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戦国ちょっと悪い話26

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0001人間七七四年2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/

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戦国ちょっといい話26
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0115人間七七四年2011/05/10(火) 09:54:25.26ID:je+WCWhH
大阪はすでに淀に乗っ取られ織田の城になっていたということか
徳川も織田へのリベンジに燃えていたんだろうね 織田を滅ぼし戦国が終わった
0116人間七七四年2011/05/10(火) 10:25:44.94ID:AFo/KJlI
アカデミー賞モノ…なんじゃないのかな?
0117人間七七四年2011/05/10(火) 10:55:40.55ID:1iSoXTnu
大名の妻が当主代行を務めてその一族が後押しするのは、戦国時代じゃよくある事

ただ本来は正室の役目なんだが高台院様も木下一族も…な
すごい勢いで身を引いていってるから、結果淀殿に乗っ取られたというか押し付けたというか
0118人間七七四年2011/05/10(火) 11:30:20.88ID:P/dCe96P
木下一族からしたら秀吉の無茶な立身は逆に迷惑だったぽいからな
大政所や朝日姫なんか悲劇もいいとこだぜ
0119人間七七四年2011/05/10(火) 12:22:35.08ID:PL68Hs9m
関ヶ原のときといい、なんでこんなに統率がとれないかね
こういうエピソードが多いから秀頼名君説ってのがウソくさいんだよな
0120人間七七四年2011/05/10(火) 14:32:13.49ID:yPFubTf1
>>114
織田頼長 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%A0%BC%E9%95%B7
のエピソードのような気が。
0121人間七七四年2011/05/10(火) 19:51:35.28ID:sN7ju7Ad
>>117
上州だか信州で大名の妻が当主代行を務めて
その一族を押し出しかました事もあったな
0122人間七七四年2011/05/10(火) 20:13:17.47ID:jYNI/f62
>>121
この人かな?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-531.html
0123人間七七四年2011/05/10(火) 20:16:01.20ID:h7GnXY96
>>120
藩翰譜では織田長政の話だったので出典の通りにしました。
0124人間七七四年2011/05/11(水) 06:09:07.35ID:1QWZDUmh
もう”長政”多すぎ
0125人間七七四年2011/05/12(木) 01:10:17.42ID:po1iGnjT
信長の諞諱は>>114と浅野だっけ?
0126人間七七四年2011/05/12(木) 07:40:08.30ID:DdGZk4hB
佐久間信信殿が…
0127人間七七四年2011/05/12(木) 10:05:58.85ID:7UYrz5qL
慶長5年(1600)7月28日の事、上杉景勝の白石城を攻略し、さらに梁川城を攻める準備を
活発化させていた伊達政宗のもとに、下野国小山より、徳川家康よりの使者、中澤主税が
訪れた。

中澤は白石に陣していた政宗に対面、家康よりの口状を申し上げる

『石田治部が佐和山を出て大阪へ上り、諸大名を相語らい、謀反を企てたとの情報が入った。
貴殿(政宗)は人質を大阪に置いている。我々に味方する方針はどうされるか?
仮に我らから離れ石田以下の者たちに同心しても、それを怨みには思わない。
これを貴殿に伝えておきたいため、この使者を差し下す。』

政宗これを聞くと

「さても内府の仰せとは思えぬことだ!人質があっても、私が石田・増田の謀反の味方をして
内府の敵になる謂れは無い!
出羽・奥州の連中が皆二の足を踏んだとしても、この政宗一人は内府のお味方である!
この旨を良くお伝えあるように!」

と、中澤に言う。すると中澤、不思議なことを言い出した

「私が小山を出る時、内府公はわたくしを側に近づけ、『伊達殿が我らに一筋に心を寄せると
言ったなら、お前は3日間逗留してそれでも意見が変わらなければ、伊達家の家老、その他諸士の
考えも聞き定めた上で、もう一つ、隠密の口状を伝えるように。』と、密かに申し聞かせられました。」

これを聞いたとたん政宗は

「今このクソ忙しい時期に、お主が3日も逗留する必要など無い!
私が既に覚悟を決めている以上、家中の者たちに二心などありえない。
さっさとその、隠密の仰せとやらを伝えるがいい!」

すると中澤、政宗の耳の側まで行き

「…内府公は状況次第で、上杉景勝を捨ておいて上方を退治しようとする内存を持っておられます。
そうなった時、仮に景勝が内府公の跡を追撃しようとするならもちろん別ですが、そうでなければ
伊達殿はお働きを止められ、ご領地を固められる事こそ肝要となります。
景勝と決戦をして、もし何らかの失態があれば上方の戦の妨げとなるからです。

この旨ご承知あれば、後日に景勝の領地を伊達殿に参らせるつもりだが、現時点でこの事を公言
するのは世の評判もいかがかと思われるので、家臣にも伝えず伊達殿に直に、密かに伝えよ。と、
内府公は私に申し聞かせました。
もしご加増の御朱印をお望みなら御使者をお出しください。私が宜しく取り計らいましょう。」

これを聞くと政宗、大きなため息をついて

「白石の城を攻め落とし、これから梁川の城を攻め取ろうとしている時に、すごすごと領地に
引き帰るというのは返す返すも口惜しい!しかし内府の仰せであれば背き難し…!
仕方がない。残念であり不本意でもあるが苦渋の決断で仰せを受け入れよう。

ま、それはともかく御朱印の件は御辺の取持を頼み入る。」

と、テキパキと家臣の山岡志摩に今井宗薫を添えて小山の家康の陣所へと送った。
これを家康は大いに喜び、早速御加恩の御朱印を与えたという。
後世に言う百万石のお墨付き、である。

まあご存知の通り、政宗も家康の自重命令を守らなかったし家康もこの御朱印を反故に
するんですけどねw

それにしても最初から腹の探り合い感がありありと見える、百万石のお墨付きが出るまでのお話。
(関原軍記大成)
0128人間七七四年2011/05/12(木) 13:45:49.47ID:86wSa66r
>>127
そして、上杉は西進する家康軍を放置して最上領に侵攻…
東軍・西軍の両陣営がてんでバラバラな動きだものなぁ
0129人間七七四年2011/05/12(木) 14:08:48.37ID:WjtmXJbM
人物叢書の立花宗茂を読んでいたら
立花宗茂の隠居した後の号が立斎(りっさい)なのは
立花左近将監、略して立左(りっさ)からそのまま取ったものだと書いてあった
呼ばれる時響きが同じ方が便利だからとかなんとか

それを見た時はえーw不精しすぎwwwこれは悪い話じゃねwと思ったんだけど
考えてみたらおらが国の殿さまである蜂須賀家政も
蜂須賀阿波守→蜂阿(ほうあ)→蓬庵(ほうあん)
かもしれない
蜂庵って署名してる制札見た事あるし

もしかして、案外あること?
0130人間七七四年2011/05/13(金) 00:54:33.26ID:d9zbWVzo
号の付け方に関しては「凝らない方がむしろ粋」つうような価値観は確かにあると思う
伊藤博文の号である春畝だって通称である俊輔の音読みだし
0131人間七七四年2011/05/13(金) 02:17:33.51ID:T3B8ingD
号なら有名どころだけど「幽斎玄旨」が好きだなあ
自分が当代一の歌人だっていう自負が垣間見える気がする
0132人間七七四年2011/05/13(金) 03:45:05.44ID:V6VEQzNH
天庵の元ネタは何ぞ?
0133人間七七四年2011/05/13(金) 08:19:43.08ID:WepPc5uT
>>71
この人は市松とも従兄弟かな?
いくら従兄弟にしても歳が離れてるね。
0134人間七七四年2011/05/13(金) 08:31:55.86ID:rLeQFmNb
>>132
オレは天才だ、案じるな
0135人間七七四年2011/05/13(金) 10:04:49.22ID:P1kJUoGw
周囲には、天災なんだろうけどな
0136人間七七四年2011/05/13(金) 10:52:59.77ID:zg7sWHRw
大内義隆と言えば男色女色区別なく、色事に実に名を馳せた人でもある。
そんな義隆があるとき、人もあろうに正妻・貞子(万里小路秀房(公家)娘)の侍女、おさいに
ラブレターを出した。

この亭主の浮気を知った貞子は、おさいにこのような和歌を送った

『頼むなよ 行く末かけてかはらじと われにもいひし言の葉の露』
(義隆様の言うことを信用してはいけませんよ?自分の愛は将来にわたってずっと変わらない、
なんて事をあの人は、私にも言ったのですもの)


大内義隆がどんなふうに女性を(もしかすると男性も)口説いていたか、みえてくるような
話であるw
0137人間七七四年2011/05/13(金) 11:34:27.35ID:W69l+B63
陶さんが八方美人ぷりに嫉妬するわけだ
0138人間七七四年2011/05/13(金) 11:59:23.99ID:sdfBJIpw
生まれる時代を間違えたな、義降さん
0139人間七七四年2011/05/13(金) 12:00:13.37ID:NipbUbJ/
既出だよ。確か2回くらい出てる。
0140人間七七四年2011/05/13(金) 12:07:25.13ID:P1kJUoGw
陶さんには、お手紙こなかったから…
0141人間七七四年2011/05/13(金) 12:21:32.24ID:kvBJkGGE
>>139
この和歌は初出だな
0142人間七七四年2011/05/13(金) 17:31:05.27ID:1EOL3Cdz
山口の王の色狂い、ザビエルもあきれた。
0143人間七七四年2011/05/13(金) 17:46:07.00ID:1EOL3Cdz
白井河原の合戦 和田惟正の最後(1)

