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当主死去と政権弱体化

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0001人間七七四年2010/12/05(日) 12:40:10ID:4unj3228
兄弟や有力者や国人の台頭による権力構造の変化。
カリスマ権威の消失による周囲の国々の離反。
継承タイミングが家の勃興期における伸びしろアリか財政難による衰退期への移行か。
先代の±の遺産
0027人間七七四年2010/12/16(木) 13:33:05ID:hymCl0X/
>>26
日向北部の島津に寝返った土持氏征伐も義統命令だし
当時の宗麟は隠居し府内から出て行ってるから大友の合議による政策決定に意見できない。
そもそも隠居の目的自体が世俗を捨ててキリシタン修行するためだし。
0028人間七七四年2010/12/18(土) 01:22:02ID:6lC0oF3W
本では「二頭政治」で大友家は滅びたとか書かれてるけど、そうでもないのな。
0029人間七七四年2010/12/18(土) 02:08:27ID:yQDzX8T6
大友の政治の意志決定機関は加判衆だから宗麟の自分勝手はできないよ。
義統が当主になり叔父の田原親賢の独裁がバランスを崩し
親賢が耳川で島津を討つことよりキリシタン撲滅の密謀に熱中して敗戦を呼びこんだ。
耳川の敗戦で討ち死にした加判衆の補充がなされずに義統の恣意的判断により機能不全になったのが大友瓦解の危機。
そこで宗麟の復帰が望まれたし、筑前方分の道雪の大友家中への鼓舞の激文。
0030人間七七四年2010/12/18(土) 04:06:58ID:zQ6enkCD
南部(不和)・伊達(大乱)・安東(内乱)・芦品(不和自壊)・上杉(大乱)
今川(混乱)・武田(不和)・織田(大乱崩壊)・大友(不和)・龍造寺鍋島(不和)
0031人間七七四年2010/12/18(土) 06:26:21ID:kAcqvuCu
「当主死亡で政権弱体化」を回避する最も有効な手段は、
やっぱ「隠居して二元政治」だろうか。

なるべく早い段階で後継者に家督を譲り、
自身の指導力で家臣をまとめつつ後継者を政権運営に慣らせ地位の安定化を図る。

まあ後継者ともども殺されたり(織田信長・信忠)、二元体制の期間が短すぎたり(今川義元・氏真)、
せっかくの後継者を殺したり(豊臣秀吉・秀次)したら無意味だが。
0032人間七七四年2010/12/18(土) 10:44:01ID:yQDzX8T6
家臣団に対して明確に後継者が決められており
頼りがいがある主家への忠誠心ある兄弟がそれを支えている体制であること。
兄弟間が仲が悪くても主家を裏切らないならまぁ問題なし。
0033人間七七四年2010/12/18(土) 14:29:10ID:cJ4IRTZg
うまくやってたのは北条だなやっぱり。
うまくやりすぎたのが逆にうまくなかったな。

まあ継承失敗も次代当主の力量次第ってとこはあるな。
織田も長尾も家が潰れる可能性のがでかかったし
信玄もチャンスをうまくものにできなきゃ衰運だったろう。
しかしその位の立ち回りができなきゃ天下に名はのこせんだろうな。
0034人間七七四年2010/12/18(土) 14:41:43ID:yQDzX8T6
島津も毛利も兄弟仲がむちゃくちゃ悪かったが
北条は強大過ぎる敵たる謙信の前に一致団結して防衛しなきゃならなかったゆえ兄弟が協力していた。
しかし謙信が死ぬや組織は弛緩し小田原征伐をもって国人一揆連合体質ゆえの利害対立が克服できなくなっており小田原評定で瓦解。
まあ伊達や龍造寺や長宗我部も子供を有力国人に与えて家臣化していって拡大してるから子供が多いのは強み。
ただ国人を肥大化するかたちで家臣化していっても支配力が緩くて
国人の独立性が維持されたまま官僚化できない封権的大名のままだと内乱や内紛を誘発したり離反して外部勢力を呼び込み、
改革失敗や危機に無策で結論出ずで結局破綻する。
まあ中央から離れた辺境は放置されるが。
0035人間七七四年2010/12/18(土) 15:28:52ID:eKFDLJXW
>>12
大友義統の場合ねキリシタンなのに宣教師にボロクソに言われるというのが
一線を画していると思うんだが。
宣教師は普通はキリスト教に理解ある人物をべたほめするからな。
0036人間七七四年2010/12/19(日) 16:43:15ID:vTXG1r1b
江戸期になって高家の大友家からの借金の質として柳川藩が預かった文書集のものらしいが、
西の大友と呼ばれた立花氏には大友義鑑の治政で宗麟誕生年である亨禄3年12月6日の日付で「新大友義長条々」と言うのが保管してあって
そこには「隠居したら公務に関与してはならない」って言う条文が書かれている。
だからこそ宗麟は皆からの当主復帰要望にも抵抗したのだろう。
あくまで義統を当主として立てて
自分は補佐と言う条件を皆に呑ませて
やっと表に出てきてくれたほどだし。

北条氏康は悪政の責任を取らされて隠居に追い詰められたが
謙信の小田原侵攻のドサクサに国家の言を吐く名目で氏政を排除し当主に復帰した強引な手法とは実に対象的だ。
なにか氏政に落ち度があったのだろうか?
0037人間七七四年2010/12/20(月) 11:23:21ID:724NQEvm
飯に対する汁のかけ具合がまずかったのではないかと…
0038人間七七四年2010/12/20(月) 11:58:28ID:n2y5dJB0
北条兄弟とそれぞれの取り巻き達による後継者争いが激しくなった為だと思われる。
後継者を退位させるのは異常なことで組織分裂のリスクある行為。
氏政は廃嫡の危機にあったと言える。
0039人間七七四年2010/12/21(火) 20:44:08ID:PEdhLYSD
兄弟仲良しなんてありえんよな
0040人間七七四年2010/12/26(日) 15:16:53ID:NNnl+Koa
まあ北条は高利貸し組合が合議で政権運営していたから
他国の余所者当主なんて実権の無い単なるお飾り。
だから悪政で治安維持ができなくなったら
擁立していた当主の首をすげ替えて責任を取らさせてるだけだからね。
小田原陣後も傀儡を切腹させて終了させ、さっさと徳川に鞍替えしただけ。
北条氏にキッチリと実権があれば自己責任を問われ無いように動くわけで、
秀吉相手にダラダラ評定を続けてるなんて
あんなバカバカしい真似はしないよ。
0041人間七七四年2010/12/27(月) 04:35:27ID:wbO8/joQ
尼子家、三代続けて当主死去で大ピンチ。

強引な手法で下克上した清貞が死去→幕府と国人の抵抗により経久追放
無理な拡大路線を取った経久が死去→内政ぼろぼろで晴久が家中統一に一苦労
内政と外交をほぼ一人で仕切ってた晴久が死去→義久の代で尼子崩壊

まあ、晴久はそういうことにならないように官僚システムに移行中だったのだが、
その過程は個人の才覚任せってのが経久と同じミスを犯してるな。
0042人間七七四年2010/12/27(月) 05:05:24ID:0hPv1Y8/
>>41
晴久において、それ以上にどんな良い方法があったと思う?
0043人間七七四年2010/12/27(月) 05:34:08ID:wbO8/joQ
>>42
方向性は悪くないんだろうが、自分で仕切りすぎたんじゃないかな。
義久が晴久後に大きく舵取りに失敗したのって、結局国が今どういう状況か
きちんと把握してたのが晴久だけだったせいだと思う。
晴久の代は軍事も内政もかなりやってるのに、中心となった家臣というのが
いまいちよくわからない辺り、ワンマンなイメージがある。
過労死しったっていうぐらいだから、何でも自分でやらないと気がすまないというか。
0044人間七七四年2010/12/27(月) 12:48:46ID:WwnFpB58
傘下の国人一揆連合による上位統治権力への抵抗が基本にある寄親寄子制は
トップダウン方式による命令と迅速な執行を妨げ、
不利とみるや大量の造反国人が敵に寝返るために強い統治支配が出来ず
国人達の顔色を伺いながら、意見調整をせねばならない。
そこから脱却し守護や旗頭から戦国大名へと脱皮するためには傘下の国人達の権力を剥奪し
併合し官僚化し統治の深化を進めなければこれ以上の遠隔地拡大が出来ない脆弱な統治機構のままになる。
そこで宗家の権力確立を目指し国人を圧迫していたのが、
戦に強い陶晴賢や大友宗麟や尼子晴久が代表だろう。
逆にこういう中央集権への国人達の反発から
口うるさくない傘下に入れば、領内に介入しない、国人一揆連合の盟主くらいな軽いユルユルで
国人として独立性を保てる我が儘が利く関係で支配がより後退した関係で媚びて実力に伴わない単に肥大化しただけなのが
戦に弱く下手に出て支持を受けた島津義久や毛利元就や北条氏康や伊達政宗でより上位権力がやってくるや傘下国人の瓦解や国人間分裂対立も早かった。
0045人間七七四年2010/12/27(月) 15:50:38ID:o5G7GGSg
>>44
戦況が不利になったら裏切るのは中央集権体制でも同じ。
従属同盟的な緩い支配体制の最大の欠点は、
重臣や一門の所領割合が大きいため力で押さえつける事が困難で、
平時だろうが優勢時だろうが、ちょっとした意見・方針の相違で
裏切る可能性が高いことだ。
だから常に顔色を伺って、結果、意思決定が弱くなるんだよ。
0046人間七七四年2010/12/27(月) 16:15:21ID:WwnFpB58
>>45
中央集権はドミノ倒しのような一揆体質による国人大量謀反が基本的に起きない。
0047人間七七四年2010/12/27(月) 16:45:32ID:o5G7GGSg
>>46
例を挙げてみてよ。

