戦国ちょっと悪い話27
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2011/07/12(火) 22:18:10.41ID:tSU9HVMm戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1304362000/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307622844/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0021人間七七四年
2011/07/16(土) 20:50:00.92ID:UuZl0C3Eどこかの探偵物のライバルみたいな人だわ
0022人間七七四年
2011/07/16(土) 20:50:43.08ID:TzUyqRWo0023人間七七四年
2011/07/16(土) 21:34:24.37ID:d2nX3xIn0025人間七七四年
2011/07/17(日) 11:06:25.63ID:WbTfnz/u才能年齢的に秀吉抜いて中国軍団長とかになってたろうか?
配下に 秀吉 如水を抱える
0026人間七七四年
2011/07/17(日) 11:52:16.37ID:Lwujg6ar恐ろしいコンボだ、回避できる気がしない
0027人間七七四年
2011/07/17(日) 11:56:57.33ID:J2P+idiO0028人間七七四年
2011/07/17(日) 12:48:47.51ID:12+4XvrS村重「ですね」
0029人間七七四年
2011/07/17(日) 13:11:24.92ID:1J2aF1RY0030人間七七四年
2011/07/17(日) 14:06:33.37ID:12+4XvrS0031人間七七四年
2011/07/17(日) 15:28:47.21ID:dL1UR5g1『家来どもには二度まで教え申候。三度目には切り申候』
三斎様による堂々の3アウトチェンジ(家来の人生が)宣言である。
0032人間七七四年
2011/07/17(日) 15:30:08.78ID:ds58LzQG0033人間七七四年
2011/07/17(日) 15:31:55.15ID:olYbGGqf「気の利かない下人は斬られても当然」くらいなこと
言ったか書いてたかしていたような
0034人間七七四年
2011/07/17(日) 15:59:26.15ID:tksZpkAb解雇するとか、見限るとかいう意味でなく?
0035人間七七四年
2011/07/17(日) 16:49:16.82ID:KgUt+02A0036人間七七四年
2011/07/17(日) 19:51:31.44ID:TfY3F8AJ0037人間七七四年
2011/07/17(日) 21:35:33.13ID:Hft/qoTe敵にも薬を配る仁将・横井土佐守や、知謀をもって知られる宇垣市郎兵衛・与右衛門兄弟などが家中を固め
その勢力、磐石であった。
永禄11年(1568)のある日、元堅が長男の舅、宇喜多直家とともに鹿狩りに出た時、事件は起こった。
何者かが鹿と誤って(?)宇垣与右衛門を狙撃してしまい、与右衛門が即日死亡してしまったのだ。
松田家は、大いに揺れた。
「与右衛門の死は、宇喜多の手の者の仕業に相違ない!」
「何を言うか、若殿のお舅どのを疑うのか!」
家中は揺れ続け、納得の行かない与右衛門の兄・市郎兵衛は松田家を出奔してしまい、事態収拾を図って
元堅が領内を説得のため渡り歩く日々が続いた。
そして、7月5日の夜。「…?!城内に火の手が上がっておるではないか!何事だ、出あえーぃ!!」
横井土佐が驚くのも無理は無い。近隣の領主・伊賀久隆の兵が城内からの手引きにより、
堂々と大手門より侵入していたのだ。横井が気づいた時には、すでに先鋒が本丸に迫っていた。
その日も城外にいた元堅は知らせを受けて、あわてて搦手門から城内に入り、伊賀久隆その人の姿を
認めると、櫓の上から身を乗り出して罵った。
「久隆よ、そなたも直家殿の婿。縁戚たるわしに何をする?!卑怯者め、何を考えての狼藉だ!!」
「答える必要は無い。やれ。」
櫓から身を乗り出していた元堅は絶好の的となり、伊賀勢の鉄砲隊によって射殺された。
残された横井土佐以下の家臣は全員討ち死に、何とか城外に逃れた元堅の長男・元賢も伊賀勢の追っ手に
阻まれて斬り死にし、その一報を聞いた妻である直家の娘は、自害したという。(備前軍記より)
まぁスカッとするかはわからんけど、何回も話題になってる話のハズなのに、逸話そのものは
