【武田】2万5千で上洛できっかよ【信玄】その57
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0001人間七七四年
2008/12/15(月) 18:03:25ID:pd70l85khttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1222518983/l50
ここでは「武田は上洛できたのか?」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。
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テンプレ
>>2-30ぐらい?
0045人間七七四年
2008/12/16(火) 23:39:03ID:Sa20pBhu放火ってのは確か虎御前山砦が建築されて間もない頃に虎御前山の柴田勝家陣地を放火したってやつ?
それなら、あの後に宮部山砦や八相山砦を増築補強してるんだが。
小競り合いやら放火程度では虎御前山を抜ける根拠にはなり得ないんだが…
0046人間七七四年
2008/12/16(火) 23:44:57ID:hofCJyb5少なくとも抜けない根拠はないよ。
二万数千の兵を擁する浅井朝倉が全力攻勢をかけなくても
織田勢相手に戦果をあげているんだから。
放火も結構な規模だし。
0047人間七七四年
2008/12/16(火) 23:50:46ID:3KCx3Ood2月10日の野田城落城くらいからこの仮想戦記考え始めるんじゃ無かったの?
いつの時点から考え始めるのかはっきりしてくれ
信玄の体調悪化で武田軍が進軍をやめたから
織田は近江に侵攻したり動き出してるし
信玄が健康なら野田城攻略後の武田の動きも違うし
織田の動きだって違ってくるだろ
0049人間七七四年
2008/12/16(火) 23:52:49ID:3Px1Z9ty秀吉隊を絶対抜けないって事はないだろう。
戦果もあがってるみたいだし、
虎御膳があるから大丈夫!ってどっかのCMじゃないんだし。
0051人間七七四年
2008/12/16(火) 23:56:42ID:3Px1Z9tyまず一人の見解だけじゃいつの時点から始めるか
決まるわけもない。ID:hofCJyb5の見解があっても
別のスタートを想定する奴もいるだろう。
信玄健康から織田武田の動きがまるで違くなるとなっては
それこそ予想がつきにくいのでは。
0052人間七七四年
2008/12/16(火) 23:58:23ID:FNBb+76x単に抜けない可能性が高いってだけで。
あと始末記や朝倉が出した書状を何処まで信用していいんだ?確実に誇張表現入っているだろ。
武田派の人間は包囲網有利側のそういった情報はすべて額面どおりに受け止めているみたいだが・・・
0053人間七七四年
2008/12/16(火) 23:58:27ID:3Px1Z9ty戦争は数だよ兄貴!ってやつだろ。
2万数千近くいる大軍に寡兵の秀吉隊がいつまでも
砦頼みでいられるわけないだろ。
0054人間七七四年
2008/12/17(水) 00:01:38ID:3Px1Z9ty誇張かどうかわかんないし、
そう言うならなんで織田のは誇張表現なくて
虎御膳が鉄壁の要塞みたいにいうのか。変だよそれ。
0055人間七七四年
2008/12/17(水) 00:02:48ID:t5pJ5BMc0057人間七七四年
2008/12/17(水) 00:06:39ID:vmK+s/2Fなるんでしょうかね?
あんまり引き抜きすぎると武田本隊の相手する兵力が減りそうですね。
0059人間七七四年
2008/12/17(水) 00:07:23ID:ZShOBLEK『福井県史』通史編から引用
「義景は三月十一日に敦賀まで出陣した(「越州軍記」)。しかし信長方の湖西の守りが固いため滋賀郡方面まで出兵することはできず
また小谷城に対しても普請などの支援を続ける必要もあったので敦賀にとどまらざるをえなかった。」
この記述の後半部は始末記や義景書状を基にしてるわけだからなあ。浅倉側の資料でもこんな状況ではねえ。
0060人間七七四年
2008/12/17(水) 00:08:56ID:vmK+s/2Fこの時まだ北伊勢に勢力をもってますし
信玄の書状でも一向宗の中で特に重要なポイントになってるみたいですから
織田が武田・朝倉の相手に兵を割き過ぎると危なそうです。
0061人間七七四年
2008/12/17(水) 00:13:53ID:5xEjLLJ1もちろん徳川滅亡で武田のその分の兵力と対上杉の兵力も加算されるし
武田4万と上杉の2万に一向宗で織田の後方を撹乱
0062人間七七四年
2008/12/17(水) 00:15:04ID:HwBFXs2k堅固な砦なら寡兵でもいつまでも大丈夫っていうのはどうか。
遺構や絵図って実際見たことあるの?
>>59
それ越州軍記しか資料書いてないだろ。
0063人間七七四年
2008/12/17(水) 00:16:54ID:wdX9GW11といってもここ数スレ見てる感じはそんな印象受けるが。
包囲網有利派はとにかく自己に有利なら何でも主張、相手の言い分認めず。
包囲網不利派にも自己に有利なら何でも主張、相手の言い分認めずって人間も多々いるけど、
自己に有利すぎる情報は誇張だろうと否定、上記の砦の件も
小競り合いで勝ったり負けたりはあっただろうとか全力で損害無視して攻めれば落とすことは可能だろうって感じで、
自己の主張に固執したりしない。
というか上のスタンス取っている人間は単に中立なだけかもしれないけど。
ついでにいうなら厨だの自演だのとの誰に言っているのか分からない単レスに反応して、
織田厨の仕業だって決め付けて騒ぐのも包囲網有利派の人間ばかり。
単レスで荒らすのは織田派っぽい人間が多いかなって印象も受けるが。
0064人間七七四年
2008/12/17(水) 00:19:14ID:fL9APkZo絵図はネットでググってしか見たこと無いけど虎御前山は行ったことあるよ。
昔、木之元のキャンプ場に行った帰りに立ち寄ったことがある。
0065人間七七四年
2008/12/17(水) 00:25:07ID:HwBFXs2k>>小競り合いで勝ったり負けたりはあっただろうとか
資料を見れば明らかに朝倉が戦果挙げてるんだから
それを全否定してたらおかしいと思うんだが。
>>全力で損害無視して攻めれば落とすことは可能だろうって
朝倉浅井のほうが圧倒的に大軍なんだからこれ否定するのもまず無理だろ。
実際織田派は反対派を罵倒した書き込み多いぞ。
ここ数スレ見た印象だけど。
>>64
いいねえ山歩き。
0066人間七七四年
2008/12/17(水) 00:25:58ID:vXsG4+Hw自分の考える仮想戦記を発表
それが実現可能かどうかの色んな意見を聞く場として考えればいい
織田厨は無理と言い
武田厨は可能と言って
ずっと続いてるスレなんだから
0067人間七七四年
2008/12/17(水) 00:28:38ID:wdX9GW11>実際織田派は反対派を罵倒した書き込み多いぞ。
細かくいうなら包囲網不利派は罵倒のみする人間と罵倒煽りせず普通に議論する人に別れている感じ。
包囲網有利派は、罵倒のみする人間と罵倒煽りを混ぜながら議論する人がいるって感じだな。
0068人間七七四年
2008/12/17(水) 00:31:27ID:HwBFXs2kそれ言い方が酷過ぎないか?
有利派にだって普通に議論してる人何人もいるだろ?
なんで一方をそんな酷く言うんだ?偏ってないか?
0069人間七七四年
2008/12/17(水) 00:34:01ID:ZShOBLEKだいたい専門家が何の根拠もなしに書くわけないだろうが。
0070人間七七四年
2008/12/17(水) 00:44:23ID:HwBFXs2k始末記は最終的に悲観的な口調になってるし、
多胡への書状は防備を固めるように言った書状は知ってるが。
4月7日のはどんな内容で?
3月には意気軒昂で武田との連携にノリノリな朝倉の書状があるぞ。
反撃が5月以降なら行けそうだが。
0071人間七七四年
2008/12/17(水) 00:59:34ID:ZShOBLEK西近江路の守りをおこなうように指示という内容。
0072人間七七四年
2008/12/17(水) 01:52:13ID:khH/TYvC>朝倉が戦果挙げてるんだからそれを全否定してたらおかしいと思うんだが
戦果は否定していませんよ。小競り合いで勝ったり負けたりレベルは。
問題は、その小競り合いが何か戦略レベルで戦果を得ているのか?ということ。
>朝倉浅井のほうが圧倒的に大軍なんだからこれ否定するのもまず無理だろ
元亀二年、浅井長政が横山城を攻撃、さらに浅井井規と一向一揆の五千が鎌刃城を
攻撃。秀吉は百騎を率いて出撃、箕浦に陣取っていた浅井・一向一揆軍を攻撃、撃破
浅井軍は八幡で体勢を立て直して秀吉を迎撃したが、ここでも敗れて小谷へ逃走。
一方横山城を攻撃した浅井長政も留守の竹中の奮戦により撃退される。
さらに前年といい、大軍だからって必ず城を落とせるという根拠にはならないね。
秀吉と横山から虎御前砦は、少数で浅井朝倉の攻撃を凌いできた実績があるので。
0073人間七七四年
2008/12/17(水) 08:22:30ID:Ei+IxGHL結局、撤退後に奥三河を維持できなかったあたり武田も侵攻する戦力はあっても占領続ける余裕はなかったみたいだし。
信玄が生きようが死のうが撤退は規定路線なんじゃないかねえ。
0074人間七七四年
2008/12/17(水) 08:26:04ID:Ei+IxGHLイラクとかそうだし。信長だって朝倉倒した後も越前平定するのに手こずってるし。
信玄存命でも獲得した城の地固めで精一杯なんじゃないかねえ。
0075人間七七四年
2008/12/17(水) 08:31:14ID:AT12px5H奥三河だろうが 侵攻してくる武田を相手に決戦挑めないヘタレはどんどん寝返られるだけ
つまり織田も打って出るしかない まあそんな余裕あればだが
0076人間七七四年
2008/12/17(水) 09:34:02ID:aO6gmbTO> 資料を見れば明らかに朝倉が戦果挙げてるんだから
だからその戦果が小谷城ほういにどう影響を与えたか?という話なんだが……
その結果によって織田方の小谷城包囲の一角を崩すなり後退させるなどしたのか?
0077人間七七四年
2008/12/17(水) 13:10:43ID:Vx2qADOkそれは桶狭間のときの織田や三方ヶ原の徳川だから通じる理屈。
国力で圧倒的に落ちる側だから打って出なけりゃジリ貧なわけ。
織田の国力は武田の倍なわけだからうってでなけりゃジリ貧になるのは武田の方。
北条の小田原攻めたときも落とせずに結局、有利な条件での講和で落着しただろ。
まして織田の国力は北条とは比べ物にならない。
0078人間七七四年
2008/12/17(水) 20:34:39ID:QXudKcZq前スレだか前前スレだかでいわれてたけど、
小谷から虎御前を抜いていく事が狙いなら
湖西にこだわる必要はないわけで。
多胡とかに守りを固めてもらえばいいわけで
その間に小谷の補強をおこなってたんでしょ。
>>72
朝倉が全力攻勢をかける前に撤退したんだから戦略レベルを論じても。
箕浦合戦を出してるけど、信長公記にしか記述ない合戦で
明らかに誇張が入ってると思うけど。
その信長公記には朝倉方が戦果をあげてる事は一切書いてないのも留意するとね。
信長公記は天下人になった秀吉が生きてる間に書かれたらしいから
かなり秀吉に留意されてる所あるよ。
朝倉が本格的には攻めてないけどね。
0079人間七七四年
2008/12/17(水) 20:39:27ID:QXudKcZq信玄が死んで急きょ撤退した武田軍の後で
徳川が乗り出したからね。
何度も言われてるけど五千も抑えを置けば
徳川の相手は十分。
>>74
さすがにイラクはたとえにならないと思う。
>>76
打撃を与えて戦力を削ったなら後の事を考えれば有益だと思うよ。
>>77
武田だけならね。
包囲網勢はしっかり生きてて信玄とともに動こうとしてるんだから
ジリ貧じゃないよ。
北条との戦いでの小田原ぜめは駿河が狙いだし。
0080人間七七四年
2008/12/17(水) 20:44:23ID:SO8e54YO0081人間七七四年
2008/12/17(水) 21:00:06ID:Qv5gENHM本願寺なんか何度か戦っては和睦してるし、松永もついたり離れたり。
0082人間七七四年
2008/12/17(水) 21:00:34ID:rrTNSm5/>箕浦合戦を出してるけど、信長公記にしか記述ない合戦
速水真願寺記・松下文書にも合戦があった記述がある。
0084人間七七四年
2008/12/17(水) 21:15:56ID:Qv5gENHM一万程度の兵に城に篭られればそれでストップしちゃう数だって。
0085人間七七四年
2008/12/17(水) 21:18:07ID:QXudKcZq心配ご無用。
美濃にいる秋山隊と合流すれば本隊は再び2万5千くらいになって
ノープロブレム。
決戦挑まなくても織田主力を足止めして包囲網勢に多方向から暴れさせればいい。
0086人間七七四年
2008/12/17(水) 21:19:55ID:Qv5gENHM0087人間七七四年
2008/12/17(水) 21:21:40ID:DH5qTwNC信長公記の記述に疑問をもつならこの数字もよく精査しなくちゃならんよな。
ちなみに谷口克弘氏は朝倉記の記述等を踏まえて5,6千ぐらいではないかとしているけど。
0088人間七七四年
2008/12/17(水) 21:23:17ID:Qv5gENHM農繁期がどうとかじゃなくて国人の意向的に。
いつまでも内政まかせきりにしとくわけにもいかんし。
0089人間七七四年
2008/12/17(水) 21:25:12ID:rrTNSm5/ああスマンが俺はそれらの史料を読んだ事が無いんだ。
ttp://www.biwa.ne.jp/~bravo/hideyosi/nenpyou.htm
↑のサイトに箕浦での合戦のソースとして信長公記以外にこれらの史料が挙げられている。
このサイトはかなり丁寧に作られているからこれらの史料がソースだというのは信じていいと思うよ。
当時の時系列が事細かに記されているから結構便利なサイト。
0090人間七七四年
2008/12/17(水) 21:27:21ID:QXudKcZqおいおい。義景は史実の戦果を見る限りなかなかのものだぞ。
内政任せることに特に問題あるとも思えんし。
0092人間七七四年
2008/12/17(水) 21:30:09ID:rrTNSm5/前スレからのコピペ↓。
暴れるなんて無理な気がするんだが…
688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/09(日) 20:59:25 ID:Se9BgSnD
五畿の状況をあらまし述べると
・山城
北山城の明智や細川は織田につく。ただし北山城から何人かの豪族は将軍へ。
南では真木島氏や石成が健在。
・大和
大部分を押さえる筒井氏と寺社勢力が織田方。将軍方の松永氏は逼塞状態。
・摂津
三守護のうち、池田氏は1570年に当主の勝正が出奔、弟の重成が建てられるが、
実権は荒木村重が握る。もう一つの和田氏は、当主惟長が高山重友によって
追放される(73年3月)。これは荒木の謀略だったらしい。そして4月には正式に
信長に臣従。
最後の伊丹氏は将軍方につくが、荒木らに攻められて篭城。74年11月までは伊丹
城で頑張る。
あと南に石山本願寺がある。
・河内
北河内半国守護三好義継が73年11月に死ぬまでは将軍方。
南半国守護畠山家では、永禄の頃から家中が纏まらず、当主高政は弟に家督を
譲って出奔。跡を継いだ昭高は将軍方につくが、家中の遊佐氏と対立。73年6月に
殺される。実権を握った遊佐信教は本願寺につくが、翌年信長の攻撃で戦死。
その後は高屋城に三好笑岩が入るが、75年4月に降伏。織田領へ。
・和泉
不明。73年4月には和泉の豪族達が織田に従っている様子が確認できるが具体的に
いつ頃から従ったのかは不明。逆に、将軍や本願寺に従って織田と敵対した
ような記録もない。
73年4月には織田についていたというのなら、信玄の西上や将軍の決起には応じな
かったとみるべきだろうが。
73年4月(信玄がまだ生きていて、武田軍も帰国をはじめていない)頃として
・山城 将軍方優勢だが攻勢に出られるほどか?ほとんどが篭城。
・大和 織田方圧倒的。一部で松永が篭城。
・摂津 織田方圧倒的。一部で伊丹が篭城。
・河内 南北ともに将軍方。ただし家中に問題が大。
・和泉 ほぼ織田方とみなしていいかな?
0093人間七七四年
2008/12/17(水) 21:36:46ID:Qv5gENHM信長が断固ぶっ潰すな構えでやってるから死力尽くして戦ってるところもあるから
条件折れてやれば懐柔とかもできそうだし。
0094人間七七四年
2008/12/17(水) 21:37:19ID:rrTNSm5/一応専門的に研究してる人を信長万歳だからといって切り捨てるのもいかがなものかと思うが…
俺はその論説を読んだ事が無いから何とも言えない。
出来れば>>87は谷口氏のその論説をもう少し詳しく記述してくれ。
0095人間七七四年
2008/12/17(水) 21:37:41ID:QXudKcZqいやね…そういう事じゃないんだよ。
箕浦合戦とやらのソースになると言ってるけどそれが
「織田勢と朝倉勢が箕浦で衝突し織田が勝ったそうだ。」とかいう記述なのか
公記にあるように「秀吉が数百の兵で五千の朝倉・浅井・一揆勢を蹂躙し撃破しました。」
という記述なのかでは全然違うよ。
>>92
あんまりコピペに頼らん方がいいよ…。
包囲網勢は5畿だけじゃないし。第一三好義継が死ぬ1573年11月まで
まだまだ時間あるよ。信玄死んだの4月だし。
それに朝倉浅井伊勢長島本願寺その他がいるし。暴れられないわけがない。
0097人間七七四年
2008/12/17(水) 21:43:31ID:Qv5gENHMリアルタイムで情報の入るわけじゃない戦国時代で戦況の変化に細やかに対応できるのか?
”五月から本気だす”ってそれまで本気出さずにいたわけでもないだろうに。
0098人間七七四年
2008/12/17(水) 21:46:42ID:QXudKcZq信玄の10月の書状や2月の書状や
浅井の2月末の書状や
本願寺の2月末の書状などで
歩調をそろえての反撃が計画されてるのは確か。
本格的な攻勢に備えて力を温存してた事は考慮できるが。
0099人間七七四年
2008/12/17(水) 21:49:29ID:Qv5gENHM家康は地侍の支持とか諸般の事情で出兵せざるをえんかっただろ。
各勢力が武田の都合のいいように動けるとは限らんよ。
所詮はその場限りの同盟にすぎないわけだから。
0100人間七七四年
2008/12/17(水) 21:52:58ID:rrTNSm5/さっきと言ってることが違うくないか?
>>78では>箕浦合戦を出してるけど、信長公記にしか記述ない合戦
とあたかも箕浦で戦がなかったような事を君が言うから、
俺は他にも合戦があったと分かるソースがあるらしいとレスしたんだが…
ちょいと調べてみたけど「丹波松下文書」
「某・徳山右衛門尉へ去る5月6日に鎌刃表に於いて浅井七郎(「浅井」)率いる
一向一揆軍と交戦し大勝した旨を報告。」と記述があるらしいし。
包囲網の面々がどれくらい動けるかについては前レスまでの間に散々
ループしてた話題でどうせまた堂々巡りになるだけだからもうパスしとく。
0101人間七七四年
2008/12/17(水) 21:54:59ID:QXudKcZq朝倉は越年は本国で行う傾向があって
それに従って冬に兵を本国に戻したしな。
これは武田も本願寺もびっくりして書状送ってる。
でも朝倉も両者の要請にこたえて2月末から動きだし
三月末には武田との連携にノリノリな所を見せている。
包囲網勢にしてみれば大敵織田を倒す為に力を合わせるのは
おかしくない。
0102人間七七四年
2008/12/17(水) 22:00:03ID:QXudKcZqいやいや悪かった。
俺も存在自体の否定というより
秀吉配慮の誇張があったのではと思ったわけで。
しかし君のあげた通りの記述だとすると
やはり兵力についての記載はなく、信長公記みたいに数百で五千を破ったりした
書いてないのか。参考になったありがとう。
0103人間七七四年
2008/12/17(水) 22:02:26ID:DH5qTwNC東京大の鴨川達夫助教授はこれを信玄が越中対策を名目とした撤兵を顕如に打診したことへの
慰留のために送った書状ではないかという解釈をしてるけどね。
この説を踏まえるなら信玄は一斉反攻なぞ考慮してないことになるな。
0104人間七七四年
2008/12/17(水) 22:04:33ID:QXudKcZqその信玄が朝倉に送った書状では
朝倉に対して5月に一緒に動こうと言っているし、
美濃の遠藤氏に対しても春から美濃に行くからその時に寝返ってくれと
言っている。本人の直接の書状からうかがえる事だけど。
0105人間七七四年
2008/12/17(水) 22:05:04ID:Qv5gENHM京都議定書を批准したロシアもノリノリである。
大敵地球温暖化を打破するのに協力するのはおかしくない。
で実際は?
国同士の約定なんてそんなレベルなんだけどなあ。
0106人間七七四年
2008/12/17(水) 22:10:25ID:QXudKcZq地球温暖化問題は人によって国によって解釈が違うからな。
日本が沈むと言ってる人もいればちょっと海面があがるだけという人もいる。
文字通り生死かかってるんだけど。織田との戦いは。
国同士の約定では利害が同じくした時兄弟以上の親密さでもって協力し合うとは
古代の中国の頃からいわれてたはず。
0108人間七七四年
2008/12/17(水) 22:13:04ID:Qv5gENHM戦国大名なんてどこも豪族連合体の盟主にすぎないんだから
盟主同士が合意しても各家足並み揃えてというわけにはいかんと思う。
0109人間七七四年
2008/12/17(水) 22:19:35ID:rrTNSm5/そりゃあ箕浦合戦に限らずどの戦いだって誇張はあるだろうね。
横山城を守る兵を残した上で樋口直房と一緒に出撃となると
実際は1000〜1500前後程度の兵だろうから
浅井勢が5000もいないとしても寡兵で多勢を破ったのは事実だと思うよ。
0110人間七七四年
2008/12/17(水) 22:20:35ID:QXudKcZq朝倉が縁戚である常陸江戸崎の土岐氏にあてた書状。
常陸江戸崎の土岐氏は1572年末に朝倉に対して書状を送り
朝倉が越前に引く前の織田勢との戦いで戦果をあげた事をお祝いしてる。
これへの返書として朝倉は、「自分が織田勢との戦いで大戦果をあげた事を
あながた知って喜んでいる事が書面からうかがいしれて満足している。
でもこれは武田家臣日向玄東の教えによるものだ。この恩は浅くなく、
これからも教えを請うていくつもりだ。」と書状の中で書いている。
日向玄東は1572年10月の信玄から朝倉への詳細な作戦を示した書状と条目を持参し
作戦細部の説明を口上で伝えた人物だよ。
0112人間七七四年
2008/12/17(水) 22:22:33ID:jMdf2WN+2万の大軍が追撃を受けて壊滅してそのまま越前まで攻め込まれたというよりは
説得力を感じる。
>>90
義景宛書状で、義景の留守中に寵臣が横領をするのをなんとかしてくれという書状がある、
内政任せていて問題が起きている。ちゃんと書状として残っている以上
内政を任しておいて大丈夫というのは難しいと思う。
>>98
謙信の書状だと、義景は春になったら動くといっているが敦賀に出るぐらいでそれ以上動くことは無いだろうと
家臣に宛てた書状があったような気がするが。
0113人間七七四年
2008/12/17(水) 22:23:48ID:Qv5gENHM攻め込んできた織田を一時的に撃退する程度じゃ話にならんぞ。
なんか近江の戦況に大きく関わるような戦果だったのか?
0114人間七七四年
2008/12/17(水) 22:25:39ID:rAvf/tZ/>朝倉に対して5月に一緒に動こうと言っているし
もしも実際に朝倉が五月に動けるならば、
そもそも信玄西上時に退却なんかしないのではないだろうか?
信玄も突然撤退した朝倉を信用するだろうか?
書状の中身は、両者とも関係悪化を避けるための方便に過ぎないのではないだろうか。
0115人間七七四年
2008/12/17(水) 22:27:47ID:QXudKcZq朝倉が春から動いてるとしてまだまだ時間的にも余力はあるが。
信長と組んでる時代の謙信の書状ではなあ。朝倉の内部を知ってるわけもなし。
>>113
本格的な反攻が5月かそれくらいからなら
戦力に努められた事は十分だったはずだが。
君の勝手な主観で話しにならんとかいわれても困るな。
0116人間七七四年
2008/12/17(水) 22:28:10ID:Qv5gENHM0117人間七七四年
2008/12/17(水) 22:30:05ID:Qv5gENHMつまりその程度の戦果だったわけね。アホらし。
城を奪い返したとか、名のある将を討ち取ったとかしたわけじゃないんだ。
単なる織田の攻撃失敗ってだけで。
0118人間七七四年
2008/12/17(水) 22:31:10ID:TAfpu9NR0119人間七七四年
2008/12/17(水) 22:31:18ID:jMdf2WN+朝倉にしてみれば、信玄が信長引き付けてくれれば楽できるんだから、書状では誇張でもハッタリでも何でもするだろ、
武田が、北陸や飛騨や美濃それぞれに対して来春兵を出すとか言ったり、
三河遠江の大半を制圧したと誇張したりしたように。
それをそのまま信じたのか2月なんかに挙兵してしまった義昭は可哀想だが。
>>113
1キロ圏内にあるような砦を落とせていないのだから、大きな目で見ればほとんど影響なしってレベルではないかと思う。
0120人間七七四年
2008/12/17(水) 22:32:18ID:QXudKcZq信玄が書状出した時点で10月だから。5月を期すなら一回帰る事を朝倉が
考慮してもおかしくない。たいてい越年を本国でやるんだよね。朝倉って。
まあ信玄も本願寺もびっくりしただろうが。
でも信玄も本願寺も浅井も2月から朝倉の出兵する事を知って計画を進めるために
動こうとしてる。
>>116
その理屈は信長にも通用する事をry
第一生き死にかかってるんだからやらない理由ないし。
0121人間七七四年
2008/12/17(水) 22:34:23ID:Qv5gENHM実際、後の武田がまさにその通りだったし。
0122人間七七四年
2008/12/17(水) 22:36:50ID:QXudKcZq君らの大好きな箕浦合戦も大した戦果でもないんだけど。
本格的な反攻を後に帰すなら敵の戦力を削れた事は十分な戦果。
>>119
おあいにく様。
朝倉が3月に出した書状は常陸の遠戚あてのもの。
信玄に向けたものじゃない。
飛騨や美濃は十分織田と戦う上で接触する地域だと思うが。
まあ義昭は実際みこし以外の役割を期待されてないふしがあるからな。
落としても冬帰るんだったら意味ないわけで。
0124人間七七四年
2008/12/17(水) 22:38:59ID:Qv5gENHM近江の戦況をひっくり返すぐらいのことはできたのか?
既に大分織田方に寝返ったような気もするが。
0125人間七七四年
2008/12/17(水) 22:39:06ID:QXudKcZq0126人間七七四年
2008/12/17(水) 22:39:10ID:jMdf2WN+朝倉と上杉は敵対しているわけではないからそれなりに信用できるって点もあると思うが、
謙信のソースが織田からなのか、北陸関係の商人とか朝倉とか何からかは判らないけど、
信玄死亡を短期間で知るなどそれなりの情報能力はあったのでは。
>>117
織田は守っていた側じゃないか?
である程度の被害は受けたものの砦を守ることに成功と。
>>120
信長のほうは信長と家康、あと細かい勢力多数だから、
意思統一は中小勢力多数が並び立つ&名目上トップの軍事力が乏しい包囲網側よりはまだマシだと思う。
織田側はそれでも三方ヶ原があったけど。
0127人間七七四年
2008/12/17(水) 22:39:41ID:aO6gmbTO> 落としても冬帰るんだったら意味ないわけで。
朝倉が冬になったら帰ることがわかってるなら、信玄は年明けから出陣するべきだったね。
0128人間七七四年
2008/12/17(水) 22:40:46ID:Qv5gENHMそれに自分とこの損失が0なわけでもねえし。
0129人間七七四年
2008/12/17(水) 22:43:47ID:aO6gmbTO砦落としたら浅井と協力して兵を残しておけば翌春の攻勢の時かなり有利になると思うんだが?
生き死にがかかってる割にずいぶん余裕があるドリーマーだなあ。
0130人間七七四年
2008/12/17(水) 22:45:20ID:leTzpJ+7ID:Qv5gENHM
傍から見てて決め付けが多い割に根拠がろくに見られない。
他の人を見習ってもう少し意味あるレスを書き込んでくれ。
0131人間七七四年
2008/12/17(水) 22:48:22ID:Qv5gENHMなんか土地柄動かしにくい事情でもあるんでないか?
0132人間七七四年
2008/12/17(水) 22:49:00ID:jMdf2WN+土岐氏が単独でその情報を知ったとか、武田と繋がりが全くないというならその理屈も通るだろうとは思うけど。
でも実際はそんなことは無いだろうし。
>飛騨や美濃は十分織田と戦う上で接触する地域だと思うが。
北陸は?ついでに山村だかを通しての飛騨への書状は対謙信のためじゃ?
いずれ帰るんだから敢えて取り戻す必要が無いとか言うなら徳川だって武田に対して無理に出兵することも無かったような、
本拠地の目の前に砦作られた浅井と比べれば徳川なんてちょっと被害受けた程度で済みそう、
そりゃ織田もわざわざ援軍出す必要性感じないだろうな。
>>124
だいぶって程でもないと思う、重臣とはいえまだ数名ってレベルでは。
0133人間七七四年
2008/12/17(水) 22:52:23ID:jMdf2WN+朝倉が確実に動けない冬、それを分かっているであろう信長がその間に動かなかった時点で
織田側には結構余裕があるんじゃないかって気がする。
0134人間七七四年
2008/12/17(水) 22:54:46ID:EKWOlNDt越前が雪に閉ざされて主力撤退してるなら
残ってるやつらは冬のお間織田に攻められたら終わりじゃね?
戦力捨てる意味ねえだろ。
>>132
>>土岐氏が単独でその情報を知ったとか、武田と繋がりが全くないというならその理屈も通るだろうとは思うけど。
>>でも実際はそんなことは無いだろうし。
これの根拠示したほうがいいんじゃね?無いだろうし、だけじゃいくらでも言えちゃうぜ。
後に反撃の目算があるかどうかの差じゃね?
後で大きく攻めるつもりならその時に備えて力残した方がいいぜ。
0135人間七七四年
2008/12/17(水) 23:02:02ID:rrTNSm5/もしも虎御前山を落としたのなら大至急補強すれば冬の間くらい持ちこたえられると思う。
史実では織田軍は小谷城と山本山城の連携に手を焼いていたんだから、
小谷、山本山、虎御前、大嶽で連携すれば短期間で織田が攻め落とすのは不可能に近いと思う。
0136人間七七四年
2008/12/17(水) 23:05:00ID:35M2xu+dでもその間って美濃岩村にも東海道にも武田がいるわけですし。
一回朝倉戦線から引いたばかりですし、武田の動きを見定める為にも
美濃にとどまっていたのでは。
0137人間七七四年
2008/12/17(水) 23:10:11ID:Qv5gENHMスズメの涙ほどの援軍送ったぐらしか記憶にないんだが。
0138人間七七四年
2008/12/17(水) 23:10:43ID:aO6gmbTO> 越前が雪に閉ざされて主力撤退してるなら
> 残ってるやつらは冬のお間織田に攻められたら終わりじゃね?
「信長公記」によると横山方面から虎御前山の砦に至る道は悪路だったらしく併せて道の整備もしたらしい。
砦を落とし、浅井・朝倉の兵を入れ、道を壊せば春先くらいまで保たせられるんじゃね?
0139人間七七四年
2008/12/17(水) 23:18:55ID:jMdf2WN+虎御前山に関しては守るでもいいし、織田が攻めてきたら堤防切って時間稼ぎ、
破却するでもいいし、どっちにしても織田側は横山とまではいかないにしても、
宮部までかある程度前線下がることになる。
>>136
岩村は美濃と言ってもかなり遠いし、取られた地域も極わずかだから無視してもいいレベルなんじゃ。
あと織田主力が岐阜に帰ったのはよくわからないが虎御前山から引いたのは9月であって引いたばかりというのは無理があるかと、
武田が東海道にいるなら武田を討ちにいってもいいわけだし。
0140人間七七四年
2008/12/17(水) 23:20:01ID:rrTNSm5/徳川に対して三方ヶ原後はとにかく防備を固めろという指示と近江への援軍はしなくてもいいと指示してるくらいかな。
0141人間七七四年
2008/12/17(水) 23:21:43ID:RkBaT+1+無理攻めをして戦力を使い、攻撃で壊れた砦を大急ぎで補強して
戦い疲れた兵の一部を残して主力は越前に帰り春まで来れない、
では完全に捨石にしかならんと思うのじゃが。
そんな事をするくらいなら退いて体勢を整えて春にまた出て攻略し
そのまま押していった方がいいと思うのじゃが。
>>137
ほとんどの期間を美濃で停滞しておるのう。
0142人間七七四年
2008/12/17(水) 23:26:02ID:RkBaT+1+>>土岐氏が単独でその情報を知ったとか、武田と繋がりが全くないというならその理屈も通るだろうとは思うけど。
>>でも実際はそんなことは無いだろうし。
これに関しての根拠をわしも待っておるのじゃが…。
攻撃して壊れた砦を大急ぎで補強して
孤立無援のまま耐えろというのは酷じゃと思うんじゃが。
そんな簡単に武田を討てるほど余裕があるなら討ちにいくべきだったはずじゃが。
それが一番手っ取り早かったはずじゃ。
0143人間七七四年
2008/12/17(水) 23:27:11ID:rAvf/tZ/>たいてい越年を本国でやるんだよね。朝倉って。
この事を武田にたいして事前に通告しなかった朝倉の責任だろうか?
>越前が雪に閉ざされて
この事情を配慮できなかった武田の責任だろうか?
0144人間七七四年
2008/12/17(水) 23:37:54ID:jMdf2WN+退いて体勢を整えるには小谷城に近すぎると思う。
朝倉は体勢整えられるかもしれないけど、浅井はますます疲弊してしまうのでは、
ついでに春に攻めたとこで攻略出来るとも押していけるとも限らない、
更に言うなら秀吉側も春になったらますます体勢整えているだろうし、
浅井の威信、小谷周辺の諸勢力への影響を考えたらデメリットの方が大きくないか。
>>142
だったら破却でもいいんじゃ?
織田が主力で持って、ついでにどれだけお金かけたか分からないけど、
それを破壊すればかなりの損失を与えることになるし、いい宣伝材料にもなる、
浅井の威信も少しは回復するだろう。
武田に関してはそこまで切羽詰っていなかったってことだと思うが。
本当に危機的状況であったなら朝倉が動けない隙に、武田を討つかあるいは浅井か長島か畿内かって
討ちにいくべきだったはず、でも動いていないのだから、まだ余裕があるってことじゃ。
>>143
武田が信玄の病気?のせいでか、出兵が少し遅れていなければ朝倉が帰国する前にそれなりの状況に持っていけるはずだったのでは。
包囲網側はお互い実情よりも過大宣伝しているから、彼我の戦力の差を見誤っていた可能性もあるのでは?
0145人間七七四年
2008/12/17(水) 23:40:02ID:aO6gmbTO> そんな事をするくらいなら退いて体勢を整えて春にまた出て攻略し
> そのまま押していった方がいいと思うのじゃが。
それが出来る保証は無いのにな……
浅井の口車に乗って意気揚々と大軍を率いてきたものの織田の小谷城包囲の様子を見て大獄山に滞陣しお茶を濁す。
信長が帰濃後に虎御前の砦を孤立させようとと退路を断ち切らんとするも失敗。
翌年八月、阿閉が信長に通じたことにより小谷城と越前の連絡が遮断され、江北へ進めず。
信玄の死によって情勢が変わったとはいえ、「翌春に本気出すので今は温存しとく」なんてのはあまりにも希望的観測に過ぎるだろ。
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