戦国ちょっと悪い話26
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0001人間七七四年
2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0725人間七七四年
2011/06/21(火) 23:57:48.82ID:RNmPWndL0726人間七七四年
2011/06/22(水) 00:16:38.32ID:w0d/BnPG私部(きさいべ)郷の地頭・毛利次郎(森二郎)が叛乱し、たちまち因幡一国を
ほぼ手中に収めるまでに勢力を拡大したのである。
とても捨て置けるような状況ではない。
この時在京していた政豊は一刻も早く但馬に帰国し、乱の鎮圧に向かおうとした。
だが・・・
政豊のもとに、次から次へと引止めの使者がやってくるのである。
細川政元の母(政豊の伯母)、政所執事・伊勢貞宗、
ついには日野富子までが政豊の屋敷を訪れ、知行地を与えるとまで言って
その帰国を慰留しようとした。
すべて、仇敵・赤松政則の策謀であった。
毛利次郎を調略し、強力に援助したのも、帰国引き止めの工作も、すべて。
山名政豊はどうにか慰留を振り切って但馬に帰国すると、伊勢貞宗に使者を送って
将軍家の態度を非難するとともに、兵を整えて因幡へ出兵。
苦戦をしながらも、やっとのことで毛利次郎を放逐することに成功したのである。
0727人間七七四年
2011/06/22(水) 00:19:58.97ID:w0d/BnPG山名元之を美作へ追い払い、そして文明15年、政豊の逆襲が開始された。
8月、政豊は本拠・但馬此隅山城を出陣、播磨・備前・美作へ侵攻したのである。
(聞、赤松分国三ヶ国山名打入云々)
しかし・・・。
ガラガラ!ゴォォーン!
出陣の翌日のことであった。此隅山城下は突如大音声に包まれたのは。
城に隣接する但馬一宮・出石神社の鳥居の横木が突然落下したのだ。
(但馬一宮鳥居、去月横木落云々、件日、山名播州出陣門出之翌日也云々)
何という不吉であろう・・・。
三条西実隆の耳にまで達し、その日記に書き残された縁起の悪い話。
播磨に攻め込んだ政豊は一時は政則を大いに破るも、長い戦いの末に惨敗を喫し、
結局何も得るところなく帰国することになるんですよね。
0728人間七七四年
2011/06/22(水) 03:32:08.67ID:YJ1UTNgV0729人間七七四年
2011/06/22(水) 07:25:48.90ID:Uoilh+uy郎党五、六人を連れて食料調達に向かった。
道中の村で五十人ほどの食事の用意を頼んでみた宗辰に、村長は快く準備を引き受けてくれた。
ひとまず安心した宗辰は、東軍の追っ手を警戒して村を巡回していたが、ある一軒家に多くの村人が集まって何事か
相談しているのを発見した。
「……宵の内か…明け方か………」などと話しているのは聞こえたが、それ以上は聞き取れない。
そこで、物見の術に秀でた郎党の大町余市に密かに聞き取らせたところ、恐るべき事を相談している事が判明した。
明智光秀・穴山梅雪の命を奪い、徳川家康をも危難に陥れた、畿内の落ち武者狩りである。
平静を装いつつ宗辰は村長に「仲間が遅れているので見てくる」と言い、愛馬を引いて郎党を連れ、村外に出た。
一町ほど進むと、宗辰に気づかなかったのか、それとも違和感を感じたのか、はるか前方に義弘一行の姿が見える。
これはいかんと馬に飛び乗った瞬間、「逃すな!」「討て討て!」と、村人たちがどこからか現れ、襲ってきた。
宗辰は必死で太刀を振るい道を切り開いたが、徒歩の郎党たちは次第に宗辰に遅れ、最後に宗辰が振り返った時には
村人に捕らえられ、袋叩きに会っていた。
(すまぬ……すまぬ!!)見捨てざるを得なかった郎党に詫びながら駆け続けた宗辰は、義弘一行に追いついた。
関が原の陣に十人の郎党を率いて参戦した宗辰だが、乱戦の中で三人が死亡、続く落ち武者狩りで五人が死亡、
残る二人も行方不明となり、薩摩に帰国できたのは宗辰一人だけだったという。
(旧記雑録より)
戦史に残る撤退戦を切り抜け、島津家が武名を高めた陰で、多くの名も無き侍たちが散った、そんな話。
0731人間七七四年
2011/06/22(水) 14:00:50.45ID:H9x5QhIUhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1415.html
これか
0733人間七七四年
2011/06/22(水) 17:33:05.53ID:McSMcLKg1000人分とか言っておけばよかったかもしれん
少人数なのがばれた
0734人間七七四年
2011/06/22(水) 20:08:12.79ID:bSqxA0UK断られてしまうわな
下手したら周囲の村と協調されて、それこそ殲滅されかねん
まあ、不馴れな土地での調達には危険が伴うわな
ましてや、ゲリラの村みたいな処なんだし
0735人間七七四年
2011/06/22(水) 23:28:02.05ID:NYISfxRj戦国の習いとはいえ、弱いものにたかる姿はなんとも・・・
0736人間七七四年
2011/06/22(水) 23:38:26.85ID:bSqxA0UK妻子襲われたりした復讐の念がこもってたりするからなあ
(無論一方的に稼ぎの場にしてる要領のいい奴もいるだろうけど)
0738人間七七四年
2011/06/23(木) 00:01:42.90ID:kMwKTiYdそのうちの一つ、願文には、このようなことが書かれてあった。
『かえすがえすこの趣、頼みたてまつり申候。めでたく、かしこ。
播磨の姫君様(千姫)にお子様が出来る度に、あなた様のお恨みの心があって、どうしたことか、差し障りの
あるように言われます。これがあなたの祟だとすれば、ご尤もなことではありますが、あなた様と播磨の姫君様は、
一度は夫婦の契りを結んだ間柄です。今後はどうかお心を入れ替えてください。偏にお頼み申します。
この上は姫君様にお子様達がお出来になって繁盛なされるようであれば、後々まで後生を弔いますから、
悔しいお気持ちをどうかお諦めになって下さい。そのために私は屋敷に秀頼様をお祀りし、ご神体として
ご自筆の書を納めます。
私の寺が存在する間は末代まで代々申しおいて、それをご神体と崇めるでしょう。
このように書きましたのは、過怠のようではありますが、後々の御為を思ってこのようにお頼みしているのです。
これからは、姫様にお子様が出来、男のお子様も女のお子様もたくさん出来てご繁盛なされるよう、どうか
守ってあげてください。
姫君様が私を頼って参られたので、このように申し上げます。
今後、お子様がご繁盛なされれば、それはあなた様のお手柄と解ります。その上私がどこであっても
申し触れまして、あなた様のお心を、生き神様と拝み申し上げます。
御袋様(淀殿)へも同じようにお願いを致します。
かまえてかまえて、姫君様へのお恨みの心はお捨てになって、お守りの神となっていただければ、
誰を頼るよりも安心です。
私も一段と忙しかったため、あなた様への供養をご無沙汰しておりましたが、どうかその事もお許しになって下さい。
かえすがえすも、ご神体としてご自筆の書を納めますので、それをご確認していただき、守り神となって
現れていただければ、いよいよ伊勢のお宮も末代まで懈怠無く盛り立てます。
是非是非ともに、姫君様がご息災で若子様姫君様共々、めでたくご繁昌いたしますように頼みたてまつり申し上げます。
元和九年九月吉日
秀頼様の御貫主 伊勢内宮 周清上人』
もうひとつの品は、豊臣秀頼自筆の『南無阿弥陀仏』の名号であった。
大坂の陣の後、千姫は姫路城主本多忠政に嫁いだ。
夫婦仲は悪くなく、一男一女をもうけたが、男子は夭折してしまった。
そして元和九年(1623)、千姫は秀頼とも親交のあった伊勢神宮の慶光院周清尼に、秀頼の供養を頼んだ。
この願文はその時のものであろう。千姫と本多忠政との間になかなか子が成せないのを、世間は秀頼の
怨念のためだと噂し、そのためこれを頼んだ、ということのようだ。
ちなみにこの願文の文章について桑田忠親氏は、「幼児を諭すような言い回し」と評した。
秀頼とも実際に親しくした周清尼の文章だけに、豊臣秀頼という人の人物像をすこしばかり垣間見せて
くれているのかも知れない。
豊臣秀頼の怨念を鎮める為の、願文についての話である。
0739人間七七四年
2011/06/23(木) 00:05:43.01ID:J1pTZL3G0740人間七七四年
2011/06/23(木) 11:21:46.74ID:PkeYVGlPオチム・シャガリ(??〜??)
6月2日に梅雪を討ちとり、6月13日には明智光秀を討ちとっている。
0741人間七七四年
2011/06/23(木) 14:19:16.37ID:VKHN7HFX0742人間七七四年
2011/06/23(木) 14:53:23.62ID:/YBxdkxCただの掃討戦の別称なのにw
0743人間七七四年
2011/06/23(木) 15:12:41.16ID:ShSLxAW7そんなオチム・シャガリさんパネェェ
0744人間七七四年
2011/06/23(木) 15:33:00.71ID:gu5VAv7J0745人間七七四年
2011/06/23(木) 16:15:23.34ID:tvgINggIオチム・シャガリ殿も侮れぬな
0746人間七七四年
2011/06/23(木) 16:59:25.36ID:2gkP1+6d0747人間七七四年
2011/06/23(木) 17:53:38.17ID:OqWWxrgG0748人間七七四年
2011/06/23(木) 19:32:41.44ID:9dr0YFDU,r::::::::::::::::::::::::::::::::::`-、
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_,. - ' ´ .i ヽ ` ニ ./
l 、 ヽ __ ,.r' -、
i ヽ ,イ
オチム・シャガリ [Osim Shagari]
(15??〜15?? 日本)
戦国時代に活躍したと伝わる謎の人物。
穴山信君や明智光秀を討ち取るなどの活躍をした農民。
彼は忍者という説もある。
0749人間七七四年
2011/06/23(木) 20:08:12.02ID:hGK2Gaf9どういう経緯で日本に渡来したのか気になるな。
0750人間七七四年
2011/06/23(木) 20:35:21.88ID:hEPi+VbP0751人間七七四年
2011/06/23(木) 20:38:52.15ID:/QWUTzUO0752人間七七四年
2011/06/23(木) 20:42:11.77ID:AVVeKCzY0753人間七七四年
2011/06/23(木) 20:45:33.85ID:sdzH1zIx0754人間七七四年
2011/06/23(木) 21:43:58.56ID:n0FzhcoV0755人間七七四年
2011/06/23(木) 23:26:04.44ID:colwvU2r0756人間七七四年
2011/06/24(金) 09:45:02.11ID:jYo7QNq1つまり、義経の末裔が日本に戻ってきていたのだ
0757人間七七四年
2011/06/24(金) 13:13:09.82ID:ZpnMCqRT0758人間七七四年
2011/06/24(金) 13:22:28.17ID:TBf6pdOb0759人間七七四年
2011/06/24(金) 13:24:50.65ID:NWlAAgWA0760人間七七四年
2011/06/25(土) 08:19:21.30ID:9OaUQx/Fでも当時の農機具は木製だよな?人を殺すにはちとしんどいな
0761人間七七四年
2011/06/25(土) 09:15:51.28ID:+wPy8F18ついに陥落。城主・穴沢新右衛門俊光は一族もろとも自害して果てた、と云う。
しかし俊光の長男・善右衛門俊次(広次)はその時たまたま小田原にあったため無事で、
その後蒲生氏郷に仕え会津に帰還した。
さて、そんな穴沢善右衛門が磐梯山にある温泉に、妻子を連れて湯治に来たときのことである。
善右衛門は湯治場の下男を連れて山の麓にある池に釣りに出かけた。
その日はいつになく魚がかかり、その面白さに二人は宿に戻るのを忘れ、日が暮れたため
近くにあった仮小屋に泊まった。
小屋の中で釣った魚を焼いて食べ、よもやまの話などをしていると、ふと、小屋の戸の方から
こちらを見ている人間が居ることに気がつく。なんと、それは善右衛門の乳母であった。
善右衛門は大いに驚き彼女を中に招き入れ、魚を再び焼いて与えると、乳母は嬉しそうにむさぼり食べた。
そうしているうちに夜も更け、3人も川の字になって眠る。…ふと、善右衛門は猫の声が聞こえる事に
気がつく。目を覚まし傍を見ると、そこにいたのは乳母はなく、真っ黒で巨大な猫であった。
「こんなところに我が乳母が来るわけもないと怪しく思っていたが、さてはこいつが磐梯山に棲むという
化猫の魔物か!」
善右衛門は刀を取って振り下ろすと、魔物は一声上げて、絶命した。
翌朝、善右衛門と下男が湯治場に戻るため山道を登っていると、駆け下りてきた湯治場の主人に
でくわした。主人は混乱した体で善右衛門に告げる
「あなたの奥様の姿が、突然見えなくなりました!」
すぐに近隣の村人にも頼み、辺り一帯の捜索をした。そして2日後、山深い沢の断崖で、大木の枝に
妻が死体となって引っかかっているのが発見された。
その木の近くには、年老いた木こりがいた。善右衛門は木を伐って妻を降ろしてほしい、と頼む。しかし木こりは
「ならばあなたが今挿している刀を貸してください」と言い出す。善右衛門は不思議に思いそれを断ると
きこりはたちまち、先日のものよりさらに大きな黒猫へと姿を変えた
「二日前お前が殺したのは我が妻であった!その怨みによりお前の妻を噛み殺し木にかけ、ここで待って
いたのだ!」
と叫ぶと木を駆け上がり善右衛門の妻の死骸を咥え、雄国山中へと飛んで行った。
善右衛門は驚き、桧原より一族を呼び寄せ猫が飛んでいった方向を探す。
そして磐梯山の西、雄国沼南東の岩場にある穴に、善右衛門の妻の死骸を咥えたまま、目を見開き
睨みつける黒猫の姿が発見された。
善右衛門とその一族は穴を取囲み、善右衛門が一刀のもとに黒猫を斬り殺す。こうして彼は妻の
亡骸を取り返した。
彼が黒猫を切った刀は、穴沢家初代俊家が盗賊文太郎を切った時に、葦名盛高より賜った家宝の名刀であったが
この後から『猫切丸』と名づけられた。そして黒猫が斬られた岩は『猫石』、その山は『猫魔ヶ岳』と
呼ばれるようになったという。
磐梯山に伝わる、猫魔の黒猫の伝説である。
0764人間七七四年
2011/06/25(土) 16:46:21.87ID:hIIeBjYi効果は猫科属性の敵に大ダメージだな、鍋島さんが喜びそうな武器だ
0765人間七七四年
2011/06/25(土) 17:13:51.88ID:LMM+bejzあと「猫切丸」っていまいち強そうじゃないよね・・・
0766人間七七四年
2011/06/25(土) 17:26:52.59ID:iIXHFcvKイメージキャラの黒猫は可愛いのに。
0767人間七七四年
2011/06/25(土) 17:59:50.15ID:i4u/sEmt0768人間七七四年
2011/06/25(土) 22:13:06.84ID:XdLaq3iVそこにあるのが猫魔スキー場。伝説にあやかったねこまんまが食堂メニューにある。
0769人間七七四年
2011/06/25(土) 23:15:48.50ID:LMM+bejz0770人間七七四年
2011/06/26(日) 01:19:47.23ID:Jyw2RwsQ京都を追放された足利義昭は河内の三好氏の下に落ち延びることになった。
その際、信長は羽柴秀吉を護衛として義昭に付けた。戦に負けてろくな戦力のない義昭一行の道中は危険極まりないからである。
秀吉の護衛のおかげで、義昭は大過なく目的地の若江城まで向かっていた。
「秀吉dクス。このまま城まで頼む。」
「悪いけど信長さまにこの辺で帰っていいって言われてんだwwwあと自力で頑張ってwww」
「えっwwwちょwwwおまっwwww」
なんと秀吉の軍勢は三好に義昭を引き渡す前にさっさと帰ってしまった。
あたりには山賊まがいの荒くれ者がうようよしていた時代である。
義昭一行がようやく三好の下にたどり着いた時には身ぐるみはがれてぼろぼろだったとさ。
教授の言うところによれば、秀吉はこの件を気にしていたので天下を取ってから義昭を悪いように扱わなかったとかなんとか。
0771人間七七四年
2011/06/26(日) 06:42:40.74ID:PCFq7I1k0772人間七七四年
2011/06/26(日) 10:16:19.29ID:I1ieeZ7O担ぐ者や従者はわざと貧相な者を選んで暗君・暴君ぶりを演出し
見物人の怒りを煽り信長の正当性を認めさせようとしたとか
何かで読んだ覚えがある
0773人間七七四年
2011/06/26(日) 17:23:54.46ID:tdjm7QRm永禄12年(1569)4月、新将軍・足利義昭が新御所である二条城に入った。
1月の三好三人衆の本圀寺襲撃を受け、70日あまりで建築された急造品だが、金の瓦が軒を連ね、銘木・巨石が
庭園を飾り、桜並木が馬場に並ぶ豪壮な御所に義昭は満足し、手づから信長に杯と太刀を下賜した。
それから間もなくしての事、御所の門前の石畳の上に、割れたハマグリの貝殻が九つ置かれていた。
「どういう意味だろう」とみな首をひねったが、ただ一人信長のみは、この話を聞いて苦笑いを漏らした。
つまり、
九つの貝が欠ける→くかいかける→公界欠ける(世間の常識に欠ける)
の意味であり、
『 世間知らずのボンボンが新宅もろうたからて、成り上がりの尾張者に良うも騙されるわww 』
という京童一流の皮肉で、落書の様に直接的な批判でないだけに責任者の追及もできず、信長は苦笑したのだ。
(戴恩記より)
0774人間七七四年
2011/06/26(日) 18:25:42.26ID:qa114GoSもしそのまま世襲して存続してれば江戸幕府もなかったかも
徳川も関白になったかもしれん
0775人間七七四年
2011/06/26(日) 18:54:46.19ID:V6rKFqJA義昭があまりにも面倒な動きをするから足利幕府を潰す形になったけど
ありゃ信長としても不本意な結果らしいから不思議
0776人間七七四年
2011/06/26(日) 19:06:43.34ID:oRN2n1N1「御輿は軽くてパーがいい」
と思ったかどうか。
0778人間七七四年
2011/06/26(日) 19:28:54.56ID:RJtwKEpJ0779人間七七四年
2011/06/26(日) 20:35:16.98ID:BohoYIwT0780人間七七四年
2011/06/27(月) 16:54:32.22ID:BCizEo5Pしかし上の者(清正)が全て手入れして自分で何でもやってしまっては下の者は、
全く学べない・失敗しない で人材が全く育たない悪い話し
0781人間七七四年
2011/06/27(月) 20:17:49.35ID:q8ygSXuU0782人間七七四年
2011/06/28(火) 01:20:19.43ID:R3Ex85MO世界史板某スレで「楽をするなら」理想の上司 、と言われてたな
ただし息子に代替わりする前にお暇しないとw
0783人間七七四年
2011/06/28(火) 08:41:02.08ID:i7Sb0jlp黒田如水は心安い御伽衆の者たちだけとで、こんな話をした。
「我が家中の子供たちは皆、利発そうに見えるな。甲斐守(長政)は本当に幸せだ。」
そんな事を言って喜び、御伽衆の者たちもそれぞれに能いと思うところを誉めて、座敷の空気に
合った話をした。
と、そんな所に如水
「ところで誰々の子の何某は見かけがとても鈍重そうだ。あれは内心、うつけじゃないかと思っている。」
と言い出した。これには御伽衆の者たち、何某を気の毒に思い
「御意のとおり、見かけはいささか鈍重で、うつけた様に見えるかも知れません。ですが内心はとても
活発な方で、少しも物事をぬかるような事はなく、底堅い性格でございます。」
如水これを聞くと
「さてさて、惜しいことかな。
既に主人の心を知り、主人にも心底を能く見られた者ならば、見かけが鈍重で実は底堅いと言うのも、
主人に愛され、その身のためにも良いだろう。
だがそういう主人との信頼関係が出来ないうちから、見かけがたわけているのは損の多いことだ。
内面に利発さを持っているのなら、その表面と内面をひっくり返せと言ってやれ!
内心の利発さなんてものは、後から入ってくるよ。
まずは表面に見える人品が確かであることが重要なんだ。
だいたい惜しむべき利発を心の底に隠していちゃあ、一体何の用に立つんだい?」
そういって笑ったそうだ。
黒田如水の語る、見かけと内面についての話である。
(古郷物語)
0784人間七七四年
2011/06/28(火) 21:41:11.93ID:M5sOdbQv0785人間七七四年
2011/06/28(火) 21:58:04.68ID:1OzaalEx0786人間七七四年
2011/06/28(火) 22:00:19.52ID:MDHvXnls0787人間七七四年
2011/06/28(火) 22:02:36.05ID:f/TKZhK2如水って絶対友達少ないタイプだな。嫌味ったらしくてたまらん
0788人間七七四年
2011/06/28(火) 22:22:11.90ID:hUoiLMkO馬鹿者こそ、われに仕えよ。神算鬼謀の人に育てよう。
愚鈍なる者こそ、わが元で励め、三国一の賢者にして見せよう。
by 立花道雪
クロカンは捻り過ぎて、失敗するタイプ
0789人間七七四年
2011/06/28(火) 22:31:17.08ID:8uopLK89「内面が優れてても、外面がダラしないんじゃ意味無いよ」って。
0790人間七七四年
2011/06/28(火) 23:55:10.84ID:qpiPS7kbと紛う事無きブサメンが呟いてみる。
つかやっぱ第一印象ですよ、色々と。
0791人間七七四年
2011/06/29(水) 00:06:12.34ID:DXSMICdfいや、考えがポンポン出てきて話がややこしくなるタイプではないかな
猛烈な論理と発想力があるんだけど、思考が高速で飛躍しすぎちゃうんだよね
小早川に「お前さんは賢いけど即断癖があるね」みたいなこと言われてたし
0792人間七七四年
2011/06/29(水) 00:32:19.43ID:uxckojW9知恵は有り余ってるけどこいつ一人に全部任せるのは危うい、みたいな。
0793人間七七四年
2011/06/29(水) 01:15:43.66ID:yk+nYHkhこれかな?
土井利勝、人の印象
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4143.html
0794人間七七四年
2011/06/29(水) 01:51:23.45ID:9BXiDO33「能ある鷹は爪を隠す」のように爪を隠しているつもりなのに
爪がでか過ぎて隠しきれていないという感じのどこかひょうきんな所があるw
0795人間七七四年
2011/06/29(水) 15:41:45.27ID:0tuxD236今の就職活動でも面接で一番大事なのは
外見含めた第一印象だっていうからな
如水さんがどこかひょうきんなのは同意w
0796人間七七四年
2011/06/29(水) 17:21:05.98ID:hoKJeHpr宣教師の何かで「日本人は傷痕が残るのを誇る」みたいなのを読んだ覚えがあるけど
歴戦の武士の外見は現代からすると
かなりおどろおどろしかったんだろうか。
0797人間七七四年
2011/06/29(水) 18:12:57.25ID:hoI4lCBT井伊直孝というと、自身や家臣達に質素倹約を徹底した事が度々いい話・悪い話スレに上がっている。
そんな彼の価値観を偲ぶ逸話がある。
ある日、とある幕臣が金に困り、手持ちの高麗茶碗を七十両で手放したいと直孝の元にやってきた。
この幕臣は直孝に憚ったのか、茶碗と共に小堀遠州の書翰を数冊渡した。
直孝は承知してこれらを買った。だが幕臣が帰った後、高麗茶碗を手に取って語った。
「わしはこの茶碗が欲しくて七十両を払ったわけではない。あの男の貧窮を助けねばならぬと思ったから買い取ったのだ。
そもそも、こんなものがなければ、かの者はこんな目に合わずに済んだのだ。」
そう言うと直孝は茶碗を庭石目がけて投げつけ、小堀遠州の書翰も火にくべて燃やしてしまった。
(家光・。十一名臣/徳永真一郎より 出典元不明)
>>796
現在進行形で引きこもってるが、たまに社会復帰セミナーで出会う奴は大概肌が荒れてたりする。
日光が当たらなかったり、運動不足なんかで新陳代謝が悪くなるきらいはあるな。
0798人間七七四年
2011/06/29(水) 18:16:26.67ID:tIRRXuOS0799人間七七四年
2011/06/29(水) 19:31:08.90ID:58mWrJu60800人間七七四年
2011/06/29(水) 19:54:19.62ID:9BXiDO33>>797殿、見事な破調の美にて候」
0801人間七七四年
2011/06/29(水) 21:27:56.14ID:g4WGZn07(´●ω・`) 小十郎よ…、わしの隻眼はものを見ることは出来ぬ…。
(`●ω・´) だが!
833 名前:新しい名無し案投票受付中@自治スレにて[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 05:10:46 ID:4X2XJOM/
(`●ω●´) 何も見bヲぬ!
835 名前:新しい名無し案投票受付中@自治スレにて[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 05:47:15 ID:jhpLGOp1
┌●―●┐
(`3ω3´)
0802人間七七四年
2011/06/30(木) 00:49:54.08ID:kfCKUXv9元の場所にないし、ググったら来月発売の2巻に(完)って……
まだ出てきてない逸話いっぱいあるのに
0803人間七七四年
2011/06/30(木) 02:06:10.63ID:4vvT1gjs媒体自体なくなるらしいね。
キガタも終わっちまったのに。
0804人間七七四年
2011/06/30(木) 13:47:42.40ID:v9LWLSip確かに彦根藩って大藩の割に伝来の茶器に名物は少ないんだよな。
(幕末には有名な茶人大名が出てるけど)
直考がらみの茶器ってこれくらいかな。
http://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/items/index.html
0805人間七七四年
2011/06/30(木) 13:49:12.04ID:v9LWLSip「宮王肩衝茶入れ」
0806人間七七四年
2011/06/30(木) 17:08:07.51ID:hFy0+Ryrだが同年5月、熊本に帰る船中で体調を崩し、それから病状は日々悪化。熊本に着城して2,3日過ぎた頃には
舌が不自由になり物を言うことさえ出来なくなった。
医師たちは加藤家の重臣たちに「脈も宜しくなく、回復されるのは難しいと思います」と伝える。
これにより加藤家一門、並びに城代を勤める重臣たちが緊急に集まり話し合いをした。そして
『清正が本復されるということはもはや、十に一つと言うのも難しいほどの状況である。
未だ生きておられるうちに、駿河まで使者を遣わして、清正の言葉として
「私の病状は次第に重くなり、今回ばかりは助からないものと考えています。私が相果てた場合、
我が嫡男である虎藤(加藤忠広)は未だ若年(当時10歳)でありますれば、どうか宜しき様にお頼み申し上げます。」
これを本多上野介(正純)殿まで申し遣わすべきだ』
一同そうするのが良いと皆賛成し、これは決まった。
ところがである。一体誰を使者として遣わすべきか、という所でこの話はいきなり行き詰まった。
皆このように思い、自分が行くと言い出すものが居なかったのだ。
『もし殿が回復なされた場合、「自分に勝手に、誰の指図でこの者を遣わしたのだ!?」と尋ねられたら
一体どうすればいいのか?』
これには理由がある。清正は常々、家の運営を任せる家老というものを置かなかった。
自分に近い一門衆にももっぱら支城を任せており、全ての仕置は清正が自身で言いつけていたのだ。
加藤家では、清正の命令によらずに何かをするという事が、ありえなかったのである。
一門・重臣の者たち困り果て、ついに入札(投票)によって使者を決めよう、と言うことになった。
そして入札の結果、飯田覚兵衛、和田備中の両名に、その場の全ての票が集まった。
そこで飯田覚兵衛には駿府への使いを、和田備中には、当時清正と同じく重病に陥っていた紀州の
浅野幸長の元への見舞いに遣わせる、と決まった(この程度のことすら清正の命令なしには決められなかったのである)
しかし和田備中はこれに
「皆様の仰せに背くわけではありませんが、私は長いあいだ江戸詰めをしていて、それから紀州に使いに行き、
ようやく熊本に帰ったばかりの所です。その上今度は大事の御使でありますから、皆様方どうかこの事は
御免あるように。」
達てその役を辞そうとした。だが一門の者たちは
「皆が入札によって、そなたと角兵衛を遣わせると決めたのだ。この上はもし殿が御本復されたとしても、
その是非を仰せになるような事はない!一刻も早く支度をして、出発するのだ!其方の帰ってくるのを
首を長くして待っている」
こうして飯田・和田の両名は支度をして5月18日卯の刻(午前5〜7時)、清正の病床に伺候して枕元近くに寄り、
今回の使者の件を申し上げる。これに清正は一言も発すること無く、目を少しだけ開き、ただ頷きながら
涙ぐんでいた。
これを見て両名も、今回の使いが清正との、長き別れの暇乞いとなると察し涙をぬぐい、
その場から使いに出発した。
加藤家、使者を入札で決める。というお話。
(續撰清正記)
0807人間七七四年
2011/06/30(木) 17:16:56.85ID:Jy5VB5Be0808人間七七四年
2011/06/30(木) 17:17:19.11ID:lXeY4ZXM0809人間七七四年
2011/06/30(木) 17:56:55.68ID:hLvWxR/90810人間七七四年
2011/06/30(木) 18:01:24.67ID:4F7OT/lLつーか二条城会見が3月、清正の発病が5月、死んだのが6月24日だから、
そんな異常な遅効性の毒薬はこの時代存在しないわなw
0811人間七七四年
2011/06/30(木) 18:03:55.36ID:oEytGaTb0812人間七七四年
2011/06/30(木) 19:57:40.61ID:S+aTFjav0813人間七七四年
2011/06/30(木) 20:07:24.22ID:4F7OT/lLこの当時の清正の一門(血縁)は加藤正方、片岡吉方、加藤正直、加藤正次、
中川寿林斎、中村将監あたりか。
0814人間七七四年
2011/07/01(金) 00:16:12.21ID:KX1RcR6S彼の権威はまさに絶頂にあった。
が、その一方で2月には千利休を切腹させ、8月には愛息鶴松が夭折するなど、その陰りも見せ始めた
頃である。
さて、その年の11月、「長せ河忠実」という人物が、京で詠まれた落首を書き写したとされるものが
今に残っている。それは、以下のようなものである。
・石普請城こしらえも要らぬもの 安土小田原見るにつけても
・寺々の夕べの鐘の声聞けば 寺領取られて何としようや
・村々に乞食の種も尽きずまじ 搾り取らるる公状の米
・まつせ(末世)とはべち(別)にはあらじ木の下の さる関白を見るにつけても
・おしつけてゆえばゆわるる十らく(聚楽)の 都の内は一らくもなし
・十ぶんになればこぼるゝ世の中を 御存知なきはうんのすへ哉
秀吉の絶頂期において、彼の政権への批判の声の記録である。
0815人間七七四年
2011/07/01(金) 01:06:37.23ID:xt0rHY0p0816人間七七四年
2011/07/01(金) 02:22:58.67ID:RxK47LUQ★リンクアンドモチベーション★
* 新卒内定辞退強要事件。被害者の間宮理沙さんはベイカレント本を出版。
* 執行役員が、休職・退職強要、産業スパイ実行を指示。
* ハイリスクの違法事前面接が事業存続(BCP)の絶対条件。
0818人間七七四年
2011/07/01(金) 04:03:06.72ID:bFBErjJD破傷風なら確実では無いが狙って発病させる事は可能だとは思う
それなりに条件が必要だけど発病方法とかは当時でも分かってんだよな
0819人間七七四年
2011/07/01(金) 13:50:36.74ID:K5lLW/SQ0820人間七七四年
2011/07/01(金) 14:14:56.29ID:Jevijf8l0821人間七七四年
2011/07/01(金) 19:04:12.12ID:ky7G3nda実際にはあの時清正に死なれて困ったのは豊臣よりも幕府の方だわな。
清正は二条城会談という、豊臣が徳川に屈服する儀式の実現に奔走し、成功させたわけで、
つまり豊臣を徳川の下位に位置付け、抑えこむことが出来たのが清正だった。
清正の死で幕府は豊臣家をコントロールする最大のツールを失った。
0822人間七七四年
2011/07/01(金) 19:14:24.18ID:B1EpI9XY豊臣65万石という巨大な不安要素をそのまま保存してコントロールする気だったとは到底・・・
清正が死ぬ死なぬに関わらず大阪が潰されるのは既定路線だっただろ
0823人間七七四年
2011/07/01(金) 19:26:14.54ID:Y0uM5vyEかと言って毒殺っは飛躍しすぎだけどな、清正クラスの大物暗殺なんて万が一にでも露見したら
それこそただじゃ済まんだろう。紀州徳川頼宣の義父でもあるわけだし身内にも容赦ねえ、って思われたら
その後の豊臣との戦で豊臣に傾く奴も出るかもしれんだろう。
0824人間七七四年
2011/07/01(金) 19:46:25.58ID:7/KU4e+h豊臣を一公家として生かしておく道もあったから
何が何でも潰す方針じゃあなかったと思うよ
清正生きてたら渋々でもその方向に尽力した可能性高いし
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