まとめに上がってなかったようなので。
ちなみに直家さんに「キミと同じ、オレのムコ殿を滅ぼしたいんだけど、どう思う?」と聞かれて
「あー、イイんじゃないスか。オレ手伝いましょうか?」と即答して先鋒までやってしまった
伊賀久隆がその後どうなったか、言うまでもない。 >>20
0038人間七七四年
2011/07/17(日) 23:23:42.06ID:q41uQ2uQ穿った見方をすれば直家さん大勝利!だけど
0039人間七七四年
2011/07/18(月) 01:23:33.27ID:a9bWFGIgで、奥方が他の男の髪の毛を袖に隠すのを目撃した旦那は、料理人の「おかしら」を食膳に…。
0040人間七七四年
2011/07/18(月) 02:35:56.46ID:0JQCOz0C清盛に歌や才覚を愛された仏教を信心した仏御前という見目美しい白拍子の少女がいました
清盛に寵愛されましたが
都の栄華に嫌気が差し郷里い戻りました。
20才であまりに美しく。里の男達からいつもチヤホヤされてた仏御前。
嫉妬に狂った里の妻や女達は、寝静まった真夜中に仏御前を集団で虐殺しました
0041人間七七四年
2011/07/18(月) 02:40:51.02ID:xLwokWz10042人間七七四年
2011/07/18(月) 05:04:05.51ID:2/+Us52Ihttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
こっちかね?少なくとも戦国時代じゃないから、ここじゃないのは間違いないが。
0043人間七七四年
2011/07/18(月) 16:08:23.97ID:TMknKUek0044人間七七四年
2011/07/18(月) 17:27:41.38ID:dCrgbTfm将軍奉公衆の細川藤孝は、異変を聞くが早いか京洛に駆けつけたが、御所は既に焼け落ちていた。
そこで藤孝は一色義直らと相談の上、奈良へ向かい義輝の弟である興福寺一乗院門跡の覚慶をかつぎ出し、
伊賀・近江・越前と転々としつつ、諸大名を頼った。
京の別邸に、長男の熊千代を置き去りにして。
同族の細川輝経へ養子に出る話が持ち上がっていた熊千代は、家臣団からも置き去りにされた。
唯一、乳母のみが、夫が藤孝のもとへ去った後も残ってくれており、いよいよ危なくなると、身の証に
藤孝が熊千代に授けたお守りと脇差のみを持ち、熊千代と末娘を連れて逃げ出した。
乳母には三人の娘がいたが、長女と次女は置き捨てた。
田町という所の裏長屋に落ち着いた熊千代は、宗八と名を変えて潜伏生活を送った。
ようやく3年後の永禄11年、織田信長という後援者を得て覚慶改め足利義昭を奉じて上洛した父は
流浪中に母を呼び寄せており、頓五郎なる見知らぬ弟を連れていた。(細川家記より)
父母に見捨てられ、昨日まで一緒に遊んだ娘たちの犠牲のもとに逃げ延び、三好・松永の追っ手に
おびえて暮らした少年が何を思って過ごしたか、熊千代改め細川忠興は語っていない。
勝竜寺城主に復帰した藤孝は、乳母に一代限り百石、乳母の夫の中村新助にも百五十石を給したが、
所領が数十倍になった熊本藩の侍分限帳において、中村家は二百石。五十石の加増があったのみである。
ちなみに、同じ熊本藩侍分限帳に記載された侍のうち、藤孝の若い頃から仕えている事を示す
『勝竜寺以来』の家は、わずか10人にすぎない。
0045人間七七四年
2011/07/18(月) 18:45:23.83ID:+IeTplzg0046人間七七四年
2011/07/18(月) 19:42:00.43ID:yu/UT1Di0047人間七七四年
2011/07/18(月) 22:11:58.44ID:TS22X7zA0048人間七七四年
2011/07/18(月) 22:18:02.26ID:AYRFFBTe「なんでウチの嫁まで死んだのに父親が戦い抜かずに開城するんだよ!?」
って本気で激怒したらしいね。
まあこれは田辺城の開城の時「最後まで戦い抜かないなんて、幽斎は所詮武士ではなく
歌詠みだね」って悪口が流れて、それが悔しかったせいらしいけど。
0049人間七七四年
2011/07/18(月) 22:23:27.91ID:c/ZsXPGc0050人間七七四年
2011/07/18(月) 22:56:51.83ID:0Mv3Pzkw0051人間七七四年
2011/07/18(月) 23:19:10.98ID:5P4oRYzC三斎も辛い幼少期過ごしたんだな・・・
0052人間七七四年
2011/07/19(火) 06:49:04.36ID:tQUCXYFt北は母親に嫌われていたなだっけ?
