42.55ID:FMAob7Di0755人間七七四年
2011/09/07(水) 00:18:35.80ID:aba4rV/4家康の松平家は「康」と「忠」が交互に使われてるんじゃなかったっけ。
じゃあ信康はっていうと、「信忠」は使えねえということか?
> 出世の為に息子を差し出す奴もいたんだろうか
家光の御代には「尻の誉れ」という悪口があったという話があるが、ホントかね
0756人間七七四年
2011/09/07(水) 00:49:51.37ID:oRDOMkAJ清康のじいちゃんの長親は長忠と名乗っていた可能性もあるらしいし
0758人間七七四年
2011/09/07(水) 01:11:42.21ID:DyIf0scV松平初期は初代親氏由来の「親」が多いね
「康」は清康が勢
力広げたのにあやかる意味でそれ以後に使われだした感じ
0759人間七七四年
2011/09/07(水) 01:56:02.44ID:S3Wladoi吉の字はそうでもないような、大友吉統くらい?
なにか理由でもあるのかな
0761人間七七四年
2011/09/07(水) 02:31:40.80ID:J8aLuBdL秀吉は家康の「主君」だったので実はあまり貶められていない。
貶められたとしても中心は「唐入り意味がなさすぎる酷すぎる」って事で、その残虐性というのは
江戸期にはあまり取り上げられてないね。秀次事件なんかもむしろ「秀次が悪い」って太閤史観が
そのまま受け継がれてたし。
0762人間七七四年
2011/09/07(水) 02:40:23.88ID:aba4rV/4>吉の字はそうでもないような、大友吉統くらい?
大谷吉継は、秀吉からの一字拝領という説とそうじゃないという説があるみたいだね
0764人間七七四年
2011/09/07(水) 03:04:01.57ID:TUkkEK5t宣伝工作やってるなあ。秀吉が編纂させた天正記なんかの信長像もそんなだし。
その上で、信長の忠臣でありながら彼の残虐性をよしとしない秀吉、ってイメージを広めてた感じ。
0765人間七七四年
2011/09/07(水) 06:59:35.98ID:nRx8OIWG加賀藩士「名越小十郎」先生の雑記曰く「史書の人物像はあまり信じるな」
「阿国歌舞伎」から丁度百年記
「主人公は名古屋山三郎でなるべく史実に沿って書いて!」
と任されたのは代々加賀国の史料編纂に代々携わった一族名越小十郎(名古屋山三郎の玄孫)
「名越高家流は家祖「北条高家」にハジマリ・・・(略 名越高範の代で今川国氏の次女を娶り代々今川の・・・(略
今川義忠に仕えた中興の祖「那古屋蔵人高信」が一代で那古屋城を起こし・・・(略
駿河の国より養子氏豊を迎え・・・(略 尾張の虎に那古屋城盗られ・・・(略
蔵人は信秀に娘を差し出し・・・(略 一門織田に組みする事・・・(略
継いだ蔵人実孫の名越因幡守は・・・(略 松下嘉兵衛の間者(スパイ)と疑われていた
十五歳の「木下藤吉郎」を助け・・・ これが後々山三郎の代で・・・(略
信長公の命を受けた因幡守高久は伊勢上野に移りしは・・・
山三郎母信包女共々、小谷の方子女を預かりて幾年・・・(略
当主因幡守が伊勢上野で臥せば・・・嫡男於千も続け様に病で倒れ・・・
山三郎、一門男子「今川氏秋(今川氏豊の孫)」の世話に成り、槍術の指南を受けるも・・・
氏秋、本能寺で明智勢に敗れ・・・ 十の頃の山三郎いよいよ男子の身寄りなくなりて・・・
かつての藤吉郎こと秀吉公の手厚い庇護もあり・・・(略
一族子女は・・・かねてよりの姉分、茶々姫のご助力ありて・・・」
幕臣「ちょっと誤字脱字が数箇所見受けられたんで修正しておきました!」
「名越因幡守は・・・人質として織田に送られた「松平竹千代」を匿いし・・・(略
身寄りがなくなり・・・(略
かつての竹千代改め「神君家康公」の手厚い援助に命を救われし・・・(略
名越一門、豊臣の縁者なれど石田治部の謀事に気付き・・・家康公に組みす事、森右近殿に・・・
淀殿、淫乱かつ艶美なれば・・・名古屋山三郎に思いを懸け・・・不義なる事・・・
大坂が亡びしは、他でもない淀殿の不正より起りし・・・」
名越小十郎 「おーい最初の趣旨はどこいったー!」と幕臣を叩いて失業しかけた。
0766人間七七四年
2011/09/07(水) 07:32:25.10ID:YNmUUbZu意外と穏和な性格の鬼武蔵も有り得るかも知れないと。
0767人間七七四年
2011/09/07(水) 07:44:53.18ID:D3AGk44L足利将軍さんたちの「義」はどっからくるんだっけ?
0768人間七七四年
2011/09/07(水) 09:45:10.76ID:6ao8lC8k>>762
田中吉政とか堀尾吉晴あたりはどうなのかな?
例外はあるとしても「吉」の字は子飼いが多い感じか
0769人間七七四年
2011/09/07(水) 11:31:03.67ID:MqAQQoUL>>768で出てる田中吉政、堀尾吉晴もそうだけど、他にも毛利吉政(勝永)、小出吉政、
木村吉清、別所吉治、三好吉房などたくさんいる
0770人間七七四年
2011/09/07(水) 12:19:10.75ID:JyCPRZSB松平信忠は家康の曾祖父にいるし、あやかる程の人でもない。(むしろ家臣達に強制的に隠居させられた人)からね
0771人間七七四年
2011/09/07(水) 14:58:26.56ID:oRDOMkAJ元服前でもあらかじめ信忠の諱は決めてあったりしたのかな
0772人間七七四年
2011/09/07(水) 15:07:50.83ID:sQzJK4Od0775人間七七四年
2011/09/07(水) 17:59:50.60ID:31zt8piVhttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f4/Hiyawajyu01.jpg
0776人間七七四年
2011/09/07(水) 18:05:20.62ID:J8aLuBdL本願寺顕如は大阪からの退去に同意した。
ところがこれに断固として反対する集団があった。石山本願寺に籠っていた、雑賀、淡路からの傭兵たちである。
「我々は山越(傭兵に支払われる給与)で今まで妻子を養ってきた!そうであるのに急にここを退去せよというのは
我々にとって迷惑である!」
彼らがそういうのも最もであろう。ここを追い出されれば、自分たちはたちまち困窮してしまうのだ。
そこで彼らは石山本願寺の新門跡の教如を立て
「先ず(講和派の)本門跡(顕如)と北の方を城から出し、自分たちはこのまま大阪城(石山本願寺)に籠ろう!」
と主張した。
これに教如も同調し、石山本願寺は抗戦派が占拠する形となった。
そのため顕如とその北の方、そして下間、平井、矢木といった重臣たちは勅使にお礼を申し上げた上で
雑賀からの迎えの船にのり、4月9日に大阪を退出した。
まるで後の大阪の陣の最後を彷彿とさせるような、石山合戦再末期の、石山本願寺の様相である。
(信長公記)
0778人間七七四年
2011/09/07(水) 18:40:10.51ID:IhPiptoC文面を見た時の小十郎の表情が想像できますな。
あの名古屋山三郎って、周囲を驚かすド派手な鎧兜に身を包んで泥田の畷道に突っ込み、
最後は赤松円心配下の弓の達人に眉間を射抜かれたという人の子孫だったのか。
派手なのは先祖譲りなのかも。
0782人間七七四年
2011/09/08(木) 00:17:15.97ID:+5j/TItu徳川家でも困り果てた家臣たちが主君にこの件について相談したが、家康は言う。
「どれだけ高くとも良い。周辺で米を買え。」
「それでは大損になりますが?」
「かまわん、どんどん買い取るのだ。」
家康の言う通りにしたところ、「小田原では米が高く売れる」という評判があちこちに流れ、
諸国から商人が米を売りに来るようになった。すると、急に米価は下がり安定した。
それから少しして、家康が荷駄奉行の伊奈忠次を呼んで指示を与えた時、忠次がこんな事を言い出した。
「昨年から有事に備えて兵糧を買い集め、沼津に運んでおきました。ところが今、関東に来てみれば、
こちらの米価も、江尻や沼津の米価も、そう変わりがありません。これでは運送費の分、
こちらで買った方が得でした。なぜこんな事になったのでしょう?合点が行かぬことでございます。」
家康は、苦い顔をして答えた。
「それは、長束大蔵大輔(正家)の仕掛けた事だ。あの男は、さしたる武功も無いが、こういう計略に
抜群の才を持つので、関白から要地に一城をも与えられているのだ。
それよりわしは、お前の職分で今ごろそんな事に気づいている方が、合点が行かぬわい。」
忠次は冷や汗を流しながら、主君の前を退出した。(天元実記)
こういうのも秀吉の『戦争』だったんだろうなあ
0783人間七七四年
2011/09/08(木) 00:35:32.51ID:9E2t5uxO0784人間七七四年
2011/09/08(木) 00:43:46.80ID:GCb/dbCD0785人間七七四年
2011/09/08(木) 00:51:29.06ID:9E2t5uxO0787人間七七四年
2011/09/08(木) 15:30:43.37ID:o3NfJ4+80788人間七七四年
2011/09/08(木) 21:10:13.98ID:lK534Zs3輝元に実子が生まれると家督相続を固辞した。
自ら身を引いたというと何やらカッコイイけれども、
実はこれ、養子入り当初からの織り込み済みのコトだった。
「輝元様に実子が生まれたら相続権を放棄します」って内容の起請文を提出している。
提出させられた、と表現した方がいいかもしれない。
しかしその代わり、かなり広い領地(毛利氏領国の約四分の一)を分知してもらう約束だった。
この約束は豊臣秀吉の肝入りなのでかなり重い意味を持つ。
輝元に実子・松寿丸(後の秀就)が生まれたのは1595年、
その二年後に隆景および元清、三年後に秀吉が没した。
そろそろ後継問題もケジメをつけなきゃいけなくなった輝元は……
輝元「あのね、秀元にこんなにあげると、本家が立ち行かないんだお
秀元にあげる約束だった山陰にはもともと吉川一門を配置してるし、
朝鮮から戻って日も浅い今、所領替すると家中が大混乱だお」
秀元「太閤とのお約束を違えるおつもりですか!?」
輝元「死んだ太閤も、毛利家全体のためなら許してくれるお、まけてくれお」
秀元「…………」
輝元「安国寺も元康叔父上(相談役)も賛成してくれてるお!」
秀元「……仕方、ありませんね(ギリッ」
輝元「ありがとう、ありがとう(号泣)!感謝してるお!!!」
まだ年若く後ろ盾の実父もすでに亡くしていた秀元が抵抗できるはずもなく、
結果的に四万石ほどまけさせられた。
お家騒動にもならず円満に(?)事が片付いたいい話かとも思ったけど、
やっぱり泣き寝入りした秀元がかわいそうなので悪い話に。
すぐに関ヶ原で大減封くらう羽目になるしな。
0789人間七七四年
2011/09/08(木) 21:35:22.93ID:rlYfoPek永禄8年(1565年)5月、松永・三好の軍勢により将軍足利義輝は暗殺される。
義輝弟で奈良興福寺一乗院の覚慶も厳重な監視下に置かれたが、幕臣らの働きに
より、7月末、近江国甲賀郡の和田惟政の許へ脱出した。まもなく同国矢島に移った
覚慶は、還俗して名を義秋と改め、諸国大名へ手紙による援助要請を開始する。
上杉輝虎、北条氏康、武田信玄、朝倉義景、六角承禎、畠山義綱、織田信長、斎藤龍興
島津貴久、相良義陽、etc etc
だが、どの大名も動かない。
奈良脱出に尽力した朝倉義景は上洛構想を持ち合わせず、武田信玄は遠方を理由に
拒否、上杉輝虎も武田・北条の動きを懸念し動くに動けない。一旦は講和を了承した
織田信長と斎藤龍興は再び干戈を交える有様である。そのうちにお膝元の六角氏の
様子も怪しくなり、三好軍も攻め込んで来る。やむなく京よりさらに遠方となる
若狭国へと脱出、のち越前へ移ることとなる。
二進も三進もいかなくなったこの頃の義秋を皮肉ってこんな落首が作られたという。
『こよこよと すりあけ物の奈良刀 みのながいとて 頼まれもせず』
こよこよと →「出兵してちょうだい」という義秋の叫び
(「うちにおいでよ」というばかりの朝倉義景のことを指すとも)
すりあけ物の →剃髪者、すなわち覚慶=義秋
奈良刀 →奈良で作られた刀、粗悪品が多く鈍刀の代名詞
すなわち奈良興福寺にいた覚慶=義秋
みのながいとて→刀身が長いからといって 美濃の長井氏(斎藤氏の前姓)だって
頼まれもせず →誰が買うもんか 頼みにならんわ(嘲笑)
辛辣だねえ…やっぱり作者は京の公家あたり?
