戦国ちょっと悪い話26
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0001人間七七四年
2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1302853897/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0288人間七七四年
2011/05/20(金) 19:27:08.05ID:rklj0PMC0289人間七七四年
2011/05/20(金) 20:02:55.76ID:LEMCF2+n弓の方が技術的には難しいという所には同意しつつ
残念ながら、極めても生じてしまう仕方ない誤差がありまして
そっちは多分鉄砲の方が大きい
0290人間七七四年
2011/05/20(金) 20:12:17.47ID:Zd2Wrnlo0291人間七七四年
2011/05/20(金) 20:45:27.51ID:M5/nOUUWそうなんだよね、立花鉄砲隊は「早合」(弾薬カートリッジ)を使ってて他隊の三倍の速さで
連射できたらしいし。良く聞くのは、蛍大名の大津籠城戦で立花隊に面した銃眼だけ
閉め切られてた(=銃眼から撃とうとすると三倍返しされる)とか。
0292人間七七四年
2011/05/20(金) 21:09:00.77ID:M5/nOUUWこれって「百姓でもまっすぐ飛ばせるこの道具で外した長政(笑)」っていう皮肉だったら
宗茂の悪い話にできるんだがw 碧蹄館の英雄、そのぐらい傲ってほしいものである。
0293人間七七四年
2011/05/20(金) 21:26:31.54ID:c7CCic900294人間七七四年
2011/05/20(金) 23:02:31.88ID:t9E3gFGk彼はこんな事も言ったそうだ
「秀頼が成長し、男子でも女子でも、子供を設けるほどになるまでこの世に長らえれば、
初めて秀頼の子を産んだものには、どんなに身分の低い者の娘でも構わない、
先ず黄金千枚を、当座の引き出物として取らせようぞ!」
さて慶長20年(1615)5月8日豊臣秀頼切腹。大阪夏の陣が終わる。
当時未だ7歳であった豊臣秀頼の子国松は、大阪城より脱出し伏見の町家に
潜伏していたが、幕府の探索により程なく捕縛され、二条城に連行された。そして
「未だ幼児であり、今回の戦争に対して何を知るというわけもないが、
大敵の子であり、また男子である以上、助けおけば将来の患ともなるだろう。」
と、処刑されることに決まり、その身柄は京都所司代・板倉勝重の屋敷に移された。
勝重は国松を風呂に入れ衣服を与えるなど丁重に扱う。そしてこの少年に話しかけた
「お名前はなんと言われるのですか?」
国松はこの問に不思議そうに
「名前…?私に名前はありません。」
「お名前が無い?それは…」
「はい。皆は私のことを、殿様とばかり呼びます。」
これを聞いた人々は皆、思わず涙したという。
そして5月23日、国松は市中引き回しの上、京都六条河原で斬首された。
豊臣秀頼の子、国松についての逸話である
(大阪物語)
0295人間七七四年
2011/05/21(土) 08:13:31.68ID:Q0nwCkLS0296人間七七四年
2011/05/21(土) 08:23:55.93ID:xQwuvk/k0297人間七七四年
2011/05/21(土) 11:53:50.66ID:sxuPEsPJしたとか言う話もあったなどこで見たか忘れたけど
0298人間七七四年
2011/05/21(土) 11:54:53.21ID:mWINSonv肥前名護屋の陣営でのこと。
ある日、曾呂利新左衛門が外から秀吉の本陣に入ってくると、突然語ることには
「殿下!世にも不思議なるものがあるものですね!
臣はただいま陣の手前でとても奇妙なものを見ました!」
秀吉、これに興味を持ったか
「新左衛門は慌ただしいのう。奇妙なものとは一体、何を見たのだ?」
「さればでございます。『キウリ』が胡瓜を食っておりました!」
「なにっ?胡瓜が胡瓜を食っておったと?新左衛門、たわけたことを申すな。
口のない胡瓜がどうして胡瓜の共食いをするものか。たわけにも程があるわ!
まあ、これもお前のいつもの戯れだろうが。」
しかし曾呂利引き下がらない
「いや、確かに食っておりました!これは相違ございません!」
秀吉と曾呂利は食わない食ったと言い争ったが、これでは埒が明かぬと秀吉、
傍らに居た家臣に「誰ぞある!?まこと、果たして胡瓜が胡瓜を食っておるか、急いで行って
見て参れ!」
家臣の一人、「ははっ」と答え陣の外まで出て、あたりを見回す。当然のことだが
胡瓜が胡瓜を食っている様子は、ない。それでも、何事も見落としてはならぬと
キョロキョロと見回す。
「しかし胡瓜が胡瓜を喰うなどとあるわけが…、 はっ!?」
この家臣が戻ってくると、秀吉は急かすように尋ねた
「どうじゃ!?胡瓜が胡瓜を食っておったか!?」
「それがでございます。胡瓜が胡瓜を食っている様子は見えませんでした。」
秀吉、そら見たものかという顔を曾呂利に向ける。が、家臣続けて
「それは無かったのですが…」
「ですが?」
「ははっ、陣営の外では、背中に薪を背負っている薪売り(きうり)が胡瓜を食って
おりました。」
秀吉あきれ返って
「なんじゃと!?薪売り(きうり)が胡瓜を食っておったと!?
さては新左衛門めにたぶらかされたか!なるほど、胡瓜が胡瓜ではなく
薪売りが胡瓜か!」
曾呂利、澄ました顔で
「仰せの通りにございます」
これに秀吉
「おのれ、また誑かしおったな!」
と笑って叱りつけたという。
『太閤之腰巾着曾呂利新左衛門』より、曽呂利頓知話の一席
0300人間七七四年
2011/05/21(土) 12:25:44.51ID:sh/tXUV10302人間七七四年
2011/05/21(土) 13:11:56.46ID:nId1lM+dコレ、頓知じゃなくて駄洒落じゃね?
0303人間七七四年
2011/05/21(土) 13:29:55.09ID:6g+Bu5220304人間七七四年
2011/05/21(土) 13:43:00.60ID:hfmandWt曾呂利の演出家として伊達政宗を呼んだらどうか
0306人間七七四年
2011/05/22(日) 10:58:43.42ID:pREYxGOs0307人間七七四年
2011/05/22(日) 11:36:37.05ID:uaq2z6sG0308人間七七四年
2011/05/22(日) 12:39:12.84ID:iND0nGHn0309人間七七四年
2011/05/22(日) 13:41:37.42ID:dD1qMWd/源氏の血筋を皆殺しに!」
これが出来なかった平家は見事に滅んだからな
源平が基礎教養である以上殺すしかない。
殺さなければ天下の持ち主として資質不足とみなされる。
0310人間七七四年
2011/05/22(日) 15:12:10.98ID:G/DuGe870311人間七七四年
2011/05/22(日) 15:15:33.22ID:OslqlfV40313人間七七四年
2011/05/22(日) 15:56:36.84ID:+NxwGV0h0314人間七七四年
2011/05/22(日) 16:20:55.72ID:OslqlfV40315人間七七四年
2011/05/22(日) 18:38:27.08ID:uaq2z6sG0316人間七七四年
2011/05/22(日) 18:41:10.36ID:WyJXsj8a0317人間七七四年
2011/05/22(日) 19:19:14.33ID:azWmqE0V三浦一族を滅ぼさんと、一族が立て篭もる新井城を攻めた
名将と言われた三浦同寸と、豪傑で知られたその息子義同は
鉄壁の守りの構えを崩すことなく奮戦したが、
足掛け七年の篭城の末、早雲に退路も兵糧も断たれ
永正十五年七月、ついに華々しい血戦に討って出で、親子共に自害した
ところがこの時自害し、落とされた義同の首は、落とされた途端空に舞い上がり
小田原にまで飛んで行き、とある街道沿いの松の木の枝に引っ掛かった
既に首だけとなったにも関わらず、義同は両眼を爛々と見開き、怒髪天をつく恐ろしい形相で
松の木の近くを通った者は、その首を見ただけで死んでしまう
その話を聞いた総世寺という寺の住職であった忠室存孝という人が
小田原を訪ねると、首に向かって静かに歌を詠んだ
「うつつとも夢とも知らぬひとねむり憂世のひまをあけぼのの空」
すると、生きているようだった義同の首は音を立てて落ち