0053人間七七四年
2011/07/19(火) 13:01:21.81ID:EFQZY4E4天文三年(1534)、毛利勢は現在の福山市にあった国人、宮氏の城を攻めていた。
しかしながら、宮氏の城内に丹下与兵衛という剛の者が居り、出撃の都度毛利勢を苦しめていた。
というのも、この男には得意技があった。
この男は戦場に出ると負傷したフリをして倒れてみたり、刀を杖代わりにして片膝をついてみたりして、
「手負いを見つけるとは儲けモノ。」と敵兵が油断して近づいてきたところで、立ち上がり逆に討ち取る
という手を多用していた。
しかし、ある時本当に重傷を負ってしまった与兵衛。
味方に助けを求めるが、味方はもちろん与兵衛の得意技を知っていたので「与兵衛が例のアレをやっておるぞ。」と
誰も助けに来てくれなかったのだ。
そして、程無く毛利勢に本当に負傷していると悟られて万事休す、与兵衛は大勢の毛利兵に襲撃され討ち取られてしまった。
0054人間七七四年
2011/07/19(火) 13:02:29.52ID:OilLTH+cずっとわだかまりになっていたのか
0055人間七七四年
2011/07/19(火) 13:56:52.38ID:aMo2WNoAまさに因果応報
洋の東西を問わず、武士が戦いに道徳みたいなのを持ち込むのは
自分達の身を守る意味もあるかもしれんね
0056人間七七四年
2011/07/19(火) 15:05:22.07ID:k359n/en大河ドラマ「独眼竜政宗」の最上義光役をはじめ、
アウトローから古風な父親まで様々な役柄で圧倒的な存在感を発揮してきた
俳優の原田芳雄(はらだ・よしお)さんが19日午前、亡くなった。
71歳だった。
東京都出身。
俳優座養成所を経て1960年代後半から、映画、テレビに出演。
演技力に加えて、独特の野性的な風貌、渋い色気を漂わせたたたずまいで存在感を発揮。
藤田敏八監督「赤い鳥逃げた?」、寺山修司監督「田園に死す」、鈴木清順監督「ツィゴイネルワイゼン」など
個性派監督たちの作品の常連俳優として活躍した。
中でも黒木和雄監督作への出演は10本を数え、「竜馬暗殺」「祭りの準備」「父と暮せば」など、
さまざまな役柄で印象的な名演を見せた。
また、音楽の世界でも活躍し、渋い歌声で独特のブルースを聴かせた。
2008年に初期の大腸がんと診断され入院したが、1か月静養した後に仕事復帰。
公開中の阪本順治監督の映画「大鹿村騒動記」でも主演していた。
2003年に紫綬褒章受章。
御冥福をお祈り致します。
0057人間七七四年
2011/07/19(火) 17:31:03.08ID:v9diUgSG最上厨が死ねば良かったのに
0058人間七七四年
2011/07/19(火) 17:33:18.67ID:AjV3yXwoこないだ舞台挨拶出た時も別人みたいになってて声も出なかったもんなあ
しかし今の役者が年とっても、こういう武将を演じられるような渋い人あんまいないよな
0059人間七七四年
2011/07/19(火) 18:10:08.67ID:hYEJNuyg嫌いじゃなかったな
0061人間七七四年
2011/07/19(火) 22:04:07.30ID:6WDuEghR悪久「所詮は奴も政宗も生粋の悪では無いと言うことか」
鬼武蔵「その点が奴らと我らの大きな違いとも言えよう」
0063人間七七四年
2011/07/19(火) 22:12:11.82ID:cny4vqCI細川幽斎が上等な初茄子を手に入れることがあった。幽斎は息子の忠興にもお裾分け
してやることにして、いくつか良いものを選び、歌を添えて忠興に送った。
“このたびは なすの与一を やる程に 目かけて使へ 年は十八”
(今回、源平合戦の時は十八歳前後だったという那須与一のように初々しく上物のナスをくれてやる。
良き家臣に目をかけて使うように、ありがたく大事に食えよ。)
翌日、忠興から返歌が届いた。「・・・あいつめ。」
“下さるる なすの与一は 十五にて あまり若うて 使ひ足らんに”
(『十八』って十五個しか送ってないじゃん。『十五』歳のガキなんて、使うに使えねぇんだけど。
って事は、追加のナスくれるんだよネー?それとも、『良き家臣』をもらえるの?)