大勢力に攻め込まれたらいかに中央集権体制でも持たないよ。
決戦で勝利したり、局地戦で勝ち続けない限りはね。
0048人間七七四年2010/12/28(火) 02:16:31ID:N6fQfW6s
>>47
例をあげるも何も
むしろ中央集権国家として安定した国家で
国人大量謀反なんて起きた例こそないだろw
0049人間七七四年2010/12/28(火) 13:16:46ID:V32SrUy9
実力者のリーダーシップの元に中央集権への移行の過渡期ってのは一時的に内紛と混乱があるからなあ。
この改革を乗り越えると中世封権制から初めて国家と言える昇華がある。
しかし元就のやったことは封権から後退して国人連合の古代に歴史を戻してしまった。
だから畿内政権の前にまったく力が無い肥大した豚毛利の中国地方と言う恥ずかしいブザマな戦国後期から江戸時代を迎えた。
名誉と喝采の大内尼子時代の素晴らしき中国地方ら
まさに元就以降の中国地方は転落し暗黒時代と言える。
0050人間七七四年2010/12/29(水) 11:56:20ID:90jVp0OA
信玄・謙信>>>信長
チート濃尾平野>>>甲斐・越後
0051人間七七四年2011/01/09(日) 12:12:34ID:LdFYZ1CU
>うまくやってたのは北条だなやっぱり。
>うまくやりすぎたのが逆にうまくなかったな。

言ってる事は分かるが・・じゃぁ一体どないせいっちゅーんや
0052人間七七四年2011/10/05(水) 12:10:40.28ID:YQq4vi9I
結局どうにもならないということではないか
0053人間七七四年2011/11/19(土) 08:06:09.12ID:z8w9lVVh
ho
0054人間七七四年2011/11/21(月) 14:48:36.07ID:8mBz5g8W
これは避け難い
うまくできたのは北条だけ。
兄弟が北条を支えてたからなあ。
0055人間七七四年2011/11/23(水) 13:43:47.09ID:9vNRn5sQ
織田バカ長
0056人間七七四年2011/11/23(水) 22:31:44.33ID:sM9BYSlP
北条も最後は一族が党首の足引っ張って滅びた
0057人間七七四年2012/05/30(水) 21:33:22.20ID:wbYfhrkY
党首てwww 政治家みたいでワラタwwwww
0058人間七七四年2012/05/31(木) 00:31:57.39ID:C8Qso3Wk
前園や小沢、仙石がワーワー言ってる現況と変わりませぬ
0059人間七七四年2012/05/31(木) 00:39:40.60ID:/Vel8SHz
直茂さんみたいな人がいない国は大変だな
0060人間七七四年2012/06/02(土) 00:48:27.04ID:bakyGv74
>>51
後継者の育成に失敗したら、どんな制度だろうと崩壊する。
理論上、一番競争力があるのは完全無欠の天才の独裁体制。
要は英雄の親が一番偉いということ。(でも英雄って片親多いんんだけどね。)
0061人間七七四年2013/06/21(金) 10:26:26.74ID:UbI1pXNB
信長なんてあんだけ恵まれた家督継承だったのに
信長がアホ過ぎて後見役にまで愛想をつかされ
領国は斉藤義龍によって半分取られる始末。
どんだけ無能なんだ信長。
0062人間七七四年2014/02/21(金) 08:33:16.36ID:Ggw6zyfY
むしろ弱体化してない大名なんて武田や北条くらいだろ。
0063人間七七四年2014/02/21(金) 09:04:27.24ID:r5R2/Tqr
武田は信虎が酷い政治敷いて恨みつらみを引き受けてくれたのと
本来権力握るはずの板垣甘利が自爆したからな
信玄を頼らないと何も始まらない状況を作ってしまった
0064人間七七四年2014/02/21(金) 09:11:57.02ID:+g+ubgOj
むしろ暴政により人心を失ったので、
武田の権威が地に落ちて晴信を御輿にした傀儡政権にされただけ。
しかし晴信の統治能力が凄過ぎて、
絶大なカリスマ性もあり、
同格だった穴山や小山田すらも躑躅ケ館に出仕させることに成功し、
武田政権に参加させるに至るほど合議を主導するリーダーシップを発揮。
0065人間七七四年2014/02/21(金) 09:12:46.75ID:r5R2/Tqr
カリスマ性の優れた人間が
実の息子に謀叛されるんだなw
0066人間七七四年2014/02/21(金) 09:41:53.76ID:+g+ubgOj
誰も支持する者がいなくて、
チクられ未遂で露顕してんじゃん。
0067人間七七四年2014/02/21(金) 13:03:58.90ID:r5R2/Tqr
皆信玄が怖くてビビッてたんだろうな
人質の命はないぞって
事実それを示すかのように
義信廃嫡後には起請文を出させているし
カリスマ性どころか
故、金正日に匹敵する悪逆独裁者w
0068人間七七四年2014/02/21(金) 15:15:18.78ID:8XD4deum
>>44
じゃぁなぜその進んだ国が遅れた国に敗北したかというと、集権体制にも欠点があるからな訳で
当主が有能でバリバリこなしてる内はいいが、後継者の能力が不足してた時に一気に弱体化するリスクがそれかな
晴久死後の尼子や宗麟隠居後の大友の衰退はそれだろう
それを補うために家臣の内から奉行衆や加判衆を組織する訳だが、権力は基本的に当主に集中するから、
当主がアレでもどうにも止め難いみたいですね
しかしだからと言って主要な家臣や大名に権力を分け与えると、大内や織田や豊臣みたいなことにもなると
そう考えてくと、江戸幕府内の統治機構を作り上げた家康辺りはさすがだと思う
豊臣政権の大老・奉行制の崩壊を存分に堪能した経験も生きたのかね
0069人間七七四年2014/02/21(金) 22:02:47.42ID:pEsSeSn3
今川義元死んだ後の今川家はマジひどい。雪齋和尚が死んだ時に崩壊始まってたんかな
0070人間七七四年2014/02/22(土) 08:21:00.14ID:JHaY743p
合議制を無視して氏真が側近政治をやって、
遠江国人を政治参加させなかった為に、
遠江国人の大反乱である遠州争乱が起きて三河との連絡線が切断されから、
家康に三河を火事場泥棒されちまったからね。
遠江争乱が起きるまでの家康は、
一向一揆と自作自演のプロレスやってたけど、
速攻で自作自演プロレスを止めて三河を奪い取った。
0071人間七七四年2014/02/22(土) 12:01:23.50ID:el/xgKXv
数字じゃなくて、
一揆に参加した人名を根拠をつけて列挙しろと書いてるだけなのに、
必死に誤魔化して逃げようとするなよwww
なんら根拠が出せないで逃げようとしてるあたり、
やっぱり三河一向一揆との戦いなんて大したことは無かったってことで結論だな。

家康の三大危機のうち、
三河一向一揆と伊賀越えの二つは捏造歪曲だからな。

で、具体的に徳川家臣を二分したという顔ぶれは誰なの?

本多隆成氏
「三河一向一揆が起こったのは永禄6年の秋からで、
翌年のはじめまでのほぼ半年間」
すぐ解決されてるwww
「本来ならば一家衆寺院として一揆を指導すべき本宗寺の住職が不在であり、
いわば統一的な司令部がなく、各人ばらばらの戦いになったことである。
さらに門徒武士達の多くが、家康が出てくれば逃げるというような有様では、
とうてい勝てようはずがなかった」
主君家康とは絶対に戦わない自作自演の戦いwwww


家康がガチでやばかったのは信玄との三方ヶ原の戦いと秀吉との天正12年戦役の二つの時だけだからね。
あとは常に棚ぼたの超イージーモード。

遠江国人の大反乱で駿河から孤立した三河を棚ぼた。
武田の駿河攻めで、遠江が棚ぼた。
織田の武田征伐で、家康は大苦戦。北条が順調に侵攻したのに、
信長から駿河をもらい棚ぼた。
上杉軍の川中島南下と武田旧臣の依田が信濃佐久郡〜上野沼田エリアを支配していた
真田を北条から離反させた為に、
北条氏直が挟撃され上野国へも帰れなくなり孤立し和議になり信濃と甲斐が棚ぼた。
婚姻先の北条が滅亡し関東移封で国人家臣団の官僚化が進み棚ぼた。
秀長が死去し、秀次が自滅し、利家が死去して、いつのまにか大老筆頭で棚ぼた。
会津征伐をする家康を無視放置して、
三成を討ちに西上した武断派が三成を大垣に包囲して追い詰め、
関ヶ原でも秀忠が来援しないうちに、主力の武断派が勝利し、天下様の棚ぼた。
清正や浅野長政親子などが相次いで死去して勝手に豊臣側の戦力が大幅弱体化で棚ぼた。
0072人間七七四年2014/02/22(土) 12:04:25.20ID:el/xgKXv
家康ほどの棚ぼた大名はいないね。
棚ぼただから、とにかく武功なんてものがロクにない。
だから家臣団も全く加増されるような感状がほとんど無い無い無い。
勝って切り取った領地が無い無い無い。
とにかく極限まで棚ぼた領地拡大大名が家康。
それを証明するように、関東移封になった時の3万を超えた家臣なんてほとんどいない。
12万石の井伊直政
10万石の結城秀康、榊原康政、本多忠勝
4万石の鳥居元忠、大久保忠世
3万3000石の平岩親吉
3万石の松平康貞、奥平信昌、酒井家次、大須賀忠政

たったこれっぽっち。
あとは戦力にすらないザコ。
当時、10万石を超えていない大名の意見は聞かれない、発言権が無いとされて無力扱いされていた時代だからね。
棚ぼた領地だから、家臣の武功によって領地加増する必要性が無かった。
だから家康は100万石の蔵入地を持ってた。
しかも井伊直政なんて戦経験もロクにない新参のガキ扱いされてたくせに、
家康の尻を突いてブッチュウってディープキスしただけで、
意味不明な加増してもらった挙句に最大領地だよw
結城秀康は秀吉の養子だからだしよ。
松平シリーズなんて武功ではなく、親族だから加増になってるだけ。
もうね、家臣団は誰も家康との石高差が激し過ぎて奴隷だよ奴隷。
ほんとケチ家康の家臣団なんてやってた三河武士はバカだね。
徳川家臣団なんてぶっちゃけ清正だけで勝てるレベル。
当時、もっともハンパねぇ勇猛さで恐れられていたのは清正と忠興の二人だったからね。

確かに家康って感状をほとんど出してないんだよな。
3万石の松平康貞=依田信蕃の次男説が事実だとしたら、
武田旧臣で真田調略して北条氏直の背後を閉じた父の功績だけで、
速攻で徳川家臣8位だしね。
奥平信昌に至っては長篠の戦いの後に、
調略の条件になった家康の長女との婚姻関係だけが理由だからね。

むしろ榊原康政と本多忠勝って、
家康より5歳歳下の子飼いなだけで、
武功らしい武功がまるでないよね。
鳥居元忠は家康の4歳上、
平岩親吉は家康より1歳歳上で、
家康を弟として守り支えた側近中の側近小姓として苦労を共にしていたから完全に今までありがとう功労賞だろうし。
大須賀忠政の場合は実父が榊原康政だからだし。
大久保一族なんて三河物語で誇張されてるだけで実体はよくわからん典型。
ただ徳川家の場合、家康との関係が近くて、ほぼ三河以来の小姓側近からの子飼いじゃないと万石大名になれない。
ホモ関係だけで家中第一にのし上がった井伊直政は例外中の例外。
0073人間七七四年2014/02/26(水) 16:47:07.99ID:DwNl1TRI
タナボタで天下は盗れんだろ、常考。
0074人間七七四年2014/02/27(木) 19:14:40.00ID:0+db3k7N
>>73
タナボタとは言わないだろうが
まぐれ当たりには違いないだろ。
どこぞの流れ者が三河の豪族→支配者なんてルートを僅か三代(四代か?)で成し遂げるなんて有り得ないだろ
常識的にry
遡れば、足利が今川を目の敵にして衰退させてくれて
無能なシバが尾張三河を荒れさせてくれた奇跡のおかげだろ
0075人間七七四年2014/03/01(土) 22:51:13.76ID:JDOl8iQI
>>74
松平氏としてなら九代で安祥松平家六代だろ?
0076人間七七四年2014/03/07(金) 22:18:16.64ID:/a6dF02m
>>74
だからそういうのはタナボタとは言わんだろう、常考
0077人間七七四年2016/06/30(木) 01:51:07.50ID:AnyAV7iM
現当主が幼い場合もある
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