当主死去と政権弱体化
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0001人間七七四年
2010/12/05(日) 12:40:10ID:4unj3228カリスマ権威の消失による周囲の国々の離反。
継承タイミングが家の勃興期における伸びしろアリか財政難による衰退期への移行か。
先代の±の遺産
0002人間七七四年
2010/12/05(日) 12:46:49ID:iSQFyDkW君は偏見が激しいから君が自重しない限りスレは荒れる
0003人間七七四年
2010/12/05(日) 17:03:08ID:hDtCUOBa0004人間七七四年
2010/12/05(日) 17:32:56ID:EuanWUDo1織田信秀死後。 2武田信虎追放。 3長尾・上杉家の継承。
4豊臣家の跡継ぎ問題。
1,2,3は、結果的に政権強化に至った。4は×
0005人間七七四年
2010/12/05(日) 19:18:02ID:D6O11Vbh0006人間七七四年
2010/12/06(月) 02:44:19ID:HZyZHJuB担がれた晴信は重臣との合議で決定する方向になってしまい守護としては国人の発言力強化は権力後退じゃないかな?
衰退した上杉からすれば他姓への上杉譲渡の代償により強化かも知れないが
長尾からすれば上杉と共に引き継いだ関東管領職はのちの戦略の足枷になり重荷になったのでは無いかな。
長尾に関しては為景が越後守護上杉陣営の国人達に敗北し隠居。
おまけに府内長尾は財政崩壊していたし
晴景や謙信ら兄弟が対立していた中を越後守護上杉によって介入調停されていたくらいひどかったな。
織田はやはり熱田の経済力を元手にこれから拡大していくエリア濃尾平野&近江&京や堺の国力と
その地ですでに先進性ある改革的政策が施行されていた為にパクれた。
そういう意味で織田はのびしろがかなりデカいね。
0007人間七七四年
2010/12/06(月) 16:50:25ID:WQCh9VoI芦名はどうなんだろう
盛興が急逝して再度父親の盛氏が政務を執ったけど
0008人間七七四年
2010/12/07(火) 06:31:46ID:Pr0BqS6o白河からの手紙に喜び近頃は家臣らが挨拶にも来ないと愚痴り
その家臣らは輝宗の馬揃えに参加してる始末。
領内は荒れ果て徳政令を頻繁に出さないと一揆が起こりそうな統治力しか無く
最後は上杉に葦名を頼みますって頼んで亡くなったくらい衰退してる。
0009人間七七四年
2010/12/09(木) 16:46:23ID:dH21dwXm0010人間七七四年
2010/12/10(金) 07:38:10ID:QhbdL8yu信秀によって環境が整えられ織田弾正忠家にとってはいよいよ財政豊かになり勃興期に入っていたからね。
誰がやってもうまくいくのに信長は内乱を勃発させたりと割と無能
0011人間七七四年
2010/12/10(金) 08:33:24ID:kl6VPIlq跡継ぎの義興が死んで当主が鬱に
それを支えるべきの十河一存、三好義賢もすでに亡く
安宅信康は松永久秀の謀略で長慶自らが殺してしまった
長慶は重度の鬱になり、40代前半で病死
後を継いだ三好義継は久秀と三人衆に操られ
阿波担当の三好長治は篠原自遁の讒言に騙され、有能な忠臣である篠原長房を殺す
目に見えるような転落
0012人間七七四年
2010/12/13(月) 10:04:40ID:wa3wFaH9宣教師からは惰弱だと悪く書かれるわ
豊臣秀長にもこいつはダメだわって嫌われるし
キリシタン禁止してる秀吉に志賀がキリシタンだからとチクったら志賀の才覚を誉めている秀吉から逆に不快がられるし
豊後諸将には宗麟が当主に復帰してって言われるし
関ヶ原で家康もビックリの裏切りやるし
アホ過ぎてむしろ笑える。
間違った選択しかしない天才みたいだw
0013人間七七四年
2010/12/13(月) 12:44:43ID:ralMcaAwまあ、お家潰したけどね。
>>10
信秀が死んだ時はそうでもないんじゃね?