得意分野で息子に一本とられるという、幽斎さんのバツが悪い話。
(幽斎君抜抄より)
0064人間七七四年
2011/07/19(火) 22:23:13.87ID:tQUCXYFt「15歳は18歳ではござらぬ」
後の三歳誕生の瞬間である
0065人間七七四年
2011/07/19(火) 23:35:25.32ID:pI8Gd5U50066人間七七四年
2011/07/20(水) 12:53:41.93ID:HMIh3tJw3万以上と言われる大友軍の前に島津家久3千が決死の籠城戦を行っている最中に
大友の使者が陣中見舞いとして酒と菓子を持ってきた
これに対し家久も返答の使者に酒とスズキを持たしたのだが
その際に両軍の使者同士で交流の宴が行わる事になった
さて、宴の最中に島津側は大友の一団から矢文を貰う
星野長門守からの内応の手紙であり内容は
「最近の大友は侍を蔑ろにして民衆を虐げる暴政である、しかし反抗したいが力が無い、我々は時が来れば島津側に忠節を尽くすつもりです、何かあったら笛で合図して裏切りますんで」
とあった
この手紙の内容を見て奮起した家久はフランキ砲をお見舞いされても水手が尽きても
義久の主力部隊が到着するまで半年ほど持ちこたえる事となった
絶望的状況下で籠城する側が内応の手紙を貰うという悪い話
0067人間七七四年
2011/07/20(水) 17:55:54.35ID:9vQ0IYfm0068人間七七四年
2011/07/20(水) 18:29:10.35ID:jFysH7l70069人間七七四年
2011/07/20(水) 18:39:23.19ID:uS6B31QR0071人間七七四年
2011/07/20(水) 23:10:01.20ID:HMIh3tJw一応スズキは河川でも釣れる魚らしいし
この頃は大友軍も頻繁に宴とか開いてる状態で包囲網が緩くなってたらしい
いい話の方で鷹狩りで敵陣を探るやり方が紹介されてた様に
案外籠城戦でも地元の人間なら勝手ができたんだろうね
0072人間七七四年
2011/07/21(木) 01:56:42.42ID:b9Uno/8+長篠や高天神城みたいな、凍るような緊迫感はあまり感じられない。
0073人間七七四年
2011/07/21(木) 07:58:27.82ID:xIsJGKG9そういう傾向はあるのかもね。
0074人間七七四年
2011/07/21(木) 07:59:35.45ID:qA+5q80Y防御線とかの意識も無いから「ここ抜かれたら終わり」みたいな考えができないし
基本、自分の土地守れればいいやっていう
統治組織が畿内とかに比べて未発達で、中央集権が甘い
0076人間七七四年
2011/07/21(木) 14:17:44.49ID:vHCnjWK7その大功を成した僧、一人は有名な金地院崇伝
もう一人は文殊院勢誉であるが、この人物は慶長17年に既に亡くなっている
ああ、家康公の徳は死者すらその死を思い止どませる為に戻るのであった
ちなみに他の家康が切腹を口走ったという史料は当時、家康に弾圧されていた宣教師の記録だそうです
0080人間七七四年
2011/07/21(木) 19:03:22.98ID:vHCnjWK7訂正、「老将座談」でした
http://kindai.da.ndl.go.jp/JPEG/11H7RH.jpg
0081人間七七四年
2011/07/21(木) 19:51:28.16ID:xIsJGKG9権利関係とかはかなり曖昧そうだけど
0082人間七七四年
2011/07/21(木) 19:53:46.29ID:UzSZ0ZkC0083人間七七四年
2011/07/21(木) 20:03:51.35ID:eiNKjSwT0084人間七七四年
2011/07/21(木) 20:04:50.57ID:vHCnjWK7その情報を元に国会図書館で複写を頼めば、郵送してくれる
