もともと従来の織田の寄騎制は、北条武田今川などの整然とした寄騎制とは違い
せっかく直臣として国人から分離した家臣を
代替わりの安堵状で一緒に安堵するなど譜代家臣と実質的にどこが違うのか
わからない扱い方をしていたりとかなりあいまいな物

ここで比較的資料の多い丹後丹波(細川文書)から秀吉と同様に明智細川の行った知行割が
一色氏らの知行を踏出し分の扱いも含めて信長が細かく指示してたりと
信長の意向の強い物だったことを考慮すると

曖昧な寄騎制、知行制だったものを
織田領内に大名分国を作り出すことを信長が強力に推進し
家臣団の整理再編成を行ってる状態だと推測でき
黒田らが与力から秀吉の直臣に「制度的」には移行したといってもいいかと