もし桶狭間の藤本説に誤りがあるとすれば、次の2点が怪しいと俺は考えている。

一つ。信長いわく「あの武者、宵に兵糧を使いて…」と、指差した先の敵は、疲れた兵だと説明
したが、藤本説ではこれを信長の勘違いだとする。疲れた家康達は大高城に戻っていたので、
目の前にいるのは疲れていない新手の兵だとする。俺は、信長の言うとおり疲れた兵ではないかと考える。

一つ。
藤本説の定番の地図では、鳴海城の西は海がある。↓こんなふうに。
http://www.sengokushi.com/godume/img/a_013.jpg
でも、実際にはすでに干拓されて、星崎城という城まであった。浜手の道は潮が満ちていたので、
信長は山手の道をかけたのだが、本来は浜通りの道を行くはずだった。だから、鳴海城の裏側などを
通る予定ではなかったのだろうが、中島砦をでたとき、信長の目は、東でなく、南の丸根、鷲津方面を
指していたのではないかと思われることだ。

そのため、丸根、鷲津方面の山際まで進んだら、「旗本はこれなり」と、予想外なことに、東の下方に
義元達がいたので、急遽、東向きに攻撃を変更、という説もありうるわけだ。俺の珍説ではあるが、
信長公記どうりの解釈だぜ、これは。