戦国ちょっと悪い話26
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0001人間七七四年
2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0625人間七七四年
2011/06/12(日) 21:22:24.62ID:7sD7+wUm一応このサイトで漢字が紹介されている
http://www1.harenet.ne.jp/~wawa/okadahansi.htm
>>624
李世民なんて、よりによってよく使う漢字ばかりだから
天下こぞって避諱するのは無理、てことで厳格にやらなくてもいいという勅令を出したとか
避諱の制度がきちんと確立してなかっただけかもしれないが
0626人間七七四年
2011/06/13(月) 00:57:43.75ID:r8y9cB/g家光は連れてきた大名たちの中から、伊達忠宗と黒田忠之に声をかけました。
「おい、政宗、筑前!」
「え!?」
あの爺さんはとっくに亡くなっていたころと思われますが、
家光はあいかわらず彼が大好きだったようですね。
0627人間七七四年
2011/06/13(月) 01:15:40.84ID:1OHMqe4jあ、でもこれって儀式の一部の話なのか?
0628人間七七四年
2011/06/13(月) 01:21:46.31ID:x9h1Tv12これ悪い話?
声をかける事が異例ってことかな?
0629人間七七四年
2011/06/13(月) 01:27:50.56ID:WaTq/yGS原文では何と呼んだの?
0630人間七七四年
2011/06/13(月) 01:34:50.27ID:r8y9cB/gそれが確かに「政宗」と書いてあるのです。
誤字かと思ったら、
「忠宗ハ政宗の子なり。然共政宗と父の名を仰られける。」
とありますね。
出典は「黒田続家譜巻之六」
0632人間七七四年
2011/06/13(月) 01:36:39.99ID:zmsWybXy家光は政宗の主君だから、「政宗」と呼んでOK
これはどうか知らないが、この当時や近い時代の資料でも政宗のことは「政宗」と書かれているものが
やたら多いのね。「伊達侍従」とか「越前守」とか「陸奥守」とか書かれているものは非常に少ない。
どうも政宗は自分の諱を世間に積極的にアピールしていたのではないか、という気がちょっとするw
0633人間七七四年
2011/06/13(月) 01:48:24.43ID:AI3K9aJq忠宗共々国主ほどの立場にある者を、父親とはいえ死者と間違えてるんだから実は割と失礼or家光がかなりボーッとしてる話。
しかし忠之がNGMSに良く似たブサ○ク(失礼)だったのは肖像画で知ってるが、忠宗も政宗と似た顔だったんだろか。
それって、本人的にどうだったんだろ。
0634人間七七四年
2011/06/13(月) 01:53:59.38ID:WaTq/yGS実名で呼ぶのは普通はヤバい行為だよ。
時代は遡るが、源頼家が家臣を実名で呼んだことで、家臣の恨みを買い、
政子に、家臣といえども非礼な真似をするなとお灸を据えられている。
政宗が特殊な人なのか、家光と政宗の間だから許されたことなのか・・・
0635人間七七四年
2011/06/13(月) 01:59:14.96ID:ZCUxnsrt頼家と家光の権力の強弱も考慮に入れるべきじゃないかな
0636人間七七四年
2011/06/13(月) 02:36:50.03ID:x9h1Tv12なぜか政宗屋敷だけ、デカデカと「政宗」って名前だけで書かれてたの思い出した
江戸じゃ政宗は名前呼び捨てがデフォなのか?
0638人間七七四年
2011/06/13(月) 09:52:24.01ID:Js72Iwysまさか大返しの話が歯の神様のいわれになると思わなくてワロタ
子供「ねえどうしてこの神社は歯の神様なの?」
大人「時は本能寺の変後、中国毛利氏と和議を結んだ秀吉が…」
子供「ぽかーん」
とか想像してワロタ
0639人間七七四年
2011/06/13(月) 10:51:23.68ID:VUFOISIE歯が欠けた無念で歯を治してくれたり
切腹したら痛かったからって「妊婦大変だな、助けてやるよ」ってなったりする
人のよさそうな逸話って面白いな
0640人間七七四年
2011/06/13(月) 12:17:15.42ID:lvYh6W5a0641人間七七四年
2011/06/13(月) 12:45:20.84ID:uEKezqLlさすがDQNヤンキーだな。
0643人間七七四年
2011/06/13(月) 13:57:39.70ID:Uos6U95N0644人間七七四年
2011/06/13(月) 15:40:26.15ID:VUzWWRHmこれ時期がわからないけど、NGMSは家光が将軍になる直前に亡くなっていて、
家光とNGMSよりも家光と忠之の方が付き合い長いというか親しいはずだから、
筑前=忠之で合ってると思われ
0645人間七七四年
2011/06/13(月) 19:57:44.42ID:qZS7vHjR0646人間七七四年
2011/06/13(月) 20:01:10.15ID:lAB23/ht0647人間七七四年
2011/06/14(火) 00:43:08.25ID:utlehkYR多分そんなところだろう。
年賀の将軍拝謁の時なんか、将軍に個別に挨拶出来るのは
大藩で10万石以下なんか十把一絡げで挨拶することになっていたから。
ましてやいつも顔会わすのは幕閣ぐらいだろうし。
06481/2
2011/06/14(火) 01:38:41.11ID:QKi/1Sof彼は若い頃新参の無足人であったが、それでも今気強く奉公を心がけ、日夜怠りなく勤めているのを認められ、
黒田家に使えて3年目、知行二百石を与えられた。
元より人に超えた根性を持つ若者であり、また、この知行を与えられた事をかたじけないと心から思い、
それ以降は前にもまして少しも弛むこと無く奉公を勤めた。
そんな次郎兵衛が如水にお目見えしたときのこと、如水は彼の顔を見るなり
「次郎兵衛、お前は具合が悪いのではないか?」
と声をかけた。次郎兵衛「いえ、そのようなことはありません」と答え、側の者たちも
「彼は殊の外無病で有名です。彼が我が家に仕えるようになって早25年になりますが、一度も体調を崩したと
言うようなことは御座いません。」
これは如水が常々、家中の者が「気分が悪い」「喉が痛い」「食事が取れない」などと病がましいことを言い出すことを
嫌っていたため、側の者たちはそこに気を使いことさら無病を強調して申し上げたのである。しかし如水
「いや、次郎兵衛の奴は疲れているのか見苦しい。さては食米が不足していて、ひもじくて疲れているのか。
ならば食米を取らせよう」と自筆で手形を書き結んで「これで飯を炊かせ、喰いたいだけ喰え!」
とそれを投げつけた。次郎兵衛がまかり出てこれを戴き、次の間に下がって中を見ると、驚くべきことにそれは、
50石の加増の手形であった。次郎兵衛は感激し
「食米と言われたからにはせいぜい米5俵から10俵ほどの物だと思っていたが、それだけでも私が年来、
心を込めて奉公していたことを大殿様がお認めになっていただいたのだととても嬉しく思っていたのに50石とは!
見たとたん肝を潰しました」と言っていた。
ここまではいい話。が、これから少し後のこと
06492/2
2011/06/14(火) 01:39:19.71ID:QKi/1Sof如水はその者に向かい
「たわけめが、お前は昼盗の仕方というのをまるで解っておらん!これからはきちんと心がけて昼盗をしろ!」と
吐き捨てた。昼盗とは白昼堂々と働く盗み、のことであろうか?この者聞いて当然ながら大変驚き
「お言葉ではありますがご主君は家臣に、律儀に奉公せよと申し付けられるべきなのに、盗みをしろとは
一体どういう事でしょうか!?」
「お前はそんな事も解らぬのか?昼盗をした話はたくさんある。まず一人の事例を見てみよう。
あの伊藤次郎兵衛の奴めは、83石(黒田家の武士の最低石高)で35年召し使っても一言の文句も言わないだろう。
知行の望みがあるわけではなく、どのようにも使って欲しいと言って我が家に出仕するようになった奉公人だが、
何事でも奉公したいと日夜朝暮心がけていることは紛れもなく、何があっても少しもわだかまらず、
良く扱っても悪く扱っても態度を変えること無く生まれついたままのように奉公を専一としていた。
この事を解っていながら取り立てないというのは、召し使ったものの志を奪い、主人として誤り、いや、盗人に
近い行為であると思ったので、奉公してから3年にも足りなかったのに、あいつにとって過剰と言っていい
200石の知行を取らせた。
あいつはその後も猶も初心を忘れず、律儀に、不調法なりに奉公をした。
これならさらに加増させたいと思ったんだ。…だがな、
問題はあいつには、これといって取り上げるほどの忠節がないのだ。
だからわしが、あいつに一花咲かせるような褒美を与えたいと思っても、それに価するような手柄が何も無い。
なので疲れている事にかこつけて、食米だと言って50石取らせたのだ。
いくらあいつが奉公をよくやっていると言っても、例えばあいつを、何かこの如水のために成る公儀への使いを
申し付けるなんて考えられないだろ?だからといって内々の会議に呼んで相談相手にする、なんてのも無理だし、
新参者だから仕置方に使うわけにも行かず、そこで心身ともに辛い目に会うということもない。
とにかく、あいつには功績というべきものが何も無いのだ!
なのに日夜朝暮心を込めて、どうにかして奉公仕りたいと思い入れている一念の志を感じ、わしは今までも取られる
べきではない知行を取られ、この間はさらに米50石を取られた。
勘違いするな?わしはあいつにさらに知行を使わしてやってもいいとすら思っている。少しも惜しいとは思っていない。
しかし考えて見れば、この如水は随分「ぬからぬ者」と自慢をしていながら、こうも簡単に昼盗に合うとは
我が事ながら実に可笑しな事だ。これはな、こういう類の昼盗をしたことのない人間が陥りがちな誤りなのだよ。
伊藤次郎兵衛に限らず我が家には昼盗は何人もいるぞ。お前ひとりづつ数えてみろ。」
と言って笑ったそうである。
自嘲なんだか自慢なんだか教訓なんだかよくわからない、黒田如水の『昼盗』のお話。(古郷物語)
0650人間七七四年
2011/06/14(火) 02:34:57.73ID:ZMdu6VO5「給料泥棒は許さんぞ」
と社内を引き締めたお話?
0651人間七七四年
2011/06/14(火) 03:38:08.70ID:90BUd8A50652人間七七四年
2011/06/14(火) 03:49:12.39ID:u1dt2uw30654人間七七四年
2011/06/14(火) 07:50:38.46ID:ej7QwARjツンデレのお話?
0655人間七七四年
2011/06/14(火) 08:30:25.64ID:1w1hjYjb公式ですが
ttp://d.hatena.ne.jp/rerasiu/20090516%23p1
0657人間七七四年
2011/06/14(火) 11:18:46.83ID:RCPPzibu簡単に言うと「俺は何の実績のない人間でも真面目でありさえすればこんなに厚遇するんだ。
お前たちも実績を見せられなくても、せめて真面目に働けよ。ちゃんと見てやって居るからな。」
って事だな
0658人間七七四年
2011/06/14(火) 13:01:15.95ID:uix3LF2c0659人間七七四年
2011/06/14(火) 17:54:52.63ID:+qtIpZN2NGMS「一万六千石も与えてやったのに伊藤次郎兵衛の爪の垢を煎じて飲ませたい奴がおるなぁビキビキ」
0660人間七七四年
2011/06/14(火) 18:25:23.36ID:jW5Xs5uCどっかで見た大阪の陣の布陣図でも「政宗」になってた気がする
他の武将みんな名字+役職なのに、やっぱり伊達だけデカデカと「政宗」二文字
0661人間七七四年
2011/06/14(火) 21:36:37.22ID:ZinSvD2Dまーくん呼びは親しみ込めてるんだろうけど、アイドルみたいでなんか違和感を感じる
0662人間七七四年
2011/06/14(火) 21:41:44.98ID:EAxIQXK+0664人間七七四年
2011/06/15(水) 07:38:28.07ID:fzYdBF9kそれとも描いた奴が「あんな奴、諱でええわい」ってことなのか
0665人間七七四年
2011/06/15(水) 09:32:33.52ID:4FV/tR3C「家名や肩書きなんて関係ねぇ。俺は『政宗』なんだからそう書いとけや。」
的な発言を随所でしており、当時の一般認識として『政宗』があったのではないか。
やはり彼にはヤンキー魂を感じずにはいられない。
0666人間七七四年
2011/06/15(水) 10:16:23.37ID:JANwvnft「あんなにはっちゃけてるのは政宗だけなんです。
他の伊達姓の者は常識持ってます」
と伊達家の標準タイプが政宗だと思われたくなかったからかも
さすがにないか
0667人間七七四年
2011/06/15(水) 10:26:57.65ID:hKufVc6C大阪冬の陣のこと。井伊家で物見に出ていた2名がにわかの大雨に合い、ずぶ濡れになって
帰ってきた。それを聞いた井伊直孝は自分が着ていた小袖2枚を脱いで、彼らに与えた。
さてそのすぐ後、安藤帯刀のところに井伊直孝から使いが来た。その口上によると
『わたしはこういう理由で自分の用意していた着物を2枚共に家臣に与えてしまい、しかし着替える服を
持っていません。
そんなわけで帯刀殿、着物を分けていただけないでしょうか?』
その後、家康の御前に安藤帯刀から贈られた小袖を着て出仕する直孝の姿が
度々見かけられたという。
安藤帯刀から服を分けてもらえなかったら裸で居るつもりだったんだろうか?w
そんな、井伊直孝自らの小袖を与える、と言うお話(近古武談)
0668人間七七四年
2011/06/15(水) 10:28:47.83ID:+t8ppWbR当時の瓦版でも政宗だけは諱www何でだwww
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/02/20101.html
0669人間七七四年
2011/06/15(水) 10:44:22.11ID:+GEbXZ5Vまあ服は別に貰うなりなんなりすればいいけど、しっかり奉公してくれる家臣はそうそう簡単には貰えないからなあ。
>>668
多分、学名は政宗・政宗なんだろう
0670人間七七四年
2011/06/15(水) 13:20:47.14ID:b/noIM8z0671人間七七四年
2011/06/15(水) 15:09:41.73ID:jw7sBZ5a京二条城にて、久世三四郎・坂部三十郎の二人が知行の加増にあずかった。
この話を聞いた大久保彦左衛門はすぐに登城して、二人を出待ちし二人を見つけ尋ねた。
「其の方両人登城とは、何事か?」
勘の鋭い久世は、彦左衛門がいまにも斬りかかってきそうな勢いなので、坂部をつねって目配せし、
「思いがけず加増していただきました。特筆すべき武功を立てたわけではございません。強いて言えば耳たぶの事を評価してもらったのだと思います」と答え、耳たぶをつまんで見せた。
(つまり久世・坂部両人は様々な情報を『耳たぶ』で集めた事を評価されたと主張し、戦場での活躍だけが武功だと思ってる彦左衛門を遠回しにバカにしてる)
これを見た彦左衛門は笑いだし、
「さようか耳たぶの評価か、武功以外で貰う知行などはクソだ。そんなクソ知行ほしくはないわw」(さてはたぶにて罷成候成哉。能合点にて候。さ様のくされ知行は不入候)
と皮肉をいって帰っていった。
(鳩巣小説)
既出の逸話ですが解釈が違うと思ったので書きました。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5240.html
0672人間七七四年
2011/06/15(水) 18:12:31.95ID:8Vatt0t10673人間七七四年
2011/06/15(水) 18:15:20.74ID:LL4RQ3MR小田の領民が小田の殿様を信奉していたことは佐竹でもよく知られていたらしい。
小田のことを知るある者が「一年以内に取り返されないよう注意することだ」と言うので
義斯は「首を鴉につつき砕かれることはあっても城は取り返されない」と答えた。
しかし翌年、義斯は城を奪われてしまった。これを見た人は
「小田の鴉はなんと大きいのだ。人をつつき出してしまうとは」と笑った。
この時、城を急襲して取り戻したのが小田の家臣である信太氏であった。
彼は佐竹に降伏してからは無二の忠臣をよそおい、反撃の機会をうかがっていたのだ。
しかし、これは極秘のうちに行われたらしく、彼の妻子ですら知らぬことであった。
息子の喜八などはまさか父の謀叛などと思いもよらず、義斯のもとに駆けつけたために
捕らえられてしまった。そして義斯は虫の居所が悪かったのか喜八を虐殺したのである。
こうした経緯もあって喜八は怨霊となり「城を守ろうと駆けつけたのになぶり殺しにされた」
と佐竹北家にたたりをなした。また、その母もたたりをなしたのだという。
0674人間七七四年
2011/06/15(水) 20:28:30.65ID:lTHquxx40675人間七七四年
2011/06/15(水) 22:13:54.74ID:M+Y8Y9Vp0677人間七七四年
2011/06/16(木) 02:23:10.87ID:xWUDlpQm「私が大浦(青森県弘前市)を治められるのも高信殿の仁愛のお陰です。」
と高直をおだてつつ、その居城である石川城近くにあった自身の城である堀越城の改修を願い出た。
高直の許可を得た為信は、土石に見せかけて兵糧や武器を運び入れると共に、人夫を装わせて兵を集め、改修が終わると
高信の重臣3人を大浦城に招いて歓待し、家臣の板垣兵部を見送りに付けて帰した。
そしてその夜、そのまま堀越城に入っていた板垣を先手として石川城を急襲。油断していた高信を自刃に追い込んだという。
こうして為信は独立の狼煙を上げると共に南部との血で血を洗う抗争を開始したのである。
以上、「津軽一統志」より為信22歳頃の話である。
0678人間七七四年
2011/06/16(木) 04:21:32.73ID:arXvdHTf0679人間七七四年
2011/06/16(木) 21:45:26.71ID:ZO/0Xzc00681人間七七四年
2011/06/17(金) 11:21:27.20ID:kfM/wvlbこの者たびたに戦功をなし、剛勇の士として有名であった。
ところでこの「阿波鳴門之助」という名前、どうも当時「越すに越されぬ阿波鳴門」という慣用句の
ようなものがあったらしく、世間では彼の名はここから、「武功で自分を越そうと思っても越すことは出来ない」
という意味を込めたものだ、とのもっぱらの噂であった。
さて、佐々成政が肥後を豊臣秀吉から拝領した頃、その秀吉の元を出奔した水野勝成が佐々成政の
ところに潜り込んでいた。ちなみに出奔の際勝成は、激怒した秀吉から刺客まで出されたらしい。
何をやったんだ勝成w
それはともかく、勝成は阿波鳴門之助の名のことを聞き小憎たらしく思い、ある合戦の折
わざわざ鳴門之助に対面してこう言い放った
「貴殿の名は越すに越されぬという意味で付けられたのだと聞く!
明日の合戦で越せるものか越せないものか、私と貴殿とで先陣争いをしたいと思うが
いかがか!?」
これを聞いて鳴門之助
「それはそういう事を申す者の誤りです。
私の名は祖父より引き継いだものであって、そんな意味はありません。
その上貴殿の武勇は比類のないもので、私ごときがあなたと先陣争いをするなど
思いも寄らないことです。只々そのことは御免候へ。」
とへりくだる。それでも勝成は先陣競争を再三要求したが、鳴門之助は固く拒否したため
「この上は致し方なし」と諦めた。
しかしこれを聞いた人々は、鳴門之助が勝成との勝負を逃げたと思い、皆彼を嘲った。
そうしてその夜子の刻(夜11時から1時ごろ)、鳴門之助は密かに人をやり勝成の陣屋を伺わせ、
彼の陣に動きがないことを確認すると、なんと、自分の手のものだけで敵陣に突撃!
槍を合わせる。
元より無謀である。最初こそ敵を混乱させたものの、やがて鳴門之助は多勢に取り囲まれ
数ヵ所傷を負い終に地面に突っ伏した。今まさに頚を取られようとする、その時、
敵陣の混乱を見た佐々成政の軍勢が押しよせた!
これに動揺した敵軍は撤退。おかげで鳴門之助は頚を取られすにすみ、重症を負ったが
従者の肩を借りて自陣まで戻った。
さて、鳴門之助はその日のうちに水野勝成のもとに使いを出した。
使いは勝成に鳴門之助の伝言を伝える。曰く
『今日の合戦の先登は、さだめて貴殿であったのでしょうね。』
(今日の先登は定めて貴殿にて候はん)
これに水野勝成は、全く面目を失ったという。
暴れん坊水野勝成、阿波鳴門之助にしてやられる、と言うお話。(近古武談)
0682人間七七四年
2011/06/17(金) 11:32:36.18ID:yHbt+zN70683人間七七四年
2011/06/17(金) 11:46:27.22ID:yexxep6n0684人間七七四年
2011/06/17(金) 12:09:30.00ID:5519396iこういうフットワークの軽さが場数を踏んでるってことなんだろうな。
0685人間七七四年
2011/06/17(金) 15:13:07.79ID:OgEDkgFm0686人間七七四年
2011/06/17(金) 17:01:56.33ID:YDL358eu0687人間七七四年
2011/06/17(金) 18:03:45.24ID:op+AT8lC0688人間七七四年
2011/06/17(金) 18:08:45.75ID:MZ4vVsMu天寿を全うできたのだろうか。
夜道で鬼日向が待ち伏せしてたりしてw
0692人間七七四年
2011/06/17(金) 21:08:32.52ID:I56A6vog0693人間七七四年
2011/06/17(金) 22:46:01.05ID:zSWi7VIG天正17年(1589)、天草国人一揆(天草五人衆の反乱)が起き、志岐鎮経の本拠である志岐城の攻略に当たった勝成は、
城の二の丸で顔見知りがウロウロしているのを見つけた。
「鳴門之介の小姓の、清吉ではないか。どうしたんだ、こんな所で?」
「はっ。実は、先行する鳴門之介様とはぐれてしまいまして。迷っていたところに、水野様の指物をお見かけいたし、
まかり越しました。水野様ほどの方に相伴し、手柄の一つも立てれば、私も鳴門之介様に面目が立ちます。
どうか、ご一緒させて下さい。」
「さてさて、良き心がけ。よし!早く来い。連れて行ってやろう!」
「おおっ、有難し!!」喜んだ清吉が一歩踏み出した瞬間、
パ ァ ン
城方から一発の銃声が響き、清吉は死んだ。(水野日向守覚書より)
ちなみにこの『日向守覚書』、勝成の回想録という体裁を取って書かれているが、やたら詳しい小西家臣時代に対し
佐々家臣時代は「あーハイハイそんな時期もあったネ」程度に流されており、当然>>681には全く触れていない。
しかしこの頃の鬼日向さん「安田作兵衛や天野源右衛門と仲よかった」とか「山岡道阿弥や南部無右衛門と同僚だった」
とか嬉々として書いており、実にノリノリである。
0694人間七七四年
2011/06/17(金) 23:30:50.09ID:mvKr6Wq6同じ人じゃないのそれ…
0695人間七七四年
2011/06/17(金) 23:32:20.27ID:wpG6V92sむしろ無茶な突撃で華々しく討死するって感じだろうね〜
0696人間七七四年
2011/06/17(金) 23:40:12.55ID:gtnk8HD30698人間七七四年
2011/06/19(日) 02:51:20.81ID:Ch0JmLUW「誰とは言わないよ?だけど今の世の若い大名なんてのはさ、心を許して用心をしないのは、
腰や肩を揉ませて調子のいいことを言う小姓が一人二人あるくらいで、その他は児小姓から
家老に到るまで、常に傍によればそれに警戒の目をつけまわし、脇差の柄に手をかけんばかりで、
相手が何かしてきても自分がぬかることはないぞ、と言いかねぬ風情なんだよ。
どうして召し使っている者たちを、そんな恨みでもあるかのように接するのかねえ?
大名としては下々末々の者、百姓以下まで、長久あれかしと願うように接したいものだよ。
今の世の若い連中の立ち振る舞いを見るとまるで、兵法修行して世を渡っている連中と見間違えそうだ。
俺はそういうのを見るたびに可笑しくって、馬鹿な事やっているなあと思うわけさ。」
黒田如水による、近世初期の若者論?である。
(古郷物語)
0699人間七七四年
2011/06/19(日) 08:58:24.42ID:FuiFyrzI0701人間七七四年
2011/06/19(日) 09:31:21.86ID:ZMKaWEMk「余計なお世話だ!」
0702人間七七四年
2011/06/19(日) 11:04:48.91ID:gfqS8Qc+0703人間七七四年
2011/06/19(日) 14:51:01.74ID:MUPlNzuc「わしなら、あの庭先の鳩なども、二十六〜七間先にいようが、ヒューッと射殺せるわ!」
「なんの。俺とて昨日、十八間先の屋根に止まったスズメを、膨ら弓を以ってヒューッと射殺したわ。」
「拙者も、馬場にて十八間先の的に、七筋射れば六つはシュッと当たる。そのうち五つは、真ん中を射る。」
座敷でおかしく思いながら聞いていた道雪は、たまらず出てきて三人に告げた。
「お主らの弓の腕前、まことに結構。さらに稽古に励め。が、矢音のこと、間違いばかりだ。
人前でそんな事を言っては恥になるぞ。一度しか教えぬゆえ、良く聞け。お主らならば一度で覚えるだろう。
征矢・剣先矢で射て、当たった時は“ヒュバッ”と射た、と言う。射抜いた、とも言う。
外れた時は、“ヒュウスカッ”と表現する。
雁俣矢で射て、当たった時は“ヒューッ”と表現する。射切った、とも言う。外れは“ヒュウスカッ”と表現する。
鏑矢で射て、当たった時も“ヒューッ”と言う。外れた時は“ヒュッ”とも言わない、と表現する。
(中略)
こういう事も、まずは侍として良く覚えておけ。」
(原文:
そやけんさきにて、物を射て中たる時は“ひやうつば”と射てと言ふ。射ぬきて、とも言ふ。
はづれたる時は“ひやうすか”とはづしてと言ふなり。
雁俣にて物を射てあたるをば“ひやうふつ”といふ。いきりて、共いふ。はづれをば“ひやうすか”と言ふ。
かぶら矢にて物を射て当りたる時は“ひやうふつ”と言ふ。はづれたる時は、“ひす”といはづしてと言ふ。
(略)
かようの事も、専ら侍の知るべき事なり。よくよく覚えよ。)
問1、「大友興廃記」(大分県史料 戦記編収録)を呼んで雷神様がミスター脳だと知った>>703の驚きを、
五十字以内で擬音を交えて表せ(5点)
0704人間七七四年
2011/06/19(日) 15:00:25.26ID:UH2hQ3fv0705人間七七四年
2011/06/19(日) 15:51:01.35ID:5xTnPYFn軍記物なんかでの表現様式の解説ってとこかね。
0706人間七七四年
2011/06/19(日) 16:16:00.33ID:YaR/5ZjHちゃんと本も読んで勉強しろってことなのかね
0707人間七七四年
2011/06/19(日) 16:56:41.46ID:AVTWE66B0708人間七七四年
2011/06/19(日) 17:04:58.31ID:xwjfiywu0709人間七七四年
2011/06/19(日) 18:01:32.91ID:AVTWE66B0710人間七七四年
2011/06/19(日) 18:14:12.44ID:5xTnPYFn0711人間七七四年
2011/06/19(日) 19:21:52.43ID:MM2gi0ua名家の陪臣だし下らないことであげつらわれるとかの心配あったのかもしらん
0712人間七七四年
2011/06/19(日) 20:09:31.79ID:D7MmESaL0713人間七七四年
2011/06/19(日) 20:57:53.42ID:5xTnPYFn0714人間七七四年
2011/06/19(日) 23:53:45.31ID:XNf8RfYJ0715人間七七四年
2011/06/20(月) 02:24:10.90ID:8h05fy970716人間七七四年
2011/06/20(月) 02:31:15.38ID:oisJgxDXでもミスターみたいにフリ○ンで雷切の素振りしている鬼道雪はいやだなw
0717人間七七四年
2011/06/20(月) 16:02:57.82ID:ErNDm2BDとか言い出すのか…
0718人間七七四年
2011/06/20(月) 21:54:57.53ID:8VVy8ye5仙台伝統のすずめ踊り、市民らの要望で「復活」
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110619-OYT1T00334.htm
伊達政宗の時代より続く「すずめ踊り」が、震災からの復興を目指す仙台の方々を
勇気づけている。
ところでこの「すずめ踊り」だが、これが生まれた経緯は此の様なものである。
関が原の翌慶長6年(1601)、伊達政宗は新たな本拠地を仙台に定め、ここに青葉城を建設する。
この時政宗はこの青葉城の石垣建設のため、泉州堺より石工を呼び寄せた。
後にhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1225.htmlで見られるとおり、土地改良のため
毛利家牢人川村重吉を重用したことからも解るように、伊達家はの木技術は、能力が
低かったようである。
ともかくもその石工などの活躍もあり建造は進み、慶長8年、政宗はじめ伊達家の面々が
青葉城に移る「仙台城移徒式」が行われた。
祝福の雰囲気の中、石工たちのうち4名が、政宗の前で浮かれて跳ね踊った。
即興であったと言われるが、もしかするとその故郷、堺の踊りであったかも知れない。
これがすずめ踊りの原型となったという。
と、その踊りが仙台に定着したのは何故か。
青葉城の石垣工事が済むと、伊達政宗は石工たちにこう伝えた。
「大変ご苦労であった!ところでお前たちには石垣を造ったことで、我が城の構造という
最重要軍事機密をすっかり知られてしまった!そのため帰国することは禁じ、生涯、
この仙台に住んでもらう!」
とまあ、そんなわけで堺の石工たちは仙台に抑留。このため彼らが政宗の前で踊った踊りも、
仙台にて継承された。
しかしその踊りは色々な経緯を経て、今も仙台の象徴の一つとして、仙台市民の心を
励まし、楽しませているのである。
仙台、すずめ踊りの由来である。
0719人間七七四年
2011/06/20(月) 22:18:36.82ID:lh0IdpsM抑留されたとはいえ技術の高い職人なら大切にしてくれただろうし
よかったともいえるね
0720人間七七四年
2011/06/20(月) 23:56:10.92ID:7vNDwuFZ0721人間七七四年
2011/06/21(火) 01:49:41.63ID:syROGGE2長きにわたり激戦を繰り広げた剛勇のものであった。
さて、そのころ伊達政宗は、穴沢領に隣接する桧原城にあり、そこに馬場を作って毎日
馬を責めていた。
それを聞いた穴沢俊光、村重籐の弓、鷲羽の尖り矢を手に取るとその領地である大塩を
ただ一人で立ち出て、山伝いに桧原へと侵入、そして桧原城の馬場の隅にあった二本の木の
影に隠れ、政宗が馬場のその場所まで乗り来たれば一矢で仕留めんと待ち構えた。
その日も案の定、政宗はこの馬場に出て馬を責めた。
が、運が良かったのか奇怪な感が働いたのか、彼は三度馬を走らせたが、その度に
馬場の中頃で馬を返し、ついに穴沢の潜む隅の方に来ることはなかった。
やがて政宗は城に戻り、日も暮れると、穴沢俊光は筆を取り出して矢に
『さても政宗は御運の強き弓取りである!今日、馬場の隅まで乗ってきたならこの矢を
進上つかまつったというのに!穴沢善右衛門尉』
と書いた文を結んで馬場の真ん中に立て、大塩へと帰っていった。
翌日、伊達家のものがこれを見つけ政宗に見せると、
「穴沢の計略、この上にも何があるか計りがたい。」
と、嫌な予感がしたのだろう、桧原には片倉小十郎を残し、自身は米沢へと帰っていった。
穴沢俊光、一矢で伊達政宗を引き下がらせる、と言うお話。
(会津資料叢書)
0722人間七七四年
2011/06/21(火) 14:36:13.52ID:FJKKZAuV0723人間七七四年
2011/06/21(火) 15:19:30.25ID:cVOyK4nm0724人間七七四年
2011/06/21(火) 20:57:47.20ID:cJ9TVuSS■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています