毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その5
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0001人間七七四年
2007/06/30(土) 20:18:43ID:q1CeW9qR毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その3
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1179091146/
毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その4
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180706357/l50
0657人間七七四年
2007/09/27(木) 20:46:34ID:puHuVypPしかし、実際その頃前後の武田郡の侵攻は、
飯田城や野尻城といった信濃最北端、国境付近の上杉方の城に対して行われていて、
それ以南で上杉方に属して武田と戦った城なんてなくなっているわけだし。
0658人間七七四年
2007/09/27(木) 21:24:58ID:puHuVypP飯田城ではなくて飯山城ですね。
飯田じゃあ南信になってしまう…。
失礼しました。
0659人間七七四年
2007/09/27(木) 22:50:24ID:G7I1TBgI戦国時代の領土ってば面より点と線だから、そういう意味では川中島や上野と
いう場所は単純に石高では出せない超重要地点だと思う。
ただ甲斐の武田が握るには荷が重過ぎるし、メリットも少ない。これが上杉や
北条なら物流の流れを支配できるから大きかったと思う。労を考えれば東海か
関東に出た方が良かったと思うね。結局甲斐と信濃がワンセット(血縁や先代
から受け継いだ領地、因縁等)だったのが信玄の不運だな。
0661人間七七四年
2007/09/28(金) 21:45:58ID:gdELkkU8大体そもそも義元の子分だからな信玄は…
0662人間七七四年
2007/09/28(金) 21:55:56ID:8pnxf4aHそれだけ信長が信玄を恐れ敬っていたのがわかる
どう考えても毛利より武田が格上
0663人間七七四年
2007/09/28(金) 22:11:07ID:WK/dEm2C0664人間七七四年
2007/09/28(金) 22:16:43ID:oX4pSCf3信秀は予知でもできたんですかね
0665人間七七四年
2007/09/29(土) 00:10:35ID:NsFhp5/a0666人間七七四年
2007/09/29(土) 00:38:28ID:16M5FImB0667人間七七四年
2007/09/29(土) 12:47:36ID:nUNbvY2f毛利は織田・秀吉方の武将を誰一人として討ち取れていない
どう考えても武田>>>>>毛利だろ
0668人間七七四年
2007/09/29(土) 13:40:38ID:8NQlR95I朝倉>>>>>>>>>>武田>>>>>毛利
になるな、その理屈だと
0669人間七七四年
2007/09/29(土) 20:36:57ID:nRCuf/He0670人間七七四年
2007/09/29(土) 20:37:32ID:NsFhp5/a朝倉は実際凄かった。
0671人間七七四年
2007/09/29(土) 21:13:09ID:16M5FImBなだけで、終生互いに警戒しあい敬意も表しあっていた毛利元就と織田信長の両雄を比べるのは不可能
0672人間七七四年
2007/09/29(土) 21:14:18ID:16M5FImB信玄なんかより下にしてごめんよ輝元。
0673人間七七四年
2007/09/30(日) 01:23:26ID:RC3SY4b30674人間七七四年
2007/09/30(日) 01:47:37ID:FP2r4aL+武田が大内で
義隆がボンクラだから乗っ取ることができなかっただけの差
0675人間七七四年
2007/09/30(日) 02:03:14ID:w1uGEeFg武田や輝元と比べるなんておこがましいよw
0676人間七七四年
2007/09/30(日) 02:30:26ID:AqIUZ5d1意味不明だから誰か解説頼む
>>675
おいおい武田の滅亡の仕方なんて朝倉と同じようなもんだろw
もしかして武田ってのは甲斐武田家じゃなくて安芸武田家の事か?
0677人間七七四年
2007/09/30(日) 07:14:26ID:Ywtz0i7+信玄は早死にしたし、息子も自殺してお家断絶
笠原新三郎清繁の祟りだなw
0678人間七七四年
2007/09/30(日) 07:40:47ID:ilbB004t0679人間七七四年
2007/09/30(日) 09:30:17ID:+6Qb7AMw0680人間七七四年
2007/09/30(日) 11:52:51ID:9nlzflM8東北と中国が本州最果てですからね^^
0681人間七七四年
2007/09/30(日) 12:13:00ID:zgVnU2LB中国地方は日本に古代政権が誕生した以前から活発な経済活動が行われていた地域
平家の勢力があった時代より大陸貿易の中心地
瀬戸内海の水運海運貿易も盛んで、文化度も高かった
現在でも日本有数の工業地帯の一つ・瀬戸内工業地帯を抱えている
0682人間七七四年
2007/09/30(日) 13:11:02ID:RC3SY4b3中国地方はは京都に近いからかなり発達している。
戦国時代の関東の城って瓦とか近代的な設備が全くでないんだろ?
それくらい遅れてる
0683人間七七四年
2007/09/30(日) 13:31:13ID:l1Z8Yrc8甲州武田は田舎
若狭武田は都心
0684人間七七四年
2007/09/30(日) 14:39:49ID:WgoKZPPZそりゃ甲斐や信濃は山岳部が多くて全国的に見れば圧倒的に田舎だが、信玄の
本拠地は甲府盆地の中で文化的にも経済的にも圧倒的に都会ですよ。
当時の中国地方であそこまでの文化都市は数都市有るか無いかだろ?
ましてや元就にとっては全く関係ない。
元就の時代一族で信玄並みの都会暮らししたのは隆元だけじゃん><
0685人間七七四年
2007/09/30(日) 19:17:16ID:mqMNGcaoまぁ要するにド田舎の中じゃ一番発展してる(半分以上金山のお陰)有利な本拠地から出発して
豪族が支配するド田舎の甲斐信濃をへいこら平定したのが武田
中国地方の中じゃ田舎の部類に入る安芸から出発して
大大名の支配する都会の中国地方をなんとか平定したのが毛利
海路を活かして交易が盛んだった中国地方と
移動が困難で行商すらロクに訪れない山の中の甲斐信濃じゃ文化レベルに差があるのは当たり前。
むしろ信玄は、その生涯の終盤において、ようやくまともに大名の今川氏真に勝って
駿河という海に面した都会を初めて手に入れられたんだから
もっとその事を誇るべき。これは上杉北条との十年以上もの消耗戦なんか目じゃないくらい凄い事。
0686人間七七四年
2007/10/02(火) 07:58:30ID:tCpT1lfbこんなもの捏造だ
0687人間七七四年
2007/10/02(火) 15:25:00ID:c/RXBfoq0688人間七七四年
2007/10/02(火) 16:37:07ID:f7982CjJ0689人間七七四年
2007/10/02(火) 22:54:53ID:AjzCLUERだと延喜式以来ということになります
0690人間七七四年
2007/10/03(水) 00:44:06ID:aFnRQf4O0691人間七七四年
2007/10/03(水) 01:37:37ID:cVoAdMGY0692人間七七四年
2007/10/03(水) 01:39:30ID:h1WJSOaiクウェンヤがEndor、シンダール語がEnnor、西方語の英訳がMiddle-earth、西方語の和訳が中つ国。
由来はミッドガルドらしい。
>>689
しかし延喜式だと山陰山陽のうち因幡・伯耆・出雲・備中・備後しか中国でないという不思議。
0693人間七七四年
2007/10/03(水) 01:40:28ID:aFnRQf4O0694人間七七四年
2007/10/03(水) 02:17:15ID:VDfvc0dJ彼らが織田に与えた損害のほうがはるかにでかいってのが情けないよね。
毛利も武田も。
0695人間七七四年
2007/10/03(水) 02:41:46ID:64JL4ZSq0696人間七七四年
2007/10/03(水) 04:48:22ID:QLfNLfcQさかのぼると、ほとんど地侍レベルの地頭に毛が生えた程度の家柄らしい。
武田は・・・比較にならんね。源氏の名家だ。
詳しい話は誰か任せたw
0697人間七七四年
2007/10/03(水) 18:52:14ID:1OlhVLVOttp://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/o-e_sugawara/oe-sugawara_4.html
毛利の場合大江広元になるかな源流をさらにさかのぼると菅原道真の菅家にまで行きつく
元就の嫁さんの実家吉川家をさかのぼると藤原道長・藤原不比等・藤原鎌足の
大化の改新までいけるね。
0698人間七七四年
2007/10/03(水) 20:10:32ID:4f0SPzwm日本書紀の野見宿禰という相撲の神様が始祖という話
そこから土師氏→大枝→大江となったらしい
一族の大江匡房は源義家に兵法を教えたとされるから源氏とのつながりはかなり古い
武田の方は言うまでもなく清和源氏。清和源氏ってのは初代の経基と
二代目の満仲の親子関係はかなりの眉唾物だったりする
0699人間七七四年
2007/10/03(水) 20:54:27ID:FOVGmwSFスレタイに武田って入ってるスレにしては珍しい
0700人間七七四年
2007/10/03(水) 22:33:22ID:zZ5Ps0Xz0701人間七七四年
2007/10/13(土) 12:29:42ID://51KH7Dどう考えても元就の方が上だろwwwwwwwwww
0702人間七七四年
2007/10/15(月) 01:57:52ID:80iERg2+0703人間七七四年
2007/10/15(月) 02:22:03ID:/vrugPDxちょっと待て。メガ豚君の貢献を忘れるな
0704人間七七四年
2007/10/15(月) 02:25:36ID:XqLKnPnw史実やら最近の研究やらと
0705人間七七四年
2007/10/15(月) 02:38:05ID:mIYVh0xb・陶や尼子程度に勝った程度デッテイウ
・所詮雑魚相手に領土を広げただけ
・中国は田舎
・大友程度に負けた
・上洛できないへたれ
・武将に華がない地味な奴等ばかり
関係ないのに出る話題・武田は信長相手に長篠以降も七年もったのに毛利は(笑)
毛利厨が武田を叩く口実
・三国同盟合ったのに拡大した領土は…?
・豪族連合にふるぼっこされてる
・結局滅ぼした大名は弱体化した今川くらいじゃないか
・手当たり次第に裏切り
・負の遺産を残しまくり
って感じかな
0707人間七七四年
2007/10/15(月) 18:00:32ID:Gz3ZSsim>毛利厨が武田を叩く口実
金山、棒道など実際はよくわからないものも信玄の功績にして全力でマンセーってのもあるね。
まあ一応武田厨の「陶や尼子程度に勝った程度デッテイウ」って話を弁護すると、
最近の研究の厳島合戦
・陶の厳島布陣は予定の行動。桂元澄の偽装の寝返り、江良粛清の話は根拠なし。
・小早川隆景は村上水軍を率いて陶の水軍を倒してない。ていうか毛利側に援軍で来たのは来島のみ。
能島は陶側に味方。
・陶軍が20000は多すぎ。実際は陶と大内、あと宗像とか九州の国人がちらほら。
毛利軍も3000は確実にいた。
最近の研究の尼子晴久
・吉田郡山合戦は晴久がごり押しで始めたものではなく、計画されたもの。
毛利は活躍したが、大内の後詰も果たした役割は大きい。
・新宮党粛清は元就の謀略ではなく国久、誠久の継承争いが絡んでいる。
あと和智郷合戦では経久軍を毛利を中心とした国人連合はフルボッコにしてたりもする.
0708人間七七四年
2007/10/15(月) 20:33:20ID:DlwrMKhd>・新宮党粛清は元就の謀略ではなく国久、誠久の継承争いが絡んでいる。
その内紛や私怨のフラグを利用するのが謀略や調略というじゃないのか・・・?
>最近の研究の尼子晴久
計画されたが、用間とかで筒抜けだったり石見路や備後路、宍戸氏への駆け引きが裏であったんだろ?
大内の後詰めを期待した上での少輔太郎を人質やら、陶氏との連絡もあったんだろ?
最近の研究も糞も最初からその説じゃねえか。
面白い新発見だな
0709人間七七四年
2007/10/15(月) 22:56:06ID:cdLxP0Hg>その内紛や私怨のフラグを利用するのが謀略や調略というじゃないのか・・・?
最近じゃ新宮党粛清に元就が関与した可能性には否定的。
元就の謀略って話も陰徳太平記の話だし。
>計画されたが、用間とかで筒抜けだったり石見路や備後路、宍戸氏への駆け引きが裏であったんだろ?
>大内の後詰めを期待した上での少輔太郎を人質やら、陶氏との連絡もあったんだろ?
あのさぁ・・・誰が以上の部分が覆ったとか書いたのよ。
自分が書いたのは今まで良く言われてきた晴久が経久の反対を押し切って初めたんではなく、毛利攻めは当初から
計画されていたこと、大内(陶)の話が過少だって書いてるんだけど?
0710人間七七四年
2007/10/16(火) 02:01:58ID:IQfcF0Ix浦上やらとやりあって上手くいってるし。
次代が駄目すぎたけど
0711人間七七四年
2007/10/16(火) 12:33:57ID:5+ae/c0D信玄と勝頼を見ても分かる通り、滅亡した勢力の先代は過剰評価されちゃうもんだ。
0712人間七七四年
2007/10/16(火) 12:41:32ID:5+ae/c0D正確には尼子滅びたの晴久の代じゃなく息子の義久の代なんだけど
どっちにしろ元就との対立以降の尼子は
良いとこは全部経久の手柄にして(実際に経久は英雄だったけどさー)
悪いとこは全部晴久の罪にしちゃう(義久は年齢的に冤罪は被らない)
って感じに思えるから。
なんか無視しちゃって御免よ義久。
山中の反乱時にも、でしゃばらずに毛利傘下で尼子の家名守ったのは
不義理と非難されようと立派な事だと思ってるよ、俺は。
0713人間七七四年
2007/10/16(火) 18:43:08ID:dgvHzpk4晴久の責任といえばいきなり死んじゃったことだ。そのせいで雲芸和議という大失策
やらかすはめになったんだし
0714人間七七四年
2007/10/17(水) 11:46:02ID:1zBRabu+から言えば、尼子は実質晴久(詮久)の代から戦国大名として有名に成った。
今川で言えば義元、武田なら信玄、上杉なら謙信、北条なら氏康、織田なら信長
と当たり前のように言われるのに、尼子は何故か経久。
晴久が受け継いだのは上記の武将陣とほぼ同じくらいの相続です。11国の太守と
後年経久が言われるのは、江戸時代になって元就の10国の太守に1つ足して11国
と経久の肖像に書き加えたのが始まり、実際は晴久の8ヶ国守護(経久は出雲守護
ですらない)が正式な役職。晴久は経久から受け継いだ領地を増やしはしたが減ら
しては居ない、対毛利に措いて決定的な一敗地を期したが後年はそれを十分挽回し
ている。
0715人間七七四年
2007/10/17(水) 12:14:29ID:NIhGr4sb>>晴久が受け継いだのは上記の武将陣とほぼ同じくらいの相続です
その武将陣に開きがありすぎてどれと同じくらいなのかわかりにくい。
氏康なんか伊豆・相模・武蔵(完全ではないけど)・駿河の一部で70万石くらいは
引き継いでいたはずでは。
0716人間七七四年
2007/10/17(水) 14:36:58ID:Vco0l566経久は晩年どの程度政権運営に携わっていたのか
0717人間七七四年
2007/10/17(水) 15:08:09ID:1zBRabu+だが戦国時代で重要なのは、面じゃなく点と線、そして権威や親族と言ったただ
石高だけでは計れないものの方が大きい。そう言った意味では氏康は上記の連中
と同じくらいのレベルだと思う。
晴久について言えば父親が死んだのは未だ4歳くらいの年だが、正式に家督を継い
で当主となった天文6年(1537年)で良いと思う。当時晴久は24歳、経久に至って
は80歳でその4年後には亡くなっている。元就(67歳)と輝元(11歳)の関係とは
少しニアンスが変ってくる。軍事権の移譲が家督相続の転機だと思うな。実際、晴
久は相続してから直ぐに自ら軍を動かし、経久が叔父と共に止めても独自に行動し
ている。
0718人間七七四年
2007/11/07(水) 20:18:19ID:gYcYUlrQ0719人間七七四年
2007/11/07(水) 21:12:40ID:SqvLUwHs0720人間七七四年
2007/11/17(土) 01:45:20ID:TTazeYcy0721人間七七四年
2007/11/17(土) 03:37:31ID:0Z1vQjib0722人間七七四年
2007/11/17(土) 10:10:36ID:kykwPoLD0723人間七七四年
2007/11/17(土) 18:32:45ID:hh2HBfpO試験じゃないんだからどっちが上っていうのは意味無いよ。
0725人間七七四年
2007/11/27(火) 22:42:14ID:2cPXTGkK信玄の人材登用は神レベルなんだろうな
武田に比べると毛利の家臣は無名でしょぼすぎる
0726人間七七四年
2007/11/27(火) 23:12:50ID:TPoKDwUb0727人間七七四年
2007/11/27(火) 23:33:13ID:c/CHUIHfボコられた上に自軍も武田風にしたから
0728人間七七四年
2007/12/04(火) 22:07:05ID:hSn5+Pgzhttp://news.ameba.jp/gooranking/2007/12/9106.html
0729人間七七四年
2007/12/17(月) 07:14:13ID:jHMfWRYv0730人間七七四年
2007/12/17(月) 08:15:05ID:O8QP9e4Tメガ豚君には遠く及ばないな
0732人間七七四年
2007/12/24(月) 19:39:01ID:f1dApGGU大名として成熟した時期の元就54歳(厳島)と、大名としてまだ未熟な時期の信玄28歳(上田原)
を比較して、元就>>>信玄と背伸びしたがる始末wwww
駿河攻略の途上で行われた信玄の小田原攻めを、「信玄は相模を取れなかった」
としか解釈できない始末www
背後を見せた信玄を討ち取れずに散々に敗北し、おまけに駿河を信玄に取られた
事実には目をそむける始末www
周囲の大勢力全てに打ち勝ってきた信玄が最強なのは歴史的事実であるが、ゆとり
世代からすれば、「大勢力を滅ぼせなかった」としか解釈できない始末ww
謙信も氏康も信長も、生涯信玄を恐れて生きていきました。
0733人間七七四年
2007/12/24(月) 19:59:34ID:vYM3Uw0p久しぶりにメガトン先生が降臨されたようです
0734人間七七四年
2007/12/24(月) 22:48:53ID:ARZ3M2wE( ;∀;)イイハナシダナー
0735人間七七四年
2007/12/26(水) 11:21:59ID:HJgHQHry0736人間七七四年
2007/12/26(水) 17:49:28ID:gKyqe9iS無駄なんだよな、結局。
知識が足りない毛利厨がなにをわめこうが。
おとなしくしてればいいのにさ。
つっこみどころ満載のレスしかしないんだもん、アホ丸出し
。
0737人間七七四年
2007/12/27(木) 23:26:00ID:MC4HA6ck有田中井手の戦い ○毛利軍1千5百 対 ●武田軍7千
元就の初陣。 当時の毛利家の領土は3000貫といわれ、15000石〜25000石ぐらいといわれているほど少ないものだった。
初陣、そして圧倒的劣勢にもかかわらず圧倒的な戦力差を華麗な戦術ではねのけ、総大将武田元繁を討ち取り軍団を総崩れにさせる。
元就の天才ぶりはこの時から発揮されていた。
後世西国の桶狭間と呼ばれる。(状況を考えれば桶狭間以上の大勝利)
佐東銀山城死守戦 ○毛利尼子連合軍 対 ●大内軍
有田中井出の戦いで敗れた武田氏が尼子の力を借りようとし、友田興藤は武田氏の援助を受けて、桜尾城を奪った。
一方の大内義興は自ら出陣し桜尾城を包囲した。そして息子の大内義隆と副将・陶興房に銀山城を攻撃させた。
元就はまだ尼子方の武将だったので、銀山城を死守するようにと尼子経久に言われていた。
劣勢に陥った尼子武将。
見かねた元就は軍義で夜襲を提案、意表をつかれた大内軍は大混乱に陥り城の包囲を解かざるをえなかった。
吉田郡山城の戦い ○毛利軍3千 対 ●尼子軍3万
圧倒的な数の軍勢を率いる尼子軍を巧みな篭城戦でこれを撃退する。
その後尼子は衰退する。
折敷畑の戦い ○毛利軍3千 対 ●陶軍7千
山に布陣した倍以上の敵軍を下から攻撃し、大将宮川長房を戦死させ完勝を収める。
地理的にそして兵数的にも不利な状況ながら、総大将を討ち取るという完勝っぷりは元就、そして息子達の戦上手ぶりが垣間見れる。
宮尾城攻防戦 ○毛利軍5百 対 ●陶軍1万6千
圧倒的な敵の大軍の大攻勢に耐え抜き、厳島合戦への足掛かりを作る。
厳島の戦い ○毛利軍5千 対 ●陶軍2万5千
自身の頭脳を駆使して厳島へ上陸した陶軍を壊滅させ、西国無双と呼ばれた陶晴賢を自刃へ追い込む。
運だけの桶狭間とは違い、自身の頭脳を駆使した完璧な戦だった。
この戦だけでも元就の凄さが分かると思う。 この合戦後、元就は戦国随一の勢力になる。
領地300石から家督を譲られ一代で中国200万石西国の覇者に、この毛利元就
を無能とは言い過ぎではないだろうか?
0738人間七七四年
2007/12/28(金) 01:53:56ID:dIiGOunp(´・ω・`)エッ!?
0739人間七七四年
2007/12/28(金) 02:27:21ID:DU24vBKU0740人間七七四年
2007/12/28(金) 08:17:28ID:PldGxLHE0741人間七七四年
2008/03/08(土) 12:52:37ID:5lswyGBV0742人間七七四年
2008/03/08(土) 18:20:31ID:vl7fQmNBすることによって、強引に評価をあげようとしている醜い姿がみえみえ。
あらゆる世間の評価では元就ごときが信玄より高評価になることはありえないから
安心して(笑
海で隔離されていた中国地方のおかげでお山の大将でいられたという評価が変わる
ことは永遠にないよ残念だけど、信玄 謙信 氏康 家康クラスの勢力を伸ばせる
大名が元就の世代の中国地方にはいないのが残念だったね。
0744人間七七四年
2008/03/09(日) 11:54:08ID:aEyGBdu7http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1177336438/705
705 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/03/08(土) 19:01:10 ID:vl7fQmNB
馬鹿な低脳ゆとり君はすぐに若年期の信玄の戦いを持ち出すから笑えるね。
川中島以降は無敵なのは歴史的事実です、おまけに村上勢が圧倒的少数とか
言ってるし(笑
結局最後は若年の信玄にフルボッコにされたベテラン義清www
釣じゃなくリアル信玄厨だろw
0745人間七七四年
2008/03/24(月) 01:29:43ID:Qsxr7i750746人間七七四年
2008/03/29(土) 12:57:34ID:SEgswXe60747人間七七四年
2008/03/29(土) 13:00:45ID:SEgswXe60748人間七七四年
2008/03/29(土) 14:02:25ID:F0moMCEn戦国三傑>三好長慶、大内義興、毛利元就>武田信玄とか上杉謙信とか
だと思うぞ
0749人間七七四年
2008/03/30(日) 21:16:20ID:dfjtK5R30750人間七七四年
2008/03/30(日) 23:14:34ID:Ten02jYu信長は言うまでもなく戦国で最も功績がある武将で実績から考えると
最も優れた武将だと思う
秀吉は初期が農民という時点で信長が死ななきゃ天下取りのチャンスすらなかった
わけだからチャンスを逃さずつかんだ優れた武将だと思う
家康はかなり優れた武将ではあるけど信長に勢力進行で
大きく遅れを取り(信長が異常)更に信長の死後も秀吉に天下を取られてしまったわけ
でありおまけに関白秀次を秀吉が殺したりしなければ天下を取れなかった
可能性が高いなどかなり運に左右された武将だと思う(運に左右なんてことはかなり
あるけど)なので三傑といっても家康は信長、秀吉と同格といえるような武将では
無いと思う
武田信玄についてまとめると
・信濃をほぼ完全に平定
・西上野、飛騨、駿河、遠江一部のを支配下において100万石〜120万石近い所領にした
・上杉謙信という宿敵がいたことにより所領拡大が遅れた(逆を言えば上杉謙信を滅ぼせなかった)
・徳川家康との盟約を破ったことにより武田包囲網に近い形になってしまった
毛利元就をまとめると
・国人から中国最大の大名まで押し上げた
・周防、長門、安芸、石見、出雲半国、備後、伯耆半国、備中、筑前の一部、豊前の一部
伊予の一部等だいたい180万石くらい?
・広大な領土にした反面尼子、大内の残党にあとあと苦しむことになってしまった
・厳島などでかなりの知力があることがわかる
・織田信長とは友好関係を保とうとしていた(中国だけで満足していて
お家安泰を第一に考えていたところが人によってはマイナスポイントかも)
まあスレ的に俺が結論を出すと
毛利元就≧徳川家康>武田信玄かな
毛利と武田だとまず初期の相手が違うんだよね
武田は三国同盟を結べるほどの国力はあり信濃に有力な大名がいなかったけど
毛利はもともとが国人でたいした国力も無かった上に尼子に大内という圧倒的な
大名がいたこの状況から勢力を伸ばした毛利元就はなんだかんだで凄いよ
さすがに信長や秀吉とは比べられないけど
0751人間七七四年
2008/03/31(月) 16:51:11ID:6ikZT5vG元就も厳島合戦前は実質大内の従属大名だったけれど、陶晴賢との国力差は関ヶ原の比じゃなかった
まぁ初陣の有田合戦での戦果だけ取り上げても戦術史に名を残す男だよね元就
信玄はぶっちゃけ親父の信虎のが凄い
0752人間七七四年
2008/04/01(火) 11:06:53ID:qjrd1wJCその年齢時は信長や信玄や謙信はみんな死ぬよ。
彼の強みは寿命だけ。
0753人間七七四年
2008/04/01(火) 12:28:26ID:RvKHhcGpよくもまあ1国人領主に過ぎなかった毛利は生き延びたものだと思う
大内は経久の勃興がなければ義興の代で北部九州〜石見備後までは確実に領国化
義隆の代で東を伯耆美作備前あたりまでは伸びる
尼子は西に大内がいなければ晴久の代で上洛を成し遂げていただろう
0754人間七七四年
2008/04/01(火) 12:40:13ID:GdmunYx3その文見飽きたよ
0755人間七七四年
2008/04/01(火) 13:37:26ID:iq7excej地上では毛4:6武
攻城では毛6:4武
水上では毛9:1武
くらいだと思う
国作りでは五分かな
0756人間七七四年
2008/04/01(火) 13:51:59ID:1PJaL78S数千の軍勢と数万の軍勢じゃ率いるのに必要なスキルがそもそも違うって意見もある。
それを考えると
武田2万vs毛利2万だと武田有利でも
武田2万vs毛利5千で毛利の勝ちになりそうな。
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