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もし長篠の合戦で信長、家康が討ち死にしていたら

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0001人間七七四年2011/05/18(水) 03:41:43.98ID:WzRlh9fV
歴史はどうなったでしょうか?
武田の損害は史実通りとします
0202人間七七四年2011/07/13(水) 11:16:33.10ID:0O0poNdy
>>201
通説だと武田軍15000の内長篠包囲で城と周辺砦に2000残して
残り13000が設楽が原で対陣したんだよね?
その3000ってのは砦にってこと?
だと4000を包囲に回して本隊11000で連合軍は38000なんだけど
というかそこまで退路絶たれる危険を事前に予想してるなら設楽が原に進出しないんじゃね?
0203人間七七四年2011/07/14(木) 04:08:34.56ID:c5RGMJh8
長篠城は、本丸以外は落ちてる状況だったから、頑張れば落とせたんじゃないかな

秋山軍が岐阜で撹乱すれば信長も長篠にかかりきりにはなれないのでは と思うけど、実際は岐阜も空っぽなわけじゃなかっただろうな

浅井朝倉がいれば、やりようもあっただろうが、将棋で例えれば、飛車、角とられて王と金銀桂馬でつっこんだら、王以外全部とられたって感じ
0204人間七七四年2011/07/14(木) 08:10:52.93ID:AY04tHcg
その状態でよく野戦する気になったもんだよね。
ほんと不思議だわ。
0205人間七七四年2011/07/14(木) 08:51:29.58ID:YBoXmlEc
武田との衝突を避けて来た信長と家康が前線に出てきたんだし
勝頼がこれを好機と捉えるのは不思議ではないよ
結局これだけ戦力差がついてしまっては、どこかで決戦して敵主力を壊滅させるしかない
ただ、不利な状況で決戦を挑むにはそれなりの準備が必要だけど
勝頼は何の策もなく進んで行った辺りが人々の目に不可解に映る
やはり通説のように敵を甘く見ていたと言う事なのだろう
0206人間七七四年2011/07/14(木) 09:01:53.36ID:JAXQcT3h
上杉の抑えに1万残しても最大動員3万、まぁ25000くらいは動員できたんだろうけどさ
15000って事は要するに勝頼も織田が出てくるとは思ってなかったわけでしょ
3倍近い相手が出てきて好機と捉えるものなのかな
3倍の兵力を持つ織田徳川が城を目の前に野戦陣地にこもったまま有効な後詰めが打てず
長篠城は陥落したってシナリオにした方が織田徳川の威信失墜には好都合だったと思うけど
武田でいう高天神の失陥並にインパクトあると思うが
0207人間七七四年2011/07/14(木) 12:13:07.68ID:35WWOMqq
勝頼が合戦仕掛けた理由が分からんので、退路絶たれたからやむを得ずって説も出てくるんだろうけど、いまいち説得力に欠ける。
織田が援軍を過小に、例えば一万程度に見せていたとか。
0208人間七七四年2011/07/14(木) 12:31:59.23ID:lsXZh3GV
俺もそんな気がしてたけど、それじゃ家康のみならず信長まで出張って来るには余りに半端過ぎると怪しまれそうだ
0209人間七七四年2011/07/14(木) 12:36:34.36ID:AY04tHcg
通常は自軍を多く見せるものなのに、少なく見せて油断させたって事かな?
まあ、山間だし把握できていなかった可能性もあるけど、その辺はどうなの
かなぁ。
記録とかが残っていればいいのだけね。
0210人間七七四年2011/07/14(木) 13:42:00.29ID:JAXQcT3h
野戦陣地の規模も大きいし信長出馬は出撃直後から喇叭が報告してるだろうしねぇ
いくら見誤っても5000程度の誤差じゃないか?
どこまで史実かは知らないけど連合軍の着陣直後に夜襲か昼間強襲の進言があったような
3段撃ちが史実ではないとはいえ鉄砲の大量使用が武田封じの秘密兵器だったんだろうから
雨の降る中で陣も完成前に突っ込まれたらかなりの乱戦になっただろうね
3倍の敵に武田が勝ったとも思わないけどさ
0211人間七七四年2011/07/14(木) 14:31:38.96ID:5snCVHB1
というか武田の情報収集力があまりにダメすぎたと思う
酒井別働隊の動きも全く察知出来なかったし
武田の情報収集力が元々ダメダメだったのかそれとも勝頼が無能で活用出来なかったのか
0212人間七七四年2011/07/14(木) 16:04:26.99ID:sSsId1lJ
決戦するつもりがないなら強右衛門を捕まえた時点で撤退するか陣を固めるかをしている
それをせず逆に敵側へ進出したと言う事は初めから決戦して勝つつもりであった事は間違いないだろう
織田方の正確な数は把握していなくても自軍より多い事は予想していたものと思われるが
我々があくまで「勝てない」と思うのは結果を知っているからであって、勝頼が「勝てる」と見込んでもおかしくはない
いつの時代の戦争も状況を選べる事は少なく、戦力差の開いた戦いは珍しいものではない
圧倒的寡兵で勝利した例も数多く存在する
だから勝頼が勝負に出た事は特別不審な行動ではない
ただ、恐らく勝頼は野戦での短期決戦のつもりで進出したのだと思う
だが進出した先で織田方が大規模な陣城を築いていた事が大きな誤算であり、仕掛けずに陣を敷いて対峙したのだと思う
そこで織田方は別動隊を回り込ませて宇連川南岸の敵を一掃して長篠城の包囲を崩すと共に武田本隊の背後を脅かした
こうなっては武田勢の撤退は叶わず前面の敵を破る事で活路を見いだそうとしたのだろう
0213人間七七四年2011/07/14(木) 16:23:38.21ID:JAXQcT3h
このスレでは退路絶たれて正面突破がコンセンサスで良いのかな?
設楽原に進出した時点で罠に落ちたのは間違いないね
0214人間七七四年2011/07/14(木) 21:17:32.58ID:CVZofK71
先に酒井別働隊を叩いてたらどうなったろうか
0215人間七七四年2011/07/14(木) 22:02:46.39ID:mk2Cs48A
別働隊とはいえ5000の軍勢だからなぁ
武田の本隊が動いたら織田徳川が陣前出撃してくるだけじゃね?
こう考えるとやはり設楽原に進出したのが全ての間違いのような・・・
0216人間七七四年2011/07/15(金) 01:02:51.23ID:mVl2Zove
ちゃんと索敵さえしてればあそこまで簡単に鳶ノ巣山も落ちなかったし
本隊から2千ぐらい割いて背後から挟撃すれば逆に壊滅させられた
0217人間七七四年2011/07/15(金) 01:42:14.02ID:Q2/218Xu
鳶の巣が襲撃された時点で退却してればどうだったろうね
少なくとも退路絶たれる前に脱出できたと思うが
そこで追撃してくる織田を返り討ちに出来るかどうかは何とも言えないけど
0218人間七七四年2011/07/15(金) 06:51:29.43ID:PGFic31G
武田も別動隊を連合軍後方に派遣していたけど途中で阻止されたのがな…。
0219人間七七四年2011/07/15(金) 06:51:41.18ID:A4RvKcW3
>>216
別働隊はもっもと効率的な朝駆けをしてたから索敵なんて無理だろう。
あと鳶の巣砦は砦なんかじゃない。平地に縄を張った程度。
0220人間七七四年2011/07/15(金) 07:31:14.70ID:pQilu8AE
啄木鳥戦法にやられた武田って・・・
0221人間七七四年2011/07/15(金) 08:09:59.53ID:mpWVblr+
>>213
正面突破って、方向が逆だしW
三増峠だって突破方向は自国。
関ヶ原の島津みたいな絶望的な状況じゃないだろ。
退路断たれたから正面突破説は机上の空論。
やはり状況判断の甘さから、勝てると思って仕掛けたんだろ。
0222人間七七四年2011/07/15(金) 08:16:43.68ID:mpWVblr+
仕掛けるにしても、敵の野戦築城に正面突撃は愚かすぎる。
むしろ三方ヶ原のように、引くと見せて追ってくるのを待ち伏せるべき。
やはり、よほどの好機と思い込まされてたとしか思えない。佐久間信盛内応謀略説ってどうなんだっけ。
0223人間七七四年2011/07/15(金) 08:23:24.90ID:pQilu8AE
全面の織田徳川主力を撃破して状況を打開しようとしたって事だろうね
どっちにしろ主導権奪われた状況で野戦陣地に突っ込むのはちょっと
酒井の別働隊が襲撃した時点で逡巡したのが命取りになったのかな
0224人間七七四年2011/07/15(金) 11:21:07.41ID:KoMAXTFU
>>219
見張り台設けておけば少なくとも奇襲は防げる
恐らく城兵のみに気をとられて後詰めが来るとは思わず歩哨すら立ててなかったのだろう
いくらなんでも油断し過ぎ
鳶ノ巣山の砦群はちゃんと山頂付近を平削してあるし、土塁や掘切も残っている
砦と呼ばれているくらいだから、それなりの形にはなっていた
0225人間七七四年2011/07/15(金) 13:39:22.56ID:a5wTusDP
その砦が何に対して作られたか考えれば自ずと答えは見えてくると思うが・・
後ろから奇襲されたんだから何の役にも立たないのは明白
あの地域で攻勢を食い止めるなら一刻も早く長篠を落とさないと
0226人間七七四年2011/07/15(金) 15:48:58.81ID:5vjCIifi
落とせないから皆が頭を悩ませてるわけだが・・・
長篠城を落とすには
1、後詰めを破る
2、長期戦に持ち込む
の二択しかない
そして勝頼は1を選択したと
0227人間七七四年2011/07/15(金) 17:25:15.24ID:wRKa6EX7
長篠城は本丸以外落ちてる状態だったわけだが
本丸の防御力はどの程度のものだろうか?
織田・徳川が後詰め失敗で退却しないように手加減したみたいな説もあるみたいだけど
その割に鳥居強右衛門に降伏勧めさせたりもしてるんだよな
このあたりの勝頼の内面が見えないとなんとも言えないね
0228人間七七四年2011/07/15(金) 19:15:23.26ID:5vjCIifi
武田勢に不利な決戦に踏み切る事を決意させたぐらいだから
少なくとも後詰めが来るまでには落とせないと思わせるぐらいの防御力が残っていたと言う事だな
0229人間七七四年2011/07/15(金) 20:51:46.95ID:R0rW7Xl6
鳥居の命がけの報告で士気も上がっていたろうしね
少なくとも数日は持ちこたえるだろうと判断してもおかしくはない
0230人間七七四年2011/07/16(土) 16:31:03.18ID:1BlAfg2P
本丸だけになって後がないってとこで持ちこたえた城って長篠くらい?
0231人間七七四年2011/07/16(土) 17:01:55.78ID:gYfGEll7
http://www.geocities.jp/senokatsu5555/hobby/castle/047nagashinojyo/nagashinojyo.html
これ見る限り空堀じゃなくて水堀だったみたいね
実際現地で縄張り見てみたいね
0232人間七七四年2011/07/16(土) 17:11:58.50ID:gYfGEll7
勝頼にとっては奥平昌信は許し難いものがあったんだろうけどさ
武田側に残った山家三方衆もいたんだからそれを使って調略できなかったのかな?
落とすなら落とすで後詰めが来てるのに包囲で兵糧攻めしてる場合じゃないだろうと思ったり
本丸まで追い込んでおきながらそこからの武田側の動きが緩慢じゃね?
織田・徳川を退却させないために手加減した説の根拠はここなんだろうけど
0233人間七七四年2011/07/16(土) 17:13:48.69ID:gYfGEll7
奥平信昌だった
すまん
0234人間七七四年2011/07/17(日) 12:24:25.43ID:kq9adiPH
人質見殺しにしてまで寝返ってんだから、今更調略しようとしないだろうし、されないだろうと思うがなあ
0235人間七七四年2011/07/17(日) 18:10:37.58ID:tXGt/7PA
人質皆殺しして攻め込んでるから、降伏しても奥平は打ち首だろうな

信長をさそいだすために手加減したかどうかは分からないけど、少なくても当初、この戦いの目的はは長篠城攻略及び奥平制裁だったと思う。

0236人間七七四年2011/07/17(日) 18:53:32.68ID:oJRZDByJ
離反を放置すれば次々離反する恐れがあるから絶対に見過ごすわけにはいかないからな
俺も初めは信長や家康を誘き出す為に長篠を攻めたのかと思ったけど
その割りには準備が不十分だし、高天神城や明智城が後詰めがくる前に落とせた事をふまえると
単に今回も後詰めが来る前に落とせると見込んでたと考えるのが自然だと思う
0237人間七七四年2011/07/17(日) 21:44:00.18ID:/umxC+bF
長篠を見殺しにしてれば徳川崩れ起こしてたんだろうね
0238人間七七四年2011/07/18(月) 11:50:24.90ID:u2cjocNl
しかし後詰め部隊があんなところに野戦陣地作り出したのを見てあえて本隊を進める必要があったんだろうか?
0239人間七七四年2011/07/18(月) 13:53:03.72ID:rzy2VWH/
ろくに情報収集してなくて、単に進出してきたと思ったのではないかな
近くに行ってから初めて堅固な陣地築いているのを知って、退くも攻めるもできず陣を張って対峙していたら
鳶ノ巣山を落とされ背後を脅かされて、もはや前に進むしかなくなったと
0240人間七七四年2011/07/18(月) 14:58:51.58ID:vgte+Gn2
>>239
さすがにそれはラッパが無能すぎるだろ・・・
0241人間七七四年2011/07/21(木) 17:41:41.43ID:f1c6Vjo9
織田徳川は大規模な砦は作ってないと思う。
そんな砦があったらさすがに攻撃しかけないかと。
あの周辺、湿地帯だったようだから、そもそも攻め口は限定されていたんじゃないかな。
その攻め口が竹広、柳田激戦地だったんでしょう。
攻め口が限定されているなら防御箇所も限定的で柵も街道を封鎖する程度であったと推察。

また兵力差3倍も本当にあったかも疑問。




信長、家康が討死していたらってということですが、この戦いで武田が勝つには大砲でも
なかったら無理だったんじゃないかな??


でも勝頼は遠江ぐらいは平定したかも知れない。。あとは織田家、徳川家内でどんな争いが
起こるか・・


0242人間七七四年2011/07/21(木) 18:12:27.67ID:+EnxOhe3
あまり織田軍の中身は言われないけど結構なオールスター揃ってるのよね
ここで織田軍が壊滅するならもうあの領国は維持できないだろうね
0243人間七七四年2011/07/21(木) 20:56:18.31ID:x/ybZj6v
さすがに両家の当主が揃って討ち死にしたら終りだよ
どちらかと言うと信長だけ討ち死にした場合の方が面白いかも
0244人間七七四年2011/07/25(月) 19:33:31.03ID:t37AAIxY
おっと。本能寺で親子揃って討たれた間抜けの悪口はそこまでだ
0245人間七七四年2011/07/25(月) 22:34:21.75ID:z94CeYl9
>241に賛同もうしあげます。


よく言われている以下の事は、針小棒大に言われているのじゃないか?と、思わなくもない。全くの事実無根ではないだろうけどね。


三倍差
三段撃(鉄砲3千挺)陣城(馬防柵)



信長の勝利を誇張し、勝頼を貶めるために大袈裟に話を作った可能性あり。


武田家の重臣が沢山討ち死にしているから、戦自体の勝敗は武田方の負けだろうけど。

あと、微妙に疑問に感じるのだけど、山県や馬場や真田などが討ち死にした事が、武田の力を弱めたって説。

山県や馬場と勝頼の関係次第では、戦のどさくさにまぎれて消したって考えられないか?。

信玄時代からの重臣で、勝頼にしたら目の上のタンコブで邪魔な存在だった可能性もある。


0246人間七七四年2011/07/26(火) 03:19:03.14ID:XcldNZOU
>>245
晴信時代の板垣、甘利と違うんだから
御親類衆とのバランスを取るためにも重臣連中は勝頼には必要でしょ
勝頼は上野侵攻あたりから対北条戦、対徳川戦の三方原等で実際力を示してる訳で
甘く見られてたとも思えないが
0247人間七七四年2011/07/26(火) 16:17:40.61ID:2NBl817I
信長公記に『御人数三万ばかりたて置かる』とあってこれが織田のみなのか
織田徳川合わせたものかちょっと分からない。
織田勢の侍大将は、丹羽、佐久間、滝川、羽柴、信忠、信雄が主な面々か?
信雄は連吾川よりかなり西方。
徳川勢は本隊、西三河衆、東三河衆(酒井)で東三河衆(酒井)は鳶ノ巣へ
迂回攻撃。徳川の総数はおおよそ八千は妥当な兵数でしょう。

伝承地を信用した場合になるけど、連吾川沿いに展開したのは織田勢が
丹羽、佐久間、滝川、徳川勢が本隊と西三河衆で総数一万三千程度かと思う。
地形的にもそれが精一杯だったのかもしれない。

突破・迂回されることも想定して茶臼山本陣左右に羽柴勢や信忠が配置。


織田軍の鉄砲は信長本隊がおおよそ千五百挺、それぞれの備にも鉄砲があったと
思われるので総数としては二千挺近くなったかもしれない。
徳川勢は多くて五百挺程度か?
武田勢も千挺以上の火縄は有していたでしょう。

三段撃ちはテレビや漫画で見られるようなものではなかったはず。
せまってくる敵に応じて発砲したと思いますが、その際に三段撃ちに見えるもの
もあったかもしれない。だたそれは数百以上で一斉射撃という組織的なものでは
なかったでしょう。


武田譜代の重臣達は撤退戦で多くが討ち取られたと思いますが、撤退となれば
一門・御親類衆が先だと思います。譜代・外様は要所で撤退を援護する役目だったかと。
さすがに仮に邪魔な存在であったとしても合戦の最中に・・は難しい気がします(笑)










0248人間七七四年2011/07/26(火) 18:06:40.13ID:Ffw9Evlh
今の設楽原は小高い山に木が生えているけど当時は禿山。

山にも布陣したと考えれば、あの地に連合軍3.8万、武田軍1.2万は
布陣できた。
0249人間七七四年2011/07/26(火) 18:20:11.56ID:s7y4hcso
山県達が消されたとは珍説だな…
織田からすりゃ謙信や毛利がいるから絶対に負けられないし
織田との国力差や徳川にさえ手こずってたんだからそんな余裕ないと思うが…
0250人間七七四年2011/07/27(水) 15:41:41.02ID:4fPfd/LM
あの地とされるのがどの範囲か分からないのですが、連吾川と大宮川の間は
200〜250メートル程で南北大久保隊の布陣伝承地から県道21号線
あたりまで約2キロ。
仮に平地で草木がなくても三万八千の軍勢が入るには狭いかと。
当然馬も荷物もあるわけで・・

機動的に備や組が動き、攻撃を加えるにはその半数ぐらいと考えますが、
伝承地より連吾川沿いに布陣したとされる備の大将は丹羽、佐久間、滝川で
彼らがそれぞれ三千以上の兵を指揮したとは考えにくい。

八時間近く設楽が原で合戦が続いたとされているので、最中に羽柴勢や信忠勢が
押し出てくる可能性はあったかも知れないけど、織田軍が布陣した場所では
ほぼ鉄砲組で仕寄りしながらせまってくる武田軍を追い散らしたようであるから
後方部隊が出る必要はなかったと思います。
0251人間七七四年2011/07/27(水) 19:59:58.69ID:C90uX0t6
>あと、微妙に疑問に感じるのだけど、山県や馬場や真田などが討ち死にした事が、武田の力を弱めたって説。

説っていうか事実だろう。
いや、天下に名を轟かした山県や馬場が死んで一気に武田はナメられる存在になった。
ていうか、その理屈では武田は長篠の戦いで衰退してないってことになるぞ。

もしも勝頼が私情で山県や馬場を粛清したのなら、
自分だちの勢力を弱めただけだと思うんだが。
0252人間七七四年2011/07/27(水) 23:42:47.81ID:6zGuRKSS
つーか後続の穴山、信豊、信廉らの親類衆がちゃっちゃと撤退しちゃったせいで両翼が殿も受け持つはめになったからでしょ、特に馬場の戦死なんか。
あの辺りが踏ん張ってればあんだけ酷い負け方にはならんかったような気もするが。
0253人間七七四年2011/07/28(木) 00:04:14.75ID:nWuE7C/d
馬場あたりは信玄に殉ずるように死に場所を探してたみたいな説あるけどさ
でも馬場の捨て身の殿のおかげで勝頼は逃げ延びてるんだよね
馬場は信玄への恩を勝頼を守ることで果たしたと言えるのかな
0254人間七七四年2011/07/28(木) 08:23:08.82ID:I3YAmXq9
恩と言うか、その時は大将を逃がすのが部下の役目と踏ん張ったんじゃないかな。
そういう精神は立派だと思う。
一族衆が頼りないようにも思えるけど、血を残すという意味では早々に撤退したの
は、妥当なところだったのだろうか。
0255人間七七四年2011/07/28(木) 08:43:19.83ID:9SfYHEVb
馬場の奮戦を考えると勝頼が御家来衆から軽く見られてたって訳じゃないみたいね
ただその後の勝頼がこの敗戦を糧にして成長したように見えないのが悲しいというか
信玄なら長篠大敗後でも岩村とかに後詰め出して救出してただろうね
0256人間七七四年2011/07/28(木) 16:45:40.61ID:cUyhz4hT
長篠合戦は午前6時から午後2時頃まで続いたとされ、鳶ノ巣が
午前8時頃に襲撃で、お昼頃、長篠は開放されたでしょう。
また連吾川沿いの合戦でも武田軍は突破困難と判断したと思います。

鳶ノ巣攻略隊、及び長篠城兵が兵を整えて背後を脅かす前に
武田軍は鳳来寺方面の街道・退路を早急に確保し撤退をする必要に迫られたと思います。

余裕があれば繰り退きをして、もう少しまともな負け方だったかも知れない。






0257人間七七四年2011/07/28(木) 19:48:20.28ID:Jhrrh8fU
>>245があまりに珍説を披露したために
スレ自体がおかしくなってきた。
0258人間七七四年2011/07/29(金) 08:06:58.42ID:TuDaoMTU
名将が多数討ち死にし過ぎた戦いで辛いな
0259人間七七四年2011/07/29(金) 09:14:19.47ID:ULGbOVuH
>>255
>信玄なら長篠大敗後でも岩村とかに後詰め出して救出してただろうね

信長公記には後詰が来ている事が書いてあるよ。

でも「農民までをかりだし〜」とある事から逼迫していたのだろうね。
0260人間七七四年2011/07/29(金) 09:31:52.92ID:WOlD6yNg
>>259
おっ後詰め出してたのか
それで救出失敗かぁ
農民までを云々は誇張じゃないかねぇ
長篠での戦死者は諸説あるけど今じゃ1000〜2000程度がコンセンサスじゃないの?
0261人間七七四年2011/07/29(金) 12:51:27.73ID:GgTKCtax
>>260

重軽傷者を入れると1万はいたと思う。

その中から再度、出兵できる者は数千程度ではないか?

また長篠の戦以降、勝頼は3年間は大きな軍事行動は
とっていないから、長篠の戦で相当な被害が出たと思う
0262人間七七四年2011/07/29(金) 14:47:23.98ID:Yexb5RV0
一線級の指揮官を大量に失ったのは痛かったね
もし山県や馬場が生きてれば信豊みたいに木曽に返り討ちとかはなかっただろうな
0263人間七七四年2011/07/29(金) 15:27:59.06ID:h5lsH02Q
流れからそれて申し訳ないのですが、
気になるのは鳶ノ巣への奇襲攻撃。

約3〜4千名が背後の山から奇襲したことになっているけど、
かなりの距離の迂回しているのですが、当時、幅の広い道が通っていたのか?と
いうこと。

約3〜4千名というとかなりの大部隊といっていい人数。
しかも夜にあのような山の中を通るとなると、落伍者もそれなりに出るはずだし、
道幅が狭い里道で1人か2人並んで歩くのが精一杯とするなら、
列の距離は1キロを越える・・

本当に背後から攻撃したのかが疑問。
0264人間七七四年2011/07/29(金) 16:44:54.62ID:zNO5zwvg
長篠スレでは現地行った人から、とても4千人が気づかれずに通れるような道ではないって書いてた
実際は知らんけど
最大の謎はやはり寒狭川渡河とそれを待ち構えるかのように陣地を構築してた連合軍
勝頼が連合軍の戦力を見誤ったのか、ひいては武田の諜報能力の低下が背景にあったのではないだろうか
0265人間七七四年2011/07/29(金) 17:05:31.80ID:MyZBtsn7
今は通れないが、昔は禿山かそれに近い状態の山って結構いっぱいあるのよ
今の道で考える自体アホすぎ
0266人間七七四年2011/07/29(金) 18:15:25.13ID:Yexb5RV0
昔禿げ山ってのは城とその付帯施設のことじゃね?
あんなところまで禿げ山だったのかというとかなり微妙だと思うが
0267人間七七四年2011/07/29(金) 19:43:13.52ID:h5lsH02Q

まぁまぁ禿山が現在より多かったのは分かっているからww

しかし鳶ノ巣付近がほぼ禿山とする資料ってあるの?
資料がなくても根拠となる事実とか?
というより禿山だと夜の行軍に問題ないのか?だな。
草も生え放題で泥濘、段差もあろうところに登山靴もなく、街灯もない中行軍するなんて
どのみち危険だろうに・・・
禿山だろうとまともな道がなければ数千単位の行軍はやはり困難。
数百ならまだ分かるのよ・・。

>寒狭川渡河..

半壊近くにまで長篠城を攻撃したことを考えると退くに退けなかったのかも知れません。
兵力差に関しては信長公記が元になっているかと思いますが、あくまでおおよその数字で
あって、見た目的に2倍以上の差を偵察は感じないものであったのかも知れません。
少なくとも連吾川沿いの織田徳川軍は三万八千はいたとは思えません。
0268人間七七四年2011/07/29(金) 20:36:20.86ID:vvAqM9+Y
>見た目的に2倍以上の差を偵察は感じないものであったのかも知れません。
信長公記を信じるなら、
信長信忠信雄ら本隊は武田側から陣が分からない様に
長篠から西方5キロから6キロほどの場所に布陣。
兵力差は分かりにくかったかもしれないな。

寒狭川渡河だけど、
武田勢が渡河した時はおそらく寒狭川対岸には徳川勢+滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀らのみ布陣、
織田勢の大半はそこから後方5キロほどに布陣していて、しかも間に連子川宮川弾正山松小山天神山などを挟んでいる。
大軍といっても分散配置しているように見える。
また徳川家康は弾正山に陣取っていたともあるので、
勝頼書状にある敵が押し出してきたというのは滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀らに徳川勢の一部のみ
といった少数であった可能性も高い。
0269人間七七四年2011/07/29(金) 20:48:40.55ID:quRvj8yV
取り合えず援軍放置で城囲み続けてたらどうなってたかな
高松城みたく織田徳川も手が出せなかっただろうか
0270人間七七四年2011/07/29(金) 22:08:47.91ID:/+AjW69z
その場合とりあえず後詰めの役割果たすために史実通り酒井の奇襲から押し出してきそうだけど
0271人間七七四年2011/07/29(金) 23:20:02.78ID:GgTKCtax
弾正山等、布陣したと言われている山に行った事があるが
木が多くて前が見えない(w

当時もこんなに木が生えていたら
戦場で何が起きているか、全く分からん。

戦場となった付近の山は禿山だったのだろう。

別働隊が迂回した山はどうだったんだろう?

田畑、民家から遠ざかっている山は木が生えていたと思う。
0272人間七七四年2011/07/29(金) 23:28:27.83ID:GgTKCtax
>>267

>禿山だろうとまともな道がなければ数千単位の行軍はやはり困難。
数百ならまだ分かるのよ・・。

これができるから「奇襲」なんでは?

4千の部隊が横に2人並んで、1m間隔で進軍すれば
部隊は2kmに伸びる。

でも別働隊は途中で4つに分かれて
4つの砦をそれぞれ奇襲しているから
この行軍は可能だったと思うが。
0273人間七七四年2011/07/29(金) 23:30:14.92ID:84UY9glw
昔は薪を燃料としてたから結構禿山が多かったのよ
分かるか?
0274人間七七四年2011/07/29(金) 23:33:44.27ID:GgTKCtax
いつも思うのだが、戦国時代の貧相な服装で
どうして夏、冬に戦争ができたのだろうか?

夏は暑くて汗疹が出来るだろうし、
冬なんか足元が寒くて、走る事は困難だったのではないかと
思うのだが。

しかも雨が降れば。。。

でも実際、夏、冬でも戦争をしていたわけで。。

当時の人間は暑さ寒さに対して今よりも強かったのだろうか?
0275人間七七四年2011/07/29(金) 23:39:59.40ID:z5OVx1kb
大嘘だな
人口が爆発的に増えた明治以後ですら禿山なんて殆どなかった
戦後なんかは復興で建材用の木が物凄い量消費され
炭や薪も使っていたがそれですら禿山にはならなかった
首都圏でさえね
それに山の下刈りを毎年する際に大量の雑木を伐るから
何も薪なんかの為に大木を伐りまくる必要などない
0276人間七七四年2011/07/29(金) 23:45:57.01ID:vvAqM9+Y
江戸時代に植林しまくったから
0277人間七七四年2011/07/30(土) 00:05:08.36ID:UGdLEgTd
>>275
お前こそウソつくなボケ!!!

http://kobe-mari.maxs.jp/rokko/futatabikoen.htm
0278人間七七四年2011/07/30(土) 01:48:10.63ID:pwhp12Bg
>>277
日本の殆どが山地なのに山一個が禿山だったからって「禿山が多かった」なんて事にはならない
それにそのサイトにも書いてあるじゃん
秀吉が特別に六甲山の草木を自由に採取していいと許可を出したから乱伐されたと
逆に言えば許可が無ければ自由に伐採もできなかったと言う事
実際、この時代もかなり五月蝿く山林の管理が行われたいて
草木の管理を厳重に行う事を指示する文書が色々存在する
0279人間七七四年2011/07/30(土) 11:01:43.76ID:y6vKJ5pR
>>265
禿山だと余計バレバレじゃね?
0280人間七七四年2011/07/30(土) 13:54:18.25ID:X6wTtgmQ
いわゆる「禿げ山」は昔からありました。っていうかそこいらじゅう禿げ山です。昔の文献などの挿絵などで郊外の山は禿げ山として描かれています。
ウソだと思うのならその当時の挿絵などで御覧になって下さい。
0281人間七七四年2011/07/30(土) 14:12:57.74ID:TqHeev9P
そりゃ絵図だろ
絵図はあくまで図面的なものだから簡略化されている
写実的な風景画などは鬱蒼と繁った山が描かれている
そもそも「そこいらじゅう」なんて言い切る根拠があるのか?
近代ですらそこいらじゅう禿山だったなんて書いてあるものを見た事がない
むしろ何かの大規模事業で木を伐り出した結果、禿山になってしまったと言う記事を見る
つまりそれだけ珍しい事だったのだろう
0282人間七七四年2011/07/30(土) 14:15:10.77ID:c6655neM
4000人の移動云々言うなら当時の月齢とか天候も語らないと片手落ちじゃね?
0283人間七七四年2011/07/30(土) 15:53:44.39ID:FHISOoW2
当時の天候は分からないなぁ・・


うーん・・、途中、四つの部隊に分かれたとしても、禿山が多かったにしろ
夜に四千人があの地を行軍するのに違和感がある。
小学生の遠足レベルでも引率する先生、案外大変だったりするからww

ただ禿げ山が多かったとはいえ、あの一帯の山々に木一本生えてませんなんてことは
あり得ない。
まともな地図もないから土地勘のある者数名が先導するのだろうけど、夜、山の中を
数千規模で行軍はどうかと思ってしまう。武器や荷物、騎馬武者もいるだろうから。

山登りを何度かした人なら分かると思うけど疲れも結構なものだし。
あのときは梅雨の時期で蒸し暑さもあったでしょう。
それに然程高い山でなくても夜、山道歩くのって数名でもちょっと勇気いるしね。




鳶ノ巣砦への経路が書かれている本が歴史群像等あるけど、四千人の行軍
であるから気づかれずに行くには大きく迂回し、南の山を越えるしかないという思い込み
から出ている気もする。あの経路って信憑性のある史料ってあったりするの?
距離にして家康の本陣あたりから20キロ近くはあるんじゃないかな?


鳶ノ巣砦群は砦と呼べる程の防御施設はなく主に監視目的の施設かと思うからそれほど兵が
居たと思えない。主に城の近く対岸の平地に武田の兵がいたんじゃないかな?と思ってる。
仮に裏から回り込んでの奇襲があったとするならそれは数百規模で、本隊の数千は違う
経路を辿って攻め立てたのかと思うのだけれど、それに関する史料、知恵が乏しくて・・


奇襲そのものを否定はしないのだけど、進軍の経路が違うのではと思ったので、真実味の
ある意見を聞きたかったんですよ。
0284人間七七四年2011/07/30(土) 17:12:26.67ID:xdAAfTTl
基礎体力も現代人とは違うだろうしねぇ
実際酒井の別働隊が約4000っていうのは誇張されてるかもね
ただ長篠城に1000、周辺の砦に1000なら2000くらいが奇襲かければあっさり崩壊するだろうね
周辺の砦は長篠城に対する砦であって後方からの奇襲には備えは甘いだろうし
0285人間七七四年2011/07/30(土) 21:15:05.87ID:jMV4+nRm
以前、農業体験として機械なしで田植えをした事がある。

少し植えただけで腰がパンパンになった(w

田植えってスクワットだもんね(w

さらに田起こしとなれば。。。

戦国時代の人はそれらを平気でこなしていたのだから
やはり基礎体力は現代人とは違うのだろう。

「現代人が山登りして大変だから戦国時代も・・・」
というのは早合点だと思う。
0286*2011/07/30(土) 22:43:46.85ID:MsxqXSXH
武田軍追討戦に移行する直前
死を覚悟した四郎の前にタイムスリップした自衛隊が!


次回、アパッチ・ロングボウが信長本陣を急襲
0287人間七七四年2011/07/31(日) 01:58:56.78ID:APbpjHp2
>>261
そんなズタボロな軍勢じゃ仮に岩村に勝頼が到着しても返り討ちに遭っていたと思う
それに信忠は負け戦はあまりないし秋山の夜襲もあっさり封じたことからもなかなか侮れない相手だし
0288人間七七四年2011/08/01(月) 17:12:07.58ID:KPJODO67
基礎体力が仮に違って、戦国当時の人々が力持ちであったとしても・・、
(現代人と然程の違いがあるとも思えないが・・・)
夜の数千規模の山を抜ける行軍は危険だし、統率が取れるか否かも問題があると思う。
疲れもそうだが、落伍者、怪我人が出る可能性も高く、当然ながら脱走、味方の食料を奪う者も出る可能性高くなる。
前々からそういった訓練でもしているとも思えないし・・

単純に川沿いの道(今の別所街道)を進軍し、途中(これがどこかは要検証)、数百名を迂回させて鳶ノ巣あたりにいる
武田監視隊攻撃にあて、本隊はそれに合わせて東へ進軍し攻撃。この可能性って薄いのかな?
どうしても大部隊の夜、山の中を行軍ってのが引っかかる。
この付近の街道とか山道の具合とかに詳しい人の意見が聞いてみたい。
別働隊の人数に関しては酒井忠次東三河衆と信長援軍を合わせると四千はある程度納得はできる数字かとは思います。



地名に関することですが、あるみ原といわれているのは、高松山、弾正山あたりの連吾川付近から東約3キロまでの
広い範囲をあるみ原と言っていると思われます。
連吾川流域はそれまで特定の名前はなかったと。ちなみにその付近は1600年頃に設楽氏の領地となったようです。
0289人間七七四年2011/08/01(月) 18:43:48.15ID:sehoXg8I
>落伍者、怪我人が出る可能性も高く、当然ながら脱走、味方の食料を奪う者も出る可能性高くなる。

後半はないわ
たかが半日もない行軍で
どこの寄せ集めの義勇軍だよw
0290人間七七四年2011/08/01(月) 20:25:59.69ID:HAIrNQhS
スレチだが禿山論争は興味深い。
個人的には伐採制限で禿山少なかった派。
無制限に伐採したらたちまち禿山で、表土流失して再生困難になる。
昔は山で刈り取った下草を肥料にしてたから、耕作にも影響する。
長年の経験でそういうことが分かってたから、村の掟とかで制限してたんだろ。
0291人間七七四年2011/08/02(火) 00:35:28.97ID:KTHHVXUV
いやいや・・・、どういう根拠で「後半はないわ」かよく分からないが
半日もない行軍でという理由?なんかな。

当時の足軽は忠誠心が強かったなんて言えない。

誰にも見つからないと思えば脱走、泥棒ぐらい平気でやる。
当時の小荷駄隊の警備兵は敵への備えもあるが、味方の雑兵達に奪れないように
監視することも大きな目的だったとも言われてる。

この行軍、半日とはいえ夜なんですよね。
だから可能性が高いといっているんですよね。

なんせ餓死者がでるような食糧不足の時代だしね。


・・・とそういうことよりも、夜の行軍が厳しいのは間違いない訳で
あの地に関して詳しい人の情報を待つ・・か・・。
0292人間七七四年2011/08/02(火) 00:53:41.99ID:QHI5iuJn
夜の行軍はさすがにタイマツとか使ったんじゃないのか?
0293人間七七四年2011/08/02(火) 01:12:57.05ID:a0+GSWdz
>>291
君の頭がおかしいから理解できないんだよw
0294人間七七四年2011/08/02(火) 01:41:13.75ID:KTHHVXUV
ん?けんか売ってるのか?誰ないと思って?
0295人間七七四年2011/08/02(火) 01:42:42.15ID:KTHHVXUV
ID:a0+GSWdz こういう発言っていいのか?
0296人間七七四年2011/08/02(火) 22:46:28.12ID:rhvvIFae
夜の行軍も出来ない軍隊なら
岐阜城から長篠城まで後詰なんて出来ないだろ(w

>なんせ餓死者がでるような食糧不足の時代だしね。

戦国時代の兵士は食料が支給されるから
行軍したわけで。

ろくすっぽ食料が支給されない軍隊を作ったら
長篠城の後詰の途中で崩壊しているだろ。
0297人間七七四年2011/08/03(水) 10:12:07.76ID:h1zuBv8F
家臣「殿、長篠も本丸のみです」
勝頼「よし、その調子で早く落とすのじゃ」
家臣2「殿、織田徳川軍が後詰めにきた模様です。川の対岸に陣を敷いておるとのこと」
勝頼「そうか、長篠はもうすぐ落ちる。このまま攻撃をつづけよ!本隊は織田徳川軍に対し陣を張り長篠が陥落するを助ける!」

<移動後>
勝頼「なんじゃあれは?敵は戦う気はないのか」
家臣「柵を構えておりますな」
勝頼「うまいこといった!まあ、焦らずともよい。あくまで長篠を落とすのが此度の目的じゃ。敵が出てこぬならこちらも攻めぬまでじゃ」

信長「さすが、勝頼。出てこぬな。よし、鳶ケ巣砦に奇襲をかけよ!長篠城を解放し、武田の退路を絶つのじゃ」



物見「勝頼様!山に人影が多数、鳶ケ巣砦に向けて進んでおります!おそらく織田徳川軍の奇襲部隊であると思われます!」
勝頼「なんと!敵もか。(我が方は敵に察知され撃退されたか)敵に鳶ケ巣砦を落とされては、我が方は袋の鼠、よし!ここは明朝、敵の奇襲部隊より先に正面の敵に決戦を挑む!」
0298人間七七四年2011/08/03(水) 10:41:12.82ID:RZ+TQGw5
チンゲンならともかく勝頼じゃあなぁ
0299人間七七四年2011/08/03(水) 10:49:40.72ID:h1zuBv8F
<決戦の朝>
物見「武田軍にわかに動きはじめ今朝早朝にも攻めてくる気配にございます」
信長「なんと!我が軍の奇襲を察知したか。よし、全軍に伝えよ。打って出てはなら、、、ん?!」
物見2「も、もう攻めてきてま ま ま まする〜」
信長「なんと!鳶ケ巣砦はどうなっておる?」
家臣「まだ、着いておりませぬ!」
信長「うぬっ!是非もなし!」


勝頼「敵もあわてとるの」
家臣「はい、我が軍優勢にございます」
勝頼「鳶ケ巣砦はどうじゃ」
家臣「いま敵軍と戦いが始まった模様です」
勝頼「我が軍が敵の本隊をつくのが先か、敵が我が軍の背後をつくのが先か、この戦、勝敗は天のみぞ知るじゃ な」

家康「おお 柵をまた越されたか、このままでは不味い。」

勝頼「その勢いじゃー!急げ!時間がないぞー!」

<昼頃>
家臣「殿!無念にも鳶ケ巣が陥落、長篠包囲軍も玉砕したとのこと!」
勝頼「むっ!天は敵に味方したか!やむを得ず!こうなれば敵に包囲される前に撤退する他はなくなった!全軍に伝えよ!前面の軍が敵を防いでる間に、急ぎ退却できる部隊から退却するのじゃ!」

物見「殿、ついに鳶ケ巣が落ち、長篠城を解放いたしました!」
信長「よしっ!これで勝ったわ!全軍、打ってでよ!勝頼を逃がしてはなら、、、ん?!」
物見2「も、も も もう武田は退きはじめましたぁ!」
信長「なんと!押し退きのなんと妙なことよ!さすが武田じゃ!逃がしてはならん!追い討ちをかけいっ!」

<二時過ぎ>
馬場「これまでのようじゃな、、、ぐは」

山県「武田にひかりあれ、、、ぐは」

真田「無念、、、ぐは」

勝頼「くそーまさか 負けるとはなー!
0300人間七七四年2011/08/03(水) 11:43:54.68ID:7Mr9kqhO
勝頼も長篠が武田の墓場になるとは思ってなかっただろうな
奥平に対する懲罰軍事行動だっただけなのに
0301人間七七四年2011/08/03(水) 18:12:58.22ID:RZ+TQGw5
a
0302人間七七四年2011/08/04(木) 18:26:00.12ID:+lfAvaMJ
夜の行軍だが、前の方の部隊が松明とか縛っておいたと
解釈すればそんなにおかしくはないのだが、

大河ドラマか何かで秀吉の大返しだったかシズガタケの戦いだったがで、
そういう光景、見たことある。
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