大敗したあとにあっけなく死んで後事の事は何もしてないに等しく、問題
山積みだし。
経済的には豊かだったろうけど、信秀は結局奉行から抜け出せなかった訳
だし、信長がいなかったら、織田家は戦国大名になれなかったのではいだ
ろうか。
でも、金があるだけましか。
0014人間七七四年
2010/12/14(火) 03:32:56ID:E/5ppm+pお家騒動ってのは蝶がサナギの中でドロドロになってる、みたいな状態。
組織の再構築に成功すれば羽化して飛躍できるが、失敗すると飛べずにいつか死んじゃう。
でも避けては通れない過程。必ずいつかは通る道。
つまり何が言いたいのかっつーと、
信長を始め、相続時にお家騒動のあった武将はむしろラッキー。
早い段階で旧体制を刷新するチャンスが巡ってきてるんだから。
抵抗勢力が大きければ大きいほど、ぶっ潰したあと思い切った新体制が築ける。
これがお家騒動自体が起きなかったり、比較的スムーズな解決をした場合、
旧体制はほぼそのまま維持され、戦国大名としての脱皮は先送りになる。
領国を拡大した後だとかなりキツイだろうな。
平和裏にクーデター成功して担がれた信玄はその点ちょっと不幸。
でも板垣と甘利が同時に死んだのはラッキーかも。
ひょっとして暗s(ry
0015人間七七四年
2010/12/14(火) 10:26:22ID:HVS9ZQrC守護権力の崩壊ってのは守護に直轄地が無く財政崩壊してたから。
だから公家領や寺社領を横領しなければやっていけなかった。
破綻財政を引き継いだ毛利輝元なんて加増約束すら守れず、欠地をお前らが捜してきて申告しろって話だから悲惨なもんだよ。
逆に破綻財政から見事なまでに超優良財政にした謙信は見事と言う他ない。
0016人間七七四年
2010/12/14(火) 11:25:30ID:HIWv9quC当時絶頂期の織田相手にどれくらい対抗できたものだろうか
0017人間七七四年
2010/12/14(火) 12:19:18ID:4Uqsny6Bどっちにしろ景虎に家督がわたるんじゃなかろうか
0018仙台藩百姓
2010/12/14(火) 12:22:39ID:qI4o4eeZ何どさくさに紛れて嘘言っているのだお( ^ω^)
3も×じゃんお┐ (´ω`) ┌
上杉の継承は完全に失敗だお( ^ω^)
0019人間七七四年
2010/12/14(火) 12:31:48ID:4LTca98n>>14
信玄もそうだけど、勝頼はそれ以上に可哀想な気がするね。
板、甘が死んでくれたのはラッキーだったろうね。
そいや、甘はともかく、板の方の後継はどうなったのだろう。
なんとなくぱっとしない様な。
0020人間七七四年
2010/12/14(火) 14:46:57ID:c8GLk6GV織田家としては×。
豊臣家が日本を統一した点から見ると○
0022人間七七四年
2010/12/15(水) 11:33:50ID:FtIbsd7Z死去じゃないが偉大だった宗麟が完全隠居して
義統政権になってから大友は一気に弱体化したな。
義統の補佐をしてた母の兄の田原親賢がバカ過ぎた。
まあ島津、龍造寺、毛利と信義の欠片もないキチガイ野獣大名達に囲まれてる中で才覚も度量もない義統じゃキツ過ぎるわな。
武田、北条、北陸一向宗に囲まれた輝虎並みにキツい。
0023人間七七四年
2010/12/15(水) 12:35:14ID:RNXrG/ZK個人的には、大友は宗麟の晩年から弱体化していった気がする。
いっそ、亡くなった方が良かったのかも。
まあ、義統に当主としての才能がなかったのが最大の要因だろうけど。
輝虎は、プラスで国人衆も一筋縄ではいかない連中ばかりだし、きつかった
だろうね。
0024仙台藩百姓
2010/12/15(水) 12:42:00ID:K50zDglt越後がまとまらなかったのは単に長尾の統治能力が低かっただけだお( ^ω^)
謙信は周りが雑魚大名ばかりで超絶ラッキーだったおね( ^ω^)
それでも全く勝てなかったけど( ^ω^)
0025人間七七四年
2010/12/15(水) 13:28:07ID:FtIbsd7Z宗麟が家督を義統に譲ったのは天正4年正月から2月18日以前と確定していて
天正6年11月の耳川の戦いは義統の失敗。
天正7年11月22日の書簡では
義統も重臣達も領国衰退挽回の為に宗麟の再統治を懇請し無理に承諾させてる。
その後、豊後の大反乱は沈静化していくと義統にまた任せて隠居してる。
宗麟は義統に最盛期の大友を譲っているだけだよ。
0026人間七七四年
2010/12/16(木) 12:31:21ID:jWYyFECOいや、耳川の戦いは本当に義統の判断によるものだったかもわからないよね。
家督を譲ったからどうのではなく、実際に全て任せて何もしなかったのなら
単純に義統だろうけど、本当にそうなのかが疑問。
家督を譲った以上、義統の責任であるのは当たり前。
ただ、個人的には、晩年の宗教への傾き加減や行動からすると、最盛期を過ぎ
た辺りで譲った気がする。
前述したが、別に義統をかばうわけではなく、必ずしも最盛期で譲ったのでは
ないと考えている。
0027人間七七四年
2010/12/16(木) 13:33:05ID:hymCl0X/日向北部の島津に寝返った土持氏征伐も義統命令だし
当時の宗麟は隠居し府内から出て行ってるから大友の合議による政策決定に意見できない。
そもそも隠居の目的自体が世俗を捨ててキリシタン修行するためだし。
0028人間七七四年
2010/12/18(土) 01:22:02ID:6lC0oF3W0029人間七七四年
2010/12/18(土) 02:08:27ID:yQDzX8T6義統が当主になり叔父の田原親賢の独裁がバランスを崩し
親賢が耳川で島津を討つことよりキリシタン撲滅の密謀に熱中して敗戦を呼びこんだ。
耳川の敗戦で討ち死にした加判衆の補充がなされずに義統の恣意的判断により機能不全になったのが大友瓦解の危機。
そこで宗麟の復帰が望まれたし、筑前方分の道雪の大友家中への鼓舞の激文。
0030人間七七四年
2010/12/18(土) 04:06:58ID:zQ6enkCD今川(混乱)・武田(不和)・織田(大乱崩壊)・大友(不和)・龍造寺鍋島(不和)
0031人間七七四年
2010/12/18(土) 06:26:21ID:kAcqvuCuやっぱ「隠居して二元政治」だろうか。
なるべく早い段階で後継者に家督を譲り、
自身の指導力で家臣をまとめつつ後継者を政権運営に慣らせ地位の安定化を図る。
まあ後継者ともども殺されたり(織田信長・信忠)、二元体制の期間が短すぎたり(今川義元・氏真)、
せっかくの後継者を殺したり(豊臣秀吉・秀次)したら無意味だが。
0032人間七七四年
2010/12/18(土) 10:44:01ID:yQDzX8T6頼りがいがある主家への忠誠心ある兄弟がそれを支えている体制であること。
兄弟間が仲が悪くても主家を裏切らないならまぁ問題なし。
0033人間七七四年
2010/12/18(土) 14:29:10ID:cJ4IRTZgうまくやりすぎたのが逆にうまくなかったな。
まあ継承失敗も次代当主の力量次第ってとこはあるな。
織田も長尾も家が潰れる可能性のがでかかったし
信玄もチャンスをうまくものにできなきゃ衰運だったろう。
しかしその位の立ち回りができなきゃ天下に名はのこせんだろうな。
0034人間七七四年
2010/12/18(土) 14:41:43ID:yQDzX8T6北条は強大過ぎる敵たる謙信の前に一致団結して防衛しなきゃならなかったゆえ兄弟が協力していた。
しかし謙信が死ぬや組織は弛緩し小田原征伐をもって国人一揆連合体質ゆえの利害対立が克服できなくなっており小田原評定で瓦解。
まあ伊達や龍造寺や長宗我部も子供を有力国人に与えて家臣化していって拡大してるから子供が多いのは強み。
ただ国人を肥大化するかたちで家臣化していっても支配力が緩くて
国人の独立性が維持されたまま官僚化できない封権的大名のままだと内乱や内紛を誘発したり離反して外部勢力を呼び込み、
改革失敗や危機に無策で結論出ずで結局破綻する。
まあ中央から離れた辺境は放置されるが。
0035人間七七四年
2010/12/18(土) 15:28:52ID:eKFDLJXW大友義統の場合ねキリシタンなのに宣教師にボロクソに言われるというのが
一線を画していると思うんだが。
宣教師は普通はキリスト教に理解ある人物をべたほめするからな。
0036人間七七四年
2010/12/19(日) 16:43:15ID:vTXG1r1b西の大友と呼ばれた立花氏には大友義鑑の治政で宗麟誕生年である亨禄3年12月6日の日付で「新大友義長条々」と言うのが保管してあって
そこには「隠居したら公務に関与してはならない」って言う条文が書かれている。
だからこそ宗麟は皆からの当主復帰要望にも抵抗したのだろう。
あくまで義統を当主として立てて
自分は補佐と言う条件を皆に呑ませて
やっと表に出てきてくれたほどだし。
北条氏康は悪政の責任を取らされて隠居に追い詰められたが
謙信の小田原侵攻のドサクサに国家の言を吐く名目で氏政を排除し当主に復帰した強引な手法とは実に対象的だ。
なにか氏政に落ち度があったのだろうか?
0037人間七七四年
2010/12/20(月) 11:23:21ID:724NQEvm0038人間七七四年
2010/12/20(月) 11:58:28ID:n2y5dJB0後継者を退位させるのは異常なことで組織分裂のリスクある行為。
氏政は廃嫡の危機にあったと言える。
0039人間七七四年
2010/12/21(火) 20:44:08ID:PEdhLYSD0040人間七七四年
2010/12/26(日) 15:16:53ID:NNnl+Koa他国の余所者当主なんて実権の無い単なるお飾り。
だから悪政で治安維持ができなくなったら
擁立していた当主の首をすげ替えて責任を取らさせてるだけだからね。
小田原陣後も傀儡を切腹させて終了させ、さっさと徳川に鞍替えしただけ。
北条氏にキッチリと実権があれば自己責任を問われ無いように動くわけで、
秀吉相手にダラダラ評定を続けてるなんて
あんなバカバカしい真似はしないよ。
0041人間七七四年
2010/12/27(月) 04:35:27ID:wbO8/joQ強引な手法で下克上した清貞が死去→幕府と国人の抵抗により経久追放
無理な拡大路線を取った経久が死去→内政ぼろぼろで晴久が家中統一に一苦労
内政と外交をほぼ一人で仕切ってた晴久が死去→義久の代で尼子崩壊
まあ、晴久はそういうことにならないように官僚システムに移行中だったのだが、
その過程は個人の才覚任せってのが経久と同じミスを犯してるな。
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