忽ち目を閉じたかと思うと白骨化してシャレコウベとなった
落ちる時、天から誰の声とも知れぬ声で
「今より永く当所の守護神となるべし」
と聞こえた
その話を聞いた当地の人々は、松の下に祠を建て、義同を祭ったという
今も小田原に残る「居神神社」の由来話である
武家の歴史は潰し潰され
一人の武士生きるに一人の武士の血を吸う…
なーんてね
0318人間七七四年
2011/05/22(日) 19:22:55.29ID:eZVnhGlS生きてるうちに飛んどけっての。
0319人間七七四年
2011/05/22(日) 19:27:48.48ID:pYDzCk1Fに漂ったから
子供の頃油壺マリンパーク行った時は知らんかったが
0321人間七七四年
2011/05/22(日) 20:28:23.15ID:hOvIpklRちなみにこれhttp://www.paperbirch.com/sakura/
0323人間七七四年
2011/05/23(月) 21:16:29.36ID:mwdms74Z0324人間七七四年
2011/05/23(月) 23:22:58.99ID:qLiEMwnL同寸の息子は、リンク先の霊界通信によると 荒次郎義光とあるし
wikiでは荒次郎義意となっているね
0325人間七七四年
2011/05/24(火) 00:10:47.01ID:WEJ8qK8wあ、謝っとけ!将門公に!
例えこの程度でもちっさい不幸が訪れるぞマジで!
近いうちに足の小指を強打するぞマジで!
0326人間七七四年
2011/05/24(火) 10:15:18.83ID:CsLy+1Vo元亀3年(1572)春、かれは讃岐において鷹狩をした。
木太郷の深江と言う場所で長治自ら、鴨の群れにあわせて鷹を放つ。
鷹は鴨を掴み、そのまま真部の見勇利権之助という者の家の前に落ちた。
この時、権之助の家に使えていた若松というまだ幼い少年がこれを見つけ、恐ろしい物が
落ちてきたと思ったのであろうか、火焚き棒で鷹、鴨ともども打ち殺してしまった。
長治はこれを知ると激怒し、その少年を捕らえさせ「牛裂きにせよ!」と命ずる。
少年は両足を牛二匹に縄で結び付けられ、牛を左右に追分け両足を二方に引き裂いた。
人々はこれを見て恐れ震え
「あの子供は是非をわきまえてあんな事をしたわけではないのに、その刑罰は
あまりに暴虐にして無道である。」と口々に語り、多くの人心が三好氏から離反した、と言われる。
三好長治讃州鷹狩での逸話である。
(南海治乱記)
0327人間七七四年
2011/05/24(火) 20:05:43.43ID:r5NEHAt80328人間七七四年
2011/05/24(火) 23:04:52.39ID:pCDoygftん、被ってるけど一応内容が少し違うな
しかし流石やな長治さんは
まだまだ長治で出てない逸話あるし、暫くしたら悪い逸話で埋め尽くしてやるから覚悟しろよ
0329人間七七四年
2011/05/24(火) 23:07:35.92ID:QL0FZWax0330人間七七四年
2011/05/24(火) 23:08:58.01ID:LhxhfTtGおーい竜馬の話だが
0331人間七七四年
2011/05/24(火) 23:13:33.20ID:grK3Fn9f森 長可
伊達政宗
細川忠興
島津忠恒
坂崎直盛 New!
三好長治 New!
0332人間七七四年
2011/05/24(火) 23:26:27.14ID:2kgyWBz/0333人間七七四年
2011/05/24(火) 23:29:27.33ID:GP3W6zr30334人間七七四年
2011/05/24(火) 23:30:58.09ID:sqJuy1mPいまいち仲間が思いつかないが
0335人間七七四年
2011/05/24(火) 23:32:51.06ID:S9u8Kl4+0336人間七七四年
2011/05/24(火) 23:33:51.73ID:r6/TZ2Th価値を知らない人に打ち殺されたらブチギレるのも当然かという気もするが。
今の感覚だと高級車や時計をボコボコに壊されるようなもんでしょ。
0337人間七七四年
2011/05/24(火) 23:40:17.75ID:/rEAToCLどこぞの知事の高級車を子どもがふざけて傷つけてしまった時に、
その知事が子供をボコボコにしたら問題になると思わんか?
領主の器じゃないってことじゃないの?
0338人間七七四年
2011/05/24(火) 23:54:47.06ID:vUG+5j5iそこにしびれるあこがれる部分が無いと四天王には入れない
0339人間七七四年
2011/05/24(火) 23:56:25.51ID:FmgHjZnm0340人間七七四年
2011/05/24(火) 23:57:43.66ID:qoO2jXLS0342人間七七四年
2011/05/25(水) 00:06:56.31ID:sJIc8+44>>341
大関さんもそっちに分別かな
0343人間七七四年
2011/05/25(水) 00:13:10.01ID:bFLd78p/優秀なはずなのになんで…っていうのが他の人には足りない
0344人間七七四年
2011/05/25(水) 00:59:25.87ID:ze8QBCKh0345人間七七四年
2011/05/25(水) 01:04:15.24ID:BdT7rFeQDQNというより酒乱枠だと思う
0346人間七七四年
2011/05/25(水) 01:08:33.57ID:ZJ1xku1n0347人間七七四年
2011/05/25(水) 01:36:14.24ID:T4zBUTx8人質を要求する。この時家康の次男、於義丸(後の結城秀康)が送られたことは有名であるが、
実は秀吉方が最初人質として要求していたのは、この於義丸ではなかった。
秀吉が望んだ人質は、家康の異父弟、松平定勝であった。
この秀吉からの要求を家康も基本的に受け入れた。
が、大阪に定勝を出すことに強硬に反対する人物が現れた。家康の実母、於大の方である。
彼女は家康に向かって深く嘆き、
「三郎四郎(定勝)の兄である源三郎(久松俊勝)は最初今川家の人質となり、
その後武田信玄の駿河侵攻で甲斐に連れて行かれ、そこからどうにか脱走してきたものの
雪山の中を逃げたため手足の指が東証により皆落ち、世に交われるような体では
なくなってしまいました。
今またこの子まで、人質として都に送らずともよいではありませんか!」
と、泣き口説いた。
家康が人質として苦労したことは皆知るところであるが、於大の再婚相手の子も
このように人質で不幸な目にあっていた、どうもこの人の子は、人質運が悪いというべきであろうか。
ともかくも実母にこのように泣かれ、さすがの家康もこれを無視することもできず、
仕方なく定勝に変わり、我が子於義丸を秀吉の人質にすることになったのだという。
この後しばらく家康は、「これは三郎四郎(定勝)が人質に行きたくなくて母上に訴えたからに
違いない!」と、定勝に対して大いに怒っていたが、そのうちにそれが誤解だと解り、家康の怒りも
溶けたのだそうだ。
家康が秀吉の元に於義丸を人質に出すまでの過程である。
(藩翰譜)
0348人間七七四年
2011/05/25(水) 02:09:11.55ID:l/Xv3Cph0350人間七七四年
2011/05/25(水) 02:14:36.03ID:YeMg+mJ80352人間七七四年
2011/05/25(水) 02:28:05.89ID:9/SVmQhP異父兄弟だとなんか嫌な感じがするな・・・
母ちゃんビッチかよって思われるし
0353人間七七四年
2011/05/25(水) 02:42:09.36ID:e/Bk1vnC女の再婚も多いから平気だろ。
むしろ経産婦は石女じゃないと判っているだけ歓迎されたような話も聞くが。
0355人間七七四年
2011/05/25(水) 03:00:39.73ID:9/SVmQhP最近だと、普通の弟だった説が有力らしいな
0356人間七七四年
2011/05/25(水) 06:30:35.77ID:JdWKgAgQ0357人間七七四年
2011/05/25(水) 10:27:54.71ID:MYE9pJba0359人間七七四年
2011/05/25(水) 15:13:09.77ID:ZhYEM9Lohttp://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/stadium/1284945746/l50
オマイが知ってる悪人を教えろや!