0790人間七七四年
2011/09/08(木) 21:39:11.13ID:3zF9S54S0794人間七七四年
2011/09/08(木) 22:01:31.70ID:lK534Zs30796人間七七四年
2011/09/08(木) 22:48:50.45ID:/oWiGQY2そうやって養子の分け前まで取り上げてよけいな栄養与えるから
秀就はちょっと踊っただけで息切れするようなピザに…
0797人間七七四年
2011/09/08(木) 23:34:50.44ID:A4ZoQvuK0798人間七七四年
2011/09/09(金) 01:13:25.26ID:I8ULHjBE0799人間七七四年
2011/09/09(金) 01:17:13.74ID:GQDIxff8三好や義栄のこともあるし
0800人間七七四年
2011/09/09(金) 01:23:34.55ID:bG0sHAHAできないんですよー(棒)」って言ってきてるなw
0801人間七七四年
2011/09/09(金) 09:29:54.32ID:L3K9Pxy90802人間七七四年
2011/09/09(金) 09:56:12.94ID:OvixDAxaしたことあるよね
0804人間七七四年
2011/09/09(金) 12:56:47.64ID:PCPFy3SN0805人間七七四年
2011/09/09(金) 18:18:32.91ID:h6RlMJbq誓紙を提出するように求めた。この時伊達政宗と同席していたのは、かつて勢力争いを繰り広げた
因縁の相手、佐竹義宣であった。そして政宗は義宣に対し
「誓紙に使う牛王宝印(ごおうほういん・熊野神社等が出す護符)を何枚か持っているから使いたければ使うといい。」
と持ちかけたが、義宣は政宗を見るや
「かつて大名達は豊臣秀吉公にも誓紙を差し出したが、背く者は多かった。貴殿もその一人だ。余った護符は取っておいて、
次の機会に使えば宜しかろう。」
と皮肉交じりに拒絶した。義宣からすれば「お前と一緒にすんじゃねぇ!」という想いがあったのかも知れない。
さすがの政宗も
「くっ・・・・・・」
黙るほかなかったという。以上、佐竹義宣が政宗に放ったきつい一言である。
0806人間七七四年
2011/09/09(金) 18:24:49.39ID:GQDIxff8これはさすがのまーくんも言い返せなかったか
0807人間七七四年
2011/09/09(金) 18:32:46.91ID:rxC0jH8I0808人間七七四年
2011/09/09(金) 20:00:10.54ID:n7Z16FiT0809人間七七四年
2011/09/09(金) 20:13:01.03ID:Q4gMti3q0810人間七七四年
2011/09/09(金) 20:18:06.35ID:JUUlwqn30811人間七七四年
2011/09/09(金) 20:34:41.79ID:bS3KZemlつか、従兄弟になるんだっけ?
0812人間七七四年
2011/09/09(金) 20:42:37.72ID:nVAR94ip秀忠はなんで同じ事をしたのかな、そこが小心者の秀忠らしさかな
0813人間七七四年
2011/09/09(金) 20:50:29.35ID:GQDIxff8歴代将軍は代替えしたら常に誓紙を求めてなかったっけ
0814人間七七四年
2011/09/09(金) 20:52:48.37ID:No37d+WJさすが下々が「上様にはよく商いを遊ばさる」と評判しただけあるな。
米が上がると城の米蔵を開いて売って、下がると米を買って蔵に入れてたしな。
0815人間七七四年
2011/09/09(金) 20:59:15.32ID:PaRCRtRi0816人間七七四年
2011/09/09(金) 21:05:02.79ID:No37d+WJ0817人間七七四年
2011/09/09(金) 21:33:05.05ID:fSdvAoWz太閤になってからも蔵米算用状という、蔵入地から納められる米の量と
その相場価格を記した文書を見て、自ら買い時売り時を決めてたというから只事ではない
当時は畿内と東北地方では米価に8倍もの差がついてたというから、
公儀として米の流通販売権を掌握してたらボロい商売だったろうな
0818人間七七四年
2011/09/09(金) 21:45:10.69ID:bxd+qlrb・・・あれ、ここ悪い話スレか。
0819人間七七四年
2011/09/09(金) 21:52:22.64ID:bG0sHAHA出すまでもなく、秀吉や家康に限らず戦国大名なら普通の事。
タイミングや状況を間違えると「鳥取城渇え殺し」になるわけだがw
0820人間七七四年
2011/09/09(金) 22:13:00.17ID:fSdvAoWz秀吉や家康のように日本全国に直轄地を持ち、地方の米を都市部で独占的に販売し差益を得るとか、
米相場に介入して米価をコントロールするってのはやはり天下人じゃないとできないこと
貨幣価値があるため稲作に向かない土地でも無理やり米を作らせたという米作偏重が
江戸時代に頻発した飢饉の原因の一つとなったという見方もあるから、悪い話と云えなくもない
0821人間七七四年
2011/09/09(金) 22:20:04.36ID:SKGSreut0823人間七七四年
2011/09/09(金) 23:35:40.40ID:6wSFu4cE間道からの兵糧が多く運び込まれていたからだとか。
ある時、秀吉軍が塀際まで攻め寄ると、城内城外の兵が互いに悪口雑言を吐きあう口合戦となった。
城内の兵はその時、生魚を差し出して広言したのだが、それを見た秀吉軍は
「おいっ!なんで城内に生魚があるんだ!?さては・・・」
と、抜け道の存在を悟り、周辺を厳しく探索して抜け穴を発見した。
この道を止められ、遂に三木城は落城したという。
(播州太平記)
0824人間七七四年
2011/09/09(金) 23:51:14.83ID:/yAKlicF0825人間七七四年
2011/09/10(土) 00:19:00.87ID:nB0XvDKG「生魚」といってもさすがにコイやフナじゃなさそうな。
これの読み下し文が載っていた本によると、三木城には、城壁から生きた鯛を寄せ手に見せ、
食糧に困っていないことを示したという伝承があるそうです。
0826人間七七四年
2011/09/10(土) 00:21:25.19ID:Nvs96m2B0827人間七七四年
2011/09/10(土) 01:30:39.35ID:nB0XvDKGさらに棟木は銅の延べ棒、瓦も残らず銅でできており、まさに「函谷関もものならず」であった。
兵糧攻めによって城中には飢人ばかりだったが、秀吉軍はこの門をどうしても突破することができず、手をこまねいていたのである。
軍見分の役として遣わされていた明智光秀はこの難儀を聞くと、刃渡り8寸余り、柄の長さ5尺余りの大マサカリを担ぎ、
マッチョな兵(逞兵)300人余りには掛矢と大槌、鉄梃などを持たせて鉄門に向かい、それらを一斉に打ち下ろさせた。
これにはさすがの鉄門もメキメキと音を立てて歪んでいく。
そこに光秀が大マサカリを振り上げて、扉を続け打ちに薙ぎ払ったものだから、さすがの楠板も金具もろともバラバラに砕け散ってしまった。
驚いた守備隊が打って出てきたが、光秀はマサカリを真っ向に指しかざし、当るを幸いと敵兵を打ち砕き、たちまち城兵二十余騎を打ち落とし、
その他数知れぬほどの飢人に怪我を負わせたのだ。
これを見た秀吉は大いに喜び、「この虚に乗じて攻めよ!」と采配を打ち振ると、明智勢は下知に従って「エイ!エイ!」と声を揃えて鉄梃を振るい、
飢人達を追い立てたのである。
その様子に城兵は「地獄もかくばかりであるか」と恐れおののくばかりであった。
(播州太平記)
0828人間七七四年
2011/09/10(土) 01:31:46.87ID:H7j31K3R0829人間七七四年
2011/09/10(土) 01:39:54.50ID:nB0XvDKG秀吉の報告でこの光秀の抜群の働きを知った信長は大いに喜び、
「今に始まらぬ勇猛の働き、また、三木城の鉄門を破りしこと、稀代の手柄である!
よって、恩賞として越前永平寺領の内、130町を取り上げ、これを遣わす。
もし、寺僧が異議に及んだら誅罰せよ!」との書状を光秀に下した。
信長の一生のうちはかくの如く社領を没収して武士の知行となし、または沙門を殺すこと限りなし。
その罪、天に背きて人々にも見放され、狂いたまいける。
0830人間七七四年
2011/09/10(土) 01:40:34.90ID:sc9LLtbF「エイ!エイ!」と声を揃えて鉄梃を振るう姿はシュールすぎる・・・。
0832人間七七四年
2011/09/10(土) 06:33:26.79ID:Oaugt5Ep事実なら信長は体育会系マッチョ(スキンヘッド)な光秀をしばいたりしてたのか…
こりゃ死に際に是非も無し…って言っちまうわな
0833人間七七四年
2011/09/10(土) 07:48:37.08ID:oEYIne3m0834人間七七四年
2011/09/10(土) 08:30:21.60ID:C9BqRf5U■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています