毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その5
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0001人間七七四年
2007/06/30(土) 20:18:43ID:q1CeW9qR毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その3
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1179091146/
毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その4
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180706357/l50
0557人間七七四年
2007/09/20(木) 03:41:45ID:kVF7ChkL0558人間七七四年
2007/09/20(木) 05:23:51ID:A9u31bCiそだね
比較的まともな話してても、両派の底辺が噛み合わない持論引っ提げ乱入 挙げ句捨て台詞吐いて豚ズラするスレです
ノブヤボでコム観戦にしたらどっちが先に死んだぜ!! なんて宣う猛者が降臨するのでは、と期待しております
0559仙台藩百姓
2007/09/20(木) 11:50:43ID:YU0woI+2総大将に祭り上げられて本戦では終始弁当食ってるふり
家康にまんまと騙されて大減封
超絶下策の毛利君のどこが上杉より凄いのか分からんお
輝元のアホさ加減かお?(^ ω^)
0560人間七七四年
2007/09/20(木) 12:04:24ID:+fX6OAxR馬鹿か?w
お前のような揚げ足取るしか脳のない
まともな会話もできんチンカスゴミヲタ野郎はROMってろカスがwww
0561人間七七四年
2007/09/20(木) 12:06:50ID:+fX6OAxR0562人間七七四年
2007/09/20(木) 12:08:52ID:+fX6OAxR0563人間七七四年
2007/09/20(木) 12:10:40ID:+fX6OAxRどんな馬鹿だwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0564人間七七四年
2007/09/20(木) 12:12:55ID:+fX6OAxR精強喪最上を短期間で滅亡寸前まで追い込んだ上杉より上とか
どんな馬鹿だwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0565人間七七四年
2007/09/20(木) 12:14:04ID:+fX6OAxR馬鹿は発言を控える事をお勧めします
0566人間七七四年
2007/09/20(木) 12:50:09ID:QNm/iQhy0567人間七七四年
2007/09/20(木) 16:11:39ID:+fX6OAxR商業圏ならではの、物事を損得勘定で測る思考のしみついた商人気質
脆弱武者の典型例 実際すぐ裏切る
西日本の武者が弱いなんて常識 弱兵の上に戦術ウンコ
こんな事もわかんない真性知障がいて困る
05681111111111
2007/09/20(木) 19:37:35ID:Sl6wU9p0結局武将の強さとは何たるかはその『お家』をいかに残したか
にかかっている
毛利なんかは明治後も公爵に列せられるくらいまでうまく生き延びた
(関ヶ原はやばかったようだが)
それに対して長男撲殺してそれほど有能でもない諏訪家の長男
に継がせて単なる国人連合軍にすぎなかった武田軍を信長という
天才によって滅亡させたのは他ならぬ珍玄じゃね?w
信長も結局は家は残せなかったがあいつだけは別格だしな 日本史上
珍玄は単なる地方大名のまあ強いくらいだろ
毛利は幕末までしっかり活躍してる
0569人間七七四年
2007/09/20(木) 20:08:00ID:dN6t8a2P謙信が死んだ後の上杉なんて
柴田や森に追い詰められて滅亡寸前だろ
新発田も自立したし
本能寺がなければ上杉も滅亡してたろ
0570人間七七四年
2007/09/20(木) 20:16:58ID:iZsQjFUp559と562は、元就の息子と孫を
引き合いにだすんだなw
0571人間七七四年
2007/09/20(木) 20:51:21ID:kVF7ChkL死ぬまで信長に敬意をはらった元就
信長は元就の葬式に使者を出している。
0572人間七七四年
2007/09/20(木) 20:57:20ID:FTfc6sZ+0573人間七七四年
2007/09/20(木) 23:07:00ID:YXGuX0w2信玄は明治になってから
0574人間七七四年
2007/09/20(木) 23:18:01ID:OdkQ5vc3あんたみたいな博識の方が上杉擁護に回るとは驚いた。
やはり地元贔屓が目を曇らせたか?(笑
先ず上杉と毛利比べて酷いと思った事の一つが直江兼続な訳だが、何が酷い
って@跡目争いで御家を潰しかけた事。A当主と同じような官位を求め御家
の実権を握り、忠臣を排して関が原で御家を潰しかけた事。B関が原後に当
主を家康の前に連れて行き土下座させた事。C国の財政破綻を尻目に自身の
派閥を拡大させた事。まあ、忠臣の皮を被りながら御家大事とはほんと無縁
だ。
隆景や広家の自己犠牲に比べたら取るに足らないわ。特に広家は無能者の烙
印に甘んじているが、手紙一本で御家を救った功績はそろそろ評価されても
良いんじゃないのか?関が原後の内政や跡目問題にしても兼続は言われてい
るような評価はとても出せない。それに比べて毛利一族の方は戦後の処置が
素晴らしい。一揆や粛清があった事で評価が低いが、それをあの時代に処理
しきった事の方が凄いわ。あの時代どれをとっても直ぐに御家断絶に繋がっ
た、上杉のように女達の枕営業で御家存続&結局問題は他人任せで処理は本
当に酷い。山内容堂が「大名で倒産した奴はいない」と後年豪語したが、上
杉は実質破産後に鷹山公(一応女系の血縁関係はあるが実際の所は怪しいも
のだ、鷹山公の当時は家系改ざんなど普通にあった)立て直してもう一度上
杉に返しただけだからな。
0575人間七七四年
2007/09/20(木) 23:19:28ID:OdkQ5vc30576人間七七四年
2007/09/20(木) 23:19:33ID:UmA3izpq0577人間七七四年
2007/09/21(金) 01:55:21ID:pxIJ0lTV海を握り運用することが出来ていたからこそ、
あんな無茶な出兵をしても何とかなった。
0578人間七七四年
2007/09/21(金) 08:46:32ID:pxSikWzFどっちも間違い。
謙信は従五位下弾正少弼・信玄は従四位下大膳大夫
明治期の戦国武将に対する追贈があった時に謙信は従二位を与えられ。信玄は従三位
0579人間七七四年
2007/09/21(金) 09:11:49ID:6Klx0CRj御館の乱に乗じて攻勢にでただけだろうがw
上野、信濃、越中三方面からの侵攻+国内の離反者
こんな絶望的状況で粘れていただけでも強い
本能寺後の信濃抗争にも介入してきたくらいだし
佐々成まさを越中から動けなくした
0580人間七七四年
2007/09/21(金) 09:24:43ID:pxSikWzF謙信だって勝頼の代になった武田を攻めようとしているし
(それでも単独で勝つ自信がないのか、信長に共同作戦を断わられると止めているが)
信玄にしろ元就にしろ、敵の弱り目に乗じているよ
スポーツやってるんじゃないから当たり前
0581人間七七四年
2007/09/21(金) 13:00:14ID:2JU3m0lH信玄=元就
でこのスレ終了おk?
0582人間七七四年
2007/09/21(金) 13:15:00ID:YudTPlPf0584人間七七四年
2007/09/21(金) 22:14:40ID:eBw3dXl5>>573から>>575の流れで、
最初から明治期の戦国武将に対する追贈の話をしていると思うんだが?
0585人間七七四年
2007/09/22(土) 10:00:18ID:jw+NHfL1粘れてるだろうがボケww
半年?毛利の国土に比べ三分の一程度なのに精強柴田軍、森軍、滝川
&国内柴田抱えて瞬殺されない時点で糞雑魚チンカス毛利とは格が違う
毛利程度なら瞬殺だろうな
>>580
毛利なんか弱み見せなくてもやられまくったがなw
>>568
勝手に幕末スレにでも行ってろハゲ
戦国時代でどれだけ武名を轟かせるのが重要なの
信長だけ特別とか都合いい解釈してんじゃねぇよボケがw
生き延びるかどうかは運の絡むし半端に強いと滅ぼされる事だってある
運も実力のうちだもんw
前田>>>>武田だもんw
ってか?馬鹿がwwwwww
0586人間七七四年
2007/09/22(土) 10:03:19ID:jw+NHfL1>にかかっている
勝手に毛利側に都合いい前提作ってんじゃねぇよカスがwww
一条兼定>>>>>>>>>>>>>>>>>>>お前
この幕末厨がwww
死ねwwww
はガチ
0587人間七七四年
2007/09/22(土) 10:07:06ID:jw+NHfL1どんな馬鹿だ
知脳障害はROM って壁とでも話しとけ
信長の野望でもやって毛利の評価低いww東国大名の評価たかいwww
って愚痴でもほざいとけ
0588人間七七四年
2007/09/22(土) 11:01:03ID:jw+NHfL1>やはり地元贔屓が目を曇らせたか?(笑
あたかも自分が正しいかのように語るチンカス毛利厨
客観的な第三者の立場である百姓からみても毛利は雑魚
こんな事も理解できない奴がいるなんてビックリだわ
0589人間七七四年
2007/09/22(土) 11:06:07ID:ZVCm+sJzどうやったらあんなにぼこられるの?wwwwwwwww
上杉なんて信長が車でもなく滅亡じゃん
本能寺に救われたな。
0590人間七七四年
2007/09/22(土) 13:29:58ID:7ULmdyGTが、どうも謙信玄厨は史実に疎いようで参るわ。
しかもファンタジーの間違った認識を正そうとするとファンタジーを上げ連ねて
反論してくるから手におえない(苦笑
0591仙台藩百姓
2007/09/22(土) 13:31:59ID:MWlBeHx60592人間七七四年
2007/09/22(土) 13:48:13ID:NGagyTXy0593人間七七四年
2007/09/22(土) 14:09:53ID:16tobTOj0594人間七七四年
2007/09/22(土) 18:08:29ID:GnVqbiMA0595仙台藩百姓
2007/09/22(土) 19:55:45ID:MWlBeHx60596人間七七四年
2007/09/22(土) 20:02:13ID:ZVCm+sJz毛利主力が出てくるとなきながらビビッて信長に援軍を求めた秀吉
信長出るまでもなく滅亡寸前の上杉
譜代にも裏切られて滅亡した武田w
戦うまえに土下座の政宗
0597人間七七四年
2007/09/22(土) 21:32:28ID:aml1JKov0598人間七七四年
2007/09/22(土) 21:33:51ID:aml1JKov0599奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/09/22(土) 21:37:13ID:OMH1kTDf0600人間七七四年
2007/09/22(土) 22:41:22ID:yYEOxqKF0601人間七七四年
2007/09/23(日) 03:06:16ID:ioXGlwE1http://video.google.com/videoplay?docid=3889996417451902162&hl=en
9.15 東京講演会 全編版
http://video.google.com/videoplay?docid=-3859363222910740882&hl=en
0602人間七七四年
2007/09/23(日) 04:19:37ID:6F4gWLfSいくら名将だの猛将だの言ってもこれが現実なんだから仕方が無い。
0603人間七七四年
2007/09/23(日) 17:10:48ID:fnrrS+l+個人なら義元かな
つか「苦戦させた」だけなら一杯いると思うぞ
最終的に勝ってるのが信長だし
0604人間七七四年
2007/09/23(日) 18:10:58ID:GRgOyiOK0605人間七七四年
2007/09/23(日) 20:59:11ID:fYgceQqQ0606人間七七四年
2007/09/24(月) 13:50:01ID:IYdCud6xこの二人で決定的に差がつくのは戦略面だな。
戦術的に対照しながらも大友に九州から追い出されるという前代未聞のへたれっぷりを発揮した元就
三国同盟などを構築したり戦術的には5分でも戦略で謙信を圧倒し信濃から追い出した信玄
明らかに信玄>>>>>>>>>>>>>>元就は言うまでも無い
0608人間七七四年
2007/09/24(月) 14:41:59ID:BMzyrv7q駄目だこの餌…腐ってやがる……速すぎたんだ
0610人間七七四年
2007/09/24(月) 15:42:36ID:IYdCud6x0612人間七七四年
2007/09/24(月) 15:51:39ID:yS4sZWRbという前代未聞のへたれっぷりを発揮した信玄とか
程度に間違いではないな
0613人間七七四年
2007/09/24(月) 16:57:54ID:XncoRbc8起爆剤にもなってねーぞ
0614人間七七四年
2007/09/24(月) 17:47:12ID:IYdCud6x大河ドラマでもなかったことにされてたしww
0615人間七七四年
2007/09/24(月) 18:14:36ID:Y7edfXnkその潔さにだけは感銘を受けた。
0616人間七七四年
2007/09/24(月) 18:24:03ID:XncoRbc8それをいったら武田だって上杉のことを持ち出すと目も当てられない
何が戦術では上杉が勝ったが戦略では武田が勝っただよww 北信濃防衛は武田にとっては最低ライン
武田の目的は越後奪取だろ 戦略では引き分け、戦術では戦国史に残る記録的大敗 これが正しい
0617人間七七四年
2007/09/24(月) 18:35:00ID:sOofZ1Ubだけどメガ豚ですらしなかった自演失敗なんて馬鹿な事やらかした ID:IYdCud6xに跡目相続は無理だ、廃嫡いたすwww
0618人間七七四年
2007/09/24(月) 19:52:11ID:hIS0id6g北九州攻防戦に関しては痛み分けでFAだが
勝ったと言えるのはどちらかと言えば毛利。
大友は連敗状態で盛大に領土を侵食されて、尼子残党内乱という好機を以ってしても門司は奪回出来なかった。
結果、秋月を代表とする自立勢力の台頭を許し北九州は混乱。大友の没落の兆しが見え始める。
一方、毛利は侵略戦争の収穫が少なかっただけなのだから、目立ったマイナスは無し。
0619人間七七四年
2007/09/24(月) 19:59:54ID:IYdCud6x家臣にどうやって恩賞を出すの?
そんなんだから秀吉が攻めてきたときに内部からどんどん切り崩されちゃうんだよww
0620人間七七四年
2007/09/24(月) 21:28:04ID:EjDt+igoそしたら一人でもっと盛り上がった挙げ句、一人三役とかしてくれ…なかったかな?
0621奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/09/24(月) 23:07:01ID:ramTMTAS0622人間七七四年
2007/09/24(月) 23:29:05ID:+EbK0RxL>侵略戦争で収穫が少ないというのは大きなマイナスだろww
>家臣にどうやって恩賞を出すの?
川中島のことか?
あ、川中島はその家臣が大量に死んじゃってるから
恩賞もそっちの家臣のをまわせばokかw さすが信玄。
0623人間七七四年
2007/09/25(火) 00:26:53ID:D40sv3Ak信玄=元就
「大 爆 笑」
は無知
0624人間七七四年
2007/09/25(火) 02:03:14ID:oVx4GoVj0625人間七七四年
2007/09/25(火) 18:12:27ID:YsbHH1P3戦争 毛利>>>>>>武田
知略 毛利>>>>武田
野望 武田>>>>>>>>>>毛利
男色 武田>越えられない壁>毛利
これでいいじゃん
0629人間七七四年
2007/09/26(水) 00:00:21ID:1f9Q7y6V信長みたく野望が大きかったから躍進できた男もいるし
元就みたく野望が控えめだったから生き残った男もいるし
信玄みたく野望が大きすぎたから家を滅ぼした男もいる
0630人間七七四年
2007/09/26(水) 18:49:44ID:CQRumAS6そして信玄が家を滅ぼしたのは能力が低かったからだろ、相対的に、奴の野望が
大きかろうが小さかろうが関係ない。
0631人間七七四年
2007/09/26(水) 20:03:53ID:k+NiK+W0川中島の戦いは領土は取れたわけだから、一応武田の勝ちで良いと思うが、
武田は越後にも手を伸ばして、こちらについては確実に撃退されている。
これについては失敗した侵攻作戦と言い切るしかないでしょう。
つまり、信玄も元就も成功して領土を拡大できた侵攻作戦もあれば、
領土拡大につながらず、失敗した侵攻もあったということ。まあ当たり前の話だけど。
であるならば、成功の度合い、つまりより領土を拡大した方が、
その方面についてはより優れていたと判断すべきでしょう。
つまり、結局は毛利元就の方が優れていたといえると思う。
0632人間七七四年
2007/09/26(水) 20:09:39ID:1f9Q7y6V川中島って、まず前提として武田側の方が人的被害が圧倒的に大きいというのがある
越後侵攻戦と考えれば問答無用で武田の負けだし
北信濃防衛戦と考えても、あれだけ被害を出しても領土さえ無事なら勝ちと言えるのか?
という疑問はある。犠牲の上での防衛戦勝利、か?
0633人間七七四年
2007/09/26(水) 20:20:50ID:Kfz8Yudg0634人間七七四年
2007/09/26(水) 20:32:58ID:k+NiK+W0いや、そもそも少なくとも四次川中島くらいまでは、
北信濃は武田の領土とはいえない状態だったのよ。
二次では武田家は川中島の北部に築いた城の破却に同意しなければならなかったし、
三次の時には北信濃どころか小県にまで攻め込まれている。
つまり、川中島の戦いとはそもそも北信濃の領有を賭けて、武田上杉が戦った戦であり、
最終的に北信濃は武田家の所有になったのだから、結論は武田家の勝利ということで良い。
ただしその過程で多大な犠牲と時間をかけたのも事実だから、
武田家の辛勝といったところが妥当でしょう。
>>633
一次の前なんてのは、ただ単に軍を進めたというだけで、到底領土としたとは言えない。
一次だけの結果を見れば村上の放逐には成功したが、領土化には失敗した作戦といって良い。
その後も北信濃を巡って何度も争っているわけだからね。
四次・五次まで経て初めて領土化に成功した。つまり、ついに勝利したと言うのが妥当かと。
0635人間七七四年
2007/09/26(水) 22:02:34ID:1f9Q7y6V「村上の所領である北信濃が武田に奪われたから奪還する」が上杉軍の名目であり
事実、武田は北信濃を武力占領していた
二次や三次で上杉に侵食された領土は武田が保持していた領土
「北信濃は武田の領土とはいえない状態」というのは詭弁
村上を追い出し、武田が新たな支配者となっていた
侵略戦争で手に入れた土地なんだから、恭順に時間が掛かるのは当たり前だし
贔屓目に言っても「まだ武田の領土になったばかりで地盤が磐石ではなかった」くらい
その地盤も、12年近くも消耗戦やってる内になんとか固まったという所だが
それをもって「武田は川中島合戦により北信濃を獲得した」とは言いがたい
北信濃は村上から奪った土地
0636人間七七四年
2007/09/26(水) 22:21:45ID:HNCRxaPk0637人間七七四年
2007/09/26(水) 22:42:48ID:87t/iDpd0639人間七七四年
2007/09/26(水) 23:16:34ID:k+NiK+W0確かに村上領の一部は占領したとしたとは言えるだろうが、
そもそも村上よりさらに北に高梨や島津といった国人領主がいたのだし、
現に二次・三次川中島発端となったのも武田軍が千見城・尼巌城といった、
川中島以南の城に攻勢をかけたり、川中島周辺の葛山城に調略を仕掛けたからな分けだが。
というか、逆に一次川中島の前に武田軍が北信濃を領有していたとするなら、
武田軍は瞬く間に瞬く間にそれを実現したということになり、その方が過大評価と言えると思う。
明らかに武田家に従わない国人領主が存在するのに、そこを領有していたことにするのは、
あまりにも無理があると思いますよ。
0640人間七七四年
2007/09/26(水) 23:28:38ID:k+NiK+W0村上義清は1553年4月に本拠地を捨てて越後に逃亡しているが、
長尾影虎の援護を受け、その同じ4月の内に間髪入れずに反撃し、
一度は小県まで取り戻している。
また、その後影虎自身も信濃に侵攻して、筑摩郡や小県郡に攻勢をかけている。
結局どうにか村上義清こそ再度追い払うことに成功したが、
その状況で、一時的にでも北信濃まで領有したというのは、
むしろ過剰な武田贔屓による偏った見方と言うべきだと思う。
0641人間七七四年
2007/09/26(水) 23:34:50ID:DcQmZIh1もう少し正確に言わないと話しがずれるだけだ
北信濃が主に水内高井をさすなら謙信と戦う前は信玄は支配していたとは言い難いし
水内高井北部も村上の支配範囲とは言えない
ただ北信濃でも更科埴科は謙信介入前には武田がほぼ支配していたと言って良いと思うが
あと川中島取ったと言っても、ぶっちゃけ謙信介入前から信玄死去までの間に
支配範囲が四キロほど北上したに過ぎないからなー(注 川中島方面限定)
0642人間七七四年
2007/09/26(水) 23:39:26ID:DcQmZIh1武田はその時点で更科埴科付近に領地安堵宛がいまでしてると思ったけど
また村上も1553年4月に一度城を取り返してまで追い出されて以降は
謙信がいる時に一時的に攻勢をかけるだけで土地は奪い返せていないと思うが
一時的に攻められてる状態を指して領有していないと言うことが出来るなら
例えば北条なんかは相模とかまで領有していないということになるんじゃ
0643人間七七四年
2007/09/27(木) 00:02:06ID:puHuVypP小県や筑摩については一時的に攻め込まれてはいても、武田の領土で良いと思いますよ。
しかしそこまで攻め込まれるような状況で、北信濃は武田の領土でしたと言うのは、
さすがにおかしいでしょうと。
確かに更科埴科位が限度で、それより北については長尾と抗争中ってところでしょう。
そして最終的には飯田等信越国境沿いの一部の城以外は武田の領有になったと。
あと、4kmしか北上していないというのはさすがにどうかと?
二次の時点での長尾側の城であった葛山城から、最終的に上杉側に残った飯田城まででも、
20km以上はあるし、一次以前で武田が占拠した村上の旧本拠地葛尾城からなら、
ざっと50kmくらいはあったと思うけど。
0644人間七七四年
2007/09/27(木) 00:07:34ID:1rfZ6I03犀川以北は微妙
確実に武田領と言えそうなのは犀川以南でしょ
1568年の飯山攻めでもいくつかの城を落としたものの取り返されるか放棄している
最も犀川以北が上杉領かと問われればこれもまた微妙だが
飯山以北は確実に上杉領としても
0645人間七七四年
2007/09/27(木) 00:11:31ID:+J7glJQ6伊達政宗がもうちょっと早く生まれて
上杉謙信がもうちょっと長生きして
足利義輝が三好衆に殺されなくて
斎藤道三が、息子と仲良くて
なんてのが史実だったら・・・
戦国時代に、信長とか家康っていなかっただろうな。
たぶん
0646人間七七四年
2007/09/27(木) 00:14:28ID:ODyRPSiG0647人間七七四年
2007/09/27(木) 00:53:19ID:djoTB1fD有田合戦に間に合わず、一国人で終了もしくは武田に滅ぼされる。
>>伊達政宗がもうちょっと早く生まれて
父親がしてくれた陸奥統一からやり直し
>>上杉謙信がもうちょっと長生きして
柴田にアッサリ滅ぼされて大恥
>>足利義輝が三好衆に殺されなくて
勢力均衡で京都の混乱はむしろ拡大
>>斎藤道三が、息子と仲良くて
名将義龍が急死したおかげで信長は美濃を攻略できた、微妙なところ
0648人間七七四年
2007/09/27(木) 01:12:12ID:XhJCbZho政宗は先代の功績のお陰で50万石相当から飛躍出来た訳だから苦労するだけ。
謙信長生きは微妙。織田ないしは豊臣勢力に負けて従属するだろうが、後継者問題に対応出来れば後の上杉家の権勢は強まるはず。
義輝生きてりゃどうなるかな。信長の畿内制圧までの手間暇が増える大筋は変わらんかと。
道三が息子と仲良し=親子共に信長と仲良しと仮定すりゃ信長の上洛は早まる。どうせ義龍が急死するんなら龍興の代に力は削がれるだろう。
こんな感じの予想。
0649人間七七四年
2007/09/27(木) 07:46:35ID:puHuVypP尼巌城とか、犀川以南でも第3次までは武田領ではなかった城も一部あるしね。
もちろん、川中島以北も確かに上杉領だったともいえないでしょう。
上杉に近いといっても独立した国人領主が存在していたわけだから。
それらの国人領主に侵略の手を伸ばす信玄、
その国人領主からの救援要請を受けて兵を出す謙信、という図式を取りながら、
実質的にその地域の支配権を賭けて両者が争ったのが川中島の戦いといってよいでしょう。
そして、最終的にはその地域の大部分は武田家の領土となったと。
ただし、膨大な時間をと人的犠牲を伴ったものであり、
元就のような劇的な領土拡大に比べると、いささか見劣りするのは否めないと。
0650人間七七四年
2007/09/27(木) 11:32:19ID:NdB4UPRJ距離にして4キロから5キロほど北上したということになるのか。
ただ善光寺は信玄が本尊を甲斐に強奪したことでその権益手に入れているけど。
0651人間七七四年
2007/09/27(木) 13:55:12ID:GWTkT5wL0652人間七七四年
2007/09/27(木) 14:14:52ID:/zcKgwrK織田氏本拠岐阜安土から
武田氏甲府へ、毛利氏安芸吉田への距離の違い
織田徳川と武田の衝突は勢力圏の境目で日常茶飯事
織田と毛利の衝突は本願寺がらみで一向宗を支援
しなければ毛利内部が持たないというやむなき事情から。
本願寺が対織田戦で撤退した後は毛利は自分たちを如何に
織田に高く売るかを考えて織田と戦い続ければいいだけ。
0653人間七七四年
2007/09/27(木) 19:36:21ID:puHuVypPいやさすがに、川中島の戦い終了後には武田の勢力圏は犀川以北どころか、
越後国境近くにまで及んでいるでしょう。
例えば、1568年の侵攻の際には、飯田城は落とせなかったが、
水内郡の豪族に対してすら所領安堵や替地宛行等を行っていることが、
島津文書等で確認できる。
つまり、村上を追った段階からすれば、
ざっと4・50qほど勢力圏を北上させたということになる。
まあ、足掛け15年からの時間を必要としたわけだが…。
0654人間七七四年
2007/09/27(木) 19:45:39ID:VkMH3bMi本当に3000も4000も死んでるなら戦略的にも大敗だ
重臣何人も死んでる時点で戦略的にもせいぜい引き分けが限度だが、国力が疲弊するほどの大敗を喫したのなら…
0655人間七七四年
2007/09/27(木) 20:27:40ID:puHuVypP最大の激戦といわれる第四次川中島の戦いのわずか2ヵ月後に、
信玄謙信ともに上野に兵を出し再び対峙し、武田は上野の豪族を降伏させたりしている。
つまり実際には、川中島の戦い直後ですら軍を動かせないほどの消耗はしていなかったということ。
それに熟練の重臣が死ぬのは確かに痛手だが、どこの家にも跡取りは通常いるのだから、
恒久的な国力低下には結びつかない。多少なりとも領土が増えて知行宛行が出来るなら、
それは国力増強になり、長期的には以前よりも勢力を増すことが出来る。
つまり、戦略的に勝ったといえる。
実際、武田が川中島や上野での多年に及ぶ戦の末得た土地は、
少なくとも20〜30万石くらいにはなるはず。
上杉との抗争以前の武田領が、せいぜい50万石くらいだったことを思えば、
武田家にとってはかなり意味があったといえるでしょう
まあ、毛利や織田のような拡大に比べると見劣りするのは致し方ないが。
0656人間七七四年
2007/09/27(木) 20:40:30ID:2LOSfZpC>水内郡の豪族に対してすら所領安堵や替地宛行等を行っていることが
それは支配範囲をはかるという点においてはあまりあてにならない、
敵地を恩賞として与える、支配していない者が後にその地を支配することを保証するなど
その時点では空手形と言えるものも多々含まれてる
で1568年の水内への所領安堵や宛行等は武田が兵を引くと似たようなことを謙信もやっているしね
更に言うならお互い飛騨や越中にも同様に
でもそれを持って支配しているとはやや言いがたいし
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