0360人間七七四年
2011/05/25(水) 21:12:51.05ID:LFcpA/Wn信虎「略奪の定番アイテムでもあるんだよなこれが」
正昌「しかも返品交換の対象でもあるんだよな、御屋形」
0364人間七七四年
2011/05/26(木) 01:10:14.55ID:bQC6Y/jz花井三九郎って連れ子の姉の夫でしょ?
余談だけどググってみたら「捨て童子」ってタカラヅカになってんのなw
0365人間七七四年
2011/05/26(木) 05:26:36.60ID:T/1x5PXR市松や坂崎さんにはそこが後一歩足りない
的確に時代の勝利者を見抜く感覚はあるのに
0366人間七七四年
2011/05/26(木) 05:47:09.27ID:oMjZ3AjG0367人間七七四年
2011/05/26(木) 08:42:15.81ID:Eh/D9loi0368人間七七四年
2011/05/26(木) 18:53:35.03ID:KTOeap1Ghttp://w3.bs-tbs.co.jp/no2/backnumber.html
第5回からの4人が全員徳川家康の「ナンバー2」な件
というか家康は何人ナンバー2がいるんだ?そもそもナンバー2は何人も居るものなのか?w
0369人間七七四年
2011/05/26(木) 19:22:38.19ID:aGYQVjI6あれだ、野球で言う左のエースみたいなもんだ
若手ナンバー2が直政、古参のナンバー2が正信、外様のナンバー2が高虎みたいな感じで
0371人間七七四年
2011/05/26(木) 19:25:19.23ID:QycOB8dK0372人間七七四年
2011/05/26(木) 19:46:15.88ID:/IrAXtXm景勝≒アンスナバッハ
フェザーン≒一向宗
多分、当てはめていけば、きりがないだろうな
0373人間七七四年
2011/05/26(木) 19:48:34.62ID:/vfN1YbQ0374人間七七四年
2011/05/26(木) 19:52:52.26ID:LZSdL2Zo秀吉にも、奉行系のナンバー2と大老系のナンバー2がいるんですね・・・秀吉にとってのナンバー2って、秀長でその死後は家康なんじゃないかなあ?
0376人間七七四年
2011/05/26(木) 21:46:03.98ID:jmqhAb78この時遠州井伊家当主、井伊直盛も共に討死をする。
井伊家の家督は直盛の養子、井伊直親が継いた。
さて、同5年(1562)春、井伊直親の家臣である小野但馬という者、主人を恨むこと有り
今川氏真の元に参って密かに告げる。
「肥後守(井伊直親)は織田徳川と通じ、御屋形様に叛こうとしております!」
氏真はこれを信じ、大いに怒った。「井伊が叛いた!急ぎ井伊を退治すべし!」
しかし今川氏の一族であり、直親の友人でもある新野左馬之助は興奮する氏真を強く諌めた
「私は直親と長年親しくしており、彼の心の中も良く存じております。
直親は当家に二心を持つような人間ではありません!これはおそらく、讒人の申したことに
違い有りません。どうか、事の真偽を究明あるまで、御追討はお止めください!」
そして左馬之助は井伊の元に使いを出し、かくかくと状況を知らせる。
直親もこれに大いに驚き
「直親は先祖以来、今川殿の被官となってよりこのかた、累代において後ろめたき事は有りませんでした。
中でも養父である直盛は、故義元公のお供をして、桶狭間の合戦で討ち死にしました。
であれば、あの信長はご主君の仇というだけでなく、この直親にとっても父の仇であるのに、どうして御屋形様に
叛いて、君父重讐の相手に組するのでしょうか!?
この旨を持って、私に誤りの無いことをどうか、申開きしてください。」
そう、左馬之助の使いに託した。
ところが、これを聞いた氏真は
「いやいや、領地に居ながらにして陳じるというのでは疑いを解くことは出来ない!
駿府に参って申開きをせよ!」
と言う。直親もこれを受け入れる。このとき直親は「現在不信を被っている身が
郎党を多く引き連れていくのは宜しくない」と、主従わずか20人にて駿府へと向かった。
途中、掛川に差し掛かった所での事である。
完全武装した掛川城主・朝比奈備中守の軍勢2,300騎が突然、この井伊家の一行を襲った。
彼らは一行を大勢で取り巻き、一人も残さず討ち果たした。
この時井伊家は事実上、壊滅した。
直親にはこの時僅か2歳の男子・虎松があり、これも氏真により誅殺されるところを、井伊討伐に反対していた
新野左馬之助がその身だけはなんとか守り、命を助けた。
この時助けられた虎松こそ、言うまでもなく井伊家を再興する、後の井伊直政である。
今川氏真による、井伊家粛清についての話である。
(藩翰譜)
0377人間七七四年
2011/05/26(木) 21:50:14.74ID:MYzACahMというか、直政さんってオレの中では急に登場する感じなんだよな〜
0378人間七七四年
2011/05/26(木) 21:53:25.83ID:xFONMq26松永「三好家で重鎮の立場にいたわしもNO.2みたいなもの」
直家「浦上家随一の実力者のわしもNO.2と呼ばれてもいいですな」
0379人間七七四年
2011/05/26(木) 23:01:13.55ID:WURHk3pIttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%B0%BE%E9%80%A3%E7%AB%9C
ここに新野親矩という名前でちょこっとだけ出てるよ
0380人間七七四年
2011/05/26(木) 23:50:57.45ID:4EgGwTpbマザー2のモグラみたいなことになってきたなwww
0381人間七七四年
2011/05/27(金) 01:17:17.61ID:2Zd6Kyeu0382人間七七四年
2011/05/27(金) 01:58:33.30ID:/kq3CsKx関白豊臣秀次謀反の噂高まった頃、当時京の徳川家の屋敷には、当時16歳の徳川秀忠があった。
秀次はこれに目をつけ、たばかって秀忠の身の上を確保し、その上で人質を盾に
徳川家康を頼って太閤秀吉に申開きをすべし、と考える。
4月3日の早朝、徳川家の屋敷に秀次よりの使者が来た
これに対応したのは徳川家重臣、多くも忠隣である。
「今朝は朝食をご馳走したい。どうぞ聚楽へと参るように。本来なら昨夜のうちに
伝えておくべきだったが、いささか事にまぎれてしまい、今になった。」
使者はそう忠隣に語り、直ぐに秀忠をつれてくるよう要求する。が、忠隣これに
「仰せ、承りました。ですがその…、秀忠様はまだ幼く、いつも日が高く上がってから
漸く起きだすのです。
関白殿下へのご返事が遅れるのは大変憚るべきことですので、お使いの方々は
一旦お帰りになって、この事を関白殿下にお伝え下さい。
忠隣は秀忠様が目覚められましたら仰せのことを伝え、必ず聚楽に参らせます。」
と、使者を返す。勿論秀忠が未だ寝ているなど、嘘である。忠隣はすぐさま土井利勝をお供に、
秀忠を密かに伏見の屋敷へと移し、その上で自身は京屋敷に留まった。
そのうちに秀次の使者が再び、催促のためであろう、徳川屋敷に訪れた。
忠隣これに対面して、曰く
「いやはやそれが、秀忠様ですが、かねてから茶会の約束があったそうで、今日の早朝、
伏見に行かれたそうなのです!私はその事をまるで知りませんでしたから、又いつものように
日が高くなってから起きる事よとばかり思っていたところ、たった今この事を知らされ、
返す返すも恐れ入ることでございます。」
と、心底恐縮している体で謝罪する。時間は既に午の刻あたり(正午ごろ)、追いかけて戻すことも
もはや無理であり、使者は如何とも出来ずそのまま戻っていった。
秀次は大変口惜しく思ったが、程なく切腹し果てられた、とのことである。
大久保忠隣の、秀忠脱出作戦についての逸話である。
(藩翰譜)
0384人間七七四年
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