大阪冬の陣で和議の機運が起こると、徳川方に対し先ず最初に人質を出したのは、
事もあろうに大阪方総大将たる織田有楽斎であった。

大阪城の人々はこの有楽の行動に大いに疑念を持った。が、ともかくも和議は成り
戦争は終わった。
すると有楽は駿府の本多正純に使者を出し

『今回、入道(有楽)は思いもかけず大阪の城に籠ることになりました。
そこで私は大阪を脱出してそちらの御陣に馳せ参じようとしたところで、東西御和睦の事が
成りました。
この上はどうか(家康の)お許しをいただいて、京堺の間で隠居をし、余命を送りたいと思います。』

と言う表明をした。

さて、和睦は続かず大阪方は再び挙兵。夏の陣、起こる。
ところがこの時、未だ大阪城内にあった有楽の4男、織田長政が、「今度は自分が総大将になる!」
と言い出した。

大阪城内の人々は父の有楽の行動、特に和睦前後のことに強い不信感をもっており、長政の言葉を
誰も認めようとしなかった。
これに長政は激怒し

「私は織田信長の甥であり、淀殿の従兄弟である!大将を承れない理由がどこにあるのか!?
この上はこの城に籠っても意味が無い!!」
(我れ信長の甥にして淀殿の従弟なり、大将軍を承らんに何條かあるべき、この上は城に籠って栓なし)

と言い捨て大阪城を退去、京に向かった。

大坂の陣における織田有楽・長政親子についての逸話である。
(藩翰譜)