かつて大学は情報を参照し易いという点のみでも絶対的な優位を保っていただけに
凄い時代になったものです
0085人間七七四年
2011/07/21(木) 20:13:37.16ID:xIsJGKG9ホントに便利な世の中になったもんすね
0086人間七七四年
2011/07/21(木) 21:43:42.86ID:bRJNByxb0087人間七七四年
2011/07/22(金) 00:13:43.80ID:fdJPcbNp0088人間七七四年
2011/07/22(金) 01:25:29.13ID:YKzARSQP鬼武蔵様がすばらしくヒャッハーしてて噴いた
ttp://page9.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/k138136676#enlargeimg
0089人間七七四年
2011/07/22(金) 01:28:18.14ID:B7P1lZLj0090人間七七四年
2011/07/22(金) 01:47:39.85ID:g7FIpEV/0091人間七七四年
2011/07/22(金) 02:10:13.94ID:rFPoq8vvそのゲーム、超有名武将以外はどこら辺が○○なの?ってのが多いな
光秀と家康と昌幸と長政と半兵衛のイラストをシャッフルして家紋変えれば問題無いレベル…
募集イラストなんて和風萌絵しかないし
絶チルの浅井三姉妹とかはマジで勘弁して欲しかった
イラストレーターに史料やら見せて勉強させて描かせろよ…
このゲームはそのうちギン千代のラムちゃんとかマジでやりかねん勢いだ
0092人間七七四年
2011/07/22(金) 02:16:58.71ID:EB3ZWx9Wマイナーどころとか「山吉豊守のイラスト書いてください」って言われて調べてもイメージ沸かないでしょ。
0093人間七七四年
2011/07/22(金) 02:26:51.33ID:QDWUTPQTしかしこの鬼武蔵のカードに関しては、ヒャッハーだというのと人間無骨の形状は
把握はしているようだなw
0094人間七七四年
2011/07/22(金) 03:36:07.31ID:dUTiY5WH時代は徳川のものになっていたころ、伊予の松山城の建築が進んでいた。
しかしながらこの松山城、乱世が終わったにもかかわらずどこかと戦争でもする気なのかガッチガチに作られていた。
それを不審に思った幕府の者が調べてみると、なんと将軍を暗殺するからくりがあったのである。
これによって、藩主は改易。からくりは撤去され、その後、徳川の縁者が伊予を治めることになった。
書いててなんですが、地味加藤さんと、その加藤さんが接収した広島城の市松さんと、
その市松さんを嵌めた正純さんと、隠し味にお家断絶くらった蒲生さんが絶妙に混ざってる気がします。
住民の彼らに対する扱いがてきとーで悪い話でした
0096人間七七四年
2011/07/22(金) 08:16:11.34ID:9nd5Zv+80098人間七七四年
2011/07/22(金) 21:38:46.02ID:1VXKm2mK0099人間七七四年
2011/07/22(金) 21:44:50.90ID:EB3ZWx9W0100人間七七四年
2011/07/22(金) 22:17:49.10ID:7b/ylI3U居城である茨木に退去。ここより大坂の陣が実質的に始まる。
さて、石川貞政は豊臣秀吉の馬廻りまで勤めた豊臣家生え抜きの武勇の士であったが、且元討伐を
命ぜられたもののこれを行わず逆に且元の元にいち早く知らせ、彼が無事退去する一翼を担った。
そのため主戦派から睨まれ、大阪城内では「貞政も誅するべきだ!」との風聞が盛んに流れた。
これを聞いた石川貞政は、「武人として逃げも隠れもせぬ、逆に主戦派である大野治長や渡辺糺を
討ち果たしてやらん!」と殿中に上り、多くの人々取り巻く中を、仁王立ちで睨みつけ、大音声でこう言い放った!