フロイスの日本史において何度も触れられる和田惟正、
彼はキリスト教の布教に大いに協力した。
フロイスに信長との会談を何度も取り次ぎ、その教義にも耳を傾け続けた。
が、遂には授洗しないまま最期を迎えた。終焉の地は白井河原であった。
1571年、当時の摂津であるが、名目上諸侯、国人は信長に臣従しつつも、
互いに牽制、鎬を削る緊張状態であった。
特にこの地の旧家池田勝正を放逐した荒木村重、及びその茶仲間でもある中川清秀、
それに対する和田惟正と茨木茂朝とが敵対し、遂には信長の配下同士が勝手に合戦をする
というということになってしまった。
和田惟正が白井河原の戦場に到達したとき、彼の配下はわずかに馬回り200名に過ぎず、
500以上の主力は息子の惟長と共に到着が遅れたのであった。対する荒木村重勢は2500である。
0144人間七七四年2011/05/13(金) 17:48:45.41ID:1EOL3Cdz
困った和田惟正、河原の草むらに軍馬を隠し後続の到着を待つことにした。(2)
この時の和田惟正のいでたちは、南蛮風白銀造の鎧、胸に十字架、
兜の上にイエズス会、カブラルから贈呈された帽子をかぶっていた。
枢機卿の帽子の如く、高価な羅紗でできた真っ赤な幅広帽、ひどく目につくものであった。
目ざとくこれを見つけた荒木村重、大音声で遥か川向う、身を潜めたつもりの和田惟正に声をかけた。
「されもきらびやか、派手やかな和田殿の大将ぶり、見事なもの。さえど臆されたようでござるな、
尋常に勝負をいたそうではないか、なんなら大将同士でもよいぞ。なんだ、なんだ、隠れたつもりでござるか、
耳が遠くなるにはまだ早いのではござらぬか、聞こえているはずだが、
急に耳の具合が悪くなったのでござるか?南蛮の教えならよく聞こえるのでござろうがな。」

両陣の兵、荒木村重の軽妙な挑発に、どっと哄笑を上げた。
これにみるみる赤面し激した和田惟正、周囲の諫めに耳を貸さず、決戦に応じてしまったのである。

善戦するも、和田惟正、村重の鉄砲で深手を負い戦場からの離脱を図るが、これまた村重の目にとまる。
村重が、討ち取ったものには恩賞を約すると、中川清秀が馬を駆け、惟正の首を上げたのであった。

信長に西摂津守護を任じられた和田惟政のあっけない最後

0145人間七七四年2011/05/13(金) 17:52:12.78ID:1EOL3Cdz
すまん、和田惟政のまちがい。
0146人間七七四年2011/05/13(金) 18:00:34.65ID:LGVCBko7
両陣って味方にまで笑われたのか?
0147人間七七四年2011/05/13(金) 18:07:27.06ID:V6VEQzNH
元亀二年に南蛮鎧・・・
0148人間七七四年2011/05/13(金) 20:55:16.21ID:sIauZOqv
和田惟政討ち取ったり、本願寺に兵糧をこっそり売って
荒木村重謀反のきっかけをつくったり
妹がゲヒ殿の嫁だったりとなかなか面白い中川清秀
0149人間七七四年2011/05/13(金) 21:10:23.02ID:sFpiHO4U
>>147
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1163.html

さすが良く御存じ、この時代には南蛮鎧ありませんでした。

黒木了「荒木村重、惜命記」に載っていたのを鵜呑みにした間違いです。
0150人間七七四年2011/05/14(土) 00:09:25.49ID:mBAtBIRG
関ヶ原の時のこと。

石田三成の挙兵後、毛利輝元を大阪城西の丸に入れるなど、西軍は一応の体制を整え方針も決まり、
三成は一旦、その領地である佐和山へと帰った。

と、その途中三成は京極高次に対面したいと、使いをその居城、大津に送った。
京極高次はかねてより徳川家康と親しい人であったが、三成の要請を受け入れると、本丸から三の丸へと移動した。

三成は大津城大手門の外で、乗り物より降りた。その日は小雨が降っており、三成は羅紗の合羽に塗笠をかぶり、
手回りだけの少人数で城内へと入った。
高次と対面すると、三成は手を付き頭を下げ「天下泰平の時が参りました」そう挨拶した。
高次はこれに

「治部殿に取って元より余儀なき企てであれば、必ず本意を遂げられることでしょう。
このような時期、一刻も早く帰城して様々な評定を成したい所でしょうから、わざと本丸よりも
出口に近いこの三の丸まで出向いて、お目にかかりました。」と返す。

さてその頃、京極高次の重臣、安養寺門斎は同僚の黒田伴與に向かってこう主張していた

「この一乱の張本人である三成がこの城に来たというのは、正に天の与えた好機である!
いざ三成を召し捕り、大手の門前にいる三成の勢を討ち取ろう!」

しかし黒田はこれに同心しようとしない。そこで同じく重臣である山田三左衛門、赤尾伊豆も呼び
再びこの事を語ったが、3人共に同意せずこう反論した

「今三成を手篭めにすれば、敵の大軍が寄せきたりてこの城は攻め滅ぼされてしまうだろう。とにかく落ち着け!」

しかし安養寺は負けずになおも語る
「先日、殿(高次)は我らを召しだして何とおっしゃったか!?『三成常に奢りを極め、今また無益の乱を起こした。
であれば私は、天下の御為に神明を捨てて内府(家康)に属し、かの三成一党を誅殺する。お前たちも
忠義を成すべし!』そう、仰せられたではないか!

その上は今更滅亡など恐れるべきではない!それに、三成を召し捕えれば敵の大軍が囲むから
籠城しても危うい、というのは心得難い。殿が三成一派との対決を決意している以上必ず戦端は開かれるが、
仮に三成を何事も無く佐和山に帰したとしても、その時寄せての人数が少なくなるとでも言うのか!?

もし、そなた達の言うように敵の大軍に攻め囲まれ籠城が終に成し難くなれば、その時は三成を刺殺し、
宰相殿(高次)へ御自害を勧め、我らは一箇所に並んで腹を斬れば良いのだ!」

「お主の言うことは確かに理がある。が、内府のために京極の御家が断絶するのでは納得できようはずもない。
その上現在の状況は、三成一人を殺したからと言って世の中が治まるというものではない。
とにかくそういう考えはやめるべきだ。」

これに安養寺怒り
「そなた達の言うところは、宰相殿の一筋なるご心中と相違しているではないか!
先日私が少しばかり申し上げることがあって殿の御前に参った折、殿はこのように言われた

『去去年より伏見・大阪にあって内府に心を寄せたこと、これは私の粗忽の上ではない。
また、太閤の恩を忘れて、私的な好を求めたのでもない。心に一片の後ろめたさはない!』

このようにはっきりとした表明を承っているというのに、我々は別の思案を成そうとしている。
もし、敵味方の筋目について各々が未だに疑念を持っているのであれば、これからその事を議論しよう。
ただし!当家の存亡を重視するあまり、東西の勝負が決着するまでに議論が終わらない、などと言う事態になれば
必ず後悔しますぞ!」

しかしこのような議論をしている間に、三成は高次の前を退去し城を出てしまい、安養寺の企ては終に虚しくなった。
石田三成の大津城訪問に関する逸話である。(関原軍記大成)
0151人間七七四年2011/05/14(土) 01:54:32.89ID:bnQ6beE0
日本製の南蛮甲冑は後の時代だろうが
向こうで使われてた鎧なら鉄砲とかキリスト教が伝来
した前後には日本に輸入されてるだろ
まあ資料には残ってないだろうが
0152人間七七四年2011/05/14(土) 10:14:34.24ID:UeH06OST
記録に無いものをあったと言い張るのはちょっと・・・^^;
0153人間七七四年2011/05/14(土) 11:15:31.99ID:rQ9RKmzh
そう言えば創作物で南蛮具足を着させられがちな信長だが、今は研究者でも南蛮具足どころか
当世具足以前の「むしろ伝統的な甲冑の方を好んだだろう」みたいな意見のほうが多いな。
0154人間七七四年2011/05/14(土) 11:24:36.42ID:7FmX8eo6
「だろう」でいいなら、なんとでも言えるw
0155人間七七四年2011/05/14(土) 11:25:59.31ID:rQ9RKmzh
>>154
そもそも信長の南蛮具足には何の史料的根拠もないところから話が始まっているからな。
0156人間七七四年2011/05/14(土) 12:28:33.44ID:4mFd0yhj
直江兼続「愛の兜」といえば、諸説あるわけですが
1.愛宕権現
2.愛染明王
3.愛民(司馬遼太郎提唱)
が定番ですね(大河「天地人」は3番目を採用)。

ここで日本では知られていない新説を一つ


直江兼続の兜の「Ai」は、彼の領地の「Aizu」からとったものなんだよ!!

Samurai Commanders (2)1577?1638
http://www.ospreypublishing.com/store/Samurai-Commanders-(2)_9781841767444

著者のステファン・タンブル(Stephen Turnbull)は東アジア専門家で、BBCの
日本歴史モノなんかでもよく監修やってんだけど、その他の記述からしてどうも
漢字読めないみたい・・・でもこの人が広く欧米で知られる専門家なんだよねえw

このオスプレイ社の絵入り歴史本は日本にもファンが多いけど、特に東アジアモノは
故アンガス・マクブライド(Angus McBride)以外の絵師は細部が適当になり勝ち 。
困ったもんです。
0157人間七七四年2011/05/14(土) 12:35:37.29ID:XiKtDkIp
まさしくな、なんだってー!?だなあww
0158人間七七四年2011/05/14(土) 12:39:07.31ID:wlrmg0NX
こんな時、どういう顔をすればいいかわからないの
0159人間七七四年2011/05/14(土) 13:05:33.21ID:Oxlngexe
日本にも、ジェロニモ=地浪人者と言い張った人が居たけど・・・外国のウィキペディアなんかで、大友氏と大伴氏が同じ家系だと思われてたりするのは、この人のせい?
0160人間七七四年2011/05/14(土) 13:13:21.97ID:i5LzNsHw
>>158
笑えばいいと思うよwww
0161人間七七四年2011/05/14(土) 14:23:58.55ID:BqaWiTx3
そういやCSI科学捜査班の某エピソードで、
日本の古美術を扱った骨董品屋が殺人現場だったんだが
そこで「17世紀の鎧兜」という展示品を観た主人公達
「日本の軍隊ができたのはいつだっけ?」
資料を調べて「19世紀に明治天皇が作ったとあるわ」
「なんで19世紀のはずの鎧が17世紀のものとして展示されてる?この甲冑はニセモノだ」

おい
0162人間七七四年2011/05/14(土) 15:13:16.27ID:uK4nXgwp
>>161
侍の存在を知らなかったのか、その脚本家は。
0163人間七七四年2011/05/14(土) 15:19:43.87ID:/UXP2Lgy
「17世紀の日本は争いのない平和な国」とでも聞かされて育ったんじゃないかな
19世紀になって幕末維新のときに日本初の洋式軍隊が出来たから、それと誤解しているっぽいね
0164人間七七四年2011/05/14(土) 15:37:31.80ID:oN0VpKTu
第三次川中島の戦いで上杉謙信は勝敗がつかないので
武田信玄に和解を申し出た。
両将は千曲川の両岸に腰掛けて対面する手はずだった。

馬に乗って岸までやってきた謙信は「のろまと思われたくない」
と思い、さっと馬から降りて床几に腰掛けた。
ところが信玄はというと鞍を直すような仕草をして馬から降りない。
「苦しからず。景虎殿、馬に乗られよ」
信玄の言葉に怒った謙信は馬に乗って帰ってしまった。

謙信の使者がやって来て言うには
「わが家は鎌倉権五郎景政から梶原景時まで五代、それから代々
続いて為景、景虎となる。頼朝公の富士の巻狩りのときは頼朝公の
次に梶原、武田はその次だった。それに今は上杉で、関東管領だ。
そちらの態度は無礼ではないか」とのことだった。

それに対して信玄は
「梶原は頼朝公とりたての家来、武田は将軍家のお相伴役だ。
機会があればどんな身分でも君主の側に近づけるのは今も昔も
変わらないことで、それが家の系譜にはならん。

上杉憲政は悪政が原因で天に見放され、北条氏康に敗れて
嫡子を捨てて越後に逃げた。そんな憲政から管領職を譲られたのが
景虎であろう。わしに無視されたなどといって腹を立てるのは無分別
である。堪忍の二字を分別することだ」と言い返した。
いよいよ謙信は怒り、また合戦とあいなった。
0165人間七七四年2011/05/14(土) 15:38:07.00ID:HraE8ODr
離れている他国の歴史に興味持つ人間なんてまずいないもんだ。
0166人間七七四年2011/05/14(土) 16:01:13.80ID:29EnhITp
大和朝廷の時代から九州に君臨していた?tomo氏といい
どうもあちらで知られている日本の文献は相当いい加減なんじゃないかと思わざる負えない
0167人間七七四年2011/05/14(土) 16:08:21.05ID:35RSkqk+
>>164
このエピソードだけだと謙信のほうが小物っぽいけど
信玄のほうが礼は逸してるのかな

>>165
普通ならそれでいいんだけど、
仮にも脚本家なら自分の書く部分について少しは勉強しろと言いたい。

0168人間七七四年2011/05/14(土) 16:34:25.52ID:tXOkPD2H
>>167
いや、そのドラマ見た事ないけど
>>162みたいなのは脚本家はわかった上での小ネタじゃないの
もちろん視聴者にもわかることが前提の
「日本にはニンジャがいるんだろ?」「今度の旅行で会うのが楽しみね!」みたいなあれ
もし>>162のエピソードで鎧が17世紀のものだから偽物であることをキーにして話が進むなら
脚本家の無知なんだろうからすまんが
0169人間七七四年2011/05/14(土) 17:16:49.94ID:LJ4sQyC0
>>100

>出典は小丸俊雄『小田氏十五代―豪族四百年の興亡―(上)(下)』(1979,ふるさと文庫)ですが、
今回の逸話について本の中でも一次資料が記されていない上に、逸話の内容が内容なので恐らく
信憑性は薄いと思われます。


出典は『東国戦記実録』とか『小田天庵記』あたりだね。これらの軍記だと小田氏治は
腹を十文字にかっさばいて潔く自害するし、『東国戦記実録』では片野三楽・梶原美濃守親子が


「太田重郎弓押取、暫ク覗ヒテ兵ト射ル。其矢誤タス梶原美濃守ガ首筋ヲ射切タリ。
三楽ハ古沢弾正ニ討レケレバ、残ル者ドモ地ニ臥テ降参セリ」


って感じで佐竹や多賀谷に攻められて殺されたりするから史実の勉強に最適だと思うよ。
0170人間七七四年2011/05/14(土) 17:27:58.95ID:uK4nXgwp
>>164
第三次の段階じゃまだ上杉になっとらんやん…
0171人間七七四年2011/05/14(土) 18:03:44.26ID:ncSSilCw
洞が峠の順慶

本能寺の変より数日経てのことである。
池田常興からの三人の使者が大和郡山の筒井順慶のもとを訪れた。
何れも思いつめた表情である。
主人池田紀伊守からは、光秀と姻戚関係であり、日頃親しい筒井順慶。
彼の意中を探るように命じられていた。
三人は、筒井順慶と刺し違える所存であったが、
主人は「お前たちを死なせれば、私はわが腕を失うようなものである。」と三人を諌めた。
が、彼らは「自分たちが死すとも、味方が助かればそれでよい。」と捨て身の構えであった。

が、思いのほか、筒井順慶は信長公を弔う気持ちはあれども、光秀への加担する気持ちは
露ほども伺われず、まことに神妙な面持ちでもあった。
三人は安堵と共に気勢をそがれ帰途に就いた。

が、帰途の途中、順慶の傍らに静かに侍していた牧野兵太という若侍、
その姿が三人の使者の脳中にありありと蘇ってきた。
そのただならぬ眼光は殺気を放っていた。

筒井順慶ならではの用心深さであった。

常山奇談より
0172人間七七四年2011/05/14(土) 18:06:16.40ID:wlrmg0NX
若い頃から苦労してるもんなー、この人
0173人間七七四年2011/05/14(土) 21:36:34.99ID:iuXQRL32
三人の使者も相当な殺気を放っていたと思われるがw
0174人間七七四年2011/05/14(土) 22:12:35.38ID:oN0VpKTu
>>170
その辺はあの軍鑑なので…
0175人間七七四年2011/05/14(土) 23:06:42.48ID:gPGCNB1c
既出だが三歳公バージョンで

三斎公の述懐

昔々のことじゃが、伏見城内で豪胆なワシも冷や汗をかくが如きことを見聞したのじゃ。
秀吉のやつが、家康公を始め諸侯の居並ぶ前で、自分は弓矢の道で
未だかって不覚をとったことはない、と自画自賛し始めた。
みな、また始まったかと聞いておったが、権力者の前だからひれ伏しておった。
ところが家康公、いきなり「それは殿下の前とはいえまことに異なり、小牧長久手のことを忘れましたか?」
と立ち上がって言い始めるではないか。
やっちまったか、と皆手に汗を握ってしまった。

秀吉のやつ、プイと中に引っ込んでしまったから、皆心配して、
「殿下の戯言でござるから、相手になされるな。」皆、家康公を宥めたのであった。
しかし、家康公も「武道のことは絶対に譲れない、殿下から勘気を被ってもかまいはしない。」
とこちらもむきになっての有様。

秀吉が気を取り直して又出てきて、何食わぬ顔で雑談を再開したので、ほっとしたのであった。
わしもその頃は若かったから、田舎くさい大人げない連中だな、と思ったもんだったが
これは秀吉が家康公を試したんだな、きっと。

機嫌を取り結ぶために武の道まで譲る輩なら、信用できんとな。
中国にもよく似た話、曹操劉備の似た話があるだろう。
ったく、世渡り、人付き合いは気を使うもんだよ。

東照宮御実紀付録より
0176人間七七四年2011/05/14(土) 23:23:39.20ID:gsmF1pzl
三斎って豊臣家滅亡後は旧主秀吉のことを「秀吉のやつ」呼ばわりしたの?
そしてそれを「みな、また始まったかと」呆れて聞いてたの?
随分口が悪い話だね
0177人間七七四年2011/05/14(土) 23:27:52.02ID:YVCOhpfp
旧主って言っても三斎さんは豊臣政権では結構冷遇されてるからねえ
0178人間七七四年2011/05/14(土) 23:28:53.82ID:7tH3s6aC
三斎さんが秀吉に対していい感情を持てるわけないだろうと…
0179人間七七四年2011/05/14(土) 23:31:01.89ID:gsmF1pzl
まあ『東照宮御実紀付録』ではちゃんと「豊臣殿下」、そして秀吉の自慢話をみな
「仰せのとおりであると大いに感じ入った」と書いてるんだけどね
意味分からんところで勝手に改変すんなよ
0180人間七七四年2011/05/14(土) 23:31:13.55ID:GPodgK7E
なら山崎の合戦で嫁の親父の味方してやれよw
0181人間七七四年2011/05/14(土) 23:34:28.37ID:TE93+LG6
嫁のことは抜きにしても、秀次派だったんだよね。
お金のことでお世話になっていたから。

ところで秀吉の資金源ってなに?
直轄地は300万石に満たないくらいだったんでしょ
使い方の派手さに釣りあわない。

落城させた北条資金がたんまりあったとも思えない
0182人間七七四年2011/05/14(土) 23:36:07.66ID:GPodgK7E
全国の金山、銀山の直轄
0183人間七七四年2011/05/14(土) 23:45:42.03ID:gsmF1pzl
200万石の蔵入地から直接挙がる租税だけでなく、
日本各地で米の独占販売を行い、そこから巨利を得ていたらしい
その他には金山銀山の収入、金融業・物流業・製造業からの運上金、
堺のような都市からの献上金などなど
千利休や本阿弥光悦のような怪しい文化人とつるんで
タダ同然の値段で取引されていた茶道具や刀剣、古筆を高く売ったりもしてた
余りに金儲けが上手すぎたので、伝記作家である小瀬甫庵からも苦言を呈されていた
0184人間七七四年2011/05/15(日) 00:00:22.94ID:yD3wszSU
>>182>>183
d 石見銀山の上がりを毛利を折半した話を聞いたことはあったけど
>>183で納得
0185人間七七四年2011/05/15(日) 00:21:47.69ID:O5CBFxMR
江戸幕府みたいに支配が強固で、しかも諸大名の封土がモザイク化している状態なら
天領が全国各所にあっても無問題だけど、太閤蔵入地の多くは諸大名の所領のうち
「ここは太閤様の蔵入地に指定したから、あんたはここからの年貢は太閤様に代わって
取り立て、その年貢を太閤様に収めてね」って感じで、諸大名にとってはピンはね
されていくようなものだったから、問題ありすぎた。

結局、豊臣政権の求心力低下と、関ヶ原後に家康が蔵入地は諸大名に
戻しますよ〜ってしたことによる支持の上昇の道具にしかならなかった。
0186人間七七四年2011/05/15(日) 00:34:24.00ID:7+Ntti+A
>>179
出典明記しても改変してちゃ何にもならんな。
何でこういうことするヤツがいるんだろうね。
0187人間七七四年2011/05/15(日) 00:44:00.94ID:PyWULXvg
医師の施薬院全宗は羽柴秀吉に従い、中国戦線の陣にあった。

さて天正10年(1582)6月、秀吉も本能寺の変を知る。
この時秀吉は施薬院に、急ぎ上京するよう命じた。しかし施薬院はこれを拒んだ

「私はここまで来た以上、京にも筑前様(秀吉)のお供をして上りたいのです」

秀吉はこれに
「いやいや、我が家のためでもあるのだ。必ず上京してほしい。道中の用心のため
これを与えよう」

と、槍一本を下され

「お手前は運のいい人である。今後天下を取るのは、わしか明智のどちらかとなるだろう。
丁度お主は我らとも明智とも関係が良い。これは家のためには好都合である。

さて、上京した上で明智に対面し、このように伝言してほしい。

私は長年合戦をしてきたが、大将と直の太刀打ちという物はしたことがない。
この度は三日の内にも畿内に上るつもりである。あなたは主人の敵であるから直の太刀打ちにて
勝負を決しよう。」

そのころ光秀は下鳥羽に陣していた。
施薬院はそこまで行き、光秀と対面して秀吉の伝言を伝えた。
光秀はこれを聞くと施薬院にこう、声をかけた

「そなたは運のいい人である。天下は秀吉かそれがしか、このどちらかが取るであろう。
お手前はその両人と関係が良いな」

と、先に秀吉が施薬院に言ったことと、全く同じことを光秀も言った。
そして施薬院が御前を下がろうとすると

「いや待たれよ、盃をさそう」

と盃を取り交わした上で

「洛中は未だ騒がしい。用心のためにこれを持たれよ。」

と、槍一本を贈った。これも秀吉のしたことと全く一緒であった。
ただ光秀の方は、施薬院と話をしている間に『もはや御出あれ!』と3度まで使いが来たそうである。


施薬院全宗が見た、山崎の合戦前の秀吉と光秀についての話である
(武功雑記)
0188人間七七四年2011/05/15(日) 02:38:33.82ID:Po1MddV9
>>175
秀吉の自慢話って嘘くさいのが多いからなぁ
っていうか、要は上司の長々とした自慢話に周りがうんざりしてるってことは間違いないなw
0189人間七七四年2011/05/15(日) 07:13:46.33ID:g4xGwSxN
>>188
長かったの?
0190人間七七四年2011/05/15(日) 09:03:21.65ID:I04aZ2GM
天下の名医は優遇されるなw
0191人間七七四年2011/05/15(日) 10:25:10.87ID:HAnVW8dL
>>190
ああ、鬼武蔵が「結婚するなら医者にしろ」って言ったのってそういう…
0192人間七七四年2011/05/15(日) 11:04:26.43ID:6YxTR5M/
伝言は?
0193人間七七四年2011/05/15(日) 19:28:55.02ID:JYNbANp0
>>188
何が間違いないの?
0194人間七七四年2011/05/15(日) 20:40:44.14ID:n+Oei1q7
使徒が15年ぶりに来たこと
0195人間七七四年2011/05/15(日) 23:02:19.67ID:B9BSK99t
江戸に大火があったとき(おそらはく明暦3年の明暦の大火)、大災害の時にありがちだが
色々と怪異な事の噂が流れ、人々はこれを大変怪しんだという。

そんな時、知恵伊豆こと松平信綱はこんな事を語った

「世の中にはそんな怪異よりもっと不思議なことがいくらでもあるのに、
人々はそれを怪しもうとはしないものだ。
例えば故太閤が草刈りの身分から21年で天下をお取りになったことなど、
これより不思議なことがあるだろうか?」
(武功雑記)
0196人間七七四年2011/05/16(月) 00:20:58.52ID:OM5dLkfG
平清盛の出世には天皇落胤説で説明するむきもあるが
秀吉落胤説は鼻で笑われただけであった。
0197人間七七四年2011/05/16(月) 01:08:41.17ID:fDAvZDkj
そもそも関白に任官されるための方便で考え出したものだし>秀吉落胤説
鼻で笑われるどころか目論見通り関白に就任し、
豊臣氏まで賜わってるんだから大成功と言って良い
天下人になった後は更にスケールがでかくなって日輪の子を自称してる
0198人間七七四年2011/05/16(月) 01:28:43.87ID:Q+sQ76WD
「知恵伊豆が家光の死に殉死しなかったことを江戸市民は非難した」
とWikipediaにあるが、初期江戸民は三河のめんどくささにすっかり毒されていたのだなぁ
0199人間七七四年2011/05/16(月) 01:36:31.02ID:iOijdq8N
殉死って当時どういう風に思われてたんだ?
するべきものだったのか、でも禁止してた人もいるよな
0200人間七七四年2011/05/16(月) 04:58:36.01ID:3DTVaTzo
戦がなくなって討ち死にする事もなくなり
その代償行為みたいなものだからな
0201人間七七四年2011/05/16(月) 06:10:53.49ID:gP9bdqDA
スケール(笑)
土人じゃあるまいし、大名がそんなもの真剣に拝んじゃいないだろw

まあそれはそうと、>>175で細川忠興がなぜこういう秀吉の『失態』について語ったかのほうが興味あるね
諸侯の秀吉の死後の行動を見てもそうだが、もともと面従腹背の集まりだったということか
0202人間七七四年2011/05/16(月) 06:33:03.62ID:NVyjWxx+
細川さんは秀吉によらずdisりまくりが基本だしなあ。
0203人間七七四年2011/05/16(月) 07:04:08.49ID:bXJ2L/pv
>>201
別に失態じゃ無くて三歳は秀吉が家康を試した話と結論づけてるようだが・・・?
前半部がけなしてるようになってるのは>>179により>>175の意図的改変なのが分かってるし。
0204人間七七四年2011/05/16(月) 07:14:26.97ID:OM5dLkfG
伊達殿について

「稲荷殿の知音かと申す事に候」(意訳:頭どーかしてんじゃね)

と残したのはgb
0205人間七七四年2011/05/16(月) 07:42:30.72ID:3DTVaTzo
>>204
当時狐憑きは無罪
 
0206人間七七四年2011/05/16(月) 07:42:33.48ID:0RmVhPhF
>>201
毛利元就が毎朝日の出を拝んで、念仏唱えてたのは有名。
神道なのか仏教なのかはっきりしろと言いたい。
0207人間七七四年2011/05/16(月) 08:10:28.64ID:3DTVaTzo
>>206
神仏分離令より前の時代だぜ
0208人間七七四年2011/05/16(月) 08:17:45.21ID:wE047Atd
月を拝んで「我に七難八苦を与えたまえ」と言った武将もいたな、なんで月なんだろ
0209人間七七四年2011/05/16(月) 08:20:13.42ID:CES5O28m
武士ってロマンチックな奴多いよな。生き方そのものが詩的というか
0210人間七七四年2011/05/16(月) 11:10:31.06ID:OM5dLkfG
>>208
出雲は月信仰が盛んだったらしい。都久豆美命(つくづみのみこと→月読命と同じか?)というらしい。

昔の山陰は海上交易で盛えてた。夜の星は方位を知るのに重宝。星々の代表として月なんじゃないかな
0211人間七七四年2011/05/16(月) 17:54:50.21ID:tK+5Qme5
上月城で敗れて、その後殺されたから
後から話が作られた、ってわけではないのか
0212人間七七四年2011/05/16(月) 18:26:22.83ID:DWOx75mk
尼子の本城のある山が月山つーくらいだし
0213人間七七四年2011/05/16(月) 18:51:37.71ID:bzKIgrCF
つ…つきやまとみたじょう?
0214人間七七四年2011/05/16(月) 19:14:58.21ID:XO/iSYnJ
月山の麓には最後の富田城主だった堀尾さんの墓があるんだよな。
心血注いで完成も間近の松江じゃなくそっちに葬るようわざわざ遺言してまで。
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