「この貞政に逆意があるによって、誅せらるるのだと承ったため、ここに参上いたした!
誰であってもその命令を受けたものは、この貞政の首を刎ねて上覧に備えるべし!」
が、誰からも何の言葉もない。貞政の迫力に気圧された、というのもあるであろう。しかし実際に
彼を誅せよという命令は出ておらず、誰一人として立ち向かい、勝負しようというものはなかった。
殿中の者たちもただただ戸惑うしかなかったのである。
それでも貞政は暫くそこで待っていたが、大野も渡辺も姿を表さず(こんなのに関わり合いたくなかったのだろう)
仕方なく殿中を下がり宿所に帰り、若党一人に薙刀を持たせて玉造口から大阪を出、堺へと向かった。
貞政が大阪を退去したことを知った彼の家臣たちは驚き、取るものも取り敢えず武器馬具のみを整え跡を追った。
家臣たちが追いつくと、貞政は河内路を経て片桐且元が籠る茨木城に向かい、そこで且元に対面して言うには
「間もなくここに、大野渡辺の軍勢が押し寄せるでしょう。それがしもあなたと共に、ここに籠城し
彼らの攻撃を防ぎたい。」
しかし且元は、貞政のこの提案に肯かなかった。
「朋輩を相語らって籠城いたせば、それは反逆です。
私は今はただ、大阪城の軍勢が攻め来たらば恨みの矢一つを射て切腹し、武士の名を汚すまじきと思っています。
そうであればこの城にあなたが有ることは、義において辱ずる所であり、幸いにも常眞殿(織田信雄)が既に京に
退去されているところですし、ここより直に京に上り、常眞殿と同じように、幕府の保護を受けるのが良いでしょう。」
貞政はこの説得を受入れ京に入り、幕府の京都所司代・板倉勝重の元へ行き大阪城の状況を伝える。
勝重はこれを聞き
「大阪が既に反逆の準備をしている中、あなたはそれを知ってこのように、その身を京に退かれました。
この事は将軍家においても定めてご満足なされるでしょう。」
と、彼に家屋敷を与え日々の賄いまで申し付けた。
大坂の陣の序盤、石川貞政の大阪退去についての話である。
(慶元記)
0101人間七七四年
2011/07/22(金) 22:41:29.58ID:RDxqX22T譜代格の石川貞政も退去したのは痛かったな。兵を率いる大将クラスが少なかったし
0102人間七七四年
2011/07/23(土) 00:28:18.87ID:YXHqHcZS0104人間七七四年
2011/07/23(土) 10:08:31.73ID:JGaRbagBこのゲーム、矢沢頼綱が名前のせいで某ロックンローラーにされてたり、鉄砲で討ち取られた三好義賢が松田優作そっくりに描かれたりしてるんだよなw
0105人間七七四年
2011/07/23(土) 13:17:29.28ID:NORClys8松山城の工事は難工をきわめ、男子もとより女子や子供、さらには、当時松前城主であった加藤嘉明の夫人も炊き出しに従事してまさに国を挙げての工事だった。
主命を受けて城の下見に来た足立重信は長者平(ちょうじゃがなる)にある祠を見つけ、山と祠の名前を近くの里人に聞いたそうである。
その翁は、「山の名は かつえ山。祠は八幡神社三嶋宮の末社である」
と教えてくれた。
それを嘉明に伝えたところ、「かつえ山でなくて、勝山の間違いだろう。城を築くのにこの上ないめでたい名だ」
と勝山という名前になったそうな。
このかつえ山の由来となる話もどっかで見たんだけうろ覚え、見つけたらまた投稿します。
ついでに、松山城の普請奉行は、ジミー加藤さんの家老、足立重信ですが、彼はあるとき大量の瓦を山の上に運ぶにあたって、近郊の農家より人をたのみ、人垣を作らせ、バケツリレーよろしく手ぐり渡しで一夜の内に全部を運ばせて嘉明を驚かせた。
なんて小話も一緒に上げときます。
0106人間七七四年
2011/07/23(土) 13:37:01.28ID:mNWTxXdA0107人間七七四年
2011/07/23(土) 14:20:19.27ID:gzB42OXuここに昔邸を構えていた長者、元はこの山の麓に住み、貧乏に苦しんで、毘沙門天に願をかけた。
毎日境内に茂る雌竹を一本づつ持ち帰り、庭に植えて貧乏脱出を祈りつづけた。
すると満願の夜、ついに夢中に毘沙門天が登場した。
「お前の熱意に感動した!よって福をあたえる。あ、竹は全部返しとけよ」
彼は喜んでその通りにした。その後とんとん拍子に成功し、日ならずして長者となった。
そうなると、貧乏時代にはペッされた遠縁の者までむらがり来てクレクレする浅ましさにあきれ果てた。
苦労ばかりだけど昔の生活の方がよかったなあと思うと、その財を湯水のように使い果たして一文無しになり、
長者平の邸でとうとう餓死してしまった。
人々はこの山を『かつえ(飢え)山』と呼び慣わしたという。
加藤嘉明は築城地の下見にいった足立重信からその話を聞くと
「かつえ山、というか…(縁起悪ぃな…そうだ!)
それは勝山の聞違いであろう、以後は勝山とよべ」と言ったという。
0108人間七七四年
2011/07/23(土) 14:49:08.25ID:NORClys8すんません良いともわるいともいえない話かと思いつつ>>94からの流れでこっちに投稿しました。
>>107さん
おおっ、その話です、フォローありがとうございます。
ちなみに勝山は築城候補の地の一つで幕府に候補地を三つ聞かれた時に二番目に出した候補地だったなんてどっかで聞いたような話もあります。
0109人間七七四年
2011/07/23(土) 15:04:34.96ID:dFl0ESv/幕府は一番目の候補地を採用しないだろうと思って
二番目に都合のいい候補地をのっけたら、
一番目を採用された話が伊達と毛利に
ジミ加藤さんの場合、もともと勝山にする気で二番目に出したんだろうか
0112人間七七四年
2011/07/23(土) 20:48:39.36ID:F2vopxvQ細川忠興は天下一気の短い人であった。逆に蒲生氏郷は天下一気の長い人であった。
「それならこの二人を一緒にしとけばお互い中和しあってちょっとはマシになるんじゃね?」と
両家の者達は考え、そのように取り計らった。
さて、計画通り二人はずいぶん親しくなった。そこまではよかったのだが・・・
氏郷「アイツは気が短いなあ。俺はああならないように気をつけようっと」
忠興「あのヤローの呑気さにはイライラするぜーッ!」
・・・というわけで、氏郷はますます気が長く、忠興はますます気が短くなってしまったという。
以上『三斎口伝書』より、なんかイソップ物語みたいな話。
0113人間七七四年
2011/07/23(土) 20:54:07.23ID:zcrujbN40114人間七七四年
2011/07/23(土) 21:18:56.09ID:Xn15rZ7B0115人間七七四年
2011/07/23(土) 21:55:32.76ID:gLCtFXDLって、題名からすると三斎さんなんで工場長と一緒になるのかわかってるならもう少し気を長くしてよwww
0116112
2011/07/23(土) 23:10:36.69ID:F2vopxvQすいません、言われて気づきましたがタイプミスです。正しくは「三斎"公"伝書」でした。
書いたのは松屋久重です。
スレ汚しのお詫びにもうひとつ三斎公がヤンチャした話を。
まだ忠興が熊千代といった時分、細川家の邸宅を京都の今出川に新造することになった。
工事は家臣の上野氏が取り仕切ったのだが、何かの拍子にこの上野家の者と
同じく家臣である荒川家の者との間で喧嘩が始まってしまった。
さて、我らが熊千代君、年は若いが気性は荒く(弱齢なれども稍豪強を好む)、
「喧嘩と聞いては黙っちゃいられねー!俺も混ぜろヒャッハー!」
とばかりに荒川氏側に加勢した。上野氏側はボコボコにされ、ほうほうのていで逃げ帰った。
これに怒ったのが父藤孝(幽斎)。熊千代は大目玉を食らい、以降父子は不仲になったそうな。
・・・いや、反省しろよ熊千代。
またこの時、藤孝は三淵(兄の三淵藤英?)たちと相談して事件を内密にしたらしい。
お父さんご苦労様です。
以上、永源庵記よりとして、後世に編まれた『綿考輯録』に載ったお話。
ちなみに『綿考輯録』によると、邸宅造営の時期を考えると当時熊千代は7歳のはずで
「いくらなんでもウソだろ常考・・・」と考察されています。
0117人間七七四年
2011/07/24(日) 09:40:56.28ID:dNZZMTow毛利輝元も呼び捨てにされやすいのかな?
福岡県史の近世史料をぱらぱらめくっていたら、目についた
慶長九年(?)正月十九日 黒田如水から真鍋次太夫宛書状
能申聞候、去年鯨をハ心懸取申候哉、(略)
次従 輝 元 参候船屋形取集、舟二可仕候間、損候ハん様二仕可置候、
筑前方へも此通可申候、恐々謹言
年不明五月廿六日 黒田長政から大嶋又衛門・毛屋主水・庄半大夫宛印判状
一書申遣候、中村藤兵衛所(略)
又 輝 元 へ大角弐其地有之由二候、彼地奉行へははや福越より被申遣候間請取、(略)
と黒田親子にまったく関係ない別の書状で呼び捨てにされてるんですが……
ちなみに上の如水書状ではちゃんと長政を「筑前」と書いていますし、
下の長政の書状では「中村藤兵衛」や「福越(福原広俊)」と諱呼びはしていません
他に諱が出てくるのは身内を除けば、長政書状に「秀頼様」とあるのが散見できるくらいです
しかし、輝元は呼び捨てです
ちなみに長政は再三再四息子やその守役に
「手紙の書き方がなってない」「字が汚い」「くだんねー用事に祐筆使うな、自分で書け」
と口うるさく注意しており、死ぬ直前にまで書状の中での人物の敬称について細かく注意しています
それなのに呼び捨てにされる毛利輝元って一体……
0118人間七七四年
2011/07/24(日) 10:49:13.09ID:WAkfEI4+他の改名してない人を調べたらあっというまに30人超え、関係なさそうだな〜と思って調べるのやめたんだけど、秀頼と輝元も改名してないね。
黒田長政もずっと同じ名前だけど、長政はいっぱいいてわかりにくいんで使わなそう。
0119人間七七四年
2011/07/24(日) 11:59:07.83ID:VoXGSr6O小田原征伐も終わり秀吉の天下が民衆の間にも広まると、
大名や武将の多くは著名工の作刀を贈答品としてあるいは家宝として意識せざるを得なくなった。
大名間では正宗や吉光が持て囃された。
(`・ω・´)「・・・(ウチにもなんかあったな・・・)」
さる大名「斯波家に繋がる最上様なら、童子切や鬼丸にも劣らぬ、なにか名物をお持ちでしょう」
(`・ω・´)「確か、オニギリ・・・丸?といった物があったと思います」
(´・ω・`)「・・・(鬼切・オニキリだっけ?)」
足利将軍家からなんの因果か斯波兼頼を経て最上家に伝わる名刀に、この前後に悲劇が起こる。
(´・ω・`)「・・・銘は安綱?聞いた事がある様な、無い様な・・・」
(´・ω・`)「国綱なら先日聞いたけど、有名なんだろうな・・・」
(´・ω・`)ノシシ < キン、カッ、ガキン、ガキッ
(´・ω・`)「・・・(「国」の字に読めるよね?)」
光安「いかがなさいましたか?」
(´・ω・`)「・・・なんでもない・・・」
北野天満宮に現在伝わる国宝「鬼切丸」
呼び名が幾度も変わり、持ち主も変わり、銘まで変えられた名刀の運の悪い話
0120119
2011/07/24(日) 12:15:04.23ID:VoXGSr6Oすいません、国宝でなく、重要文化財でしたorz
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています